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ナイナイの岡村が小学生の時、転校生が来て、その方が長宗我部という苗字だったと
長宗我部元親の末裔は熊本でスナックをやつてます。熊本に行ったときは飲みに良く行きます。
後輩に長宗我部君いましたよ。同級生に曽我部さんも。
私は高知県生まれで、先祖は長宗我部氏の側近をしていました。巻物の家系図もあります。時々、歴史民族資料館などで開催される長宗我部展にて、うちの先祖の甲冑が展示されております。親戚に苗字が曽我部もおります。親族の男子は皆、長身です。私は長宗我部元親と、長男の信親の話しを聞くと涙が出て来て、悔しい思いが溢れてきます。DNAに刻み込まれているのかもしれません。
なんという家名なのですか、浪漫がありますねー
@@MR-om6pj 長宗我部家臣 西村吉太夫と申します。家紋は五瓜に四つ目の家紋でございます。
大分の戸次では、地元の方々が長宗我部の方々や合戦戦士者をきちんと供養しお祭りになっています。
この人の配下の末裔と話してたが似た感じの苗字の人いた
さおりさん、今回も、美しいよ!長宗我部家は、断絶したと思っていたが、今回は、認識を新たにした!!
丸橋忠弥は長宗我部の息子と自称していたそうです。
盛親のね!
顧みれば、一人娘の小学校の友だちに「長曽我部」という苗字をもつ色白の女子がいた。「ちょうそかべ」ではなく「ちょうすがめ」と読む。その理由は判らない。帰校後、娘について自宅に遊びに来たこの子の氏名を初めて聞いたとき、大げさでなく、戦国土佐の長曽我部侍が今の世に出現したような大きな驚きを覚えた。明らかに、往年の土佐領主の血をひく子孫なのだろうと思う。兵庫県内での実話だが、現認はしていないけれど、今もその家族は市内に居住していると思う。※「ちょうすがめ」という読みの理由が判る方、ご教示いただければ幸甚です。関ヶ原の合戦後、一万以上といわれた長曽我部の遺臣たちは土佐の山野に残されたらしい。そこへ、掛川から山内氏が乗り込んで来た。長曽我部のサムライたちは、百姓身分にさせられたように思われる。だから山内氏は単なる「進駐軍」だとの反抗意識が、土佐の山野に消えなかったのではないかと思う。あの坂本龍馬も中江兆民も、幸徳秋水も植木枝盛も長曽我部侍の血をひく人だったと思う。いずれもが官に反抗的で自主独立的である。UPに感謝。
「伊勢平氏はすがめなりけり」秦能俊の子孫を主張した長宗我部家は平家の子孫と主張したことがない。四国の長宗我部氏とは別の血統と思われます。(面白い逸話をありがとうございました。)
男系で生き残ったのは本当にいるのだろうかうちは元親の伯父の家系らしいが成り立ちが敗戦の侍狩りを逃げ切って隠れ住んだそうなので当てはまりそうな人物は居るが事実であるか怪しい
元親の系譜ではなくて、元親の兄弟の系譜ではどうなんでしょうか❓🤔
さおりさんは変わらないね❤
何年か前にラジオでナイナイ岡村が、小学生当時に同じクラスで「いつも半ズボンの長曾我部くん」の話してた。
長宗我部元親の娘の阿古姫は子供と共に仙台藩に匿われてますよ。のちにその子供が仙台藩の重臣として活躍します。
昔、地元のTV番組で長宗我部氏と山内氏の子孫の今、みたいなのを見た記憶がある。当時の山内家当主・山内豊功氏は酒のCMに出演され知っていたが、長宗我部氏の子孫の方は岡山県にいた。
アナウンサーの上杉桜子さんは高知県出身で、父方が上杉家、母方が長曽我部家らしいです。
某法律事務所に九州出身の長宗我部という弁護士がいますが、本当に子孫か知りたいですな
祖父の後妻さんが、旧姓「長宗我部」さんです。中年?初老?で茶道道具と共に嫁いで来たそうです💦
長宗我部って秦の始皇帝の子孫t5え説あるけどほんとかね
後輩で鹿児島出身の長宗我部君がいます。実家には蔵があり甲冑などもあると言っていましたが本人は全く先祖に興味がないとのことでした。元親の弟の一族だそうです。
名古屋だが、アルバイトの面接に『トクガワ』くんが来たことがある。やはり、尾張藩の末裔でした。
町内会におります、子孫の話をしたら知る限りでの本家は農家だそうです。
吉良親貞の系譜は?
調べたら親実の子が町氏と姓を変えて熊本藩士として明治まで続いてるんですね
@@ふぉるーさん 名門吉良家を継いだのにまた名前が変わってる
@@胡麻ポン酢 さすがに主家に逆らって粛清された家の名を名乗るのは憚られたのでは?
バレエスクールの人は今でも徳川家を恨んでると言ってたな
山内家は?
長宗我部さんもいるけど、香曽我部さんもいるよね。
香宗我部さんって人がいた😊
亜細亜大学野球部で大活躍してました。
私、1976年生まれですが、小学5、6年生の時に長宗我部さんという女の子がクラスメートにいたことを思い出しました。『変わった名前だね』と他の子に言われていたので『確か、有名な人の子孫だよ』と私が言うと、『うん、わたしもよく知らないけど、そうみたい』と言ってました。当時さほど歴史に興味がなく、その後、私は転校してしまったので、詳しいことは聞けずしまいでした。惜しいことをしました!
ナイナイの岡村の、小学校時代の同級生に、長宗我部君って子がいたらしいよ。
同僚にいました。子孫と言ってましたが私はそうだと今でも信じています。
枚方市樟葉で、長宗我部の名前の名刺を母が見たことがあります。実は、母の先祖は、510年前に、長宗我部に滅ぼされた、安芸国虎で、お城も焼かれたそうです。900年前の壇之浦の戦いで、安芸家から、3人も参戦しています。母の実家は、国虎の直系です。その話を名刺を渡していた、長宗我部さんに言うと、申し訳ござませんと冗談混じりで言っていました。お互いに同じ町に住んで 不思議な縁を感じました。母は、高知市出身です。親戚に吉良家や山下奉文や坂本龍馬がいます。
歌手で有名なアンジェラ・アキさんは苗字は確か安芸だったと思います。縁者の方ですか?
