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いつも懐かしい音源ありがとうございます。情景が目に浮かびタイムスリップしたい衝動に駆られます。
早速のご視聴とコメントありがとうございます。過ぎ去った遠い昔の情景を思い浮かべて頂けましたら嬉しいです。
この列車は、昭和46年9月15日まで小樽と長万部間でシロクニ重連で有名でした。その後はDD51型重連に変わりました。季節列車の日本海2号は14系座席車でその後は24系25,型に変わりましたが季節列車の頃の24系25型はあまり運転日数は多くはありませんでした。ゴウサントウダイヤ改正で定期の寝台特急日本海4号になっています。下りの日本海1号は連絡船の接続はあまりよくありませんでした。
また、こういう旅をしてみたいものです。今は新幹線か飛行機しか選択肢はなく、長旅のわくわく感はありません。この時代は車内放送を聞き、乗り継ぎし、駅弁を楽しみ、移動の時間を楽しんだものです。いま思えばそれが最高の贅沢だったようです。そうした時間を追体験させていただきました。
そうですよね。長旅のわくわく感ってありました。飛行機は便利ですが、「早く着かないかな・・・」と思ってしまいます。窓を開けて駅弁を買ったり、乗り換えの時にも食料や飲料を仕入れたり・・・そんな旅が楽しかったです。
懐かしい体験だ。私は北海道へいつも東海道新幹線と東北新幹線乗り継いで行きます。青函トンネルをくぐる時の不思議な緊張感が好きです。ほとんどの人が飛行機でしょうが、私は鉄道が好きです。兵庫県の福知山線三田駅(さんだ)から稚内まで鉄道乗り継いで行く面白さは特別です。
ハイケンスのセレナーデからすでにヤバかったのですが、その後に続く松前丸以下の失われた列車愛称を聞いていると、涙が堪えられませんでした。自分も年を取ったなあ…と痛感しました😭
勿論、わたくしもいい年ですが、古い録音からスライドショーを作っていると、忘れていた様々なことを思い出します。古い記憶をよみがえらすことで認知症予防になるか、それとも昨日のことは忘れても40年前のことは覚えている老人になるのか・・・いずれにしても他界すればゴミになってしまうコレクション類をこんな形で公開できる場があって良かったです。
@@急行-宗谷 認知症にはまだまだ早いでしょう〜😆例えば「匂いの記憶」というのは、脳の中でも原始的な部分にあることで長く保たれるのだそうですが、ひょっとしたら「音の記憶」も似たようなものなのかも知れませんね😀上野までの収録は本当に貴重だと思います。いいものに出会えました。感謝します😉
@@石川ザフリッパー 様。有難うございます。励みになります。
急行ニセコといえばC62重連が真っ先に思い浮かべられ、当時の記録もSLの走行音に焦点が当てられたものがほとんどです。こうしてDL化された後でもこの車内風景は日常の乗車体験を再現するものです。当時SLばかり追いかけていた我が身からすれば、この記録はむしろ本来の鉄道風景を再現するもので記憶から消えた過去を思い出させてくれました。
蒸気機関車良し、ディーゼル機関車も良しで、北海道の鉄道は楽しいです。年々縮小されていくのがさびしい限りですが。
いつも懐かしく聞かせていただいております。C62重連からDD51重連に替わった後、小沢駅にて見送ったことがありました。倶知安峠に向けての全力ダッシュはC62重連の迫力にはおよびませんでしたが、それなりの凄まじさがありました。その時の機関士さん「C62重連に比べて楽にはなったけど、見向きもされない。」と言われてました。前補機・本務機とも五稜郭機関区配置で前補機は長万部まで、下り103列車で再び前補機を務めたのち「利尻」で稚内往復、明後日のニセコの本務機で五稜郭機関区へ帰るという運用まで教えてくれました。
機関車の運用も広範囲にわたっていて、ダイヤが乱れた時は大変だったでしょうね。
チャンネル登録済みの1958年生まれです。北海道の鉄道が大好きです。耳から入ってくるものでさまざまな風景が呼び起こされ、その時の匂いまで蘇る…そんな体験をさせていただいています。
有難うございます。目に映る写真や動画よりも、耳から入る音の方が様々な情景を思い起こせる・・・正にそれこそが意図するところです。思いを汲み取って頂けて嬉しいです。
このルートのあと東京から名古屋まで急行高千穂桜島を利用して、札幌から約30時間をかけて移動したことがあります。
桜島・高千穂、懐かしいですね。昼間の東海道本線を走った旧型客車の急行列車・・・今では考えられないですね。名古屋で降りるのが惜しくなってしまいそうです。
@@急行-宗谷 サン、乗ることもなく廃止になりました
またまた貴重な音源ありがとうございます松前丸の音源て言うのがマニアックです
概要欄に記しましたように特に選んで乗船していませんでしたので松前丸に縁がありました。松前丸は他の姉妹船に比べで引退が早かったですね。
@@急行-宗谷松前丸は、津軽丸型の中では唯一、地元函館で製造された船だったんですね。そんな函館ゆかりの船が、早々に引退してしまったのは残念ですね。
急行ニセコの札幌駅発車時、ED76はホイッスルでなくタイフォンを鳴らして発車していましたね。あと、青函トンネル開通後函館始発になる日本海2号(後の4号)のスジが当時季節列車だったのですね。またしてもサプライズでした。ありがとうございます...
