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「本能寺される」という無いはずの動詞が通用するというすごさwあと、家臣の裏切りは信光の不審死もあるかもしれないなー。
橙のしっぽがちょこちょこと動くの、ホントかわいい。早くピクってなんないかなあ、って思いながら観てます。いつも動画ありがとうございます。
ありがとうございます!
いつも投稿楽しみにしています!もし可能ならうぷ主のオススメ本紹介、をいつか見てみたいです!
ノブさんが国内で支持されなかったのは確かにうつけが原因だけど、この外交状況の激変からすると東部戦線は今川から相当な圧迫・調略をされていたと思われますね。弱小国家だからといって遠方外交に手を抜いてはいけない。それ以降のノブさんは近隣だけでなく遠方外交にも力を入れてますし。
ついでに弟は美濃の斎藤義龍にも近づいてるしなそうなると今川、斎藤に挟まれるのは確定だからなぁそら裏切るわ
信長が尾張国内で支持されないとかは誤解だ。住民は税もキチンと収めてるし反抗もしてない。兄弟は多いが信行以外は武力に訴えた奴は居ない。信光オジサンのように一軍の指揮官クラスの才能はないが他のオジサンたちも信長支持だ。稲生の戦いは有名だが内容は林家を軸に信行を無理やり担いだが一戦して完敗に終わった。
信行「ふー、いい風呂だった…あれ?(惨敗)」
ほぼ毎週投稿ありがとうございます。毎回楽しく拝聴させていただいております。さきほど通知付きでチャンネル登録いたしました。
28:51 家康さんも三河一向一揆の時に一時的に敵対した部下を(戦史者を除いて)許していたし仮に内輪揉めで有能な人材がいなくなったら隣国(今回の場合今川家と斎藤家)が喜ぶだけだからある意味これは正しい(呂布みたいな裏切りまくる人物は例外)
現代人の我々から見れば「うぉぉぉさすノッブカッケェ!」でも、中世から近世の切り替わり時期の人々の常識からすれば、「なんなのコイツ・・(ドン引き)」なのは理解できる。あまりにもロックな人過ぎた。
信長編始まってからの投稿ペースから、うp主さんの気合の入れようが伝わってくる…これからも楽しみにさせていただきます🙇♂️
今回もすごく面白かったです勉強にもなりました
周りの目を気にしてないはちょっと違ってて身内はわかってくれるって悪癖甘えのような気がする、外交はそれなりに上手くやってるし民心把握についてはむしろ一流なので外から見てどう見えるかとその効果はわかってるはずなんだ信長さん
結局の所、武士は戦に勝ってナンボだと思い知らされた一戦だった。
仮に信長がここで負けてたら「よくある家を滅ぼす勘違い二代目」で終わってたわけですしね
周りの人間にはない発想を持ち武勇にも秀でる皆信長をうつけと見下していたというよりは、恐れていたのかもしれません。だからこそそこそこ才能が分かりやすいボンボンの信行を擁立したと思います。
豪族同士の合議制の首領には、向かいないタイプですからね。神輿として担ぎやすそうな信行様の方が・・・・・・と考える家臣たちも多かったのだと思います。
自分より賢い人は、何か変わった愚か者にしか見えない事が多くないですか?。僕は、いまだにイーロンマスクはアホに見えます。学歴業績ともに、僕から見て神の様な存在ですが・・・。例えばここで「浸透襲撃」さんに信長を解説頂いても、「浸透襲撃」さんの能力の範囲しか信長が理解できない。信長は、当時は、斎藤道三が理解できる範囲で、斎藤道三ぐらいしか評価されてなかったのかもしれません。
「神輿は軽い方がいい」…んで何かあったら責任全ておっ被せて切り捨てて新しい神輿を擁立する…時代が変わっても人間がすることは変わんないねぇ
六角義治「中央集権するぞ!!(宿老の後藤賢豊粛清)」家臣団「は?(逆に義賢・義治親子追放&復帰と引き換えに『大名の権限を逆に縮小する』分国法を署名させる)」朝倉義景「親父にならって当主はただ座ってるだけで戦には身内に名代やらせてるだけなのになぁ…」斎藤道三「くそっ…家臣団らの圧力で無理やり家督を高政(義龍)に渡す羽目になるとは…孫四郎と喜平次に継がせる!」高政「は?(先手を打って親父ごろし)」信長の身の回りはこういう体制多いからね 毛利とか徳川とか奇跡の類
まぁうつけポイントもあるでしょうが無能の方が神輿としては担ぎやすいし実験握りやすいからじゃね?
いつもおもしろいです。何度も見たくなる動画です。夷陵の戦いなども何度も見ました。信長kingofジパング だと終わり方は アテブレーベ オブリガード でしたね。
教育が本来の意味で使われてる、稀有な事例
若尾文子で締め(笑)中井貴一✖中村勘九郎✖杉良太郎の甲相駿三国同盟締結は歴代大河でも名場面と思います。
同感です。格調高い三国同盟締結でした。実際にはあの会盟、お三方の代理人で締結したというのが昨今の定説ですが、実際にああやってあっていたのかなと思わせるくらいの、説得力のある演技でした。もっとも、富士山のどちらが表か裏かという現代まで静岡県民と山梨県民が争う問題で中井・信玄と勘九郎・義元の「尻丸出し論争」はなかなかに面白い展開でした。
@@ryu-innsanjyo6525 富士山の見え方で、3国がお互いのプライドを戦わせる秀逸なシーンでしたね。
そのバカ話の後、勘九郎義元「アイスブレイクはこんなもんだろ。雪斎が事務局だからオレがリードするんだよな」とばかりに一瞬で真顔になり30秒で議題(縁組)を片付けるのが流石です。
@@tesseract3280 中井晴信のヒエッヒエの視線を全く気にしてませんよね。
3月中に2本投下されるとかありがたやありがたや
なんか、勝家とか美作守もいい機会だし一度きっちり詰めにゃならんなと言う感じで集まって信長のとこ行こうとしてた感じで、大軍で囲んで本陣に詰め寄って教育して、ぶっ殺すかどうかはよっぽど言う事聞かん時、位に考えてたんじゃなかろうか。所がノッブ、アウトレイジの北野武的な殺すムーブで一喝、その後700の先頭に立ってコロシまくり、えええっと思ってる間に誰も立ち向かうことすら出来ずに総崩れ、ガクブルで逃げてきてもう駄目っす、って報告してママン登場こんな流れが目に浮かびました。
信行の息子(後の津田信澄)は生かして、成長したら有能だったので一門衆として重用してるし、身内に甘いんよな。
1556年に道三パパを討ち取ったあとの義龍(27~29歳)は後悔の涙を流したとも伝わるが政治的な動きは素早く、姓を斎藤氏から一色氏に変更、足利将軍家から正式に認められると1558に治部大輔に認められ1559年に上洛し足利義輝拝謁している。少しこの一考察から未来に飛んでるが、この時期の義龍は六角とも同盟するなど外交の手を次々打っている。信行の謀反は斎藤義龍の謀略の一つだと思う。
ゆうきまさみ先生の「新九郎奔る」で初めて知ったのが今川家と北条家は親戚という事北条早雲は今川義元の父の氏親の叔父さん氏親が家督相続する時にいろいろ奔走してもらっているのに義元さんは北条家と仲悪いとか考えると親戚付き合いって難しいんだなと思いますね
この時代形骸化してるけど、建前で言うと北条氏って元々今川氏の家老の一人にすぎないんですよ、今河領の東端の興国寺城を貰ったのが始まりですから国境の小城の城主が勝手に隣国に攻め込み勢力拡大して行ったわけですよ、そして早雲の時代は本当は今川氏の家臣であると言う建前を非常に大切にしてます殆ど無償で今川氏の要請に応じて、三河方面に援軍を何度も出してる為早雲の意識では「今川のお館様」だったと言う事ですね自立した戦国大名として振る舞い始めるのは、二代目の氏綱のころから。早雲時代でも伊豆相模二か国大名だったのですが、早雲は飽く迄も家臣として動いてます
推測でしかないですが、信行に多くの尾張家臣がついたのには美濃義龍側なりの「信行なら友好築いてもいいけど~?チラッチラ」みたいな調略があってそれに乗っかったものじゃないかなとも思います。信清なんかも調略受けてたみたいですし。
7:40 三方ヶ原の戦いの事を言ってるのだろうけれど、あれは三方ヶ原から敗走中にあずき餅を食い逃げしたって実話に変な尾ひれがついて汚い話になってるだけです。(味噌ではなく小豆らしいです)家康が食い逃げしたところを店主が追いかけた場所として現在は浜松市の銭取って地名になって残ってます、最近行ってきました!
