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大内義隆は、政治に興味を失ったどころか、力を入れてる話が出てきてますね拡大路線から、内政強化路線に舵を切って、相良武任らの文官の力が増して行き陶隆房ら武官の不満が溜まって行ったとかなんとか。続きが楽しみですね
溺愛される末っ子、シゴかれる長男、犬のような次男。現代と変わらんすなぁ
そして虫けらのような四男以下。。
15:59この家系図をみると、元就の意図が「毛利家の繁栄こそ第一」というのがハッキリわかりますね。元春は毛利の分家の北家に入れて、もしかしたら隆景は相合家でも再興したかもしれない。隆景は他家にイヤイヤとられたけれど‥元就が毛利三川体制でいくとハッキリ決めたのはいつ頃なんだろう?
大内家の底力というか、手札の多さを再確認する。しかしどうしてそれが滅亡に繋がるのか、とても楽しみでもある
また書いてしまいますがこのふとさまの立ち絵凄く良いな表情も豊かで楽しい
待ってましたっ
4:10 上領の読み方は、「じょうりょう」じゃなく「かみりょう」ではないでしょうか。この時の当主の吉見正頼(まさより、又はただより、大内氏の"みなし偏諱"が考えられるので、「ただより」が正しいと思います。ですが、津和野町内では「まさより」呼びが多いので、「まさより」呼びも捨てきれません。)の家臣にも、上領頼兼(「かみりょう」よりかね)、頼規(よりのり)親子がいるので、「かみりょう」で間違いないと思います。
申し訳ありません、じょうりょうは編集ミスで仰っるとおり「かみりょう」が正しいです。正頼が相良正任と同様にみなし偏諱の場合は仰る通り「ただより」が正しく、またその可能性もかなり高いとは思います(既に隆頼がいるため)。ただ、中司先生らも含め「まさより」としている場合が多いので取り敢えずは「まさより」で何卒お願いいたします🙇♀️
@@SquareDeerHorn 津和野地域でも、「まさより」呼びが多いので、やはり自分としても「まさより」呼びを続けたいと思います。
吉見を調べている郷土史家です。上領〔かみりょう〕と呼びます。横道も〔よこじ〕だったような、、。楽しく拝見しています。m(_ _)m
申し訳ありません、かみりょう(上領)は純粋な編集ミスです。ただ横道を「よこじ」と読むのは初耳でした。ありがとうございます。
いつも素晴らしい教科書のような動画で地元を紹介して頂き大変嬉しい思いです。僕も小さな講演しています。深掘りしたいのですが、吉見領まで尼子氏が攻めてきたのは何時頃ですか?石西だと三隅井野に攻めてきた事はありますが、津和野付近まで攻めたのは知りませんでした。あと、石見守護の山名氏や問田氏の石見滞在時の本拠地を教えて欲しいです。備中に負けず劣らず、守護の力がまったく及ばない石見ですww
恥ずかしながら私は原本未確認状態なのですが、藤井崇先生によると上領頼兼が天文12年7月21日、上領にて夜襲により牛尾氏らを撃退したことが出雲尼子史料集645号にあるそうです。これも藤井先生の研究なのですが、石見守護代問田氏の本拠については足利義輝の元服費用を徴収する際、「高城」なる城に集めていることや地理的歴史的観点から見て、石見銀山の近く・邇摩郡の高城が本拠だったのではないかとされています。石見守護山名家の守護代の本拠については申し訳ありませんがちょっと私の方で調べたことが無いためわかりません。石見守護代であった入澤氏が石見国に下向して段銭賦課などの活動しているため、そこら辺を調べ直せば見つかる可能性はあると思うのですが・・・。
問田氏は邇摩に居ましたか、、ほとんど戦の文献に出て来ないので全く分かりませんでした。。石東、、やはり尼子を見張る役割を担っていたのでしょうね。邇摩なら近くの石見吉川氏や小笠原氏や高橋氏はもう衰退していたか、、このへんとの絡みもありそうですね。。
@@sanaba94 吉見氏を調べていらっしゃることを聞いて、勝手ながらコメントさせていただきました。私も、吉見氏については大好きなので、今後ともお付き合いさせていただいてもよろしいでしょうか。
なんか隠居構想のとこほろっとしてしまったまあ現実的には足利義教のように男子に恵まれまくっても成人出来たのは数人とかあるから領地も広がっている状況で手元に男子をおいてしっかり育てる方が良かったんだろうけど。
小早川隆景誕生の経緯全然イメージと違った笑
地元に縁のない人でも西条守護に任命されれば現地の兵力がすぐに戦力化出来るほど組織化されてたのかね。弘中隆兼自身は岩国辺りの領主よね。
弘中隆兼、というより東西条代官(西条守護)の主な軍は西条盆地を中心とした「西条衆」で、そこに傘下国衆の軍が入って大軍になる感じです
文字通り「東西条代官」だったのですね。ここは世襲でもないし周りに敵多いから、大内本国軍の駐屯地みたいな面があるのかと思ってました。ありがとうございました。
こうやって見ると大内義隆はかなり積極的に反攻体制を築こうとしてるねこれがなんでやる気を失ったとか言われていたんやろか…?
