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電車化したことで生き残った出雲と瀬戸。数奇な運命。
最初に設定されていた時に併結されていたことも数奇な運命といえる根拠かもしれません。
先祖が島根県なので現在も帰省でサンライズ出雲を使ってます。ブルートレイン出雲のラストランも乗車しました。新幹線や飛行機がどれだけ進化を遂げても、夜行列車で味わう旅情は他では決して味わえない。「始発の羽田→米子間の飛行機よりもサンライズの方が、早く到着出来てのんびりとした朝を迎えられる。」
どうか黄金期の生き残りでもあり唯二の寝台特急であるサンライズは永久に走り続けてほしい。
永久はどう考えても無理だろ
そろそろ新造のニュースが欲しいですね。
@@tatsutakaraage 空気読めない?
直流区間のみで、交流機器の搭載不要だったことも出雲・瀬戸が電車化に都合が良かったそうです。
ゴールデンウィークに人生初のサンライズ兼寝台列車に乗って東京に行きます
「出雲」の愛称からしても日本人好みなんだろうなあと思います。
サンライズもいいけど、ブルートレインのあのゴトゴトと揺れる乗り心地は中々だった。
サンライズがデビューしたのは1998年の7月、つまり夏休みの前です。サンライズに代わって2ヶ月後に乗りましたが10時打ちで希望していたシングルの2階は取れず1階でした。それでも車内から朝の景色を見るのがすがすがしいものでした。この時にはまさか夜行列車がサンライズだけになるとは思いませんでした。車両の老朽化で今後が心配ですが、1日でも長く走りつづけて欲しいものです。
サンライズのデビューの時は、まだ多くのブルートレインが残っていたから懐かしい。寝台特急の最後の砦なので残り続けてほしい。
博多から東京出張が頻繁にあった頃、サンライズは重宝してました。仕事を終えてから新幹線で出発し岡山でサンライズに乗り継げば、羽田行最終便よりも遅く福岡市内を出て翌朝の始発便よりも早く東京着。帰りは新橋あたりで一杯飲んでもサンライズに間に合います。翌朝は岡山で新幹線に乗継ぎ博多着。そのまま出社。山陽新幹線が岡山までだった頃の新幹線+電車寝台とは逆のパターンですね。
元祖ブルートレイン寝台特急あさかぜ号を取り上げて下さいお願いします🙇。
客車から電車化去れたもののすでに25年残された⏰時間も車両の老朽化もあり残り少なく成って着ていますね😓
福知山駅は、高架化の時に「出雲」対応の長さのホームにしたのに、直ぐに廃止。
ブルトレ出雲…小さい頃からずっと憧れていたけど、廃止一か月前にやっと乗れて、元食堂車のサロンカーで駅弁食べて食堂車気分を味わっていろんな人と話をして。餘部鉄橋で強風のため1時間待たされたという乗り得までいただきました。
鳥取選出の某鉄ヲタ政治家が、客車「出雲」の廃止を嘆いていたな。個室寝台でゆうゆうお国入りできたからな。
ああ、顔がシトロエンの車っぽい人ね。実名は出さないけど。
親の代は兎も角本人の代なら御国入りは専ら飛行機だから一連の発言はリップサービス
その人が現在総理大臣になった。
山陰本線城崎→現城崎温泉駅🚉に2005年3月1日に駅名を改名しました。
寝台特急出雲3・2号+紀伊を牽引していた機関車が1980年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正前まで下りが浜松機関区、上りが宮原機関区所属のEF58形電気機関車が牽引していました、1980年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正から東京機関区のEF65形1000番台に置き換えられました。
母の実家が豊岡にあるので出雲は寝台列車で唯一乗ったことあります。サンライズの運行経路からは外れ、2006年に東京直通がなくなりました。
いくら乗車率が良くても寝台列車用の整備拠点を設けないといけないことや夜間早朝の乗務員駅員を手配しないといけないからサンライズが最後でしょうね。
初代いなばこそサンライズ出雲の前身ですね。285系の年数が25年を超え車両のリニューアルが待たれるところです。
JR西日本山陰本線京都ー出雲市・浜田間を牽引するDD51形ディーゼル機関車を鳥取県の米子運転所(現後藤総合車両所)から京都駅🚉まで回送して来なければならないため寝台特急出雲2往復のうち1往復がDD51形ディーゼル機関車の重連にする場合もありました。
