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夜行の鈍行、時刻表見てるだけでも楽しい😄
長距離+夜行+寝台+客車+普通=ロマンの塊
いぇーい!
DD51の駅でるときの『ガタン』の衝撃、思い出す〜😂
@@ギンガ号 ヘッドマークのサムネ、いいすね。
あざっす🙏
「山陰」「はやたま」「からまつ」「ながさき」、当時旧国鉄末期の、愛称名付き寝台車連結の夜行鈍行四天王だったね☝️😊確か廃止になる前年の年末12月に初乗りで全区間乗り通したなぁ…✨その時既に座席車は旧型客車ではなく12系に置き換えられてたが…寝台車に乗るお金が無かったのと、あの狭い三段寝台に寝るのはサスガにキツかったから…😅2:35 そうそう!途中、真夜中の福知山で確か20分以上の停車時間があって、なんとリヤカーに山積みに載せた駅弁屋さんがホームの上に売りに来てたのには感激した😭👍✨️当時の深夜の福知山駅の名物だったらしい🍱✨️山菜弁当🍱とお茶を買って一人占めにした12系のボックス席で夜汽車に揺られながら駅弁頬張ったのは、もう二度と味わえない至福の贅沢な時間だったよなぁ…(´- `*)🌃✨️
はやたま(53-10までは南紀)に関しては後に165系で無名の夜行列車として平成の時代まで運行していました。新宮では5:00からうどん屋が営業していました。全4本のうち関西発が2本とは羨ましい話、関東だと大垣行き153系と長野行きと長岡行き共に115系の座席車だけでした。
高校の頃(五十年前)松浦線C12撮影旅行に高千穂・桜島で東京から博多まで乗車したけど、夜行列車は面白いねー。あの楽しみはそうどうないねー。
鉄道マニアの一言。過去は良くて現代は悪い。という話になりがちですが、私も夜行列車が大好きです。急行銀河には何度もお世話になりました。在来線が大好きで、わざわざ東海道本線の臨時急行にも乗りました。古い車両に当たると座席のシートも壊れていて、床に古いのを並べて寝たものです。おかげで床ずれに悩まされました。(脊髄損傷ですので。)それでも在来線が好です。駅弁販売駅では窓を開けてお茶と弁当を買うのも楽しみでした。短い停車時間にホームに降りて慌てて間違えてサンプル品をもって乗り込んで恥ずかしい思いをしたこともありましたが。今は懐かしい思い出です。
@@新谷直人-x5u そうですね。マニアは鉄道を“勝手に”楽しんでるので、公共交通機関の意義とか役割と経費とかをどうこうする訳では無い(たまにそういう人も)ので、減ってしまう、無くなってしまう、という状態の感想を言ってるだけだから。
福知山もご多分に漏れず駅弁🍱自体なくなったからね😵ワイは深夜ではないが、浜田→大阪の726列車完乗時に福知山ランチを買った事はある😉
おおらかな時代だったな。今よりずっと時間がゆったり流れていた。現代人は真の豊かさを履き違えた。
同感です。
無理してでも乗っておいてよかった。一夜の友だったオハネフ12 42が模型化されて胸熱
😉全く、激しく同意します。 🍱点から点を移動するにシテも、贅沢な船旅程では無いですが、旅情豊かで有った気が致します🤔 此等を考えますに、均一orミニ周遊券は、当時の最強アイテムでしょうか??😏偶に、あの頃は……と、回想に浸るのも、乙なモノでは無いかと!?🙇🏻
なら、東京~大阪歩け😉
山陰ワイド周遊券と共に、何度もお世話になりました☺️ 寝台も2回利用しました❤️ 忘れられない列車です😃 ありがとうございます😆💕✨
「山陰」には、旧客時代と12系時代に乗ったことが有ります。京都から乗った時は、お盆の帰省時期だったせいか、通路いっぱいの混雑で大垣夜行並みでした。
昔の鉄道は、ロマンがあったよね。
東京~金沢2時間半とか、今の方がいいが😉
いくらロマンだ旅情だノスタルジーだの郷愁だのと言ったって、鉄道は移動手段A地点からB地点まで何かを輸送するのが目的それ以上でもそれ以下でもない
ホントそれ!ロマンを感じるなら、東京~大阪2週間かけて膝栗毛しよう!😋
懐かしいです。昭和54年冬に京都から安来まで乗車しました。寝台列車に乗るのが楽しみでしたが乗ってみるとキツかった。客車3段式B寝台で、狭くて暖房は効きすぎの上段で、初めての寝台もあってか眠れませんでした。座席車も探検しましたが満員でしたね。驚いたのは古い一部車両の出入口が自動ドアではなく、むき出しで扉がなく鎖で通せんぼをしているだけの形式でした。わざとその場に暫く立っていましたが、非常に怖いなぁーと当時は思っていました。今や味わえない昔の思い出です。もう乗る事はありませんが、今でも夜汽車は大好きです。
1月の旧客車でスチーム暖房、暑すぎて眠れなく夜景をドア半開きのデッキに入りビタってたのは良い想い出❤
山陰号は両端での最終・始発列車や荷物列車としての役割、さらには長距離を旅行される方のために寝台車まで連結と言う夜行オブ夜行とも呼べる列車でしたね。新聞輸送を含んだ荷物輸送の衰退がこの列車の寿命を決めたものと思います。
今は新聞自体も衰退している。
自分自身は平成になってから生まれた者でこの時代を知らない人間なのですが、祖父が教師をしていた頃帰りにこの列車を利用した事があり、亀岡で降りるはずが寝過ごして福知山まで連れて行かれた話はよく笑い話で聞かされていました。
待ってました~‼️「からまつ」「ながさき」「はやたま」が取り上げてくださったので、いつピックアップしてもらえるかと期待していました。😅
高校生だったかな、大学生になってたかな、昭和50年代に乗りに行きました。これも、はやたまも。その思い出が作れた私は、幸せな世代だと思います。
旧客の最後くらいに良く乗りました。青春18きっぷが出始めでもあり、夜勤明けで都内を出て東海道を乗り継ぎ、京都からは山陰号で翌朝は倉吉線・木次線などローカル線を回り帰りは大垣発東京行きで、そのまま仕事へ。休みのたびにそれを繰り返してました。もちろん全部座席利用。若い時の良い思い出でした。
嘗ては日本中のたくさんの路線で夜行鈍行列車が当たり前のようにあった。幹線であればそれこそ休み時間がないほどに列車が設定されていて、今のような終電という概念は希薄だったように思う。普通列車の長距離列車では寝台連結も結構見られましたが、寝台を利用するのは当時ではそれなりに裕福な人がほとんどで、一般人は普通座席車のボックス席でせいぜい脚を伸ばして寝られるくらいでした。あのノンビリした時間がとても懐かしいです。
宍道駅にて山陰号の寝台車を見学(という名の侵入)。三段のベッドは硬そうだったけど、それでも名前を持つ普通列車に相応しいちょっとしたプレミアム感がありました。そんななか車掌さん登場。まだ寝ている人がいるからねとやんわり窘められたのも今ではよい思い出です。
あの狭い3段式寝台、昭和50年代の値段は3500円。当時の貨幣価値だと、設備の割にはかなりの割高感だったな。
親父に連れられて田舎へ帰省のとき何度も乗ったなあ。ジングルも覚えてるよ。乗客は喫煙しまくりで客車は煙たくて。椅子は固くて。しかし楽しかった
大人になったら絶対乗ってやると思ってたが、大人になる前に廃止😹
コッペパンさんてお若いんだよね…. それなのにうまくまとめますねぇ。お見事です!😊
そういえば日豊本線にヨンナナサンダイヤ改正まで寝台車付き普通夜行列車がありましたね!ヨンナナサンダイヤ改正で急行みやざきになりゴウマルサンダイヤ改正で急行日南上下の4,号になりました。また寝台車はなかったけど門司港発博多、熊本を通り肥薩線吉都線経由で都城行きなんて列車もありました。いずれも荷物や朝刊を輸送していました。
@@もりわききくお 吉都線を走る夜行列車に乗りたかったなぁ。今乗りたいと思っても乗れない。
実際にに乗った人間でないと分からないことがあるな、やっぱり
この頃、乗らなかったことを激しく後悔している
私が84年に乗った時には座席車は12系になっていたけど、スハネ12を満喫しました 狭くて三段だったけど朝洗面台で歯を磨いていると嗚呼やはり鈍行でも急行でも特急でも寝台車は寝台車!いいなって思ったものです
そう言えば山陰と言う夜行普通列車ありましたね。他に急行だいせんも旧大社線があった頃大社線内が寝台車連結の普通列車でしたね。
『はやたま』じゃなく『南紀』も含めて全部乗った。
タイムスケジュールいいね!停車時間長いから駅弁くらいかえたのかな?
