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実は「関ヶ原の役」は豊臣家中の内輪もめ説は説得力ある。(家康が秀吉の義弟で、豊臣姓持ってるてのは意外とスルーされてる)
豊臣朝臣徳川家康
@@SirHumphryDavy1 違うよ豊臣朝臣羽柴家康だよ
信長・秀吉・家康・三人の共通目標には、「自分が天下人になる」と同時に「戦のない世を実現する」があったのだと思います。そしてその実現のためには、まずは自分の力で天下を抑える、次には継続できる体制を整える、という事でしょう。秀吉は自分(達)の理想の継承者ナンバーワンは家康だと判断していたのだと思いますよ。個人欲の秀頼にも期待しつつも。淀君の浅慮が豊臣家を滅ぼしたのだと思います。
14:43 一発触発の状態 → 一触即発の状態 ですね。
「おとなしく従うなら安堵するよ」で侵略コストを抑えてたからでは。
従ってくれれば、(ワイが)安堵するよぉ…(´゚ω゚`)
結果論として、信長、秀吉、家康の3人で戦国時代を終わらせ、戦いのない世の中ができた。秀吉はいつかの時点で、それを分かっていた。
殺す機会を逸ししてしまって、なら最大の敵を身内という最も身近な存在にしてしまおうという発想の転換が秀吉の恐ろしさだと思う。家康も北条みたいにごねたりしないで、秀吉から最大の譲歩を引き出したことでそれで良しとし、秀吉が生きている間はその中で存在価値を高めることに腐心した。関東行きも家康しか適任がいないという現実の方がでかいだろうし。秀次事件で秀吉個人への不満が生じたこと、朝鮮での各大名の疲弊で大名がとにかく自分の家の立て直しに迫られたことも、豊臣政権の瓦解につながったと思う。
実は家康も豊臣家に対してある程度忠誠心あったんじゃないかな?秀次切腹事件や唐入りで豊臣家のゴタゴタなければ引き続き仕えてたのでは秀吉も実力があり過ぎただけでせめて信忠が生きていれば忠臣のままだったかもね
朝鮮の役敗退や秀次粛清のようなことがなければ、豊臣を支えた大名も多いし家康も簡単には豊臣政権を倒すことはできなかっただろうな
秀吉存命中は政権重鎮として豊臣政権の安定に尽力しているし、臣下として秀吉には忠義を尽くしていた。秀吉が死んだら義理は済んだという思いだったのでは?譜代の豊臣家臣じゃないし。
忠誠心なんてないでしょうが、争っても仕方ないし、義理を果たしてただけかと。忠誠心を持つような関係じゃないし。
柴田勝家はどう説得しても仲間(部下😖)にならないけど、家康は条件次第では可能だった。有能な武将は殺すより 生かして利用した方が良い😊
地震がなきゃ確実に負けて滅ぼされてたけどな、家康は。それが新政権の大老だから、幸運なんてもんじゃない。
@@紳士先輩-f8t 単純に地震で殺し損ねたと言うだけでなく、その後全国統一に当たって東国の経営を任せられる人材がいなかった。東国は独立気風も強く京・大阪とも遠いので内政力と軍事力が必要なため身内ならよいとは行かない。こうした治めにくい東日本を統治しつつ、東国大名を威圧出来る実力+義理堅く主君を裏切った事のない信用できる人物と言えば前田利家と徳川家康しかいない。家康は北条家の取り次ぎだったので東国ではコネクションもあり東国統治を任される事になった。
@@紳士先輩-f8t 単純に殺し損ねた家康が運良く豊臣政権No.2になったという話ではない。東国は独立気風が強く、土着勢力の影響力も強いため安定統治が困難な地域。なので全国統一に当たって取りあえず身内に任せとけばいいと言うわけには行かず人材が不足していた。京・大阪とも遠いので臨機応変の対応力、一揆も多いため内政力も必要、また面従腹背の東国大名を威圧出来るほどの威圧感と軍事的履歴を持ち、また義理堅く主君を裏切った過去のない人物といえば前田利家と徳川家康しかいない。家康は北条家との取り次ぎ役をしていたので東国大名にはコネクションがあり、結果東国支配を任される事になった。そして結果的にパーフェクトな仕事をしている。少なくとも秀吉存命中は右腕とも言える存在だよ。だから徳川を羽柴に改姓させ「豊臣朝臣羽柴家康」として一族待遇にした。
