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片鉄の懐かしい、想いでをありがとうございます。備前片鉄バ スも、無くなってしまい、寂しいですね~
柵原に公共交通機関で行こうと思ったらどうすればいいのでしょう。追伸:JR津山駅から高下行きバスで約35分で「吉ヶ原」まで行けるようです。
小学生の頃 片上鉄道へ乗ろうと起点駅の片上駅に行ったら赤穂線との接続が悪く何時間も待つので「何時でも乗れるから」と帰って何年もほっといたら廃線になってしまいました。「何時までもあると思うなよ」と、いう教訓を身に染みた経験でしたね。
家から近いところだと、いつでも行けるという気で後回しにして後悔することしきりです。尼崎港線の車内から金楽寺駅の情景を見て、いずれこの駅を目当てに撮影に来るぞと考えているうち、廃線になってしまいました。
和気駅には行ったことがありませんが、片上駅にはいったことがあります。岸壁には鉱石の積み出し設備がありましたが、人気がなく寂しい感じの駅でした。
私が片上駅を訪ねた日は、鬱陶しい雨の日でした。積み出し設備の脇にDD13が何機も止まっていました。やはり人気はありませんでしたね。
1972年山陽新幹線岡山開業後姫路⇔岡山に80系快速が数本運行されていた▼棚原鉱山の精錬所から足尾銅山と足尾線通洞駅を連想しました🏭
片上鉄道と足尾線はよく似ていますね。私は足尾本山駅まで行ったことはありませんが、吉ヶ原駅が間藤駅で、柵原駅が足尾本山駅に相当します。
正式名称が同和鉱業片上鉄道ということで、同和鉱業小坂鉄道とは若干交流がありました。
駅下車の町並みの風景も一緒に撮影されているのはいいですね昭和の雰囲気が感じられます
ありがとうございます。古びた旅館がいいムードを醸し出していますね。
片上線は赤穂線と山陽線の立派なショートカットの役割をしたのに廃止は残念無念です。
こういう路線を次々に失った現在の鉄道は、災害に弱い脆弱なネットワークになってしまいました。北海道は特にひどいですが、中国地方も危ないです。
棚原からの鉱石輸送よりもどちらかといえば、片上〜和気間のコンテナ輸送をしていた印象のほうが記憶にのこっています。
そんな乗り方、誰もしない。みんな用事があるのは岡山市😉
鉄道が運ぶのは、人だけではないですよ。
@JobChanged--UEKISYOKUNIN さん、なにしろ同和鉱業の経営でしたから…。まぁノスタルジーに浸った者の感想ということで…。
片上鉄道か…、たしか運営が末期の頃は、同和鉱業で秋田の小坂鉄道と同じ会社だったんですが…、案外旧型気動車が多く残っていたので、わたしは好きな会社のひとつでした❤。
古いガソリンカー改造の気動車など、貴重な車両が運用されていましたね。吉ヶ原駅跡にはキハ303・キハ312・キハ702が保存されていますね。
確か、同和鉱業と言う鉱山会社が経営していて、小坂線も経営して居たとか。小坂線の気動車は正面貫通型で幌付きでした。同和鉱業はDOWAホールディングスと名前を変えて存続してます。
秋田県の山奥にある小坂鉱山と、岡山県の柵原鉱山が同じ会社の経営とは凄いですね。どちらも本格的な鉄道を持ち、廃線後も車両の保存に力を入れているところも似ています。
片上の保存車両には乗ったことがあります。現役時代に乗りたかった・・1:00これは下り電車ですね。
和気駅を出てすぐの無人駅で、ホームから自宅へ入れる家があって羨ましく思いました。1:00 上りだと思いますが、自身はありません。
三番線から撮影し智頭急行ホームが見えますので、これは上郡駅を発車した、岡山方面行の下り電車です。