自由席に乗っていると先頭の機関車までが遠くて、タイフォンの直前に小さくホイッスル音を拾っている程度です。タイミングが紛らわしいですが、タイフォンはニセコではなく別な車両のものですね。時刻表では同じ10時20分発は見当たりませんので、回送か何かの警笛と思われます。
この松前丸は、高校の修学旅行で深川からの「おおぞら」からの接続で乗り、その後「ゆうづる」に乗りました。懐かしい。
今回は珍しく内地、それも上野迄のロングランでしたね。当時の都心の乗り換え放送はなかなか聞く機会がないので新鮮に感じました。晩年の青森発のゆうずるラッシュは知ってましたが、この時代の充実ぶりはすごいですね。常磐線経由が距離的に近い為ですが、私は東北線オンリーの八甲田やはくつるが好きでした。新幹線開業時期延期とバス運転手不足による代替輸送の難航で山線の動向が注目されています。
以前、札幌→上野を作った時は長すぎて2編になってしまいましたが、今回はなんとか1編にまとめることができました。それでも20分を超える長旅にお付き合い頂き有難うございます。東北新幹線がない頃、東北の夜行列車群は大活躍でしたね。そんなこともすでに遠い昔のことになってしまいました。せめて北斗星のような列車だけでも残ってほしかったです。函館本線の山線は余市~小樽間以外にも外国人旅行客などで混雑する列車もあるそうですね。「それならば存続しましょう・・・」とならないことが残念です。山線は開通した時期が早く、隧道や橋梁など、維持していくとしたら、改修が大変だそうですからやむを得ないとは思いますが・・・
長い北海道の旅の終わりですね。あさまやときの乗換案内聞くとなんとも切ない気になったものです。
関東在住の方は上野で北海道旅行を終えたことと思いますが、関東以外にお住まいで、その先へと乗り継いで行った方も多かったことでしょう。
急行宗谷さま、また貴重な録音から動画編集録画アップロード作業をありがとうございます。今回は昼行客車急行ニセコ1号から青函連絡船4便、そして臨時夜行急行十和田3号ですね。昼行客車急行ニセコ1号は朝10時20分札幌始発という事もあって、グリーン車も含めた指定席車両3両と荷物車と郵便車も連結した、堂々とした客車急行ですね。札幌市内第一便投函の速達郵便を当日中に道内西南部へ配達する為にフルで働いたことでしょう。函館駅での接続に青函連絡船と共に江差線と松前線にも接続列車があって、札幌市内用務を終えた出張族が沿線の自宅へ帰り着くにはベストな列車であった事が忍ばれます。青函連絡船4便松前丸は画像内情報にもある通りに普通船室、グリーン自由席(座席とカーペット席)、グリーン指定席、2段式寝台室と、多用途に対応した豪華な客室構成でした。フルリクライニングシートのグリーン指定席と自由席カーペット席と食堂は利用した経験はありますが、グリーン自由席と寝台船室は利用せずに終わりました。青森駅でのゆうづる5号6号の5分差出発は壮観だったと推察いたします。電車寝台とグリーン車のみで、せっかくの食堂車は営業休止だったと思われます。臨時夜行客室急行十和田3号は普通車指定席6両自由席6両の12両という堂々たる12系客室編成で、ディーゼル発電機付き車両でなければ快適に乗車出来たものと推察いたします。翌朝は日立駅や水戸駅での立ち食いそば屋や駅弁屋さんが大層売れた事でしょう。前にも投稿しましたが、有効期間ギリギリの乗車券類で日付けが変わるギリギリの夜行列車に乗車した場合には、その夜行急行から一度も下車せずに継続して乗車船したままであれば追加運賃料金無しで終着駅まで行くことが出来る規則が存在するので、北海道均一周遊券東北均一周遊券でも有効期間最終日に十和田3号に乗車して、その翌日に上野駅へ降り立つ熱心な鉄道ファンが居たそうですね。昭和52年当時は東北新幹線建設工事が佳境を呈していた為に、夜行列車は仙台駅を通らない東仙台貨物線経由で、夜行急行のみ長町駅に停車して仙台駅まで臨時連絡バスが運行されていたのですね。長旅を終えた上野駅ではホーム上に残されていた洗面台で身繕いしてから都内の自宅、若しくは更に先にある目的地に向かって乗客たちは別れていった事でしょうね。継続乗車船組は一旦上野駅集札口で周遊券始め乗車券と急行券を渡してから目的地へと向かっていったのでは?上信越線特急への接続案内とは!高度成長期後の先進国の仲間入りをした当時の出張勤務の日本人は本当にタフガイでした。急行宗谷さまの次回作に期待しつつ駄文を書き連ねた感想文を〆させていただきます。ありがとうございました。
いつも丁寧なコメントを有難うございます。上野到着前に上信越線方面の乗り換え案内があるのは常磐線ならではですね。東北本線だと大宮到着前に案内されるので。軽いお遊びで始めたTH-camですが、早や3年が経ちました。今では多くの方から頂戴する思い出や感想などを拝見するのが楽しみになっております。じっくりとご観賞頂けるのは嬉しいのですが、駄作は出しづらくなってしまいますね。まあ、どう転んでも変わり映えしない内容ではありますが・・・。暑い季節は作業も休みがちですが、なんとか続けてまいります。
長いってw改行入れてくださいな
@@sarah_connor48 さまコメントありがとうございます。TH-camコメント欄の仕様で、過度な改行を使いまくると書き込めなくなります。一応列車、連絡船、周遊券継続乗車船、上野駅での乗り継ぎ案内と、話題ごとに段落替えしていますので、どうかご堪忍お願いします。
いえいえ長文も大歓迎です。文章作成にも時間がかかったことでしょう。
当時の急行に14系座席車と寝台車の連結はありません。十和田は旧型客車か昭和51年10月ダイヤ改正から14系座席車オンリーのどちらかであって12系座席車が運用につくのは昭和54年4月からですし、20系に1往復が使用されるのは昭和52年10月ダイヤ改正からです。臨時十和田はもっぱら12系座席車でした。