@@shoteocha6557 10年前に安芸家のルーツを調べたら、アンジェラ・アキさんが出てきました。その程度です。付き合いはありません。私自身、MISIAのファンです。カラオケでMISIAの歌をよく歌っていました。長宗我部家とも、親戚だと母から聞いています。八幡市に近い枚方市の周辺は、曽我部と言う名前をよく見かけます。
いつも楽しみに拝見しています。鳥取県生まれの鳥取県育ちで、今は新潟県に在住しています。長宗我部氏は、歴史の荒波に翻弄された不運の一族として、心惹かれるものがあります。40年ほど前(1980年代初頭)、朝日新聞が連載で各都道府県出身の各界で活躍されている方の人となりを記事にしていました。その高知県編で「お殿様の子孫」として、京都在住でバレエ教室を主催する「長宗我部はま子」さんという方を取り上げていました。お父君から、「盛親は恩義があったから豊臣に味方した。長宗我部が小さくなったからといって、山内を恨んではいけない」と言われて育ったそうです。「この年になっても、新しい仕事への情熱が湧いてくる。義に生きた先祖の血なんやわ、きっと」とも語っておられました。細面で目は切れ長、口元がちょっぴり小さい、どことなく元親公をしのばせる顔立ちでした。平成3年の秋の高校野球鳥取県大会で、鳥取県西部の米子市のとある私立高野球部のベンチ入りメンバーに「長宗我部」姓の選手が入っていました。なぜ高知から鳥取に流れてきたかは分かりませんが、この人も長宗我部の血を引く人と思われます。ちなみにこの高校は翌年の春の選抜に出場しましたが、長宗我部クンはこの時はベンチには入っていませんでした。現当主の長宗我部友親氏や、声優の故・曽我部和恭さんのことは、他の方も書かれていますね。
四国では幕府が開かれる迄、続いてきた名家。どのような形でも血脈が続いていることに安心しました。
一応、女系3女は阿古姫と子供たちは、大阪の陣で捉えられて政宗が教養豊かで気に入って侍女として使えて二人子は仙台藩の家臣の養子入りして一人は、伊達騒動の柴田朝意がおり今も暮らしてる。
かなり前ですが子孫の方が大阪でバレエスクールをされていましたよ。
たしか西宮市か宝塚市の高校からテニスの試合に出ていたよ。インパクトあったから名前で有名だった。70年代。
信親が一番好き
昔、同じ苗字の人がいたので「四国でしょ?」と聞きましたが、「よく言われるけど違うんだよねぇ」と苦笑されました。「その苗字で違うんかい!」となりました。
大河ドラマで時々出て来るけどほとんど知らない。
我が家から徒歩三分の所に元親の墓があります。表通りから外れた目立たない場所なので、少し悲しい😞
看板がポツンとありますね。
あら、長宗我部家は元親の弟君、国親殿の四男、親房殿が島姓を名乗り、島親益となり土佐藩の最低の地位である下士としお仕えされております。最低の下士とはいえ、御銀方やお台所方といった要職にお就きになられ、藩主・山内家からも労いのお言葉を頂いております。明治時代に入り、長宗我部の家名を名乗り、明治大帝さまからも長家の正当子孫として認められて居られます。
元親の血が入ってないっちゃはないよね、島は暗殺されたと思ってたけど家名は残ったのか
初めてコメントさせて頂きました。友人で三重県に長宗我部さんいらっしゃいます。末裔だと伺いました。
確か、長宗我部氏は古代豪族の蘇我氏の末裔を自称していたと聞きましたが本当のところはどうだったんですかね?
なんか、大阪の超進学校、北野高校の野球部で甲子園を目指していた末裔がいたとニュースで出ていた。あと、女子アナウンサーのかたでいましたね
北野高校→筑波大野球部で投手だったあの長曽我部くんですね。チーム名は忘れたが社会人野球をやってるようです。
同じ中学校に長宗我部さんという苗字の先輩が居ましたよ。
松山市に有る神社に長曽我部姓の宮司だったか祢宜だったか忘れたけど名前が有るのは見た
末裔の1人は熊本市内でスナック経営してます。
由井正雪の乱で刑死した丸橋忠弥も長宗我部家の末裔と言う話もあります。今も一族が群馬県吾妻郡あたりに棲息してます。 某も一族衆です!
「長宗我部の子孫って生きているの?」=岡豊城に行ったことが無いですな。周囲にいっぱい長宗我部氏の子孫とライバルの子孫の方々がおられます。
私の前の会社の先輩が以前勤めていた会社の後輩で『長曾我部』って苗字の人がいたと言ってました。
元親の弟たちの系譜も気になるので、解説していただけるとありがたいですw
現長曾我部家は元親の弟、島弥九郎親房の血統で元親・親泰・親貞の血筋は全て断絶しています(o'ω')ノ
大阪府吹田市の千里ニュータウン内のる幼稚園に「長宗我部バレー教室」というものがありました。主催者が女性の方で、聞いた話では元親公か盛親公の末裔の方だと記憶しています(ここは少し記憶があいまいですみません)。今見たらHPもありますよ。
うちの会社に長宗我部さん居る。
3:52 この久武は長曽我部改易の原因なのに、改易後は加藤清正に仕官している。というか元親の五男も清正に仕官している。
確か20年くらい前に長宗我部姓のグラビアモデルさんが週刊誌に載ってたのを見た記憶があります。
愛媛県では、免許の更新時に長宗我部さんと名前を呼ばれている場面に結構出くわします。
ナイナイの岡村さんが、小学校のクラスメイトに長宗我部君が居たと言ってました
これめっちゃ気になってましたー!!!土佐長曾我部!
