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3:40越後・・・・これは見過ごせませんね・・・・
子孫のことを早く知りたい方は10:25まで飛んでください
細川ガラシャ(伽羅奢)の墓所は熊本県熊本市の立田自然公園にあります。立田自然公園はかつての細川家の菩提寺、泰勝寺の跡地です。ガラシャの墓は舅の細川藤孝(幽斎玄旨)、姑の沼田氏、夫の細川忠興(三斎宗立)の墓と共にあります。
明智光秀の肖像画を見ると眉目秀麗なつるんとして整った美形の優男ですね娘のガラシャお珠が絶世の美女というのも頷ける
光秀を理知的で内向的な人物というのは通説というか創作で実際には多くの横領などを行ったアクの強い人物だった。光秀が叡山焼き討ちに反対したという話は無く 「(比叡山麓の)仰木村は皆殺しにする」と書いた光秀の書簡が現存してるんだがそれはw有名な「箔濃」の件は馬廻り衆との宴席での話で光秀は参加してないし、信長に酒を強要された事実も無い。(そもそも箔濃は杯ではない)欄干に打ちすえた等の「暴君信長に虐げられる光秀のエピソード」は江戸時代の軍記物で出てくる創作だよ。
とある商人が持っていた大判を贋金だと言いがかりを付けて巻き上げたという話を読んだことがありますね。
信長に一番近い感性の持ち主だった感じがするよね。鉄砲とか新し物好き、文化教養への憧れ、果断な性格、だからこそ老いぼれて仕事が出来なくなる事への恐怖心があり、林や佐久間の件でそれがピークになり謀反に繋がったみたいな。
なるほど、なあ。🤔
・己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた・彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった・裏切りや密会を好むルイス・フロイスの明智光秀評です( ゚Д゚)
明智一族の血縁者として、以外に知られていないのが、細川家家老の米田家。明智光秀の姪を嫁に迎え、更に細川ガラシャの息子の興秋の娘である鍋姫の娘が米田家に嫁いでいます。
一緒に大阪城にも乞われて参加してます。米田は許され二番家老として明治まで子孫繁栄するが、興秋は、家康から助けてあげましょうと言われた忠興が、恩義の押し売りは我慢ならんと興秋に直に切腹を命じ寺で切腹させて家康に報告してる。まぁ、大阪の役後に多くの元大名の息子や有名な武将の息子を多く召抱えてる。日出木下家の三男も肥後木下家として三千石で召抱えてる。
金ケ崎の殿の主力は池田勝正で木下秀吉もいたそうですが・・・あと、通りすがりの赤い人氏もご指摘の通り髑髏杯は創作で(ルイス・フロイスによると信長は酒を飲まなかった)宴会の席に出てきた箔濃髑髏は見せしめではなく相手への敬意と供養目的だったそうですな。
いやいや、敬意なら他の戦歴の過程で資料が残されていてもいい筈がこれしか残されていないことを考えれば、信長公の浅井長政に対する裏切り行為の鬱憤は相当なものだったと思われます。 予々遺恨の腹いせ行為だとする説の信憑性は疑いがないと思われますよ。あと金ヶ崎の殿はその他にも松永久秀もいましたから、その場にいた殆どが信長に対する殿に手を挙げたと言うことが言えるのではないでしょうか?逆に言えば、浅井になんぞ攻められても、逃げ切れると見切った武将が多くいたと言うのが真実だったのでは?