この乗り継ぎは、1977−1982年にかけて10回くらい使ったかな。ほぼ24時間かかる行程でしたがミニ周遊券で乗れる貴重な列車でした。途中からニセコも14系になり快適度が増しましたね。でもこの旧型客車のジョイント音も良いです。窓を開けて風を浴びながら、DD51重連の排気の匂いを微かに感じたあの経験が、これほどいま得難いものになるとは。このような貴重な動画を上げていただきありがとうございました。
周遊券で乗れる急行列車、有難かったですね。道内の夜行列車では旧型客車にばかり乗っていましたので、14系は確かに快適に感じられました。古い録音から遠い昔の情景を思い出して頂けましたら嬉しいです。
DD51時代に乗車した記憶が蘇ってきました。また乗車したいなあ。山線廃止前にリバイバル運行が有れば行きたいです。
C62時代は乗ったことがありませんが、DD51でも情緒たっぷりでしたね。
そうなんですよね。目覚めた時にはC62は!鉄道ジャーナルだったか忘れましたが雑誌でニセコのDDの重連の写真を見て初めて北海道に行った際にニセコに乗車したものです。もう40年以上前なので記憶が薄れてきました。戻りは札幌ー函館の山線周りの夜行だった記憶が。旧客だったと思います。急行の利尻や天北が走っていた頃ですから、あの頃に比べて随分寂しくなったなあ。と感じるこの頃です。
ニセコを引っ張って利尻まで引っ張ったのか。凄いですね。
青函連絡船には当時すべて乗ったつもりでいましたが、松前丸は乗っておらず、乗る前に廃船になってしまったようです。ニセコも14系になってから乗ったので旧客の時代は知りません。青森から上野までの急行も、十和田か八甲田で、津軽は青函連絡船との接続は考慮していません。当時は周遊券需要が多かったと思いますので、急行自由席利用が盛んでした。津軽の自由席は秋田、山形の利用が多く上野口で慢性的な混雑があったため、青函連絡船の接続を担うと津軽本来の利用者が乗れない(座れないではなく乗れない:積み残し)となるためということです。実際に津軽は、昭和57年11月の改正で1往復となり自由席が20系使用のナハ21になったとたん平日でも連日積み残しとなり問題になったくらいです。大阪に行く日本海には、修学旅行需要もあったため接続が考慮されています。古い時刻表が出てくるとその時の事情も思い出され大変貴重なものです。ありがとうございました。
スライドショーを作りながら古い音声を聞いたり、当時の時刻表を眺めていると、忘れていた記憶がよみがえってまいります。気が付けば随分遠い昔のことになったものです。UPしたスライドショーをご視聴の方も同様に、当時のことを思い出して頂けましたら嬉しいです。旧型客車時代の急行津軽は昭和53年に乗ったことがあります。当時は津軽も2往復で、上野では津軽1号の17分前に八甲田が発車していましたが、おっしゃる通り、八甲田も津軽も盛況でほぼ満席状態でした。青森で連絡船の接続は46分待ちでしたが、いつもは慌ただしく乗り換える青森駅で、改札の外に出たりしながら珍しくゆっくりでき、今思えば適度な乗り換え時間でした。
小樽での停車時間は六分。そのわずかな時間で機関車を付け替える。ものすごい仕事ですね。
小樽からはいよいよ本格的な山線。少し長めの停車時間が一層ワクワク感を増しますね。C62でなくDD51でも楽しいひとときでした。
高校の修学旅行で、おおぞらに乗って松前丸で青森からの寝台はどちらか忘れましたが、懐かしいなー。
修学旅行の思い出と共に懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
こんばんはお久しぶりですお元気ですか?この頃は山線活気がありましたね😊今は余市を過ぎると車内の中も寂しい限りです😢岩内線胆振線瀬棚線江差線松前線全て廃線になってしまいましたね😢連絡船も懐かしいですラ-メンが美味しかった記憶があります😅十和田号も大好きでした周遊券利用していた人は八甲田号と十和田号利用してましたね😊何時も素敵な音声ありがとうございます😊暑い日が続きます。体調気をつけてお過ごし下さいね
お久しぶりです。いつも通り絵文字いっぱいの文面から、お元気でお過ごしと推察いたします。お元気そうで何よりです。以前も札幌→上野を公開させて頂きましたが長過ぎて2編になってしまいました。今回は何とか1編にまとめてみました。それでも20分を超える長旅になってしまいましたがお付き合い頂き有難うございます。周遊券の旅楽しかったです。路線も列車も豊富にありましたので。鉄道が元気な頃に、自分も元気で旅ができて良かったです。また猛暑がやってきました。お互いに体調に気を付けて乗り越えたいですね。
@@急行-宗谷さん元気ではなかったですあの頃に帰りたいですね何時もありがとうございます😊
@@0806kana 様。体調崩されていましたか? 申し訳ありません。
@@急行-宗谷 さんとんでもないです(◍•ᴗ•◍)
kana様。どうかお大事に。
このシリーズ、興味よく視聴してます。私メはもう少しあと、連絡船末期から青函トンネル初期(84頃~2000ごろ)なので。「ニセコ」にも乗りましたが、私メDCでした。青森からは「鳥海」だったかな。
2往復あった急行ニセコ、気動車の方が先に廃止になってしまいましたね。客車の方は荷物車の関係もあって、14系に姿を変えてしばらくは残っていましたが・・・
はこ〜だでぃ〜が懐かしいです。
情緒がありましたね。函館駅の放送はいつも元気いっぱいだった印象です。
@@急行-宗谷 さまありがとうございます。急行宗谷は11時50分発の山線急行という印象が強いです。40分発特急おおぞら、45分発特急おおとり、そして急行宗谷です。
0:09蒸気機関車の時代1~4号車まで、📦️🏣だったから、C62のテンダーが見れ無くて残念な思い出が...😢(古い記憶だけど、確かあの時は、C622+C6216だったかな?)