深夜20分以上停車の福知山駅で、停車ホームに駅弁をリヤカー山積みに載せた駅弁売りがあり、0時過ぎにも関わらず、駅弁が飛ぶように売れて、当時の深夜の福知山駅の名物だったそうです😊この「山陰」だけでなく、当時の「出雲」や「だいせん」等の福知山停車の夜行列車の乗客相手に商売されてたようで、私も山陰乗車した折、当然弁当とお茶を仕入れました…σ(^-^;
初めて乗った夜行列車でした、また初の旧客でもありました。
長崎あたりと和歌山、北海道にもこんな普通の寝台付き夜行あった記憶
[出雲],[だいせん],[山陰]…全て乗車したけれど,地元の人(松江市)は[東京夜行],[大阪夜行],[京都夜行]と呼んでいました.
素晴らしい配信をありがとう。
これに兄と乗ってはじめての夏の甲子園観に行った思い出
出雲市から京都まで、普通寝台『山陰』に乗ったよ。もちろん、オハネフ12で寝台幅が激狭だった。笑
この普通列車「山陰」を取り上げて貰い有難うございます!私が中学or高校の頃、周遊券を使い利用しました!往路は京都→倉吉、復路は鳥取→京都でしたね!睡眠は列車内でした‼️
懐かしいです。はじめての一人旅で京都から出雲市まで乗りました。最初は席が空いていなくて通路に座っていましたが途中で運良く席が空いて座ることができました。まだ客車のドアが手動でしたね。ほんとは寝台車に乗りたかったけど。昭和51年、私が高校一年の夏休みの時でした
山陰号は小学校に上がる前から何度も乗りました。無くなる直接の昭和59年8月、寝台にも乗っておこうと、オハネフ12 2012に乗りました。上りの京都到着と同時に発車ベルがなり入れ替わりで浜田行き833列車が出るのも壮観でした。
対九州の優等寝台列車が昼寝してる向日町の隅っこでクモヤやひとつ目DD13達と並んで寝てたのがこの列車でした昔のNHK新日本紀行でも紹介されていましたね
1982年3月春休みに乗車しました。深夜福知山駅からの乗車でしたが、改札前KIOSKが営業していて夜行列車の需要が多かったんだと思います。(地域の新聞輸送の使命も兼ねていた。)3段寝台は貧乏旅行だったので高嶺の花で、もっぱら旧客のボックスシートでした。若い人たちで混雑していました。翌朝車内でウオークマンを聞いている人が多かった記憶があります。今では考えられないけど同じ山陰本線で、米子→博多の夜行急行さんべ(寝台連結)とかもありました。この後上越新幹線開業時のダイヤ改正で急速に旧型客車を使った長距離列車が淘汰され乗り鉄から離れてしまいました。
ヨンナナサンダイヤ改正までは下関まで運行していました。また10系は寝台車だけで座席車は旧型客車だった。山陰が生き残った要因は全体に言えることですが、荷物の役割が大きいです。荷物は一人では歩けませんので長距離普通列車が成り立っていました。荷物列車を仕立てるだけの需要はないので!また山陰の他にはからまつや南紀や、ながさきなどもありました。なお山陰はヨンサントウダイヤ改正までは、1等車(後のグリーン車)を連結されていた。そして夜行だいせんも夜行さんべももともとは普通列車で急行格上げされたものです!京都夜行や大阪夜行は大社夜行と呼ばれていました。
新聞もありますね。大阪や京都で印刷された新聞を山陰各地まで運ぶ役割もありました。上り列車は新聞がないので下りよりも通過駅が多かったのです。プロ野球の結果は途中まで、夜中に特ダネが入ると一面が差し替えられ、大阪近辺の1面とは全く異なるものになっていました。新聞が各県で印刷できるようになったことも夜行列車廃止の一因かもしれませんね。
そのとおりですね!特に夜行列車は特急も含めてその背景はありました。寝台特急格上げ直後の北星にはワサフ8000型が20系に連結されていたりもしましたから!
さすがに国鉄時代は古き良き時代、昔を知っている。懐かしいです。時代が進んで、さて、便利になったのか。不便になったのか。何ともわかりません。言えるのは前を向いて歩くことです。
そうですね。懐かしんでもいいけれど、廃止するな、昔に戻せと、無条件に叫ぶのは、良くないですね。
「からまつ」「はやたま」「ながさき」「山陰」と、これで国鉄4大夜行寝台鈍行列車コンプリートですね。
今は激狭B寝台3段式の料金でそれなりのホテルに泊まれるいい時代
北斗星ロイヤルよりこちらのオハネフ12 42での一夜の方が印象深い
こんなロマンや旅情が具現化したような列車、乗ってみたかった…😢10系の現役車なんて見たこともありません。大人になる前に国鉄からJRに。合理化や利益の追求で次々と味のある列車や車両が消えてゆき、ようやく大人になって自由に列車の旅を楽しめるようになったと思ったら既に24系25型末期でした。
懐かしの「山陰」1981年の夏に、京都から出雲市まで 乗り通しました。行きは 旧型客車の狭い席に座り、背もたれも 垂直だったので、乗車中 ほぼ2時間ほどしか寝られず、次の朝 出雲市に着いて、ふらふらになりながら 大社線で出雲大社まで行ってお詣りし、そのあと 日御碕へ行きました。そして その日の出雲発の「山陰」で帰ったのですが、疲れていたので 寝台券を購入しました。旧型3段式B寝台で 幅は50cmほどしかなかったのですが、あまりに疲れていたのか 寝台に横になると、そのまま京都に着くまで、目が覚める事なく づっと寝ていました。今となっては いい思い出ですが、もう こんな列車の旅は 経験できないでしょうね。
一回だけ下りでオハネフ12にお世話になりました、普通列車だから発車時の衝撃とか気になるかと思いきや意外と寝れました。早朝の鳥取で下段客が降りたので寝台を解体してゆったりと座席も堪能しました。
山陰は廃止というよりだいせんに吸収され、福知山までは終列車が運転されていたかと記憶します。はやたまの方が12系座席のみ新宮短縮の名無し各停として残り、165系化片道になり、更に紀伊田辺新宮は週末のみ臨時になるなど徐々に弱体化され、最後は紀伊田辺までの終電にされたとしぶとかったです。
国鉄時代は各地で夜行鈍行が多く走っていました。ミッドナイト、はやたま、ながさき、などなど
「ミッドナイト」はJR化後だが😉
なつかしいですね!上りでは、嵯峨野線の始発列車、園部4:44発→京都5:25着220Mがその名残ですね。こんな朝早くから、列車が動くのは、この区間では今でも需要があるという事かもしれませんね!?
