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動画投稿ありがとうございます今回も日本縦断旅、無事に完乗できました当時の時代背景を考えると、このような旅をする事は非常に難しかったとは思いますが、とても魅力的な行程ですね
⇓続き 連絡船⛵️急行 🍑門司 → 小倉🍞 → 折尾 → 博多 → 大牟田 → ⚡️上熊本🐻→ 🐻熊本 → 八代🏯→ 🍊水俣 → 出水🩳→ 川内 →伊集院 → 🦌西鹿児島🏝️→ 谷山🗻→ 五位野 → 平川 → 瀬々串 → 中名 → 喜入 → 前之浜 → 🍺生見🍊→ 🍠薩摩今和泉 → 🛩️宮ケ浜 → 🌓ニ月田 → 🤘指宿 → 🗻山川 🍀
今回は後編ですね。関門トンネルが完成する2年位前で、関門連絡船が活躍していた頃ですね。後急行が上熊本に停車いたのは意外でした。また指宿に行くのも今と違い2ルートあったんですね。
伊集院からの南薩鉄道(鹿児島交通)は今から40年ほど前に廃止されましたね。戦後はディーゼルカーが1両で南薩線から西鹿児島に乗り入れていました。
@@TSUYOS185 伊集院~加世田~枕崎の鹿児島交通線ですね。幼少時に時刻表で見て乗ってみたかったのですが、乗る前に廃止されてしまいました。(そもそも未だに鹿児島県だけ入ったことがないのでそれ以前の問題ですが。)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。南薩線は徐々に乗客が減少していたところに、災害による被害を受けたことが決定打となり廃止となってしまいましたね。
後編始まり始まり🎵3日〜4日はかかるんですね…!今と比べると、もはや旅というより過酷な大移動という言葉がいいのか…。文明の進化を感じますね。寝台特急「さくら」は「櫻」だったのは知らなかった…。単純に「桜」だと思ってました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通り、『旅』よりも『大移動』というイメージですね。現在がいかに速く移動できるかを実感するとともに、文明の進化も実感しますね。
たまには青森〜関西を日本海側経由で乗車してほしいなあ。
北の「音威子府」南の「雑餉隈」。一度聞いたら頭から離れない駅名。
特急「さくら 長崎行」🗼東京 → 横浜 →小田原⚡️→ 熱海⛵️→ 沼津 → 🍊静岡 →浜松🌲→ 豊橋🌉→ 🐔名古屋🏯→ 岐阜 → 大垣🦪→ 🍚米原 → 大津 →🌲京都 → 🐙大阪 → 🎅三ノ宮🛩️→ 神戸🐔→ 👸姫路 → 🍑岡山 → 🧵糸崎 → 🦪広島🏝️→ 🔴麻里布 → 小郡 → 🍞厚狭 → 🐡下関 🍀
このころは開拓で移民された方々の2世、3世の時代だと思います。実際には身内のご不幸などこのルートで鹿児島へ帰省したい人がいらっしゃったかも知れませんね。あくまでもかも知れないの話しですが…
未だ、新垂井線が完成していないから垂井経由なんですね。それで大垣駅に停車させて千分の25‰の勾配を走行する為に補機を連結していたとか。戦時下の輸送力増強と勾配緩和の為に新垂井の下り専用線を建設し、現在も貨物列車と優等列車が走行してます。飯田線が私鉄とか西小坂井駅、共和駅、笠寺駅がありません。戦時中のダイヤは参考になります。
旅人は道中、全国各地の駅弁を食べながら旅を楽しんだのではないでしょうか?
大阪駅で連絡する普通101列車の京都22:20発の下関着23:07って24時間以上かかっているのにはびっくりしました。おそらく主要駅の停車時間が異様に長いからなのでしょうか...