DD51ではありますが、自由席に乗ると先頭の機関車までが遠く、これまた残念・・・
岩見沢に住んでいた私。中学の修学旅行、高校の修学旅行と、いずれも特別列車で函館まで乗り、青函連絡船で青森まで行きました。高校ではそれから日本海周りの寝台列車で京都まで行きましたよ。
修学旅行の思い出と共に当時を思い出して頂けましたら嬉しいです。
35年前、山線回りの札幌発特急北海で函館へ、青函連絡船に乗船して青森から夜行急行の八甲田か十和田に乗って東京へ。夜行急行は4人がけの固定直角座席でした。
「急行」と言えば4人向かい合わせのボックス席が定番でしたね。14系の急行に乗った時は素直に嬉しかったです。しかもこの時は前の座席を回して4人分を使用できました。
十和田3号は十和田1号と違って300頃仙台を通るため、新幹線工事の影響(仙台通過、長町停車)はなかったんですよねちなみに、春臨は1977年1月時刻(1976年冬臨)と同じ時刻です
長万部名物・かなやのかにめし、この当時の300円の価格に驚きです!現在は約4倍の価格、物価の上昇を感じます、、
時刻表の案内欄では録音当時、「かにめし」はすでに400円ですが、掛け紙は何枚かあるうち、遊び心で一番古いものを画面に使用いたしました。「300円」に気付いて頂き有難うございます。掛け紙の左上に「均一周遊券」とありますが、「ワイド周遊券」と呼ばれるようになったのは1974年頃だったようです。
今は亡き上野駅18番ホーム。昔、東北からでて来た(逃げた?)家出少年が鉄道保安官に保護されるニュース特集していたのを見たことあります
歌に歌われたり、ドキュメンタリーで紹介されたり、ドラマの一場面に登場したり・・・昔の上野駅は独特の雰囲気がありましたね。新幹線ができ、夜行列車がなくなり、さらには上野東京ラインができ、すっかり変わってしまいました。
丁度この経路で札幌から東京へ帰郷した当時を思い出しましたなみ😂
それもいい思い出ですね。今なら飛行機でしょうから・・・
特急いなほって昔は上野発だったのを今知りました。
特急いなほ号がデビューしたのは昭和43年10月だったように思います。あの時のダイヤ改正はテレビで特集番組が放送された記憶があります。同改正でデビューした特急「にちりん」「ひだ」「ひたち」などです。古い話になりましたね。あの頃私は大怪我をして神戸市内の病院に入院していました。心の中で早く退院して、いつか必ずこれらの特急列車に乗ることを心に決めました。全て乗った訳ではありませんが、今もあの時の大怪我の後遺症と闘っていますが、鉄道マニアの心は今も続いています。
北海道への行きか帰りに「いなほ」に乗ってみたいと思っていましたが実現しませんでした。
仙台駅は東北新幹線の工事で夜行列車は宮城野貨物線経由で長町駅に停まってたんだよね
そんなことも遠い昔のことになってしまいました。新幹線を貨物線に沿って作り、どこかに「新仙台駅」を作った方が工事はラクだったと思いますが、現在の仙台駅に乗り入れるようにしたのは英断だったと思います。
この車両にも、かの有名なマニ30も連結されていたんですよね。駅弁の値段と内容が凄く気になります。
この時のニセコにマニ30が連結されていたかどうかはわかりませんが(多分なかったでしょう)、当時は荷物輸送にも力を入れていましたね。昔の駅弁は諸物価に比べて安かった印象です。
八戸からは盛岡、仙台通過で長町停車だったのか…。貨物線経由?
楽天モバイルパーク宮城経由だよ
この頃、仙台駅では夜間の新幹線工事のため夜行列車が貨物線経由でした。客扱いする列車は長町に代替停車していたようです。
途中、挙げていただいていた写真で「かにめし」がありましたがあれだけ入って豪華なのになんと包装紙に書かれた価格が『¥300』(゚o゚;!!時代を感じますねぇσ(^◇^;)。青森から接続する急行十和田がことごとく仙台停車ではなく長町に停車していたのには驚きでした。荷扱いの為に長町に停車させて仙台を通過という扱いにさせたのでしょうかねぇ?ところで、松前丸船内で案内の場面で出ていた時刻表に「特急ゆうづる7号」が寝台特急ではなく全車指定席の座席使用の夜行特急だった事を知ってビックリ(*゚д゚*)です・・・。
東北新幹線工事のためだとアナウンスされてましたよ。工事のために貨物を迂回し長町で客扱い、仙台まではバスが出ていたようですね。
時刻表の駅弁案内欄では「かにめし」はすでに400円になっていました。掛け紙は何枚か保存してあるのですが、400円のものがなく、遊び心もあって300円の掛け紙を使用いたしました。参考までに同月の時刻表では遠軽駅の「かにめし」は500円になっており、長万部の「かにめし」は安くて美味しかった印象があります。仙台駅は通過ではなく新幹線工事のため、夜行列車は仙台駅を通らない貨物線を通っていたためです。地図アプリなどで仙台駅近辺をご覧いただくと位置関係がナルホド・・・と思います。「ゆうづる7号」に関しましては誠に申し訳ありません!!!。前年の10月改正で、全車指定から寝台列車に変わっています。本州に関しましては該当する月の時刻表が手元になく、約9か月前の1976年(昭和51年)7月号を使用したため、正確さを欠いてしまいました。お詫び文を概要欄にも追加させて頂きました。1976年(昭和51年)10月 の改正まで「ゆうづる」の1往復は583系を使用しながら人員不足の関係で座席車として運行していました。
上りゆうづる7号に寝台マークがない
この急行十和田3号の牽引機はなんでしょうか。
すみません。牽引機の記録をこまめに取っていませんでした。この方面に詳しい方のご教示に期待いたします。
@@急行-宗谷平らか水戸より先はEF80が牽引してたと思います
あ、昭和60年には仙台に停車してました。資格試験で函館から仙台での乗車でした。
その頃には仙台駅の工事も終わって新幹線が乗り入れていたのですね。
@@急行-宗谷 はい、埼玉にいた高校時代の同級生に会いに「青葉」で行きました。お土産は、仙台駅弁のはらこめし、これ美味しいんですよー。味付けが北海道にはない微妙な味です。
@@急行-宗谷 あ、すみません。はらこめしは、イクラと鮭の切り身の弁当です。
9:54ゆうづる3,4、5,6,7と片っ端から仙台通過ですね十和田も仙台通過ですし。新幹線工事大変だったのでしょうね=-長町停車でなんとか仙台停車ってことにしている苦労がわかります。この4D-4便ときて4M が無いのですよね。18便系列、16便系列が盛アオ側でしっかりあるのに。なぜ、ゆうづる5号は4Mじゃなく14Mだったのだろう?もちろん583系だから4レじゃないのはわかるのですが。。。。おしえて、エライ人!