分家であった「いなば」が名を変えて残り、急行時代から続いていた本家嫡流の「出雲」が途絶えた。出雲が廃止になり有効時間帯で使いやすかった兵庫県北部京都府北部にはダメージが大きかった。多大な費用を負担させて出雲対応の長大ホームで高架化させておきながら高架完成直後に列車は廃止という煮湯を飲まされた福知山市民はJRに対して怒っていい。
583系の悲劇はB寝台にも関わらず下段の幅が広すぎて二段式にしてしまうとA寝台になってしまう事。それが許される世界線ならやはり客車列車より583系が重用された筈。
581を設計開発していた頃、設計が楽になるのもあり丁度よい機会でもあるので国鉄は、新型寝台電車に限らず全国すべての寝台列車のモノクラス化、つまり客車を含め寝台全車両を開放ロネ的なアコモデーションにすることも検討していた当時はまだ乗客が沢山おり明らかに輸送力不足になるので、そのプランは結局立ち消えになったが581登場後6,7年経つと、とんでもないレベルで国鉄の運賃と料金が値上げされて、一気に国鉄離れが起こり繁忙期以外の寝台列車は閑古鳥が鳴くようになったので結果的には開放ロネとほぼ同じ設計にしておけば良かった気もする
JR東海とJR西日本の共同開発した車両で飛行機の最終便よりも遅く出て始発便より早く着く狙い通りの人気ですな。出雲じゃないですが、近いうちにサンライズ瀬戸に乗るつもりです。
その割に客車時代には停車していた名古屋は通過となったので在名政経界からは『第2の名古屋飛ばし』と忌み嫌われ者となった。それが今も続いている。
当初掲げたコンセプトは山陰でも四国でも崩壊して久しい。用務客はサンライズ出発時刻と大差ない時間に発つフライトで当日に帰京や翌朝御国入り出来る飛行機へ移った。現在サンライズを支えているのは乗車する事だけが目的の旅客。運休と遅延が目立つのも用務客に見捨てられた要因。
@@金澤華すっかり鉄ヲタとユーチューバーに占領されてしまったな😂
石破茂代議士の[出雲]初体験は急行で食堂車連結🍴だったらしい。私の山陰(松江)出張は[24系出雲],[🚅+急行だいせん],[🚅+キハ181系やくも]の組合わせ。(14系💺)で東京⇨松江に乗車した経験もある。
寝台特急出雲1・4号が京都ー福知山間を東海道本線ー福知山線を迂回運転した事がありました、京都ー福知山間迂回運転区間を無停車でした。大阪駅🚉は通過扱いにしていました❗
サンライズ瀬戸・出雲は、出雲の方がいつも混んでいますねぇ。何度も利用していますよ。寝台特急「出雲」は出雲市までの往復に乗りました。浜田まで行く方には乗らずじまいでした。上列車には割安な3段B寝台も1両、つながっていました。
一時は出雲2号と3号は紀伊と併結していた(出雲の前名称はいなば)現在は285系のサンライズ出雲瀬戸と併結されている
出雲の前身となった列車は1929年頃に大阪→石見益田・濱田→大阪で運行を開始しました。(当時はまだ快速列車でした。)その後しばらくは変化はありませんでしたが、1934年頃に運行区間が大阪~出雲今市に変更されました。さらに翌年の1935年には2等車・食堂車が新たに連結されるようになり、運行区間も大阪~大社に変更された上で急行列車に格上げされました。又2000年代初頭頃には福知山線経由で出雲号が運転されたこともありました。
山陰線の電化工事中も伯備線経由で運転してたけどね
5:28 この写真の機体って…「JA8119」じゃないですかね…?「出雲2・3号」も末期はA個室 シングルDXにB個室 シングル 更には割引切符対応の3段ハネと多彩な編成でしたね…
サンライズいいですよね~ソロの号車で深夜帯にトイレを利用するとモーターの轟音とかなりの揺れを体感できてサンライズの本気を味わう事ができました。
因みにサンライズ昇格した方の出雲(JR西持ち)には改造個室寝台車が2両(シングルツイン&ツイン、シングルDX)連結されていましたサンライズ一部個室の原型となったこの個室寝台車は京都~長崎を結ぶ「あかつき」に転用され2008年の列車廃止まで走り続けています
大阪発大社行きの急行大仙もあった
そういや京都~城崎温泉電化のために伯備線経由になった時期があったのに所要時間ほとんど変わらなかったのはすごい
浜田行きのサンライズ出雲できないかな?
