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1:35 『新九郎、奔る!』でお馴染みの元資さん!関東勢力も複雑怪奇ですが、新九郎の(元)所領があった備中も大概な歴史を。w掃部助家とか那須家もどうなったのやら…
「備中守護早死にすぎだろ」動画見てて思ってたことを言ってくれたw
総州家が断絶した時点で備中は混迷するしかなかったんですね、結局毛利の後も宇喜多、小早川と統治者が替わり江戸時代も小藩が乱立したり幕末で廃藩置県となるまでまとまりのない地域というイメージです。
徳島から岡山まで遠征とか辛すぎるだろ。現代でも面倒くさくてなかなか行かないぞ。
9:35思ったタイミングで入ってきて笑える😙細川家って本当に影響力大きかったんですね
組織は構成メンバーに関わらず、永続するイメージあるけど、組織の永続性は属人的なところもあるんですね。構成メンバー(の存在感)が空っぽだと、いつの間にかそのポジションが消えてる。
ゆうきまさみ先生の新九郎奔るでも、天狗誘拐事件の際に細川勝久が京兆家乗っ取りを画策し、備中で守護の権限が弱い(京兆家の支配域が広い)ことも描写されてましたが、思ってた以上に京兆家他の支配域広かったんですね…
あまたの庄為資がいくども現れては消える備前戦国史。
備中が正解かな
歴史初心者の私から言わせてもらいますととても気持ち悪くなる内容でした(良い意味で)ありがとうございます。
どこからこんな愉快な渾名を思いつくんですか!特に高国!そして冒頭の「この界隈では有名人」に吹きました!
備中と言えば彼の後北条の祖でもある早雲庵伊勢宗瑞公こと伊勢新九郎の生まれ里がある場所だっけ?荏原の庄がどこにあるかはわからんけど幕府奉公衆もやってるからそこそこ影響力あるのかなと思ってたり
動画投稿お疲れ様です「細川氏同族連合」っスゴイなってことがよく伝わりました(笑)
さすがは志末与志さんやで。それはさておきグダグダぶりだと備中もそうだが美作もごちゃごちゃになっていて今の岡山県全体がごちゃごちゃグダグダになっていたと言っても過言ではないと思うのです
美作は美作で赤松がほぼ不在&浦上がゴタゴタ&尼子が侵攻により備中以上に守護赤松家の存在が希薄になっています
漫画 「新九郎奔る」で備中伊勢家を調べてみましたが、よくわかりませんでした。 守護・守護代でこれでは一国人領主は全然ですね。
三村家親のテロップ、鉄炮w細川の分家筋って、沢山あるのね。聞いたことないばかりか、諱すら分からん人物まで出てきたわ。
「備中守護」にならなければ、毛利隆元の寿命が少し伸びた説?
燃えよ中指~♪ 高国!細川草薙素子政元「わが残留思念が」
これだけ統治者がころころ代わったらそりゃあ統制なんて無理ですよね…。
細川総州家ってあまり知らない細川一門だったけど早いうち断絶してたのか…後の細川成之退治の伏線は早いうちにあったんですね
備中守護は呪いの装備か何かなのか…
三河の国も応仁の乱の前から一色家と細川家で守護の座を取りあい、将軍家の弱体化もあって家康の祖父:清康の頃には事実上:不在となっていたっけな?応仁の乱もだが永正の錯乱がいかに全国に影響を与えたかが良く分かるな。
備中中小国人衆「こんなん日和見するしかないやんけ!」
めまぐるしく入れ替わるから、さっぱりわかりません。これを理解するのに何年かかるのかわからんな。
備中守護代の上野氏・石川氏なんて存在初めて知った
備中の新見氏は、尼子氏の勢力圏として、1566年まで活動していたと考えているのですが、如何でしょうか?