徳川家光の乳母お福の局は明智一族の出身。
惟任日向守光秀は愛宕山の西坊威徳院で連歌を催しました。有名な愛宕百韻連歌ですね。光秀は発句の「時は今天が下しる五月哉」を詠み、嫡男の光慶は挙句の「国々は猶長閑なる時」を詠んだとされていますね。
越後ではなく越前です。一部解説が間違っていました。
明智軍記や浅井三代記を史料批判もなしにまんま引用するのって、いかがなものだろう
『信長後期』酒宴の席で浅井親子と朝倉義景の金箔髑髏を見せびらかした『浅井三代記』浅井親子と朝倉義景の髑髏杯で酒を飲んだ『国盗り物語』信長は光秀に義景の髑髏杯に注いだ酒を強要した
@@たまてばこ-y8t 主に出自のあたりを指してたんだよ信長公記とすり合わせてる部分は問題ないけれど、国盗り物語を史料とする人なら話はかみ合わないと思う加えて薄濃は、外様が帰った後に馬廻りだけの内宴で出したわけで、見せびらかしたってのは印象変わる表現だね
坂本龍馬は、親の代かその先代が、土佐山内家臣坂本家の株を買って名字帯刀を許された家でしょ。血筋としての繋がりはほとんど見込めない。本能寺の変の前に、明智は山陰道を攻め入ると同時に領地の明け渡しを命令されてる。一族郎党まるごと背水の陣に置かれ、引っ越しの準備が出来ていたはずだから、逃げ延びた親族とか家臣は多かったと思う。
郷士で、土佐藩士では無い。刀は差せるが長刀のみ。冬でも木綿の合せ一枚で足袋も履物も許されなかったし、土佐藩士に道で出会ったら、道脇に避けて土下座して通り過ぎるのを待った。武市半平太も郷士だが此方は産まれが良い家系だったので、白札豪士として二本差し、紺足袋、草草履を履く事が出来た。
髑髏の杯の話は 元ネタになった史記の話をそのまま転用してるだけみたいだから真偽はかなり怪しいみたいだけどね
武士がキュウリを食べなかったのは、その断面が徳川家の三つ葉葵に見えて恐れ多いから…という説もありますね。光秀は謀反人の代名詞ではありますが、もはや徳川の世。芝居や講談の中の明智家を忌み嫌ってキュウリを食べなかったというのはどうなのやら…。
あらっ! きゅうりを縦に切れば良かっのに。。。 モロキュ美味いのに。。。非常にもったいない時代だなぁ。。。
@@make--wish4079 金太郎飴も縦に切ったら横顔になるしね😄
光秀は亀岡や坂本では名君として崇められてますね。ちなみにうちは母方の家紋が桔梗なので、明智又は土岐の血をひいてる可能性ありますね。
その可能性は無いですね。先祖は百性で明治時代に苗字を適当に決められて、その時に家紋も適当に決めただけです。
@@ohagenoputan やめたれw
21:38ガラシャからの手紙・・・・どんなものでしょうか、ぜひ取り扱ってください
明智光秀の従兄弟三宅藤兵衛は肥前唐津寺沢家に仕えて富岡城代をしていましたが天草島原の乱時に戦死しました。
明智光秀の孫は土佐に逃れ、祖父の居城に因んで坂本姓を名乗る。その子孫の1人が坂本龍馬。龍馬暗殺の実行犯の中に、織田信長ゆかりの者が居たとか?
生真面目で愚直やや保守的なエリートというイメージの強い明智光秀だが、朝倉義景を見限り足利義昭に、義昭を見限り信長に付くように、実際には強かな面があったらしい
負けて悲惨なめにあったので、思い浮かぶのは戊辰戦争で敗れた会津藩の人々だ。下北半島に封じられ極貧生活で子供を売ったらしい。東京裁判の後の東条英機の一族もそうだ。極悪人にされ、一族はひどい目に遭ったそうだ。いずれも勝者によって、作られた物。気の毒で、名誉を回復してあげたい。
母方の家紋が桔梗祖父が亡くなり発覚、それまで家紋なんて知らなくていいと言われてたのには謀反人としられたくなかった事情があったからと今更ながらに納得してます
母方の先祖は百姓で名字も家紋も無かったのでは?明治になって近くのお寺さんから適当に決めてもらったのではないか?