西村京太郎では「夜行列車殺人事件」と「寝台特急八分停車」等、峰隆一郎「寝台特急「出雲」消された婚約者」、荻原秀夫「山陰路殺人特急」にも寝台特急「出雲」が登場している、宇津井健、三浦洋一、河合奈保子出演のさすらい刑事旅情編「走る密室、寝台特急「出雲」から消えた花嫁」で登場しました。
特急出雲は新幹線の通っていない山陰地方を東京から結んでいたので、当時から乗車率は結構高かった。サンライズになりルートも車両も変わったけど、何とか走り続けて欲しい。新幹線の山陰地方開業はまだまだ先の方だし。
出雲3・2号に使用されている14系14形寝台客車のB寝台車が1984年2月1日の国鉄全国ダイヤ改正から3段式から中段寝台を撤去して2段式に改造されました。出雲3・2号が1984年2月1日の国鉄全国ダイヤ改正で東京ー熊本・長崎間の寝台特急みずほおよび東京ー長崎・佐世保間の寝台特急さくら🌸と共通運用をしていたが出雲3・2号の編成を完全分離されて食堂車が廃止されました。
寝台料金が高すぎましたね。
去年乗ったがまた乗れるなら乗りたいものであります
松江生まれですが、小学生の頃益田に住んでいて24系出雲1号は松江〜浜田立ち席特急券で乗せて貰って14系の出雲2号はA、B寝台共に、グレードアップ車両も乗りサンライズは、Bソロ以外乗れた。
サンライズがなんとか持ち堪えている理由には、(B寝台乗客は利用するとは限らないが)シャワー室の存在もあると思う。この清潔重視の時代に、入浴しないで翌朝ビジネスをするというのはかなり抵抗がある。
8:39 ス◯ツwww
地図上のルートが福知山線経由ではなく、京都からの山陰線経由となっています。この遠回りについては推理小説で使われています。
伯備線電化がこういう効果があったとは、当時考えた人は稀ではないだろうか…。
新型の電車寝台の生産はほんまにしてほしいex. 22:00 東京発 22:32 横浜 23:51 熱海 1:00 浜松 2:20 名古屋 4:20 京都 4:40 大阪 5:00三宮 5:10 敦賀 (ハピライン乗り入れ) 5:47姫路 6:00金沢 7:02 鳥取 9:16 出雲という北陸新幹線補完ナイトらいちょうを作ってくれ予約ならいくらでもする
上りは「東京駅に」7時につく。北九州空港にかつてあった5:30便でも「羽田に」7時。西日本から早朝の東京への重要な交通機関である
急な用事が出来ても鉄ヲタやユーチューバーに占領されてチケットが手に入れないだろ(*^ワ^*)
九州新幹線の鹿児島中央全線開業でサンライズ出雲瀬戸で姫路や岡山で新幹線に乗り換えで九州ブルトレより早く目的地に着けるようになった。
個人的には、ブルトレの中で「出雲」は崇高な存在だった。物理的には、新幹線でも飛行機でも、山陰地方は接続が悪かったこともあっただろう。あと、出雲地方に漂う心理的魅力もあったと思う。だからかな、ブルトレの中で特にA寝台個室などはチケットが取りにくいことで有名だった。むかしタモリが「どんなに裏から手を回しても、トワイライトエクスプレスとカシオペアの展望室が取れなかった」と悔やんでいたことがあったが、それと同じくらいの感覚だったよ。だからサンライズ出雲が誕生しても即座に客車の方が廃止されなかったのは、乗車率云々では存廃を決められない魅力があったのかもしれない、と思っている。あと2往復時代、2・3号の方だっけ、「紀伊」と併結していたのも懐かしいね。でも、そのために両方ともモノクラス編成じゃなかったかな? A寝台個室がないと魅力半減だったなwサンライズの方は、スーツくんじゃないけど、岡山~東京のどこかで夜行バス代わりにしてる人がかなりいると思うよw
スーツ氏の走る別荘ねぇ…
サンライズに改名する40年以上も前に出雲と瀬戸が併結運転してたとは初耳(^^;)
寝台券の転売ヤーが多くて本当に困る
転売は徹底的に取り締まらないとダメですね。競馬場の指定席は転売、譲渡、不正購入は厳禁で違反した場合は会員資格取り消しなどの厳罰が科されます。
サンライズより出雲がいいわ!サンライズも食堂車とは言わないから車内販売ぐらいしてくれ~。
サンライズ出雲は始発の航空機より遅く出雲市に到着しますよ。
機関車牽引の客車列車よりも電車のほうが時間短縮をしやすいのか…利用する人は多くても車両の老朽化には勝てないかあと少しでもいいのでサンライズは運行してほしいですね
7:49 米原〜熱海間130km出せたっけ?
名古屋都市圏はともかく設備更新していないなら静岡県内は踏切の関係でMAX110Kmの区間があったはず
出雲で面白いのがJR東の1・4号は電源車とB寝台が金帯、A寝台が銀帯だったところかなB寝台車があさかぜと共通だったかららしいけど
ブルトレ時代の「出雲」に乗った事ある。贅沢して個室に乗った。あの時乗ったのは、京都から山陰本線に入るルートだった。東海道線は電機牽引で滑るよう走りだったが、京都からは走りがノッソリした感じに変わり、ディーゼル機関車に変わった事が実感できた。夜が明けて山陰本線からがまた非常に長かったが、個室からのどかな風景を楽しんだのは良い思い出だった。終着の出雲市に着いた時には愛着さえ湧いた列車から名残惜しく思いながら降車したものだった。現在は岡山経由で京都から山陰経由より所用時間も短くなり、電車になって大きな変化を遂げたが、あの風情ある夜行列車として残っているのは奇跡でもあり、喜ばしい事でもある。
客車時代は東海道線から山陰線に乗り入れる列車配線は残ってるがもう使われることは無いだろう和田山を通過する定期列車はほかにもあったが、綾部を通過したのはこれだけじゃないかな