さおりん、いいな、語りが。
うちのご先祖様は元親、国親をいまだに探しています。騙し討ちにした卑怯者を私も許すことはないでしょう。。。
JR東海の野球部に長曽我部選手がいましたね。確か愛媛出身で、亜大でも活躍してたので東都のファンならご存知の方も多いのでは...。グラブに長宗我部の家紋が入ってて、インタビューでご本人も末裔と答えられていました。
由比正雪の片腕とされた宝蔵院流の槍の名手でもあった丸橋忠也は、長曾我部盛親の側室の子で、その名は、長曾我部盛澄(ちょうそかべ・もりづみ)だとされています。長曾我部の苗字ではなく、母方の生家の丸橋を名のり、生き延びていたようです。
秦氏の末裔、長宗我部❗武田の末裔、香宗我部。武田勝頼は、織田信長に敗れた後、天目山付近で自刃したと見せ掛け、香宗我部を頼って土佐に落ち延びた。長宗我部元親は、長男亡き後、四男を後継ぎに指名。これに異を唱えた家臣を処刑。処刑された家臣の中に「カモカア」の縁者がいた事から長宗我部家は「七人岬の祟り」を受けて衰退して行く。
丁度、大河で功名が辻が放送され、高知県が功名が辻フィーバーで浮かれてた時、友人と四国旅行した時、信長の野望大好きな俺たちは「四国といえば・・高知といえば長曾我部元親でしょ!!」「なにが功名が辻じゃ!なにが山之内じゃ!!」と元親公の墓を参拝したことがあります。四国から覇を唱えた名将とは思えない質素で寂しい墓前で手を合わせて、盛者必衰の理を感じました。ただ、墓前に記帳された沢山のノートがあり、それを開くと「私の先祖は元親公の家臣。誰のだれベイの・・配下にて、・・」「私の先祖は何々の戦いで元親公の・・」といった沢山の記帳があり、読んでいて胸が熱くなったことを思い出します。
自分は三好派です因みに生まれ育った場所には三好が衰退したあとに長宗我部に攻められた三好側の城跡があります因みに自分は当時三好側で戦った豪族の末裔の一人ですTH-cam名は偽名です
ちな、わいも河野水軍の末裔です。先祖が優しい性格で、応仁の乱の時に兵士になるのを拒否して、蓮如上人の弟子になり、山口でお寺をしました。
ある家に行ったら「長宗我部」という名字だったので、驚いて先祖を訊ねたら「長宗我部元親です」と言っていました。
香宗我部親泰の系統も残ってるはず・・・
優秀な長男の死が凋落につながる辺りは平氏に通じるものがありますね。
高知には長宗我部に関係する姓、曽我部や香曽我部という姓の方を見受けます。古代豪族の蘇我氏と関係あるかも知れません。長岡郡の蘇我、香美郡の蘇我でしょう。それらの方も一領具足という郷士や普通の百姓もいて元親の子孫も残っていて欲しいです。
今は亡き声優の曽我部和恭さんも長宗我部氏の末裔だったそうです。
聖闘士星矢のサガ・パタリロのバンコランの声の方ですよね?曽我部さんの声大好きや~💕
個人的にはリアルタイムで見ていたガンバルガーのヤミノリウス三世。
破裏拳ポリマ~~♫
因みに嫌味なお金持ちで、シェーな、夜の散歩が好きなザマス、4号ヒーローの、六浪した人は戦国大名兼島津家重臣一族の末裔
こちら月面司令部航空隊所属山本。ヤマト戦闘隊に参加したし。・・を思い出しました。
高知に営業に行ったとき、名刺交換したら相手が長宗我部さんで驚いたことがある
親戚のおじさんが曽我部姓だったけどなんか関係あったのかな?
高校時代、学年が上の人で曽我部君と言う人がいた。この人、長宗我部氏の末裔と学校の先生が言っていた。長宗我部とそのまま名乗っていたら根絶やしにされる時代背景があったため、長を外して曽我部と名乗る事で根絶やしにされる事をまぬがれたと先生も聞いたそうだ。長宗我部氏の誰の末裔かは聞いてないが子孫は残っているのは間違えないと思う
慶安の変の丸橋 忠弥は長宗我部 盛親の庶子と名乗っていた
漫画版だから原作には無い話だけど、鬼平犯科帳に丸橋忠弥の子孫が先祖の槍を取り戻そうとした話がある。
豊臣性の人知ってるけど、それは秀吉から家臣に与えられたタイプの名字なのかな。本姓とは別に豊臣性を与えられた武士がちらほらいたようだけど。
いつも楽しみに見てます!長宗我部の末裔について知りませんでした。次はルーツの曽我部氏が長宗我部と香曽我部に分かれたあたりの話を教えてください。
長宗我部は秦氏で香宗我部は甲斐源氏。ルーツは別やで。
元々は全く別の一族で、秦氏がルーツで土佐国"長岡郡"宗我部郷を治めた一族と、甲斐源氏がルーツで土佐国"香美郡"宗我部郷を治めた一族が両方とも宗我部氏を名乗ってもめたが(どっちが先に宗我部氏を名乗ったかは諸説あり)、お互い群名の頭文字である「長」と「香」を宗我部にくっつけて名乗ることで区別し解決した。でも後に長宗我部家当主の三男を香宗我部家の養子として迎え入れて香宗我部家は長宗我部家の家臣となり、同じ一族郎党となった。
もちろん高知出身です
面白い! こういった分析はまっこと興味深いでござるな!
