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秋元先生のカント倫理学は、『たんなる理性の限界内の宗教』を読んだ時のわたしのイメージと離れていなかったので理解しやすかったです。「結果で判断するのではなく、その内面を見ようとする」という部分は、恩寵(結果)があるかどうかはわからない。けれどもわたしたちが善を成すという道徳法則に従うこと。教会の儀式や形式だけの行為には意味がなくて、心がけが大事なんだということが書いてあったので、通じるなって感じました。ただ、そうすると気になることがあります。植松さんは、相手を説得することが出来ず、劣等感の克服のために犯行に及んだことは利己的な判断となり、道徳的な悪であり行為も悪。では、周囲の人はどうか。「考えが合わない」ことはよくあること。道徳的な悪にはならない。しかし、相手とのコミュニケーションとして無視や暴力は擁護できるものなのか。またその場合、どのような判断に基づく行為と考えられるのか、ということです。「相手のためを思って」無視や暴力につながる判断が妥当なのかわかりません。今回のケースは、親が子のためを思って躾をすることとは異なるように思います。わたしには、面倒なことに関わりたくないというコミュニケーションの拒否に見えます。これは利己的な判断とはならないのでしょうか。昨今、このような社会的抑圧や排除といったことがきっかけで事件につながるケースは多く、そのことを考える時、相談された周囲に「もしかすると・・・」という発想にいたらなかったとしても、植松さんに対する反応に配慮があってもよかったのではないかと思ってしまうのです。なぜなら、わたしたちは、いつだって植松さんにも周囲の人間にもなり得る可能性があるからです。カント倫理学のコミュニケーションの重要性という主張と、相手の内面を理解しようとすることと、相手を尊重して立ち入らないことが両立するのであれば、なおさら重要な問題なんじゃないかなと感じました。
秋元先生ありがとうございました楽しかったです。言語化が苦手でして汗距離感っと言うか範囲と言いますか時間というか、が一定してない様な気がして引っかかる部分が多々ありまだまとまりません。出かけているのですが言語化に出来てないのでまたコメントさせていただきます。ネオさんありがとうございました。
最近読もうと思って買ったところです!著者から直接細かく聞けるのは素晴らしい!ネオさんありがとうーっ!
待ってました!楽しく拝読させていただきました!大多数に現在、誤ったことをしている。と見える場合でも、その人含めたマイノリティだけが結果的に正しいという場合ってありますよね。結果は気にしないのがカントであるがゆえに、善意の行動による結果の揺れが生まれて、結果に多様性が生まれて、倫理的には考慮されない結果においても人類にとって有益となったりすることがあるという妄想をしました。
とてもいい対戦試合を見せて頂きました!最初はやや押され気味?だったのが、中盤過ぎの動物倫理学や人間中心主義の話題になってから、俄然ネオさんが疊み込んでラストまで追い上げましたね💪😄
面白い!とても興味深かったです!