中学生の時、1回だけ乗りました。山陰地方では名の知られた列車で京都夜行と呼ばれていました。私が乗ったのは12系に置換えられた後でした。
ガキンちょのころ時刻表みて憧れもだえていた思い出
ムーンライト八重垣にも寝台車、連結されていました。1998年の夏頃だったでしょうか?私は青春18きっぷで夜行連泊中でしたので、座席夜行席でした。寝台に乗っておけば良かったとも思いました。出雲市まで乗ったような。寝台急行だいせんなら乗りましたよ〜。🛤️
普通列車とはいえ、Bネは寝台券の他に別途普通乗車券が必要な為、「八重垣」では青春18族が乗車券不携帯でトラブル絶えずに早々に寝台車は外されたと聞く。
ワイは18きっぱー中にわざわざ普通乗車券🎫買って乗った😁
座席車だと特に深夜バスみたいに身体バキバキになりそうだけど、乗車経験ある人には楽しい旅の思い出になったでしょうね
繁忙期以外は1ボックス占有出来たので下手な寝台より快適
山陰懐かしいなあ…子供の頃に親父と出雲大社や大山に旅行した時に寝台に乗った記憶がある80年くらいだったかなあ、ほぼ覚えてないですが寝台で聞こえてくる機関車のジジジ…という音が記憶に残っています
10系B寝台は、20系B寝台にも引き継がれた幅52cm・3段式というスタイルでしたっけ。なお、寝台内の読書灯は、オレンジ色の白熱灯だったそうです。
山陰号の10系寝台, 1983年だったかな, 乗りましたよ. 懐かしい.
懐かしや~。ありがとう1981.1月。4月から中学生になるので大人料金になるとのことで鉄オタ、ダチと横浜から山陰ミニ周遊券で松江まで乗った。保津峡、旧餘部鉄橋をオハ47のデッキから見てました。帰りは20系『急行だいせん』ナハ21で大阪、弁天町の交通科学館と梅小路機関車館により0系新幹線、ビュッフェでカレー。スタンド・バイ・ミーばりの小6.1月でした😂
小6、男児はカバンに目覚まし時計を入れてました😅
山陰号の10系寝台、関東に行く際、ブルトレ出雲の寝台が満席で取れなかったため乗ったことがあります。京都に5:24着、京都から始発の新幹線「ひかり」に乗り継げるので、以外に便利でした。寝台料金は昭和54年当時3,500円でした。
国鉄からJRに変わるとき、この寝台付き普通列車に乗ってしゅうてん浜田まで通学していました。出雲ドメとありますが、長い客車と浜田方向の先頭に寝台車がありました。国鉄時代は長い客車でゆったり座れましたが、JR,になっていきなり2両編成となって混雑した記憶があります。通学で乗っていた列車はこの山陰号ではなかったのですね。
愛知北部民です。寝台普通山陰号は時刻表で見た事はありましたが乗車は出来ずじまいでとても残念でした。後のムーンライト八重垣も1回乗っただけで終了しました。サンライズ出雲は意外にも乗車経験ゼロなので機会があったら乗りたいです。
山陰号に乗って、廃止間際の倉吉線に乗りに行った。😅
倉吉線も、旧客だったような…遅かったもんなあ。
私も山陰の寝台車に乗りました。3段式の極狭ベッドでしたが、全国の国鉄路線走破中だったので、出雲市までぐっすり眠れました。
下りに4回、上りに2回乗ってました。
「寝台鈍行」というパワーワード。指定席付普通妙高号を遥かに凌駕する。
京都駅近辺で仕事していた時に園部から通っていた先輩がこの列車で帰りに寝過ごしてしまい、城崎で目覚め、翌日は昼に出勤してきたのを思い出しました。
山陰線鈍行夜行に初めて乗ったのは,1969年3月22日(切符が残っています)。この時は,京都ー鳥取間の利用でしたが,その金額は乗車券860円,寝台券800円でした。懐かしいですね。普通夜行は寝台ではなくても,その後も良く乗りました。
末期の12系時代、2〜3回乗ったなあ。10系寝台に乗りたくて10時打ちして下段取ったのが懐かしい。
12系に変わって普通車はエアサス、B寝台車はコイルばねというおかしな現象になりました。
四国の急行とかでは普通車がエアサスのキハ57やキハ65でグリーン車はコイルバネのキロ28とかもあったかと。(´Д`|||)
急行紀州には普通車がキハ57とキハ65型でグリーン車がキロ28型といった編成がありました。
1982年4月乗車。座席車はまだ旧型客車。当夜の寝床オハネフ12 42が一番くたびれていた。でもワクワクした、楽しかった。30年後の北斗星ロイヤルも、オハネフ12ほどの印象はなかった。
夜間に移動したいという需要は今もかなりあり、夜行バスはかなりの人気ですが、鉄道でそれを行うには輸送力過剰だし線路の保安や夜間の駅業務も含めると経費が掛かり過ぎるということなんでしょうね。
KATOの夜行「山陰」セットが発売されたタイミングであげるなんてタイムリー...
高校生の時、京都から出雲市まで乗りました。これが、最初で最後です。山陰号です
昭和58年の春に徳島から「ながさき」佐世保行き、「山陰」京都行、「大垣行き夜行」で3泊4日の「青春18きっぷ」の旅をしました。懐かしい思い出です。いずれの列車も満員で、デッキや通路で寝ていた人もたくさんいました。
故種村直樹さんと有志の仲間たちが昭和55年3がに当時の国鉄平戸口からひと筆書きで東根室駅を目指す旅を著書にしていますが、ながさきはじめ山陰、中央西線夜行、青函連絡船夜行と最後はからまつで行っておられます。これは、常磐線で接続が良くなったためにできたことです。なお種村直樹さんは全てにオール座席車で過ごしておられて、改札の外には全く出ないことにも挑戦されていました。今ではそもそも夜行がないので不可能ですが!