食い逃げの話は限りなく創作の可能性が高いと思う、家康は馬で逃げていたのに追いつくババアは何者だよって話になるのでおもらしはソースとなる歴史資料が存在しないから歴史通の間では脱糞話はもう史実ではないと否定されて久しいね
そも小豆焼かないだろ こしあん派は焼くのかもしれんが
パチスロでニコニコ時代を思い出して懐かしくなった
多分「なんで謀反されるのか」自体は分かってなかった気はするけど「自分が何かやらかした」せいで怒ってるのは理解してたんじゃないかね。そしてそのせいで弟が担ぎ上げられて戦争になりかけてるから「首謀者と話し合えば解決するだろう」と自ら乗り込んだんのかなと。行動がのちの三成にも似た「柿が好きと聞いたからそのまま出したら忠興がキレた」状態。信長の場合は「何考えとるんやこいつ・・・こっわ」になったけど。こういう失敗から信長は、秀吉のような空気の読める人たらしとか、光秀のような顔の広い教養人を採用して調略や交渉させるようにしたのかなぁ。あと長尾景虎さんはホンマに戦闘に関しては色々意味わからん。外交状況が死んでるのに武田北条その他(最上)に積極的にしかけて最終的に唯一家が大名家として存続するとは・・・ハードモードすぎる。
19:11 あんま何もしてないのに、急に「うつけデバフ」が発動してて草w一生言われ続けるやん😂マジで面白いwww
仕事が出来ても、挨拶が出来ないと、挨拶すら出来ない、人としてどうかと評価が悪くなる仕事が並みでも、挨拶はしっかり出来て、目上は立てるだと高評価みたいなもんか
古今東西、結局は「実権を持つ」上司に気に入られた者が出世したり有能認定されたりするのが組織の性。木下秀吉は勿論、後の時代の独逸のマルティン・ボルマンもそのへんをきっちり抑えていたからこそ出世できたわけだし。
長尾景虎の勝利って、戦術レベルで止まるから、天下には至らなかった。
土田御前の行は信長協奏曲で読んだけどちょっとおもろかった
斎藤も同時期に蝮は義龍と決裂、今川は三河忩劇で三年間大混乱(奥平氏や美濃の遠山氏の挙兵、今川が上司と敬ってる吉良氏と家康母・お大の兄である水野信元等とが組んで蜂起、菅沼氏と牧野氏の分裂とかが一斉発生と滅茶苦茶 義元は氏真に家督譲渡し三河以西に集中することに) 後始末を付けるにはこのタイミングしかなかったし、早期に片付けれたのが豪運一門以外で日和見せず信長にに味方した主な家臣は森可成と佐久間信盛くらい。そりゃ森家と信盛は重用するよね…(それこそ荒木村重を更迭して本願寺担当に指名するレベルに)
その結果、急に播磨も本願寺も外された荒木のかわいそうな話
稲生の戦いの信長陣営って佐々孫助や森可成、前田利家、織田信房と信長以外にも個人の戦闘能力も高い人が多いというのが特徴なんですよ。(特に森可成と織田信房は本陣の崩壊を食い止めて逆転の布石となる大活躍をしています)確か、徳川家が甲斐からの撤退戦を行った際に内部でもめ事が起こりながらも指揮官どころか兵士の3人に1人が戦闘慣れしている実力者ぞろいだからなんだかんだ撤退戦に成功したという逸話があるので兵の練度(というより、指揮官クラスの個人の戦闘能力)差が稲生の戦で現れたのが正確かもしれません。
信長は身内や部下の謀叛に対して非常に寛容ですよね。猛々しい面や苛烈な面もあるんですが、とにかく身内には甘い。有能さよりもそういった点が好きな人物です。
11:32 ここから今川義元さんの顔がエキサイトしてますね。
信長は兵が強かったって説もありますね農民から徴兵し数揃えてた中、訓練をしっかりした集団がいたとか(もちろん大人数居ないし、大規模になったら徴兵してたけど)だから農作業が忙しくなる季節に戦終わったりする中、戦えたとか
ぶっちゃけ金があったからなぁ朝廷にもかなりの資金を寄付してるし熱田神宮まわりの商圏抑えてたのはかなり有利に動いてたんやろなぁと
外交状況が激変する中あくまで攻めの姿勢を見せる非常識的な信長の動きについていけなくなった…てところじゃないですかね。
前線に出てって勝ってくるあたり猛将気質
本来は大将が敵の首を獲る事はあってはならん事だからなぁ…。最上義光なんざたびたび突撃しまくってそのたびに部下から怒られとったし。
後に光秀を救うために10倍の敵に突っ込んで足に銃弾受けながらも撃退したりしているしね
こんだけやって情けない姿までさらして許されておきながら性懲りもなくまた謀反を起こすって、そりゃまともな部下は見限りますわ
信長公は逆に寡兵の方が怖かったりするからね、それぐらいの兵数の方が得意なのかも知れないこの時の主な家臣四人の扱いが両陣営内でもそれぞれ対称的なのが面白かったり信長サイド 森可成→一番のお気に入り、彼の死後の息子達の異常な厚遇から明らか 佐久間信盛→余計な失言が気に入らなかったか追放される信行サイド 柴田勝家→失敗はするけどあいつは頑張っているぞ、見習えと佐久間さんの引き合いに出されるぐらいにはお気に入り 林兄→佐久間さんのついでに追放と後々凄い対比になってるけど、信長公は割と頑張る人間には優しい上司なんだろうなとは思います
林さんは元々信秀パパが信長さんにつけた家老。本来逆境の信長さんを最後まで支えなきゃいけないのに裏切った柴田さんは信秀パパが信行につけた家老で柴田さんは主命に従ってただけですからね。立場が全然違います佐久間氏は林氏や柴田氏と並ぶ尾張の有力国衆で一貫して信長支持を続けてきた功臣で、信長さんが岐阜城を息子に譲って安土城が完成するまで茶道具だけ持って信盛さんの屋敷に居候するぐらい信長さんは彼を信頼してました信盛さんにも信長は俺が育てたみたいな意識が強かったんでしょうね。その態度が信長さんには傲慢、怠惰に見えたんでしょう
総大将が自ら出陣していたか否か、勝敗の分かれ目はそれに尽きると思います。総大将が出陣していない軍は、士気が低く、やっぱり何かきっかけが有ると崩れやすいですね。この戦いは内乱で、仮にも一族の当主が相手ですから、尚更かと。
史実では揉めた兄弟ですが太閤立志伝Vにて織田信勝(信行)でお兄ちゃん大好き♡軍団長プレイしたのは楽しかったです。実際の織田家の領土や家臣を信長さんに渡して他の領土家臣で織田家の勢力拡大してました。
ずっと横にいた今川義元さんは、信長さんがのし上がっていくのを見ていたはずなんですが、彼をどう評価をしていたのが気になりますね。今川義元さんとしては「甲州相模駿府三国同盟」と斉藤家のゴタゴタを機会に上洛を仕掛けたんでしょうけど…「京しか見えてなかった」のかな?