90年頃は和気発の新快速が在ったので乗った事が有る。その頃も田舎だったが今も田舎なので、新快速を播州赤穂に譲ってしまった・・・
新快速があればいいですね。1時間に1本でいいから、岡山か倉敷あたりまで走らせてほしいと願います。
片上鉄道は可愛らしい車両ですね。スピードも出なかったんでしょうけど。貨物廃止はちょうどバブル期でしたし、一部区間を観光路線として存続という構想があっても良かったんじゃないかなあと、素人考えで思ってしまいます。
閉山という事実の前に、片上鉄道の存続を考える余裕はなかったのでしょうね。それでも末端の一駅間は線路を残し、後年の動態保存を目指していました。現在の柵原(やなはら)ふれあい鉱山公園です。www.okayama-kanko.jp/spot/11879コロナ以降休園しているようです。
晩年には系列会社の小坂鉄道から、田舎の鉄道にしては格段に立派なノンステップの気動車が数両転属してきて、以後廃線になるまで働いていました。日車私鉄標準車体の気動車で、兄弟車が関東鉄道・筑波鉄道・弘南鉄道にいました。
ない。一般ピープルはSL以外食い付かない😉
『片上鉄道の観光路線化案』、実際に存在しました。廃止の声が聞こえ始めた頃に、『大新東』という会社が乗り出しましたが、バブル崩壊で話が消滅しました。
そういえばむかし大井川鉄道が、観光客の多いSLの運転のみに専念するために新金谷〜千頭間の全駅を廃止すると言ったことがありましたね。結局観光バス運転手の労働時間規制がかかって、結果観光客が減って実現しませんでしたが。
どちらの駅も、駅前は大きく変わらないのが良いですね。和気は片鉄構内が長い間放置されてましたが、駐輪場になり廃線跡もサイクリングロードになりました。うがいだに温泉行くのに借りた自転車が、電動サポート初体験でしたよ。、😅
片上鉄道の線路跡、走ってみたいです。勾配があるから電動アシストがないとしんどいかな?
@tetsu-jiiji 確かに楽でしたがATの車みたいに、ブレーキかけとかないと進みますね。
『同和鉱業片上鉄道線』は、国鉄のモノによく似たDD13-550が牽引するトラ37両の鉱石輸送列車が有名でした。私は、父親の実家が柵原町だったので帰省の度に柵原鉱山まで見に行きました(祖父が鉱山の部長、叔父は、片上鉄道の車両を点検する『同和工営』の課長でした)。『59-2改正』で片上鉄道の車扱貨物がなくなり、トラ列車もいつしかトラック輸送に取って替わられ、遂には鉱山と鉄道がもろともに閉山・廃止と寂しい限りです。
トラ(コトラかな?)37両編成とは壮大です。それだけ産出量が多い鉱山だったのですね。まだ採掘が可能である鉱石を1000万トン残して閉山になったことは、さぞ無念であったことでしょう。
はい、コトラですね。他には『オトキ』もいましたが、運用に入るのはまれだったようです。
柵原鉱山の遺構は、まだ残っているのでしょうか?岡山と言えばオハヨー乳業。ヨーグルト飲料は、セイコーマートでまだ売っていると思います。配信、ありがとうございました。
ありがとうございます。柵原鉱山の遺構については、現地へ行っていないので確実なことは言えませんが、坑道見学会などがおこなわれているようですので、かなり残っているのではないでしょうか。ちなみに、オハヨー乳業の製品は近所のスーパーでも売っています。
@@ねこ助-f5b 柵原鉱山の建物は、あらかた撤去されて一部のコンクリート土台が残るのみになっています。扱っていた硫化鉄鉱の名残か、黄色く変色しています。
むかし『私鉄車両めぐり』でみた、『C13』の印象が強かったです。じつはこれがもとはテンダー車で戦時中に海南島にいけずに南海が引き取った後、タンク車になってココに来たことは後で知りました。テンダー車時代の兄弟が石原産業や日本車両、仕様違いの車両が樺太鉄道や夕張鉄道にまでいたことを知ったのはもっと後。
