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ちょうど40年前の夏、大きなリュックサックに寝袋を入れて、周遊券を握りしめ上野から八甲田で出発し連絡船で渡道しました。その時の感動は忘れていませんがこの素晴らしい録音をきいて、あの時の情景を鮮やかに思い出しております現在は携帯を使ってネット等で指定券の予約もできるし、全国に新幹線ができて便利になった反面、先人が創ってくれた全国の鉄路が分断されていく事に寂しさや不安を感じてます。かつては殆どの駅に駅員がいて、列車発着の時間には早朝深夜でも窓口で切符が買えて、大きな駅にいけばホーム事にキヨスクの売店があり、急行以上の列車には車内販売があり、駅弁販売駅も多かったですよね。はたして現代の鉄道はこの頃に比べて本当に良くなっているのでしょうかね。
周遊券、急行列車、青函連絡船、どれも無くなってから久しくなってしまいました。当時は新聞で国鉄叩きの記事も多かったですが、鉄道もまだ全国ネットで元気でした。そんな遠い昔を思い出して頂けましたら嬉しいです。
昔の丁寧な車掌さんの案内が素晴らしい。今じゃ当然あり得なんだが、この時代の旅情感を思い起こさせてくれます。
有難うございます。当時の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
北福岡停車が意外です
映像の構成が素晴らしいです。放送の説明を下手に説明するよりも、映像に当時の資料を示し「これを見よ、以上」と。見事です。11:06 乗船名簿には、赤と緑のほか、船の接続列車の指定券を持っている人向けに「赤線入り」の名簿なんてのもありました。懐かしいなあ。「普通急行」「特別急行」という言葉遣いの何と重厚なことか。
赤い線が入った乗船名簿は知りませんでした。閑散期に自由席ばかり乗っていたからですね。
特別急行と言う響きがたまりませんね。今はそのベースになる普通急行自体がほぼほぼありませんものね。やっぱり特急じゃなくて、特別急行と言う方が良いですね。自分は。貴重な音源、有難うございます。
当時の周遊券利用では急行の自由席が主体でしたので、別途特急券を購入して乗る特急は正に特別な列車でした。
当時の列車内、駅の放送を録音して残してあるということ、当時の時刻表を残してあることが凄いと思います。自分はまったくそのようなこと思いつきもしませんでした。
録音も時刻表も単に鉄道好きのコレクションでしたが、タイムカプセルのように埋もれていたものを掘り起こし、パソコンでスライドショーを作って多くの方にご視聴頂けるなんて、考えられませんでした。文明の利器ですね。
今は何かと気忙しい世の中ですが、青森駅のなんともゆったりとした案内放送を聞いていると、ああ旅をしてるんだなあとしみじみ実感します。
こんな感じの放送を聞きながら、青森駅の長いホームを歩いたことももう遠い昔のことになってしまいました。
コスパ厨が無駄に喚くからね()
道内路線の動画がほとんどだったので、ゆうづる号の放送は新鮮に感じます。この頃は20系客車から24系客車に切り替わった頃なんですね。「北福岡」と出たので「ん?東北なのに北福岡?」って思って調べたら、今の二戸駅の事だったんですね。勉強になりました。
当時は「二戸」に改称されることなど知る由もありませんでしたが、とにかく何でも録っておくものですね。
大宮生まれなので、北国へ行き交う列車群を見送っていました。時刻表の中で旅をしていたので懐かしいです。連絡船には1M~1便で一回だけです。1便は、はつかりより先に着いているみちのくと白鳥からの客でいっぱいでしたが、なんとか寝る場所を確保しました。連絡船は、陸奥湾内は穏やかでしたが、津軽海峡部分になるととんでもなく揺れて目が覚め以後眠れませんでした。でも、周りの人は平然と寝ていました。12:33から天候の案内があり、「この船も海峡に出ますと~揺れる~ごゆっくりお休み下さい」ってアナウンスしていたのですね。結局国鉄時代の北海道行きはその一回で、当時を思い出すきっかけをありがとうございました。
思い出の投稿を有難うございます。音声を聴いて旅の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。青函連絡船は混雑の上に揺れて、大変だったでしょうが、印象深い旅になったことと思います。この頃は4時間近い船旅がやや退屈に感じ、「青函トンネル、早くできないかな・・・」などと思ったものでしたが、後になって振り返ると味わい深いものだったなと感じます。
物凄いアーカイブですね旅ができます当時の旅が
有難うございます。昔の旅の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。40年以上前の録音に多くの反響があり、不思議な感じさえしております。
懐かしいですね。😂大学生時代に2回東京から北海道へ旅行しました。ユース全盛で北海道時刻表を買って一人で回りましたが、当時利用した夜行急行や青函連絡船、北海道内のローカル線が廃線や廃止で老人になった今は青春時代の思い出として良かったです。
わたくしもすでに老人の域ですが、YHを使って旅をしていた頃が懐かしいです。年齢と共にYHからビジネスホテルへと変わっていきました。淋しさを感じつつも、YHがない街の駅近くに泊まり、始発列車に乗るという選択もできるようになりました。
あおもり〜ぃ。あおもり〜ぃ。駅の放送も実に味わいがあっていいですね。旅をしているんだなぁ〜って実感。勿論、ゆうづるの車掌さんの車内放送も旅情を誘います。昭和の時代。古き佳き国鉄時代。懐かしい
有難うございます。遠い昔の列車の旅の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
去年、内地から北海道に列車乗り継ぎで渡りました。その時の青森駅は閑散とし、 ほかに人影もまばらでした。乗り継ぎ案内もありません。連絡船当時の駅の賑わいは隔世の感です。津軽なまりの放送は長旅の疲れを癒やし、これから海峡を渡る期待と緊張感をかき立てます。貴重な記録ありがとうございます。
思えば青森駅もすっかりご無沙汰しています。下車して町の中を歩き宿泊したのは、青い森鉄道になる少し前でしたから随分前のことになります。今では駅舎も建て替えられ、すっかり変わってしまったことでしょう。かつては連絡船や長距離列車が発着していた青森駅。あの頃は情緒たっぷりでしたね。
今はなき旅情溢れ、渡道する期待感が車掌さんのアナウンスから聞き取れてきて懐かしいです。
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。それにしても東北の夜行列車がなくなろうとは思いませんでした。青函トンネルを通る夜行列車ぐらいは残ってほしかったですね。
今回もありがとうございます。本州から北海道というのは、このころホントに遠いところだったんですよねぇ…。札幌まで丸一日。功罪はともかく、新幹線や航空機の速さというものを噛みしめざるを得ません。そして「ゆうづる」号の本数、函館で待ち受ける優等列車の本数、意外なところでは青森からの「みずうみ」号の本数の多さにも、時代を感じます。
東北新幹線も青函トンネルもない時代、在来線と連絡船を乗り継いで行く北海道は遠い所でした。この当時は飛行機の割引運賃が現在ほど充実しておらず、庶民的とは言い難い時代で、まだまだ鉄道で北海道へ行く人も多かったですね。
とても貴重な音源ですね🎧今は亡き松前線を含む江差線の時刻表もじわーーっと来ます😂楽しませてくれてありがとうございました🙏
有難うございます。楽しんで頂けましたら何よりです。廃止になってしまった路線も多いですね。
「♬上野発の夜行列車降りたときから~」某歌謡曲が思い浮かぶ、アップですね!☺️
続けて「はるばる来たぜ函館~」とカラオケで唄ったことがあります。
よく残してくれて、当時の空気感を伝える非常に価値の高い資料です
有難うございます。まだ東北新幹線がなく、在来線が頑張っていた時代も遠い昔になってしまいました。
私は常磐線の日立駅に幼稚園~小学校位だっかな…にゆうづる案内番を日立駅ホームにて見た程度の年代ですが…とても懐かしく思いました…貴重な音源本当に有り難うございます。
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。鉄道好きな子供にとって、沿線を通る優等列車は憧れですね。わたしは西鹿児島行の急行、特急に憧れを感じたものでした。一人旅をするようになってからは、九州よりも北海道になりましたが・・・
懐かしい思い出。私が学生時代よく寝台列車を利用しました。そしてください青森駅に到着して、早く連絡船に乗りたくて走ってよく乗船したものです。幕の内弁当🍱購入して食べました。いやーこの車内放送いいですね!とにかく懐かしいです。昔の汽車はいいですね。
もうこういう汽車旅はできなくなってしまったのですね。時代は変わってしまいました。青森駅の長いホームを急ぎ足で連絡船に乗り換えた記憶は多くの方がお持ちだと思います。遠い昔の旅を懐かしく思い出して頂けましたら嬉しいです。
@@kyuukou-souya ありがとう御座います。又の配信楽しみにしております。
青森駅ホーム、桟橋の状況が目に浮かんで胸が熱くなります。十和田の時刻表で当時仙台駅が新幹線ホームの工事で宮城野貨物線回りになってたのが懐かしすぎです。
青森駅で長いホームを歩いて連絡船に乗り換えたこと。新幹線を通すための工事をしていた仙台駅。どれも遠い昔のことになってしまいましたね。
15Mゆうづるー5便ー103列車ニセコー301列車利尻で稚内まで。津軽海峡では左舷側でイルカと競争するシーンが観られました。昭和47年7月、みどりの窓口で徹夜して並んだ特別急行券+寝台券+乗継急行指定席券、当時はプラチナチケットでした。
青函連絡船の旅客輸送のピークがが1973年(昭和48年)だったそうですから、旅行シーズンには指定券も入手困難だったことでしょうね。
確か当時の特急「ゆうづる」は唯一3段ハネの24系24形が使用されたレアな列車でしたね。て言うかこのチャンネルで内地の列車が取り上げられるのもかなりレアですね。今後も楽しみにしております...