列車名がついたのは、からまつやはやたまと同じくマルスのためなんでしのうね。
当時、東京発大阪行きの普通列車があった。客車はB寝台車無しの普通車両のみ。夜通し走って午前中に大阪に着いた。
懐かしいです。
かつて走っていた中央東線の長野から新宿行き夜行普通電車も10両中2両は荷物電車やったな。新宿到着がやたらと早く午前4時台やった。
懐かしい地上ホームの福知山駅
昭和50年代中盤、この山陰号に京都から米子まで普通車に乗りました。京都出発時点では各ボックスはほぼ埋まるくらい、まぁ結構乗客いましたね。
07:21 かなり昔のダイヤでも面影が意外と残ってるもんなんだなぁ、
山陰号…唯一全区間乗り通せた夜行鈍行(からまつ・はやたまは乗車機会を得ず、ながさきは門司港~香椎間のみ)。1983/昭和58年、大学の下宿(福岡県)から生家(山口県)への帰省時、青春18のびのびキップの2日券利用して[ながさき]で出発、関門トンネル抜けて生家最寄り駅目前で小郡(現新山口)から山口線に入り益田からまだ新進気鋭だった50系鈍行に。出雲市で山陰に乗継ぎ。絶滅寸前だった10系寝台車に乗ってみたくはあったものの…青春18のびのびキップで乗れるのはハザ・ハザシのみ(当時はロザも不可)。米子でDD51が交替、深夜の餘部橋梁ではデッキから身を乗り出して下を眺め(カマ次位のスハフ42307。在来一般型客車はドアが非自動だから走行中でも開閉可能。但し転落の危険性大。若気の至り=当時は大学生=の蛮行)、意外と眠れず京都。後は東海道~山陽~赤穂~山陽~呉~山陽と乗継いで同日夕方生家最寄り駅へ。途中まだ現役だった片上鉄道=赤穂線と立体交差=の列車を眺めたり岡山では115系のトップナンバーに出会ったり、呉線では同じ下宿の後輩に出会ったり…色々あった[旅]だった。今を去ること40年前の昔話。
実は下りに限り福知山駅でだいせんと相互接続しており、一説によると大阪でだいせんに乗り遅れた人が山陰で追いついたという謎エピソードまであるらしい。
地元北海道には〔からまつ〕が有りましたな😊
はやたまに乗って通学してましたよ。早朝補習受けないと高校卒業できないって言われて😭
高校時代は山陰本線を利用していたけど、何でもない駅でもホームが長いのが気になってた。今はラッシュ時でも4両なのに。特急や急行が止まるような駅ならわかるけど。この理由ってこの山陰号なのか?あるいは昔の駅ってそういうもん(そのまま今も使ってる)なのか?
昔の客車時代の普通列車は編成が長くて10両編成とか当たり前に走ってたやたら長いホームはその頃の名残
急行 鷲羽 (夜行)をやってください…新大阪を23時半頃出発して深夜2時頃に宇野に到着する中途半端な夜行だったように思う
宇野で宇高連絡船と接続し、高松で徳島や松山とか高知へ向かう列車に乗るための夜行列車だったはず。
ヨンナナサンダイヤ改正までは普通列車の宇野行きもありました。ヨンナナサンダイヤ改正でこの夜行は季節列車の急行鷲羽にかくされていて475系電車に変わり、急行玄海と共通運用になりました。どちらも高松では約1時間待ちでしたが、高松では急行うわじまとあしずりに、徳島行き普通列車がホームに入線していました。
山陰号、学生時代に主に上りで何度か利用しました。行商のおばさんがいっぱい乗ってました。というかほとんどそうだったかも。国鉄末期にさすがにもうそろそろ廃止されるんじゃないかと思ったので出雲市から寝台車に乗りました。そしたら寝台客は私たった一人。それも大雪のため福知山駅で運行取りやめになったので寝台料金は払い戻してもらえました。
昔過ぎて記憶が曖昧だけれど 「ながさき」と「はやたま」には乗ったことがある(多分)。山陰号は全く機会がなかった。
普通列車に名称があるのはマルスのために名前がないと寝台券が発券できないからね。
そうよね、みどりの窓口で発券ができないから。。が答え❤
🤔そう云えば、日旅サンと旧国鉄の苦労の賜物「マルス」システム…🙃紫色スタンプ押印(縦長の)指定席券〜発券方法が度々変わり、横長タイプ〜磁気タイプ〜チケットレスetc…😮💨やゝジェネレーションギャップを感じ乍ら……🚃旧き良き?国鉄時代の「夜行長距離普通列車…」逆に、今と成っては「贅沢な列車旅」では無いだろうか。🙇
動画の中で説明があることをコメ欄で知ったかぶって述べる意味とは...?
夜行バスも安くていいけどぐっすり寝れないしちゃんと横になって寝れる寝台列車復活して欲しい!今の高額旅行列車四季島じゃなくて普通寝台でいい
今だと客単価¥30,000はないと😵
戦前は山陰本線の急行は大阪―大社間の昼行しか無く東京方面との接続がイマイチ(戦後座席車の一部を連結して直通したが)、京都ー出雲方面の夜行ドン行は特別急行「櫻」との接続がよく東京からの出雲参拝によく利用されたはず。
こういう列車があったのは、地元、線区の事情もあるだろうけど、やはり「国鉄」だからなのか。
10系寝台に乗りたかった…
これでは乗れなかった(18きっぱーの為)が「能登」で唯一乗った😁
うぉ〜!最初に写されたのは園部駅や‼️
上り下りとも学生時代に乗りました。復活してほしいですね
誰が使うねん
京都発なら東海道新幹線に接続していたから東京からも乗れますね。でも寝台特急やくもの方が便利ですが
それでもどこかに夜行普通列車が走っておれば私は乗りに行きたいですね。鉄道マニアですから北海道へ行くのに、今も飛行機に乗らないで関西から鉄道できます。(ただし、新幹線です。鈍行列車ではないです。)地元の駅で神戸市内から稚内行きのような切符を買う人、見たことないとよく言われます。
🚃追記⇒何箇所かの途中駅で「大休止」…当時から、酔払い〜通勤通学etcと、「夜の顔or朝の顔」、そして、「山陰地方の朝未だき」が味わえて……今の「乗り鉄・辯鉄」の基礎?が出来たのでした🤔苦笑😏
青春18きっぷは普通列車で寝台料金追加しても利用できません。
だからか、「ムーンライト八重垣」ぢゃトラブルがあったらしく、後に外された。
懐かしい「山陰」廃止直前の1984年の春に乗車しました。学生時代でしたから寝台車ではな12系の方でした。青春18きっぷで名古屋→下関→鳥取→京都→和歌山→紀伊勝浦→亀山→名古屋というルート0泊3日の強行軍でした。この「山陰」18きっぷシーズンだったせいか結構乗車率高めだった記憶があります。同年代の学生グループと仲良くなったり...楽しい思い出です。
ムーンライト八重垣ってあったよね
からまつが抜けてますそれはおいといて山陰は18切符誕生まで残ったので、下夜久野ターンをみんなやってました
国鉄が郵便輸送廃止時点の話ではないかと。からまつは一足早く廃止されました...
🚝山陰夜行「山陰」…約50年以上前、都会の高専に合格してから、帰省時には必ず利用しました。🤔一時、三等制時代の「旧・二等車」が一両連結(寝台車が二両から一両に、代わりに…確か指定席?だったかな??)されてました。…座席モケットが盛り上がリクッションが効いて、暖房も暖かく、倉吉駅迄爆睡しましたよ~笑🙃偶に、京都の女子大生さん逹と、オヤツ交換や、ゲームで遊び🙂大休止で、夜久野蕎麦を一緒に購入し、車内で食べまし。😏皆様、香住・鳥取…で下車、そう! 最後に残った女子大生は私の姉で、朝一番の路線バスで実家まで帰りましたな~😉
夜行の鈍行、時刻表見てるだけでも楽しい😄
長距離+夜行+寝台+客車+普通=ロマンの塊
いぇーい!
