ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
被写体を8mmで撮影・残ってるだけでも貴重だろうに「音も要るだろ」って同時録音してんの凄い。撮影者本人が後で合わせるつもりだったのか?
撮影者のT.T.さんからのコメントです。私が国鉄職員でありましたので、撮影に訪れた際には、同じ国鉄職員の皆様に親切にしていただいた事が思い出されました。「消えていくものを残したい」と行動したことであり、たまたま、一般の人がやりにくい事が出来ただけではないかと思いました。
20年前に他界した祖父に見せたら、きっと涙を流していたであろう。祖父は当時の函館ドックの下請けの会社で連絡船の修繕一筋に生きてきた。
平成生まれですが、連絡船のファンです。この船ような好きです。
昭和40年頃。未就学時代に初めて乗った連絡船の煙突に「エ」が描かれた記憶が鮮明に残っています。その後青森から乗った列車が、ディーゼル機関車とタンク機関車のプッシュプルだったのもありますね~ 素晴らしい映像記録ですね。
これはすごい! この時代の船が動いているところが動画で、しかもカラーで見れるとは思いもしませんでした。しかも音付き。しかも一般の人が立ち入れない作業区域まで撮影されている。当時の日常がまざまざと伝わってきます。
どんなに画質、音質が悪くても、当時の連絡船の様子がわかる。貴重な記録だ。
国鉄青函航路は私が中学1年生だった昭和63年に廃止になりました。その頃乗り物好きの友達の会話で必ず青函航路廃止の話題が上っており、たまたま本屋で見かけた坂本幸四郎さんが書かれた「青函連絡船物語」を読んで、「青函連絡船に乗りたかったなあ」と思う様になりました。たしかその年の夏休みと思いますが、青函航路の復活運行があり、私は母にせがんで青函連絡船に乗りに行きたい、今を逃せばもう金輪際乗ることは出来ないからと必死にお願いしましたが、母は乗りに連れて行ってくれませんでした。今でもこれだけは恨んでいます。
私の父がこの船の船員でした。函館の実家には当時の写真があります。兄二人は父に連れられて船内見学させてもらったそうです。洞爺丸台風の時に、七重浜に座礁転覆しましたが、父は非番で乗船しておらず、非常招集で浜に集結して、洞爺丸の乗船客の遺体回収をしたそうです。映像で見られてうれしいです。
私の父は当時、七重浜の国鉄官舎に住んでおり、翌早朝、浜へ行き洞爺丸の無残な姿と海岸に流れ着いた遺体を目にし、恐怖におののいたと話ていました。連絡船の機関士だった叔父は当日、予備で船を降りていて難を逃れました。
私の祖父がこの船の船員で通信長をしていたと聞いております。15号台風で祖父が殉職した時に母は中学生でして私は生まれておりませんでした。十勝丸が引き揚げられて再就航していたのは退役後に聞いた話で、船影をはじめて見ることが出来ました。ありがとうございます。
私の両親が集団就職で十勝の音更から上京、帰省の時の乗った列車、連絡船の話しをいつも懐かしそうに話していました。貴重な映像ありがとうございます。
国鉄一家ならではの一品です。ウチも国鉄一家の一員でしたので。貴重な記録に感謝です
素晴らしい。感動しました。きれいなカラーに映し出される煙、赤錆、曇天の空。連絡船の郷愁がでまくってますね。本当に感謝!
音入りなのは大変珍しいです。昭和30年代後半学生だった父いわく、ディーゼル船はカンカン下からうるさかったけど、蒸汽船は静かで快適だったそうです。もっとも、父は機関に近い3等船室でなく、冬でもすぐに海に飛び込めるデッキで震えていたそうですが(苦笑)。
懐かしいです。十勝丸ではありませんが、第七青函丸です。高校の修学旅行で貸切でしたので、船員さんに下層のボイラー室などを案内してくれました。
昭和の思い出ありがとうございます、何度も視聴しています。十勝いいですね
洞爺丸沈没事故の年には12歳で函館に住んでました、青函連絡船を毎日見ていたのでとても懐かしい。貴重な記録をありがとうございます。
貴重な映像ですね。青函連絡船は私の祖父や父がよく利用してました。ちなみに祖父の兄は洞爺丸台風で乗船した船が沈み亡くなりました。
1954年9月26日、台風15号(洞爺丸台風)で沈んだ5隻のうちの1隻。翌年に引き揚げられた時には車両甲板より上の部分が押し潰されて完全に失われていましたが、日高丸と共に修理されて復帰を果たしました。
運よくって言ったら叱られるかもしれませんが、洞爺丸台風で沈んだ5隻の連絡船が全隻廃船にならずに生き延びられたのが奇跡ですよねまあ、W型戦時標準船の第十一青函丸は破断していたという事情もあって廃船になったのは致し方ないにしても、洞爺丸と北見丸が復活していたらどんな展開になってたんでしょうかね?