寝台特急出雲号を牽引して機関車は東海道本線東京ー京都間がEF65−1000番台電気機関車で山陰本線京都ー浜田間が米子運転所所属のDD51形ディーゼル機関車が牽引していました。客車時代の寝台特急出雲号は最大2往復運転されていました、車両は1・4号が1人用A個室寝台シングルDX、食堂車、2段式B寝台車、荷物室付き電源車を連結した24系25形寝台客車で3・2号が2段化改造施工された開放型B寝台車、1人用A個室寝台シングルDXとB個室寝台シングルツイン&ツイン各1両を連結したJR西日本米子支社出雲運転区の14系14形寝台客車✕8両編成で運転していました、JR東日本所属の出雲1・4号の付属編成7〜11号車が途中の出雲市駅🚉で切り離し及び連結作業が行なわれていました。JR東日本所属の出雲1・4号に連結されていた食堂車が1991年5月31日限りで営業終了して翌6月1日から売店扱いに変わりました。1997年3月22日のJR線全国ダイヤ改正でDD51形デイーゼル機関車が所属するJR西日本米子運転所から後藤総合車両所に改名されました。JR西日本出雲運転区所属の出雲3・2号の4号車に3段式B寝台を再連結されて5号車に2段式開放型B寝台を簡易個室寝台に改造したBコンパートが組み込まれました。JR東日本東京ーJR西日本京都間の東海道本線を牽引していた機関車はJR東日本田端運転所所属のEF65形1000番台が牽引していました。JR東日本所属の寝台特急出雲1・4号はJR東日本品川運転所→尾久客車区の24系25形寝台客車金帯3本グレードアップ車両✕12(7+5)両編成が使われていました。1人用A個室寝台オロネ25形だけがステンレス帯二本のオロネ25形0番台でした。JR西日本出雲運転区所属の出雲3・2号に連結されていた1人用A個室寝台シングルDXオロネ14形300番台と1人用B個室寝台シン&2人用B個室寝台ツインオハネ14形300番台が1991年2月〜3月にかけてオハネ14形及びオロネ14形をベースにJR西日本鷹取工場🏭、JR西日本米子支社後藤工場🏭でそれぞれ改造施工されました。
SNSがほぼ某TH-camrなの草まぁこの時代まで長生きしてくれて寝台列車の旅を楽しませてくれてありがとうサンライズ…
プライバシー重視&電車化により時速120km/h走行が可能になったサンライズはいま週末の個室が取りにくいことで有名です。今後はカフェドクリエ並のリーズナブルな価格のビュッフェ&サフィール踊り子風のロビー席を設けて非電化区間も走れる新世代サンライズが上野~札幌間を週末1往復(片道13時間半くらい)設定すればまだまだ可能性が見込めるはずです。
この列車は本編でも触れられているように元祖出雲ではなくもともとは急行銀河を米子まで延長の上いなばになった列車で出雲本体とは全く関係のない列車です。
出雲は出雲大社などの観光後背地を抱えているので、それなりの乗車率を維持できているのかと思いますが、意外に儲かってはいないようです。瀬戸はどうなんですかね?私もこれまでいろいろな寝台車を利用しましたが、正直、ほとんど寝れていないです。サンライズ出雲のA個室シングル利用でも寝れませんでした。旧寝台幅の50cmを経験している身としましては、他の方はサンライズは快適かもしれませんが、正直、ビジホに泊まるほうがいいです。かの有名な鳥取選出の鉄ちゃん国会議員もサンライズは乗らないと言っています。なんなん・・・
石破さんってサンライズのヘビーユーザーじゃなかったっけ?
出雲2・3号(車両も西日本持ち)をサンライズに置き換えたのは事実だが前身が鳥取県東部や兵庫県北部を有効時間帯に走るいなばなので、サンライズ化の際に浜田行の1・4号を2・3号のスジに置き換えた。よってサンライズ化は元から出雲の1・4号を廃止して2・3号を増発したようなもの。瀬戸との併結なので、山陰への到着が2時間も遅くなった。一日を有効に使うには、せめて1時間は早く到着して欲しい。
出雲に関してはルートを考えると京都から山陰本線経由と伯備線経由を両方とも残すって手もあったのかなと思ったりもしますがそれはまた置いておくとして出雲と瀬戸は新幹線でのアクセスが悪く、山陽ルートから伸びる新幹線を早急に作るには中途半端な距離であるために寝台列車で残すことにした可能性はありそう電車化したのは客車列車だとダイヤ乱れの時に速度を出せなくて邪魔になるって面もあったのかな?
なんで浜田みたいなド田舎が終点だったんだろう。
米子からは立席特急券で乗れたので、朝の松江・浜田間の特急を兼ねてたというのが大きかったような気がします。浜田や江津への需要が今よりは大きかったこともあると思いますが、どっちかというとこれでしょうね。廃止時でも客車普通列車なんかも走ってたので、浜田に送り込まれた機関車も無駄になりませんし。
なるほど、山陰本線内の町と町を結ぶ役割もあったわけですねそれなら浜田駅終点も納得できます。
前身が座席車付きの急行列車。浜田は帝国軍衛戍地からの流れで県西部の中心都市であり、国や県の出先機関が設置され用務客需要も一定数あった。駅も機関区が併設された鉄道の要衝であり車両整備面でも終着駅として都合が良かったのだろう。
昔はそれなりに発展していたんですね一度街歩きをしましたが、正直かなり規模の小さい市に見えました。
遠隔地に直通する夜行列車が廃止されても、ほぼ同じダイヤのまま早朝深夜の区間列車が、両方の末端あるいは片方の末端に存置されるケースは、昔から結構ありますよそれだけ、区間需要が、あちこちにある、あるいは夜行列車廃止後しばらくはあった、ということですね
電車化したことで生き残った出雲と瀬戸。数奇な運命。
最初に設定されていた時に併結されていたことも数奇な運命といえる根拠かもしれません。
先祖が島根県なので現在も帰省でサンライズ出雲を使ってます。
ブルートレイン出雲のラストランも乗車しました。
新幹線や飛行機がどれだけ進化を遂げても、夜行列車で味わう旅情は他では決して味わえない。
「始発の羽田→米子間の飛行機よりもサンライズの方が、早く到着出来てのんびりとした朝を迎えられる。」
どうか黄金期の生き残りでもあり唯二の寝台特急であるサンライズは永久に走り続けてほしい。
永久はどう考えても無理だろ
そろそろ新造のニュースが欲しいですね。
@@tatsutakaraage 空気読めない?