本能寺の変の原因として、現在有力視されてるという四国説には触れていただきたかったところ。
信長さんの暴君エピソードはほとんど秀吉さんが広めたウソ話しの可能性があります。
もっと後の時代の講談師かも
😮😮
😅
😮
奥さんの煕子さんは、本能寺の変より前に亡くなってます。お墓が坂本にあります。家族から再婚を勧められたのに、頑なに独り身を通したとか。余程愛していたか、義理堅いか、或いは両方か。
江戸時代徳川家光「じいやは、どんな人生を送ったの?なんで キュウリが嫌いなの?」天海大僧正「じいやは忘れたよ。キュウリを食べたら思い出すじゃん」徳川家光「何を思い出すの?」春日局「こら 家光よ それ以上は聞かないの」
祖父の家が京都で家紋が桔梗紋だったそうです。遡れば家来かなんかだったのかな。でも負けたってことなのよね〜😂
成程ですね。でも桔梗紋は明智の主人、土岐氏の家紋でもあり、桔梗は良薬にもなったことから、京都の薬商家の家紋でもあるようですよ。
歴史はその時代を生きていないから想像と歴史的文献だけだ。😃✌️難しい。
キュウリの切口が、「明智桔梗」に似ている話しで、別の話しでは、織田木瓜にも似ています。福岡市の伝統祭りの「山笠祭」の櫛田宮の印が「木瓜」です。それで「山笠」に携わる人は「キュウリ」断ちをして食しません。明智桔梗の話は今回始めて聞きました。
私の師匠からは光秀の子供は三男五女と聞いています。三男の明智光泰(一般的には次男とされている)は安土殿と佐竹義重の間に生まれた乱姫の婿となっている。私の師匠はその子孫。
明智さんの血筋は限在皇室に伝わると本で読みました。
私が光秀のことを知ったのは明治36年生まれの祖母からでした。祖母は読み書きはできましたがきちんとした教育は受けていません。光秀の話は講談で聞いていたのです。だから庶民の知識は面白おかしいでもハラハラする講談からです。光秀は母親のように大切にしていた乳母を信長へ人質にだし信長の逆鱗に触れたときまさかしないだろうと思っていたのに天守閣の屋根から縛られ吊し上げられどんなに懇願しても許されず乳母は死んでしまいもはやこれまでと謀反を起こしたと明治の講談では語られていたそうです。映画もないし歌舞伎も浄瑠璃も無縁だし講談しかなかっただろうけど一体、どこの街で?と時々、考えます。赤坂は狸しかいない辺鄙なとこだよと行ってたから浅草でしょうか?
明智の子供坂本龍馬に繋がる。!また徳川家の旗本家系にも同様です。!本家も同様です。!
明智光秀さんの子孫って、織田信長さんの甥の津田信澄さんに嫁いだ細川ガラシャさんのお姉さんの血脈がしっかりと残って、豊臣政権下でも豊臣秀頼さんに仕えて大坂の陣で戦ってますし~その後も将軍、徳川秀忠さんの旗本となってますから、別に戦国時代では悪名の高さが就職活動に不利だったことはなくて、寧ろ有利に働いた感じだと思う~
明智熙子が明智光慶に言うのは無理だなぁ なんせ1576年に死んでるもんなぁ💧
クリスマスぺプラーも子孫ってすごいよね
クリス・ペプラーだっけ?確か母方の祖母だったかが明智光秀の子孫って言う話だっけ
クリスマスぺプラーも明智憲三郎も自称でしょ?
僕の友達で明智光秀の子孫の人がいるけど大阪出身で代々クリスチャンですよ✨😆👍
どっかの動画で「本能寺は変」というのがあったよ。本能寺 は 変。
三日天下とは無禮な、拙者が本能寺に向けて決起した日は天正10(1582)年の6月2日、山崎の戰いでサルめにしてやられたは同じく13日故に11日天下であるぞ、…短命政權だった亊には変わらぬが。そう言えば、拙者の子孫の細川政權も短命であったな~、血は爭えぬなやっぱり。それから、多くの記録で、我が妻煕子は拙者より先に死んで居るぞ。
奥さんは、疱瘡に掛かって、その後が顔に残ったから、相手の親が妹を娶る様に勧めたが、それを断って結婚したと言われてるけどね~しかし、彼が謀反の時は、60代後半だぞ!引退してもいい歳なのに、一か八かの賭けに出るのは可笑しいんよ!家臣も強く反対する奴も居なかったから、何か納得出来る理由があったんやないかな?