@@channelsada3849ED76って、、、どこ走ってんねん、、常磐線はハチマルの縄張りやろが誰も指摘せえへんっちゅうのも呆れるわ
3段ハネの24系24形は583系よりは乗り心地が良かったですよ。通路側にある折り畳み椅子に座って、景色を楽しめる客車特急は素晴らしいものでした。
人気にて増発を営業には審査にて黒字列車創作に四十万人よりファン様には、機関車型車両連結を定期型?寝台列車増設は団体型車両連結を製造に専門型?似た機関車型。
貴重な録音をありがとうございます。
こちらこそご視聴とコメントを有難うございます。
上野発車時から北国へ足を踏み入れる期待感と不安感の交錯した独特の雰囲気が出ており、かつての記憶が思い出されます。それにしても、ゆうづるの全盛期はもう遠い過去のもの。車内放送のハイケンスも車内販売も乗船名簿の案内もこうした記録でしか聞けなくなってしまった。そして、青森の青函連絡の案内も津軽なまりがかすかに残り長旅の実感をかきたてます。そして飛行機移動で失ったゆったりした時間の感覚と異国情緒に浸れました。
有難うございます。青森駅ホームの案内も捨てがたく、「ゆうづる」の上野から青函連絡船函館までを一本にまとめてみました。当時の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
人気にて増発を営業には審査にて黒字列車創作に四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車両連結を製造に専門型?似た機関車型。
釧路民なので7便系統はあまり縁がなかったですね。十和田丸は青函連絡船最終便(青函博を除く)の函館行きで乗りました。乗船証明書をシリアル番号付きで配っていました。船内のチャイム聞き覚えがありました。いろいろな光景を思い出しました。何もかも皆懐かしい。
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。確かに連絡船を降りて釧路へ向かうなら「おおぞら」が便利で、この便は利用しなかったことと思います。
当時、寝台特急に乗車する予算がなく、急行・八甲田や上野から各駅停車で北上してました。朝の常磐線上りは上野行きのゆうずるラッシュですごかった思いがあります。北福岡駅、聞き覚えがなかったですが二戸駅の前の駅名ですね。相変わらず乗り換え時間の長さに昭和のゆったりとした時間がよみがえってきます。「千歳線まわり」の放送当時には、山線廃止を迎えようとは信じられませんね。
わたしも安上がりに急行の自由席ばかり利用しており、「ゆうづる」の寝台利用は異例でした。夜行ばかりではなく、昼間の急行を乗り継いで行きたいとの思いは常々ありましたが、贅沢な日程を組めず実現しませんでした。
@@kyuukou-souya さん私も、日中移動の時は、仙台〜青森間の長距離普通列車の乗り継ぎでした。旧型客車の長い編成で車内はガラガラ、通勤通学時間帯以外は小さな駅に着くと静寂な雰囲気、贅沢な時間だったかもしれません。
貴重な録音、保管そしてUPありがとうございます自分は常磐線沿線で育ちましたが、ようやくお金が貯まった頃には青函連絡船は廃止され「折角お金を出すなら、B個室のある北斗星だよね…」等と言っているうちに、終ぞ『ゆうづる』にも乗れませんでした。今日は、この録音を聴きながら往年の旅の気分を味わいます。普通急行と呼ばれていたのですね。とても新鮮です。
有難うございます。昔の雰囲気を感じ、少しでも旅の気分になって頂けましたら嬉しいです。この当時、特急・寝台券の出費は大きかったので乗るのは急行の自由席ばかりでした。もっと後には、寝台にも乗れるトクトクきっぷがあり、「はくつる」や「北斗星」に乗った時は嬉しかったです。
北への旅路。懐かしく視聴しました。これからも楽しみにしています
有難うございます。懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
青森到着前の乗り換え案内で「山形行き普通列車・・・」とありましたが当時はそういった長距離普通列車が当たり前にありましたし、当時は奥羽本線も秋田で分断される感じのダイヤの組まれ方ではなかったんですねぇ。
旧型客車による普通列車、地方へ行けばまだ日常的な光景でしたね。
国鉄末期には山形駅と青森駅を結んだ特急つばさ号が1往復ありました。
8:50青森到着アナウンス 9:02今回も貴重な「Discover Japan」「一枚のきっぷから」スタンプが見られてうれしいです😹 一番右の青森駅乗車船記念スタンプは9つのスクエアで珍しいタイプですね。左上みちのくが既に新幹線になってる😸 81(S56)年8月の7便に乗船していると思います。同じ十和田丸だったかもしれません。函館からは山線水害のため、室蘭本線経由になっていた「ニセコ」に乗りました。直前まで山線通らないなら「北斗」に乗るか迷ったのですけど。14:03 グリーン船室のカーペット(桟敷)室がどんな感じだったのかな? ところで北海道からの帰りではないのですが、上り「ゆうづる」に乗りそこねたことがありました。東北への修学旅行の帰りに「ゆうづる」に乗るはずだったのが、水害で車両のやりくりが出来ず運休になって、急行「八甲田」(「津軽」だったかも)の12系座席で帰ってくることになりました。
スタンプに新幹線が描かれているのは「東北にも早く新幹線を」という思いなのでしょうね。「ゆうづる」の予定が急遽12系座席車とは・・・当時としてはがっかりしたことでしょう。わたしの中学の修学旅行では、片道は急行電車で車中泊が当たり前の時代でした。
綺麗な音源ですね😊ゆうづる号の車窓さんをはじめ駅の放送青函十和田丸⛴️の放送も味があっていいですね‼️新幹線時代になり旅の旅情は失くなりましたね
夜行列車から青函連絡船に乗り換える旅、歌でも歌われるように味わいがありました。もう遠い昔のことになってしまいました。
私の初の北海道は昭和51年のお盆頃でした。確か上野21時頃の発車で自由席は満員で通路に自宅から持って行った釣り用のベンチを使い乗った記憶があります。途中から席が空いたのはラッキーでした。青函連絡船は青森到着前に車掌さんが配ってたように記憶してます。連絡船は同じ時間だったような。あの頃の記憶がよみがえりました。ありがとうございました
お盆の頃の最盛期では想像を絶する混雑だったこととお察しいたします。でも初めての北海道旅行は印象深いものになったことでしょう。音声を聴いて旅の情景を思い出して頂けましたら嬉しいです。
上り下りで号数が分かれていない時代ですね。ズラリとゆうづる号が並ぶのは壮観ですね。ゆうづる号も東北新幹線開通で大減便になるんですね…。
東北方面への夜行列車が華やかな頃でしたね。夜の上野駅も賑やかでした。
線路容量の為最大勢力だったゆうづるも、常磐線経由だった為消えるのははくつるより早かった。
はくつるは指定券が取りにくい人気列車でしたね。でも晩年はそれほどでもなくなったようですね。電車寝台の下段は大きな窓があって嬉しかったです。
「連絡船は前の方、お出口は後の方」覚えています、懐かしいです(^_^)
青森駅の長いホームを思い出します。情緒がありました。売店や台車による販売、品揃えも豊富でした。
すみません、売店や台車の販売を覚えていません、連絡船に乗る為にただ前進していました。いま思うと青森で途中下車など余裕があれば良かったですね。
ローカル青森発山形行き(奥羽線廻り)とかってスゴイね急行十和田は仙台に停まらずに長町に停まってたのですね。仙台を通らないってことは貨物線経由だったのでしょうかね
当時の仙台駅は新幹線の工事中で、特に夜間に大きな作業が行われていたようなので、夜行列車は仙台駅を通さなかったのですね。
私が乗ったゆうづる号は上野駅を19字50分午後7時50分に上野駅を出る常磐線回りの寝台特別急行ゆうづる1号青森行きでした。終着駅の青森駅到着は翌日の5時08分で5時23分発の青函連絡線に15分接続して函館には8時23分着でそこから函館11時38分発の37D網走行き特急おおとり号に乗って札幌まで行きました。また、特急おおとり号を選んだ理由は食堂車🍴🚄が連結されて至って事もこの列車を選んだ理由のひとつです。また、国鉄末期はグリーン車と食堂車🍴🚄の連結位置が変わっていて先頭車キハ82型のあとに食堂車🍴🚄キシ80型が連結されていました。特急おおとり号の食堂車🍴🚄では北海定食当時のお金💰️で780円しました。北海定食はご飯の上に鮭、いくら、卵の三種類が載っていていかにも北海道を行く列車にふさわしい列車食堂のメニューとなっていました。私も北海定食をこの下り網走行き特急おおとり号の食堂車🍴🚄で食べましたが味は文句無しに大変良かったです。また、この時に乗車したのは上野駅発19時50分の寝台特別急行列車ゆうづる1号のグリーン車サロ581型と函館11時38分発の列車番号37/D の網走行き特急列車おおとり号のグリーン車に乗って札幌まで乗車しました。
旅情は勿論ですが、当時の匂い(蕎麦の香り)がしてきそうです。今は新幹線があちこちで開業して便利になりましたが、夜汽車や駅ホームや車内のアナウンスがまた味があっていいですね。あの頃に戻りたい…
ホームに漂う立ち食い蕎麦の匂い・・・空腹時にはたまりませんでした。あの頃の匂いと言えば煙草の煙も思い出されます。これに関しては現代の方が快適になりました。失った旅情は多いですが、快適になった現代の旅を楽しみたいと思います。
なつかしい、ありがとうございます
懐かしさを感じて頂けましたら何よりです。
夜行列車全盛期。今ではうらやましい限りです。青函連絡船に乗継をする乗客に乗船名簿を記入するんですね
乗船名簿を書くと「海を渡るんだな・・・」という感じがしたものでした。万が一の場合はこれで身元がわかるのですね・・・
特別何か特徴があるわけではないけれど車掌の声質と調子が旅情を掻き立ててくれる。この時代の優等列車の車掌の方の声は好きですね。くだらない質問ですが連絡船では必ず乗船名簿の記載が必要ですが筆記具って備え付けのモノがあったのでしょうか?客がみんながみんな持ってるというものでもないでしょうし。
当時の旅行では筆記用具は必需品として持参していましたね。電話番号をメモしたり、荷物を送る際に住所を書いたりもしました。気軽にメールを送れる時代ではなく、旅先から絵葉書を書いて送ったりしたものでした。連絡船待合室の案内所には筆記用具がありましたし、列車内では車掌さんに頼めば貸してくれたことと思います。
ゆうづる3号とは上野の発車時間が10分差しかないのに青森到着はだいぶ遅くなることで有名でしたねえ……電車は青函連絡船重視、客車は北東北へのアクセス重視で時間が決められたと聞きます
下りゆうづる3号は583系を使いながら座席車だったことがありましたね。寝台料金がかからないので乗ったことがありますが、快適とは言い難かったです。
懐かしい。。自分は、上り「ゆうづる」に乗ったことがあるけど、今はもう乗れないと思うと惜寂ひとしお。青函連絡船は、確か羊蹄丸だったな。
当方、弘前在住でしたので、ゆうづるに乗る機会は最後までありませんでした。貴重な音声をありがとうございます。このゆうづる4号は、青函連絡船まで時間があり、盛岡から青森までの間の利用が多い列車と聞いていました。連絡船の情景も大変すばらしいのですが、気になったのは、4:00ころの路線図に、なんと八戸空港の表示があることにびっくりです。利用したことはないのですが、現在航空自衛隊の基地になっている八戸空港にまだYS11がいたころですね。三沢空港に飛行機の離発着が戻ったのは、ベトナム戦争の終わった昭和50年だと思っていましたが、三沢空港の記載もあり、時刻表には残っていたのでしょうね。
八戸空港のことはまったく知りませんでした。TH-camをやっていると視聴者の方から様々な情報が寄せられるものですね。これも役得ですね。「国鉄監修」の時刻表ですから、国鉄に関する部分は細部までチェックしても、民鉄や航空関連にまでは目が届かなかったのかなと思います。
寝台特急から青函連絡船に乗継ですか。当時学生だった身には高嶺の花で、専ら急行八甲田が定番列車でした。急行十和田だと時間がかかるもので。船内に入ると空間が広くてほっとしたものです。函館からはまた延々と急行・・。
周遊券を使って急行の自由席を愛用していたのは同じです。この時の「ゆうづる」は異例のことでした。
完璧❤
録音時の失敗も多いのですが、なんとか編集いたしました。ご視聴ありがとうございます。
まだ、列車号数が下りは奇数、上りは偶数の時代ではなかったのですね。(列車番号は下りは奇数・上りは偶数みたいですね。この頃は指定席券の予約には列車番号も記入していたのかと思いますが、みどりの窓口には必ず、最新の時刻表があったと思います。)この例で言えば、ゆうづる4号は上野発・青森発があり、今では4号で有れば、上りですが、列車番号を記入で上り下りの特定となるわけですかね?