DD51の駅でるときの『ガタン』の衝撃、思い出す〜😂
@@ギンガ号 ヘッドマークのサムネ、いいすね。
あざっす🙏
「山陰」「はやたま」「からまつ」「ながさき」、
当時旧国鉄末期の、愛称名付き寝台車連結の夜行鈍行四天王だったね☝️😊
確か廃止になる前年の年末12月に初乗りで全区間乗り通したなぁ…✨
その時既に座席車は旧型客車ではなく12系に置き換えられてたが…
寝台車に乗るお金が無かったのと、あの狭い三段寝台に寝るのはサスガにキツかったから…😅
2:35 そうそう!途中、真夜中の福知山で確か20分以上の停車時間があって、
なんとリヤカーに山積みに載せた駅弁屋さんがホームの上に売りに来てたのには感激した😭👍✨️
当時の深夜の福知山駅の名物だったらしい🍱✨️
山菜弁当🍱とお茶を買って一人占めにした12系のボックス席で夜汽車に揺られながら駅弁頬張ったのは、もう二度と味わえない至福の贅沢な時間だったよなぁ…(´- `*)🌃✨️
はやたま(53-10までは南紀)に関しては後に165系で無名の夜行列車として平成の時代まで運行していました。新宮では5:00からうどん屋が営業していました。全4本のうち関西発が2本とは羨ましい話、関東だと大垣行き153系と長野行きと長岡行き共に115系の座席車だけでした。
高校の頃(五十年前)松浦線C12撮影旅行に高千穂・桜島で東京から博多まで乗車したけど、夜行列車は面白いねー。あの楽しみはそうどうないねー。
鉄道マニアの一言。過去は良くて現代は悪い。という話になりがちですが、私も夜行列車が大好きです。急行銀河には何度もお世話になりました。在来線が大好きで、わざわざ東海道本線の臨時急行にも乗りました。古い車両に当たると座席のシートも壊れていて、床に古いのを並べて寝たものです。おかげで床ずれに悩まされました。(脊髄損傷ですので。)それでも在来線が好です。駅弁販売駅では窓を開けてお茶と弁当を買うのも楽しみでした。短い停車時間にホームに降りて慌てて間違えてサンプル品をもって乗り込んで恥ずかしい思いをしたこともありましたが。今は懐かしい思い出です。
@@新谷直人-x5u そうですね。マニアは鉄道を“勝手に”楽しんでるので、公共交通機関の意義とか役割と経費とかをどうこうする訳では無い(たまにそういう人も)ので、減ってしまう、無くなってしまう、という状態の感想を言ってるだけだから。
福知山もご多分に漏れず駅弁🍱自体なくなったからね😵
ワイは深夜ではないが、浜田→大阪の726列車完乗時に福知山ランチを買った事はある😉
おおらかな時代だったな。
今よりずっと時間がゆったり流れていた。
現代人は真の豊かさを履き違えた。
同感です。
無理してでも乗っておいてよかった。
一夜の友だったオハネフ12 42が模型化されて胸熱
😉全く、激しく同意します。 🍱点から点を移動するにシテも、贅沢な船旅程では無いですが、旅情豊かで有った気が致します🤔 此等を考えますに、均一orミニ周遊券は、当時の最強アイテムでしょうか??😏偶に、あの頃は……と、回想に浸るのも、乙なモノでは無いかと!?🙇🏻
なら、東京~大阪歩け😉
山陰ワイド周遊券と共に、何度もお世話になりました☺️ 寝台も2回利用しました❤️ 忘れられない列車です😃 ありがとうございます😆💕✨
「山陰」には、旧客時代と12系時代に乗ったことが有ります。
京都から乗った時は、お盆の帰省時期だったせいか、通路いっぱいの混雑で大垣夜行並みでした。
昔の鉄道は、ロマンがあったよね。
東京~金沢2時間半とか、今の方がいいが😉
いくらロマンだ旅情だノスタルジーだの郷愁だのと言ったって、鉄道は移動手段
A地点からB地点まで何かを輸送するのが目的
それ以上でもそれ以下でもない
ホントそれ!ロマンを感じるなら、東京~大阪2週間かけて膝栗毛しよう!😋
懐かしいです。昭和54年冬に京都から安来まで乗車しました。寝台列車に乗るのが楽しみでしたが乗ってみるとキツかった。客車3段式B寝台で、狭くて暖房は効きすぎの上段で、初めての寝台もあってか眠れませんでした。座席車も探検しましたが満員でしたね。驚いたのは古い一部車両の出入口が自動ドアではなく、むき出しで扉がなく鎖で通せんぼをしているだけの形式でした。わざとその場に暫く立っていましたが、非常に怖いなぁーと当時は思っていました。今や味わえない昔の思い出です。
もう乗る事はありませんが、今でも夜汽車は大好きです。
1月の旧客車でスチーム暖房、暑すぎて眠れなく夜景をドア半開きのデッキに入りビタってたのは良い想い出❤
山陰号は両端での最終・始発列車や荷物列車としての役割、さらには長距離を旅行される方のために寝台車まで連結と言う夜行オブ夜行とも呼べる列車でしたね。
新聞輸送を含んだ荷物輸送の衰退がこの列車の寿命を決めたものと思います。
今は新聞自体も衰退している。
自分自身は平成になってから生まれた者でこの時代を知らない人間なのですが、祖父が教師をしていた頃帰りにこの列車を利用した事があり、亀岡で降りるはずが寝過ごして福知山まで連れて行かれた話はよく笑い話で聞かされていました。
待ってました~‼️
「からまつ」「ながさき」「はやたま」が取り上げてくださったので、いつピックアップしてもらえるかと期待していました。😅
高校生だったかな、大学生になってたかな、昭和50年代に乗りに行きました。これも、はやたまも。
その思い出が作れた私は、幸せな世代だと思います。
旧客の最後くらいに良く乗りました。青春18きっぷが出始めでもあり、夜勤明けで都内を出て東海道を乗り継ぎ、京都からは山陰号で翌朝は倉吉線・木次線などローカル線を回り
帰りは大垣発東京行きで、そのまま仕事へ。休みのたびにそれを繰り返してました。もちろん全部座席利用。若い時の良い思い出でした。
嘗ては日本中のたくさんの路線で夜行鈍行列車が当たり前のようにあった。幹線であればそれこそ休み時間がないほどに列車が設定されていて、今のような終電という概念は希薄だったように思う。普通列車の長距離列車では寝台連結も結構見られましたが、寝台を利用するのは当時ではそれなりに裕福な人がほとんどで、一般人は普通座席車のボックス席でせいぜい脚を伸ばして寝られるくらいでした。あのノンビリした時間がとても懐かしいです。
宍道駅にて山陰号の寝台車を見学(という名の侵入)。三段のベッドは硬そうだったけど、それでも
名前を持つ普通列車に相応しいちょっとしたプレミアム感がありました。
そんななか車掌さん登場。
まだ寝ている人がいるからねとやんわり窘められたのも今ではよい思い出です。
あの狭い3段式寝台、昭和50年代の値段は3500円。当時の貨幣価値だと、設備の割にはかなりの割高感だったな。
親父に連れられて田舎へ帰省のとき何度も乗ったなあ。ジングルも覚えてるよ。乗客は喫煙しまくりで客車は煙たくて。椅子は固くて。しかし楽しかった
大人になったら絶対乗ってやると思ってたが、大人になる前に廃止😹
コッペパンさんてお若いんだよね…. それなのにうまくまとめますねぇ。お見事です!😊
そういえば日豊本線にヨンナナサンダイヤ改正まで寝台車付き普通夜行列車がありましたね!ヨンナナサンダイヤ改正で急行みやざきになりゴウマルサンダイヤ改正で急行日南上下の4,号になりました。また寝台車はなかったけど門司港発博多、熊本を通り肥薩線吉都線経由で都城行きなんて列車もありました。いずれも荷物や朝刊を輸送していました。
@@もりわききくお 吉都線を走る夜行列車に乗りたかったなぁ。今乗りたいと思っても乗れない。
実際にに乗った人間でないと分からないことがあるな、やっぱり
この頃、乗らなかったことを激しく後悔している
私が84年に乗った時には座席車は12系になっていたけど、スハネ12を満喫しました 狭くて三段だったけど朝洗面台で歯を磨いていると嗚呼やはり鈍行でも急行でも特急でも寝台車は寝台車!いいなって思ったものです
そう言えば山陰と言う夜行普通列車ありましたね。他に急行だいせんも旧大社線があった頃大社線内が寝台車連結の普通列車でしたね。
『はやたま』じゃなく『南紀』も含めて全部乗った。
タイムスケジュールいいね!停車時間長いから駅弁くらいかえたのかな?