日本って狭いわりに地相や気候豊かだから戦史が捗る
横山光輝の織田信長は信長公記に忠実だったんだなー
内乱は当主が戦場に出るのが重要ですね。一般兵としては敵になった一般兵を打ち取るのは平気でも、身分社会では自ら当主を手にかけるのは気が引けます。後の徳川家康の三河一向一揆でも似た事が起きてます。
そういやよしふじchも締めで使ってたな。あちらも掘り下げ方尋常じゃなくて見応えある。
信長様には「平手政秀切腹事件」もあるから
信長の野望における信長の武勇値はもっと高くていいと思う。少なくとも大名の中では、上杉謙信の次くらいに実績はあるやろ。
1553年に平手政秀が諌死、1556年に懐刀の織田信光そして後ろ盾である斎藤道三を失ってるので反乱祭り確定。今川戦の最中に寝返られるより幸運だったと思われ。信長軍が700の小兵なのは、清洲城を狙う別の勢力を警戒して城内に留めたのかも。
まぁ、歴史に名を残す武将だから当然なんだが、濃ゆい人生よなぁ
信秀の居城である末森城を相続していることから、信長と信行では信行の方が跡継ぎの正統性としては一歩リードしていたのではないか。また、信長の後年の重臣に母衣衆からの抜擢や他国出身が多いのは、信秀時代の家臣やその長子は信行派が中心だったためではなかろうか。
なんかボコスカウォーズでオゴレスに一騎打ち挑んだスレン王みたいな
逆に考えて、信長さんが有能だからこそ、弟の信行さんを傀儡にして自分たちで尾張を牛耳るつもりでうつけ行為を建前にして謀反を起こしたのではないのか?もしくはその時の信長さんが尾張家臣団の利益に反する行動を起こしまくったから、家臣団が頭を変えるつもりとか、ただのうつけ行為という軽い理由で謀反を起こすとは考え難いと。
もし仮にクーデターが上手く行ったとして勝家はどういう戦略があったんだろ?信行に器量なしなことは分かってただろうし、信長の首を手土産に今川傘下or義龍傘下に入るくらいしかないが。。。
5:04新潟県民私、長尾景虎(上杉謙信)にウォッカ持たせて武器にしてるのは流石に草。まぁ史実でもアル中に近かったので妥当ですね…
お疲れさまです。細かいことですが、稲生は庄内川より南です。
締めの台詞、大河のやね。なんやったっけ?
長良川の戦いでの兵数は不明だが勝戦の勢いのある斎藤義龍勢を信長自ら殿軍となって鉄砲を撃ちまくって追い返したという。有名な道三の国譲り状はこのとき救出できた道三側の兵のなかの道三の遺児から伝わったらしい。突然の弟の謀反は美濃との全面対決となる長良川の合戦以降の政治的な流れの必然と言えると思う。義龍からすれば父の援軍だけならともかく遺臣を吸収し国譲り状を持ってる信長は最大の敵になる。今川と揉めてる上に斎藤と敵対する信長に対して早急に反抗しなければというのが信行側の理由で信長の個人の資質とかは無関係。これは稲生の戦いが信行側の兵に戦意が全くなく、信長と林家との戦いだった理由にもなる。政治外交の中心に居た信長の側近の林家は現状を把握してるだけに必死になり、兄である当主の信長に従ってただけの信行や家臣は情報不足もあり危機感がなかったのではないだろうか。
以前は「鳴かぬなら56してしまえホトトギス」と短気で残酷と言われた信長ですが本動画の様に初期を見ても対応が甘いと見えます。そこを明智光秀に侮られ本能寺で討たれてしまったのでしょうか?
信行、斎藤・今川両家から甘いこと囁かれていたのでしょうね。また、信長も東山東海の小大名に同様の手を打っていたはず。界隈の大名家、いずれも内紛の火種かかえているからには、隣国の介入を阻止するため、そして弱体化を図るためにも、さぞ盛大に調略を仕掛け合っていたでしょう。
当時の今川は武田、北条と比較しても戦略で優れていたと言う印象がありますね。国の立地も良くて。東海道ガッツリ押さえてるし。太原雪斎の存在も大きかったかなと。あの人が桶狭間まで存命であれば、日本の歴史は変わっていたでしょうね。家康橙さんも関東で幕府を開けていなかったかも知れません。
もはや抹香万能論w
この戦いは織田家臣団にとっては信長に対する「最終試験」のようなものだったかもしれませんね。本当に「うつけ」であれば討ち取って、信行を中心に織田家を盛り立てていけばよく。本当は「有能」であれば自分達を蹴散らして、内外に信長の実力を示すことができる……。……と考えるのはロマンが過ぎるでしょうか(笑)
今さらですが拝見しました。面白かったです!信行の戦の後始末を母親にやってもらっているところ、うぷ主様が「万引きした高校生か」って突っ込んでましたが・・私は飲食店で問題起こしてバズることを狙った人みたいに思えました(回転寿司でのペロリストの高校生とか・・あれも親にえらい迷惑かけてそうだし)。ある意味、信行は時代を先取りした先駆者だった・・・のかな??
