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お花の髪、カラーセンス抜群✨カテゴリーにも見事にマッチ✨お話も凄〜く分かり易いです✨
大変わかりやすく拝聴させて頂きました!物自体things-themselvesとは別の現象は、物自体を因果関係で説明する理性の超越的な力の証左であるから、その限りで人間には自由裁量があるっということをカントは述べたのでしょうか?
ご視聴ありがとうございます。ご質問について、カントがどのように述べているかはすぐ調べられないのですが、私の理解ではそのようには述べないと思います。というのも、確かに因果関係などを推定するのは理性の能力なのですが、それは無条件的・無制約な能力というよりは、悟性のカテゴリーに制約されている能力だと思われるからです。むしろ自由なのは動画でも述べたように、道徳の面にあります。カントが重要視するのは意志の能力であり、善なる意志を持つことは、まったく無条件・無制約的です(ストア派のようなものですね)。仮にその意志した行為が実行不可能だとしても、それは意志を持つこと自体にはいささかも妨げません。したがって、人間の自由は道徳においてこそ確認されるというのがカントの自由論かと思います。
なるほど、悟性と道徳の区別は意味深いですね。どうも、悟性も道徳も、用いられるものである以上、悟性や道徳を用いるもの(カントならそれを意志と呼ぶのでしょうが)という区別に照らして、人間の自由が確定されるのでは、というように考えてしまいました。『アルキビアデス』(プラトン)で述べられた、使われるもの/それを使うもの、の区別に照らして、悟性や道徳(意志)に関するカントの主張が、いかほど新しいのか、気になるところですね。
アルキビアデスでそんなこと言ってましたか。おもしろそうな論点をありがとうございます。
Categorical Imperative=定言命法がカントは特徴的ですね。よく読んでみても、カントの三批判書は大陸合理論とイギリス経験論を統一した!というのがわからないです。ネオさん分かっていたら教えてください。
知性のいとなみによって、畏敬の念が生まれ、秩序がより、美しく輝く、本当ですね。
法則なんて、所詮は人間が作り出したモノに過ぎないからアテにならない…と考えるのが凡人の発想ですが、人間(の理性)が産み出してるからこそ、人間が経験しうる限りの世界においては絶対的に正しいのだ!とやったアイデアは、現代の眼から見ても驚嘆に値すると思います
自然法則も道徳法則もキリスト教と関係ないと思うのです。特に道徳法則は神からもたらされたものではなく、神が喜ぶように行動するわけでもないです。当時のキリスト教はカントをどう見てたのか。カントの顔が地味で、とても悪いことするような顔にはみえないし、敬虔なクリスチャンだったから、教会もクレームつけなかった?
カント晩年の宗教論『単なる理性の限界内における宗教』では、カントは理性宗教を是として、啓示宗教(キリスト教)に対して手厳しいことを述べたと解釈され、怒られています。
いや、違うじゃん。法則が物にはないのではなく人間が法則を感じているので物には法則がなく人間の知性に法則があるというのは、人間の心が法則や根拠を存在させているという意味であって、物自体に法則や根拠がないのではなく、法則や根拠というものが人間が生み出したものに過ぎないというだけのことであって、では物自体に法則や根拠はあるのかと言えば、それはあるんですよ。ただもちろんそれを観測したり理解したり定置した利基礎づけたりすることは、その根拠や法則を見出している人間にしかできないということであって、根拠や法則が物自体にはないという意味にはならないでしょう。逆に言えば、物自体があるから人間が根拠や法則なるものを生み出すことができているのであって、物自体がなく我々が精神だけの存在である場合、根拠や法則という概念を見出すことはできない。つまり、根拠や法則が物自体、或いはその物が現わす様にだけあるという証明となるのではないですか?いや違う、物が様を現わしているのだから物自体には根拠や法則がないという反論はもちろんその通りですが、物自体がなければその様自体がないのだから、物自体に根拠や法則があると言っても差し支えなく、物の様に根拠や法則があり物には根拠や法則は無いというのであれば、人間の知性にも根拠や法則は無いというのが、定義上、正当なものです。なのでカントは天才だろうと何だろうと、現代の知的生命体がそれが正しいとするようなものではなく、あくまでこうした考えが元になって現代の知能があるというような一種の失敗例や成功までの足掛かりとしてカント哲学は用いられるべき。表現に矛盾が存在するからである。翻訳などの間違いである可能性は大いにあるが、、、
物自体についてはカントも揺れていまして、物自体は一切究明できないなにものかではなく、ご指摘のような性質が物自体にあると推定せざるをえないと述べていることもあったはずです。鋭いコメントをありがとうございます。