自然主義の私の考えとカントの考えは近いモノがあるなーと感じ、私もカント哲学を学んでみたいと思いました。
良い😊
盗人にも三分の理という諺と一緒の考え方なのかと思いました。この先生の言わんとしている事と、簡単に納得しない姿勢のネオさんとのやり取りに、哲学然としたものを感じました。カントってやばいすね!🎵
この動画がおもしろかったので、自分でも読んでみてます。もしかすると、『実存主義とはヒューマニズムである』でカント批判をした箇所について、訂正しなければならなくなるかもしれません。。
お話、興味深く聞いていて思い出した映画があります。『猿の惑星』です。あの衝撃的なラストシーンの、昭和の作品ではありません。最近の三部作品です。 この映画、思ったより、かなり哀しい映画でした。物語は、人間と猿の立場が逆転していく過程を描いています。特に、主人公の猿(IQ が高くなっていく)が、他の動物のように、劣悪な環境、扱いを受けて、おもわず『ノー!!』と、知性ある人間のように、感情をあらわに叫んだシーンは印象で、私には、ざわざわ…ってくるものがありました。この動画での、お話に通じるものがあると思います。
■【10:38】→うるさい日本の私(著:中島義道)♬\(^_^)/♬
そういやふたりとも日本にいねえ笑
勝手に纏めさせていただくと、カントの主張は道徳心は動機に由来するということですかね。おそらく意味としては通じているのでしょうが、しかし言語の壁で適切に表現しきれない配信であったのではないかと私目は感じております。というのは、善意や罪が動機に由来するというのであればわかるのですが(罪に関しては動機だけという意味ではない)、道徳や道徳心というものは書いて字の如く、道はおそらく道教に由来し、徳は善行によって積み上げられた運のようなものに由来しているかと思われ、であるとするならば、道教の理念の表裏一体と善行による輪廻転生が合わさった概念、即ち善悪の分からない現実の世界の中で良い巡り合わせを発生させる心が道徳心であると解くことができるかと思われます。つまり道徳自体がその動機として自らが良い想いをする為に良い行いを心がけることが実際に良い結果をもたらすという背景のある言葉だと言え、その動機自体がカントの言う定言命法からもわかる通り善意だとは言えません。前提となる損得が発生していることが前提だからです。ですのでカントのいう道徳心が善意のことであるのであればそれ自身で論理的整合性が成り立ちますが、私目の定義するところの道徳心である場合には、道徳心が動機に由来するという前提が整合的でないように感じてしまいます。ですので言語の壁があるのだと思われますし、そもそもカントの言う定言命法なるものは、自分がそうだと決めたから自分の自由が初めて行使できるということは、決めたとて迷いが生じたり、そもそもいやいや決めている可能性や時間軸が挿入された自由の定義からすれば自分が決めたという束縛が発生した時点で自由ではないという問題などの時間や階層的移動により生まれる矛盾も見受けられます。これと同じような現象が肉食の問題でも取り上げられていると思われるのですが、人間だから動物を食べても良いのであれば精神的な問題ではなく物理的な差が善悪を決定するというような前提となり、そもそもの善悪の定義と矛盾しますし、精神的な感覚から善悪が決められるべきなのであればどこか遠い異国のどこぞの悪い奴よりも自宅のペットの方が大切なのは人間の性であり、遠くの人間は食べても、或いは〇してもいいのではないか?という論理的整合性も発生します。善意(カントの言う道徳心)が動機だけに由来するのであれば上記の事から人食すらも正しいものだとなりますし、知的生命体が考える社会的な都合や社会善のことを善意(カントの言う道徳心)だとするのであれば同様に社会の為の障碍者施設大量殺傷事件も正当化されざる負えないものとなります。となると善意’(カントの言う道徳心)とは何か?正義とは何か?という問いに答える為にはその前提となる状態や要素を確定し、個別具体的に精査する必要があるということとなり、普遍的な正義なるものはこの世には存在しないということとなります。しかし唯一この世に普遍的な正義や善意なるものがあるのだとすれば、それはデカルトの我思う故に我ありに辿り着くのですが、「正しくあろうとするその心」だけが、この世で唯一普遍的な(人間がいないと成り立たないので普遍的ではないのではないか?