なんで佐久間信盛が追放されるまで偉ぶれたかがよく分かる戦いですね。信盛というか、信行付の盛重すら兄弟対決のときにはすでに信長に従ったわけで。
信盛は本当に最古参の重臣ですからね、それでいてずっと戦果も挙げているからそりゃ重用される
家臣と言っても戦国時代の小領主でもあり、自分が頭を下げるに値する人物であるかどうか値踏みされますよね。信長がそういうところに無頓着だったであろう事は疑いなし…。しかし一連の謀反を通じて信長の強さを思い知り、仕えるべき主君だと認識を改めさせたんだから天下に手をかけただけあります。
長尾景虎にウオツカ持たせるのは草男装女子やぞ景虎ちゃんは
飲酒によって脳出血死になったのは史実ですし。
輝夜は濃姫じゃなかったか...まあ、なにもしてない人物に配役当てても仕方ないっちゃ仕方ないんだが...。
丸腰で敵陣に説得に行く行動や本能寺も含め、信長さんはその状況で謀反を起こしたり自分の首取ったり、結果的に相手が不利になるだけの非合理的なことは無意味だからやらないだろうって、信長さんからしたら当たり前の考えで行動してても、無能や感情で物事を捉える人はそんな考えは持ってないから、そこで齟齬が起きてるのかも?自分の常識は相手も共有してるだろうって思ってるから、特に感情の部分なんかは理解できないのかも。感情が理解できないってよりも合理性と感情を比べて感情の方を選択するのが理解できないのかも?
信長は有能に甘いんじゃなくて全体的に甘い(特に身内に甘い)んじゃないですかね信行1回許したり後には足利義昭にギリギリまで譲歩したりなんでそこで許すの!?ってくらい許してると思うそのくせ唐突にキレるし、それをすぐに忘れて普通に遇する(キレたことで相手がどう思うか考えられない)常識な人間なら昨日ブチギレられた上司に馴れ馴れしくされたら怖くなるしそれが明智光秀なんじゃないですかね
最近の研究だと旧秩序を重んじていた信長なので、抹香投げや汚い格好などのうつけっぷりは信行陣営によるプロパガンダという説もありますねただし、浅井長政はじめ対人関係に雑な対応をすることが多く変に恨まれることが多かったそうですね
この信長の評価のされ方、職場で痛い程身に覚えがあるけどどうやって治せばいいかホントに分からん…
(弟の家老)の存在感
謀反の理由ですが、単純に信長を排斥できた暁にはもっと待遇がよくなるからってことはないんですかね?外敵からの空手形とかもありそうですし。
『織田大和守も打ち取ったことだし、そろそろ品行方正(扱いやすい)信行様を擁立しよう』が、家臣団の総意だったのかも…
なお佐久間「おおん?お前いったん嫡男に従っていてすげ替えるとかアカンすよ!顔覚えとくから覚悟しろよクソバカ野郎」稲生の戦い後、信盛追放まで織田家では事実上信盛を最高位とする家臣内ヒエラルキーが成立
うつけポイントも高いが、極めて有能しかも武力もある、そら信長さんすごいですわ。それにしても越後の戦争強いアレ、改めて見てもありえんわほんま。神輿は軽くてパーが良いは、小沢一郎さんが言わなくても、昔からか。今は武力が使えんからより複雑になってしまいますけどね。
残り40人になった時に信長本人が出てきて敗走させるとかどう考えてもラスボスでしょw
16:40 普通に今川とか斎藤の調略もあるやろな
柴田勝家に数に勝る状態で突撃されて、さらに後詰めに林美作までいたのになんでなん、、、?いろいろ納得いかん、、、。政治と編成が強くて天下統一手前までいったってイメージだけど、実は個人的な武勇も塚原卜伝並みにあったとか、、、?確かに数十人に囲まれても逃げ帰るだけなら問題なくできる武勇があるのなら、単身敵の居城に乗り込んでも怖くはないわな。本当に不思議な人だ。
上杉謙信、合戦の強さは異常ですからね…ただ北条氏政みたいな合戦は強くないが戦争は上手い相手は苦手でしたし、合戦も戦争も強い織田信長相手だと、長生きして合戦には何度か勝てても最終的には北陸失ってそうですね
軌道と兵の質以外に説明つかない。柴田が本陣に攻め寄った時には既に信長はそこにいなかったのかも。
この内乱で佐々(兄)を失ったのは勿体なかったね。
ゴルフ場か、なんで敗走するや、このくだり大好き💕
才能がある人、それも若いうちは特に「能力・実績を示していればそれでいい」と思いがちだけどより社会で求められるのは対人関係の立ち回り・他人からの印象になりがちなのは今も昔も変わらないのかも人間は理性より感情で動くってそれ一番言われているから
関東管領というと扇谷定正と脊髄反射する新八犬伝をリアタイしてた爺ィではある。
うつけゲージ使いすぎて本能寺されてしまったんやろなあ・・・
この時点で反乱があったというのは、信行が今川方に降参しようとしていたと考えると辻褄が合うのでは?強硬派の信長に付いて、今川勢に踏みつぶされるよりはという感じです。
林美作守を自ら討ち取った信長氏だけど、前田利家もそういうエピソードに事欠かないので、利家の親分ならそれくらいするでしょう。
林美作守「先に進むおまえにひとつだけ忠告しておく...大将が大将を討ち取るなんて前代未聞だからな…」(重野なおき 「信長の忍び外伝 尾張統一記」より)
まあ現代でも土地とか遺産とかで身内なんてすぐに敵になったりする
改めて思うと織田信行の方はホントどうしようもないなって思う。自分で何もアクション起こしてない上で降伏して大人しくしてるならまだしも……
柴田勝家1千が相手側に付いたのに勝てたとは。勝家は信長を倒す気は無かったのだろう、不思議だが。
末もり城って森じゃなかったっけ?
信長さんって、人生ジェットコースターゆるむことろ全くないんですが。
「今宵は・・」のセリフ、昔の大河にそのように締めているのありましたね。 おんな太閤記でしたかな?
なんで一喝でチーム権六が敗走してんの…?
>天膳ブラック(-50K)これは抹香投げ不可避
俺は信長公のうつけエピソード信じないから、自分で考えた理由は信行は信長と斎藤の同盟消解後、織田が挟み撃ちを危惧し、その事を反対。でも義理堅い信長として義龍の行為はゆるされない。このまましたら織田が終わったと思った信行は反旗を翻した。まあ、全て個人の臆測だから、信ぴょう性ない😂
稲生は庄内川の南ですね、今も古戦場が残っているので見に行かれてはどうでしょうか?信長公記に庄内川を渡り、とありますが、清洲の信長サイドから見て庄内川を渡っているということです。増水で庄内川を渡れない、と思い込んで稲生砦に攻撃を仕掛けたところ、信長だけが知っていた庄内川の渡りのポイントから渡河し柴田、佐渡の両軍を撃破しています。柴田軍は信長の一喝で壊滅したようで、一緒に戦ってきた結果、柴田軍は信長の強さをよく知っていたのでしょう。
最近更新頻度高くてまじ嬉しい
「本能寺される」という無いはずの動詞が通用するというすごさw
あと、家臣の裏切りは信光の不審死もあるかもしれないなー。
橙のしっぽがちょこちょこと動くの、ホントかわいい。
早くピクってなんないかなあ、って思いながら観てます。
いつも動画ありがとうございます。
ありがとうございます!