多分この後、大寧寺の変→厳島の戦い→防長経略と大内氏の滅亡という結果になったから大内氏の滅亡の理由を大内義隆の無能化に求めてたんではなかろうか?まぁ、大内家当主による専制化による大内家臣団同士の対立が大寧寺の変を引き起こしたようだけど。
陶晴賢のバカにどんでん返し食らったからやろなあ…
もし、毛利元就主人公で大河を作るのなら、相良武任を山本耕史がやってほしいですね
14:21 上山は「かみやま」ではなく「うやま」ですよ
3:25 3:44 4:44 5:28 8:24 9:18 11:15 12:14
残念ながら映画の方はPart2はないんや
大内義隆に養子にいったのは、大友義晴ではなく晴英です
この頃はまだ出羽氏も毛利氏を裏切ったりしてたんやな。後々高橋氏をボコす事を約束したからめっちゃ味方したんかな?
にし殿、下手すれば戦国時代で日本一再婚回数の多い女性になるのでは?
大内義隆は、政治に興味を失ったどころか、力を入れてる話が出てきてますね
拡大路線から、内政強化路線に舵を切って、相良武任らの文官の力が増して行き
陶隆房ら武官の不満が溜まって行ったとかなんとか。続きが楽しみですね
溺愛される末っ子、シゴかれる長男、犬のような次男。現代と変わらんすなぁ
そして虫けらのような四男以下。。
15:59この家系図をみると、元就の意図が「毛利家の繁栄こそ第一」というのがハッキリわかりますね。元春は毛利の分家の北家に入れて、もしかしたら隆景は相合家でも再興したかもしれない。
隆景は他家にイヤイヤとられたけれど‥
元就が毛利三川体制でいくとハッキリ決めたのはいつ頃なんだろう?
大内家の底力というか、手札の多さを再確認する。しかしどうしてそれが滅亡に繋がるのか、とても楽しみでもある
また書いてしまいますが
このふとさまの立ち絵凄く良いな
表情も豊かで楽しい
待ってましたっ
4:10 上領の読み方は、「じょうりょう」じゃなく「かみりょう」ではないでしょうか。この時の当主の吉見正頼(まさより、又はただより、大内氏の"みなし偏諱"が考えられるので、「ただより」が正しいと思います。ですが、津和野町内では「まさより」呼びが多いので、「まさより」呼びも捨てきれません。)の家臣にも、上領頼兼(「かみりょう」よりかね)、頼規(よりのり)親子がいるので、「かみりょう」で間違いないと思います。
申し訳ありません、じょうりょうは編集ミスで仰っるとおり「かみりょう」が正しいです。
正頼が相良正任と同様にみなし偏諱の場合は仰る通り「ただより」が正しく、またその可能性もかなり高いとは思います(既に隆頼がいるため)。
ただ、中司先生らも含め「まさより」としている場合が多いので取り敢えずは「まさより」で何卒お願いいたします🙇♀️
@@SquareDeerHorn 津和野地域でも、「まさより」呼びが多いので、やはり自分としても「まさより」呼びを続けたいと思います。
吉見を調べている郷土史家です。上領〔かみりょう〕と呼びます。横道も〔よこじ〕だったような、、。楽しく拝見しています。m(_ _)m
申し訳ありません、かみりょう(上領)は純粋な編集ミスです。ただ横道を「よこじ」と読むのは初耳でした。ありがとうございます。