その通りだと思います。私は現物未確認ですが、備中新見荘における新見国経・貞経の活動は永禄元年(1558)までは確認できそうです。通説では永禄9年(1566)に没落したとされていますが、情勢的には毛利家による月山富田城攻めが終わった年であり、尼子家滅亡により耐えていた新見家も開城・没落したと考えれば筋は通ります。但し、新見荘は地理的に出雲ー伯耆ー備中ラインの重要な要所ですので、月山富田城攻めの最中に毛利軍がこれを放置していたかと考えると少し疑問な所もあり、もしかしたら没落年はもう少し早い(永禄2-7年)かもしれません。三村元範が新見楪城に入った時期が判れば良いのですが・・・。
@@SquareDeerHorn ありがとうございます。ご指摘の通り、伯耆との関係性もあります。ただ、本城常光誅殺で、1562年に毛利家が占拠した地区も、再び尼子帰参になっていたりするので、主様が別の動画で述べていたように、国境沿い国人衆は国を跨いで尼子・毛利と反復横跳びしてるように感じます。新見氏は備中北部でもかなり勢力を持っていたので、三村氏により1559年に平定されたかどうか、ですね
マイナーな内容で面白かったです千鳥のノブの先祖の早川家についての動画を出して欲しいです。
とても分かりやすかったですが、讃州家の読みは「さんしゅうけ」では?
申し訳ありません、その通りです^^;今ご指摘されて気がつきました
@@SquareDeerHorn いえいえ、細かい話で失礼いたしました。とてもテンポ良く分かりやすく、楽しく見させていただきました。
讃州家の者を讃岐ノ…と呼ぶのには違和感を拭えません
備中って伊勢家が支配してなかったのか?北条早雲が備中国出身と聞いたのだが
残念ながら動画の通り、伊勢家はむしろ備中では存在感がかなり薄く、あくまで主体は細川京兆家被官・庄氏と備中守護細川氏が中心となります。一方で、北条早雲(伊勢盛時)が備中に所領をもっていたのは事実であり、備中出身の可能性はありますが、当時伊勢家を含む幕府直臣は基本在京であったため黒田基樹氏は京都出身だろうと論じています。
1:35 『新九郎、奔る!』でお馴染みの元資さん!
関東勢力も複雑怪奇ですが、新九郎の(元)所領があった備中も大概な歴史を。w
掃部助家とか那須家もどうなったのやら…
「備中守護早死にすぎだろ」
動画見てて思ってたことを言ってくれたw
総州家が断絶した時点で備中は混迷するしかなかったんですね、結局毛利の後も宇喜多、小早川と統治者が替わり江戸時代も小藩が乱立したり幕末で廃藩置県となるまでまとまりのない地域というイメージです。
徳島から岡山まで遠征とか辛すぎるだろ。現代でも面倒くさくてなかなか行かないぞ。
9:35思ったタイミングで入ってきて笑える😙
細川家って本当に影響力大きかったんですね
組織は構成メンバーに関わらず、永続するイメージあるけど、組織の永続性は属人的なところもあるんですね。構成メンバー(の存在感)が空っぽだと、いつの間にかそのポジションが消えてる。
ゆうきまさみ先生の新九郎奔るでも、天狗誘拐事件の際に細川勝久が京兆家乗っ取りを画策し、備中で守護の権限が弱い(京兆家の支配域が広い)ことも描写されてましたが、思ってた以上に京兆家他の支配域広かったんですね…
あまたの庄為資がいくども
現れては消える備前戦国史。
備中が正解かな
歴史初心者の私から言わせてもらいますととても気持ち悪くなる内容でした(良い意味で)ありがとうございます。
どこからこんな愉快な渾名を思いつくんですか!特に高国!
そして冒頭の「この界隈では有名人」に吹きました!
