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赤佐は評定や調停の差配はできないが戦働きは得意だったのだろう
大好きな弘中さん…切腹までしなくてもという気持ちと沢山の資料を残してくれてありがとうという気持ちで一杯になりました
元就と仲良かったらしいですから、生きて毛利家の武将として生きていれば大きな助けになっていたでしょうね。
出家でもしていれば助命されていたはずですよね……。
陶が厳島に誘い込まれた最終的な主因が元就の調略ではなく陶側の利害関係に起因するのが面白いところですねそして巻き込まれる弘中さん 娘の嫁ぎ先に残っていた有名な遺書の話も出てきましたね
弘中隆兼さんは降伏してれば元就との関係値を考えれば許されて重用されたでしょうけど降伏せず誠実に忠義を貫くような人だからこそ元就と友誼を深められたし安芸国人衆たちから信頼されていたんでしょうね・・・
弘中たかかねの書状は何回見ても泣けますね。動画作成ありがとうございます
元就、野間に平手打ち(比喩)しかし必然の勝ちにした毛利の積み重ねが凄い
2:34 3:00 3:15 3:47 5:23 10:33 12:41 16:05 17:16 23:12 26:04
雨穴「この厳島…なにか変…?」
屋島衆は寝返った後、何をしていのだろう?13:30晴賢による厳島渡島時に、宇賀嶋衆や厳島神領衆ぐらいしか動いていなかったのに、数千単位の兵力をどのように渡したのだろうか?船数は足りたのか?どのくらいの時間で渡れたのか?
かなりの大内水軍の構成する勢力が寝返った、あるいは敵と内通していたとはいえ、それでも最低でも100-150艘(川内・沼田警固衆合計)はあったと元就書状から推察されますので、2-3回に渡って上陸したものと思われます。この時点で岩国に要害(前衛基地?)があったようでそこから色々船でやりとりしていたものと推察されます。
こうやって見ると、吉田郡山城の戦いで毛利元就が危機的状況にあったにも関わらず、不穏な動向をしてた厳島神領衆を警戒して大内本軍が一向に防府から安芸に進軍せず、あまつさえ尼子本軍との決戦に至っても尚陶晴賢を派遣し、大内義隆本人は防府にとどまっていた過剰な慎重さにも合点がいきますね身動きがとれない狭隘地で挟撃され抵抗すら出来なかった陶晴賢のみならず、敗軍を追撃していたにも関わらずその逆襲であわや討ち取られかけた小早川隆景のケースを考えても、厳島の様に狭隘な地では例え厳島神領衆程度の小勢にでも不意を突かれると不覚をとって討ち取られるリスクが存在して居たわけで、そう考えると哀しいかなここでも旧主と逆臣との力量差が見えてしまうというか…
思えばこのシリーズで晴賢が登場した時から危うい勝ち方をしてるのは指摘されてましたね最期までそれが直らないんじゃ呆気なく討たれてしまうのも当然か…
弘中さんって奮戦していたというより、元就がギブアップするのを待っていたんじゃないですかね?足利尊氏が楠木正成にしたように。
隆元の隆兼殿•••に目頭が熱くなりました😢
まさか開戦前からもう水軍が優勢とは弘中隆兼さんマジ無念、絶対優遇されるのに後つくづく思うが隆元まじ有能ですね
厳島本戦時、隆元は元就の本陣ではなくて隆景と一緒に海上にいたんですね!これは初めて知りました!
次回解説予定ですが、厳島に上陸したことが当時の書状から確認できるのは毛利軍のみ、「二宮佐渡覚書」などから吉川軍も参加していたと考えられます。一方で、「傘下国衆」が海上待機していたとあるので小早川隆景らは海上から侵攻と考えられますが、隆元側近の赤川元保が行動を共にしていることから隆元は隆景らの方にいたと考えられます。
ここでも野間さんがやらかした‥陶晴賢の人物像を知りたいですやっぱり短気で脳筋だったでしょうか?
軍の運用は猪突猛進方であったと思われますし、政策・戦略に短気な点が滅茶苦茶目立つのは間違いないですが、そんな人物が大寧寺の変であそこまで立ち回れるか、と考えると難しいですね・・・。
@@SquareDeerHorn養父である陶興房と比較して、どういう違いがあるのかも気になるところです。ウィキで見る限りでは、明らかに興房の方がスゴイように見えています。
晴賢は、父の興房と同じく、大内家の軍師として、軍才もさることながら、敵対していた大友氏から義隆の養子を迎える話をまとめるなど、外交もこなす文武両道の人ではあったようです。大寧寺の変後の大内の弱体化は、朝廷など、中央から、官位や守護国の減封があったり、反陶派の杉氏の治める北九州も捨てざるを得なかった上、変後に、味方してくれていた長門守護代の内藤興盛が引退、そして、死去と、晴賢の闇落ちを更に深める事案が続き、判断能力に狂いが生じていたのやも知れませんね。なので、大内義隆へのご恩を温めながら、力を蓄えていた、士気の高い吉見や、毛利に、勝てなくなっていました。
いやぁ・・・楽しすぎる。楽しすぎますよ、しかかく様〜
戦国時代の数ある合戦の中でも、特に好きな合戦です。とても楽しめました。
毛利方の海上機動を許してしまう程にまで、陶方の水軍衆が弱体化してしまっていたとは… 陶弘中軍は一瞬で崩壊してしまったのだろうな。弘中隆兼の最期は涙また涙。
弘中殿は可能ならば生かしておきたかっただろうけど、そうはならなさそうという予感の上での投降勧告だったのかな
実際厳島神社って行ってみると分かるがめっちゃ道が狭いんよな。こんな中で奇襲されたら大混乱になるから厳島に入った時点で負けてたんやな
「毛利元就の感状が残ってないから、瀬戸内海賊衆と陶軍との対決ではないか?」という説がありますが、現在残ってる感状で間違いなく戦国時代のものと確定した感状ってどれぐらいあるのですかね? 前の話で江戸時代に「偽感状」が沢山作られてそれが大量に残ったそうでですし・・・
山室恭子氏の説はwikiにも載っていますがはっきり言って「珍説」の類であり、その説の根拠もすべて結論ありきから来るものとなっています。実際に秋山伸隆先生が「宮島学」にてこの説を一つ一つ否定し、完全な「冤罪」と断言しています。山室氏は感状が残っていない=戦ったのはほぼ来島水軍、毛利軍は手柄を立てていない、と主張しますが、実際には赤川元保の感状仮文がある他、山田民部丞・渡辺長らが頸を討ち取ったことを示す書状は残っていますし、合戦前後の書状からも主体は毛利軍+安芸国衆であったことは明白です。また、山室氏はそこから毛利氏が来島氏の活躍を歴史から削除したという「完全犯罪」を「推理」していますが、これは同氏が小早川隆景から小早川秀秋に家督相続された際の小早川家文書の行方に対する無知と、来島水軍が天正年間に毛利家を裏切り、その後毛利家から独立しているという背景を知らないことから来る「冤罪」となっています。この説については次回動画でも取り上げる予定ですが、丁度まとめていた所でしたのでまとめだけ上述いたします。
@@SquareDeerHorn 回答していただいてありがとうございます。山室恭子氏、著書のタイトルを見る限り、HG先生と同じ臭いがしますね・・・
最後は自身の武勇に恃んだか晴賢…
毛利のライバルであった大友氏の配下?だった筑後十五城の大身十五家についてもまとめた動画をいつか見てみたいです
陸路からのルートで決戦を想定した、陶晴賢は、抑えの部隊をそこに置いて、残りの兵力を持って宮島を攻めたということですね・・となると兵力は5千ぐらいじゃないですか?