直流区間のみで、交流機器の搭載不要だったことも出雲・瀬戸が電車化に都合が良かったそうです。
ゴールデンウィークに人生初のサンライズ兼寝台列車に乗って東京に行きます
「出雲」の愛称からしても日本人好みなんだろうなあと思います。
サンライズもいいけど、ブルートレインのあのゴトゴトと揺れる乗り心地は中々だった。
サンライズがデビューしたのは1998年の7月、つまり夏休みの前です。
サンライズに代わって2ヶ月後に乗りましたが10時打ちで希望していたシングルの2階は取れず1階でした。それでも車内から朝の景色を見るのがすがすがしいものでした。
この時にはまさか夜行列車がサンライズだけになるとは思いませんでした。
車両の老朽化で今後が心配ですが、1日でも長く走りつづけて欲しいものです。
サンライズのデビューの時は、まだ多くのブルートレインが残っていたから懐かしい。
寝台特急の最後の砦なので残り続けてほしい。
博多から東京出張が頻繁にあった頃、サンライズは重宝してました。
仕事を終えてから新幹線で出発し岡山でサンライズに乗り継げば、羽田行最終便よりも遅く福岡市内を出て翌朝の始発便よりも早く東京着。
帰りは新橋あたりで一杯飲んでもサンライズに間に合います。翌朝は岡山で新幹線に乗継ぎ博多着。そのまま出社。
山陽新幹線が岡山までだった頃の新幹線+電車寝台とは逆のパターンですね。
元祖ブルートレイン寝台特急あさかぜ号を取り上げて下さいお願いします🙇。
客車から電車化去れたもののすでに25年残された⏰時間も車両の老朽化もあり
残り少なく成って着ていますね😓
福知山駅は、高架化の時に「出雲」対応の長さのホームにしたのに、直ぐに廃止。
ブルトレ出雲…小さい頃からずっと憧れていたけど、廃止一か月前にやっと乗れて、元食堂車のサロンカーで駅弁食べて食堂車気分を味わっていろんな人と話をして。餘部鉄橋で強風のため1時間待たされたという乗り得までいただきました。
鳥取選出の某鉄ヲタ政治家が、客車「出雲」の廃止を嘆いていたな。個室寝台でゆうゆうお国入りできたからな。
ああ、顔がシトロエンの車っぽい人ね。
実名は出さないけど。
親の代は兎も角
本人の代なら御国入りは専ら飛行機だから
一連の発言はリップサービス
その人が現在総理大臣になった。
山陰本線城崎→現城崎温泉駅🚉に2005年3月1日に駅名を改名しました。
寝台特急出雲3・2号+紀伊を牽引していた機関車が1980年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正前まで下りが浜松機関区、上りが宮原機関区所属のEF58形電気機関車が牽引していました、1980年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正から東京機関区のEF65形1000番台に置き換えられました。
母の実家が豊岡にあるので出雲は寝台列車で唯一乗ったことあります。
サンライズの運行経路からは外れ、2006年に東京直通がなくなりました。
いくら乗車率が良くても寝台列車用の整備拠点を設けないといけないことや夜間早朝の乗務員駅員を手配しないといけないからサンライズが最後でしょうね。
初代いなばこそサンライズ出雲の前身ですね。285系の年数が25年を超え車両のリニューアルが待たれるところです。
JR西日本山陰本線京都ー出雲市・浜田間を牽引するDD51形ディーゼル機関車を鳥取県の米子運転所(現後藤総合車両所)から京都駅🚉まで回送して来なければならないため寝台特急出雲2往復のうち1往復がDD51形ディーゼル機関車の重連にする場合もありました。
分家であった「いなば」が名を変えて残り、
急行時代から続いていた本家嫡流の「出雲」が途絶えた。
出雲が廃止になり有効時間帯で使いやすかった兵庫県北部京都府北部にはダメージが大きかった。
多大な費用を負担させて出雲対応の長大ホームで高架化させておきながら高架完成直後に列車は廃止という煮湯を飲まされた福知山市民はJRに対して怒っていい。