指定券の購入で列車番号を記入した記憶はありませんが、乗車、降車駅と時刻を記入したものですね。現在でも1往復しかない列車は号数が付いていませんから、上り、下りの判別ができませんね。
この当時、青森→木古内が6時間強。今は新幹線で途中減速するも50分。やはり青函トンネルの威力は絶大だ。
青函トンネルの開業で木古内から本州方面へ行くは格段に便利になったことでしょう。でも新幹線開業後、函館へ行くには少し不便になってしまったかな・・・?
近くが遠く、遠くが近くになった代表的な典型事例やろ✋
何度も函館まで行きました。はくつる利用が多かったですね。ゆうづるはちょっと憧れてました。連絡船の売店の味噌汁が楽しみだったな。売り切れも多かったけど。
連絡船の売店は便利でしたね。売店横の弁当などは早く行かないと売り切れてしまうものもありましたが、ゆっくり買うことができました。誰しも楽しみなものってあるものですね。連絡船とは関係ないですが、わたしは長万部の「かにめし」が今でも楽しみです。デパートの催しなどで扱っているかどうかはわかりませんが、現地で食べるのが楽しみです。
うわ!連絡船スタンプ!なつかし~!
この絵柄のタイプのスタンプがいつ頃まであったかわかりませんが、発掘したスタンプはほとんどがイルカのシンボルマークのものでした。
速くて快適な現代の新幹線は素晴らしいと思う。だが、時間を費やして行くからこそあじわえる「旅情」を感じることは難しいと思う。連絡船のあった時代の汽車旅をもっとしたかったな…。
思えば昔はどこへ行くにも遠かった気がします。連絡船を降りて函館に着いた時は「また北海道にやってきたんだ」との感慨がひとしおでした。
二戸(岩手県)の駅名がまだ北福岡時代ですね。また、野辺地は通過なんだ…。そして青森では青函連絡船と函館からの乗り継ぎもアナウンスしていただいてたのですね。
青森到着前の放送を聞くと「さあこれから北海道へ渡るんだ」という気分になったものでした、
当時寝台特急に乗れるだけの資金は無かったので何時も行きは夜行急行八甲田帰りは八甲田が8割十和田が2割で乗車してました。青函連絡船往復とも必ず海峡ラーメン🍜🍥を食べたものです、定番で連絡走りも良き日の思い出🤗 もし今でも有ったら是が非でも一番に乗りに行ったことでしょう。
わたしにとっても寝台特急は異例のことで、この頃は急行の自由席ばかりした。ずっと後になって、往復に寝台にも乗れるトクトクきっぷが発売されてからは利用するようになりました。
懐かしいです😌
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
7:52の連絡船のりばの案内板が懐かしい。青森1桟橋長くてイヤだったなぁ。
投稿お待ちしてしておりました北海道へ渡ると言う旅情たっぶりですね少なくてても北海道新幹線開業前までは青森、新青森で乗り換えが発生したので 若干ありましたが青森駅も改築された今ほぼ消滅した旅情ですね
この録音当時は青函トンネルすら、まだ遠い未来のことと思っていましたが、やがて在来線列車が海を越えて走り、そして今では新幹線。その新幹線も近いうちに札幌まで延びるとは・・・時代の流れを感じます。
いちばん驚いたのが、青森から山形まで10時間かけて走る普通列車の存在
444レか。アレが実は嘗ての上野行き420レの末裔だったとは思うまい
山形行き普通列車、乗ってみたくなりますね。でも目的地は北海道。東北周遊券を使ってまた別の機会に・・・なんて思っているうちに実現しませんでした。
山形行普通列車は442列車で昭和55年頃まで走っていました。青森発が午前10時20分頃で山形到着は午後10時半頃だった記憶があります。山形県と青森県は同じ東北と言っても直接的なつながりはなかったのですが、意外と直通列車は設定されていて急行こまくさ号(1978年-1982年)特急つばさ号(1985年-1986年)が山形駅と青森駅を結んでいました。
因みに昔の青函連絡船、便によっては船の斜め後ろを貨物便が並走するのを眺めることができました。
こんにちわ。お久しぶりです。お元気ですか?ゆうづる号何回か乗車しました一度だけ中段に乗りましたが全然寝れなかったです。それ以外は下段にしました後は東北本線経由のはくつるを使いました。今は夜行寝台も無くなりましたね(๑´•.̫ • `๑)連絡船も良く利用しました。修学旅行も連絡船でしたね😊これから暑い日が続きます体調気をつけてお過ごし下さいね。何時も素敵な投稿ありがとうm(_ _)mございます
お久しぶりです。体調を崩されたのかと心配しておりましたが、コメントを頂戴して安心いたしました。車窓に流れる夜の景色を楽しんだり、寝たりするには電車寝台の下段がいいですが、録音のためスピーカーに近い上段に乗りました。間もなく梅雨ですが、豪雨や強風ではなく、しとしと降る雨は嫌いではありません。花粉が少なくなって助かっています。梅雨が終わればまた猛暑ですね。お互いに気を付けていきましょう。
@@kyuukou-souya さん。おはようございます😀御心配頂きありがとうm(_ _)mございます。少し体調悪かったです😭北海道今日からよさこい祭りが始まります。宗谷さんも体調気をつけてお過ごし下さいこれからも宜しくお願い致します🙇
秋田方面仙台行き。乗りたいですねwこの当時時刻やと、ゆうづる4号から十和田丸乗り換えだと根室とか稚内だと2日掛かりそう
この乗り継ぎで根室、稚内を目指す人は少数派だったとは思いますが・・・
地図にあった八戸空港、三沢の代替として利用されていたことがあったこと知りました。そういえばそのころ、札幌に行くにはみさわまで飛行機で行き、その後鉄道と船で行くのが一番安いと言う地理学の講師の話を思い出した。でも船はもしかしたら野辺地からだったかもしれない。
スリとかはこの時代からあったのですね。伝統の寝台列車ゆうずるか修学旅行で乗ったのが初ですね。寝タバコなしは当然ですね。朝の八戸とかの乗り換え案内味がありますね。車内販売か知りませんでした。
スリは昔の方が多かったと何かで読んだ記憶があります。日本も貧しかった時代には時計やカメラなど何でも被害にあったそうですね。
スリは大昔から、有った
ゆうづる5号だったかのホームや車内で録音したLPレコード持ってたな。実家にまだあると思う。
多分同じものだと思いますが、友人が購入したものを聞かせてもらったことがあります。
連絡船の船内でも急行券が売っていたのですね。あと、船で電報を打てる仕組みはどういうシステムだったのでしょうか?