寿司なのに200円
安い寿司は稲荷寿司ですね。大抵はお稲荷さんとのり巻きで、今ならコンビニのおにぎりのような感覚ですかね。
物価というか貨幣価値の差
いつも懐かしい音源ありがとうございます。情景が目に浮かびタイムスリップしたい衝動に駆られます。
早速のご視聴とコメントありがとうございます。過ぎ去った遠い昔の情景を思い浮かべて頂けましたら嬉しいです。
この列車は、昭和46年9月15日まで小樽と長万部間でシロクニ重連で有名でした。その後はDD51型重連に変わりました。季節列車の日本海2号は14系座席車でその後は24系25,型に変わりましたが季節列車の頃の24系25型はあまり運転日数は多くはありませんでした。ゴウサントウダイヤ改正で定期の寝台特急日本海4号になっています。下りの日本海1号は連絡船の接続はあまりよくありませんでした。
また、こういう旅をしてみたいものです。
今は新幹線か飛行機しか選択肢はなく、長旅のわくわく感はありません。
この時代は車内放送を聞き、乗り継ぎし、駅弁を楽しみ、移動の時間を楽しんだものです。
いま思えばそれが最高の贅沢だったようです。
そうした時間を追体験させていただきました。
そうですよね。長旅のわくわく感ってありました。
飛行機は便利ですが、「早く着かないかな・・・」と思ってしまいます。
窓を開けて駅弁を買ったり、乗り換えの時にも食料や飲料を仕入れたり・・・そんな旅が楽しかったです。
懐かしい体験だ。私は北海道へいつも東海道新幹線と東北新幹線乗り継いで行きます。青函トンネルをくぐる時の不思議な緊張感が好きです。ほとんどの人が飛行機でしょうが、私は鉄道が好きです。兵庫県の福知山線三田駅(さんだ)から稚内まで鉄道乗り継いで行く面白さは特別です。
ハイケンスのセレナーデからすでにヤバかったのですが、その後に続く松前丸以下の失われた列車愛称を聞いていると、涙が堪えられませんでした。
自分も年を取ったなあ…と痛感しました😭
勿論、わたくしもいい年ですが、古い録音からスライドショーを作っていると、忘れていた様々なことを思い出します。古い記憶をよみがえらすことで認知症予防になるか、それとも昨日のことは忘れても40年前のことは覚えている老人になるのか・・・いずれにしても他界すればゴミになってしまうコレクション類をこんな形で公開できる場があって良かったです。
@@急行-宗谷 認知症にはまだまだ早いでしょう〜😆
例えば「匂いの記憶」というのは、脳の中でも原始的な部分にあることで長く保たれるのだそうですが、ひょっとしたら「音の記憶」も似たようなものなのかも知れませんね😀
上野までの収録は本当に貴重だと思います。いいものに出会えました。感謝します😉
@@石川ザフリッパー 様。有難うございます。励みになります。
急行ニセコといえばC62重連が真っ先に思い浮かべられ、当時の記録もSLの走行音に焦点が当てられたものがほとんどです。
こうしてDL化された後でもこの車内風景は日常の乗車体験を再現するものです。当時SLばかり追いかけていた我が身からすれば、この記録はむしろ本来の鉄道風景を再現するもので記憶から消えた過去を思い出させてくれました。
蒸気機関車良し、ディーゼル機関車も良しで、北海道の鉄道は楽しいです。年々縮小されていくのがさびしい限りですが。
いつも懐かしく聞かせていただいております。C62重連からDD51重連に替わった後、小沢駅にて見送ったことがありました。倶知安峠に向けての全力ダッシュはC62重連の迫力にはおよびませんでしたが、それなりの凄まじさがありました。その時の機関士さん「C62重連に比べて楽にはなったけど、見向きもされない。」と言われてました。前補機・本務機とも五稜郭機関区配置で前補機は長万部まで、下り103列車で再び前補機を務めたのち「利尻」で稚内往復、明後日のニセコの本務機で五稜郭機関区へ帰るという運用まで教えてくれました。
機関車の運用も広範囲にわたっていて、ダイヤが乱れた時は大変だったでしょうね。
チャンネル登録済みの1958年生まれです。北海道の鉄道が大好きです。耳から入ってくるものでさまざまな風景が呼び起こされ、その時の匂いまで蘇る…そんな体験をさせていただいています。
有難うございます。目に映る写真や動画よりも、耳から入る音の方が様々な情景を思い起こせる・・・正にそれこそが意図するところです。思いを汲み取って頂けて嬉しいです。
このルートのあと東京から名古屋まで急行高千穂桜島を利用して、札幌から約30時間をかけて移動したことがあります。
桜島・高千穂、懐かしいですね。昼間の東海道本線を走った旧型客車の急行列車・・・今では考えられないですね。名古屋で降りるのが惜しくなってしまいそうです。
@@急行-宗谷 サン、乗ることもなく廃止になりました
またまた貴重な音源ありがとうございます
松前丸の音源て言うのがマニアックです
概要欄に記しましたように特に選んで乗船していませんでしたので松前丸に縁がありました。
松前丸は他の姉妹船に比べで引退が早かったですね。
@@急行-宗谷
松前丸は、津軽丸型の中では唯一、地元函館で製造された船だったんですね。
そんな函館ゆかりの船が、早々に引退してしまったのは残念ですね。
急行ニセコの札幌駅発車時、ED76はホイッスルでなくタイフォンを鳴らして発車していましたね。
あと、青函トンネル開通後函館始発になる日本海2号(後の4号)のスジが当時季節列車だったのですね。
またしてもサプライズでした。ありがとうございます...