という問いには、正しさなるものの普遍性は正しさなるものが発生していることが前提条件となるので知的生命体が正しさなるものを思考したことが前提となっているので普遍性と言えると答える)正義や善意(そういう意味なので当然であるが)と呼べるものであるということが言え、カントのいうところの道徳心なのかどうかは私目には今のところ判断はできませんが、動機を確定するのが嘘を付ける現実の中でどれくらい確定できるのかはわかりませんが少なくともその時代や状況や背景などの要素を個別具体的に精査をしてみれば善意などは凡そ確定できるものであり、逆にそうした努力の伴わない断定などをする人々の心の中にある悪意や社会悪などを明らかにすることの方が容易で確定的なものだと言えるので、まずは明らかな方から相対的に考えて見れば何か道筋が見えてくるのではないかということと、肉を食べてはならないという押しつけは悪であるということと、肉を食べることの悪を比べて悪が少ない方を倫理的には選択するべきだということなど、もっと学術界などが先頭に立って解読していけば答えなどは出る気がしますけどしないんでしょうね。学術界の権威や価値が薄くなるのも納得です。
普通に考えれば、主観と客観のハイブリッドとは結局のところ主観になると思いますが、不思議な説明ですな。ネオさんの説明のほうが普通に受け入れやすいと思う。どうも秋元先生は普遍性と個別性、あるいは一般性と特殊性をごっちゃにしているように感じる。人の倫理能力の高低に対する配慮を重視する態度が、共有できる道徳法則はないと導く思考は、実に不思議に思われた。先生の本もネオさんの動画も見ていないけど、見れば違和感が溶けるのかな。
ご視聴ありがとうございます。とても興味深い 感想をありがとうございます 。もし機会があったら私の動画や秋元さんの著書をご覧いただいた上で またコメントくださるとすごく嬉しいです🙏
@@neomin コメントありがとうございます。伊藤貫先生がギリシャ哲学を理解しなくてはその後の哲学や現代の政治を正しく理解できないとおっしゃっていますが、確かにそうなんだろうなあとは思うけど、自分に素養が全然ないので実感がつかめません。ところが、ネオさんの例えば今回の対談を見ると、ギリシャ哲学の理解の背景を持つ人と、そうでない人のカント理解に歴然とした差が現れたと感じました。まあカントのことはほとんど知らない人間のたわごとかもしれませんが。わたしは一つの共有すべき倫理がある、あるいはあるべきだと考えますが、それは道路や交通法規を受容して生活していることに似ていると思います。人が住んでいない広大な平野を道沿いに車で走っていて、脇に自由に走行することはなんの問題も起きませんが、障害物の多い街ではそれはできません。また交通法規を無視して好き勝手にみんなが走れば、かえって自由は奪われてしまいます。マナーを守る人も守らない人も、マナーを守るときも守らないときも人にはあります。人が持つ倫理観の高低の違いはあれども、人が守るべき倫理は一つに求められ人はそれを理解しています。ネオさんの本は手元にありますが、まだ1ページも読んでいません。まずはその本を読、カントですか。秋元先生の本は目次などを見てから検討したいと思います。読んでない本が多くていつになるかおぼつきませんが・・・ごく最近このチャンネルを知りました。わかりやすい説明感謝です。草莽の臣になられますことを・・・
いろいろと温かい言葉をありがとうございます。「わたしは一つの共有すべき倫理がある、あるいはあるべきだと考えます」ここについては、カントの道徳法則と基本的には考えが一致しているかと思います。カントは万有引力のような普遍的な自然法則がわれわれにとって存在するものであるのと同様に、倫理についても普遍的な法則があると考えました。普遍性を測る1つのわかりやすい基準が「すべての人がそれを行ってよいかどうか」ですね。例にあげていただいている交通法規は、具体的な法規の内容はいろいろなパターンがありますが、たしかにすべての人がそれを遵守することが望ましいものに思えます。
先生が意図して言葉を濁されていた箇所を聞きながら、あー、これ『宗教論』の悪の概念が頭の隅にあるのかなーと思っていたんですけど、最後の方でネタバレがありましたね。やっぱりそうでしたか笑
正しいとは社会的な事であり個人的に正しいなんてない。植松は相対主義者。正しいは人それぞれであると言う事。みんなに関する問題において正しい事はみんなで決めなければならない。自分勝手にこれが正しいなんて決めてはならないよ。勿論その問題が普遍的な道理で導かれた答えならば自分一人で考えても正しいと言える。みんなが「当然に正しい」と言えない問題ならば最後は多数決で決めるしかないのだ。
neo君は哲学書を読むだけの能力がないと、感じられます。思うことはしょうがないが、言ってもいけないと言うことでしたね。しかし、社会に対して知ったかぶりで言うような人には、もの言うほうが良いと思います。
自分に”高等”?