この辺りはもう想像の範疇でしか論じられないのでその可能性もあるとは思います。
@@SquareDeerHorn 当時の陣立てが残されてるはずはないですからね・・陶晴賢は大内家を私物化したかったクズではあったけど、最後まで忠義を尽くしてくれる側近たちはいたんですね。
歴史あるあるだけどひどい負け方の場合は負けて当たり前の背景があるものですね
オッキーのコーナーなるほど、織田もとい羽柴側についた南条元続への対応や鳥取城への吉川経家の派遣など なぜ山陰は吉川なんだろうと思っていたが、そういう事だったのか。
確かにあの超巨大勢力を相手に戦ってるのだから厳島の戦いで決着着くわけではないわな
そういえば一晩だけの味方という村上武吉のエピソードがありますが実際の武吉はどう動いたのでしょうね。動いてないのかな?
その「1日だけ」というエピソードと、能島村上武吉については、次回の検証動画にて解説予定です。
晴賢、なんという頓死
隆兼も素直に毛利に降伏して大内家の評定衆として山口を治める手伝いをしてればもう少し元就も楽できてたのかなぁって思ってしまいますねというか素直に投降しても隆兼は切られず助命されてたと思うんですけどね。西条や備後備中で助け合って勝ちを拾ってきたいわば同士なのだから。
合戦前から毛利方の水軍の方が圧倒的優勢だったんですね。これじゃ晴賢が宮ノ城を陥としたとしても厳島から出ることも不可能なんじゃないか・・・って感じます。援軍を許して早期陥落ができなくなった時点でもう詰んだと弘中さんが思ったのも頷けます。
落ちたらせっかく味方してくれた水軍衆に失望されますよ。
厳島の決戦なのに前後編だけで済むのか?でしたが、いやはや陶のミスであっけない幕切れ・・・。こんなもんだったか。いやこんなもんでしょうね。そりゃ。でもここまで持ってくる地味な戦略・調略と小さな勝利の積み重ねこそが元就のすごいところなのでしょうね。
謀というと、孔明の罠的な物を想像しがちですが、細かい交渉の下積こそが一番重要なのだと感じました。
鞍掛→岩国はまあええとして、岩国→美和→山里とかいうクッソ山奥を(いくら山代街道があっても)歩いていかなアカンとか頭おかしくなるで…
大軍となると進行を管理する側も気が狂うやろなぁ…
動画中の写真では陸地(市街地)になってるけど草津城は草津の港があった場所で厳島の対岸の広い範囲は山(崖)の下に長く続く隘路の海岸線の難所広島市内の川がたくさん流れてる扇状地の南半分は遠浅の海
投稿お疲れ様です、いつも楽しく拝見しています。前回と合わせてとにかく毛利軍の神速っぷりがすごいですね・・・蜂起から1日で厳島まで制圧したり、今回晴賢厳島上陸の際は対応が後手に回ったにも関わらず4日で郡山城から草津城まで進軍を済ませる等、あくまで安芸国人衆の盟主といった立場を鑑みるとその統率力と根回しに感服するばかり(譜代家臣すら完全に従わないのは解説されてましたし)隆元の毛利国家宣言が国人たちにも周知されていたんですかねえ
よく宮ノ城(宮尾城)が厳島の戦いで陶晴賢を誘引するための囮として築城したと通説では考えられていますが、実際の所いつ頃に大内氏によって築城されたと考慮できますかね。
実は私の吉田郡山城の戦いの解説時に若干触れているのですが、天文9年頃大内家の兵站基地が厳島にあったことが確認されており、恐らくこれが宮ノ城の前身ではないかと思います。その前の大永5年には大内義興が厳島に陣を構えていますが、この頃は向こう岸の門山城を主に使用していたためこの頃にも宮ノ城(の前身)が既にあったのかは不明です。
@@SquareDeerHornなるほどありがとうございますm(_ _)m
水軍が居なくても陶晴賢の武勇で毛利軍には勝てるかもしれないけれど武勇だけじゃ海には勝てないからな。
凄く凄く楽しめました。むしろ長篠に近い…。己斐豊後守の奮戦がものすごく印象に残りました。宮尾城本当に小さい城趾ですが、厳島の平地は神社と神宮寺の本当に狭いところで一万もいられないと思います。地形を知っていると楽しさ増します!お仕事しながらの動画作成いつも頭が下がります。ありがとうございます。次の動画が待ち遠しい!