いつも投稿楽しみにしています!
もし可能ならうぷ主のオススメ本紹介、をいつか見てみたいです!
ノブさんが国内で支持されなかったのは確かにうつけが原因だけど、この外交状況の激変からすると東部戦線は今川から相当な圧迫・調略をされていたと思われますね。
弱小国家だからといって遠方外交に手を抜いてはいけない。
それ以降のノブさんは近隣だけでなく遠方外交にも力を入れてますし。
ついでに弟は美濃の斎藤義龍にも近づいてるしな
そうなると今川、斎藤に挟まれるのは確定だからなぁそら裏切るわ
信長が尾張国内で支持されないとかは誤解だ。住民は税もキチンと収めてるし反抗もしてない。兄弟は多いが信行以外は武力に訴えた奴は居ない。信光オジサンのように一軍の指揮官クラスの才能はないが他のオジサンたちも信長支持だ。稲生の戦いは有名だが内容は林家を軸に信行を無理やり担いだが一戦して完敗に終わった。
信行「ふー、いい風呂だった…あれ?(惨敗)」
ほぼ毎週投稿ありがとうございます。
毎回楽しく拝聴させていただいております。
さきほど通知付きでチャンネル登録いたしました。
28:51 家康さんも三河一向一揆の時に一時的に敵対した部下を(戦史者を除いて)許していたし仮に内輪揉めで有能な人材がいなくなったら隣国(今回の場合今川家と斎藤家)が喜ぶだけだからある意味これは正しい(呂布みたいな裏切りまくる人物は例外)
現代人の我々から見れば「うぉぉぉさすノッブカッケェ!」でも、中世から近世の切り替わり時期の人々の常識からすれば、「なんなのコイツ・・(ドン引き)」なのは理解できる。あまりにもロックな人過ぎた。
信長編始まってからの投稿ペースから、うp主さんの気合の入れようが伝わってくる…
これからも楽しみにさせていただきます🙇♂️
今回もすごく面白かったです
勉強にもなりました
周りの目を気にしてないはちょっと違ってて身内はわかってくれるって悪癖甘えのような気がする、外交はそれなりに上手くやってるし民心把握についてはむしろ一流なので外から見てどう見えるかとその効果はわかってるはずなんだ信長さん
結局の所、武士は戦に勝ってナンボだと思い知らされた一戦だった。
仮に信長がここで負けてたら「よくある家を滅ぼす勘違い二代目」で終わってたわけですしね
周りの人間にはない発想を持ち武勇にも秀でる
皆信長をうつけと見下していたというよりは、恐れていたのかもしれません。
だからこそそこそこ才能が分かりやすいボンボンの信行を擁立したと思います。
豪族同士の合議制の首領には、向かいないタイプですからね。
神輿として担ぎやすそうな信行様の方が・・・・・・と考える家臣たちも多かったのだと思います。
自分より賢い人は、何か変わった愚か者にしか見えない事が多くないですか?。
僕は、いまだにイーロンマスクはアホに見えます。学歴業績ともに、僕から見て神の様な存在ですが・・・。
例えばここで「浸透襲撃」さんに信長を解説頂いても、「浸透襲撃」さんの能力の範囲しか信長が理解できない。
信長は、当時は、斎藤道三が理解できる範囲で、斎藤道三ぐらいしか評価されてなかったのかもしれません。
「神輿は軽い方がいい」
…んで何かあったら責任全ておっ被せて切り捨てて新しい神輿を擁立する…
時代が変わっても人間がすることは変わんないねぇ
六角義治「中央集権するぞ!!(宿老の後藤賢豊粛清)」家臣団「は?(逆に義賢・義治親子追放&復帰と引き換えに『大名の権限を逆に縮小する』分国法を署名させる)」
朝倉義景「親父にならって当主はただ座ってるだけで戦には身内に名代やらせてるだけなのになぁ…」
斎藤道三「くそっ…家臣団らの圧力で無理やり家督を高政(義龍)に渡す羽目になるとは…孫四郎と喜平次に継がせる!」高政「は?(先手を打って親父ごろし)」
信長の身の回りはこういう体制多いからね 毛利とか徳川とか奇跡の類
まぁうつけポイントもあるでしょうが
無能の方が神輿としては担ぎやすいし実験握りやすいからじゃね?
いつもおもしろいです。何度も見たくなる動画です。夷陵の戦いなども何度も見ました。
信長kingofジパング だと終わり方は アテブレーベ オブリガード でしたね。
教育が本来の意味で使われてる、稀有な事例
若尾文子で締め(笑)中井貴一✖中村勘九郎✖杉良太郎の甲相駿三国同盟締結は歴代大河でも名場面と思います。
同感です。格調高い三国同盟締結でした。実際にはあの会盟、お三方の代理人で締結したというのが昨今の定説ですが、
実際にああやってあっていたのかなと思わせるくらいの、説得力のある演技でした。
もっとも、富士山のどちらが表か裏かという現代まで静岡県民と山梨県民が争う問題で中井・信玄と勘九郎・義元
の「尻丸出し論争」はなかなかに面白い展開でした。
@@ryu-innsanjyo6525 富士山の見え方で、3国がお互いのプライドを戦わせる秀逸なシーンでしたね。
そのバカ話の後、勘九郎義元「アイスブレイクはこんなもんだろ。雪斎が事務局だからオレがリードするんだよな」とばかりに一瞬で真顔になり30秒で議題(縁組)を片付けるのが流石です。
@@tesseract3280 中井晴信のヒエッヒエの視線を全く気にしてませんよね。
3月中に2本投下されるとかありがたやありがたや
なんか、勝家とか美作守もいい機会だし一度きっちり詰めにゃならんなと言う感じで集まって信長のとこ行こうとしてた感じで、大軍で囲んで本陣に詰め寄って教育して、ぶっ殺すかどうかはよっぽど言う事聞かん時、位に考えてたんじゃなかろうか。
所がノッブ、アウトレイジの北野武的な殺すムーブで一喝、その後700の先頭に立ってコロシまくり、えええっと思ってる間に誰も立ち向かうことすら出来ずに総崩れ、ガクブルで逃げてきてもう駄目っす、って報告してママン登場
こんな流れが目に浮かびました。
信行の息子(後の津田信澄)は生かして、成長したら有能だったので一門衆として重用してるし、身内に甘いんよな。
1556年に道三パパを討ち取ったあとの義龍(27~29歳)は後悔の涙を流したとも伝わるが政治的な動きは素早く、姓を斎藤氏から一色氏に変更、足利将軍家から正式に認められると1558に治部大輔に認められ1559年に上洛し足利義輝拝謁している。
少しこの一考察から未来に飛んでるが、この時期の義龍は六角とも同盟するなど外交の手を次々打っている。信行の謀反は斎藤義龍の謀略の一つだと思う。
ゆうきまさみ先生の「新九郎奔る」で初めて知ったのが今川家と北条家は親戚という事
北条早雲は今川義元の父の氏親の叔父さん
氏親が家督相続する時にいろいろ奔走してもらっているのに義元さんは北条家と仲悪いとか考えると親戚付き合いって難しいんだなと思いますね
この時代形骸化してるけど、建前で言うと北条氏って元々今川氏の家老の一人にすぎないんですよ、今河領の東端の興国寺城を貰ったのが始まりですから
国境の小城の城主が勝手に隣国に攻め込み勢力拡大して行ったわけですよ、そして早雲の時代は本当は今川氏の家臣であると言う建前を非常に大切にしてます
殆ど無償で今川氏の要請に応じて、三河方面に援軍を何度も出してる為早雲の意識では「今川のお館様」だったと言う事ですね
自立した戦国大名として振る舞い始めるのは、二代目の氏綱のころから。早雲時代でも伊豆相模二か国大名だったのですが、早雲は飽く迄も家臣として動いてます
推測でしかないですが、信行に多くの尾張家臣がついたのには美濃義龍側なりの「信行なら友好築いてもいいけど~?チラッチラ」みたいな調略があってそれに乗っかったものじゃないかなとも思います。信清なんかも調略受けてたみたいですし。
7:40 三方ヶ原の戦いの事を言ってるのだろうけれど、あれは三方ヶ原から敗走中にあずき餅を食い逃げしたって実話に変な尾ひれがついて汚い話になってるだけです。(味噌ではなく小豆らしいです)
家康が食い逃げしたところを店主が追いかけた場所として現在は浜松市の銭取って地名になって残ってます、最近行ってきました!