織田信長の作ったとする髑髏酒坏は浅井長政久政父子と云う話もあり胡散臭いウソ話と思いますよ。
織田信成氏 と 細川護熙氏 が現代に対面する。。。
真偽不明の説をまるで事実のかの様に、、、
より信憑性の高い話を求めるこのご時世で、ソースのほとんどが江戸時代中期の小説やんけ。
何か、明智光秀の子孫とかいうタレントいたな?
比叡山延暦寺を攻めた時光秀は是非とも撫で切りいたしましょうなんて言ったのは嘘、それともホント?
織田信長ですら暴君ではなかったらしい…。
キュウリ切った家紋は 織田家なんですけど。
煕子は光秀より先に死んでいるので、本能寺の変後息子を逃したは、違うのでは?当時としては珍しく、妻の葬儀に出席した、光秀だったとか。
「エリートから謀反人に成り下がり」とか。もう少し言葉選べよ
口伝なら 我家は源義経の子孫(マジ)、源氏は清和天皇の子孫だから、私も…😄🤣
信長の野望では、光秀公はやたら戦闘力低いだが、動画見たら戦闘力も強いと思いました。
当たり前
胸じゃないです。後ろからです。背中を左上から右下まで、バッサリでした。
織田家も、元を正せば、斯波家から謀反をしてるのだ、それが戦国時代。
それは岩倉織田家の方ね
一族ではないですが、春日局が思いつきました。
前半部分から文章がゴチャゴチャしていて分かりにくい
Q.織田政権とは関係ない家が天下に君臨したら香西氏みたいに復活出来たかな?A.時代が違うからできません
3:40越後・・・・これは見過ごせませんね・・・・
子孫のことを早く知りたい方は10:25まで飛んでください
細川ガラシャ(伽羅奢)の墓所は熊本県熊本市の立田自然公園にあります。立田自然公園はかつての細川家の菩提寺、泰勝寺の跡地です。ガラシャの墓は舅の細川藤孝(幽斎玄旨)、姑の沼田氏、夫の細川忠興(三斎宗立)の墓と共にあります。
明智光秀の肖像画を見ると眉目秀麗なつるんとして整った美形の優男ですね
娘のガラシャお珠が絶世の美女というのも頷ける
光秀を理知的で内向的な人物というのは通説というか創作で実際には多くの横領などを行ったアクの強い人物だった。
光秀が叡山焼き討ちに反対したという話は無く 「(比叡山麓の)仰木村は皆殺しにする」と書いた光秀の書簡が現存してるんだがそれはw
有名な「箔濃」の件は馬廻り衆との宴席での話で光秀は参加してないし、信長に酒を強要された事実も無い。(そもそも箔濃は杯ではない)
欄干に打ちすえた等の「暴君信長に虐げられる光秀のエピソード」は江戸時代の軍記物で出てくる創作だよ。
とある商人が持っていた大判を贋金だと言いがかりを付けて巻き上げたという話を読んだことがありますね。
信長に一番近い感性の持ち主だった感じがするよね。鉄砲とか新し物好き、文化教養への憧れ、果断な性格、だからこそ老いぼれて仕事が出来なくなる事への恐怖心があり、林や佐久間の件でそれがピークになり謀反に繋がったみたいな。
なるほど、なあ。🤔
・己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた
・彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった
・裏切りや密会を好む
ルイス・フロイスの明智光秀評です( ゚Д゚)
明智一族の血縁者として、以外に知られていないのが、細川家家老の米田家。明智光秀の姪を嫁に迎え、更に細川ガラシャの息子の興秋の娘である鍋姫の娘が米田家に嫁いでいます。
一緒に大阪城にも乞われて参加してます。
米田は許され二番家老として明治まで子孫繁栄するが、興秋は、家康から助けてあげましょうと言われた忠興が、恩義の押し売りは我慢ならんと
興秋に直に切腹を命じ寺で切腹させて家康に報告してる。
まぁ、大阪の役後に多くの元大名の息子や有名な武将の息子を多く召抱えてる。日出木下家の三男も肥後木下家として三千石で召抱えてる。