船舶電話を使用して電報を打つことが出来ました。
電報に関しては、上り便の「松前丸」の放送を公開した際、その方面に詳しい方からコメントを頂戴しておりますので参考にして頂ければと思います。
国鉄時代は硬券の常備券で、民営化以降は補充券の手書きで急行券を案内所窓口で売っていました。連絡船発行の切符は全て船舶名が入っていました。
仙台駅が二重線なので宮城野貨物経由ですか。新幹線工事で迂回してた時代ですね
そんな時代もありましたね。もう遠い昔のことになってしまいました。
北福岡駅は現在の二戸駅ですね。
二戸の方が味があっていいですね。北福岡駅も日本鉄道として開業した時は「福岡駅」だったそうですね。
見た時「あれ?4号なのに青森行き?」と思いましたが、あずさ2号が発表される頃かそれより前の、上下線どちらにも1号、2号、3号、……と付されていた時代ですね( ´_ゝ`) まだ電車特急ではなくブルートレイン(寝台客車)のゆうづるだったのかな?(ハイケンスのセレナーデも流れてるし)特急→特別急行 (わかる)急行→普通急行 (??? 紛らわしいわ●カモーン😱)
電車式と客車式、どちらもありました。
朝ごはん用の駅弁を売ってたのですね。
わたしも記憶がありませんでしたが、テープを再生して「車内販売があったんだ」と気が付きました。
北福岡っていうのが懐かしい。素晴らしい
勿論、録音した時は駅名が変わろうとは思いませんでしたが・・・
上野鈴本演芸場で落語見た後、ケンタッキーを買い込んで電車寝台の下段に乗るのが当時のオレ。
もし国鉄に就職したらやはり夜行や寝台特急の車掌さんになっていた?車掌さん格好良い仕事ですね。
熟練の車掌さんは貫禄がありました。でも乗客からの無理難題にも対応しなければならず、大変だったことと思います。
カセットテープ録音とのことですが、機材は何だったのでしょうか。ウォークマン発売の二年前ですからその前身となったプレスマン(ソニーのモノラルテープレコーダー)あたりでしょうか……?
青森出港時の銅鑼の音→長声一発→蛍の光→船内放送の一連の流れを期待してたんですが…。あれは昭和史の名シーンです!
期待外れですみません。素人の録音ではこれが限界でした。
仙台通らないことになってるのは新幹線工事の関係で宮城野貨物線経由してた頃かな。
そんな時代もありましたね。新幹線も仙台駅の前後で急カーブしてまで在来線駅に乗り入れて良かったと思います。
夜行急行は長町駅に臨時停車して代行バスで乗客を仙台駅に送っていました。深夜帯でも仙台駅で乗り降りがあった時代でしたから…
確かゆうずるは客車寝台と583系の電車寝台がありましたね 毎晩7往復の列車が常磐線だけで走っていたなんて信じれない
全国的に見ても夜行列車が華やかな時代でしたね。新幹線は東京~博多間だけですし、夜行バスも少なかったですからね。
北福岡駅は今の二戸駅?時刻表見ると下りでも2号あるから1970年代だね。あずさ2号が松本行きだった時代。
車掌さんの肉声は安心感があるな。外国人からすれば現代の「~lady's and gentlemen」の方が良いだろうけど。
この当時は外国人旅行客も少なかったですね。JR北海道の特急で初めて英語の自動放送を聞いた時「列車も飛行機並みか・・・時代は変わった・・・」と思ったものでした。
こんにちは。「上野駅」からですか!何か新鮮です。常磐線経由で青森駅は行ったことがありません。奥羽本線、東北本線が多かったです。乗車券が懐かしい。みどりの窓口での発券。プリンターもワイヤードットで当時は凄いと思いました。「国鉄」のプリントがいいですね。「水戸」の次は「一ノ関」までロングランですね。さすが特急、急行は夜中でも停車駅ありましたね。案内放送が鮮明で、旅に出ているようです。なぜ、常磐線経由を選択されたのでしょうか?教えて頂けると幸いです。カラオケの曲順、笑ってしまいました。ナイスですね。いつも、ありがとうございます。楽しめました。
連絡船の上り便は「松前丸」で取り上げましたので、今度は下り便をと思いました。最初は「ゆうづる」の青森到着前放送から始めるつもりで編集しましたが、車内販売の放送も入れたい、「北福岡」も捨てがたい・・・などで、結局上野からになってしまいました。全体に長くなり過ぎないよう、できる限り短めにまとめたつもりです。特に意識して常磐線経由を選択したわけではありませんが、東北本線経由の「はくつる」は人気列車で混みそうですし、青森で連絡船に待ち時間が多い列車の方が少しでも空いているかと・・・電車よりは客車、録音するなら上段・・・そんな思惑だったと思います。
@@kyuukou-souya 急行宗谷様 ご回答ありがとうございました。なるほど、という感じです。色々と入れたくなる気持ちよくわかります。次回も楽しみにしております。 オロロンライン
ゆうづるは2度ほど乗りましたが、運転停車というシステムを知らなかったので、水戸から一ノ関までノンストップかと思いました。実際は常磐線内だけでも、平、相馬、原ノ町と結構停車したので、ちょっとがっかりしました(笑)。
そうですよね。運転停車なんて一般的には知られていなかったですね。昔、東海道本線の夜行が深夜の大阪駅を通過扱いにする・・・という記事が新聞に載った記憶があります。
青函連絡船=行商のオバサンのイメージが..。(荷物をいっぱい抱えてた。)
思えば昔は乗客が多く、みな荷物も多かったものですね。
13:05もうこのころから結構列車本数少ないのね。知らなかった。
この便から北斗に乗り継いでも、札幌から道東、道北へ行くには夜行になってしまいますからね・・・
6:35 普通列車から連絡船に乗る時は、乗船名簿の紙を車掌さんからもらったっけ、もうすっかり忘れてしまった💦(37年前)記入用に鉛筆を持ってた覚えがあります。
初めての渡道で乗船名簿を受け取った時は「海を渡るんだ」という緊張感のようなものを感じたものでした。
連絡船に乗った事は無いが、青森到着前に乗船名簿を記入するのが、北海道へ行く為の旅情を誘うと、鉄道ルポライターは誰もが言っている。😊
東京から北海道まで、目的はそれぞれあれど、移動するには時間もお金もかかった時代。今では下手すれば、5000円でしかも短時間で成田からLCCで移動できてしまう。誰もこんな時代が来るなんて、想像できなかったよなぁ。。。
上野から青森に向かうのに「4号」ってことはいわゆる「53·10」以前の列車ですね。※53·10以後は下りが奇数上りが偶数になるため当該列車は「ゆうづる7号」に変更された。
連絡船待合室に、婦人待合室が有ったのですね。
船酔いなどで気分が悪くなった方が下船後にも利用できるように・・・そんな配慮もあったのかなと思います。
このゆうづるは客車の寝台車ですね。ゆうづるは583系の寝台のイメージがあったんでずが。
人それぞれ描いているイメージはいろいろですね。このスライドショーから何か再発見があれば嬉しいです。
3:47吉田屋!いわしの蒲焼き弁当旨かったのに、イワシが不漁で消えたんだっけ
9:51 ここに出る青森発山形行き普通列車も相当のロングラン…
長距離の客車鈍行、乗ってみたかったです。でも終盤は夜になって景色が見えず退屈してしまいそう。
みゆきさんの「ホームにて」のモデルは8205レ「十和田53号」だと思う
駅のイメージは東京にも近い北関東あたりのこじんまりした駅を想い浮かべていました。
最近はドライブ時だけでなく、オヤスミ前の睡眠導入BGMにもしております。旅する夢が見られそうです。
就寝前に聞くにはちょっとやかましいかな・・・と思いますが、有難うございます。
この頃になると、仙台駅でも深夜になるから営業停車はしなかった様です。A寝台車には乗った経験無し。朝の車販があるんだ!
新幹線工事のため一部の夜行列車が貨物線を通り、仙台駅を通らなかったというのも、もう遠い昔のことになってしまいましたね。わたしもA寝台に乗ったことはありません。北斗星のB個室でも、この上もない贅沢な気分になったものでした。
常磐線経由のゆうづるより東北線の由緒正しき偽りなしのはくつるこそ思いつくが、津軽海峡線の青函トンネルを介し北斗星のデビューで凋落に陥りそれ以前にも運賃値上げで旅客需要層ら減少に辿ったけどナ✋💦🔵🚃
この時代乗船名簿に氏名を書く…おれ死んだらニュースで氏名が字幕に出るのかなんて妄想してた。
青函トンネルが作られなかったら、今でも夜行が走っていそうだね
青函トンネルに新幹線が通るようになっても、本州と北海道を結ぶ夜行ぐらいは残ってほしかったです。
青森から山形まで各停で9時間半弱┉あまり座りっぱなしか┉キツイw
下校、帰宅時間以外は前の座席に足を伸ばして座れたことと思いますが、終盤は夜になってしまいさびしい汽車旅ですね。
北福岡というとED75-1003を思い出す
茨城と北東北が一本の列車、一本のレールで繋がっていた古き良き時代。今はすべて東京をハブ化した参勤交代式の貧弱な交通網しかない。中央集権統制国家が80年代以降急速に進んだ。地方と地方を一本で繋ぐのは飛行機や高速鉄道では土台無理な話。これでは一極集中と地方の復権なんで無理な話。地方と地方を直接繋いで初めて地方の自立と地方の新しい需要は芽吹く。
北福岡駅の映像あります。
チャンネルを訪問して拝見させて頂きました。
@@kyuukou-souya 北福岡駅→チャンネルを覗いて頂きありがとうございます。当時の(昭和60年1985)撮影機器は今で言えばBlu-rayレコーダーを肩に、もう一つはビデオカメラを手に、という感じでしょうか重かったなあ~
よく知っている停車駅名の中、北福岡って知らなかった。
二戸駅の改称前の駅名だったのか!