陶晴賢の動きに批判があるだろうけれど、ここまでの陶晴賢の戦い方を見ると、危険な場所にあえて大軍を移動させて力攻め、というのが戦い方のようなので大内軍の主力を担った陶軍の基本方針なのではなかろうか
陶くん、遂に逝ってしまうんやな〜
陶さんも常にあの肖像画を使われては、生前に書かせておけばとあの世で悔やんでそう。
今回も大変面白かったです博奕尾の尾根からの奇襲という通説のド派手な戦術が、「制海権を抑えたことで好き放題出来るようにした結果」というもう一段上(戦略?)の賜物であったと思うと、元就の凄さは通説がむしろ過小評価な気もしてきますね…
陶軍がもっと圧倒的かと思ってた。まあよくよく考えたら謀反人だし、建前上同格の守護代抹殺する人には着いて行けないよね
速い、速いよ
制海権を失いつつあった陶がわざわざ厳島に行ったのは、味方のしがらみで仕方なかったのか、奇襲のつもりだったのか、何か別の勝算があったのか…
これはあくまで個人的な感想になってしまいますが、陶自身は毛利軍と正面衝突になれば負ける訳がない、そうでなくても厳島を抑える(宮ノ城を攻略する)だけで一気に戦況をひっくり返せると踏んでいたと思われます。この考えはかなり楽観的で、そのため隆兼も書状で「軽々と陶もしへ・・・口惜候」と嘆いています。
@@SquareDeerHornありがとうございます。なるほど、安芸でずっとやってきた弘中隆兼と違って、陶隆房は、元就はじめ安芸国衆の実力をそもそも過小評価していたのかもしれませんね。
瀬戸内海は交易航路でもあるから、制海権の喪失はそのまま、財政悪化に結び付く。明から勘合貿易を拒否されてるため財政が悪化しており、畿内交易ルートの喪失は何がなんでも避けたかったのだと思う。
今回も動画楽しく拝見しました。一つ気になったのが、現在の海岸線(動画内の航空写真)と当時の海岸線がかなり違うという事に関してです。私は地元民なので、脳内で補完できているのですが土地に不案内な視聴者は「水軍の移動経路の話なのに、何故内陸まで進出しているのか?」と思う人もいるのではないかと思いました。今後の参考になれば幸いです。
日本の歴史紹介動画で、よくあるネタですね。大陸と違って、日本は川が短く急流なので、わりと洪積平野(沖積平野や洪積台地等)が早く形成されやすい。またお米好きなので昔からあちこちで干拓されてきた。水で形成された地形の影響が日本の歴史では大きいにも関わらず、歴史の教科書も含めて関連書籍及び動画は今の地形図を使ってる。今の地形図で説明してる。だから、様々な歴史イベントの発生原因や、なぜ当時そこに某建物を作ったのか等が理解しにくい。しかし昔の海岸線の地図を一歴史TH-camrが用意するのは大変なので、私はそこの誤りにたいて諦めています。
@@SAKURANOODLE コメントありがとうございます。そうですよねぇ。研究者の方でもないと中々詳しくはわかりませんよね・・・ちなみに「広島 海岸線」でヤフー検索すると、14世紀の海岸線に触れた内容が上位にヒットしたので、気になったら見てみて下さい。よその資料なので直リンクは遠慮w
邇保姫神社から仁保島城(三角山)跡を見上げると割と当時の感じ(平野部が海)が見えますね。まるで付城のような気持ちになります。遠浅で潮流が複雑だったからこそ、広島三角地は水軍衆の巣であり、この水軍は多分元は安芸武田氏の権益で実際厳島で旧臣大活躍なんですよね
弘中隆兼・・・😢
長文で質問申し訳ありません。24日に毛利元就が郡山城を出陣し、25日には草津城(約47キロなので二日掛ければ辿りつける距離ではある)で指揮をしていたとありますが、毛利家文書444で25日に廿日市にいる隆元と佐東(恐らく金山城?)にいる吉川・平賀が合流するように指示しているのがちょっと腑に落ちません。草津城に進軍する途中の金山城で吉川・平賀と合流して一緒に草津城に行かなかったのかな?って思いました。元就は25日はまだ可部辺りを進軍中で、吉川・平賀がまだ金山城に居る事を知って「早く合流しろ!」って手紙を出したのかな?元就がこの間ずっと郡山城にいたという一次史料をご存じであればお教え願います。※陶と戦い始めてから元就がどこに本陣を敷いていたのか情報が錯綜していますので知りたいと思った次第です。また別件ですが、房顕覚書では「毛利軍は地御前に出発した」とありますが、隆元のいた「廿日市」とはやはり桜尾城ということでしょうか?
「井原家文書」天文24年9月23日の井原元造宛毛利元就・隆元連著書状には、元就らが明日「神領」に向けて出陣するため、郡山城の人質監視のために井原元造を呼び寄せています。そのため、この時点では元就・隆元は吉田郡山城にいたと考えられます。また、「毛利博物館蔵」天文24年9月26日の隆元宛元就書状から、9月25日に毛利隆元が桂元澄(桜尾城番)・赤川元保と軍議を行っていたことが確認できるため、恐らく隆元のいた廿日市とは桜尾城、あるいはその近くであったと考えられます。また、その前後に元就の考えを伝えるべく、三吉九郎衛門尉を隆元の下に派遣しており、そのことからも元就は25日には草津城に着いて全体の指揮をとっていたものと考えられます。一方で、元就も吉川・平賀・小早川の正確な位置を把握していなかったようで、「(もう来てるはずだから)合流しろ」という感じの文章になっています。これは昔の情報伝達の難しさが出ている気がしますね。9月23日 出陣準備、吉川・平賀にも出陣を要請9月24日 元就・隆元出陣9月25日 元就は草津・隆元は廿日市に着陣が確認される
@@SquareDeerHorn 早速の返信ありがとうございます。よく分かりました。元就・隆元が強行軍でそれぞれ草津城・桜尾城に入ったのに、その頃もう来てるだろうと思ってた吉川・平賀が後方の佐東金山城にまだいる(途中元就・隆元は金山城を通ってるはずなので、その時はまだ吉川・平賀軍は金山城にいなくて、元就・隆元が通過した後に入ったか、強行軍ゆえ金山城をスルーしたのでいたけど気づかなかった)と気づいて慌てて書状で催促したイメージですね。地御前について、26日の元就の書状で隆元への指示として「沼田警固衆と合流したら河内警固衆と共に地御前火立表に進出せよ」とあるので、隆元は桜尾城(=廿日市)にいて、警固衆は出撃の拠点として地御前に移動させたという事が分かりました。なので、厳島の房顕から見たら地御前に軍が集結しているように見えたと。
唐突な(∵)雨穴で笑った
何なら兵数は互角か、毛利の方が多かった説の方が信ぴょう性あるよな。明治維新で長州藩にやりたい放題やられてるからこの辺の正史は敵方史料の方が信じられる。ただ互角に近い兵数なのに退路のない渡海しての城攻めを始めた陶を、戦略的に勝った上での戦術奇襲で完勝した元就はすごいのは言うまでもない。
投稿お疲れ様です遂に晴賢・隆兼が自害しました。そして、永安氏なのですが、永安式部少輔の先代と思われる隆信や隆信の父興信が偏諱を受けているそうです。次回の防長経略時、内藤隆世のみならず、問田英胤・青景隆著・杉隆行らや岩正興致・宮内丞、大庭賢兼らの動向がどうなるのか、楽しみです。
石見守護代の問田隆盛は厳島に渡海してなかったんですかね?