C13の経歴を調べると、興味深いですね。汐見橋駅から河内長野行きSL牽引の急行が出ていたとは驚きです。
@@tetsu-jiiji なぜにSL急行?と普通は考えますが、いかに疲弊していたとはいえ電車の加速度にSLがかなうわけもなく、吊り掛け車両の速達列車投入と同じ考え方で、急な加減速のほぼ必要のない速達列車に投入したんでしょうね。逆に満員の乗客でちゃんと停車できたのかが心配😅そうそう汐見橋駅には入換用として、元アプト式機関車ED5161形(ED40)がいたことがあります。廃車後は秋田中央交通に売却されましたが、零細私鉄にはあまりにも大きすぎて東急の電動貨車と取り替えになりました。うわさ話ですが、じつは東急は主電動機に使われている銅線が目的だったという噂が・・・ちょうど朝鮮動乱で銅の価格が高騰している時期だったですからね🤫
歴史は繰り返す。今はベトナム🇻🇳人やタイ🇹🇭人が銅線盗んでる…😵
えっちおーてぃじゃなくて、ほっとって言うんじゃない。
そうですね('◇')ゞ
70年代の山陽線の80系はボロだったなあ。トイレにはうんこが山盛りになっていて一気に尿意が失せたなあ。
姫路から西へ行く80系の普通はボロかったですが、車内販売が乗っていて嬉しかった記憶があります。いまや新幹線でもできない贅沢を、普通電車で味わえたのですね。
@@tetsu-jiiji 普通列車に車販があったとは初耳ですねえ。お弁当にはお茶が付きものでしたね。ちゃんと温かかった。夏は冷凍ミカン。私の頃はプラスチックに代わっていましたがもう少し前は陶器だったようです。
お弁当とお茶を積んでいたかどうかは覚えてないですが、お菓子と飲み物は買いました。山陽線に乗ったらまた買おうと思っていたら、いつか115系に替わり車販も見かけなくなりました。
片鉄の懐かしい、想いでをありがとうございます。備前片鉄バ スも、無くなってしまい、寂しいですね~
柵原に公共交通機関で行こうと思ったらどうすればいいのでしょう。
追伸:JR津山駅から高下行きバスで約35分で「吉ヶ原」まで行けるようです。
小学生の頃 片上鉄道へ乗ろうと起点駅の片上駅に行ったら赤穂線との接続が悪く何時間も待つので「何時でも乗れるから」と帰って何年もほっといたら廃線になってしまいました。
「何時までもあると思うなよ」と、いう教訓を身に染みた経験でしたね。
家から近いところだと、いつでも行けるという気で後回しにして後悔することしきりです。尼崎港線の車内から金楽寺駅の情景を見て、いずれこの駅を目当てに撮影に来るぞと考えているうち、廃線になってしまいました。
和気駅には行ったことがありませんが、片上駅にはいったことがあります。岸壁には鉱石の積み出し設備がありましたが、人気がなく寂しい感じの駅でした。
私が片上駅を訪ねた日は、鬱陶しい雨の日でした。積み出し設備の脇にDD13が何機も止まっていました。やはり人気はありませんでしたね。
1972年山陽新幹線岡山開業後姫路⇔岡山に80系快速が数本運行されていた▼棚原鉱山の精錬所から足尾銅山と足尾線通洞駅を連想しました🏭
片上鉄道と足尾線はよく似ていますね。私は足尾本山駅まで行ったことはありませんが、吉ヶ原駅が間藤駅で、柵原駅が足尾本山駅に相当します。
正式名称が同和鉱業片上鉄道ということで、同和鉱業小坂鉄道とは若干交流がありました。
駅下車の町並みの風景も一緒に撮影されているのはいいですね
昭和の雰囲気が感じられます
ありがとうございます。
古びた旅館がいいムードを醸し出していますね。
片上線は赤穂線と山陽線の立派なショートカットの役割をしたのに廃止は残念無念です。