北福岡になるさらに前は福岡だったそうです。
ちょうど40年前の夏、大きなリュックサックに寝袋を入れて、周遊券を握りしめ上野から八甲田で出発し連絡船で渡道しました。その時の感動は忘れていませんがこの素晴らしい録音をきいて、あの時の情景を鮮やかに思い出しております
現在は携帯を使ってネット等で指定券の予約もできるし、全国に新幹線ができて便利になった反面、先人が創ってくれた全国の鉄路が分断されていく事に寂しさや不安を感じてます。
かつては殆どの駅に駅員がいて、列車発着の時間には早朝深夜でも窓口で切符が買えて、大きな駅にいけばホーム事にキヨスクの売店があり、急行以上の列車には車内販売があり、駅弁販売駅も多かったですよね。はたして現代の鉄道はこの頃に比べて本当に良くなっているのでしょうかね。
周遊券、急行列車、青函連絡船、どれも無くなってから久しくなってしまいました。
当時は新聞で国鉄叩きの記事も多かったですが、鉄道もまだ全国ネットで元気でした。
そんな遠い昔を思い出して頂けましたら嬉しいです。
昔の丁寧な車掌さんの案内が素晴らしい。
今じゃ当然あり得なんだが、この時代の旅情感を思い起こさせてくれます。
有難うございます。当時の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
北福岡停車が意外です
映像の構成が素晴らしいです。放送の説明を下手に説明するよりも、映像に当時の資料を示し「これを見よ、以上」と。見事です。
11:06 乗船名簿には、赤と緑のほか、船の接続列車の指定券を持っている人向けに「赤線入り」の名簿なんてのもありました。懐かしいなあ。
「普通急行」「特別急行」という言葉遣いの何と重厚なことか。
赤い線が入った乗船名簿は知りませんでした。閑散期に自由席ばかり乗っていたからですね。
特別急行と言う響きがたまりませんね。今はそのベースになる普通急行自体がほぼほぼありませんものね。やっぱり特急じゃなくて、特別急行と言う方が良いですね。自分は。貴重な音源、有難うございます。
当時の周遊券利用では急行の自由席が主体でしたので、別途特急券を購入して乗る特急は正に特別な列車でした。
当時の列車内、駅の放送を録音して残してあるということ、当時の時刻表を残してあることが凄いと思います。
自分はまったくそのようなこと思いつきもしませんでした。
録音も時刻表も単に鉄道好きのコレクションでしたが、タイムカプセルのように埋もれていたものを掘り起こし、パソコンでスライドショーを作って多くの方にご視聴頂けるなんて、考えられませんでした。文明の利器ですね。
今は何かと気忙しい世の中ですが、青森駅のなんともゆったりとした案内放送を聞いていると、ああ旅をしてるんだなあとしみじみ実感します。
こんな感じの放送を聞きながら、青森駅の長いホームを歩いたことももう遠い昔のことになってしまいました。
コスパ厨が無駄に喚くからね()
道内路線の動画がほとんどだったので、ゆうづる号の放送は新鮮に感じます。
この頃は20系客車から24系客車に切り替わった頃なんですね。
「北福岡」と出たので「ん?東北なのに北福岡?」って思って調べたら、今の
二戸駅の事だったんですね。勉強になりました。
当時は「二戸」に改称されることなど知る由もありませんでしたが、とにかく何でも録っておくものですね。
大宮生まれなので、北国へ行き交う列車群を見送っていました。時刻表の中で旅をしていたので懐かしいです。連絡船には1M~1便で一回だけです。1便は、はつかりより先に着いているみちのくと白鳥からの客でいっぱいでしたが、なんとか寝る場所を確保しました。
連絡船は、陸奥湾内は穏やかでしたが、津軽海峡部分になるととんでもなく揺れて目が覚め以後眠れませんでした。でも、周りの人は平然と寝ていました。12:33から天候の案内があり、「この船も海峡に出ますと~揺れる~ごゆっくりお休み下さい」ってアナウンスしていたのですね。
結局国鉄時代の北海道行きはその一回で、当時を思い出すきっかけをありがとうございました。
思い出の投稿を有難うございます。音声を聴いて旅の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
青函連絡船は混雑の上に揺れて、大変だったでしょうが、印象深い旅になったことと思います。
この頃は4時間近い船旅がやや退屈に感じ、「青函トンネル、早くできないかな・・・」などと思ったものでしたが、後になって振り返ると味わい深いものだったなと感じます。
物凄いアーカイブですね
旅ができます
当時の旅が
有難うございます。昔の旅の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
40年以上前の録音に多くの反響があり、不思議な感じさえしております。
懐かしいですね。😂大学生時代に2回東京から北海道へ旅行しました。ユース全盛で北海道時刻表を買って一人で回りましたが、当時利用した夜行急行や青函連絡船、北海道内のローカル線が廃線や廃止で老人になった今は青春時代の思い出として良かったです。
わたくしもすでに老人の域ですが、YHを使って旅をしていた頃が懐かしいです。
年齢と共にYHからビジネスホテルへと変わっていきました。淋しさを感じつつも、YHがない街の駅近くに泊まり、始発列車に乗るという選択もできるようになりました。
あおもり〜ぃ。
あおもり〜ぃ。
駅の放送も実に味わいがあっていいですね。
旅をしているんだなぁ〜って実感。
勿論、ゆうづるの車掌さんの車内放送も旅情を誘います。
昭和の時代。
古き佳き国鉄時代。
懐かしい
有難うございます。遠い昔の列車の旅の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
去年、内地から北海道に列車乗り継ぎで渡りました。
その時の青森駅は閑散とし、 ほかに人影もまばらでした。
乗り継ぎ案内もありません。
連絡船当時の駅の賑わいは隔世の感です。
津軽なまりの放送は長旅の疲れを癒やし、これから海峡を渡る期待と緊張感をかき立てます。
貴重な記録ありがとうございます。
思えば青森駅もすっかりご無沙汰しています。下車して町の中を歩き宿泊したのは、青い森鉄道になる少し前でしたから随分前のことになります。今では駅舎も建て替えられ、すっかり変わってしまったことでしょう。
かつては連絡船や長距離列車が発着していた青森駅。あの頃は情緒たっぷりでしたね。
今はなき旅情溢れ、渡道する期待感が車掌さんのアナウンスから聞き取れてきて懐かしいです。
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。それにしても東北の夜行列車がなくなろうとは思いませんでした。青函トンネルを通る夜行列車ぐらいは残ってほしかったですね。
今回もありがとうございます。
本州から北海道というのは、このころホントに遠いところだったんですよねぇ…。札幌まで丸一日。
功罪はともかく、新幹線や航空機の速さというものを噛みしめざるを得ません。
そして「ゆうづる」号の本数、函館で待ち受ける優等列車の本数、
意外なところでは青森からの「みずうみ」号の本数の多さにも、時代を感じます。
東北新幹線も青函トンネルもない時代、在来線と連絡船を乗り継いで行く北海道は遠い所でした。
この当時は飛行機の割引運賃が現在ほど充実しておらず、庶民的とは言い難い時代で、まだまだ鉄道で北海道へ行く人も多かったですね。
とても貴重な音源ですね🎧
今は亡き松前線を含む江差線の時刻表もじわーーっと来ます😂
楽しませてくれてありがとうございました🙏
有難うございます。楽しんで頂けましたら何よりです。廃止になってしまった路線も多いですね。
「♬上野発の夜行列車降りたときから~」
某歌謡曲が思い浮かぶ、アップですね!☺️
続けて「はるばる来たぜ函館~」とカラオケで唄ったことがあります。
よく残してくれて、当時の空気感を伝える非常に価値の高い資料です
有難うございます。まだ東北新幹線がなく、在来線が頑張っていた時代も遠い昔になってしまいました。
私は常磐線の日立駅に幼稚園~小学校位だっかな…にゆうづる案内番を日立駅ホームにて見た程度の年代ですが…とても懐かしく思いました…貴重な音源本当に有り難うございます。
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。鉄道好きな子供にとって、沿線を通る優等列車は憧れですね。
わたしは西鹿児島行の急行、特急に憧れを感じたものでした。一人旅をするようになってからは、九州よりも北海道になりましたが・・・
懐かしい思い出。私が学生時代よく寝台列車を利用しました。そしてください青森駅に到着して、早く連絡船に乗りたくて走ってよく乗船したものです。幕の内弁当🍱購入して食べました。いやーこの車内放送いいですね!とにかく懐かしいです。昔の汽車はいいですね。
もうこういう汽車旅はできなくなってしまったのですね。時代は変わってしまいました。
青森駅の長いホームを急ぎ足で連絡船に乗り換えた記憶は多くの方がお持ちだと思います。
遠い昔の旅を懐かしく思い出して頂けましたら嬉しいです。
@@kyuukou-souya ありがとう御座います。又の配信楽しみにしております。
青森駅ホーム、桟橋の状況が目に浮かんで胸が熱くなります。
十和田の時刻表で当時仙台駅が新幹線ホームの工事で宮城野貨物線回りになってたのが懐かしすぎです。
青森駅で長いホームを歩いて連絡船に乗り換えたこと。新幹線を通すための工事をしていた仙台駅。どれも遠い昔のことになってしまいましたね。
15Mゆうづるー5便ー103列車ニセコー301列車利尻で稚内まで。津軽海峡では左舷側でイルカと競争するシーンが観られました。昭和47年7月、みどりの窓口で徹夜して並んだ特別急行券+寝台券+乗継急行指定席券、当時はプラチナチケットでした。
青函連絡船の旅客輸送のピークがが1973年(昭和48年)だったそうですから、旅行シーズンには指定券も入手困難だったことでしょうね。
確か当時の特急「ゆうづる」は唯一3段ハネの24系24形が使用されたレアな列車でしたね。て言うかこのチャンネルで内地の列車が取り上げられるのもかなりレアですね。今後も楽しみにしております...