昔勤めていた会社に長宗我部姓の人がいたよ本人曰く子孫だそうな、結構繁栄しているのかも
長宗我部家の子孫と上杉家の子孫が結婚して娘が女子アナみたいです
小学生のころに曽我部と言う同級生がいて長宗我部の子孫だと。また津野姓は多く、おそらく長宗我部氏の子孫がいるみたいです
長宗我部氏の末裔の方が本を出版されています。あと、ちょうそ”が”べです。
女系ですが、元親(一説には盛親)の娘が子連れで大阪城に立てこもった盛親につき従っていたのですが、落城の際、伊達方の乱取りにあって子ともども仙台に移送されます。そのうちの子の一人(元親には孫にあたる)が取り立てられ、柴田朝意(通称の柴田外記が有名)を名乗り、伊達家の重臣になるのですが、やがて伊達騒動に巻き込ます。また、うちの隣町には長曾我部動物病院というところがありますが、きっと子孫ですね。
僕は高知県高知市育ちなのですが、確かに中学校で社会の先生が曽我先生でした。その時長宗我部家のまつえいであると言っていましたね^o^ 高知県には曽我、曽我部の苗字がチラホラおられますよ✨あと、久武の苗字の上司がおりますが、久武家は昔から大金持ちの家だとおっしゃってました^_^
山形の香曽我部は直系と伝わってます。当時長宗我部を名乗る者は 全て斬首。なので身分を隠して 名前を隠して血を残す為に逃げたのに 四国近辺で長宗我部姓が残る筈が無いと。斬首されたとある長男次男が隠密に逃がされ、仙台の伊達政宗を頼り、伊達政宗は 徳川の目を恐れ、山形の最上義光に 丹野を世話人に付け託す。二人は名を捨て百姓をしたが 次男が百姓は嫌だと、家系図を持って春日局を頼り に長宗我部復興を願おうとするが、系図はまずいと破棄され 春日局の口利で香曽我部を名乗る事だけは許され関東圏に残ったと。山形に残った長男もそれで香曽我部を名乗る事になった。山形香曽我部は当代は13代目。以前明治大学の方が取材に来られたようだが、証明する証拠は残って無いため不明となる。山形香曽我部直系には 確実に代々口伝えられている。山形には長宗我部盛澄(丸橋忠弥)が住んだとされる市の標示物もある。
よく祖父から「うちは長宗我部の血を絶やさぬよう伊達を経由後、山形にて名を香曽我部に変え百姓になった直系」と聞かされていました。祖父は13代目、父は14代目、兄が15代目です。正確な史実がない所以、近所に丹野さんが多い所以を教えていただきありがとうございます。
本当か?どうか?は分かりませんが元親の三女が伊達家に保護されてその息子が伊達藩士になったと言う話を聞いた事がありますね!
家臣の佐竹親直に嫁いだ阿古姫とその子の柴田朝意の事ですかね
多分!そうだと思います!そして多くの長宗我部の元家臣が伊達家に使えたそうですよ!
紫田朝意は有名な伊達騒動で原田甲斐と斬り合いになって亡くなりましたがその原田は血縁上伊達政宗の孫に当たる人物なので元親と政宗の孫同士がガチ殺し合いした事になりますね😅
はい、私は姻戚、と亡母から聞いております。証拠は『土佐藩名家録』P.712あたりに載ってます。DNA鑑定など機会はないでしょうか。以上
本筋とは違うが、長曾我部ファンとしては最初の説明に物足りなさを感じるなw若い頃司馬遼を読んでいたものにとってはwその司馬遼の小説でも元親の血筋は姓を変えて残っている描写があったような。
関ヶ原以降お家断絶なった諸大名特集宜しくお願いいたします❗但し有名な大名は除いて欲しい❗(小早川秀秋や加藤清正・福島正則は有名だから)例えば、田中氏・堀尾氏・中村氏・寺沢氏など
前にテレビで元親の兄弟か従兄弟の子孫が今も長宗我部氏の本家として残っていると語られていたのを思い出します。(名字は別のものになっていますが)
元親の弟である島親益の家系ですね
本家って勝手に名乗ってないか心配です
元親の兄弟までは逆のぼって欲しかったかもです。香宗我部とか。
香宗我部はわかりませんが、吉良親貞や島親益の子孫は続いたらしいです
たしか声優におったぞ
香宗我部さんは同級生にいたな
家の家系は、元親→盛親の直系の子孫です。丹波篠山まで落ち延びれて、分家の大黒に苗字を改訂してます。明治天皇から長宗我部を名乗る事を許されましたが、血縁関係になったので、大黒のままです。曽我部とか長宗我部を名乗っている方々は、長宗我部盛親の直系では、ありません。あと、坂本龍馬も高杉晋作の子孫もいます。
婆ちゃんの里が曽我部(そかべ)だった
土佐の身分の低い武士にあたる下士が、長曾我部に関係する者もいたそうなので中には分家や縁者もいたかもしれませんね。今となっては、明治に好きな名前付けられましたし、帰化するときに藤原や黒田や田中など好きな名前付けてるそうなのでルーツもクソもないですかねえ。
長宗我部様の御子孫といえば、戦前は大分市の西寒多神社で宮司をされていたかと思いますよ☺️
大分の 長宗我部信親 討死の地の石碑には子孫として長宗我部姓の人が3人彫られているが、内二人は愛媛県と高知県の宮司だった。Google マップ で見れた
昔、特殊法人に長曽我部さんっていましたし、会社の先輩の同級生にもいたらしいので、一族の末裔は存続しているはずですが。直系は知りませんが。
四国住まいですが、曽我部さんや曽我さんは結構見かけますね。関連あるかどうかわかりませんが"元親"さんという家の表札を見たことがあります。たまたまなのか、血筋なのか…。
四国の友達の先祖が長曽我部でも香曽我部でもない○曽我部という苗字で世が世ならお姫様だったとのこと。とても綺麗な人なので世が世なら美しいお姫様だっただろうなと思う。
弟の友達 長宗我部くん、お父さんは 普通の名前なのに 自分は ○親って名付けられている事を嫌がっていました。
ナイナイの岡村が小学生の時、転校生が来て、その方が長宗我部という苗字だったと
長宗我部元親の末裔は熊本でスナックをやつてます。熊本に行ったときは飲みに良く行きます。
後輩に長宗我部君いましたよ。同級生に曽我部さんも。
私は高知県生まれで、先祖は長宗我部氏の側近をしていました。巻物の家系図もあります。
時々、歴史民族資料館などで開催される長宗我部展にて、うちの先祖の甲冑が展示されております。
親戚に苗字が曽我部もおります。親族の男子は皆、長身です。
私は長宗我部元親と、長男の信親の話しを聞くと涙が出て来て、悔しい思いが溢れてきます。
DNAに刻み込まれているのかもしれません。
なんという家名なのですか、浪漫がありますねー
@@MR-om6pj 長宗我部家臣 西村吉太夫と申します。
家紋は五瓜に四つ目の家紋でございます。
大分の戸次では、地元の方々が長宗我部の方々や合戦戦士者をきちんと供養しお祭りになっています。
この人の配下の末裔と話してたが似た感じの苗字の人いた
さおりさん、今回も、美しいよ!