583系の悲劇はB寝台にも関わらず下段の幅が広すぎて二段式にしてしまうとA寝台になってしまう事。
それが許される世界線ならやはり客車列車より583系が重用された筈。
581を設計開発していた頃、設計が楽になるのもあり丁度よい機会でもあるので
国鉄は、新型寝台電車に限らず全国すべての寝台列車のモノクラス化、つまり客車を含め寝台全車両を開放ロネ的なアコモデーションにすることも検討していた
当時はまだ乗客が沢山おり明らかに輸送力不足になるので、そのプランは結局立ち消えになったが
581登場後6,7年経つと、とんでもないレベルで国鉄の運賃と料金が値上げされて、一気に国鉄離れが起こり繁忙期以外の寝台列車は閑古鳥が鳴くようになったので
結果的には開放ロネとほぼ同じ設計にしておけば良かった気もする
JR東海とJR西日本の共同開発した車両で飛行機の最終便よりも遅く出て始発便より早く着く狙い通りの人気ですな。出雲じゃないですが、近いうちにサンライズ瀬戸に乗るつもりです。
その割に客車時代には停車していた名古屋は通過となったので在名政経界からは
『第2の名古屋飛ばし』と忌み嫌われ者となった。
それが今も続いている。
当初掲げたコンセプトは山陰でも四国でも崩壊して久しい。
用務客はサンライズ出発時刻と大差ない時間に発つフライトで当日に帰京や翌朝御国入り出来る飛行機へ移った。
現在サンライズを支えているのは乗車する事だけが目的の旅客。
運休と遅延が目立つのも用務客に見捨てられた要因。
@@金澤華すっかり鉄ヲタとユーチューバーに占領されてしまったな😂
石破茂代議士の[出雲]初体験は急行で食堂車連結🍴だったらしい。私の山陰(松江)出張は[24系出雲],[🚅+急行だいせん],[🚅+キハ181系やくも]の組合わせ。(14系💺)で東京⇨松江に乗車した経験もある。
寝台特急出雲1・4号が京都ー福知山間を東海道本線ー福知山線を迂回運転した事がありました、京都ー福知山間迂回運転区間を無停車でした。大阪駅🚉は通過扱いにしていました❗
サンライズ瀬戸・出雲は、出雲の方がいつも混んでいますねぇ。何度も利用していますよ。
寝台特急「出雲」は出雲市までの往復に乗りました。浜田まで行く方には乗らずじまいでした。上列車には割安な3段B寝台も1両、つながっていました。
一時は出雲2号と3号は紀伊と併結していた
(出雲の前名称はいなば)
現在は285系のサンライズ出雲瀬戸と併結されている
出雲の前身となった列車は1929年頃に大阪→石見益田・濱田→大阪で運行を開始しました。(当時はまだ快速列車でした。)その後しばらくは変化はありませんでしたが、1934年頃に運行区間が大阪~出雲今市に変更されました。さらに翌年の1935年には2等車・食堂車が新たに連結されるようになり、運行区間も大阪~大社に変更された上で急行列車に格上げされました。又2000年代初頭頃には福知山線経由で出雲号が運転されたこともありました。
山陰線の電化工事中も伯備線経由で運転してたけどね
5:28
この写真の機体って…
「JA8119」じゃないですかね…?
「出雲2・3号」も末期はA個室 シングルDXにB個室 シングル 更には割引切符対応の3段ハネと多彩な編成でしたね…
サンライズいいですよね~
ソロの号車で深夜帯にトイレを利用するとモーターの轟音とかなりの揺れを体感できて
サンライズの本気を味わう事ができました。
因みにサンライズ昇格した方の出雲(JR西持ち)には改造個室寝台車が2両(シングルツイン&ツイン、シングルDX)連結されていました
サンライズ一部個室の原型となったこの個室寝台車は京都~長崎を結ぶ「あかつき」に転用され2008年の列車廃止まで走り続けています
大阪発大社行きの急行大仙もあった
そういや京都~城崎温泉電化のために伯備線経由になった時期があったのに所要時間ほとんど変わらなかったのはすごい
浜田行きのサンライズ出雲できないかな?