金ケ崎の殿の主力は池田勝正で木下秀吉もいたそうですが・・・
あと、通りすがりの赤い人氏もご指摘の通り髑髏杯は創作で(ルイス・フロイスによると信長は酒を飲まなかった)
宴会の席に出てきた箔濃髑髏は見せしめではなく相手への敬意と供養目的だったそうですな。
いやいや、敬意なら他の戦歴の過程で資料が残されていてもいい筈がこれしか残されていないことを考えれば、信長公の浅井長政に対する裏切り行為の鬱憤は相当なものだったと思われます。
予々遺恨の腹いせ行為だとする説の信憑性は疑いがないと思われますよ。
あと金ヶ崎の殿はその他にも松永久秀もいましたから、その場にいた殆どが信長に対する殿に手を挙げたと言うことが言えるのではないでしょうか?
逆に言えば、浅井になんぞ攻められても、逃げ切れると見切った武将が多くいたと言うのが真実だったのでは?
徳川家光の乳母お福の局は明智一族の出身。
惟任日向守光秀は愛宕山の西坊威徳院で連歌を催しました。有名な愛宕百韻連歌ですね。光秀は発句の「時は今天が下しる五月哉」を詠み、嫡男の光慶は挙句の「国々は猶長閑なる時」を詠んだとされていますね。
越後ではなく越前です。一部解説が間違っていました。
明智軍記や浅井三代記を史料批判もなしにまんま引用するのって、いかがなものだろう
『信長後期』酒宴の席で浅井親子と朝倉義景の金箔髑髏を見せびらかした
『浅井三代記』浅井親子と朝倉義景の髑髏杯で酒を飲んだ
『国盗り物語』信長は光秀に義景の髑髏杯に注いだ酒を強要した
@@たまてばこ-y8t 主に出自のあたりを指してたんだよ
信長公記とすり合わせてる部分は問題ないけれど、国盗り物語を史料とする人なら話はかみ合わないと思う
加えて薄濃は、外様が帰った後に馬廻りだけの内宴で出したわけで、見せびらかしたってのは印象変わる表現だね
坂本龍馬は、親の代かその先代が、土佐山内家臣坂本家の株を買って
名字帯刀を許された家でしょ。
血筋としての繋がりはほとんど見込めない。
本能寺の変の前に、明智は山陰道を攻め入ると同時に領地の明け渡しを命令されてる。
一族郎党まるごと背水の陣に置かれ、引っ越しの準備が出来ていたはずだから、逃げ延びた親族とか家臣は多かったと思う。
郷士で、土佐藩士では無い。刀は差せるが長刀のみ。冬でも木綿の合せ一枚で足袋も履物も許されなかったし、土佐藩士に道で出会ったら、道脇に避けて土下座して通り過ぎるのを待った。
武市半平太も郷士だが
此方は産まれが良い家系だったので、白札豪士として二本差し、紺足袋、草草履を履く事が出来た。
髑髏の杯の話は 元ネタになった史記の話を
そのまま転用してるだけみたいだから
真偽はかなり怪しいみたいだけどね
武士がキュウリを食べなかったのは、その断面が徳川家の三つ葉葵に見えて恐れ多いから…という説もありますね。光秀は謀反人の代名詞ではありますが、もはや徳川の世。芝居や講談の中の明智家を忌み嫌ってキュウリを食べなかったというのはどうなのやら…。
あらっ! きゅうりを縦に切れば良かっのに。。。 モロキュ美味いのに。。。
非常にもったいない時代だなぁ。。。
@@make--wish4079 金太郎飴も縦に切ったら横顔になるしね😄
光秀は亀岡や坂本では名君として崇められてますね。
ちなみにうちは母方の家紋が桔梗なので、明智又は土岐の血をひいてる可能性ありますね。
その可能性は無いですね。
先祖は百性で明治時代に苗字を適当に決められて、その時に家紋も適当に決めただけです。
@@ohagenoputan やめたれw
21:38ガラシャからの手紙・・・・どんなものでしょうか、ぜひ取り扱ってください
明智光秀の従兄弟三宅藤兵衛は肥前唐津寺沢家に仕えて富岡城代をしていましたが天草島原の乱時に戦死しました。
明智光秀の孫は土佐に逃れ、祖父の居城に因んで坂本姓を名乗る。その子孫の1人が坂本龍馬。龍馬暗殺の実行犯の中に、織田信長ゆかりの者が居たとか?