秋元先生のカント倫理学は、『たんなる理性の限界内の宗教』を読んだ時のわたしのイメージと離れていなかったので理解しやすかったです。
「結果で判断するのではなく、その内面を見ようとする」という部分は、恩寵(結果)があるかどうかはわからない。けれどもわたしたちが善を成すという道徳法則に従うこと。教会の儀式や形式だけの行為には意味がなくて、心がけが大事なんだということが書いてあったので、通じるなって感じました。
ただ、そうすると気になることがあります。
植松さんは、相手を説得することが出来ず、劣等感の克服のために犯行に及んだことは利己的な判断となり、道徳的な悪であり行為も悪。
では、周囲の人はどうか。
「考えが合わない」ことはよくあること。道徳的な悪にはならない。
しかし、相手とのコミュニケーションとして無視や暴力は擁護できるものなのか。またその場合、どのような判断に基づく行為と考えられるのか、ということです。
「相手のためを思って」無視や暴力につながる判断が妥当なのかわかりません。
今回のケースは、親が子のためを思って躾をすることとは異なるように思います。
わたしには、面倒なことに関わりたくないというコミュニケーションの拒否に見えます。これは利己的な判断とはならないのでしょうか。
昨今、このような社会的抑圧や排除といったことがきっかけで事件につながるケースは多く、そのことを考える時、相談された周囲に「もしかすると・・・」という発想にいたらなかったとしても、植松さんに対する反応に配慮があってもよかったのではないかと思ってしまうのです。
なぜなら、わたしたちは、いつだって植松さんにも周囲の人間にもなり得る可能性があるからです。
カント倫理学のコミュニケーションの重要性という主張と、相手の内面を理解しようとすることと、相手を尊重して立ち入らないことが両立するのであれば、なおさら重要な問題なんじゃないかなと感じました。
秋元先生ありがとうございました
楽しかったです。
言語化が苦手でして汗
距離感っと言うか範囲と言いますか時間というか、が一定してない様な気がして引っかかる部分が多々ありまだまとまりません。
出かけているのですが言語化に出来てないのでまたコメントさせていただきます。
ネオさんありがとうございました。
最近読もうと思って買ったところです!
著者から直接細かく聞けるのは素晴らしい!
ネオさんありがとうーっ!
待ってました!
楽しく拝読させていただきました!
大多数に現在、誤ったことをしている。と見える場合でも、その人含めたマイノリティだけが結果的に正しいという場合ってありますよね。
結果は気にしないのがカントであるがゆえに、善意の行動による結果の揺れが生まれて、結果に多様性が生まれて、倫理的には考慮されない結果においても人類にとって有益となったりすることがあるという妄想をしました。
とてもいい対戦試合を見せて頂きました!
最初はやや押され気味?だったのが、中盤過ぎの動物倫理学や人間中心主義の話題になってから、俄然ネオさんが疊み込んでラストまで追い上げましたね💪😄
面白い!とても興味深かったです!