7:53 サイドスラスターが無い船が離岸するときは沖合寄りに投錨しておいた錨を巻きあげて離岸する。と何処か知ったのですが、実際に映像で見たのは初めてかもしれないですね…
初めて青函連絡船に乗ったのは2歳の時だったと思います。丸い窓に波が砕けていました。次に乗ったのは、初代「十和田丸」、そう「洞爺丸」の代船でしたが既にディーゼルでした。蒸気の青函連絡船に乗ってみたいというのは、無理でしょうね。
初めて スチーマーの青函連絡船の航走る姿を拝見しました。スタンバイからアンカーアップで行き足を付ける姿に感動しました。子供の頃、連絡船の船員さんから「船乗りのマナー」を教えられて以来連絡船の船員を夢見つつも、就職年齢時、連絡船は歴史に姿を変え、その夢の達成できなかった私に取っては感謝の一言です。ありがとうございます。
素晴らしい動画をありがとうございます。この大きな船のタービンエンジンを動かすのに、人力で石炭をエンジンにくべていたと聞きます。動画にはありませんが、想像するだけで胸熱です。
改修後は重油燃焼じゃなかったかな?と思います
この動画を見るたび、もっと早く産まれていたらと想う時代は変わるとはいえ、過ぎた過去に焦がれるのです
蒸気タービン船を映した貴重な映像ですね。4分47秒前後に操舵室のシーンがありますが、クラシカルなエンジンテレグラフが置かれていることが分かります。エンジンテレグラフとはワイヤーを使った船内通信装置で、レバーを回すことで機関室に伝令するシステムですね。蒸気タービン船だったあの『タイタニック号』もこのタイプのエンジンテレグラフを使っていましたね。映画の『タイタニック』で氷山発見を伝えられた後、当直航海士が即座にエンジンテレグラフのレバーをSTOPに回して、機関室に伝え、それを見て機関長が即座に機関停止措置をおこないました。エンジンテレグラフの位置が突然STOPに動いたことを見た機関長は、即座に船に非常事態が起きたことを悟っていました。蒸気タービン船の機関に必須の存在がエンジンテレグラフです。
もう、蒸気で動く乗り物は日本では数少なくなったなぁ…一度は乗ってみたいものだ…
何回見てもカメラワーク、音声録音、編集とすばらしいですね昭和40年代の映像とは思えないです。音も貴重で同時録音ですか?SL、DL、タグボート、連絡船新旧の汽笛、青森桟橋、入替えと、現在で聞けるのはDLの汽笛くらいですよね本当にT.T.さまには感謝です
貴重な映像ありがとうございました、蒸気船には趣がありますね・・。
そうでしたか、自分は9歳で七飯浜に死体がいっぱいでゴザがかぶっているよと、家族から居はれました、外国人の死体に腕時計時計が有って皆見てましたとの事が思い浮かべますね、良く8ミリで記憶してましたね、貴重な映像感謝ですね、70歳過ぎの高齢者で東京都です、函館はいいですね、来年また帰りましょう。
懐かしです。引退後、室蘭の国鉄埠頭に長い間停泊していました。貨車庫に忍び込んで遊んだことを思いだ出しました。
その気持ちよく解ります。私も小学生時分に放置された臨海貨物線トンネルを横断したりとしてました。いまなら監視カメラ、警備とまずむりですが。みんなその頃の人の記憶にあります。
老人はすぐ犯罪自慢するよね。まるでヤカラみたい。
@@夢待翔太 だからどうした。羨ましいなら羨ましいとハッキリ言ったらどうだ。😁
この初代十勝丸、あの洞爺丸台風の際に沈没し、それを浮揚して改修して再就役させたんですね。乗組員76名のうち59名が亡くなる大惨事だったらしいですが、この船が再就役した後、乗り組む人たちはどんな心境だったのか・・・
洞爺丸台風で犠牲になった仲間の分まで頑張るぞって気持ちが一つもう一つはこの船は洞爺丸台風で沈没しながらも運良く再利用できたから残してくれてありがとうって気持ちだったのではないかと
全体の錆やボロボロの信号旗が引退間際を思わせますね。リアルタイムではディーゼル船しか乗った事がありませんが、さすが蒸気タービンだけあって出港時とても静かなのに感動です。
信号機がボロボロな船は結構あります(金をけちる会社とかね)引退間際だからではありませんよ特に国旗はいつも掲げているのでボロボロになります