生真面目で愚直やや保守的なエリートというイメージの強い明智光秀だが、朝倉義景を見限り足利義昭に、義昭を見限り信長に付くように、実際には強かな面があったらしい
負けて悲惨なめにあったので、思い浮かぶのは戊辰戦争で敗れた会津藩の人々だ。下北半島に封じられ極貧生活で子供を売ったらしい。東京裁判の後の東条英機の一族もそうだ。極悪人にされ、一族はひどい目に遭ったそうだ。いずれも勝者によって、作られた物。気の毒で、名誉を回復してあげたい。
母方の家紋が桔梗
祖父が亡くなり発覚、それまで家紋なんて知らなくていいと言われてたのには謀反人としられたくなかった事情があったからと今更ながらに納得してます
母方の先祖は百姓で名字も家紋も無かったのでは?
明治になって近くのお寺さんから適当に決めてもらったのではないか?
本能寺の変の原因として、現在有力視されてるという四国説には触れていただきたかったところ。
信長さんの暴君エピソードはほとんど秀吉さんが広めたウソ話しの可能性があります。
もっと後の時代の講談師かも
😮😮
😅
😅
😮
奥さんの煕子さんは、本能寺の変より前に亡くなってます。
お墓が坂本にあります。
家族から再婚を勧められたのに、頑なに独り身を通したとか。
余程愛していたか、義理堅いか、或いは両方か。
江戸時代
徳川家光「じいやは、どんな人生を送ったの?なんで キュウリが嫌いなの?」
天海大僧正「じいやは忘れたよ。キュウリを食べたら思い出すじゃん」
徳川家光「何を思い出すの?」
春日局「こら 家光よ それ以上は聞かないの」
祖父の家が京都で家紋が桔梗紋だったそうです。遡れば家来かなんかだったのかな。でも負けたってことなのよね〜😂
成程ですね。
でも桔梗紋は明智の主人、土岐氏の家紋でもあり、桔梗は良薬にもなったことから、京都の薬商家の家紋でもあるようですよ。
歴史はその時代を生きていないから想像と歴史的文献だけだ。😃✌️難しい。
キュウリの切口が、「明智桔梗」に似ている話しで、別の話しでは、織田木瓜にも似ています。福岡市の伝統祭りの「山笠祭」の櫛田宮の印が「木瓜」です。それで「山笠」に携わる人は「キュウリ」断ちをして食しません。明智桔梗の話は今回始めて聞きました。
私の師匠からは光秀の子供は三男五女と聞いています。
三男の明智光泰(一般的には次男とされている)は安土殿と佐竹義重の間に生まれた乱姫の婿となっている。私の師匠はその子孫。
明智さんの血筋は限在皇室に伝わると本で読みました。
私が光秀のことを知ったのは明治36年生まれの祖母からでした。
祖母は読み書きはできましたがきちんとした教育は受けていません。
光秀の話は講談で聞いていたのです。だから庶民の知識は面白おかしいでもハラハラする講談からです。
光秀は母親のように大切にしていた乳母を信長へ人質にだし信長の逆鱗に触れたときまさかしないだろうと思っていたのに天守閣の屋根から縛られ吊し上げられどんなに懇願しても許されず乳母は死んでしまいもはやこれまでと謀反を起こしたと明治の講談では語られていたそうです。
映画もないし歌舞伎も浄瑠璃も無縁だし講談しかなかっただろうけど一体、どこの街で?と時々、考えます。赤坂は狸しかいない辺鄙なとこだよと行ってたから浅草でしょうか?