こういう路線を次々に失った現在の鉄道は、災害に弱い脆弱なネットワークになってしまいました。北海道は特にひどいですが、中国地方も危ないです。
棚原からの鉱石輸送よりもどちらかといえば、片上〜和気間のコンテナ輸送をしていた印象のほうが記憶にのこっています。
そんな乗り方、誰もしない。みんな用事があるのは岡山市😉
鉄道が運ぶのは、人だけではないですよ。
@JobChanged--UEKISYOKUNIN さん、なにしろ同和鉱業の経営でしたから…。まぁノスタルジーに浸った者の感想ということで…。
片上鉄道か…、たしか運営が末期の頃は、同和鉱業で秋田の小坂鉄道と同じ会社だったんですが…、案外旧型気動車が多く残っていたので、わたしは好きな会社のひとつでした❤。
古いガソリンカー改造の気動車など、貴重な車両が運用されていましたね。吉ヶ原駅跡にはキハ303・キハ312・キハ702が保存されていますね。
確か、同和鉱業と言う鉱山会社が経営していて、小坂線も経営して居たとか。小坂線の気動車は正面貫通型で幌付きでした。
同和鉱業はDOWAホールディングスと名前を変えて存続してます。
秋田県の山奥にある小坂鉱山と、岡山県の柵原鉱山が同じ会社の経営とは凄いですね。どちらも本格的な鉄道を持ち、廃線後も車両の保存に力を入れているところも似ています。
片上の保存車両には乗ったことがあります。
現役時代に乗りたかった・・
1:00これは下り電車ですね。
和気駅を出てすぐの無人駅で、ホームから自宅へ入れる家があって羨ましく思いました。
1:00 上りだと思いますが、自身はありません。
三番線から撮影し智頭急行ホームが見えますので、これは上郡駅を発車した、岡山方面行の下り電車です。
90年頃は和気発の新快速が在ったので乗った事が有る。
その頃も田舎だったが今も田舎なので、新快速を播州赤穂に譲ってしまった・・・
新快速があればいいですね。1時間に1本でいいから、岡山か倉敷あたりまで走らせてほしいと願います。
片上鉄道は可愛らしい車両ですね。スピードも出なかったんでしょうけど。貨物廃止はちょうどバブル期でしたし、一部区間を観光路線として存続という構想があっても良かったんじゃないかなあと、素人考えで思ってしまいます。
閉山という事実の前に、片上鉄道の存続を考える余裕はなかったのでしょうね。それでも末端の一駅間は線路を残し、後年の動態保存を目指していました。現在の柵原(やなはら)ふれあい鉱山公園です。
www.okayama-kanko.jp/spot/11879
コロナ以降休園しているようです。
晩年には系列会社の小坂鉄道から、田舎の鉄道にしては格段に立派なノンステップの気動車が数両転属してきて、以後廃線になるまで働いていました。
日車私鉄標準車体の気動車で、兄弟車が関東鉄道・筑波鉄道・弘南鉄道にいました。
ない。一般ピープルはSL以外食い付かない😉
『片上鉄道の観光路線化案』、実際に存在しました。廃止の声が聞こえ始めた頃に、『大新東』という会社が乗り出しましたが、バブル崩壊で話が消滅しました。
そういえばむかし大井川鉄道が、観光客の多いSLの運転のみに専念するために新金谷〜千頭間の全駅を廃止すると言ったことがありましたね。
結局観光バス運転手の労働時間規制がかかって、結果観光客が減って実現しませんでしたが。
どちらの駅も、駅前は大きく変わらないのが良いですね。和気は片鉄構内が長い間放置されてましたが、駐輪場になり廃線跡もサイクリングロードになりました。うがいだに温泉行くのに借りた自転車が、電動サポート初体験でしたよ。、😅
片上鉄道の線路跡、走ってみたいです。勾配があるから電動アシストがないとしんどいかな?