確かに、今は新幹線が出来便利にはなった。しかし、昔からの伝統である、列車で青森駅に行き其処で青函連絡船に乗り換える風景、そして船内で書く連絡船名簿、函館駅に着きおおぞら号等の列車にホームを走って乗車する味の有る光景も過去の物になった。その函館も今は改築され駅に有った食堂と其処で食べれたイカソーメン定食も今は無い。駅の構造も何の赴きも無い、駅泊なんて出来ない何処にでも有る都会駅に変わってしまった。便利になった反面失った物の方が多すぎる。
この船は、見たこと無いけど、私の最初の北海道旅行に乗船した連絡船は松前丸でした。今でも乗って見えた船です。
霧笛と汽笛が一緒に聞こえるところは、青森と函館くらいでしょうか。昭和の匂いがひしひしと伝わってきます。できることならタイムスリップしたい。
映画のタイタニックのような画像処理。このようなものが残っているだけでも貴重なのに、動画、さらにカラー。関係者しか撮れないと書いてありますが、関係者でも撮らないものだと思います。すごすぎる。いいもの見ました。ありがとうございます。
T.T.様、非常に貴重な映像を拝見しました。エの4本煙突が誇らしく見えました!
素晴らしい映像ですね。当時この船を動かしていた人に話を聴いてみたいです。
主機が蒸気タービンでしたよね。ボイラーは水管8基かな、このころは燃料がC重油使っていたんでしょうか。4本煙突の工のマーク、洞爺丸台風で沈没して蘇った日高丸、感激です。大変貴重な映像ありがとうございました。
十勝丸については、終航まで石炭焚き(自動給炭機使用)のままだったようです。
はじめて拝見する貴重な動画ありがとうございました。出港の場面で、右のアンカーが斜めに引っ張り上げられいくような場面がありましたが、バウスラスター装備以前の離岸時は、ああやって頭を振っていたんですか???興味が尽きません。十勝は客載しない貨車渡船ですが、付けて頂いている音は、それっぽくて全く違和感無かったです(笑)。良いものを見せていただきました!!!
着岸するときもアンカーを軸にして、補助汽船に押してもらいながら着岸していたそうです。
沈没前はノッペリしていた船橋が、初代桧山丸型に近くなり、末期の連絡船に近いデザインになったのが判ります。SLの汽笛も、入港する二代目大雪丸も、「お疲れ様」といってるかのようですね。
貨車を積み込むシーンに、当時消滅間近のレ5000が映っています…
貴重なフイルムです。
貨車の積込初めて見ました。
洞爺丸台風で沈没しながらも生き延びた最後の蒸気連絡船に頭が下がる思いですところで、この映像に登場した津軽丸型は何隻で、何丸ですか?分かれば教えて下さい冒頭の羊蹄丸は分かるんですが、他の船はまるで分かりませんまあ、まだ各船のシンボルマークが付く前だったので仕方のないことではありますが……。
青色ですから摩周丸ではないでしょうか?
黄色の船体は八甲田丸だと思います。
5分過ぎに出港していくのは、船体の色から大雪丸かと。この十勝丸が接岸しているのは青森2岸でしょうね。撮影データでは、同じ日の映像と思われますので、2隻やり過ごしているとは思えません。そうすると、冒頭入港してくるのも大雪丸ではないかと・・・。はっきり見えませんが、マスト頂部のレーダーカバーにTA(Aは少し小さい)らしき模様が見えます。羊諦丸は、この部分に船名記号はありません。1岸に見える黄色い船体は八甲田丸で間違いないですね。青森の3つの岸壁にすべて連絡船が停泊するタイミングはそれほど多くないので、当時のダイヤがあればこの十勝丸が何便か調べてみたいですね。
フイルム4本分でしょうか?カラーでよくぞ撮ってあったものです。安定したテレシネ技術もご苦労さんでした。業者委託のテレシネだったのでしょうか。
撮影者のT.T.様は旧国鉄勤務の職員です。8mmフィルムと同じ時点でカセットテープに記録された音源を素人のlodgershinmeishrineが編集した物です。
lodgershinmeishrine 当時はサイレントカメラが殆どで、磁気フイルムで記録し、携帯録音機にテープで現場音を録音したものを編集後、音入れできる映写機で追加音入れしたものです。私は肥薩線矢岳駅通過を(ジーゼル列車)撮ったのが鉄路は最初で最後の8ミリ映画でした。もう、家族記録の8ミリ映画も映写機が不調で・・・
ちなみにこの8ミリ映像どっちで撮ったんですか?函館ですか?それとも青森ですか?