西村京太郎では「夜行列車殺人事件」と「寝台特急八分停車」等、峰隆一郎「寝台特急「出雲」消された婚約者」、荻原秀夫「山陰路殺人特急」にも寝台特急「出雲」が登場している、宇津井健、三浦洋一、河合奈保子出演のさすらい刑事旅情編「走る密室、寝台特急「出雲」から消えた花嫁」で登場しました。
特急出雲は新幹線の通っていない山陰地方を東京から結んでいたので、当時から乗車率は結構高かった。
サンライズになりルートも車両も変わったけど、何とか走り続けて欲しい。
新幹線の山陰地方開業はまだまだ先の方だし。
出雲3・2号に使用されている14系14形寝台客車のB寝台車が1984年2月1日の国鉄全国ダイヤ改正から3段式から中段寝台を撤去して2段式に改造されました。出雲3・2号が1984年2月1日の国鉄全国ダイヤ改正で東京ー熊本・長崎間の寝台特急みずほおよび東京ー長崎・佐世保間の寝台特急さくら🌸と共通運用をしていたが出雲3・2号の編成を完全分離されて食堂車が廃止されました。
寝台料金が高すぎましたね。
去年乗ったがまた乗れるなら乗りたいものであります
松江生まれですが、小学生の頃
益田に住んでいて24系出雲1号は
松江〜浜田立ち席特急券で乗せて
貰って14系の出雲2号はA、B寝台共に、グレードアップ車両も乗り
サンライズは、Bソロ以外乗れた。
サンライズがなんとか持ち堪えている理由には、(B寝台乗客は利用するとは限らないが)シャワー室の存在もあると思う。この清潔重視の時代に、入浴しないで翌朝ビジネスをするというのはかなり抵抗がある。
8:39 ス◯ツwww
地図上のルートが福知山線経由ではなく、京都からの山陰線経由となっています。この遠回りについては推理小説で使われています。
伯備線電化がこういう効果があったとは、当時考えた人は稀ではないだろうか…。
新型の電車寝台の生産はほんまにしてほしい
ex. 22:00 東京発
22:32 横浜
23:51 熱海
1:00 浜松
2:20 名古屋
4:20 京都
4:40 大阪
5:00三宮 5:10 敦賀
(ハピライン乗り入れ)
5:47姫路 6:00金沢
7:02 鳥取
9:16 出雲
という北陸新幹線補完ナイトらいちょうを作ってくれ予約ならいくらでもする
上りは「東京駅に」7時につく。
北九州空港にかつてあった5:30便でも「羽田に」7時。
西日本から早朝の東京への重要な交通機関である
急な用事が出来ても鉄ヲタやユーチューバーに占領されてチケットが手に入れないだろ(*^ワ^*)
九州新幹線の鹿児島中央全線開業でサンライズ出雲瀬戸で姫路や岡山で新幹線に乗り換えで九州ブルトレより早く目的地に着けるようになった。
個人的には、ブルトレの中で「出雲」は崇高な存在だった。
物理的には、新幹線でも飛行機でも、山陰地方は接続が悪かったこともあっただろう。あと、出雲地方に漂う心理的魅力もあったと思う。
だからかな、ブルトレの中で特にA寝台個室などはチケットが取りにくいことで有名だった。むかしタモリが「どんなに裏から手を回しても、トワイライトエクスプレスとカシオペアの展望室が取れなかった」と悔やんでいたことがあったが、それと同じくらいの感覚だったよ。
だからサンライズ出雲が誕生しても即座に客車の方が廃止されなかったのは、乗車率云々では存廃を決められない魅力があったのかもしれない、と思っている。
あと2往復時代、2・3号の方だっけ、「紀伊」と併結していたのも懐かしいね。でも、そのために両方ともモノクラス編成じゃなかったかな? A寝台個室がないと魅力半減だったなw
サンライズの方は、スーツくんじゃないけど、岡山~東京のどこかで夜行バス代わりにしてる人がかなりいると思うよw
スーツ氏の走る別荘ねぇ…
サンライズに改名する40年以上も前に出雲と瀬戸が併結運転してたとは初耳(^^;)
寝台券の転売ヤーが多くて本当に困る
転売は徹底的に取り締まらないとダメですね。競馬場の指定席は転売、譲渡、不正購入は厳禁で違反した場合は会員資格取り消しなどの厳罰が科されます。
サンライズより出雲がいいわ!
サンライズも食堂車とは言わないから車内販売ぐらいしてくれ~。
サンライズ出雲は始発の航空機より遅く出雲市に到着しますよ。
機関車牽引の客車列車よりも電車のほうが時間短縮をしやすいのか…利用する人は多くても車両の老朽化には勝てないかあと少しでもいいのでサンライズは運行してほしいですね
7:49 米原〜熱海間130km出せたっけ?
名古屋都市圏はともかく
設備更新していないなら静岡県内は踏切の関係でMAX110Kmの区間があったはず
出雲で面白いのがJR東の1・4号は電源車とB寝台が金帯、A寝台が銀帯だったところかな
B寝台車があさかぜと共通だったかららしいけど
ブルトレ時代の「出雲」に乗った事ある。贅沢して個室に乗った。あの時乗ったのは、京都から山陰本線に入るルートだった。東海道線は電機牽引で滑るよう走りだったが、京都からは走りがノッソリした感じに変わり、ディーゼル機関車に変わった事が実感できた。夜が明けて山陰本線からがまた非常に長かったが、個室からのどかな風景を楽しんだのは良い思い出だった。終着の出雲市に着いた時には愛着さえ湧いた列車から名残惜しく思いながら降車したものだった。現在
は岡山経由で京都から山陰経由より所用時間も短くなり、電車になって大きな変化を遂げたが、あの風情ある夜行列車として残っているのは奇跡でもあり、喜ばしい事でもある。
客車時代は東海道線から山陰線に乗り入れる列車
配線は残ってるがもう使われることは無いだろう
和田山を通過する定期列車はほかにもあったが、綾部を通過したのはこれだけじゃないかな