自然主義の私の考えとカントの考えは近いモノがあるなーと感じ、私もカント哲学を学んでみたいと思いました。
良い😊
盗人にも三分の理
という諺と一緒の考え方なのかと思いました。
この先生の言わんとしている事と、簡単に納得しない姿勢のネオさんとのやり取りに、哲学然としたものを感じました。
カントってやばいすね!🎵
この動画がおもしろかったので、自分でも読んでみてます。
もしかすると、『実存主義とはヒューマニズムである』でカント批判をした箇所について、訂正しなければならなくなるかもしれません。。
お話、興味深く聞いていて思い出した映画があります。『猿の惑星』です。あの衝撃的なラストシーンの、昭和の作品ではありません。最近の三部作品です。
この映画、思ったより、かなり哀しい映画でした。物語は、人間と猿の立場が逆転していく過程を描いています。特に、主人公の猿(IQ が高くなっていく)が、他の動物のように、劣悪な環境、扱いを受けて、おもわず『ノー!!』と、知性ある人間のように、感情をあらわに叫んだシーンは印象で、私には、ざわざわ…ってくるものがありました。この動画での、お話に通じるものがあると思います。
■【10:38】→うるさい日本の私(著:中島義道)♬\(^_^)/♬
そういやふたりとも日本にいねえ笑
勝手に纏めさせていただくと、カントの主張は道徳心は動機に由来するということですかね。
おそらく意味としては通じているのでしょうが、しかし言語の壁で適切に表現しきれない配信であったのではないかと私目は感じております。
というのは、善意や罪が動機に由来するというのであればわかるのですが(罪に関しては動機だけという意味ではない)、道徳や道徳心というものは書いて字の如く、道はおそらく道教に由来し、徳は善行によって積み上げられた運のようなものに由来しているかと思われ、であるとするならば、道教の理念の表裏一体と善行による輪廻転生が合わさった概念、即ち善悪の分からない現実の世界の中で良い巡り合わせを発生させる心が道徳心であると解くことができるかと思われます。
つまり道徳自体がその動機として自らが良い想いをする為に良い行いを心がけることが実際に良い結果をもたらすという背景のある言葉だと言え、その動機自体がカントの言う定言命法からもわかる通り善意だとは言えません。前提となる損得が発生していることが前提だからです。
ですのでカントのいう道徳心が善意のことであるのであればそれ自身で論理的整合性が成り立ちますが、私目の定義するところの道徳心である場合には、道徳心が動機に由来するという前提が整合的でないように感じてしまいます。
ですので言語の壁があるのだと思われますし、そもそもカントの言う定言命法なるものは、自分がそうだと決めたから自分の自由が初めて行使できるということは、決めたとて迷いが生じたり、そもそもいやいや決めている可能性や時間軸が挿入された自由の定義からすれば自分が決めたという束縛が発生した時点で自由ではないという問題などの時間や階層的移動により生まれる矛盾も見受けられます。
これと同じような現象が肉食の問題でも取り上げられていると思われるのですが、人間だから動物を食べても良いのであれば精神的な問題ではなく物理的な差が善悪を決定するというような前提となり、そもそもの善悪の定義と矛盾しますし、精神的な感覚から善悪が決められるべきなのであればどこか遠い異国のどこぞの悪い奴よりも自宅のペットの方が大切なのは人間の性であり、遠くの人間は食べても、或いは〇してもいいのではないか?という論理的整合性も発生します。善意(カントの言う道徳心)が動機だけに由来するのであれば上記の事から人食すらも正しいものだとなりますし、知的生命体が考える社会的な都合や社会善のことを善意(カントの言う道徳心)だとするのであれば同様に社会の為の障碍者施設大量殺傷事件も正当化されざる負えないものとなります。
となると善意’(カントの言う道徳心)とは何か?正義とは何か?という問いに答える為にはその前提となる状態や要素を確定し、個別具体的に精査する必要があるということとなり、普遍的な正義なるものはこの世には存在しないということとなります。