あと、呉線経由ってのもあるんでしょうね。本線走るより距離ありますし…
あまりに長時間の旅だったので驚きました。今の列車がいかに高速化しているかが分かります。今回も長距離普通列車が各地で元気に走っていました。夜行もありますが、乗車したら疲れたと思います。
特急「櫻 下関行」 東京 → 横浜 → 小田原 → 熱海 → 静岡 → 浜松 → 豊橋 → 名古屋 → 岐阜 →→ 大垣 → 米原 → 大津 → 京都 → 大阪 → 三ノ宮 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 糸崎 → 広島 → 麻里布 → 小郡(現 新山口) → 厚狭 → 下関 → (関門連絡船) → 門司 → 小倉 → 折尾 → 博多 → 鳥栖 → 久留米 → 大牟田 → 上熊本 → 熊本 → ハ代 → 水俣 → 出水 → 川内町 → 伊集院 → 西鹿児島 🌰
寝台特急「さくら」 東京 → 横浜 → 小田原 → 熱海 → 沼津 → 静岡 → 豊橋 → 名古屋 → 岐阜 → 大垣 → 米原 → 大津 → 京都 → 大阪 → 三ノ宮 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 糸崎 →広島 → 麻里布 → 小郡(現 新山口) → 厚狭→ 下関 😮
現在とは名前が異なる駅(動画内であげられている駅も書かせていただきました)鈴川→吉原岩淵→富士川堀ノ内→菊川中泉→磐田御油→愛知御津神足→長岡京神崎→尼崎西ノ宮→西宮那波→相生西大寺→東岡山玉島→新倉敷己斐→西広島宮島→宮島口麻里布→岩国岩国→西岩国周防富田→新南陽三田尻→防府小郡→新山口阿知須→本由良長門一ノ宮→新下関門司→門司港大里→門司筑前新宮→福工大前雑餉隈→南福岡船小屋→筑後船小屋矢部川→瀬高町→瀬高井手ノ上→南瀬高萬田→荒尾高瀬→玉名日奈久→日奈久温泉川内町→川内饅頭石→上伊集院西鹿児島→鹿児島中央
社会状況さえよければこの時代の旅行も面白そう
岩徳線経由だったんだ
当時はいまの岩徳線が山陽本線でした。
いつもありがとうございます。中国での事変という時代背景を抜きにするとすごくロマンのある旅ですね。優等列車も今では考えられないほどのロングランですが、接続列車も今のような細切れではなくかなり長距離を普通列車が網羅していたことが良くわかります。さらには山川駅から枕崎までバスと言うのも時代ですね。木炭バスでガタガタ道をお客様を乗せて走ったのでしょう。そこまで鉄道省によるミニマムアクセスとしてのネットワークが機能していた証です。
鹿児島本線の乗り換え列車がずっと門司0830発の列車なのは、途中駅で降りる乗客は早々にあの普通列車に乗り換えた方がいい気がしますねぇ。同じルートを普通列車でとか、当時の最長片道切符の旅とかだとどうなんでしょうねぇ?気が向いたらよろしくです。動画作成お疲れ様でした。
仮にこの時代に本当にこんな旅行をしてたら「非国民だ‼︎」って言って差別されそうですね
この月の時間表では「不要不急の旅行は控えて」と出ていたようですね。軍関係、高級軍人の公用でない限りここまで首尾良く特急券や急行券が買えたかどうかは疑問の残るところです。特に特急券は停車駅割り当てがあり、旅をされる方が東京駅で「下関まで特急券一枚。」と言っても簡単には買えなかったような気が。事実上は厳しかったものとは思いますが、あくまでこんなストーリーで汽車旅を続けられたと言うことで。
@@TSUYOS185 確か短距離の発券制限はあったはずです
1940年は紀元2600年記念の年で、橿原神宮や伊勢神宮などを参拝する旅行は推奨されました。
@@hc-ir2dr 「参詣旅行」はよかったんですよね(むしろ国が主導してた)でもこれはれっきとした「観光旅行」になるので…()
@@TSUYOS185 戦時中には「鉄道は兵器だ」とのスローガンがありました。一般人の長距離旅行は難しかったと思います。
当時の上流階級の中に「鉄オタ」がいたら、こんな経路の旅もしてたかもしれませんね。ただ、そもそも変わり者扱いされたかも。新造の超高級クルーズトレインじゃなくて、引退したブルートレイン客車の再整備とかでこの経路を一本で再現するような列車を特別運行したら人気出そうですね。もちろん設備は古かろうとものすごい高額料金になるでしょうが