問田隆盛はその後をみる限り参陣していなかった可能性が限りなく高いです。
@@SquareDeerHorn 返信ありがとうございます!やっぱりそうなんですね。
奇襲説はやはり俗説ですか!
ばくち尾からの奇襲であったことは間違い無いのですが、実際には隆兼書状が示す通り戦の前に勝敗がほぼ決まっていたため、従来の奇襲で大軍に打ち勝ったというのは俗説と思われます。
そういえば、見つかった陶の首を元就は鞭で3度打ったというエピソード動画があったが、本当なのかな。th-cam.com/users/shortsIEJ3QuQywvE?feature=share
次回の動画で言及予定ですが、完全な俗説です。この逸話は1644年成立したとされる世良多正純の「厳島合戦之記」(万代記、三島海賊家軍日記の万代記とは異なる)の写本に書かれているのですが、この「厳島合戦之記」は1644年成立とされているにも関わらず、折敷畑の戦いを9月15日のこととしており(折敷畑の戦いが6月5日から9月15日と勘違いされ始めたのは1702年の「吉田物語」からであることがわかっている)、そのことから成立は(少なくとも写本の成立は)1700年代と考えられます。内容も・元就・隆元が一切出さなかった戦の感状を普通に出している・天文24年を「小」の月(29日で終わり)と勘違いして厳島渡海を29日としている・山内隆通が参陣していたりと毛利軍陣営の登場人物がかなり無茶苦茶・明らかに創作の軍法を当日「大江元就」が書いた書状として掲載しているなど、書物の信頼性としてはあまりに低いものになっています。1700年代の傾向として「義隆を弑虐した陶晴賢を敵討ちとして元就が倒した」という毛利家の大内家簒奪の正当性を強調する傾向が強く、その過程で生み出された逸話と考えられます。他の動画投稿者にあまりこういうことは言いたくありませんが、私はこういった俗説を大して調べもしていないのに嬉々として流布するのはデマの煽動、故人に対する侮辱と考えております。
ま、まさか”しかかく”さん本人からお返事が来るとは、幸福の極みです。確かに、いくら理由を叫びながら叩いていたとしても今で言うパフォーマンスにしかなりませんからね。以前 解説されていた吉川元春の嫁取り話と同様 後では何とでも言えますし子孫は箔をつけたいでしょうからね。何時の時代も「勧善懲悪」の話は好まれるという事でしょうか。
弘中隆兼無念
陶晴賢って中国の文献読んでなかったんかなぁ大軍であることに慢心&最前線の指揮官殺したせいでなんとか敵を食い止めてた自軍が崩壊からの王朝滅亡なんてよくある暗君ムーブなのに
読んでたとは思う。ただ、色々いっぱいいっぱいだったのでは?という印象。
絶対秘神にややこしい事をあっさり丸投げする聖徳太子、、、。
太子様と絶対秘神の関係を、元ネタから考えたら、上司と部下になる。
弘中隆兼公は心情的には毛利家と仲がよく人間関係は複雑なので大内家中で陶隆房公とは親しくなく義隆派であったため隆房公は隆兼公の意見を軽んじていたのでしょう😢ここが厳島の合戦となった基本的な要因だと思います😢隆房公は優秀で戦略家ですが少し情緒的で素直なため感情がハッキリしており人の弱さや元就公の敵ではなかったと心得ます😅隆兼公は隆房公の性格を見抜いており合戦が厳島に定まった瞬間負けを予感したと思います😅そして隆房公もなぜか合戦を厳島にしたくないのにも拘らず意地でも厳島に照準を当ててしまっている自分に葛藤していたのではないでしょうか?賢いが冷徹になり切れず感情的な隆房公と賢くて親しいモノも冷徹に扱える元就公の差が出た結果になりましたな😎
まさかのぶっ○しゾーンwww
いい動画でしたね。でもそろそろゆっくり?音声やめてほしい。聞きづらい😢
屋代島の水軍なんて知らなかったけど、周防の水軍の中核で毛利との接点低そうな彼らがなんで裏切ったんだろ。厳島の戦いでの陶方の敗戦の主因が水軍力だったのなら、戦犯は彼らのような。弘中さんの書状が切ないけど、良く書状が残ったもんですね。
ガタガタだったからでしょう。このまま陶方だったなら徹底的にイジメられて警固船ないなるわけですから
兵力優勢、水軍力劣勢で島を攻めるって指揮官失格ですね。
もしも、宮之浦城が落城してたら、元就方の方がやばかったかも…城が落ちんでよかった
いや、水軍が勝ってるからそうでもないかな?宮の浦が落ちでも、陶が宮島にいる限り毛利氏の戦略勝ちじゃない?水軍が宮島包囲に間に合えば
陶晴賢は、自身に比して薄弱な根拠、緊張感の無い軽率な行動、大寧寺の変前後から目立つ指揮官としての適性の無さが、全て露呈してしまったのが厳島への布陣その結果、知らず知らずに自ら死地に赴くことになり死ぬことになってしまった、自業自得としか言えない動画作成者が陶に対して辛い評価を下すのも納得
更新お疲れ様です、陶との決着がつきましたが江良を斬ったり、厳島を戦場に選んだり判断ミスが敗因って感じですね、十分に準備をしていた毛利が勝ったのもうなずけます。冒頭から何度も登場してた弘中さんがこんな所で命を落としてしまうとは悲しい。
陶くんばいばーい👋
赤佐は評定や調停の差配はできないが戦働きは得意だったのだろう
大好きな弘中さん…切腹までしなくてもという気持ちと沢山の資料を残してくれてありがとうという気持ちで一杯になりました
元就と仲良かったらしいですから、生きて毛利家の武将として生きていれば大きな助けになっていたでしょうね。
出家でもしていれば助命されていたはずですよね……。
陶が厳島に誘い込まれた最終的な主因が元就の調略ではなく陶側の利害関係に起因するのが面白いところですね
そして巻き込まれる弘中さん 娘の嫁ぎ先に残っていた有名な遺書の話も出てきましたね
弘中隆兼さんは降伏してれば元就との関係値を考えれば許されて重用されたでしょうけど
降伏せず誠実に忠義を貫くような人だからこそ元就と友誼を深められたし
安芸国人衆たちから信頼されていたんでしょうね・・・
弘中たかかねの書状は何回見ても泣けますね。動画作成ありがとうございます
元就、野間に平手打ち(比喩)
しかし必然の勝ちにした毛利の積み重ねが凄い
2:34 3:00 3:15 3:47 5:23 10:33 12:41 16:05 17:16 23:12 26:04
雨穴「この厳島…なにか変…?」
屋島衆は寝返った後、何をしていのだろう?