@@neomin そうですか、こちらの配信ではその説明や概念が排除され、カントのエッセンスを語られているというような感じなんですかね。失礼しました。
少し正確に私の解釈を申し上げる機会をいただきましてありがとうございます。物自体はわれわれを触発するなにかではあるが、ただ思考によってのみ存在することだけが言われうるものであり、物自体の本性はまったく認識不可能というのが基本です。なので、「物自体に法則や根拠がある」というのは理性による過剰な誤謬推理と裁定されるかと思います。われわれが論じうるのは「現象に法則や根拠があるのかどうか」であって「物自体に法則や根拠があるのかどうか」は論じられません。そして「物自体はない」という考えもカントはもたないのであって、それは純粋理性においてはわれわれを触発し表象を作り出す原因がわれわれの外部にあるからであり、実践理性においてはわれわれの自由を保証するものですから。とはいえ物自体とは、現に疑問に思われているようにたぶんに問題を多くはらむ概念であり、たびたび批判にさらされています。以上です。忌憚なきコメントをありがとうございます。
@@neomin おそらく、物自体の本性ではなく全容と言い換えた方が適切かと思われますが、本性であれ全容であれそんなものは問題とはなっていません。理性による過剰な誤謬推理と裁定されようとされなかろうと、問題とするべきは、人間の心に根拠や法則があるという定義が前提となるのであれば、物自体に理性による過剰な誤謬推理と裁定されるのと同様に、心にも理性による過剰な誤謬推理と裁定されるべきだという相対的な基礎付けが成されることが論理的であろうという意味であり、言語的な定義として成り立たないものは哲学としても論理構造上、成り立たないと言っているだけであり、カントの頭が悪いだとか言ってるわけでもなく(思ってはいるが、カントなどの人類の先人たちの英知によってそう思えるまでに人類が到達していると考えている)、歴史的な哲学の軌跡の経緯の説明としてカントは取り上げられるべきものであると申しているものであり、あなたの解釈に問題があると言っているわけでもありません。私が問題としているのは、カントの基礎付けに矛盾があることです(私くしは原書などを読んだこともないので正直全く責任などを負うつもりもないが、その通りなのであれば、まぁ私くしは評価されても良いとは思うが、すでに世界一の哲学者なので、そんなものには大して興味はない)。繰り返しになりますが、基礎付けという観点から考えて、知性に法則や根拠があると定義するのであれば、物自体に法則や根拠があると言っても差し支えなく、知性にも物自体にも法則や根拠はないという言い方でも基礎づけはできますが、根拠や法則というもの自体が知性や物自体があり発生しているものであるという事実を考慮すると、当然のことながら知性にも物自体にも法則や根拠があるとするのが妥当であり、事実であり、基礎付けという観点から推奨されるものであると論理上、断定ができます。つまり、人間が見ていようといなかろうと、地球は回っているということで、これを否定する場合、あなたが見ていない時に他の人が地球が回っているのを観測できるなんてことが起きてはならないということになるかと思われます(私くしの考えている基礎付けとは、論理的に確定的な揺るがない普遍性の高い土台を作るという意味)。
たびたびのコメントありがとうございます。ご主張の要点は、人間知性によって法則や根拠が発見できる以上、物自体にも法則や根拠があると言ってもよい(さもなくば法則や根拠は発見できないはずだ)、ということかと存じます。ところで、知性が見るのは現象であって物自体ではありません。なぜなら知性自らのフィルター(色眼鏡)を通じて見られるものだからです。現象においては法則や根拠の存在が発見されたとしても、それが物自体に由来しているかどうかはわからず、知性自らのフィルターに由来している可能性があります。したがって、知性によって現象の法則が発見されたとしても、それが物自体の法則であるとは言えません。そして学の基礎づけは物自体ではなく現象に基づくことによってのみ可能となるとカントは考えたと思われます。現象と物自体とを区別することがカント哲学のエッセンスです。もしかしたらご関心とは逸れているかもしれませんがご容赦くださいませ。
翻訳でいいから「純粋理性批判」「判断力批判」「実践理性批判」の三批判書を読めばいいと思います
仏教の本を読んでたら自然の反対は人工だと思っていたのに仏教的には法然かもしれない。
民は食を以て天とする
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物自体things-themselvesとは別の現象は、物自体を因果関係で説明する理性の超越的な力の証左であるから、その限りで人間には自由裁量があるっということをカントは述べたのでしょうか?