自由席に乗っていると先頭の機関車までが遠くて、タイフォンの直前に小さくホイッスル音を拾っている程度です。
タイミングが紛らわしいですが、タイフォンはニセコではなく別な車両のものですね。
時刻表では同じ10時20分発は見当たりませんので、回送か何かの警笛と思われます。
この松前丸は、高校の修学旅行で深川からの「おおぞら」からの接続で乗り、その後「ゆうづる」に乗りました。懐かしい。
今回は珍しく内地、それも上野迄のロングランでしたね。当時の都心の乗り換え放送はなかなか聞く機会がないので新鮮に感じました。晩年の青森発のゆうずるラッシュは知ってましたが、この時代の充実ぶりはすごいですね。常磐線経由が距離的に近い為ですが、私は東北線オンリーの八甲田やはくつるが好きでした。
新幹線開業時期延期とバス運転手不足による代替輸送の難航で山線の動向が注目されています。
以前、札幌→上野を作った時は長すぎて2編になってしまいましたが、今回はなんとか1編にまとめることができました。それでも20分を超える長旅にお付き合い頂き有難うございます。
東北新幹線がない頃、東北の夜行列車群は大活躍でしたね。そんなこともすでに遠い昔のことになってしまいました。せめて北斗星のような列車だけでも残ってほしかったです。
函館本線の山線は余市~小樽間以外にも外国人旅行客などで混雑する列車もあるそうですね。「それならば存続しましょう・・・」とならないことが残念です。
山線は開通した時期が早く、隧道や橋梁など、維持していくとしたら、改修が大変だそうですからやむを得ないとは思いますが・・・
長い北海道の旅の終わりですね。あさまやときの乗換案内聞くとなんとも切ない気になったものです。
関東在住の方は上野で北海道旅行を終えたことと思いますが、関東以外にお住まいで、その先へと乗り継いで行った方も多かったことでしょう。
急行宗谷さま、また貴重な録音から動画編集録画アップロード作業をありがとうございます。今回は昼行客車急行ニセコ1号から青函連絡船4便、そして臨時夜行急行十和田3号ですね。
昼行客車急行ニセコ1号は朝10時20分札幌始発という事もあって、グリーン車も含めた指定席車両3両と荷物車と郵便車も連結した、堂々とした客車急行ですね。札幌市内第一便投函の速達郵便を当日中に道内西南部へ配達する為にフルで働いたことでしょう。函館駅での接続に青函連絡船と共に江差線と松前線にも接続列車があって、札幌市内用務を終えた出張族が沿線の自宅へ帰り着くにはベストな列車であった事が忍ばれます。
青函連絡船4便松前丸は画像内情報にもある通りに普通船室、グリーン自由席(座席とカーペット席)、グリーン指定席、2段式寝台室と、多用途に対応した豪華な客室構成でした。フルリクライニングシートのグリーン指定席と自由席カーペット席と食堂は利用した経験はありますが、グリーン自由席と寝台船室は利用せずに終わりました。
青森駅でのゆうづる5号6号の5分差出発は壮観だったと推察いたします。電車寝台とグリーン車のみで、せっかくの食堂車は営業休止だったと思われます。
臨時夜行客室急行十和田3号は普通車指定席6両自由席6両の12両という堂々たる12系客室編成で、ディーゼル発電機付き車両でなければ快適に乗車出来たものと推察いたします。翌朝は日立駅や水戸駅での立ち食いそば屋や駅弁屋さんが大層売れた事でしょう。
前にも投稿しましたが、有効期間ギリギリの乗車券類で日付けが変わるギリギリの夜行列車に乗車した場合には、その夜行急行から一度も下車せずに継続して乗車船したままであれば追加運賃料金無しで終着駅まで行くことが出来る規則が存在するので、北海道均一周遊券東北均一周遊券でも有効期間最終日に十和田3号に乗車して、その翌日に上野駅へ降り立つ熱心な鉄道ファンが居たそうですね。昭和52年当時は東北新幹線建設工事が佳境を呈していた為に、夜行列車は仙台駅を通らない東仙台貨物線経由で、夜行急行のみ長町駅に停車して仙台駅まで臨時連絡バスが運行されていたのですね。
長旅を終えた上野駅ではホーム上に残されていた洗面台で身繕いしてから都内の自宅、若しくは更に先にある目的地に向かって乗客たちは別れていった事でしょうね。継続乗車船組は一旦上野駅集札口で周遊券始め乗車券と急行券を渡してから目的地へと向かっていったのでは?
上信越線特急への接続案内とは!高度成長期後の先進国の仲間入りをした当時の出張勤務の日本人は本当にタフガイでした。
急行宗谷さまの次回作に期待しつつ駄文を書き連ねた感想文を〆させていただきます。ありがとうございました。
いつも丁寧なコメントを有難うございます。
上野到着前に上信越線方面の乗り換え案内があるのは常磐線ならではですね。東北本線だと大宮到着前に案内されるので。
軽いお遊びで始めたTH-camですが、早や3年が経ちました。今では多くの方から頂戴する思い出や感想などを拝見するのが楽しみになっております。
じっくりとご観賞頂けるのは嬉しいのですが、駄作は出しづらくなってしまいますね。まあ、どう転んでも変わり映えしない内容ではありますが・・・。暑い季節は作業も休みがちですが、なんとか続けてまいります。
長いってw
改行入れてくださいな
@@sarah_connor48 さま
コメントありがとうございます。TH-camコメント欄の仕様で、過度な改行を使いまくると書き込めなくなります。
一応列車、連絡船、周遊券継続乗車船、上野駅での乗り継ぎ案内と、話題ごとに段落替えしていますので、どうかご堪忍お願いします。
いえいえ長文も大歓迎です。文章作成にも時間がかかったことでしょう。
当時の急行に14系座席車と寝台車の連結はありません。十和田は旧型客車か昭和51年10月ダイヤ改正から14系座席車オンリーのどちらかであって12系座席車が運用につくのは昭和54年4月からですし、20系に1往復が使用されるのは昭和52年10月ダイヤ改正からです。臨時十和田はもっぱら12系座席車でした。
この乗り継ぎは、1977−1982年にかけて10回くらい使ったかな。ほぼ24時間かかる行程でしたがミニ周遊券で乗れる貴重な列車でした。途中からニセコも14系になり快適度が増しましたね。でもこの旧型客車のジョイント音も良いです。窓を開けて風を浴びながら、DD51重連の排気の匂いを微かに感じたあの経験が、これほどいま得難いものになるとは。このような貴重な動画を上げていただきありがとうございました。
周遊券で乗れる急行列車、有難かったですね。
道内の夜行列車では旧型客車にばかり乗っていましたので、14系は確かに快適に感じられました。
古い録音から遠い昔の情景を思い出して頂けましたら嬉しいです。
DD51時代に乗車した記憶が蘇ってきました。また乗車したいなあ。山線廃止前にリバイバル運行が有れば行きたいです。
C62時代は乗ったことがありませんが、DD51でも情緒たっぷりでしたね。
そうなんですよね。目覚めた時にはC62は!