食い逃げの話は限りなく創作の可能性が高いと思う、家康は馬で逃げていたのに追いつくババアは何者だよって話になるので
おもらしはソースとなる歴史資料が存在しないから歴史通の間では脱糞話はもう史実ではないと否定されて久しいね
そも小豆焼かないだろ こしあん派は焼くのかもしれんが
パチスロでニコニコ時代を思い出して懐かしくなった
多分「なんで謀反されるのか」自体は分かってなかった気はするけど「自分が何かやらかした」せいで怒ってるのは理解してたんじゃないかね。
そしてそのせいで弟が担ぎ上げられて戦争になりかけてるから「首謀者と話し合えば解決するだろう」と自ら乗り込んだんのかなと。
行動がのちの三成にも似た「柿が好きと聞いたからそのまま出したら忠興がキレた」状態。
信長の場合は「何考えとるんやこいつ・・・こっわ」になったけど。
こういう失敗から信長は、秀吉のような空気の読める人たらしとか、光秀のような顔の広い教養人を採用して調略や交渉させるようにしたのかなぁ。
あと長尾景虎さんはホンマに戦闘に関しては色々意味わからん。
外交状況が死んでるのに武田北条その他(最上)に積極的にしかけて最終的に唯一家が大名家として存続するとは・・・ハードモードすぎる。
19:11 あんま何もしてないのに、急に「うつけデバフ」が発動してて草w
一生言われ続けるやん😂
マジで面白いwww
仕事が出来ても、挨拶が出来ないと、挨拶すら出来ない、人としてどうかと評価が悪くなる
仕事が並みでも、挨拶はしっかり出来て、目上は立てるだと高評価みたいなもんか
古今東西、結局は「実権を持つ」上司に気に入られた者が出世したり有能認定されたりするのが組織の性。
木下秀吉は勿論、後の時代の独逸のマルティン・ボルマンもそのへんをきっちり抑えていたからこそ出世できたわけだし。
長尾景虎の勝利って、戦術レベルで止まるから、天下には至らなかった。
土田御前の行は信長協奏曲で読んだけどちょっとおもろかった
斎藤も同時期に蝮は義龍と決裂、今川は三河忩劇で三年間大混乱(奥平氏や美濃の遠山氏の挙兵、今川が上司と敬ってる吉良氏と家康母・お大の兄である水野信元等とが組んで蜂起、菅沼氏と牧野氏の分裂とかが一斉発生と滅茶苦茶 義元は氏真に家督譲渡し三河以西に集中することに) 後始末を付けるにはこのタイミングしかなかったし、早期に片付けれたのが豪運
一門以外で日和見せず信長にに味方した主な家臣は森可成と佐久間信盛くらい。そりゃ森家と信盛は重用するよね…(それこそ荒木村重を更迭して本願寺担当に指名するレベルに)
その結果、急に播磨も本願寺も外された荒木のかわいそうな話
稲生の戦いの信長陣営って佐々孫助や森可成、前田利家、織田信房と信長以外にも個人の戦闘能力も高い人が多いというのが特徴なんですよ。(特に森可成と織田信房は本陣の崩壊を食い止めて逆転の布石となる大活躍をしています)
確か、徳川家が甲斐からの撤退戦を行った際に内部でもめ事が起こりながらも指揮官どころか兵士の3人に1人が戦闘慣れしている実力者ぞろいだからなんだかんだ撤退戦に成功したという逸話があるので兵の練度(というより、指揮官クラスの個人の戦闘能力)差が稲生の戦で現れたのが正確かもしれません。
信長は身内や部下の謀叛に対して非常に寛容ですよね。猛々しい面や苛烈な面もあるんですが、とにかく身内には甘い。
有能さよりもそういった点が好きな人物です。
11:32 ここから今川義元さんの顔がエキサイトしてますね。
信長は兵が強かったって説もありますね
農民から徴兵し数揃えてた中、訓練をしっかりした集団がいたとか
(もちろん大人数居ないし、大規模になったら徴兵してたけど)
だから農作業が忙しくなる季節に戦終わったりする中、戦えたとか
ぶっちゃけ金があったからなぁ
朝廷にもかなりの資金を寄付してるし
熱田神宮まわりの商圏抑えてたのはかなり有利に動いてたんやろなぁと
外交状況が激変する中あくまで攻めの姿勢を見せる非常識的な信長の動きについていけなくなった…てところじゃないですかね。
前線に出てって勝ってくるあたり猛将気質
本来は大将が敵の首を獲る事はあってはならん事だからなぁ…。最上義光なんざたびたび突撃しまくってそのたびに部下から怒られとったし。
後に光秀を救うために10倍の敵に突っ込んで足に銃弾受けながらも撃退したりしているしね
こんだけやって情けない姿までさらして許されておきながら
性懲りもなくまた謀反を起こすって、そりゃまともな部下は見限りますわ
信長公は逆に寡兵の方が怖かったりするからね、それぐらいの兵数の方が得意なのかも知れない
この時の主な家臣四人の扱いが両陣営内でもそれぞれ対称的なのが面白かったり
信長サイド 森可成→一番のお気に入り、彼の死後の息子達の異常な厚遇から明らか
佐久間信盛→余計な失言が気に入らなかったか追放される
信行サイド 柴田勝家→失敗はするけどあいつは頑張っているぞ、見習えと佐久間さんの引き合いに出されるぐらいにはお気に入り
林兄→佐久間さんのついでに追放
と後々凄い対比になってるけど、信長公は割と頑張る人間には優しい上司なんだろうなとは思います
林さんは元々信秀パパが信長さんにつけた家老。本来逆境の信長さんを最後まで支えなきゃいけないのに裏切った
柴田さんは信秀パパが信行につけた家老で柴田さんは主命に従ってただけですからね。立場が全然違います
佐久間氏は林氏や柴田氏と並ぶ尾張の有力国衆で一貫して信長支持を続けてきた功臣で、信長さんが岐阜城を息子に譲って安土城が完成するまで茶道具だけ持って信盛さんの屋敷に居候するぐらい信長さんは彼を信頼してました
信盛さんにも信長は俺が育てたみたいな意識が強かったんでしょうね。その態度が信長さんには傲慢、怠惰に見えたんでしょう
総大将が自ら出陣していたか否か、勝敗の分かれ目はそれに尽きると思います。
総大将が出陣していない軍は、士気が低く、やっぱり何かきっかけが有ると崩れやすいですね。
この戦いは内乱で、仮にも一族の当主が相手ですから、尚更かと。
史実では揉めた兄弟ですが太閤立志伝Vにて織田信勝(信行)でお兄ちゃん大好き♡軍団長プレイしたのは楽しかったです。実際の織田家の領土や家臣を信長さんに渡して他の領土家臣で織田家の勢力拡大してました。
ずっと横にいた今川義元さんは、信長さんがのし上がっていくのを見ていたはずなんですが、彼をどう評価をしていたのが気になりますね。
今川義元さんとしては「甲州相模駿府三国同盟」と斉藤家のゴタゴタを機会に上洛を仕掛けたんでしょうけど…「京しか見えてなかった」のかな?