ご視聴ありがとうございます。ご質問について、カントがどのように述べているかはすぐ調べられないのですが、私の理解ではそのようには述べないと思います。
というのも、確かに因果関係などを推定するのは理性の能力なのですが、それは無条件的・無制約な能力というよりは、悟性のカテゴリーに制約されている能力だと思われるからです。むしろ自由なのは動画でも述べたように、道徳の面にあります。カントが重要視するのは意志の能力であり、善なる意志を持つことは、まったく無条件・無制約的です(ストア派のようなものですね)。仮にその意志した行為が実行不可能だとしても、それは意志を持つこと自体にはいささかも妨げません。したがって、人間の自由は道徳においてこそ確認されるというのがカントの自由論かと思います。
なるほど、悟性と道徳の区別は意味深いですね。
どうも、悟性も道徳も、用いられるものである以上、悟性や道徳を用いるもの(カントならそれを意志と呼ぶのでしょうが)という区別に照らして、人間の自由が確定されるのでは、というように考えてしまいました。
『アルキビアデス』(プラトン)で述べられた、使われるもの/それを使うもの、の区別に照らして、悟性や道徳(意志)に関するカントの主張が、いかほど新しいのか、気になるところですね。
アルキビアデスでそんなこと言ってましたか。おもしろそうな論点をありがとうございます。
Categorical Imperative=定言命法がカントは特徴的ですね。
よく読んでみても、カントの三批判書は大陸合理論とイギリス経験論を統一した!というのがわからないです。
ネオさん分かっていたら教えてください。
知性のいとなみによって、畏敬の念が生まれ、秩序がより、美しく輝く、本当ですね。
法則なんて、所詮は人間が作り出したモノに過ぎないからアテにならない…と考えるのが凡人の発想ですが、人間(の理性)が産み出してるからこそ、人間が経験しうる限りの世界においては絶対的に正しいのだ!とやったアイデアは、現代の眼から見ても驚嘆に値すると思います
自然法則も道徳法則もキリスト教と関係ないと思うのです。特に道徳法則は神からもたらされたものではなく、神が喜ぶように行動するわけでもないです。当時のキリスト教はカントをどう見てたのか。カントの顔が地味で、とても悪いことするような顔にはみえないし、敬虔なクリスチャンだったから、教会もクレームつけなかった?
カント晩年の宗教論『単なる理性の限界内における宗教』では、カントは理性宗教を是として、啓示宗教(キリスト教)に対して手厳しいことを述べたと解釈され、怒られています。
いや、違うじゃん。法則が物にはないのではなく人間が法則を感じているので物には法則がなく人間の知性に法則があるというのは、人間の心が法則や根拠を存在させているという意味であって、物自体に法則や根拠がないのではなく、法則や根拠というものが人間が生み出したものに過ぎないというだけのことであって、では物自体に法則や根拠はあるのかと言えば、それはあるんですよ。
ただもちろんそれを観測したり理解したり定置した利基礎づけたりすることは、その根拠や法則を見出している人間にしかできないということであって、根拠や法則が物自体にはないという意味にはならないでしょう。
逆に言えば、物自体があるから人間が根拠や法則なるものを生み出すことができているのであって、物自体がなく我々が精神だけの存在である場合、根拠や法則という概念を見出すことはできない。
つまり、根拠や法則が物自体、或いはその物が現わす様にだけあるという証明となるのではないですか?