@tetsu-jiiji 確かに楽でしたがATの車みたいに、ブレーキかけとかないと進みますね。
『同和鉱業片上鉄道線』は、国鉄のモノによく似たDD13-550が牽引するトラ37両の鉱石輸送列車が有名でした。私は、父親の実家が柵原町だったので帰省の度に柵原鉱山まで見に行きました(祖父が鉱山の部長、叔父は、片上鉄道の車両を点検する『同和工営』の課長でした)。『59-2改正』で片上鉄道の車扱貨物がなくなり、トラ列車もいつしかトラック輸送に取って替わられ、遂には鉱山と鉄道がもろともに閉山・廃止と寂しい限りです。
トラ(コトラかな?)37両編成とは壮大です。それだけ産出量が多い鉱山だったのですね。まだ採掘が可能である鉱石を1000万トン残して閉山になったことは、さぞ無念であったことでしょう。
はい、コトラですね。他には『オトキ』もいましたが、運用に入るのはまれだったようです。
柵原鉱山の遺構は、まだ残っているのでしょうか?岡山と言えばオハヨー乳業。ヨーグルト飲料は、セイコーマートでまだ売っていると思います。
配信、ありがとうございました。
ありがとうございます。
柵原鉱山の遺構については、現地へ行っていないので確実なことは言えませんが、坑道見学会などがおこなわれているようですので、かなり残っているのではないでしょうか。
ちなみに、オハヨー乳業の製品は近所のスーパーでも売っています。
@@ねこ助-f5b 柵原鉱山の建物は、あらかた撤去されて一部のコンクリート土台が残るのみになっています。扱っていた硫化鉄鉱の名残か、黄色く変色しています。
むかし『私鉄車両めぐり』でみた、『C13』の印象が強かったです。じつはこれがもとはテンダー車で戦時中に海南島にいけずに南海が引き取った後、タンク車になってココに来たことは後で知りました。テンダー車時代の兄弟が石原産業や日本車両、仕様違いの車両が樺太鉄道や夕張鉄道にまでいたことを知ったのはもっと後。
C13の経歴を調べると、興味深いですね。汐見橋駅から河内長野行きSL牽引の急行が出ていたとは驚きです。
@@tetsu-jiiji なぜにSL急行?と普通は考えますが、いかに疲弊していたとはいえ電車の加速度にSLがかなうわけもなく、吊り掛け車両の速達列車投入と同じ考え方で、急な加減速のほぼ必要のない速達列車に投入したんでしょうね。逆に満員の乗客でちゃんと停車できたのかが心配😅
そうそう汐見橋駅には入換用として、元アプト式機関車ED5161形(ED40)がいたことがあります。廃車後は秋田中央交通に売却されましたが、零細私鉄にはあまりにも大きすぎて東急の電動貨車と取り替えになりました。うわさ話ですが、じつは東急は主電動機に使われている銅線が目的だったという噂が・・・ちょうど朝鮮動乱で銅の価格が高騰している時期だったですからね🤫
歴史は繰り返す。今はベトナム🇻🇳人やタイ🇹🇭人が銅線盗んでる…😵
えっちおーてぃじゃなくて、ほっとって言うんじゃない。
そうですね('◇')ゞ
70年代の山陽線の80系はボロだったなあ。トイレにはうんこが山盛りになっていて一気に尿意が失せたなあ。
姫路から西へ行く80系の普通はボロかったですが、車内販売が乗っていて嬉しかった記憶があります。いまや新幹線でもできない贅沢を、普通電車で味わえたのですね。
@@tetsu-jiiji 普通列車に車販があったとは初耳ですねえ。お弁当にはお茶が付きものでしたね。ちゃんと温かかった。夏は冷凍ミカン。私の頃はプラスチックに代わっていましたがもう少し前は陶器だったようです。
お弁当とお茶を積んでいたかどうかは覚えてないですが、お菓子と飲み物は買いました。山陽線に乗ったらまた買おうと思っていたら、いつか115系に替わり車販も見かけなくなりました。