深夜20分以上停車の福知山駅で、停車ホームに駅弁をリヤカー山積みに載せた駅弁売りがあり、0時過ぎにも関わらず、駅弁が飛ぶように売れて、当時の深夜の福知山駅の名物だったそうです😊
この「山陰」だけでなく、当時の「出雲」や「だいせん」等の福知山停車の夜行列車の乗客相手に商売されてたようで、私も山陰乗車した折、当然弁当とお茶を仕入れました…σ(^-^;
初めて乗った夜行列車でした、また初の旧客でもありました。
長崎あたりと和歌山、北海道にもこんな普通の寝台付き夜行あった記憶
[出雲],[だいせん],[山陰]…全て乗車したけれど,地元の人(松江市)は[東京夜行],[大阪夜行],[京都夜行]と呼んでいました.
素晴らしい配信をありがとう。
これに兄と乗ってはじめての夏の甲子園観に行った思い出
出雲市から京都まで、普通寝台『山陰』に乗ったよ。もちろん、オハネフ12で寝台幅が激狭だった。笑
この普通列車「山陰」を取り上げて貰い有難うございます!私が中学or高校の頃、周遊券を使い利用しました!往路は京都→倉吉、復路は鳥取→京都でしたね!睡眠は列車内でした‼️
懐かしいです。はじめての一人旅で京都から出雲市まで乗りました。最初は席が空いていなくて通路に座っていましたが途中で運良く席が空いて座ることができました。まだ客車のドアが手動でしたね。ほんとは寝台車に乗りたかったけど。昭和51年、私が高校一年の夏休みの時でした
山陰号は小学校に上がる前から何度も乗りました。無くなる直接の昭和59年8月、寝台にも乗っておこうと、オハネフ12 2012に乗りました。
上りの京都到着と同時に発車ベルがなり入れ替わりで浜田行き833列車が出るのも壮観でした。
対九州の優等寝台列車が昼寝してる向日町の隅っこで
クモヤやひとつ目DD13達と並んで寝てたのがこの列車でした
昔のNHK新日本紀行でも紹介されていましたね
1982年3月春休みに乗車しました。深夜福知山駅からの乗車でしたが、改札前KIOSKが営業していて夜行列車の需要が
多かったんだと思います。(地域の新聞輸送の使命も兼ねていた。)3段寝台は貧乏旅行だったので高嶺の花で、
もっぱら旧客のボックスシートでした。若い人たちで混雑していました。翌朝車内でウオークマンを聞いている人が
多かった記憶があります。
今では考えられないけど同じ山陰本線で、米子→博多の夜行急行さんべ(寝台連結)とかもありました。
この後上越新幹線開業時のダイヤ改正で急速に旧型客車を使った長距離列車が淘汰され乗り鉄から離れて
しまいました。
ヨンナナサンダイヤ改正までは下関まで運行していました。また10系は寝台車だけで座席車は旧型客車だった。山陰が生き残った要因は全体に言えることですが、荷物の役割が大きいです。荷物は一人では歩けませんので長距離普通列車が成り立っていました。荷物列車を仕立てるだけの需要はないので!また山陰の他にはからまつや南紀や、ながさきなどもありました。なお山陰はヨンサントウダイヤ改正までは、1等車(後のグリーン車)を連結されていた。そして夜行だいせんも夜行さんべももともとは普通列車で急行格上げされたものです!京都夜行や大阪夜行は大社夜行と呼ばれていました。
新聞もありますね。
大阪や京都で印刷された新聞を山陰各地まで運ぶ役割もありました。上り列車は新聞がないので下りよりも通過駅が多かったのです。
プロ野球の結果は途中まで、夜中に特ダネが入ると一面が差し替えられ、大阪近辺の1面とは全く異なるものになっていました。
新聞が各県で印刷できるようになったことも夜行列車廃止の一因かもしれませんね。
そのとおりですね!特に夜行列車は特急も含めてその背景はありました。寝台特急格上げ直後の北星にはワサフ8000型が20系に連結されていたりもしましたから!
さすがに国鉄時代は古き良き時代、昔を知っている。懐かしいです。時代が進んで、さて、便利になったのか。不便になったのか。何ともわかりません。言えるのは前を向いて歩くことです。
そうですね。懐かしんでもいいけれど、廃止するな、昔に戻せと、無条件に叫ぶのは、良くないですね。
「からまつ」「はやたま」「ながさき」「山陰」と、これで国鉄4大夜行寝台鈍行列車コンプリートですね。
今は激狭B寝台3段式の料金でそれなりのホテルに泊まれるいい時代
北斗星ロイヤルよりこちらのオハネフ12 42での一夜の方が印象深い
こんなロマンや旅情が具現化したような列車、乗ってみたかった…😢
10系の現役車なんて見たこともありません。
大人になる前に国鉄からJRに。合理化や利益の追求で次々と味のある列車や車両が消えてゆき、ようやく大人になって自由に列車の旅を楽しめるようになったと思ったら既に24系25型末期でした。
懐かしの「山陰」1981年の夏に、京都から出雲市まで 乗り通しました。行きは 旧型客車の狭い席に座り、背もたれも 垂直だったので、乗車中 ほぼ2時間ほどしか寝られず、次の朝 出雲市に着いて、ふらふらになりながら 大社線で出雲大社まで行ってお詣りし、そのあと 日御碕へ行きました。そして その日の出雲発の「山陰」で帰ったのですが、疲れていたので 寝台券を購入しました。旧型3段式B寝台で 幅は50cmほどしかなかったのですが、あまりに疲れていたのか 寝台に横になると、そのまま京都に着くまで、目が覚める事なく づっと寝ていました。今となっては いい思い出ですが、もう こんな列車の旅は 経験できないでしょうね。
一回だけ下りでオハネフ12にお世話になりました、普通列車だから発車時の衝撃とか気になるかと思いきや意外と寝れました。早朝の鳥取で下段客が降りたので寝台を解体してゆったりと座席も堪能しました。
山陰は廃止というよりだいせんに吸収され、福知山までは終列車が運転されていたかと記憶します。
はやたまの方が12系座席のみ新宮短縮の名無し各停として残り、165系化片道になり、
更に紀伊田辺新宮は週末のみ臨時になるなど徐々に弱体化され、
最後は紀伊田辺までの終電にされたとしぶとかったです。
国鉄時代は各地で夜行鈍行が多く走っていました。ミッドナイト、はやたま、ながさき、などなど
「ミッドナイト」はJR化後だが😉
なつかしいですね!上りでは、嵯峨野線の始発列車、園部4:44発→京都5:25着220Mがその名残ですね。
こんな朝早くから、列車が動くのは、この区間では今でも需要があるという事かもしれませんね!?