長門一ノ宮=新下関門司=門司港大里=門司雑餉隈=南福岡矢部川=瀬高井手ノ上=南瀬高萬田=荒尾高瀬=玉名日奈久=日奈久温泉川内町=薩摩川内1940-10-1から川内に改名します饅頭石=上伊集院西鹿児島=鹿児島中央バスルートは鉄道が無いから致し方無いですね2年後には終バスが早くなり、1日余計に掛かります
この時刻表の時代ともなると木炭バスが主流に。相当の苦労があったものと思います。
4日掛かれど、すごく楽しそうな旅にはなりそうですね[時代背景無視]。後、関門海峡を船で渡っているということに時代を感じます。
動画投稿ありがとうございます
今回も日本縦断旅、無事に完乗できました
当時の時代背景を考えると、このような旅をする事は非常に難しかったとは思いますが、とても魅力的な行程ですね
⇓続き 連絡船⛵️急行 🍑門司 → 小倉🍞 → 折尾 → 博多 → 大牟田 → ⚡️上熊本🐻
→ 🐻熊本 → 八代🏯→ 🍊水俣 → 出水🩳→ 川内 →伊集院 → 🦌西鹿児島🏝️→ 谷山🗻→ 五位野 → 平川 → 瀬々串 → 中名 → 喜入 → 前之浜 → 🍺生見🍊→ 🍠薩摩今和泉 → 🛩️宮ケ浜 → 🌓ニ月田 → 🤘指宿 → 🗻山川 🍀
今回は後編ですね。関門トンネルが完成する2年位前で、関門連絡船が活躍していた頃ですね。後急行が上熊本に停車いたのは意外でした。また指宿に行くのも今と違い2ルートあったんですね。
伊集院からの南薩鉄道(鹿児島交通)は今から40年ほど前に廃止されましたね。
戦後はディーゼルカーが1両で南薩線から西鹿児島に乗り入れていました。
@@TSUYOS185 伊集院~加世田~枕崎の鹿児島交通線ですね。
幼少時に時刻表で見て乗ってみたかったのですが、乗る前に廃止されてしまいました。
(そもそも未だに鹿児島県だけ入ったことがないのでそれ以前の問題ですが。)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
南薩線は徐々に乗客が減少していたところに、災害による被害を受けたことが決定打となり廃止となってしまいましたね。
後編始まり始まり🎵
3日〜4日はかかるんですね…!
今と比べると、もはや旅というより過酷な大移動という言葉がいいのか…。
文明の進化を感じますね。
寝台特急「さくら」は「櫻」だったのは知らなかった…。
単純に「桜」だと思ってました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、『旅』よりも『大移動』というイメージですね。
現在がいかに速く移動できるかを実感するとともに、文明の進化も実感しますね。
たまには青森〜関西を日本海側経由で乗車してほしいなあ。
北の「音威子府」南の「雑餉隈」。
一度聞いたら頭から離れない駅名。
特急「さくら 長崎行」🗼東京 → 横浜 →小田原⚡️→ 熱海⛵️→ 沼津 → 🍊静岡 →浜松🌲→ 豊橋🌉→ 🐔名古屋🏯→ 岐阜 → 大垣🦪→ 🍚米原 → 大津 →🌲京都 → 🐙大阪 → 🎅三ノ宮🛩️→ 神戸🐔→ 👸姫路 → 🍑岡山 → 🧵糸崎 → 🦪広島🏝️→ 🔴麻里布 → 小郡 → 🍞厚狭 → 🐡下関 🍀
このころは開拓で移民された方々の2世、3世の時代だと思います。
実際には身内のご不幸などこのルートで鹿児島へ帰省したい人がいらっしゃったかも知れませんね。
あくまでもかも知れないの話しですが…
未だ、新垂井線が完成していないから垂井経由なんですね。
それで大垣駅に停車させて千分の25‰の勾配を走行する為に補機を連結していたとか。
戦時下の輸送力増強と勾配緩和の為に新垂井の下り専用線を建設し、現在も貨物列車と優等列車が走行してます。
飯田線が私鉄とか西小坂井駅、共和駅、笠寺駅がありません。
戦時中のダイヤは参考になります。
旅人は道中、全国各地の駅弁を食べながら旅を楽しんだのではないでしょうか?
大阪駅で連絡する普通101列車の京都22:20発の下関着23:07って24時間以上かかっているのにはびっくりしました。おそらく主要駅の停車時間が異様に長いからなのでしょうか...