長宗我部家は、断絶したと思っていたが、今回は、認識を新たにした!!
丸橋忠弥は長宗我部の息子と自称していたそうです。
盛親のね!
顧みれば、一人娘の小学校の友だちに「長曽我部」という苗字をもつ色白の女子がいた。「ちょうそかべ」ではなく「ちょうすがめ」と読む。その理由は判らない。帰校後、娘について自宅に遊びに来たこの子の氏名を初めて聞いたとき、大げさでなく、戦国土佐の長曽我部侍が今の世に出現したような大きな驚きを覚えた。明らかに、往年の土佐領主の血をひく子孫なのだろうと思う。兵庫県内での実話だが、現認はしていないけれど、今もその家族は市内に居住していると思う。
※「ちょうすがめ」という読みの理由が判る方、ご教示いただければ幸甚です。
関ヶ原の合戦後、一万以上といわれた長曽我部の遺臣たちは土佐の山野に残されたらしい。そこへ、掛川から山内氏が乗り込んで来た。長曽我部のサムライたちは、百姓身分にさせられたように思われる。だから山内氏は単なる「進駐軍」だとの反抗意識が、土佐の山野に消えなかったのではないかと思う。あの坂本龍馬も中江兆民も、幸徳秋水も植木枝盛も長曽我部侍の血をひく人だったと思う。いずれもが官に反抗的で自主独立的である。UPに感謝。
「伊勢平氏はすがめなりけり」
秦能俊の子孫を主張した長宗我部家は平家の子孫と主張したことがない。
四国の長宗我部氏とは別の血統と思われます。
(面白い逸話をありがとうございました。)
男系で生き残ったのは本当にいるのだろうか
うちは元親の伯父の家系らしいが成り立ちが
敗戦の侍狩りを逃げ切って隠れ住んだそうなので
当てはまりそうな人物は居るが事実であるか怪しい
元親の系譜ではなくて、元親の兄弟の系譜ではどうなんでしょうか❓🤔
さおりさんは変わらないね❤
何年か前にラジオでナイナイ岡村が、小学生当時に同じクラスで
「いつも半ズボンの長曾我部くん」の話してた。
長宗我部元親の娘の阿古姫は子供と共に仙台藩に匿われてますよ。
のちにその子供が仙台藩の重臣として活躍します。
昔、地元のTV番組で長宗我部氏と山内氏の子孫の今、みたいなのを見た記憶がある。
当時の山内家当主・山内豊功氏は酒のCMに出演され知っていたが、長宗我部氏の子孫の方は岡山県にいた。
アナウンサーの上杉桜子さんは高知県出身で、父方が上杉家、母方が長曽我部家らしいです。
某法律事務所に九州出身の長宗我部という弁護士がいますが、本当に子孫か知りたいですな
祖父の後妻さんが、旧姓「長宗我部」さんです。中年?初老?で茶道道具と共に嫁いで来たそうです💦
長宗我部って秦の始皇帝の子孫t5え説あるけどほんとかね
後輩で鹿児島出身の長宗我部君がいます。
実家には蔵があり甲冑などもあると言っていましたが本人は全く先祖に興味がないとのことでした。元親の弟の一族だそうです。
名古屋だが、アルバイトの面接に『トクガワ』くんが来たことがある。やはり、尾張藩の末裔でした。
町内会におります、子孫の話をしたら知る限りでの本家は農家だそうです。
吉良親貞の系譜は?
調べたら親実の子が町氏と姓を変えて熊本藩士として明治まで続いてるんですね
@@ふぉるーさん 名門吉良家を継いだのにまた名前が変わってる
@@胡麻ポン酢 さすがに主家に逆らって粛清された家の名を名乗るのは憚られたのでは?
バレエスクールの人は今でも徳川家を恨んでると言ってたな
山内家は?
長宗我部さんもいるけど、香曽我部さんもいるよね。
香宗我部さんって人がいた😊
亜細亜大学野球部で大活躍してました。
私、1976年生まれですが、小学5、6年生の時に長宗我部さんという女の子がクラスメートにいたことを思い出しました。
『変わった名前だね』と他の子に言われていたので『確か、有名な人の子孫だよ』と私が言うと、
『うん、わたしもよく知らないけど、そうみたい』と言ってました。
当時さほど歴史に興味がなく、その後、私は転校してしまったので、詳しいことは聞けずしまいでした。
惜しいことをしました!
ナイナイの岡村の、小学校時代の同級生に、長宗我部君って子がいたらしいよ。
同僚にいました。子孫と言ってましたが私はそうだと今でも信じています。
枚方市樟葉で、長宗我部の名前の名刺を母が見たことがあります。
実は、母の先祖は、510年前に、長宗我部に滅ぼされた、安芸国虎で、お城も焼かれたそうです。
900年前の壇之浦の戦いで、安芸家から、3人も参戦しています。
母の実家は、国虎の直系です。
その話を名刺を渡していた、長宗我部さんに言うと、申し訳ござませんと冗談混じりで言っていました。
お互いに同じ町に住んで 不思議な縁を感じました。母は、高知市出身です。親戚に吉良家や山下奉文や坂本龍馬がいます。
歌手で有名なアンジェラ・アキさんは苗字は確か安芸だったと思います。縁者の方ですか?