7:43
最初にチラット見えたタグボート(ランチ)も蒸汽船でしたね、S40年代に自分が高校生時に中を見させて頂き大きなクランクシャフトが二本回転してたのを思い出します、懐かしいです確か函東造船(定かではない)にタグボートでドイツの技術でシュナイダーとか言う船体の下に左右にプロペラのような羽が回転して右左斜め左右に自由に走行する修理勢ているのも見ました、十勝丸も貨物列車の運搬のため後ろに海水を防ぐ扉が無く残念です。
一度沈没したのに最後まで船尾扉は付けられずに終わったのか。初代桧山丸の様に強制排水ポンプが取り付けられていたのでしょうか?
凄いねぇ~タグ使わんで出航ですか
非常に初歩的な質問をしますがどなたかご存じの方、教えていただけませんか?蒸気船ということは、すごく大雑把に言うと、ボイラーでお湯を沸かして蒸気を発生させ、その蒸気をプロペラシャフトに繋がった水車のようなものに吹き付けて回転させることでプロペラを動かすのでしょうか?いくら考えても想像ができないのですが・・・どなたかご教示よろしくお願いいたします🙇
通りすがりました(笑)。その通りです、蒸気船は「蒸気タービン」回してスクリュー回します。火力発電所と同じですね!だから、レシプロの(ピストンガチャガチャさせる)ディーゼルエンジン船(青函連絡船で言えば初代檜山丸以降)とは別物の「うるさくない」乗り心地だったそうです。
@@鈴木英一-w7n さん、ありがとうございました。昔は、そんな静かな船があったんですね。勉強になりました🙇あっ、そうか。火力発電所の発電機の代わりにスクリューがついてるようなものですね。
海峡の女王と呼ばれた洞爺丸型の姉妹船でしょうか。
木村隆 洞爺丸型の姉妹船は羊蹄丸、摩周丸、大雪丸です。これらは客用デッキがあり、旅客と車両双方の運搬船でした。十勝丸は車両運搬専用に製作された船だったようです。
なるほど。洞爺丸型の特徴でもある船体腰部にずらっと並んだ、旧型国電のような2段の狭窓が無いのは、一度沈没した後、引き揚げられ、改装工事の際に埋められたのかと思いました。
はじめは初代石狩丸型の貨物船でしたが、洞爺丸台風で姉妹船の北見丸、日高丸、更に第十一青函丸と共に沈んでしまいましたが、日高丸と共に修理されて復帰し、沈没前とは船橋形状が異なり、当時の新型貨物船の初代桧山丸型に近い形状となりました。これを十勝丸型と称す場合もあるようです。
えっ?!『十勝丸』って一代きりだったの?((((;゜Д゜)))
確か戦前の商戦では有りませんでしたけ。
渡島丸型貨物船(5隻)に十勝丸があったと思いますまあ、渡島丸型貨物船は作り過ぎが仇になって輸送量減少のあおりを受けてほとんど退役し、最後に建造された石狩丸・桧山丸は津軽丸・松前丸退役に伴い、代替貨客船に改造、連絡船廃止まで残ったのは空知丸1隻のみで渡島丸・日高丸・十勝丸は退役して即解体されたそうです。
@@kenta-z3e なぁ~るほどね(^-^)渡島丸型ってことは2代目で、しかもエンジン船だったはず(^-^)だから種船に石狩と桧山が残されたって訳か・・・
สุดยอดเลยในการเป็นอยู่และการเปลี่ยนแปลงจากชีวิตประจำวัน🇹🇭🇹🇭🇹🇭🥰☺️😊
貨車専用船かな?