中学生の時、1回だけ乗りました。山陰地方では名の知られた列車で京都夜行と呼ばれていました。
私が乗ったのは12系に置換えられた後でした。
ガキンちょのころ時刻表みて憧れもだえていた思い出
ムーンライト八重垣にも寝台車、連結されていました。1998年の夏頃だったでしょうか?私は青春18きっぷで夜行連泊中でしたので、座席夜行席でした。寝台に乗っておけば良かったとも思いました。出雲市まで乗ったような。
寝台急行だいせんなら乗りましたよ〜。🛤️
普通列車とはいえ、Bネは寝台券の他に別途普通乗車券が必要な為、「八重垣」では青春18族が乗車券不携帯でトラブル絶えずに早々に寝台車は外されたと聞く。
ワイは18きっぱー中にわざわざ普通乗車券🎫買って乗った😁
座席車だと特に深夜バスみたいに身体バキバキになりそうだけど、乗車経験ある人には楽しい旅の思い出になったでしょうね
繁忙期以外は1ボックス占有出来たので下手な寝台より快適
山陰懐かしいなあ…子供の頃に親父と出雲大社や大山に旅行した時に寝台に乗った記憶がある
80年くらいだったかなあ、ほぼ覚えてないですが寝台で聞こえてくる機関車のジジジ…という音が記憶に残っています
10系B寝台は、20系B寝台にも引き継がれた幅52cm・3段式というスタイルでしたっけ。
なお、寝台内の読書灯は、オレンジ色の白熱灯だったそうです。
山陰号の10系寝台, 1983年だったかな, 乗りましたよ. 懐かしい.
懐かしや~。ありがとう1981.1月。4月から中学生になるので大人料金になるとのことで鉄オタ、ダチと横浜から山陰ミニ周遊券で松江まで乗った。保津峡、旧餘部鉄橋をオハ47のデッキから見てました。帰りは20系『急行だいせん』ナハ21で大阪、弁天町の交通科学館と梅小路機関車館により0系新幹線、ビュッフェでカレー。スタンド・バイ・ミーばりの小6.1月でした😂
小6、男児はカバンに目覚まし時計を入れてました😅
山陰号の10系寝台、関東に行く際、ブルトレ出雲の寝台が満席で取れなかったため乗ったことがあります。京都に5:24着、京都から始発の新幹線「ひかり」に乗り継げるので、以外に便利でした。寝台料金は昭和54年当時3,500円でした。
国鉄からJRに変わるとき、この寝台付き普通列車に乗ってしゅうてん浜田まで通学していました。
出雲ドメとありますが、長い客車と浜田方向の先頭に寝台車がありました。
国鉄時代は長い客車でゆったり座れましたが、JR,になっていきなり2両編成となって混雑した記憶があります。
通学で乗っていた列車はこの山陰号ではなかったのですね。
愛知北部民です。寝台普通山陰号は時刻表で見た事はありましたが乗車は出来ずじまいでとても残念でした。後のムーンライト八重垣も1回乗っただけで終了しました。サンライズ出雲は意外にも乗車経験ゼロなので機会があったら乗りたいです。
山陰号に乗って、廃止間際の倉吉線に乗りに行った。😅
倉吉線も、旧客だったような…遅かったもんなあ。
私も山陰の寝台車に乗りました。
3段式の極狭ベッドでしたが、
全国の国鉄路線走破中だったので、
出雲市までぐっすり眠れました。
下りに4回、上りに2回乗ってました。
「寝台鈍行」というパワーワード。
指定席付普通妙高号を遥かに凌駕する。
京都駅近辺で仕事していた時に園部から通っていた先輩がこの列車で帰りに寝過ごしてしまい、城崎で目覚め、翌日は昼に出勤してきたのを思い出しました。
山陰線鈍行夜行に初めて乗ったのは,1969年3月22日(切符が残っています)。この時は,京都ー鳥取間の利用でしたが,その金額は乗車券860円,寝台券800円でした。懐かしいですね。普通夜行は寝台ではなくても,その後も良く乗りました。
末期の12系時代、2〜3回乗ったなあ。10系寝台に乗りたくて10時打ちして下段取ったのが懐かしい。
12系に変わって普通車はエアサス、B寝台車はコイルばねというおかしな現象になりました。
四国の急行とかでは普通車がエアサスのキハ57やキハ65でグリーン車はコイルバネのキロ28とかもあったかと。(´Д`|||)
急行紀州には普通車がキハ57とキハ65型でグリーン車がキロ28型といった編成がありました。
1982年4月乗車。座席車はまだ旧型客車。当夜の寝床オハネフ12 42が一番くたびれていた。
でもワクワクした、楽しかった。
30年後の北斗星ロイヤルも、オハネフ12ほどの印象はなかった。
夜間に移動したいという需要は今もかなりあり、夜行バスはかなりの人気ですが、鉄道でそれを行うには輸送力過剰だし線路の保安や夜間の駅業務も含めると経費が掛かり過ぎるということなんでしょうね。
KATOの夜行「山陰」セットが発売されたタイミングであげるなんてタイムリー...
高校生の時、京都から出雲市まで乗りました。これが、最初で最後です。山陰号です
昭和58年の春に徳島から「ながさき」佐世保行き、「山陰」京都行、「大垣行き夜行」で3泊4日の「青春18きっぷ」の旅をしました。懐かしい思い出です。いずれの列車も満員で、デッキや通路で寝ていた人もたくさんいました。
故種村直樹さんと有志の仲間たちが昭和55年3がに当時の国鉄平戸口からひと筆書きで東根室駅を目指す旅を著書にしていますが、ながさきはじめ山陰、中央西線夜行、青函連絡船夜行と最後はからまつで行っておられます。これは、常磐線で接続が良くなったためにできたことです。なお種村直樹さんは全てにオール座席車で過ごしておられて、改札の外には全く出ないことにも挑戦されていました。今ではそもそも夜行がないので不可能ですが!