鉄道ジャーナルだったか忘れましたが雑誌でニセコのDDの重連の写真を見て初めて北海道に行った際にニセコに乗車したものです。もう40年以上前なので記憶が薄れてきました。戻りは札幌ー函館の山線周りの夜行だった記憶が。旧客だったと思います。
急行の利尻や天北が走っていた頃ですから、あの頃に比べて随分寂しくなったなあ。と感じるこの頃です。
ニセコを引っ張って利尻まで引っ張ったのか。凄いですね。
青函連絡船には当時すべて乗ったつもりでいましたが、松前丸は乗っておらず、乗る前に廃船になってしまったようです。
ニセコも14系になってから乗ったので旧客の時代は知りません。
青森から上野までの急行も、十和田か八甲田で、津軽は青函連絡船との接続は考慮していません。当時は周遊券需要が多かったと思いますので、急行自由席利用が盛んでした。
津軽の自由席は秋田、山形の利用が多く上野口で慢性的な混雑があったため、青函連絡船の接続を担うと津軽本来の利用者が乗れない(座れないではなく乗れない:積み残し)となるためということです。
実際に津軽は、昭和57年11月の改正で1往復となり自由席が20系使用のナハ21になったとたん平日でも連日積み残しとなり問題になったくらいです。
大阪に行く日本海には、修学旅行需要もあったため接続が考慮されています。
古い時刻表が出てくるとその時の事情も思い出され大変貴重なものです。
ありがとうございました。
スライドショーを作りながら古い音声を聞いたり、当時の時刻表を眺めていると、忘れていた記憶がよみがえってまいります。気が付けば随分遠い昔のことになったものです。
UPしたスライドショーをご視聴の方も同様に、当時のことを思い出して頂けましたら嬉しいです。
旧型客車時代の急行津軽は昭和53年に乗ったことがあります。
当時は津軽も2往復で、上野では津軽1号の17分前に八甲田が発車していましたが、おっしゃる通り、八甲田も津軽も盛況でほぼ満席状態でした。
青森で連絡船の接続は46分待ちでしたが、いつもは慌ただしく乗り換える青森駅で、改札の外に出たりしながら珍しくゆっくりでき、今思えば適度な乗り換え時間でした。
小樽での停車時間は六分。そのわずかな時間で機関車を付け替える。ものすごい仕事ですね。
小樽からはいよいよ本格的な山線。少し長めの停車時間が一層ワクワク感を増しますね。
C62でなくDD51でも楽しいひとときでした。
高校の修学旅行で、おおぞらに乗って松前丸で青森からの寝台はどちらか忘れましたが、懐かしいなー。
修学旅行の思い出と共に懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
こんばんはお久しぶりです
お元気ですか?
この頃は山線活気がありましたね😊今は余市を過ぎると車内の中も寂しい限りです😢岩内線胆振線瀬棚線
江差線松前線全て廃線に
なってしまいましたね😢
連絡船も懐かしいです
ラ-メンが美味しかった
記憶があります😅
十和田号も大好きでした
周遊券利用していた人は
八甲田号と十和田号
利用してましたね😊
何時も素敵な音声ありが
とうございます😊
暑い日が続きます。体調気をつけてお過ごし下さいね
お久しぶりです。いつも通り絵文字いっぱいの文面から、お元気でお過ごしと推察いたします。お元気そうで何よりです。
以前も札幌→上野を公開させて頂きましたが長過ぎて2編になってしまいました。今回は何とか1編にまとめてみました。それでも20分を超える長旅になってしまいましたがお付き合い頂き有難うございます。
周遊券の旅楽しかったです。路線も列車も豊富にありましたので。鉄道が元気な頃に、自分も元気で旅ができて良かったです。
また猛暑がやってきました。お互いに体調に気を付けて乗り越えたいですね。
@@急行-宗谷さん
元気ではなかったです
あの頃に帰りたいですね
何時もありがとうございます😊
@@0806kana 様。体調崩されていましたか? 申し訳ありません。
@@急行-宗谷 さん
とんでもないです(◍•ᴗ•◍)
kana様。どうかお大事に。
このシリーズ、興味よく視聴してます。
私メはもう少しあと、連絡船末期から青函トンネル初期(84頃~2000ごろ)なので。
「ニセコ」にも乗りましたが、私メDCでした。
青森からは「鳥海」だったかな。
2往復あった急行ニセコ、気動車の方が先に廃止になってしまいましたね。
客車の方は荷物車の関係もあって、14系に姿を変えてしばらくは残っていましたが・・・
はこ〜だでぃ〜が懐かしいです。
情緒がありましたね。函館駅の放送はいつも元気いっぱいだった印象です。
@@急行-宗谷 さま
ありがとうございます。
急行宗谷は11時50分発の山線急行という印象が強いです。40分発特急おおぞら、45分発特急おおとり、そして急行宗谷です。
0:09
蒸気機関車の時代1~4号車まで、📦️🏣だったから、C62のテンダーが見れ無くて残念な思い出が...😢
(古い記憶だけど、確かあの時は、C622+C6216だったかな?)
DD51ではありますが、自由席に乗ると先頭の機関車までが遠く、これまた残念・・・
岩見沢に住んでいた私。中学の修学旅行、高校の修学旅行と、いずれも特別列車で函館まで乗り、青函連絡船で青森まで行きました。
高校ではそれから日本海周りの寝台列車で京都まで行きましたよ。
修学旅行の思い出と共に当時を思い出して頂けましたら嬉しいです。
35年前、山線回りの札幌発特急北海で函館へ、青函連絡船に乗船して青森から夜行急行の八甲田か十和田に乗って東京へ。夜行急行は4人がけの固定直角座席でした。
「急行」と言えば4人向かい合わせのボックス席が定番でしたね。
14系の急行に乗った時は素直に嬉しかったです。しかもこの時は前の座席を回して4人分を使用できました。
十和田3号は十和田1号と違って300頃仙台を通るため、新幹線工事の影響(仙台通過、長町停車)はなかったんですよね
ちなみに、春臨は1977年1月時刻(1976年冬臨)と同じ時刻です
長万部名物・かなやのかにめし、この当時の300円の価格に驚きです!