13:30晴賢による厳島渡島時に、宇賀嶋衆や厳島神領衆ぐらいしか動いていなかったのに、数千単位の兵力をどのように渡したのだろうか?船数は足りたのか?どのくらいの時間で渡れたのか?
かなりの大内水軍の構成する勢力が寝返った、あるいは敵と内通していたとはいえ、それでも最低でも100-150艘(川内・沼田警固衆合計)はあったと元就書状から推察されますので、2-3回に渡って上陸したものと思われます。
この時点で岩国に要害(前衛基地?)があったようでそこから色々船でやりとりしていたものと推察されます。
こうやって見ると、吉田郡山城の戦いで毛利元就が危機的状況にあったにも関わらず、不穏な動向をしてた厳島神領衆を警戒して大内本軍が一向に防府から安芸に進軍せず、あまつさえ尼子本軍との決戦に至っても尚陶晴賢を派遣し、大内義隆本人は防府にとどまっていた過剰な慎重さにも合点がいきますね
身動きがとれない狭隘地で挟撃され抵抗すら出来なかった陶晴賢のみならず、敗軍を追撃していたにも関わらずその逆襲であわや討ち取られかけた小早川隆景のケースを考えても、厳島の様に狭隘な地では例え厳島神領衆程度の小勢にでも不意を突かれると不覚をとって討ち取られるリスクが存在して居たわけで、そう考えると哀しいかなここでも旧主と逆臣との力量差が見えてしまうというか…
思えばこのシリーズで晴賢が登場した時から危うい勝ち方をしてるのは指摘されてましたね
最期までそれが直らないんじゃ呆気なく討たれてしまうのも当然か…
弘中さんって奮戦していたというより、元就がギブアップするのを待っていたんじゃないですかね?足利尊氏が楠木正成にしたように。
隆元の隆兼殿•••に目頭が熱くなりました😢
まさか開戦前からもう水軍が優勢とは
弘中隆兼さんマジ無念、絶対優遇されるのに
後つくづく思うが
隆元まじ有能ですね
厳島本戦時、隆元は元就の本陣ではなくて隆景と一緒に海上にいたんですね!これは初めて知りました!
次回解説予定ですが、厳島に上陸したことが当時の書状から確認できるのは毛利軍のみ、「二宮佐渡覚書」などから吉川軍も参加していたと考えられます。
一方で、「傘下国衆」が海上待機していたとあるので小早川隆景らは海上から侵攻と考えられますが、隆元側近の赤川元保が行動を共にしていることから隆元は隆景らの方にいたと考えられます。
ここでも野間さんがやらかした‥
陶晴賢の人物像を知りたいです
やっぱり短気で脳筋だったでしょうか?
軍の運用は猪突猛進方であったと思われますし、政策・戦略に短気な点が滅茶苦茶目立つのは間違いないですが、そんな人物が大寧寺の変であそこまで立ち回れるか、と考えると難しいですね・・・。
@@SquareDeerHorn
養父である陶興房と比較して、どういう違いがあるのかも気になるところです。ウィキで見る限りでは、明らかに興房の方がスゴイように見えています。
晴賢は、父の興房と同じく、大内家の軍師として、軍才もさることながら、敵対していた大友氏から義隆の養子を迎える話をまとめるなど、
外交もこなす文武両道の人ではあったようです。
大寧寺の変後の大内の弱体化は、朝廷など、中央から、官位や守護国の減封があったり、反陶派の杉氏の治める北九州も捨てざるを得なかった上、変後に、味方してくれていた長門守護代の内藤興盛が引退、そして、死去と、
晴賢の闇落ちを更に深める事案が続き、判断能力に狂いが生じていたのやも知れませんね。
なので、大内義隆へのご恩を温めながら、力を蓄えていた、士気の高い吉見や、毛利に、勝てなくなっていました。
いやぁ・・・楽しすぎる。楽しすぎますよ、しかかく様〜
戦国時代の数ある合戦の中でも、特に好きな合戦です。
とても楽しめました。
毛利方の海上機動を許してしまう程にまで、陶方の水軍衆が弱体化してしまっていたとは… 陶弘中軍は一瞬で崩壊してしまったのだろうな。弘中隆兼の最期は涙また涙。
弘中殿は可能ならば生かしておきたかっただろうけど、そうはならなさそうという予感の上での投降勧告だったのかな
実際厳島神社って行ってみると分かるがめっちゃ道が狭いんよな。こんな中で奇襲されたら大混乱になるから厳島に入った時点で負けてたんやな
「毛利元就の感状が残ってないから、瀬戸内海賊衆と陶軍との対決ではないか?」という説がありますが、現在残ってる感状で間違いなく戦国時代のものと確定した感状ってどれぐらいあるのですかね? 前の話で江戸時代に「偽感状」が沢山作られてそれが大量に残ったそうでですし・・・
山室恭子氏の説はwikiにも載っていますがはっきり言って「珍説」の類であり、その説の根拠もすべて結論ありきから来るものとなっています。実際に秋山伸隆先生が「宮島学」にてこの説を一つ一つ否定し、完全な「冤罪」と断言しています。
山室氏は感状が残っていない=戦ったのはほぼ来島水軍、毛利軍は手柄を立てていない、と主張しますが、実際には赤川元保の感状仮文がある他、山田民部丞・渡辺長らが頸を討ち取ったことを示す書状は残っていますし、合戦前後の書状からも主体は毛利軍+安芸国衆であったことは明白です。
また、山室氏はそこから毛利氏が来島氏の活躍を歴史から削除したという「完全犯罪」を「推理」していますが、これは同氏が小早川隆景から小早川秀秋に家督相続された際の小早川家文書の行方に対する無知と、来島水軍が天正年間に毛利家を裏切り、その後毛利家から独立しているという背景を知らないことから来る「冤罪」となっています。
この説については次回動画でも取り上げる予定ですが、丁度まとめていた所でしたのでまとめだけ上述いたします。
@@SquareDeerHorn 回答していただいてありがとうございます。山室恭子氏、著書のタイトルを見る限り、HG先生と同じ臭いがしますね・・・
最後は自身の武勇に恃んだか晴賢…
毛利のライバルであった大友氏の配下?だった筑後十五城の大身十五家についてもまとめた動画をいつか見てみたいです
陸路からのルートで決戦を想定した、陶晴賢は、抑えの部隊をそこに置いて、残りの兵力を持って宮島を攻めたということですね・・となると兵力は5千ぐらいじゃないですか?