ですね。
被写体を8mmで撮影・残ってるだけでも貴重だろうに
「音も要るだろ」って同時録音してんの凄い。
撮影者本人が後で合わせるつもりだったのか?
撮影者のT.T.さんからのコメントです。
私が国鉄職員でありましたので、撮影に訪れた際には、同じ国鉄職員の皆様に親切にしていただいた事が思い出されました。「消えていくものを残したい」と行動したことであり、たまたま、一般の人がやりにくい事が出来ただけではないかと思いました。
20年前に他界した祖父に見せたら、きっと涙を流していたであろう。祖父は当時の函館ドックの下請けの会社で連絡船の修繕一筋に生きてきた。
平成生まれですが、連絡船のファンです。
この船ような好きです。
昭和40年頃。未就学時代に初めて乗った連絡船の煙突に「エ」が描かれた記憶が鮮明に残っています。その後青森から乗った列車が、ディーゼル機関車とタンク機関車のプッシュプルだったのもありますね~ 素晴らしい映像記録ですね。
これはすごい! この時代の船が動いているところが動画で、しかもカラーで見れるとは思いもしませんでした。しかも音付き。しかも一般の人が立ち入れない作業区域まで撮影されている。当時の日常がまざまざと伝わってきます。
どんなに画質、音質が悪くても、当時の連絡船の様子がわかる。貴重な記録だ。
国鉄青函航路は私が中学1年生だった昭和63年に廃止になりました。その頃乗り物好きの友達の会話で必ず青函航路廃止の話題が上っており、たまたま本屋で見かけた坂本幸四郎さんが書かれた「青函連絡船物語」を読んで、「青函連絡船に乗りたかったなあ」と思う様になりました。たしかその年の夏休みと思いますが、青函航路の復活運行があり、私は母にせがんで青函連絡船に乗りに行きたい、今を逃せばもう金輪際乗ることは出来ないからと必死にお願いしましたが、母は乗りに連れて行ってくれませんでした。今でもこれだけは恨んでいます。
私の父がこの船の船員でした。函館の実家には当時の写真があります。兄二人は父に連れられて船内見学させてもらったそうです。洞爺丸台風の時に、七重浜に座礁転覆しましたが、父は非番で乗船しておらず、非常招集で浜に集結して、洞爺丸の乗船客の遺体回収をしたそうです。映像で見られてうれしいです。
私の父は当時、七重浜の国鉄官舎に住んでおり、翌早朝、浜へ行き洞爺丸の無残な姿と海岸に流れ着いた遺体を目にし、恐怖におののいたと話ていました。連絡船の機関士だった叔父は当日、予備で船を降りていて難を逃れました。
私の祖父がこの船の船員で通信長をしていたと聞いております。
15号台風で祖父が殉職した時に母は中学生でして私は生まれておりませんでした。
十勝丸が引き揚げられて再就航していたのは退役後に聞いた話で、船影をはじめて見ることが出来ました。
ありがとうございます。
私の両親が集団就職で十勝の音更から上京、帰省の時の乗った列車、連絡船の話しをいつも懐かしそうに話していました。貴重な映像ありがとうございます。
国鉄一家ならではの一品です。ウチも国鉄一家の一員でしたので。貴重な記録に感謝です
素晴らしい。感動しました。きれいなカラーに映し出される煙、赤錆、曇天の空。連絡船の郷愁がでまくってますね。本当に感謝!
音入りなのは大変珍しいです。昭和30年代後半学生だった父いわく、ディーゼル船はカンカン下からうるさかったけど、蒸汽船は静かで快適だったそうです。
もっとも、父は機関に近い3等船室でなく、冬でもすぐに海に飛び込めるデッキで震えていたそうですが(苦笑)。
懐かしいです。十勝丸ではありませんが、第七青函丸です。高校の修学旅行で貸切でしたので、船員さんに下層のボイラー室などを案内してくれました。
昭和の思い出ありがとうございます、何度も視聴しています。十勝いいですね
洞爺丸沈没事故の年には12歳で函館に住んでました、青函連絡船を毎日見ていたのでとても懐かしい。貴重な記録をありがとうございます。
貴重な映像ですね。
青函連絡船は私の祖父や父がよく利用してました。
ちなみに祖父の兄は洞爺丸台風で乗船した船が沈み亡くなりました。
1954年9月26日、台風15号(洞爺丸台風)で沈んだ5隻のうちの1隻。翌年に引き揚げられた時には車両甲板より上の部分が押し潰されて完全に失われていましたが、日高丸と共に修理されて復帰を果たしました。
運よくって言ったら叱られるかもしれませんが、洞爺丸台風で沈んだ5隻の連絡船が全隻廃船にならずに生き延びられたのが奇跡ですよね
まあ、W型戦時標準船の第十一青函丸は破断していたという事情もあって廃船になったのは致し方ないにしても、洞爺丸と北見丸が復活していたらどんな展開になってたんでしょうかね?
