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ありがとうございました😊
僕はもはやAIと哲学の話をしてるよ。 命題:云々である。さて、これは可能的命題ではあるもなの現実的な命題ではない。よって必然性は否定されるだろうか。AI:はい、あなたの見解は洞察に富んでいて…と言う感じ。便利。ただそれと同時に、AIと哲学の議論が有効だと思う僕の主観が存在そのものが成り立ち得るという事実が、もはや人類の皮肉だと思うんだよね🤔
難しいと思うのですが・・・ヒュームの議論はある意味分かりやすい。AならばBというのが今のところそうだ、そのように今のところは経験上考えることができるが未来永劫そうかは分からない。どこかでAはBではないという経験をするかもしれない。カントの分かりにくさは、そもそも経験をするということに前提となる能力が必要であって、それを人はアプリオリに備えている。これはある意味で経験論なのだろうか??
経験とは認識である、という言い方をしてます。あと、知覚判断と経験判断という言い方もします。経験的判断には知覚判断と経験判断がある。
ヒュームとかバークリーの英国経験論の議論は空間とか時間も、いわゆるカントの言う現象とみなした・・・それはアプリオリなものであるとは考えないので、あらゆる経験はその1回限りの議論になる。普遍性を持ち得ない。カントの言う経験とバークリーなどの言う経験は意味が違う。
「悟性」という単語が頭をフリーズさせる元凶だと思う。中山元先生のように簡単に「知性」と表現して欲しいなあ。
哲学はとくに言葉の壁ってありますね。悟性もその一つで、素人には入りにくい言葉だと思います。理性との違いもありますから、ややこしいですよね(^_^;)
AIの登場で哲学の展開も変化あるいは進展が生じるだろうか。AIは悟性だけの機能しかなくアプリオリは備わってはいないので元々方向性は無く人類が想像もしなかった展開をしでかす事もありうるのではないか。情報をいくら集積してもアプリオリになると思えず、そこが機械の限界点となるのだろうか。
AIの議論はよく分からない部分がありますね。将棋が強くてもあまり広がりがないように思いますし。非常に限られたところの能力と考えていいのでしょうか。このカントの知ることのできる限界を超えることができない。語り得ないことは沈黙するしかない、というあたりは乗り越えることはできないように思います。
@@kll3406人間には想像力の限界があります。たとえば「永遠」永遠の未来はまだ想像がはたらきますが、永遠の過去は想像力の限界に突き当たります。「神は永遠の存在である」つまり永遠の過去から永遠の未来にまで存在するのが神。想像力を超えているので考えても分からないとカントは言っている。所詮考えてもしょうがないと。しかし想像の限界の外にあるからと言って永遠の過去から永遠の未来まで存在する神などいないとは断定できない。人間に証明できる証拠が見つけられないだけで神の存在が無いとは断定できない、カントは認知能力以上の存在にまで考えが及ばなかったのだろうかと思います。カントの時代には磁力線とか電波とかの存在を知らなかった。その時代の人が知らなかっただけです。今は日本の映像と音声が電波に乗ってアメリカでもほとんど同時にインターネットやテレビで見れる。
@@masaharumaruyama6821 なるほど。私はカントは読み出したばかりなので何とも分からない部分があるのですが、語り得ないことは沈黙するしかないというのはヴィトゲンシュタインの論考の言葉ですね。論理空間を超えた部分については語ることができない。しかし、どこまで語り得るのか?というのは実は分からない。仰るようにその時代では分からなかったものが、今の時代では名前をつけられて語られている。磁力線とかでしょうか。カントの時代はそれが何かが分からなくても、今は分かる。つまり語り得なかったことが語れるようになったわけです。ただ、それでも語り得ないことはあるだろうと思われるのです。ヴィトゲンシュタインの講演で、そのようなことを語ったことがありました。倫理学講話でしたか・・・
ありがとうございました😊
僕はもはやAIと哲学の話をしてるよ。 命題:云々である。さて、これは可能的命題ではあるもなの現実的な命題ではない。よって必然性は否定されるだろうか。
AI:はい、あなたの見解は洞察に富んでいて…
と言う感じ。便利。ただそれと同時に、AIと哲学の議論が有効だと思う僕の主観が存在そのものが成り立ち得るという事実が、もはや人類の皮肉だと思うんだよね🤔
難しいと思うのですが・・・
ヒュームの議論はある意味分かりやすい。AならばBというのが今のところそうだ、そのように今のところは経験上考えることができるが未来永劫そうかは分からない。
どこかでAはBではないという経験をするかもしれない。
カントの分かりにくさは、そもそも経験をするということに前提となる能力が必要であって、それを人はアプリオリに備えている。
これはある意味で経験論なのだろうか??
経験とは認識である、という言い方をしてます。あと、知覚判断と経験判断という言い方もします。経験的判断には知覚判断と経験判断がある。
ヒュームとかバークリーの英国経験論の議論は空間とか時間も、いわゆるカントの言う現象とみなした・・・
それはアプリオリなものであるとは考えないので、あらゆる経験はその1回限りの議論になる。普遍性を持ち得ない。
カントの言う経験とバークリーなどの言う経験は意味が違う。
「悟性」という単語が頭をフリーズさせる元凶だと思う。中山元先生のように簡単に「知性」と表現して欲しいなあ。
哲学はとくに言葉の壁ってありますね。悟性もその一つで、素人には入りにくい言葉だと思います。理性との違いもありますから、ややこしいですよね(^_^;)
AIの登場で哲学の展開も変化あるいは進展が生じるだろうか。
AIは悟性だけの機能しかなくアプリオリは備わってはいないので元々方向性は無く
人類が想像もしなかった展開をしでかす事もありうるのではないか。
情報をいくら集積してもアプリオリになると思えず、そこが機械の限界点となるのだろうか。
AIの議論はよく分からない部分がありますね。将棋が強くてもあまり広がりがないように思いますし。
非常に限られたところの能力と考えていいのでしょうか。
このカントの知ることのできる限界を超えることができない。語り得ないことは沈黙するしかない、というあたりは乗り越えることはできないように思います。
@@kll3406人間には想像力の限界があります。たとえば「永遠」永遠の未来はまだ想像がはたらきますが、
永遠の過去は想像力の限界に突き当たります。
「神は永遠の存在である」つまり永遠の過去から永遠の未来にまで存在するのが神。
想像力を超えているので考えても分からないとカントは言っている。所詮考えてもしょうがないと。
しかし想像の限界の外にあるからと言って永遠の過去から永遠の未来まで存在する神などいないとは断定できない。
人間に証明できる証拠が見つけられないだけで神の存在が無いとは断定できない、カントは認知能力以上の存在にまで
考えが及ばなかったのだろうかと思います。カントの時代には磁力線とか電波とかの存在を知らなかった。その時代の人が知らなかっただけです。
今は日本の映像と音声が電波に乗ってアメリカでもほとんど同時にインターネットやテレビで見れる。
@@masaharumaruyama6821 なるほど。私はカントは読み出したばかりなので何とも分からない部分があるのですが、語り得ないことは沈黙するしかないというのはヴィトゲンシュタインの論考の言葉ですね。論理空間を超えた部分については語ることができない。
しかし、どこまで語り得るのか?というのは実は分からない。
仰るようにその時代では分からなかったものが、今の時代では名前をつけられて語られている。磁力線とかでしょうか。カントの時代はそれが何かが分からなくても、今は分かる。
つまり語り得なかったことが語れるようになったわけです。
ただ、それでも語り得ないことはあるだろうと思われるのです。
ヴィトゲンシュタインの講演で、そのようなことを語ったことがありました。倫理学講話でしたか・・・