この辺りはもう想像の範疇でしか論じられないのでその可能性もあるとは思います。
@@SquareDeerHorn 当時の陣立てが残されてるはずはないですからね・・陶晴賢は大内家を私物化したかったクズではあったけど、最後まで忠義を尽くしてくれる側近たちはいたんですね。
歴史あるあるだけど
ひどい負け方の場合は負けて
当たり前の背景があるものですね
オッキーのコーナー
なるほど、織田もとい羽柴側についた南条元続への対応や鳥取城への吉川経家の派遣など なぜ山陰は吉川なんだろうと思っていたが、そういう事だったのか。
確かにあの超巨大勢力を相手に戦ってるのだから厳島の戦いで決着着くわけではないわな
そういえば一晩だけの味方という村上武吉のエピソードがありますが実際の武吉はどう動いたのでしょうね。動いてないのかな?
その「1日だけ」というエピソードと、能島村上武吉については、次回の検証動画にて解説予定です。
晴賢、なんという頓死
隆兼も素直に毛利に降伏して大内家の評定衆として山口を治める手伝いをしてればもう少し元就も楽できてたのかなぁって思ってしまいますね
というか素直に投降しても隆兼は切られず助命されてたと思うんですけどね。
西条や備後備中で助け合って勝ちを拾ってきたいわば同士なのだから。
合戦前から毛利方の水軍の方が圧倒的優勢だったんですね。
これじゃ晴賢が宮ノ城を陥としたとしても厳島から出ることも不可能なんじゃないか・・・って感じます。
援軍を許して早期陥落ができなくなった時点でもう詰んだと弘中さんが思ったのも頷けます。
落ちたらせっかく味方してくれた水軍衆に失望されますよ。
厳島の決戦なのに前後編だけで済むのか?でしたが、いやはや陶のミスであっけない幕切れ・・・。こんなもんだったか。いやこんなもんでしょうね。そりゃ。でもここまで持ってくる地味な戦略・調略と小さな勝利の積み重ねこそが元就のすごいところなのでしょうね。
謀というと、孔明の罠的な物を
想像しがちですが、細かい交渉の
下積こそが一番重要なのだと
感じました。
鞍掛→岩国はまあええとして、岩国→美和→山里とかいうクッソ山奥を(いくら山代街道があっても)歩いていかなアカンとか頭おかしくなるで…
大軍となると進行を管理する側も気が狂うやろなぁ…
動画中の写真では陸地(市街地)になってるけど草津城は草津の港があった場所で
厳島の対岸の広い範囲は山(崖)の下に長く続く隘路の海岸線の難所
広島市内の川がたくさん流れてる扇状地の南半分は遠浅の海
投稿お疲れ様です、いつも楽しく拝見しています。
前回と合わせてとにかく毛利軍の神速っぷりがすごいですね・・・蜂起から1日で厳島まで制圧したり、今回晴賢厳島上陸の際は対応が後手に回ったにも関わらず4日で郡山城から草津城まで進軍を済ませる等、あくまで安芸国人衆の盟主といった立場を鑑みるとその統率力と根回しに感服するばかり(譜代家臣すら完全に従わないのは解説されてましたし)
隆元の毛利国家宣言が国人たちにも周知されていたんですかねえ
よく宮ノ城(宮尾城)が厳島の戦いで陶晴賢を誘引するための囮として築城したと通説では考えられていますが、実際の所いつ頃に大内氏によって築城されたと考慮できますかね。
実は私の吉田郡山城の戦いの解説時に若干触れているのですが、天文9年頃大内家の兵站基地が厳島にあったことが確認されており、恐らくこれが宮ノ城の前身ではないかと思います。
その前の大永5年には大内義興が厳島に陣を構えていますが、この頃は向こう岸の門山城を主に使用していたためこの頃にも宮ノ城(の前身)が既にあったのかは不明です。
@@SquareDeerHorn
なるほど
ありがとうございますm(_ _)m
水軍が居なくても陶晴賢の武勇で毛利軍には勝てるかもしれないけれど武勇だけじゃ海には勝てないからな。
凄く凄く楽しめました。むしろ長篠に近い…。己斐豊後守の奮戦がものすごく印象に残りました。宮尾城本当に小さい城趾ですが、厳島の平地は神社と神宮寺の本当に狭いところで一万もいられないと思います。地形を知っていると楽しさ増します!お仕事しながらの動画作成いつも頭が下がります。ありがとうございます。次の動画が待ち遠しい!