寝台特急出雲号を牽引して機関車は東海道本線東京ー京都間がEF65−1000番台電気機関車で山陰本線京都ー浜田間が米子運転所所属のDD51形ディーゼル機関車が牽引していました。客車時代の寝台特急出雲号は最大2往復運転されていました、車両は1・4号が1人用A個室寝台シングルDX、食堂車、2段式B寝台車、荷物室付き電源車を連結した24系25形寝台客車で3・2号が2段化改造施工された開放型B寝台車、1人用A個室寝台シングルDXとB個室寝台シングルツイン&ツイン各1両を連結したJR西日本米子支社出雲運転区の14系14形寝台客車✕8両編成で運転していました、JR東日本所属の出雲1・4号の付属編成7〜11号車が途中の出雲市駅🚉で切り離し及び連結作業が行なわれていました。JR東日本所属の出雲1・4号に連結されていた食堂車が1991年5月31日限りで営業終了して翌6月1日から売店扱いに変わりました。1997年3月22日のJR線全国ダイヤ改正でDD51形デイーゼル機関車が所属するJR西日本米子運転所から後藤総合車両所に改名されました。JR西日本出雲運転区所属の出雲3・2号の4号車に3段式B寝台を再連結されて5号車に2段式開放型B寝台を簡易個室寝台に改造したBコンパートが組み込まれました。JR東日本東京ーJR西日本京都間の東海道本線を牽引していた機関車はJR東日本田端運転所所属のEF65形1000番台が牽引していました。JR東日本所属の寝台特急出雲1・4号はJR東日本品川運転所→尾久客車区の24系25形寝台客車金帯3本グレードアップ車両✕12(7+5)両編成が使われていました。1人用A個室寝台オロネ25形だけがステンレス帯二本のオロネ25形0番台でした。JR西日本出雲運転区所属の出雲3・2号に連結されていた1人用A個室寝台シングルDXオロネ14形300番台と1人用B個室寝台シン&2人用B個室寝台ツインオハネ14形300番台が1991年2月〜3月にかけてオハネ14形及びオロネ14形をベースにJR西日本鷹取工場🏭、JR西日本米子支社後藤工場🏭でそれぞれ改造施工されました。
SNSがほぼ某TH-camrなの草
まぁこの時代まで長生きしてくれて寝台列車の旅を楽しませてくれてありがとうサンライズ…
プライバシー重視&電車化により時速120km/h走行が可能になったサンライズは
いま週末の個室が取りにくいことで有名です。
今後はカフェドクリエ並のリーズナブルな価格のビュッフェ&サフィール踊り子風のロビー席を設けて
非電化区間も走れる新世代サンライズが上野~札幌間を週末1往復(片道13時間半くらい)設定すれば
まだまだ可能性が見込めるはずです。
この列車は本編でも触れられているように元祖出雲ではなくもともとは急行銀河を米子まで延長の上いなばになった列車で出雲本体とは全く関係のない列車です。
出雲は出雲大社などの観光後背地を抱えているので、それなりの乗車率を維持できているのかと思いますが、意外に儲かってはいないようです。
瀬戸はどうなんですかね?
私もこれまでいろいろな寝台車を利用しましたが、正直、ほとんど寝れていないです。
サンライズ出雲のA個室シングル利用でも寝れませんでした。
旧寝台幅の50cmを経験している身としましては、他の方はサンライズは快適かもしれませんが、正直、ビジホに泊まるほうがいいです。
かの有名な鳥取選出の鉄ちゃん国会議員もサンライズは乗らないと言っています。
なんなん・・・
石破さんってサンライズのヘビーユーザーじゃなかったっけ?
出雲2・3号(車両も西日本持ち)をサンライズに置き換えたのは事実だが前身が鳥取県東部や兵庫県北部を有効時間帯に走るいなばなので、サンライズ化の際に浜田行の1・4号を2・3号のスジに置き換えた。よってサンライズ化は元から出雲の1・4号を廃止して2・3号を増発したようなもの。瀬戸との併結なので、山陰への到着が2時間も遅くなった。一日を有効に使うには、せめて1時間は早く到着して欲しい。
出雲に関してはルートを考えると京都から山陰本線経由と伯備線経由を両方とも残すって手もあったのかなと思ったりもしますがそれはまた置いておくとして
出雲と瀬戸は新幹線でのアクセスが悪く、山陽ルートから伸びる新幹線を早急に作るには中途半端な距離であるために寝台列車で残すことにした可能性はありそう
電車化したのは客車列車だとダイヤ乱れの時に速度を出せなくて邪魔になるって面もあったのかな?
なんで浜田みたいなド田舎が終点だったんだろう。
米子からは立席特急券で乗れたので、朝の松江・浜田間の特急を兼ねてたというのが大きかったような気がします。
浜田や江津への需要が今よりは大きかったこともあると思いますが、どっちかというとこれでしょうね。廃止時でも客車普通列車なんかも走ってたので、浜田に送り込まれた機関車も無駄になりませんし。
なるほど、山陰本線内の町と町を結ぶ役割もあったわけですね
それなら浜田駅終点も納得できます。
前身が座席車付きの急行列車。
浜田は帝国軍衛戍地からの流れで県西部の中心都市であり、
国や県の出先機関が設置され用務客需要も一定数あった。
駅も機関区が併設された鉄道の要衝であり車両整備面でも終着駅として都合が良かったのだろう。
昔はそれなりに発展していたんですね
一度街歩きをしましたが、正直かなり規模の小さい市に見えました。
遠隔地に直通する夜行列車が廃止されても、ほぼ同じダイヤのまま早朝深夜の区間列車が、両方の末端あるいは片方の末端に存置されるケースは、昔から結構ありますよ
それだけ、区間需要が、あちこちにある、あるいは夜行列車廃止後しばらくはあった、ということですね