いや違う、物が様を現わしているのだから物自体には根拠や法則がないという反論はもちろんその通りですが、物自体がなければその様自体がないのだから、物自体に根拠や法則があると言っても差し支えなく、物の様に根拠や法則があり物には根拠や法則は無いというのであれば、人間の知性にも根拠や法則は無いというのが、定義上、正当なものです。
なのでカントは天才だろうと何だろうと、現代の知的生命体がそれが正しいとするようなものではなく、あくまでこうした考えが元になって現代の知能があるというような一種の失敗例や成功までの足掛かりとしてカント哲学は用いられるべき。
表現に矛盾が存在するからである。翻訳などの間違いである可能性は大いにあるが、、、
物自体についてはカントも揺れていまして、物自体は一切究明できないなにものかではなく、ご指摘のような性質が物自体にあると推定せざるをえないと述べていることもあったはずです。鋭いコメントをありがとうございます。
@@neomin そうですか、こちらの配信ではその説明や概念が排除され、カントのエッセンスを語られているというような感じなんですかね。失礼しました。
少し正確に私の解釈を申し上げる機会をいただきましてありがとうございます。
物自体はわれわれを触発するなにかではあるが、ただ思考によってのみ存在することだけが言われうるものであり、物自体の本性はまったく認識不可能というのが基本です。なので、「物自体に法則や根拠がある」というのは理性による過剰な誤謬推理と裁定されるかと思います。われわれが論じうるのは「現象に法則や根拠があるのかどうか」であって「物自体に法則や根拠があるのかどうか」は論じられません。
そして「物自体はない」という考えもカントはもたないのであって、それは純粋理性においてはわれわれを触発し表象を作り出す原因がわれわれの外部にあるからであり、実践理性においてはわれわれの自由を保証するものですから。
とはいえ物自体とは、現に疑問に思われているようにたぶんに問題を多くはらむ概念であり、たびたび批判にさらされています。以上です。忌憚なきコメントをありがとうございます。
@@neomin おそらく、物自体の本性ではなく全容と言い換えた方が適切かと思われますが、本性であれ全容であれそんなものは問題とはなっていません。理性による過剰な誤謬推理と裁定されようとされなかろうと、問題とするべきは、人間の心に根拠や法則があるという定義が前提となるのであれば、物自体に理性による過剰な誤謬推理と裁定されるのと同様に、心にも理性による過剰な誤謬推理と裁定されるべきだという相対的な基礎付けが成されることが論理的であろうという意味であり、言語的な定義として成り立たないものは哲学としても論理構造上、成り立たないと言っているだけであり、カントの頭が悪いだとか言ってるわけでもなく(思ってはいるが、カントなどの人類の先人たちの英知によってそう思えるまでに人類が到達していると考えている)、歴史的な哲学の軌跡の経緯の説明としてカントは取り上げられるべきものであると申しているものであり、あなたの解釈に問題があると言っているわけでもありません。
私が問題としているのは、カントの基礎付けに矛盾があることです(私くしは原書などを読んだこともないので正直全く責任などを負うつもりもないが、その通りなのであれば、まぁ私くしは評価されても良いとは思うが、すでに世界一の哲学者なので、そんなものには大して興味はない)。
繰り返しになりますが、基礎付けという観点から考えて、知性に法則や根拠があると定義するのであれば、物自体に法則や根拠があると言っても差し支えなく、知性にも物自体にも法則や根拠はないという言い方でも基礎づけはできますが、根拠や法則というもの自体が知性や物自体があり発生しているものであるという事実を考慮すると、当然のことながら知性にも物自体にも法則や根拠があるとするのが妥当であり、事実であり、基礎付けという観点から推奨されるものであると論理上、断定ができます。
つまり、人間が見ていようといなかろうと、地球は回っているということで、これを否定する場合、あなたが見ていない時に他の人が地球が回っているのを観測できるなんてことが起きてはならないということになるかと思われます(私くしの考えている基礎付けとは、論理的に確定的な揺るがない普遍性の高い土台を作るという意味)。
たびたびのコメントありがとうございます。ご主張の要点は、人間知性によって法則や根拠が発見できる以上、物自体にも法則や根拠があると言ってもよい(さもなくば法則や根拠は発見できないはずだ)、ということかと存じます。
ところで、知性が見るのは現象であって物自体ではありません。なぜなら知性自らのフィルター(色眼鏡)を通じて見られるものだからです。現象においては法則や根拠の存在が発見されたとしても、それが物自体に由来しているかどうかはわからず、知性自らのフィルターに由来している可能性があります。
したがって、知性によって現象の法則が発見されたとしても、それが物自体の法則であるとは言えません。そして学の基礎づけは物自体ではなく現象に基づくことによってのみ可能となるとカントは考えたと思われます。現象と物自体とを区別することがカント哲学のエッセンスです。
もしかしたらご関心とは逸れているかもしれませんがご容赦くださいませ。
翻訳でいいから「純粋理性批判」「判断力批判」「実践理性批判」の三批判書を読めばいいと思います
仏教の本を読んでたら自然の反対は人工だと思っていたのに仏教的には法然かもしれない。
民は食を以て天とする