陶晴賢の動きに批判があるだろうけれど、ここまでの陶晴賢の戦い方を見ると、危険な場所にあえて大軍を移動させて力攻め、というのが戦い方のようなので大内軍の主力を担った陶軍の基本方針なのではなかろうか
陶くん、遂に逝ってしまうんやな〜
陶さんも常にあの肖像画を使われては、生前に書かせておけばとあの世で悔やんでそう。
今回も大変面白かったです
博奕尾の尾根からの奇襲という通説のド派手な戦術が、「制海権を抑えたことで好き放題出来るようにした結果」というもう一段上(戦略?)の賜物であったと思うと、元就の凄さは通説がむしろ過小評価な気もしてきますね…
陶軍がもっと圧倒的かと思ってた。
まあよくよく考えたら謀反人だし、建前上同格の守護代抹殺する人には着いて行けないよね
速い、速いよ
制海権を失いつつあった陶がわざわざ厳島に行ったのは、味方のしがらみで仕方なかったのか、奇襲のつもりだったのか、何か別の勝算があったのか…
これはあくまで個人的な感想になってしまいますが、陶自身は毛利軍と正面衝突になれば負ける訳がない、そうでなくても厳島を抑える(宮ノ城を攻略する)だけで一気に戦況をひっくり返せると踏んでいたと思われます。
この考えはかなり楽観的で、そのため隆兼も書状で「軽々と陶もしへ・・・口惜候」と嘆いています。
@@SquareDeerHorn
ありがとうございます。なるほど、安芸でずっとやってきた弘中隆兼と違って、陶隆房は、元就はじめ安芸国衆の実力をそもそも過小評価していたのかもしれませんね。
瀬戸内海は交易航路でもあるから、制海権の喪失はそのまま、財政悪化に結び付く。
明から勘合貿易を拒否されてるため財政が悪化しており、畿内交易ルートの喪失は何がなんでも避けたかったのだと思う。
今回も動画楽しく拝見しました。
一つ気になったのが、現在の海岸線(動画内の航空写真)と当時の海岸線がかなり
違うという事に関してです。
私は地元民なので、脳内で補完できているのですが土地に不案内な視聴者は
「水軍の移動経路の話なのに、何故内陸まで進出しているのか?」と思う人も
いるのではないかと思いました。
今後の参考になれば幸いです。
日本の歴史紹介動画で、よくあるネタですね。大陸と違って、日本は川が短く急流なので、わりと洪積平野(沖積平野や洪積台地等)が早く形成されやすい。またお米好きなので昔からあちこちで干拓されてきた。
水で形成された地形の影響が日本の歴史では大きいにも関わらず、歴史の教科書も含めて関連書籍及び動画は今の地形図を使ってる。今の地形図で説明してる。だから、様々な歴史イベントの発生原因や、なぜ当時そこに某建物を作ったのか等が理解しにくい。
しかし昔の海岸線の地図を一歴史TH-camrが用意するのは大変なので、私はそこの誤りにたいて諦めています。
@@SAKURANOODLE
コメントありがとうございます。そうですよねぇ。
研究者の方でもないと中々詳しくはわかりませんよね・・・
ちなみに「広島 海岸線」でヤフー検索すると、14世紀の海岸線に触れた内容が
上位にヒットしたので、気になったら見てみて下さい。よその資料なので直リンクは遠慮w
邇保姫神社から仁保島城(三角山)跡を見上げると割と当時の感じ(平野部が海)が見えますね。まるで付城のような気持ちになります。遠浅で潮流が複雑だったからこそ、広島三角地は水軍衆の巣であり、この水軍は多分元は安芸武田氏の権益で実際厳島で旧臣大活躍なんですよね
弘中隆兼・・・😢
長文で質問申し訳ありません。
24日に毛利元就が郡山城を出陣し、25日には草津城(約47キロなので二日掛ければ辿りつける距離ではある)で指揮をしていたとありますが、毛利家文書444で25日に廿日市にいる隆元と佐東(恐らく金山城?)にいる吉川・平賀が合流するように指示しているのがちょっと腑に落ちません。草津城に進軍する途中の金山城で吉川・平賀と合流して一緒に草津城に行かなかったのかな?って思いました。元就は25日はまだ可部辺りを進軍中で、吉川・平賀がまだ金山城に居る事を知って「早く合流しろ!」って手紙を出したのかな?元就がこの間ずっと郡山城にいたという一次史料をご存じであればお教え願います。※陶と戦い始めてから元就がどこに本陣を敷いていたのか情報が錯綜していますので知りたいと思った次第です。
また別件ですが、房顕覚書では「毛利軍は地御前に出発した」とありますが、隆元のいた「廿日市」とはやはり桜尾城ということでしょうか?
「井原家文書」天文24年9月23日の井原元造宛毛利元就・隆元連著書状には、元就らが明日「神領」に向けて出陣するため、郡山城の人質監視のために井原元造を呼び寄せています。そのため、この時点では元就・隆元は吉田郡山城にいたと考えられます。
また、「毛利博物館蔵」天文24年9月26日の隆元宛元就書状から、9月25日に毛利隆元が桂元澄(桜尾城番)・赤川元保と軍議を行っていたことが確認できるため、恐らく隆元のいた廿日市とは桜尾城、あるいはその近くであったと考えられます。また、その前後に元就の考えを伝えるべく、三吉九郎衛門尉を隆元の下に派遣しており、そのことからも元就は25日には草津城に着いて全体の指揮をとっていたものと考えられます。
一方で、元就も吉川・平賀・小早川の正確な位置を把握していなかったようで、「(もう来てるはずだから)合流しろ」という感じの文章になっています。これは昔の情報伝達の難しさが出ている気がしますね。
9月23日 出陣準備、吉川・平賀にも出陣を要請
9月24日 元就・隆元出陣
9月25日 元就は草津・隆元は廿日市に着陣が確認される
@@SquareDeerHorn 早速の返信ありがとうございます。よく分かりました。元就・隆元が強行軍でそれぞれ草津城・桜尾城に入ったのに、その頃もう来てるだろうと思ってた吉川・平賀が後方の佐東金山城にまだいる(途中元就・隆元は金山城を通ってるはずなので、その時はまだ吉川・平賀軍は金山城にいなくて、元就・隆元が通過した後に入ったか、強行軍ゆえ金山城をスルーしたのでいたけど気づかなかった)と気づいて慌てて書状で催促したイメージですね。
地御前について、26日の元就の書状で隆元への指示として「沼田警固衆と合流したら河内警固衆と共に地御前火立表に進出せよ」とあるので、隆元は桜尾城(=廿日市)にいて、警固衆は出撃の拠点として地御前に移動させたという事が分かりました。
なので、厳島の房顕から見たら地御前に軍が集結しているように見えたと。
唐突な(∵)雨穴で笑った
何なら兵数は互角か、毛利の方が多かった説の方が信ぴょう性あるよな。
明治維新で長州藩にやりたい放題やられてるからこの辺の正史は敵方史料の方が信じられる。
ただ互角に近い兵数なのに退路のない渡海しての城攻めを始めた陶を、戦略的に勝った上での戦術奇襲で完勝した元就はすごいのは言うまでもない。
投稿お疲れ様です
遂に晴賢・隆兼が自害しました。そして、永安氏なのですが、永安式部少輔の先代と思われる隆信や隆信の父興信が偏諱を受けているそうです。
次回の防長経略時、内藤隆世のみならず、問田英胤・青景隆著・杉隆行らや岩正興致・宮内丞、大庭賢兼らの動向がどうなるのか、楽しみです。
石見守護代の問田隆盛は厳島に渡海してなかったんですかね?