日本って狭いわりに地相や気候豊かだから戦史が捗る
横山光輝の織田信長は信長公記に忠実だったんだなー
内乱は当主が戦場に出るのが重要ですね。
一般兵としては敵になった一般兵を打ち取るのは平気でも、身分社会では自ら当主を手にかけるのは気が引けます。
後の徳川家康の三河一向一揆でも似た事が起きてます。
そういやよしふじchも締めで使ってたな。
あちらも掘り下げ方尋常じゃなくて見応えある。
信長様には「平手政秀切腹事件」もあるから
信長の野望における信長の武勇値はもっと高くていいと思う。
少なくとも大名の中では、上杉謙信の次くらいに実績はあるやろ。
1553年に平手政秀が諌死、1556年に懐刀の織田信光そして後ろ盾である斎藤道三を失ってるので反乱祭り確定。
今川戦の最中に寝返られるより幸運だったと思われ。
信長軍が700の小兵なのは、清洲城を狙う別の勢力を警戒して城内に留めたのかも。
まぁ、歴史に名を残す武将だから当然なんだが、濃ゆい人生よなぁ
信秀の居城である末森城を相続していることから、信長と信行では信行の方が跡継ぎの正統性としては一歩リードしていたのではないか。また、信長の後年の重臣に母衣衆からの抜擢や他国出身が多いのは、信秀時代の家臣やその長子は信行派が中心だったためではなかろうか。
なんかボコスカウォーズでオゴレスに一騎打ち挑んだスレン王みたいな
逆に考えて、信長さんが有能だからこそ、弟の信行さんを傀儡にして自分たちで尾張を牛耳るつもりでうつけ行為を建前にして謀反を起こしたのではないのか?もしくはその時の信長さんが尾張家臣団の利益に反する行動を起こしまくったから、家臣団が頭を変えるつもりとか、ただのうつけ行為という軽い理由で謀反を起こすとは考え難いと。
もし仮にクーデターが上手く行ったとして勝家はどういう戦略があったんだろ?
信行に器量なしなことは分かってただろうし、信長の首を手土産に今川傘下or義龍傘下に入るくらいしかないが。。。
5:04
新潟県民私、長尾景虎(上杉謙信)にウォッカ持たせて武器にしてるのは流石に草。
まぁ史実でもアル中に近かったので妥当ですね…
お疲れさまです。細かいことですが、稲生は庄内川より南です。
締めの台詞、大河のやね。なんやったっけ?
長良川の戦いでの兵数は不明だが勝戦の勢いのある斎藤義龍勢を信長自ら殿軍となって鉄砲を撃ちまくって追い返したという。
有名な道三の国譲り状はこのとき救出できた道三側の兵のなかの道三の遺児から伝わったらしい。
突然の弟の謀反は美濃との全面対決となる長良川の合戦以降の政治的な流れの必然と言えると思う。
義龍からすれば父の援軍だけならともかく遺臣を吸収し国譲り状を持ってる信長は最大の敵になる。
今川と揉めてる上に斎藤と敵対する信長に対して早急に反抗しなければというのが信行側の理由で信長の個人の資質とかは無関係。これは稲生の戦いが信行側の兵に戦意が全くなく、信長と林家との戦いだった理由にもなる。政治外交の中心に居た信長の側近の林家は現状を把握してるだけに必死になり、兄である当主の信長に従ってただけの信行や家臣は情報不足もあり危機感がなかったのではないだろうか。
以前は「鳴かぬなら56してしまえホトトギス」と短気で残酷と言われた信長ですが本動画の様に初期を見ても対応が甘いと見えます。
そこを明智光秀に侮られ本能寺で討たれてしまったのでしょうか?
信行、斎藤・今川両家から甘いこと囁かれていたのでしょうね。また、信長も東山東海の小大名に同様の手を打っていたはず。
界隈の大名家、いずれも内紛の火種かかえているからには、隣国の介入を阻止するため、そして弱体化を図るためにも、さぞ盛大に調略を仕掛け合っていたでしょう。
当時の今川は武田、北条と比較しても戦略で優れていたと言う印象がありますね。国の立地も良くて。東海道ガッツリ押さえてるし。
太原雪斎の存在も大きかったかなと。あの人が桶狭間まで存命であれば、日本の歴史は変わっていたでしょうね。家康橙さんも
関東で幕府を開けていなかったかも知れません。
もはや抹香万能論w
この戦いは織田家臣団にとっては信長に対する「最終試験」のようなものだったかもしれませんね。
本当に「うつけ」であれば討ち取って、信行を中心に織田家を盛り立てていけばよく。
本当は「有能」であれば自分達を蹴散らして、内外に信長の実力を示すことができる……。
……と考えるのはロマンが過ぎるでしょうか(笑)
今さらですが拝見しました。面白かったです!
信行の戦の後始末を母親にやってもらっているところ、うぷ主様が「万引きした高校生か」って突っ込んでましたが・・私は飲食店で問題起こしてバズることを狙った人みたいに思えました(回転寿司でのペロリストの高校生とか・・あれも親にえらい迷惑かけてそうだし)。ある意味、信行は時代を先取りした先駆者だった・・・のかな??