列車名がついたのは、からまつやはやたまと同じくマルスのためなんでしのうね。
当時、東京発大阪行きの普通列車があった。客車はB寝台車無しの普通車両のみ。夜通し走って午前中に大阪に着いた。
懐かしいです。
かつて走っていた中央東線の長野から新宿行き夜行普通電車も10両中2両は荷物電車やったな。
新宿到着がやたらと早く午前4時台やった。
懐かしい地上ホームの福知山駅
昭和50年代中盤、この山陰号に京都から米子まで普通車に乗りました。京都出発時点では各ボックスはほぼ埋まるくらい、まぁ結構乗客いましたね。
07:21 かなり昔のダイヤでも面影が意外と残ってるもんなんだなぁ、
山陰号…唯一全区間乗り通せた夜行鈍行(からまつ・はやたまは乗車機会を得ず、ながさきは門司港~香椎間のみ)。1983/昭和58年、大学の下宿(福岡県)から生家(山口県)への帰省時、青春18のびのびキップの2日券利用して[ながさき]で出発、関門トンネル抜けて生家最寄り駅目前で小郡(現新山口)から山口線に入り益田からまだ新進気鋭だった50系鈍行に。出雲市で山陰に乗継ぎ。絶滅寸前だった10系寝台車に乗ってみたくはあったものの…青春18のびのびキップで乗れるのはハザ・ハザシのみ(当時はロザも不可)。米子でDD51が交替、深夜の餘部橋梁ではデッキから身を乗り出して下を眺め(カマ次位のスハフ42307。在来一般型客車はドアが非自動だから走行中でも開閉可能。但し転落の危険性大。若気の至り=当時は大学生=の蛮行)、意外と眠れず京都。後は東海道~山陽~赤穂~山陽~呉~山陽と乗継いで同日夕方生家最寄り駅へ。途中まだ現役だった片上鉄道=赤穂線と立体交差=の列車を眺めたり岡山では115系のトップナンバーに出会ったり、呉線では同じ下宿の後輩に出会ったり…色々あった[旅]だった。
今を去ること40年前の昔話。
実は下りに限り福知山駅でだいせんと相互接続しており、一説によると大阪でだいせんに乗り遅れた人が山陰で追いついたという謎エピソードまであるらしい。
地元北海道には〔からまつ〕が有りましたな😊
はやたまに乗って通学してましたよ。早朝補習受けないと高校卒業できないって言われて😭
高校時代は山陰本線を利用していたけど、
何でもない駅でもホームが長いのが気になってた。今はラッシュ時でも4両なのに。特急や急行が止まるような駅ならわかるけど。
この理由ってこの山陰号なのか?あるいは昔の駅ってそういうもん(そのまま今も使ってる)なのか?
昔の客車時代の普通列車は編成が長くて10両編成とか当たり前に走ってた
やたら長いホームはその頃の名残
急行 鷲羽 (夜行)をやってください…新大阪を23時半頃出発して深夜2時頃に宇野に到着する中途半端な夜行だったように思う
宇野で宇高連絡船と接続し、高松で徳島や松山とか高知へ向かう列車に乗るための夜行列車だったはず。
ヨンナナサンダイヤ改正までは普通列車の宇野行きもありました。ヨンナナサンダイヤ改正でこの夜行は季節列車の急行鷲羽にかくされていて475系電車に変わり、急行玄海と共通運用になりました。どちらも高松では約1時間待ちでしたが、高松では急行うわじまとあしずりに、徳島行き普通列車がホームに入線していました。
山陰号、学生時代に主に上りで何度か利用しました。
行商のおばさんがいっぱい乗ってました。というかほとんどそうだったかも。
国鉄末期にさすがにもうそろそろ廃止されるんじゃないかと思ったので出雲市から寝台車に乗りました。
そしたら寝台客は私たった一人。
それも大雪のため福知山駅で運行取りやめになったので寝台料金は払い戻してもらえました。
昔過ぎて記憶が曖昧だけれど 「ながさき」と「はやたま」には乗ったことがある(多分)。山陰号は全く機会がなかった。
普通列車に名称があるのはマルスのために名前がないと寝台券が発券できないからね。
そうよね、みどりの窓口で発券ができないから。。が答え❤
🤔そう云えば、日旅サンと旧国鉄の苦労の賜物「マルス」システム…🙃紫色スタンプ押印(縦長の)指定席券〜発券方法が度々変わり、横長タイプ〜磁気タイプ〜チケットレスetc…😮💨やゝジェネレーションギャップを感じ乍ら……🚃旧き良き?国鉄時代の「夜行長距離普通列車…」逆に、今と成っては「贅沢な列車旅」では無いだろうか。🙇
動画の中で説明があることをコメ欄で知ったかぶって述べる意味とは...?
夜行バスも安くていいけどぐっすり寝れないしちゃんと横になって寝れる寝台列車復活して欲しい!今の高額旅行列車四季島じゃなくて普通寝台でいい
今だと客単価¥30,000はないと😵
戦前は山陰本線の急行は大阪―大社間の昼行しか無く東京方面との接続がイマイチ(戦後座席車の一部を連結して直通したが)、
京都ー出雲方面の夜行ドン行は特別急行「櫻」との接続がよく東京からの出雲参拝によく利用されたはず。
こういう列車があったのは、地元、線区の事情もあるだろうけど、やはり「国鉄」だからなのか。
10系寝台に乗りたかった…
これでは乗れなかった(18きっぱーの為)が「能登」で唯一乗った😁
うぉ〜!
最初に写されたのは園部駅や‼️
いくらロマンだ旅情だノスタルジーだの郷愁だのと言ったって、鉄道は移動手段
A地点からB地点まで何かを輸送するのが目的
それ以上でもそれ以下でもない
上り下りとも学生時代に乗りました。復活してほしいですね
誰が使うねん
京都発なら東海道新幹線に接続していたから東京からも乗れますね。でも寝台特急やくもの方が便利ですが
それでもどこかに夜行普通列車が走っておれば私は乗りに行きたいですね。鉄道マニアですから北海道へ行くのに、今も飛行機に乗らないで関西から鉄道できます。(ただし、新幹線です。鈍行列車ではないです。)地元の駅で神戸市内から稚内行きのような切符を買う人、見たことないとよく言われます。
🚃追記⇒何箇所かの途中駅で「大休止」…当時から、酔払い〜通勤通学etcと、「夜の顔or朝の顔」、そして、「山陰地方の朝未だき」が味わえて……今の「乗り鉄・辯鉄」の基礎?が出来たのでした🤔苦笑😏
青春18きっぷは普通列車で寝台料金追加しても利用できません。
だからか、「ムーンライト八重垣」ぢゃトラブルがあったらしく、後に外された。
懐かしい「山陰」
廃止直前の1984年の春に乗車しました。
学生時代でしたから寝台車ではな12系の方でした。
青春18きっぷで名古屋→下関→鳥取→京都→和歌山→紀伊勝浦→亀山→名古屋というルート0泊3日の強行軍でした。
この「山陰」18きっぷシーズンだったせいか結構乗車率高めだった記憶があります。
同年代の学生グループと仲良くなったり...楽しい思い出です。
ムーンライト八重垣ってあったよね
からまつが抜けてます
それはおいといて山陰は18切符誕生まで残ったので、下夜久野ターンをみんなやってました
国鉄が郵便輸送廃止時点の話ではないかと。からまつは一足早く廃止されました...
🚝山陰夜行「山陰」…約50年以上前、都会の高専に合格してから、帰省時には必ず利用しました。🤔一時、三等制時代の「旧・二等車」が一両連結(寝台車が二両から一両に、代わりに…確か指定席?だったかな??)されてました。…座席モケットが盛り上がリクッションが効いて、暖房も暖かく、倉吉駅迄爆睡しましたよ~笑🙃偶に、京都の女子大生さん逹と、オヤツ交換や、ゲームで遊び🙂大休止で、夜久野蕎麦を一緒に購入し、車内で食べまし。😏皆様、香住・鳥取…で下車、そう! 最後に残った女子大生は私の姉で、朝一番の路線バスで実家まで帰りましたな~😉