7:53 サイドスラスターが無い船が離岸するときは沖合寄りに投錨しておいた錨を巻きあげて離岸する。と何処か知ったのですが、実際に映像で見たのは初めてかもしれないですね…
初めて青函連絡船に乗ったのは2歳の時だったと思います。丸い窓に波が砕けていました。
次に乗ったのは、初代「十和田丸」、そう「洞爺丸」の代船でしたが既にディーゼルでした。
蒸気の青函連絡船に乗ってみたいというのは、無理でしょうね。
初めて スチーマーの青函連絡船の航走る姿を拝見しました。
スタンバイからアンカーアップで行き足を付ける姿に感動しました。
子供の頃、連絡船の船員さんから「船乗りのマナー」を教えられて以来
連絡船の船員を夢見つつも、就職年齢時、連絡船は歴史に姿を変え、
その夢の達成できなかった私に取っては感謝の一言です。
ありがとうございます。
素晴らしい動画をありがとうございます。この大きな船のタービンエンジンを動かすのに、人力で石炭をエンジンにくべていたと聞きます。動画にはありませんが、想像するだけで胸熱です。
改修後は重油燃焼じゃなかったかな?と思います
この動画を見るたび、もっと早く産まれていたらと想う
時代は変わるとはいえ、過ぎた過去に焦がれるのです
蒸気タービン船を映した貴重な映像ですね。4分47秒前後に操舵室のシーンがありますが、
クラシカルなエンジンテレグラフが置かれていることが分かります。
エンジンテレグラフとはワイヤーを使った船内通信装置で、レバーを回すことで
機関室に伝令するシステムですね。
蒸気タービン船だったあの『タイタニック号』もこのタイプのエンジンテレグラフを使っていましたね。
映画の『タイタニック』で氷山発見を伝えられた後、当直航海士が即座にエンジンテレグラフのレバーを
STOPに回して、機関室に伝え、それを見て機関長が即座に機関停止措置をおこないました。
エンジンテレグラフの位置が突然STOPに動いたことを見た機関長は、即座に船に非常事態が起きたことを悟っていました。蒸気タービン船の機関に必須の存在がエンジンテレグラフです。
もう、蒸気で動く乗り物は日本では数少なくなったなぁ…
一度は乗ってみたいものだ…
何回見てもカメラワーク、音声録音、編集とすばらしいですね
昭和40年代の映像とは思えないです。
音も貴重で同時録音ですか?
SL、DL、タグボート、連絡船新旧の汽笛、青森桟橋、入替えと、
現在で聞けるのはDLの汽笛くらいですよね
本当にT.T.さまには感謝です
貴重な映像ありがとうございました、蒸気船には趣がありますね・・。
そうでしたか、自分は9歳で七飯浜に死体がいっぱいでゴザがかぶっているよと、家族から居はれました、外国人の死体に腕時計時計が有って皆見てましたとの事が思い浮かべますね、良く8ミリで記憶してましたね、貴重な映像感謝ですね、70歳過ぎの高齢者で東京都です、函館はいいですね、来年また帰りましょう。
懐かしです。
引退後、室蘭の国鉄埠頭に長い間停泊していました。
貨車庫に忍び込んで遊んだことを思いだ出しました。
その気持ちよく解ります。私も小学生時分に放置された臨海貨物線トンネルを横断したりとしてました。いまなら監視カメラ、警備とまずむりですが。みんなその頃の人の記憶にあります。
老人はすぐ犯罪自慢するよね。まるでヤカラみたい。
@@夢待翔太 だからどうした。羨ましいなら羨ましいとハッキリ言ったらどうだ。😁
この初代十勝丸、あの洞爺丸台風の際に沈没し、それを浮揚して改修して再就役させたんですね。
乗組員76名のうち59名が亡くなる大惨事だったらしいですが、この船が再就役した後、乗り組む人たちはどんな心境だったのか・・・
洞爺丸台風で犠牲になった仲間の分まで頑張るぞって気持ちが一つ
もう一つはこの船は洞爺丸台風で沈没しながらも運良く再利用できたから残してくれてありがとうって気持ちだったのではないかと
全体の錆やボロボロの信号旗が引退間際を思わせますね。
リアルタイムではディーゼル船しか乗った事がありませんが、さすが蒸気タービンだけあって出港時とても静かなのに感動です。
信号機がボロボロな船は結構あります(金をけちる会社とかね)引退間際だからではありませんよ特に国旗はいつも掲げているのでボロボロになります