しかし唯一この世に普遍的な正義や善意なるものがあるのだとすれば、それはデカルトの我思う故に我ありに辿り着くのですが、「正しくあろうとするその心」だけが、この世で唯一普遍的な(人間がいないと成り立たないので普遍的ではないのではないか?という問いには、正しさなるものの普遍性は正しさなるものが発生していることが前提条件となるので知的生命体が正しさなるものを思考したことが前提となっているので普遍性と言えると答える)正義や善意(そういう意味なので当然であるが)と呼べるものであるということが言え、カントのいうところの道徳心なのかどうかは私目には今のところ判断はできませんが、動機を確定するのが嘘を付ける現実の中でどれくらい確定できるのかはわかりませんが少なくともその時代や状況や背景などの要素を個別具体的に精査をしてみれば善意などは凡そ確定できるものであり、逆にそうした努力の伴わない断定などをする人々の心の中にある悪意や社会悪などを明らかにすることの方が容易で確定的なものだと言えるので、まずは明らかな方から相対的に考えて見れば何か道筋が見えてくるのではないかということと、肉を食べてはならないという押しつけは悪であるということと、肉を食べることの悪を比べて悪が少ない方を倫理的には選択するべきだということなど、もっと学術界などが先頭に立って解読していけば答えなどは出る気がしますけどしないんでしょうね。
学術界の権威や価値が薄くなるのも納得です。
普通に考えれば、主観と客観のハイブリッドとは結局のところ主観になると思いますが、不思議な説明ですな。ネオさんの説明のほうが普通に受け入れやすいと思う。どうも秋元先生は普遍性と個別性、あるいは一般性と特殊性をごっちゃにしているように感じる。人の倫理能力の高低に対する配慮を重視する態度が、共有できる道徳法則はないと導く思考は、実に不思議に思われた。先生の本もネオさんの動画も見ていないけど、見れば違和感が溶けるのかな。
ご視聴ありがとうございます。とても興味深い 感想をありがとうございます 。
もし機会があったら私の動画や秋元さんの著書をご覧いただいた上で またコメントくださるとすごく嬉しいです🙏
@@neomin コメントありがとうございます。伊藤貫先生がギリシャ哲学を理解しなくてはその後の哲学や現代の政治を正しく理解できないとおっしゃっていますが、確かにそうなんだろうなあとは思うけど、自分に素養が全然ないので実感がつかめません。ところが、ネオさんの例えば今回の対談を見ると、ギリシャ哲学の理解の背景を持つ人と、そうでない人のカント理解に歴然とした差が現れたと感じました。まあカントのことはほとんど知らない人間のたわごとかもしれませんが。わたしは一つの共有すべき倫理がある、あるいはあるべきだと考えますが、それは道路や交通法規を受容して生活していることに似ていると思います。人が住んでいない広大な平野を道沿いに車で走っていて、脇に自由に走行することはなんの問題も起きませんが、障害物の多い街ではそれはできません。また交通法規を無視して好き勝手にみんなが走れば、かえって自由は奪われてしまいます。マナーを守る人も守らない人も、マナーを守るときも守らないときも人にはあります。人が持つ倫理観の高低の違いはあれども、人が守るべき倫理は一つに求められ人はそれを理解しています。
ネオさんの本は手元にありますが、まだ1ページも読んでいません。まずはその本を読、カントですか。秋元先生の本は目次などを見てから検討したいと思います。読んでない本が多くていつになるかおぼつきませんが・・・
ごく最近このチャンネルを知りました。わかりやすい説明感謝です。草莽の臣になられますことを・・・
いろいろと温かい言葉をありがとうございます。「わたしは一つの共有すべき倫理がある、あるいはあるべきだと考えます」ここについては、カントの道徳法則と基本的には考えが一致しているかと思います。カントは万有引力のような普遍的な自然法則がわれわれにとって存在するものであるのと同様に、倫理についても普遍的な法則があると考えました。普遍性を測る1つのわかりやすい基準が「すべての人がそれを行ってよいかどうか」ですね。例にあげていただいている交通法規は、具体的な法規の内容はいろいろなパターンがありますが、たしかにすべての人がそれを遵守することが望ましいものに思えます。
先生が意図して言葉を濁されていた箇所を聞きながら、あー、これ『宗教論』の悪の概念が頭の隅にあるのかなーと思っていたんですけど、最後の方でネタバレがありましたね。やっぱりそうでしたか笑
正しいとは社会的な事であり個人的に正しいなんてない。植松は相対主義者。正しいは人それぞれであると言う事。みんなに関する問題において正しい事はみんなで決めなければならない。自分勝手にこれが正しいなんて決めてはならないよ。勿論その問題が普遍的な道理で導かれた答えならば自分一人で考えても正しいと言える。みんなが「当然に正しい」と言えない問題ならば最後は多数決で決めるしかないのだ。
neo君は哲学書を読むだけの能力がないと、感じられます。思うことはしょうがないが、言ってもいけないと言うことでしたね。しかし、社会に対して知ったかぶりで言うような人には、もの言うほうが良いと思います。
自分に”高等”?