@@shoteocha6557 10年前に安芸家のルーツを調べたら、アンジェラ・アキさんが出てきました。
その程度です。付き合いはありません。私自身、MISIAのファンです。カラオケでMISIAの歌をよく歌っていました。
長宗我部家とも、親戚だと母から聞いています。
八幡市に近い枚方市の周辺は、曽我部と言う名前をよく見かけます。
いつも楽しみに拝見しています。
鳥取県生まれの鳥取県育ちで、今は新潟県に在住しています。
長宗我部氏は、歴史の荒波に翻弄された不運の一族として、心惹かれるものがあります。
40年ほど前(1980年代初頭)、朝日新聞が連載で各都道府県出身の各界で活躍されている方の人となりを記事にしていました。
その高知県編で「お殿様の子孫」として、京都在住でバレエ教室を主催する「長宗我部はま子」さんという方を取り上げていました。
お父君から、「盛親は恩義があったから豊臣に味方した。長宗我部が小さくなったからといって、山内を恨んではいけない」と言われて育ったそうです。「この年になっても、新しい仕事への情熱が湧いてくる。義に生きた先祖の血なんやわ、きっと」とも語っておられました。
細面で目は切れ長、口元がちょっぴり小さい、どことなく元親公をしのばせる顔立ちでした。
平成3年の秋の高校野球鳥取県大会で、鳥取県西部の米子市のとある私立高野球部のベンチ入りメンバーに「長宗我部」姓の選手が入っていました。なぜ高知から鳥取に流れてきたかは分かりませんが、この人も長宗我部の血を引く人と思われます。
ちなみにこの高校は翌年の春の選抜に出場しましたが、長宗我部クンはこの時はベンチには入っていませんでした。
現当主の長宗我部友親氏や、声優の故・曽我部和恭さんのことは、他の方も書かれていますね。
四国では幕府が開かれる迄、続いてきた名家。どのような形でも血脈が続いていることに安心しました。
一応、女系3女は阿古姫と子供たちは、大阪の陣で捉えられて政宗が教養豊かで気に入って侍女として使えて二人子は仙台藩の家臣の養子入りして一人は、伊達騒動の柴田朝意がおり今も暮らしてる。
かなり前ですが子孫の方が大阪でバレエスクールをされていましたよ。
たしか西宮市か宝塚市の高校からテニスの試合に出ていたよ。インパクトあったから名前で有名だった。70年代。
信親が一番好き
昔、同じ苗字の人がいたので「四国でしょ?」と聞きましたが、「よく言われるけど違うんだよねぇ」と苦笑されました。
「その苗字で違うんかい!」となりました。
大河ドラマで時々出て来るけどほとんど知らない。
我が家から徒歩三分の所に元親の墓があります。表通りから外れた目立たない場所なので、少し悲しい😞
看板がポツンとありますね。
あら、長宗我部家は元親の弟君、国親殿の四男、親房殿が島姓を名乗り、島親益となり土佐藩の最低の地位である下士としお仕えされております。最低の下士とはいえ、御銀方やお台所方といった要職にお就きになられ、藩主・山内家からも労いのお言葉を頂いております。明治時代に入り、長宗我部の家名を名乗り、明治大帝さまからも長家の正当子孫として認められて居られます。
元親の血が入ってないっちゃはないよね、島は暗殺されたと思ってたけど家名は残ったのか
初めてコメントさせて頂きました。
友人で三重県に長宗我部さんいらっしゃいます。末裔だと伺いました。
確か、長宗我部氏は古代豪族の蘇我氏の末裔を自称していたと聞きましたが本当のところはどうだったんですかね?
なんか、大阪の超進学校、北野高校の野球部で甲子園を目指していた末裔がいたとニュースで出ていた。
あと、女子アナウンサーのかたでいましたね
北野高校→筑波大野球部で投手だったあの長曽我部くんですね。チーム名は忘れたが社会人野球をやってるようです。
同じ中学校に長宗我部さんという苗字の先輩が居ましたよ。
松山市に有る神社に長曽我部姓の宮司だったか祢宜だったか忘れたけど名前が有るのは見た
末裔の1人は熊本市内でスナック経営してます。
由井正雪の乱で刑死した丸橋忠弥も長宗我部家の末裔と言う話もあります。
今も一族が群馬県吾妻郡あたりに棲息してます。 某も一族衆です!
「長宗我部の子孫って生きているの?」=岡豊城に行ったことが無いですな。周囲にいっぱい長宗我部氏の子孫とライバルの子孫の方々がおられます。
私の前の会社の先輩が以前勤めていた会社の後輩で『長曾我部』って苗字の人がいたと言ってました。
元親の弟たちの系譜も気になるので、解説していただけるとありがたいですw
現長曾我部家は元親の弟、島弥九郎親房の
血統で
元親・親泰・親貞の血筋は全て断絶して
います(o'ω')ノ
大阪府吹田市の千里ニュータウン内のる幼稚園に「長宗我部バレー教室」というものがありました。主催者が女性の方で、聞いた話では元親公か盛親公の末裔の方だと記憶しています(ここは少し記憶があいまいですみません)。今見たらHPもありますよ。
うちの会社に長宗我部さん居る。
3:52 この久武は長曽我部改易の原因なのに、改易後は加藤清正に仕官している。というか元親の五男も清正に仕官している。
確か20年くらい前に長宗我部姓のグラビアモデルさんが週刊誌に載ってたのを見た記憶があります。
愛媛県では、免許の更新時に
長宗我部さんと名前を呼ばれている場面に結構出くわします。
ナイナイの岡村さんが、小学校のクラスメイトに長宗我部君が居たと言ってました
これめっちゃ気になってましたー!!!