確かに、今は新幹線が出来便利にはなった。しかし、昔からの伝統である、列車で青森駅に行き其処で青函連絡船に乗り換える風景、そして船内で書く連絡船名簿、函館駅に着きおおぞら号等の列車にホームを走って乗車する味の有る光景も過去の物になった。その函館も今は改築され駅に有った食堂と其処で食べれたイカソーメン定食も今は無い。駅の構造も何の赴きも無い、駅泊なんて出来ない何処にでも有る都会駅に変わってしまった。便利になった反面失った物の方が多すぎる。
この船は、見たこと無いけど、私の最初の北海道旅行に乗船した連絡船は松前丸でした。今でも乗って見えた船です。
霧笛と汽笛が一緒に聞こえるところは、青森と函館くらいでしょうか。
昭和の匂いがひしひしと伝わってきます。
できることならタイムスリップしたい。
映画のタイタニックのような画像処理。このようなものが残っているだけでも貴重なのに、動画、さらにカラー。関係者しか撮れないと書いてありますが、関係者でも撮らないものだと思います。すごすぎる。いいもの見ました。ありがとうございます。
T.T.様、非常に貴重な映像を拝見しました。エの4本煙突が誇らしく見えました!
素晴らしい映像ですね。当時この船を動かしていた人に話を聴いてみたいです。
主機が蒸気タービンでしたよね。ボイラーは水管8基かな、このころは燃料がC重油使っていたんでしょうか。4本煙突の工のマーク、洞爺丸台風で沈没して蘇った日高丸、感激です。大変貴重な映像ありがとうございました。
十勝丸については、終航まで石炭焚き(自動給炭機使用)のままだったようです。
はじめて拝見する貴重な動画ありがとうございました。出港の場面で、右のアンカーが斜めに引っ張り上げられいくような場面がありましたが、バウスラスター装備以前の離岸時は、ああやって頭を振っていたんですか???興味が尽きません。十勝は客載しない貨車渡船ですが、付けて頂いている音は、それっぽくて全く違和感無かったです(笑)。良いものを見せていただきました!!!
着岸するときもアンカーを軸にして、補助汽船に押してもらいながら着岸していたそうです。
沈没前はノッペリしていた船橋が、初代桧山丸型に近くなり、末期の連絡船に近いデザインになったのが判ります。SLの汽笛も、入港する二代目大雪丸も、「お疲れ様」といってるかのようですね。
貨車を積み込むシーンに、当時消滅間近のレ5000が映っています…
貴重なフイルムです。
貨車の積込初めて見ました。
洞爺丸台風で沈没しながらも生き延びた最後の蒸気連絡船に頭が下がる思いです
ところで、この映像に登場した津軽丸型は何隻で、何丸ですか?
分かれば教えて下さい
冒頭の羊蹄丸は分かるんですが、他の船はまるで分かりません
まあ、まだ各船のシンボルマークが付く前だったので仕方のないことではありますが……。
青色ですから摩周丸ではないでしょうか?
黄色の船体は八甲田丸だと思います。
5分過ぎに出港していくのは、船体の色から大雪丸かと。この十勝丸が接岸しているのは青森2岸でしょうね。
撮影データでは、同じ日の映像と思われますので、2隻やり過ごしているとは思えません。
そうすると、冒頭入港してくるのも大雪丸ではないかと・・・。
はっきり見えませんが、マスト頂部のレーダーカバーにTA(Aは少し小さい)らしき模様が見えます。
羊諦丸は、この部分に船名記号はありません。
1岸に見える黄色い船体は八甲田丸で間違いないですね。
青森の3つの岸壁にすべて連絡船が停泊するタイミングはそれほど多くないので、当時のダイヤがあればこの十勝丸が何便か調べてみたいですね。
フイルム4本分でしょうか?カラーでよくぞ撮ってあったものです。安定したテレシネ技術もご苦労さんでした。業者委託のテレシネだったのでしょうか。
撮影者のT.T.様は旧国鉄勤務の職員です。8mmフィルムと同じ時点でカセットテープに記録された音源を素人のlodgershinmeishrineが編集した物です。
lodgershinmeishrine 当時はサイレントカメラが殆どで、磁気フイルムで記録し、携帯録音機にテープで現場音を録音したものを編集後、音入れできる映写機で追加音入れしたものです。私は肥薩線矢岳駅通過を(ジーゼル列車)撮ったのが鉄路は最初で最後の8ミリ映画でした。
もう、家族記録の8ミリ映画も映写機が不調で・・・
ちなみにこの8ミリ映像どっちで撮ったんですか?