いつも素晴らしい教科書のような動画で地元を紹介して頂き大変嬉しい思いです。僕も小さな講演しています。深掘りしたいのですが、吉見領まで尼子氏が攻めてきたのは何時頃ですか?石西だと三隅井野に攻めてきた事はありますが、津和野付近まで攻めたのは知りませんでした。あと、石見守護の山名氏や問田氏の石見滞在時の本拠地を教えて欲しいです。備中に負けず劣らず、守護の力がまったく及ばない石見ですww
恥ずかしながら私は原本未確認状態なのですが、藤井崇先生によると上領頼兼が天文12年7月21日、上領にて夜襲により牛尾氏らを撃退したことが出雲尼子史料集645号にあるそうです。
これも藤井先生の研究なのですが、石見守護代問田氏の本拠については足利義輝の元服費用を徴収する際、「高城」なる城に集めていることや地理的歴史的観点から見て、石見銀山の近く・邇摩郡の高城が本拠だったのではないかとされています。
石見守護山名家の守護代の本拠については申し訳ありませんがちょっと私の方で調べたことが無いためわかりません。石見守護代であった入澤氏が石見国に下向して段銭賦課などの活動しているため、そこら辺を調べ直せば見つかる可能性はあると思うのですが・・・。
問田氏は邇摩に居ましたか、、ほとんど戦の文献に出て来ないので全く分かりませんでした。。石東、、やはり尼子を見張る役割を担っていたのでしょうね。邇摩なら近くの石見吉川氏や小笠原氏や高橋氏はもう衰退していたか、、このへんとの絡みもありそうですね。。
@@sanaba94 吉見氏を調べていらっしゃることを聞いて、勝手ながらコメントさせていただきました。私も、吉見氏については大好きなので、今後ともお付き合いさせていただいてもよろしいでしょうか。
なんか隠居構想のとこ
ほろっとしてしまった
まあ現実的には足利義教のように
男子に恵まれまくっても成人出来たのは数人とかあるから領地も広がっている状況で手元に男子をおいてしっかり育てる方が良かったんだろうけど。
小早川隆景誕生の経緯全然イメージと違った笑
地元に縁のない人でも西条守護に任命されれば現地の兵力がすぐに戦力化出来るほど組織化されてたのかね。弘中隆兼自身は岩国辺りの領主よね。
弘中隆兼、というより東西条代官(西条守護)の主な軍は西条盆地を中心とした「西条衆」で、そこに傘下国衆の軍が入って大軍になる感じです
文字通り「東西条代官」だったのですね。ここは世襲でもないし周りに敵多いから、大内本国軍の駐屯地みたいな面があるのかと思ってました。ありがとうございました。
こうやって見ると大内義隆はかなり積極的に反攻体制を築こうとしてるね
これがなんでやる気を失ったとか言われていたんやろか…?
多分この後、大寧寺の変→厳島の戦い→防長経略と大内氏の滅亡という結果になったから
大内氏の滅亡の理由を大内義隆の無能化に求めてたんではなかろうか?
まぁ、大内家当主による専制化による大内家臣団同士の対立が大寧寺の変を引き起こしたようだけど。
陶晴賢のバカにどんでん返し食らったからやろなあ…
もし、毛利元就主人公で大河を作るのなら、相良武任を山本耕史がやってほしいですね
14:21 上山は「かみやま」ではなく「うやま」ですよ
3:25 3:44 4:44 5:28 8:24 9:18 11:15 12:14
残念ながら映画の方はPart2はないんや
大内義隆に養子にいったのは、大友義晴ではなく晴英です
この頃はまだ出羽氏も毛利氏を裏切ったりしてたんやな。後々高橋氏をボコす事を約束したからめっちゃ味方したんかな?
にし殿、下手すれば戦国時代で日本一再婚回数の多い女性になるのでは?