明智の子供
坂本龍馬に繋がる。!
また徳川家の旗本
家系にも同様です。!
本家も同様です。!
明智光秀さんの子孫って、織田信長さんの甥の津田信澄さんに嫁いだ細川ガラシャさんのお姉さんの血脈がしっかりと残って、豊臣政権下でも豊臣秀頼さんに仕えて大坂の陣で戦ってますし~
その後も将軍、徳川秀忠さんの旗本となってますから、別に戦国時代では悪名の高さが就職活動に不利だったことはなくて、寧ろ有利に働いた感じだと思う~
明智熙子が明智光慶に言うのは無理だなぁ なんせ1576年に死んでるもんなぁ💧
クリスマスぺプラーも子孫ってすごいよね
クリス・ペプラーだっけ?確か母方の祖母だったかが明智光秀の子孫って言う話だっけ
クリスマスぺプラーも明智憲三郎も自称でしょ?
僕の友達で明智光秀の子孫の人がいるけど大阪出身で代々クリスチャンですよ✨😆👍
どっかの動画で「本能寺は変」というのがあったよ。本能寺 は 変。
三日天下とは無禮な、拙者が本能寺に向けて決起した日は天正10(1582)年の6月2日、山崎の戰いでサルめにしてやられたは同じく13日故に11日天下であるぞ、…短命政權だった亊には変わらぬが。そう言えば、拙者の子孫の細川政權も短命であったな~、血は爭えぬなやっぱり。
それから、多くの記録で、我が妻煕子は拙者より先に死んで居るぞ。
奥さんは、疱瘡に掛かって、その後が顔に残ったから、相手の親が妹を娶る様に勧めたが、それを断って結婚したと言われてるけどね~
しかし、彼が謀反の時は、60代後半だぞ!
引退してもいい歳なのに、一か八かの賭けに出るのは可笑しいんよ!
家臣も強く反対する奴も居なかったから、何か納得出来る理由があったんやないかな?
織田信長の作ったとする髑髏酒坏は浅井長政久政父子と云う話もあり胡散臭いウソ話と思いますよ。
織田信成氏 と 細川護熙氏 が現代に対面する。。。
真偽不明の説をまるで事実のかの様に、、、
より信憑性の高い話を求めるこのご時世で、ソースのほとんどが江戸時代中期の小説やんけ。
何か、明智光秀の子孫とかいうタレントいたな?
比叡山延暦寺を攻めた時光秀は是非とも撫で切りいたしましょうなんて言ったのは嘘、それともホント?
織田信長ですら暴君ではなかったらしい…。
キュウリ切った家紋は 織田家なんですけど。
煕子は光秀より先に死んでいるので、本能寺の変後息子を逃したは、違うのでは?
当時としては珍しく、妻の葬儀に出席した、光秀だったとか。
「エリートから謀反人に成り下がり」とか。もう少し言葉選べよ
口伝なら 我家は源義経の子孫(マジ)、
源氏は清和天皇の子孫だから、私も…😄🤣
信長の野望では、光秀公はやたら戦闘力低いだが、動画見たら戦闘力も強いと思いました。
当たり前
胸じゃないです。後ろからです。背中を左上から右下まで、バッサリでした。
織田家も、元を正せば、斯波家から謀反をしてるのだ、それが戦国時代。
それは岩倉織田家の方ね
一族ではないですが、春日局が思いつきました。
前半部分から文章がゴチャゴチャしていて分かりにくい
Q.織田政権とは関係ない家が天下に君臨したら香西氏みたいに復活出来たかな?
A.時代が違うからできません