@@channelsada3849ED76って、、、どこ走ってんねん、、常磐線はハチマルの縄張りやろが
誰も指摘せえへんっちゅうのも呆れるわ
3段ハネの24系24形は583系よりは乗り心地が良かったですよ。通路側にある折り畳み椅子に座って、景色を楽しめる客車特急は素晴らしいものでした。
人気にて増発を営業には審査にて黒字列車創作に四十万人よりファン様には、機関車型車両連結を定期型?寝台列車増設は団体型車両連結を製造に専門型?似た機関車型。
貴重な録音をありがとうございます。
こちらこそご視聴とコメントを有難うございます。
上野発車時から北国へ足を踏み入れる期待感と不安感の交錯した独特の雰囲気が出ており、かつての記憶が思い出されます。
それにしても、ゆうづるの全盛期はもう遠い過去のもの。車内放送のハイケンスも車内販売も乗船名簿の案内もこうした記録でしか聞けなくなってしまった。
そして、青森の青函連絡の案内も津軽なまりがかすかに残り長旅の実感をかきたてます。
そして飛行機移動で失ったゆったりした時間の感覚と異国情緒に浸れました。
有難うございます。青森駅ホームの案内も捨てがたく、「ゆうづる」の上野から青函連絡船函館までを一本にまとめてみました。当時の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
人気にて増発を営業には審査にて黒字列車創作に四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車両連結を製造に専門型?似た機関車型。
釧路民なので7便系統はあまり縁がなかったですね。
十和田丸は青函連絡船最終便(青函博を除く)の函館行きで乗りました。
乗船証明書をシリアル番号付きで配っていました。
船内のチャイム聞き覚えがありました。
いろいろな光景を思い出しました。
何もかも皆懐かしい。
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
確かに連絡船を降りて釧路へ向かうなら「おおぞら」が便利で、この便は利用しなかったことと思います。
当時、寝台特急に乗車する予算がなく、急行・八甲田や上野から各駅停車で北上してました。朝の常磐線上りは上野行きのゆうずるラッシュですごかった思いがあります。
北福岡駅、聞き覚えがなかったですが二戸駅の前の駅名ですね。相変わらず乗り換え時間の長さに昭和のゆったりとした時間がよみがえってきます。「千歳線まわり」の放送当時には、山線廃止を迎えようとは信じられませんね。
わたしも安上がりに急行の自由席ばかり利用しており、「ゆうづる」の寝台利用は異例でした。
夜行ばかりではなく、昼間の急行を乗り継いで行きたいとの思いは常々ありましたが、贅沢な日程を組めず実現しませんでした。
@@kyuukou-souya さん
私も、日中移動の時は、仙台〜青森間の長距離普通列車の乗り継ぎでした。
旧型客車の長い編成で車内はガラガラ、通勤通学時間帯以外は小さな駅に着くと静寂な雰囲気、贅沢な時間だったかもしれません。
貴重な録音、保管そしてUPありがとうございます
自分は常磐線沿線で育ちましたが、ようやくお金が貯まった頃には青函連絡船は廃止され「折角お金を出すなら、B個室のある北斗星だよね…」等と言っているうちに、終ぞ『ゆうづる』にも乗れませんでした。
今日は、この録音を聴きながら往年の旅の気分を味わいます。
普通急行と呼ばれていたのですね。とても新鮮です。
有難うございます。昔の雰囲気を感じ、少しでも旅の気分になって頂けましたら嬉しいです。
この当時、特急・寝台券の出費は大きかったので乗るのは急行の自由席ばかりでした。
もっと後には、寝台にも乗れるトクトクきっぷがあり、「はくつる」や「北斗星」に乗った時は嬉しかったです。
北への旅路。懐かしく視聴しました。これからも楽しみにしています
有難うございます。懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
青森到着前の乗り換え案内で「山形行き普通列車・・・」とありましたが当時はそういった長距離普通列車が当たり前にありましたし、当時は奥羽本線も秋田で分断される感じのダイヤの組まれ方ではなかったんですねぇ。
旧型客車による普通列車、地方へ行けばまだ日常的な光景でしたね。
国鉄末期には山形駅と青森駅を結んだ特急つばさ号が1往復ありました。
8:50青森到着アナウンス 9:02今回も貴重な「Discover Japan」「一枚のきっぷから」スタンプが見られてうれしいです😹 一番右の青森駅乗車船記念スタンプは9つのスクエアで珍しいタイプですね。左上みちのくが既に新幹線になってる😸 81(S56)年8月の7便に乗船していると思います。同じ十和田丸だったかもしれません。函館からは山線水害のため、室蘭本線経由になっていた「ニセコ」に乗りました。直前まで山線通らないなら「北斗」に乗るか迷ったのですけど。14:03 グリーン船室のカーペット(桟敷)室がどんな感じだったのかな? ところで北海道からの帰りではないのですが、上り「ゆうづる」に乗りそこねたことがありました。東北への修学旅行の帰りに「ゆうづる」に乗るはずだったのが、水害で車両のやりくりが出来ず運休になって、急行「八甲田」(「津軽」だったかも)の12系座席で帰ってくることになりました。
スタンプに新幹線が描かれているのは「東北にも早く新幹線を」という思いなのでしょうね。
「ゆうづる」の予定が急遽12系座席車とは・・・当時としてはがっかりしたことでしょう。
わたしの中学の修学旅行では、片道は急行電車で車中泊が当たり前の時代でした。
綺麗な音源ですね😊
ゆうづる号の車窓さんをはじめ駅の放送
青函十和田丸⛴️の放送も味があっていいですね‼️
新幹線時代になり旅の旅情は
失くなりましたね
夜行列車から青函連絡船に乗り換える旅、歌でも歌われるように味わいがありました。
もう遠い昔のことになってしまいました。
私の初の北海道は昭和51年のお盆頃でした。確か上野21時頃の発車で自由席は満員で通路に自宅から持って行った釣り用のベンチを使い乗った記憶があります。途中から席が空いたのはラッキーでした。青函連絡船は青森到着前に車掌さんが配ってたように記憶してます。連絡船は同じ時間だったような。あの頃の記憶がよみがえりました。ありがとうございました
お盆の頃の最盛期では想像を絶する混雑だったこととお察しいたします。でも初めての北海道旅行は印象深いものになったことでしょう。音声を聴いて旅の情景を思い出して頂けましたら嬉しいです。
上り下りで号数が分かれていない時代ですね。ズラリとゆうづる号が並ぶのは壮観ですね。
ゆうづる号も東北新幹線開通で大減便になるんですね…。
東北方面への夜行列車が華やかな頃でしたね。夜の上野駅も賑やかでした。
線路容量の為最大勢力だったゆうづるも、常磐線経由だった為消えるのははくつるより早かった。
はくつるは指定券が取りにくい人気列車でしたね。でも晩年はそれほどでもなくなったようですね。
電車寝台の下段は大きな窓があって嬉しかったです。
「連絡船は前の方、お出口は後の方」覚えています、懐かしいです(^_^)
青森駅の長いホームを思い出します。情緒がありました。売店や台車による販売、品揃えも豊富でした。
すみません、売店や台車の販売を覚えていません、連絡船に乗る為にただ前進していました。いま思うと青森で途中下車など余裕があれば良かったですね。
ローカル青森発山形行き(奥羽線廻り)とかってスゴイね
急行十和田は仙台に停まらずに長町に停まってたのですね。仙台を通らないってことは貨物線経由だったのでしょうかね
当時の仙台駅は新幹線の工事中で、特に夜間に大きな作業が行われていたようなので、夜行列車は仙台駅を通さなかったのですね。
私が乗ったゆうづる号は上野駅を19字50分午後7時50分に上野駅を出る常磐線回りの寝台特別急行ゆうづる1号青森行きでした。終着駅の青森駅到着は翌日の5時08分で5時23分発の青函連絡線に15分接続して函館には8時23分着でそこから函館11時38分発の37D網走行き特急おおとり号に乗って札幌まで行きました。また、特急おおとり号を選んだ理由は食堂車🍴🚄が連結されて至って事もこの列車を選んだ理由のひとつです。また、国鉄末期はグリーン車と食堂車🍴🚄の連結位置が変わっていて先頭車キハ82型のあとに食堂車🍴🚄キシ80型が連結されていました。特急おおとり号の食堂車🍴🚄では北海定食当時のお金💰️で780円しました。北海定食はご飯の上に鮭、いくら、卵の三種類が載っていていかにも北海道を行く列車にふさわしい列車食堂のメニューとなっていました。私も北海定食をこの下り網走行き特急おおとり号の食堂車🍴🚄で食べましたが味は文句無しに大変良かったです。また、この時に乗車したのは上野駅発19時50分の寝台特別急行列車ゆうづる1号のグリーン車サロ581型と函館11時38分発の列車番号37/D の網走行き特急列車おおとり号のグリーン車に乗って札幌まで乗車しました。
旅情は勿論ですが、当時の匂い(蕎麦の香り)がしてきそうです。
今は新幹線があちこちで開業して便利になりましたが、夜汽車や駅ホームや車内のアナウンスがまた味があっていいですね。
あの頃に戻りたい…
ホームに漂う立ち食い蕎麦の匂い・・・空腹時にはたまりませんでした。
あの頃の匂いと言えば煙草の煙も思い出されます。これに関しては現代の方が快適になりました。
失った旅情は多いですが、快適になった現代の旅を楽しみたいと思います。
なつかしい、ありがとうございます
懐かしさを感じて頂けましたら何よりです。
夜行列車全盛期。今ではうらやましい限りです。青函連絡船に乗継をする乗客に乗船名簿を記入するんですね
乗船名簿を書くと「海を渡るんだな・・・」という感じがしたものでした。
万が一の場合はこれで身元がわかるのですね・・・
特別何か特徴があるわけではないけれど車掌の声質と調子が旅情を掻き立ててくれる。
この時代の優等列車の車掌の方の声は好きですね。
くだらない質問ですが連絡船では必ず乗船名簿の記載が必要ですが
筆記具って備え付けのモノがあったのでしょうか?