問田隆盛はその後をみる限り参陣していなかった可能性が限りなく高いです。
@@SquareDeerHorn 返信ありがとうございます!
やっぱりそうなんですね。
奇襲説はやはり俗説ですか!
ばくち尾からの奇襲であったことは間違い無いのですが、実際には隆兼書状が示す通り戦の前に勝敗がほぼ決まっていたため、従来の奇襲で大軍に打ち勝ったというのは俗説と思われます。
そういえば、見つかった陶の首を元就は鞭で3度打ったというエピソード動画があったが、本当なのかな。
th-cam.com/users/shortsIEJ3QuQywvE?feature=share
次回の動画で言及予定ですが、完全な俗説です。
この逸話は1644年成立したとされる世良多正純の「厳島合戦之記」(万代記、三島海賊家軍日記の万代記とは異なる)の写本に書かれているのですが、この「厳島合戦之記」は1644年成立とされているにも関わらず、折敷畑の戦いを9月15日のこととしており(折敷畑の戦いが6月5日から9月15日と勘違いされ始めたのは1702年の「吉田物語」からであることがわかっている)、そのことから成立は(少なくとも写本の成立は)1700年代と考えられます。内容も
・元就・隆元が一切出さなかった戦の感状を普通に出している
・天文24年を「小」の月(29日で終わり)と勘違いして厳島渡海を29日としている
・山内隆通が参陣していたりと毛利軍陣営の登場人物がかなり無茶苦茶
・明らかに創作の軍法を当日「大江元就」が書いた書状として掲載している
など、書物の信頼性としてはあまりに低いものになっています。
1700年代の傾向として「義隆を弑虐した陶晴賢を敵討ちとして元就が倒した」という毛利家の大内家簒奪の正当性を強調する傾向が強く、その過程で生み出された逸話と考えられます。
他の動画投稿者にあまりこういうことは言いたくありませんが、私はこういった俗説を大して調べもしていないのに嬉々として流布するのはデマの煽動、故人に対する侮辱と考えております。
ま、まさか”しかかく”さん本人からお返事が来るとは、幸福の極みです。
確かに、いくら理由を叫びながら叩いていたとしても今で言うパフォーマンスにしかなりませんからね。
以前 解説されていた吉川元春の嫁取り話と同様 後では何とでも言えますし子孫は箔をつけたいでしょうからね。
何時の時代も「勧善懲悪」の話は好まれるという事でしょうか。
弘中隆兼無念
陶晴賢って中国の文献読んでなかったんかなぁ
大軍であることに慢心&最前線の指揮官殺したせいでなんとか敵を食い止めてた自軍が崩壊からの王朝滅亡なんてよくある暗君ムーブなのに
読んでたとは思う。
ただ、色々いっぱいいっぱいだったのでは?という印象。
絶対秘神にややこしい事をあっさり丸投げする聖徳太子、、、。
太子様と絶対秘神の関係を、元ネタから考えたら、上司と部下になる。
弘中隆兼公は心情的には毛利家と仲がよく人間関係は複雑なので大内家中で陶隆房公とは親しくなく義隆派であったため隆房公は隆兼公の意見を軽んじていたのでしょう😢
ここが厳島の合戦となった基本的な要因だと思います😢
隆房公は優秀で戦略家ですが少し情緒的で素直なため感情がハッキリしており人の弱さや元就公の敵ではなかったと心得ます😅
隆兼公は隆房公の性格を見抜いており合戦が厳島に定まった瞬間負けを予感したと思います😅
そして隆房公もなぜか合戦を厳島にしたくないのにも拘らず意地でも厳島に照準を当ててしまっている自分に葛藤していたのではないでしょうか?
賢いが冷徹になり切れず感情的な隆房公と賢くて親しいモノも冷徹に扱える元就公の差が出た結果になりましたな😎
まさかのぶっ○しゾーンwww
いい動画でしたね。
でもそろそろゆっくり?音声やめてほしい。聞きづらい😢
屋代島の水軍なんて知らなかったけど、周防の水軍の中核で毛利との接点低そうな彼らがなんで裏切ったんだろ。厳島の戦いでの陶方の敗戦の主因が水軍力だったのなら、戦犯は彼らのような。
弘中さんの書状が切ないけど、良く書状が残ったもんですね。
ガタガタだったからでしょう。
このまま陶方だったなら徹底的にイジメられて警固船ないなるわけですから
兵力優勢、水軍力劣勢で島を攻めるって指揮官失格ですね。
もしも、宮之浦城が落城してたら、元就方の方がやばかったかも…
城が落ちんでよかった
いや、水軍が勝ってるからそうでもないかな?
宮の浦が落ちでも、陶が宮島にいる限り
毛利氏の戦略勝ちじゃない?
水軍が宮島包囲に間に合えば
陶晴賢は、自身に比して薄弱な根拠、緊張感の無い軽率な行動、大寧寺の変前後から目立つ指揮官としての適性の無さが、全て露呈してしまったのが厳島への布陣
その結果、知らず知らずに自ら死地に赴くことになり死ぬことになってしまった、自業自得としか言えない
動画作成者が陶に対して辛い評価を下すのも納得
更新お疲れ様です、陶との決着がつきましたが江良を斬ったり、厳島を戦場に選んだり判断ミスが敗因って感じですね、十分に準備をしていた毛利が勝ったのもうなずけます。冒頭から何度も登場してた弘中さんがこんな所で命を落としてしまうとは悲しい。
陶くんばいばーい👋