函館ですか?
それとも青森ですか?
7:43
最初にチラット見えたタグボート(ランチ)も蒸汽船でしたね、S40年代に自分が高校生時に中を見させて頂き大きなクランクシャフトが二本回転してたのを思い出します、懐かしいです確か函東造船(定かではない)にタグボートでドイツの技術でシュナイダーとか言う船体の下に左右にプロペラのような羽が回転して右左斜め左右に自由に走行する修理勢ているのも見ました、十勝丸も貨物列車の運搬のため後ろに海水を防ぐ扉が無く残念です。
一度沈没したのに最後まで船尾扉は付けられずに終わったのか。初代桧山丸の様に強制排水ポンプが取り付けられていたのでしょうか?
凄いねぇ~タグ使わんで出航ですか
非常に初歩的な質問をしますがどなたかご存じの方、教えていただけませんか?
蒸気船ということは、すごく大雑把に言うと、ボイラーでお湯を沸かして蒸気を発生させ、その蒸気をプロペラシャフトに繋がった水車のようなものに吹き付けて回転させることでプロペラを動かすのでしょうか?
いくら考えても想像ができないのですが・・・
どなたかご教示よろしくお願いいたします🙇
通りすがりました(笑)。その通りです、蒸気船は「蒸気タービン」回してスクリュー回します。火力発電所と同じですね!だから、レシプロの(ピストンガチャガチャさせる)ディーゼルエンジン船(青函連絡船で言えば初代檜山丸以降)とは別物の「うるさくない」乗り心地だったそうです。
@@鈴木英一-w7n さん、ありがとうございました。
昔は、そんな静かな船があったんですね。勉強になりました🙇
あっ、そうか。火力発電所の発電機の代わりにスクリューがついてるようなものですね。
海峡の女王と呼ばれた洞爺丸型の姉妹船でしょうか。
木村隆 洞爺丸型の姉妹船は羊蹄丸、摩周丸、大雪丸です。
これらは客用デッキがあり、旅客と車両双方の運搬船でした。
十勝丸は車両運搬専用に製作された船だったようです。
なるほど。洞爺丸型の特徴でもある船体腰部にずらっと並んだ、旧型国電のような2段の狭窓が無いのは、一度沈没した後、引き揚げられ、改装工事の際に埋められたのかと思いました。
はじめは初代石狩丸型の貨物船でしたが、洞爺丸台風で姉妹船の北見丸、日高丸、更に第十一青函丸と共に沈んでしまいましたが、日高丸と共に修理されて復帰し、沈没前とは船橋形状が異なり、当時の新型貨物船の初代桧山丸型に近い形状となりました。これを十勝丸型と称す場合もあるようです。
えっ?!
『十勝丸』って一代きりだったの?((((;゜Д゜)))
確か戦前の商戦では有りませんでしたけ。
渡島丸型貨物船(5隻)に十勝丸があったと思います
まあ、渡島丸型貨物船は作り過ぎが仇になって輸送量減少のあおりを受けてほとんど退役し、最後に建造された石狩丸・桧山丸は津軽丸・松前丸退役に伴い、代替貨客船に改造、連絡船廃止まで残ったのは空知丸1隻のみで渡島丸・日高丸・十勝丸は退役して即解体されたそうです。
@@kenta-z3e なぁ~るほどね(^-^)渡島丸型ってことは2代目で、しかもエンジン船だったはず(^-^)
だから種船に石狩と桧山が残されたって訳か・・・
สุดยอดเลยในการเป็นอยู่และการเปลี่ยนแปลงจากชีวิตประจำวัน🇹🇭🇹🇭🇹🇭🥰☺️😊
貨車専用船かな?
ですね。