客がみんながみんな持ってるというものでもないでしょうし。
当時の旅行では筆記用具は必需品として持参していましたね。電話番号をメモしたり、荷物を送る際に住所を書いたりもしました。気軽にメールを送れる時代ではなく、旅先から絵葉書を書いて送ったりしたものでした。
連絡船待合室の案内所には筆記用具がありましたし、列車内では車掌さんに頼めば貸してくれたことと思います。
ゆうづる3号とは上野の発車時間が10分差しかないのに
青森到着はだいぶ遅くなることで有名でしたねえ……
電車は青函連絡船重視、客車は北東北へのアクセス重視で時間が決められたと聞きます
下りゆうづる3号は583系を使いながら座席車だったことがありましたね。寝台料金がかからないので乗ったことがありますが、快適とは言い難かったです。
懐かしい。。自分は、上り「ゆうづる」に乗ったことがあるけど、今はもう乗れないと思うと惜寂ひとしお。
青函連絡船は、確か羊蹄丸だったな。
当方、弘前在住でしたので、ゆうづるに乗る機会は最後までありませんでした。貴重な音声をありがとうございます。
このゆうづる4号は、青函連絡船まで時間があり、盛岡から青森までの間の利用が多い列車と聞いていました。
連絡船の情景も大変すばらしいのですが、気になったのは、4:00ころの路線図に、なんと八戸空港の表示があることにびっくりです。
利用したことはないのですが、現在航空自衛隊の基地になっている八戸空港にまだYS11がいたころですね。三沢空港に飛行機の離発着が戻ったのは、ベトナム戦争の終わった昭和50年だと思っていましたが、三沢空港の記載もあり、時刻表には残っていたのでしょうね。
八戸空港のことはまったく知りませんでした。TH-camをやっていると視聴者の方から様々な情報が寄せられるものですね。これも役得ですね。
「国鉄監修」の時刻表ですから、国鉄に関する部分は細部までチェックしても、民鉄や航空関連にまでは目が届かなかったのかなと思います。
寝台特急から青函連絡船に乗継ですか。
当時学生だった身には高嶺の花で、専ら急行八甲田が定番列車でした。急行十和田だと時間がかかるもので。
船内に入ると空間が広くてほっとしたものです。函館からはまた延々と急行・・。
周遊券を使って急行の自由席を愛用していたのは同じです。この時の「ゆうづる」は異例のことでした。
完璧❤
録音時の失敗も多いのですが、なんとか編集いたしました。ご視聴ありがとうございます。
まだ、列車号数が下りは奇数、上りは偶数の時代ではなかったのですね。
(列車番号は下りは奇数・上りは偶数みたいですね。この頃は指定席券の予約には
列車番号も記入していたのかと思いますが、みどりの窓口には必ず、最新の時刻表があったと思います。)
この例で言えば、ゆうづる4号は上野発・青森発があり、今では4号で有れば、上りですが、
列車番号を記入で上り下りの特定となるわけですかね?
指定券の購入で列車番号を記入した記憶はありませんが、乗車、降車駅と時刻を記入したものですね。
現在でも1往復しかない列車は号数が付いていませんから、上り、下りの判別ができませんね。
この当時、青森→木古内が6時間強。今は新幹線で途中減速するも50分。やはり青函トンネルの威力は絶大だ。
青函トンネルの開業で木古内から本州方面へ行くは格段に便利になったことでしょう。
でも新幹線開業後、函館へ行くには少し不便になってしまったかな・・・?
近くが遠く、遠くが近くになった代表的な典型事例やろ✋
何度も函館まで行きました。
はくつる利用が多かったですね。ゆうづるはちょっと憧れてました。
連絡船の売店の味噌汁が楽しみだったな。売り切れも多かったけど。
連絡船の売店は便利でしたね。売店横の弁当などは早く行かないと売り切れてしまうものもありましたが、ゆっくり買うことができました。
誰しも楽しみなものってあるものですね。連絡船とは関係ないですが、わたしは長万部の「かにめし」が今でも楽しみです。デパートの催しなどで扱っているかどうかはわかりませんが、現地で食べるのが楽しみです。
うわ!連絡船スタンプ!なつかし~!
この絵柄のタイプのスタンプがいつ頃まであったかわかりませんが、発掘したスタンプはほとんどがイルカのシンボルマークのものでした。
速くて快適な現代の新幹線は素晴らしいと思う。
だが、時間を費やして行くからこそあじわえる「旅情」を感じることは難しいと思う。
連絡船のあった時代の汽車旅をもっとしたかったな…。
思えば昔はどこへ行くにも遠かった気がします。
連絡船を降りて函館に着いた時は「また北海道にやってきたんだ」との感慨がひとしおでした。
二戸(岩手県)の駅名がまだ北福岡時代ですね。また、野辺地は通過なんだ…。
そして青森では青函連絡船と函館からの乗り継ぎもアナウンスしていただいてたのですね。
青森到着前の放送を聞くと「さあこれから北海道へ渡るんだ」という気分になったものでした、
当時寝台特急に乗れるだけの資金は無かったので何時も行きは夜行急行八甲田帰りは八甲田が8割十和田が2割で乗車してました。
青函連絡船往復とも必ず海峡ラーメン🍜🍥を食べたものです、定番で連絡走りも良き日の思い出🤗 もし今でも有ったら是が非でも一番に乗りに行ったことでしょう。
わたしにとっても寝台特急は異例のことで、この頃は急行の自由席ばかりした。
ずっと後になって、往復に寝台にも乗れるトクトクきっぷが発売されてからは利用するようになりました。
懐かしいです😌
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
7:52の連絡船のりばの案内板が懐かしい。青森1桟橋長くてイヤだったなぁ。
投稿お待ちしてしておりました
北海道へ渡ると言う旅情たっぶりですね
少なくてても北海道新幹線開業前までは
青森、新青森で乗り換えが発生したので 若干ありましたが
青森駅も改築された今
ほぼ消滅した旅情ですね
この録音当時は青函トンネルすら、まだ遠い未来のことと思っていましたが、やがて在来線列車が海を越えて走り、そして今では新幹線。その新幹線も近いうちに札幌まで延びるとは・・・時代の流れを感じます。
いちばん驚いたのが、青森から山形まで10時間かけて走る普通列車の存在
444レか。
アレが実は嘗ての上野行き420レの末裔だったとは思うまい
山形行き普通列車、乗ってみたくなりますね。でも目的地は北海道。東北周遊券を使ってまた別の機会に・・・なんて思っているうちに実現しませんでした。
山形行普通列車は442列車で昭和55年頃まで走っていました。青森発が午前10時20分頃で山形到着は午後10時半頃だった記憶があります。山形県と青森県は同じ東北と言っても直接的なつながりはなかったのですが、意外と直通列車は設定されていて急行こまくさ号(1978年-1982年)特急つばさ号(1985年-1986年)が山形駅と青森駅を結んでいました。
因みに昔の青函連絡船、便によっては船の斜め後ろを貨物便が並走するのを眺めることができました。
こんにちわ。お久しぶりです。お元気ですか?ゆうづる号何回か乗車しました
一度だけ中段に乗りましたが全然寝れなかったです。
それ以外は下段にしました
後は東北本線経由のはくつるを使いました。今は
夜行寝台も無くなりましたね(๑´•.̫ • `๑)連絡船も良く
利用しました。修学旅行
も連絡船でしたね😊
これから暑い日が続きます
体調気をつけてお過ごし下さいね。何時も素敵な
投稿ありがとうm(_ _)m
ございます
お久しぶりです。体調を崩されたのかと心配しておりましたが、コメントを頂戴して安心いたしました。
車窓に流れる夜の景色を楽しんだり、寝たりするには電車寝台の下段がいいですが、録音のためスピーカーに近い上段に乗りました。
間もなく梅雨ですが、豪雨や強風ではなく、しとしと降る雨は嫌いではありません。花粉が少なくなって助かっています。梅雨が終わればまた猛暑ですね。お互いに気を付けていきましょう。
@@kyuukou-souya さん。おはようございます😀御心配頂きありがとうm(_ _)mございます。少し
体調悪かったです😭北海道
今日からよさこい祭りが
始まります。宗谷さんも
体調気をつけてお過ごし下さい
これからも宜しくお願い致します🙇
秋田方面仙台行き。乗りたいですねw
この当時時刻やと、ゆうづる4号から十和田丸乗り換えだと根室とか稚内だと2日掛かりそう
この乗り継ぎで根室、稚内を目指す人は少数派だったとは思いますが・・・
地図にあった八戸空港、三沢の代替として利用されていたことがあったこと知りました。そういえばそのころ、札幌に行くにはみさわまで飛行機で行き、その後鉄道と船で行くのが一番安いと言う地理学の講師の話を思い出した。でも船はもしかしたら野辺地からだったかもしれない。
スリとかはこの時代からあったのですね。伝統の寝台列車ゆうずるか修学旅行で乗ったのが初ですね。寝タバコなしは当然ですね。朝の八戸とかの乗り換え案内味がありますね。車内販売か知りませんでした。
スリは昔の方が多かったと何かで読んだ記憶があります。日本も貧しかった時代には時計やカメラなど何でも被害にあったそうですね。
スリは大昔から、有った
ゆうづる5号だったかのホームや車内で録音したLPレコード持ってたな。実家にまだあると思う。
多分同じものだと思いますが、友人が購入したものを聞かせてもらったことがあります。
連絡船の船内でも急行券が売っていたのですね。あと、船で電報を打てる仕組みはどういうシステムだったのでしょうか?