なんで佐久間信盛が追放されるまで偉ぶれたかがよく分かる戦いですね。
信盛というか、信行付の盛重すら兄弟対決のときにはすでに信長に従ったわけで。
信盛は本当に最古参の重臣ですからね、それでいてずっと戦果も挙げているからそりゃ重用される
家臣と言っても戦国時代の小領主でもあり、自分が頭を下げるに値する人物であるかどうか値踏みされますよね。信長がそういうところに無頓着だったであろう事は疑いなし…。しかし一連の謀反を通じて信長の強さを思い知り、仕えるべき主君だと認識を改めさせたんだから天下に手をかけただけあります。
長尾景虎にウオツカ持たせるのは草
男装女子やぞ景虎ちゃんは
飲酒によって脳出血死になったのは史実ですし。
輝夜は濃姫じゃなかったか...まあ、なにもしてない人物に配役当てても仕方ないっちゃ仕方ないんだが...。
丸腰で敵陣に説得に行く行動や本能寺も含め、信長さんはその状況で謀反を起こしたり自分の首取ったり、結果的に相手が不利になるだけの非合理的なことは無意味だからやらないだろうって、信長さんからしたら当たり前の考えで行動してても、無能や感情で物事を捉える人はそんな考えは持ってないから、そこで齟齬が起きてるのかも?
自分の常識は相手も共有してるだろうって思ってるから、特に感情の部分なんかは理解できないのかも。感情が理解できないってよりも合理性と感情を比べて感情の方を選択するのが理解できないのかも?
信長は有能に甘いんじゃなくて全体的に甘い(特に身内に甘い)んじゃないですかね
信行1回許したり後には足利義昭にギリギリまで譲歩したりなんでそこで許すの!?ってくらい許してると思う
そのくせ唐突にキレるし、それをすぐに忘れて普通に遇する(キレたことで相手がどう思うか考えられない)
常識な人間なら昨日ブチギレられた上司に馴れ馴れしくされたら怖くなるしそれが明智光秀なんじゃないですかね
最近の研究だと旧秩序を重んじていた信長なので、抹香投げや汚い格好などのうつけっぷりは信行陣営によるプロパガンダという説もありますね
ただし、浅井長政はじめ対人関係に雑な対応をすることが多く変に恨まれることが多かったそうですね
この信長の評価のされ方、職場で痛い程身に覚えがあるけどどうやって治せばいいかホントに分からん…
(弟の家老)の存在感
謀反の理由ですが、単純に信長を排斥できた暁にはもっと待遇がよくなるからってことはないんですかね?外敵からの空手形とかもありそうですし。
『織田大和守も打ち取ったことだし、そろそろ品行方正(扱いやすい)信行様を擁立しよう』
が、家臣団の総意だったのかも…
なお佐久間
「おおん?お前いったん嫡男に従っていてすげ替えるとかアカンすよ!顔覚えとくから覚悟しろよクソバカ野郎」
稲生の戦い後、信盛追放まで織田家では事実上信盛を最高位とする家臣内ヒエラルキーが成立
うつけポイントも高いが、極めて有能しかも武力もある、そら信長さんすごいですわ。
それにしても越後の戦争強いアレ、改めて見てもありえんわほんま。
神輿は軽くてパーが良いは、小沢一郎さんが言わなくても、昔からか。
今は武力が使えんからより複雑になってしまいますけどね。
残り40人になった時に信長本人が出てきて敗走させるとか
どう考えてもラスボスでしょw
16:40 普通に今川とか斎藤の調略もあるやろな
柴田勝家に数に勝る状態で突撃されて、さらに後詰めに林美作までいたのになんでなん、、、?いろいろ納得いかん、、、。政治と編成が強くて天下統一手前までいったってイメージだけど、実は個人的な武勇も塚原卜伝並みにあったとか、、、?確かに数十人に囲まれても逃げ帰るだけなら問題なくできる武勇があるのなら、単身敵の居城に乗り込んでも怖くはないわな。本当に不思議な人だ。
上杉謙信、合戦の強さは異常ですからね…
ただ北条氏政みたいな合戦は強くないが戦争は上手い相手は苦手でしたし、合戦も戦争も強い織田信長相手だと、長生きして合戦には何度か勝てても最終的には北陸失ってそうですね
軌道と兵の質以外に説明つかない。柴田が本陣に攻め寄った時には既に信長はそこにいなかったのかも。
この内乱で佐々(兄)を失ったのは勿体なかったね。
ゴルフ場か、なんで敗走するや、このくだり大好き💕
才能がある人、それも若いうちは特に「能力・実績を示していればそれでいい」と思いがちだけど
より社会で求められるのは対人関係の立ち回り・他人からの印象になりがちなのは今も昔も変わらないのかも
人間は理性より感情で動くってそれ一番言われているから
関東管領というと扇谷定正と脊髄反射する新八犬伝をリアタイしてた爺ィではある。
うつけゲージ使いすぎて本能寺されてしまったんやろなあ・・・
この時点で反乱があったというのは、
信行が今川方に降参しようとしていたと考えると辻褄が合うのでは?
強硬派の信長に付いて、今川勢に踏みつぶされるよりはという感じです。
林美作守を自ら討ち取った信長氏だけど、
前田利家もそういうエピソードに事欠かないので、
利家の親分ならそれくらいするでしょう。
林美作守「先に進むおまえにひとつだけ忠告しておく...大将が大将を討ち取るなんて前代未聞だからな…」
(重野なおき 「信長の忍び外伝 尾張統一記」より)
まあ現代でも土地とか遺産とかで身内なんてすぐに敵になったりする
改めて思うと織田信行の方はホントどうしようもないなって思う。自分で何もアクション起こしてない上で降伏して大人しくしてるならまだしも……
柴田勝家1千が相手側に付いたのに勝てたとは。勝家は信長を倒す気は無かったのだろう、不思議だが。
末もり城って森じゃなかったっけ?
信長さんって、人生ジェットコースター
ゆるむことろ全くないんですが。
「今宵は・・」のセリフ、昔の大河にそのように締めているのありましたね。 おんな太閤記でしたかな?
なんで一喝でチーム権六が敗走してんの…?
>天膳ブラック(-50K)
これは抹香投げ不可避
俺は信長公のうつけエピソード信じないから、自分で考えた理由は信行は信長と斎藤の同盟消解後、織田が挟み撃ちを危惧し、その事を反対。でも義理堅い信長として義龍の行為はゆるされない。このまましたら織田が終わったと思った信行は反旗を翻した。
まあ、全て個人の臆測だから、信ぴょう性ない😂
稲生は庄内川の南ですね、今も古戦場が残っているので見に行かれてはどうでしょうか?
信長公記に庄内川を渡り、とありますが、清洲の信長サイドから見て庄内川を渡っているということです。
増水で庄内川を渡れない、と思い込んで稲生砦に攻撃を仕掛けたところ、信長だけが知っていた庄内川の渡りのポイントから渡河し柴田、佐渡の両軍を撃破しています。柴田軍は信長の一喝で壊滅したようで、一緒に戦ってきた結果、柴田軍は信長の強さをよく知っていたのでしょう。