あと、呉線経由ってのもあるんでしょうね。本線走るより距離ありますし…
あまりに長時間の旅だったので驚きました。今の列車がいかに高速化しているかが分かります。
今回も長距離普通列車が各地で元気に走っていました。夜行もありますが、乗車したら疲れたと思います。
特急「櫻 下関行」 東京 → 横浜 → 小田原 → 熱海 → 静岡 → 浜松 → 豊橋 → 名古屋 → 岐阜 →→ 大垣 → 米原 → 大津 → 京都 → 大阪 → 三ノ宮 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 糸崎 → 広島 → 麻里布 → 小郡(現 新山口) → 厚狭 → 下関 → (関門連絡船) → 門司 → 小倉 → 折尾 → 博多 → 鳥栖 → 久留米 → 大牟田 → 上熊本 → 熊本 → ハ代 → 水俣 → 出水 → 川内町 → 伊集院 → 西鹿児島 🌰
寝台特急「さくら」 東京 → 横浜 → 小田原 → 熱海 → 沼津 → 静岡 → 豊橋 → 名古屋 → 岐阜 → 大垣 → 米原 → 大津 → 京都 → 大阪 → 三ノ宮 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 糸崎 →広島 → 麻里布 → 小郡(現 新山口) → 厚狭→ 下関 😮
現在とは名前が異なる駅
(動画内であげられている駅も書かせていただきました)
鈴川→吉原
岩淵→富士川
堀ノ内→菊川
中泉→磐田
御油→愛知御津
神足→長岡京
神崎→尼崎
西ノ宮→西宮
那波→相生
西大寺→東岡山
玉島→新倉敷
己斐→西広島
宮島→宮島口
麻里布→岩国
岩国→西岩国
周防富田→新南陽
三田尻→防府
小郡→新山口
阿知須→本由良
長門一ノ宮→新下関
門司→門司港
大里→門司
筑前新宮→福工大前
雑餉隈→南福岡
船小屋→筑後船小屋
矢部川→瀬高町→瀬高
井手ノ上→南瀬高
萬田→荒尾
高瀬→玉名
日奈久→日奈久温泉
川内町→川内
饅頭石→上伊集院
西鹿児島→鹿児島中央
社会状況さえよければこの時代の旅行も面白そう
岩徳線経由だったんだ
当時はいまの岩徳線が山陽本線でした。
いつもありがとうございます。中国での事変という時代背景を抜きにするとすごくロマンのある旅ですね。
優等列車も今では考えられないほどのロングランですが、接続列車も今のような細切れではなくかなり長距離を普通列車が網羅していたことが良くわかります。
さらには山川駅から枕崎までバスと言うのも時代ですね。木炭バスでガタガタ道をお客様を乗せて走ったのでしょう。そこまで鉄道省によるミニマムアクセスとしてのネットワークが機能していた証です。
鹿児島本線の乗り換え列車がずっと門司0830発の列車なのは、途中駅で降りる乗客は早々にあの普通列車に乗り換えた方がいい気がしますねぇ。
同じルートを普通列車でとか、当時の最長片道切符の旅とかだとどうなんでしょうねぇ?
気が向いたらよろしくです。
動画作成お疲れ様でした。
仮にこの時代に本当にこんな旅行をしてたら「非国民だ‼︎」って言って差別されそうですね
この月の時間表では「不要不急の旅行は控えて」と出ていたようですね。
軍関係、高級軍人の公用でない限りここまで首尾良く特急券や急行券が買えたかどうかは疑問の残るところです。特に特急券は停車駅割り当てがあり、旅をされる方が東京駅で「下関まで特急券一枚。」と言っても簡単には買えなかったような気が。
事実上は厳しかったものとは思いますが、あくまでこんなストーリーで汽車旅を続けられたと言うことで。
@@TSUYOS185 確か短距離の発券制限はあったはずです
1940年は紀元2600年記念の年で、橿原神宮や伊勢神宮などを参拝する旅行は推奨されました。
@@hc-ir2dr 「参詣旅行」はよかったんですよね(むしろ国が主導してた)でもこれはれっきとした「観光旅行」になるので…()
@@TSUYOS185 戦時中には「鉄道は兵器だ」とのスローガンがありました。一般人の長距離旅行は難しかったと思います。
当時の上流階級の中に「鉄オタ」がいたら、こんな経路の旅もしてたかもしれませんね。
ただ、そもそも変わり者扱いされたかも。
新造の超高級クルーズトレインじゃなくて、引退したブルートレイン客車の再整備とかでこの経路を一本で再現するような列車を特別運行したら人気出そうですね。
もちろん設備は古かろうとものすごい高額料金になるでしょうが
長門一ノ宮=新下関
門司=門司港
大里=門司
雑餉隈=南福岡
矢部川=瀬高
井手ノ上=南瀬高
萬田=荒尾
高瀬=玉名
日奈久=日奈久温泉
川内町=薩摩川内
1940-10-1から川内に改名します
饅頭石=上伊集院
西鹿児島=鹿児島中央
バスルートは鉄道が無いから致し方無いですね
2年後には終バスが早くなり、1日余計に掛かります
この時刻表の時代ともなると木炭バスが主流に。相当の苦労があったものと思います。
4日掛かれど、すごく楽しそうな旅にはなりそうですね[時代背景無視]。
後、関門海峡を船で渡っているということに時代を感じます。