現在は約4倍の価格、物価の上昇を感じます、、
時刻表の案内欄では録音当時、「かにめし」はすでに400円ですが、掛け紙は何枚かあるうち、遊び心で一番古いものを画面に使用いたしました。「300円」に気付いて頂き有難うございます。
掛け紙の左上に「均一周遊券」とありますが、「ワイド周遊券」と呼ばれるようになったのは1974年頃だったようです。
今は亡き上野駅18番ホーム。昔、東北からでて来た(逃げた?)家出少年が鉄道保安官に保護されるニュース特集していたのを見たことあります
歌に歌われたり、ドキュメンタリーで紹介されたり、ドラマの一場面に登場したり・・・昔の上野駅は独特の雰囲気がありましたね。
新幹線ができ、夜行列車がなくなり、さらには上野東京ラインができ、すっかり変わってしまいました。
丁度この経路で札幌から東京へ帰郷した当時を思い出しましたなみ😂
それもいい思い出ですね。今なら飛行機でしょうから・・・
特急いなほって昔は上野発だったのを今知りました。
特急いなほ号がデビューしたのは昭和43年10月だったように思います。あの時のダイヤ改正はテレビで特集番組が放送された記憶があります。同改正でデビューした特急「にちりん」「ひだ」「ひたち」などです。古い話になりましたね。あの頃私は大怪我をして神戸市内の病院に入院していました。心の中で早く退院して、いつか必ずこれらの特急列車に乗ることを心に決めました。全て乗った訳ではありませんが、今もあの時の大怪我の後遺症と闘っていますが、鉄道マニアの心は今も続いています。
北海道への行きか帰りに「いなほ」に乗ってみたいと思っていましたが実現しませんでした。
仙台駅は東北新幹線の工事で夜行列車は宮城野貨物線経由で
長町駅に停まってたんだよね
そんなことも遠い昔のことになってしまいました。
新幹線を貨物線に沿って作り、どこかに「新仙台駅」を作った方が工事はラクだったと思いますが、現在の仙台駅に乗り入れるようにしたのは英断だったと思います。
この車両にも、かの有名なマニ30も連結されていたんですよね。駅弁の値段と内容が凄く気になります。
この時のニセコにマニ30が連結されていたかどうかはわかりませんが(多分なかったでしょう)、当時は荷物輸送にも力を入れていましたね。
昔の駅弁は諸物価に比べて安かった印象です。
八戸からは盛岡、仙台通過で長町停車だったのか…。貨物線経由?
楽天モバイルパーク宮城経由だよ
この頃、仙台駅では夜間の新幹線工事のため夜行列車が貨物線経由でした。
客扱いする列車は長町に代替停車していたようです。
途中、挙げていただいていた写真で「かにめし」がありましたがあれだけ入って豪華なのになんと包装紙に書かれた価格が『¥300』(゚o゚;!!
時代を感じますねぇσ(^◇^;)。
青森から接続する急行十和田がことごとく仙台停車ではなく長町に停車していたのには驚きでした。
荷扱いの為に長町に停車させて仙台を通過という扱いにさせたのでしょうかねぇ?
ところで、松前丸船内で案内の場面で出ていた時刻表に「特急ゆうづる7号」が寝台特急ではなく全車指定席の座席使用の夜行特急だった事を知ってビックリ(*゚д゚*)です・・・。
東北新幹線工事のためだとアナウンスされてましたよ。
工事のために貨物を迂回し長町で客扱い、仙台まではバスが出ていたようですね。
時刻表の駅弁案内欄では「かにめし」はすでに400円になっていました。掛け紙は何枚か保存してあるのですが、400円のものがなく、遊び心もあって300円の掛け紙を使用いたしました。
参考までに同月の時刻表では遠軽駅の「かにめし」は500円になっており、長万部の「かにめし」は安くて美味しかった印象があります。
仙台駅は通過ではなく新幹線工事のため、夜行列車は仙台駅を通らない貨物線を通っていたためです。地図アプリなどで仙台駅近辺をご覧いただくと位置関係がナルホド・・・と思います。
「ゆうづる7号」に関しましては誠に申し訳ありません!!!。前年の10月改正で、全車指定から寝台列車に変わっています。本州に関しましては該当する月の時刻表が手元になく、約9か月前の1976年(昭和51年)7月号を使用したため、正確さを欠いてしまいました。お詫び文を概要欄にも追加させて頂きました。
1976年(昭和51年)10月 の改正まで「ゆうづる」の1往復は583系を使用しながら人員不足の関係で座席車として運行していました。
上りゆうづる7号に寝台マークがない
この急行十和田3号の牽引機はなんでしょうか。
すみません。牽引機の記録をこまめに取っていませんでした。この方面に詳しい方のご教示に期待いたします。
@@急行-宗谷平らか水戸より先はEF80が牽引してたと思います
あ、昭和60年には仙台に停車してました。資格試験で函館から仙台での乗車でした。
その頃には仙台駅の工事も終わって新幹線が乗り入れていたのですね。
@@急行-宗谷 はい、埼玉にいた高校時代の同級生に会いに「青葉」で行きました。お土産は、仙台駅弁のはらこめし、これ美味しいんですよー。味付けが北海道にはない微妙な味です。
@@急行-宗谷 あ、すみません。はらこめしは、イクラと鮭の切り身の弁当です。
9:54
ゆうづる3,4、5,6,7と片っ端から仙台通過ですね
十和田も仙台通過ですし。
新幹線工事大変だったのでしょうね=-
長町停車でなんとか仙台停車ってことにしている苦労がわかります。
この4D-4便ときて4M が無いのですよね。
18便系列、16便系列が盛アオ側でしっかりあるのに。
なぜ、ゆうづる5号は4Mじゃなく14Mだったのだろう?
もちろん583系だから4レじゃないのはわかるのですが。。。。
おしえて、エライ人!
寿司なのに200円
安い寿司は稲荷寿司ですね。大抵はお稲荷さんとのり巻きで、今ならコンビニのおにぎりのような感覚ですかね。
物価というか貨幣価値の差