土佐長曾我部!
さおりん、いいな、語りが。
うちのご先祖様は元親、国親をいまだに探しています。騙し討ちにした卑怯者を私も許すことはないでしょう。。。
JR東海の野球部に長曽我部選手がいましたね。確か愛媛出身で、亜大でも活躍してたので東都のファンならご存知の方も多いのでは...。グラブに長宗我部の家紋が入ってて、インタビューでご本人も末裔と答えられていました。
由比正雪の片腕とされた宝蔵院流の槍の名手でもあった丸橋忠也は、長曾我部盛親の側室の子で、その名は、長曾我部盛澄(ちょうそかべ・もりづみ)だとされています。長曾我部の苗字ではなく、母方の生家の丸橋を名のり、生き延びていたようです。
秦氏の末裔、長宗我部❗
武田の末裔、香宗我部。
武田勝頼は、織田信長に敗れた後、天目山付近で自刃したと見せ掛け、香宗我部を頼って土佐に落ち延びた。
長宗我部元親は、長男亡き後、四男を後継ぎに指名。これに異を唱えた家臣を処刑。処刑された家臣の中に「カモカア」の縁者がいた事から長宗我部家は「七人岬の祟り」を受けて衰退して行く。
丁度、大河で功名が辻が放送され、高知県が功名が辻フィーバーで浮かれてた時、友人と四国旅行した時、信長の野望大好きな俺たちは「四国といえば・・高知といえば長曾我部元親でしょ!!」「なにが功名が辻じゃ!なにが山之内じゃ!!」と元親公の墓を参拝したことがあります。四国から覇を唱えた名将とは思えない質素で寂しい墓前で手を合わせて、盛者必衰の理を感じました。ただ、墓前に記帳された沢山のノートがあり、それを開くと「私の先祖は元親公の家臣。誰のだれベイの・・配下にて、・・」「私の先祖は何々の戦いで元親公の・・」といった沢山の記帳があり、読んでいて胸が熱くなったことを思い出します。
自分は三好派です
因みに生まれ育った場所には三好が衰退したあとに長宗我部に攻められた三好側の城跡があります
因みに自分は当時三好側で戦った豪族の末裔の一人です
TH-cam名は偽名です
ちな、わいも河野水軍の末裔です。先祖が優しい性格で、応仁の乱の時に兵士になるのを拒否して、蓮如上人の弟子になり、山口でお寺をしました。
ある家に行ったら「長宗我部」という名字だったので、驚いて先祖を訊ねたら「長宗我部元親です」と言っていました。
香宗我部親泰の系統も残ってるはず・・・
優秀な長男の死が凋落につながる辺りは平氏に通じるものがありますね。
高知には長宗我部に関係する姓、曽我部や香曽我部という姓の方を見受けます。古代豪族の蘇我氏と関係あるかも知れません。長岡郡の蘇我、香美郡の蘇我でしょう。それらの方も一領具足という郷士や普通の百姓もいて元親の子孫も残っていて欲しいです。
今は亡き声優の曽我部和恭さんも長宗我部氏の末裔だったそうです。
聖闘士星矢のサガ・パタリロのバンコランの声の方ですよね?曽我部さんの声大好きや~💕
個人的にはリアルタイムで見ていたガンバルガーのヤミノリウス三世。
破裏拳ポリマ~~♫
因みに嫌味なお金持ちで、シェーな、夜の散歩が好きなザマス、4号ヒーローの、六浪した人は戦国大名兼島津家重臣一族の末裔
こちら月面司令部航空隊所属山本。ヤマト戦闘隊に参加したし。・・を思い出しました。
高知に営業に行ったとき、名刺交換したら相手が長宗我部さんで驚いたことがある
親戚のおじさんが曽我部姓だったけどなんか関係あったのかな?
高校時代、学年が上の人で曽我部君と言う人がいた。この人、長宗我部氏の末裔と学校の先生が言っていた。長宗我部とそのまま名乗っていたら根絶やしにされる時代背景があったため、長を外して曽我部と名乗る事で根絶やしにされる事をまぬがれたと先生も聞いたそうだ。長宗我部氏の誰の末裔かは聞いてないが子孫は残っているのは間違えないと思う
慶安の変の丸橋 忠弥は長宗我部 盛親の庶子と名乗っていた
漫画版だから原作には無い話だけど、鬼平犯科帳に丸橋忠弥の子孫が先祖の槍を取り戻そうとした話がある。
豊臣性の人知ってるけど、それは秀吉から家臣に与えられたタイプの名字なのかな。
本姓とは別に豊臣性を与えられた武士がちらほらいたようだけど。
いつも楽しみに見てます!
長宗我部の末裔について知りませんでした。次はルーツの曽我部氏が長宗我部と香曽我部に分かれたあたりの話を教えてください。
長宗我部は秦氏で香宗我部は甲斐源氏。
ルーツは別やで。
元々は全く別の一族で、秦氏がルーツで土佐国"長岡郡"宗我部郷を治めた一族と、甲斐源氏がルーツで土佐国"香美郡"宗我部郷を治めた一族が両方とも宗我部氏を名乗ってもめたが(どっちが先に宗我部氏を名乗ったかは諸説あり)、お互い群名の頭文字である「長」と「香」を宗我部にくっつけて名乗ることで区別し解決した。でも後に長宗我部家当主の三男を香宗我部家の養子として迎え入れて香宗我部家は長宗我部家の家臣となり、同じ一族郎党となった。
もちろん高知出身です
面白い! こういった分析はまっこと興味深いでござるな!