船舶電話を使用して電報を打つことが出来ました。
電報に関しては、上り便の「松前丸」の放送を公開した際、その方面に詳しい方からコメントを頂戴しておりますので参考にして頂ければと思います。
国鉄時代は硬券の常備券で、民営化以降は補充券の手書きで急行券を案内所窓口で売っていました。連絡船発行の切符は全て船舶名が入っていました。
仙台駅が二重線なので宮城野貨物経由ですか。新幹線工事で迂回してた時代ですね
そんな時代もありましたね。もう遠い昔のことになってしまいました。
北福岡駅は現在の二戸駅ですね。
二戸の方が味があっていいですね。北福岡駅も日本鉄道として開業した時は「福岡駅」だったそうですね。
見た時「あれ?4号なのに青森行き?」と思いましたが、あずさ2号が発表される頃かそれより前の、上下線どちらにも1号、2号、3号、……と付されていた時代ですね( ´_ゝ`) まだ電車特急ではなくブルートレイン(寝台客車)のゆうづるだったのかな?(ハイケンスのセレナーデも流れてるし)
特急→特別急行 (わかる)
急行→普通急行 (??? 紛らわしいわ●カモーン😱)
電車式と客車式、どちらもありました。
朝ごはん用の駅弁を売ってたのですね。
わたしも記憶がありませんでしたが、テープを再生して「車内販売があったんだ」と気が付きました。
北福岡っていうのが懐かしい。素晴らしい
勿論、録音した時は駅名が変わろうとは思いませんでしたが・・・
上野鈴本演芸場で落語見た後、ケンタッキーを買い込んで電車寝台の下段に乗るのが当時のオレ。
もし国鉄に就職したらやはり夜行や寝台特急の車掌さんになっていた?車掌さん格好良い仕事ですね。
熟練の車掌さんは貫禄がありました。でも乗客からの無理難題にも対応しなければならず、大変だったことと思います。
カセットテープ録音とのことですが、機材は何だったのでしょうか。
ウォークマン発売の二年前ですからその前身となったプレスマン(ソニーのモノラルテープレコーダー)あたりでしょうか……?
青森出港時の銅鑼の音→長声一発→蛍の光→船内放送の一連の流れを期待してたんですが…。
あれは昭和史の名シーンです!
期待外れですみません。素人の録音ではこれが限界でした。
仙台通らないことになってるのは新幹線工事の関係で宮城野貨物線経由してた頃かな。
そんな時代もありましたね。新幹線も仙台駅の前後で急カーブしてまで在来線駅に乗り入れて良かったと思います。
夜行急行は長町駅に臨時停車して代行バスで乗客を仙台駅に送っていました。深夜帯でも仙台駅で乗り降りがあった時代でしたから…
確かゆうずるは客車寝台と583系の電車寝台がありましたね 毎晩7往復の列車が常磐線だけで走っていたなんて信じれない
全国的に見ても夜行列車が華やかな時代でしたね。新幹線は東京~博多間だけですし、夜行バスも少なかったですからね。
北福岡駅は今の二戸駅?時刻表見ると下りでも2号あるから1970年代だね。あずさ2号が松本行きだった時代。
車掌さんの肉声は安心感があるな。外国人からすれば現代の「~lady's and gentlemen」の方が良いだろうけど。
この当時は外国人旅行客も少なかったですね。
JR北海道の特急で初めて英語の自動放送を聞いた時「列車も飛行機並みか・・・時代は変わった・・・」と思ったものでした。
こんにちは。
「上野駅」からですか!何か新鮮です。常磐線経由で青森駅は
行ったことがありません。奥羽本線、東北本線が多かったです。
乗車券が懐かしい。みどりの窓口での発券。プリンターもワイヤードットで
当時は凄いと思いました。「国鉄」のプリントがいいですね。
「水戸」の次は「一ノ関」までロングランですね。さすが特急、急行は
夜中でも停車駅ありましたね。案内放送が鮮明で、旅に出ているようです。
なぜ、常磐線経由を選択されたのでしょうか?教えて頂けると幸いです。
カラオケの曲順、笑ってしまいました。ナイスですね。
いつも、ありがとうございます。楽しめました。
連絡船の上り便は「松前丸」で取り上げましたので、今度は下り便をと思いました。最初は「ゆうづる」の青森到着前放送から始めるつもりで編集しましたが、車内販売の放送も入れたい、「北福岡」も捨てがたい・・・などで、結局上野からになってしまいました。全体に長くなり過ぎないよう、できる限り短めにまとめたつもりです。
特に意識して常磐線経由を選択したわけではありませんが、東北本線経由の「はくつる」は人気列車で混みそうですし、青森で連絡船に待ち時間が多い列車の方が少しでも空いているかと・・・電車よりは客車、録音するなら上段・・・そんな思惑だったと思います。
@@kyuukou-souya 急行宗谷様 ご回答ありがとうございました。なるほど、という感じです。
色々と入れたくなる気持ちよくわかります。次回も楽しみにしております。
オロロンライン
ゆうづるは2度ほど乗りましたが、運転停車というシステムを
知らなかったので、水戸から一ノ関までノンストップかと思いました。
実際は常磐線内だけでも、平、相馬、原ノ町と結構停車したので、ちょっと
がっかりしました(笑)。
そうですよね。運転停車なんて一般的には知られていなかったですね。
昔、東海道本線の夜行が深夜の大阪駅を通過扱いにする・・・という記事が新聞に載った記憶があります。
青函連絡船=行商のオバサンのイメージが..。
(荷物をいっぱい抱えてた。)
思えば昔は乗客が多く、みな荷物も多かったものですね。
13:05
もうこのころから
結構列車本数少ないのね。知らなかった。
この便から北斗に乗り継いでも、札幌から道東、道北へ行くには夜行になってしまいますからね・・・
6:35 普通列車から連絡船に乗る時は、乗船名簿の紙を車掌さんからもらったっけ、もうすっかり忘れてしまった💦(37年前)
記入用に鉛筆を持ってた覚えがあります。
初めての渡道で乗船名簿を受け取った時は「海を渡るんだ」という緊張感のようなものを感じたものでした。
連絡船に乗った事は無いが、青森到着前に乗船名簿を記入するのが、北海道へ行く為の旅情を誘うと、鉄道ルポライターは誰もが言っている。😊
東京から北海道まで、目的はそれぞれあれど、移動するには時間もお金もかかった時代。今では下手すれば、5000円でしかも短時間で成田からLCCで移動できてしまう。誰もこんな時代が来るなんて、想像できなかったよなぁ。。。
上野から青森に向かうのに「4号」ってことはいわゆる「53·10」以前の列車ですね。※53·10以後は下りが奇数上りが偶数になるため当該列車は「ゆうづる7号」に変更された。
連絡船待合室に、婦人待合室が有ったのですね。
船酔いなどで気分が悪くなった方が下船後にも利用できるように・・・そんな配慮もあったのかなと思います。
このゆうづるは客車の寝台車ですね。ゆうづるは583系の寝台のイメージがあったんでずが。
人それぞれ描いているイメージはいろいろですね。このスライドショーから何か再発見があれば嬉しいです。
3:47
吉田屋!
いわしの蒲焼き弁当旨かったのに、イワシが不漁で消えたんだっけ
9:51 ここに出る青森発山形行き普通列車も相当のロングラン…
長距離の客車鈍行、乗ってみたかったです。でも終盤は夜になって景色が見えず退屈してしまいそう。
みゆきさんの「ホームにて」のモデルは8205レ「十和田53号」だと思う
駅のイメージは東京にも近い北関東あたりのこじんまりした駅を想い浮かべていました。
最近はドライブ時だけでなく、オヤスミ前の睡眠導入BGMにもしております。旅する夢が見られそうです。
就寝前に聞くにはちょっとやかましいかな・・・と思いますが、有難うございます。
この頃になると、仙台駅でも深夜になるから営業停車はしなかった様です。
A寝台車には乗った経験無し。
朝の車販があるんだ!
新幹線工事のため一部の夜行列車が貨物線を通り、仙台駅を通らなかったというのも、もう遠い昔のことになってしまいましたね。
わたしもA寝台に乗ったことはありません。北斗星のB個室でも、この上もない贅沢な気分になったものでした。
常磐線経由のゆうづるより東北線の由緒正しき偽りなしのはくつるこそ思いつくが、津軽海峡線の青函トンネルを介し北斗星のデビューで凋落に陥りそれ以前にも運賃値上げで旅客需要層ら減少に辿ったけどナ✋💦🔵🚃
この時代乗船名簿に氏名を書く…
おれ死んだらニュースで氏名が
字幕に出るのかなんて
妄想してた。
青函トンネルが作られなかったら、今でも夜行が走っていそうだね
青函トンネルに新幹線が通るようになっても、本州と北海道を結ぶ夜行ぐらいは残ってほしかったです。
青森から山形まで各停で9時間半弱┉あまり座りっぱなしか┉キツイw
下校、帰宅時間以外は前の座席に足を伸ばして座れたことと思いますが、終盤は夜になってしまいさびしい汽車旅ですね。
北福岡というとED75-1003を思い出す
茨城と北東北が一本の列車、一本のレールで繋がっていた古き良き時代。
今はすべて東京をハブ化した参勤交代式の貧弱な交通網しかない。
中央集権統制国家が80年代以降急速に進んだ。
地方と地方を一本で繋ぐのは飛行機や高速鉄道では土台無理な話。
これでは一極集中と地方の復権なんで無理な話。
地方と地方を直接繋いで初めて地方の自立と地方の新しい需要は芽吹く。
北福岡駅の映像あります。
チャンネルを訪問して拝見させて頂きました。
@@kyuukou-souya
北福岡駅→チャンネルを覗いて頂きありがとうございます。
当時の(昭和60年1985)撮影機器は今で言えばBlu-rayレコーダー
を肩に、もう一つはビデオカメラを手に、という感じでしょうか
重かったなあ~
よく知っている停車駅名の中、北福岡って知らなかった。
二戸駅の改称前の駅名だったのか!
北福岡になるさらに前は福岡だったそうです。