備中と言えば彼の後北条の祖でもある早雲庵伊勢宗瑞公こと伊勢新九郎の生まれ里がある場所だっけ?荏原の庄がどこにあるかはわからんけど幕府奉公衆もやってるからそこそこ影響力あるのかなと思ってたり
動画投稿お疲れ様です
「細川氏同族連合」っスゴイなってことがよく伝わりました(笑)
さすがは志末与志さんやで。それはさておきグダグダぶりだと備中もそうだが美作もごちゃごちゃになっていて今の岡山県全体がごちゃごちゃグダグダになっていたと言っても過言ではないと思うのです
美作は美作で赤松がほぼ不在&浦上がゴタゴタ&尼子が侵攻により備中以上に守護赤松家の存在が希薄になっています
漫画 「新九郎奔る」で備中伊勢家を調べてみましたが、よくわかりませんでした。 守護・守護代でこれでは一国人領主は全然ですね。
三村家親のテロップ、鉄炮w
細川の分家筋って、沢山あるのね。聞いたことないばかりか、諱すら分からん人物まで出てきたわ。
「備中守護」にならなければ、毛利隆元の寿命が少し伸びた説?
燃えよ中指~♪ 高国!
細川草薙素子政元「わが残留思念が」
これだけ統治者がころころ代わったらそりゃあ統制なんて無理ですよね…。
細川総州家ってあまり知らない細川一門だったけど早いうち断絶してたのか…
後の細川成之退治の伏線は早いうちにあったんですね
備中守護は呪いの装備か何かなのか…
三河の国も応仁の乱の前から一色家と細川家で守護の座を取りあい、将軍家の弱体化もあって家康の祖父:清康の頃には事実上:不在となっていたっけな?
応仁の乱もだが永正の錯乱がいかに全国に影響を与えたかが良く分かるな。
備中中小国人衆「こんなん日和見するしかないやんけ!」
めまぐるしく入れ替わるから、さっぱりわかりません。
これを理解するのに何年かかるのかわからんな。
備中守護代の上野氏・石川氏なんて存在初めて知った
備中の新見氏は、尼子氏の勢力圏として、1566年まで活動していたと考えているのですが、如何でしょうか?
その通りだと思います。私は現物未確認ですが、備中新見荘における新見国経・貞経の活動は永禄元年(1558)までは確認できそうです。通説では永禄9年(1566)に没落したとされていますが、情勢的には毛利家による月山富田城攻めが終わった年であり、尼子家滅亡により耐えていた新見家も開城・没落したと考えれば筋は通ります。
但し、新見荘は地理的に出雲ー伯耆ー備中ラインの重要な要所ですので、月山富田城攻めの最中に毛利軍がこれを放置していたかと考えると少し疑問な所もあり、もしかしたら没落年はもう少し早い(永禄2-7年)かもしれません。三村元範が新見楪城に入った時期が判れば良いのですが・・・。
@@SquareDeerHorn
ありがとうございます。
ご指摘の通り、伯耆との関係性もあります。ただ、本城常光誅殺で、1562年に毛利家が占拠した地区も、再び尼子帰参になっていたりするので、主様が別の動画で述べていたように、国境沿い国人衆は国を跨いで尼子・毛利と反復横跳びしてるように感じます。
新見氏は備中北部でもかなり勢力を持っていたので、三村氏により1559年に平定されたかどうか、ですね
マイナーな内容で面白かったです
千鳥のノブの先祖の早川家についての動画を出して欲しいです。
とても分かりやすかったですが、讃州家の読みは「さんしゅうけ」では?
申し訳ありません、その通りです^^;
今ご指摘されて気がつきました
@@SquareDeerHorn いえいえ、細かい話で失礼いたしました。とてもテンポ良く分かりやすく、楽しく見させていただきました。
讃州家の者を讃岐ノ…と呼ぶのには違和感を拭えません
備中って伊勢家が支配してなかったのか?
北条早雲が備中国出身と聞いたのだが
残念ながら動画の通り、伊勢家はむしろ備中では存在感がかなり薄く、あくまで主体は細川京兆家被官・庄氏と備中守護細川氏が中心となります。
一方で、北条早雲(伊勢盛時)が備中に所領をもっていたのは事実であり、備中出身の可能性はありますが、当時伊勢家を含む幕府直臣は基本在京であったため黒田基樹氏は京都出身だろうと論じています。