昔勤めていた会社に長宗我部姓の人がいたよ
本人曰く子孫だそうな、結構繁栄しているのかも
長宗我部家の子孫と上杉家の子孫が結婚して娘が女子アナみたいです
小学生のころに
曽我部と言う同級生がいて長宗我部の子孫だと。
また津野姓は多く、おそらく長宗我部氏の子孫がいるみたいです
長宗我部氏の末裔の方が本を出版されています。
あと、ちょうそ”が”べです。
女系ですが、元親(一説には盛親)の娘が子連れで大阪城に立てこもった盛親につき従っていたのですが、落城の際、伊達方の乱取りにあって子ともども仙台に移送されます。
そのうちの子の一人(元親には孫にあたる)が取り立てられ、柴田朝意(通称の柴田外記が有名)を名乗り、伊達家の重臣になるのですが、やがて伊達騒動に巻き込ます。
また、うちの隣町には長曾我部動物病院というところがありますが、きっと子孫ですね。
僕は高知県高知市育ちなのですが、確かに中学校で社会の先生が曽我先生でした。その時長宗我部家のまつえいであると言っていましたね^o^ 高知県には曽我、曽我部の苗字がチラホラおられますよ✨あと、久武の苗字の上司がおりますが、久武家は昔から大金持ちの家だとおっしゃってました^_^
山形の香曽我部は直系と伝わってます。
当時長宗我部を名乗る者は 全て斬首。
なので身分を隠して 名前を隠して血を残す為に逃げたのに 四国近辺で長宗我部姓が残る筈が無いと。
斬首されたとある長男次男が隠密に逃がされ、仙台の伊達政宗を頼り、伊達政宗は 徳川の目を恐れ、山形の最上義光に 丹野を世話人に付け託す。
二人は名を捨て百姓をしたが 次男が百姓は嫌だと、家系図を持って春日局を頼り に長宗我部復興を願おうとするが、系図はまずいと破棄され 春日局の口利で香曽我部を名乗る事だけは許され関東圏に残ったと。
山形に残った長男もそれで香曽我部を名乗る事になった。
山形香曽我部は当代は13代目。
以前明治大学の方が取材に来られたようだが、証明する証拠は残って無いため不明となる。
山形香曽我部直系には 確実に代々口伝えられている。
山形には長宗我部盛澄(丸橋忠弥)が住んだとされる市の標示物もある。
よく祖父から「うちは長宗我部の血を絶やさぬよう伊達を経由後、山形にて名を香曽我部に変え百姓になった直系」と聞かされていました。
祖父は13代目、父は14代目、兄が15代目です。
正確な史実がない所以、近所に丹野さんが多い所以を教えていただきありがとうございます。
本当か?どうか?は分かりませんが元親の三女が伊達家に保護されてその息子が伊達藩士になったと言う話を聞いた事がありますね!
家臣の佐竹親直に嫁いだ阿古姫とその子の柴田朝意の事ですかね
多分!そうだと思います!そして多くの長宗我部の元家臣が伊達家に使えたそうですよ!
紫田朝意は有名な伊達騒動で原田甲斐と斬り合いになって亡くなりましたがその原田は血縁上伊達政宗の孫に当たる人物なので元親と政宗の孫同士がガチ殺し合いした事になりますね😅
はい、私は姻戚、と亡母から聞いております。
証拠は『土佐藩名家録』P.712あたりに載ってます。
DNA鑑定など機会はないでしょうか。以上
本筋とは違うが、長曾我部ファンとしては最初の説明に物足りなさを感じるなw
若い頃司馬遼を読んでいたものにとってはw
その司馬遼の小説でも元親の血筋は姓を変えて残っている描写があったような。
関ヶ原以降お家断絶なった諸大名特集宜しくお願いいたします❗但し有名な大名は除いて欲しい❗(小早川秀秋や加藤清正・福島正則は有名だから)例えば、田中氏・堀尾氏・中村氏・寺沢氏など
前にテレビで元親の兄弟か従兄弟の子孫が今も長宗我部氏の本家として残っていると語られていたのを思い出します。(名字は別のものになっていますが)
元親の弟である島親益の家系ですね
本家って勝手に名乗ってないか心配です
元親の兄弟までは逆のぼって欲しかったかもです。
香宗我部とか。
香宗我部はわかりませんが、吉良親貞や島親益の子孫は続いたらしいです
たしか声優におったぞ
香宗我部さんは同級生にいたな
家の家系は、元親→盛親の直系の子孫です。
丹波篠山まで落ち延びれて、分家の大黒に苗字を改訂してます。明治天皇から長宗我部を名乗る事を許されましたが、血縁関係になったので、大黒のままです。曽我部とか長宗我部を名乗っている方々は、長宗我部盛親の直系では、ありません。あと、坂本龍馬も高杉晋作の子孫もいます。
婆ちゃんの里が曽我部(そかべ)だった
土佐の身分の低い武士にあたる下士が、長曾我部に関係する者もいたそうなので中には分家や縁者もいたかもしれませんね。
今となっては、明治に好きな名前付けられましたし、帰化するときに藤原や黒田や田中など好きな名前付けてるそうなのでルーツもクソもないですかねえ。
長宗我部様の御子孫といえば、戦前は大分市の西寒多神社で宮司をされていたかと思いますよ☺️
大分の 長宗我部信親 討死の地の石碑には子孫として長宗我部姓の人が3人彫られているが、内二人は愛媛県と高知県の宮司だった。Google マップ で見れた
昔、特殊法人に長曽我部さんっていましたし、会社の先輩の同級生にもいたらしいので、一族の末裔は存続しているはずですが。直系は知りませんが。
四国住まいですが、曽我部さんや曽我さんは結構見かけますね。
関連あるかどうかわかりませんが"元親"さんという家の表札を見たことがあります。たまたまなのか、血筋なのか…。
四国の友達の先祖が長曽我部でも香曽我部でもない○曽我部という苗字で世が世ならお姫様だったとのこと。
とても綺麗な人なので世が世なら美しいお姫様だっただろうなと思う。
弟の友達 長宗我部くん、お父さんは 普通の名前なのに 自分は ○親って名付けられている事を嫌がっていました。