@@紳士先輩-f8t 単純に殺し損ねた家康が運良く豊臣政権No.2になったという話ではない。東国は独立気風が強く、土着勢力の影響力も強いため安定統治が困難な地域。なので全国統一に当たって取りあえず身内に任せとけばいいと言うわけには行かず人材が不足していた。京・大阪とも遠いので臨機応変の対応力、一揆も多いため内政力も必要、また面従腹背の東国大名を威圧出来るほどの存在感と軍事的履歴を持ち、また義理堅く主君を裏切った過去のない人物といえば前田利家と徳川家康しかいない。家康は北条家との取り次ぎ役をしていたので東国大名にはコネクションがあり、結果東国支配を任される事になった。そして結果的にパーフェクトな仕事をしている。少なくとも秀吉存命中は右腕とも言える存在だよ。だから徳川を羽柴に改姓させ「豊臣朝臣羽柴家康」として一族待遇にした。
家康が、忠誠を誓ったのでそれを信じていたのだと思います。彼が天下を取ろうと思ったのは、秀吉の死後だと思います。少なくとも、表面的には、おくびにも出さなかったと思います。
あんまりこういうこと言いたくないけど、徳川家康は天下を取ろうとしなくても天下をとれたんよな。豊臣政権下の徳川家康・・・。大阪城で政権掌握した徳川家康時代は、日本国の大名の内政問題に介入し、それを成功させたことでどんどん大名の影響力をを掌握した。それは人を騙したわけではなく、人を幸福にして感謝された。石田三成が蟄居している間に、徳川家康は、影響力を拡大させた。困ったのは石田三成で、自分のやり方が最善だと思っていたのに、それを家康が楽々と超える政策を打ち出す。・・・時期的に、徳川政権が続いた場合、徳川の力は最強になる。それがわかっていたから石田三成の影響力が残っている段階で大急ぎで、関ヶ原の戦いを引き起こした。最終的には豊臣政権が残っていたとしても徳川家康は最強であり。豊臣秀吉が亡くなった時点で、天下は徳川家康が握った。
秀吉自身も主家である織田家を裏切り、天下を取ったのに?秀吉自身がやってきたことだから、そんなものは戦国の世には通用しないことを知っているよ何とか徳川を排除、それが出来ないなら弱体化させたかったから秀吉は当時、へき地だった江戸に徳川を送ったのだしな
@@御神誉黎 何故、徳川家康のあだ名が「狸親父」だったのか。それは腹のうちの黒い部分を決して、人に見せなかったからだと思います。少なくとも信長と秀吉の前では、忠義者の仮面を一度たりともはずさなかったはずです。彼が少しでも、野心を垣間見せたら、すぐに二人に殺されていたでしょう。秀吉は自分に自信があり傲慢が故に、家康のその忠義っぷりを信じたのです。
日本最大の平野である関東平野のほぼ全域を与えたのは家康に対する誠意だよ。関東諸将を糾合して上方に攻め上ってくる頼朝の例もあるのだから危険人物に江戸を与えるわけない。むしろ背反ただならぬ関東・東北の抑えとして信頼している家康(秀頼の義理の父だし)を江戸に置いたと言うのが正しい。我々はその後家康が豊臣政権を横領した歴史を知っているが、秀吉の認識は危機的状況に陥っても織田-徳川同名を守り通した義理堅い武将だよ。それと、織田が乗っ取られたから自分も乗っ取られると言う前提なら家康一人殺しても解決しないよ。全国の大名の息の根止めないと。未来を知らない秀吉視点だと義理堅い家康より毛利、上杉、伊達などの方がよっぽど危険。
確かに撤退せずにつぶせたし、地震は大被害ではあるが強制的に集め、2、3年で攻めれば良い。やっぱり、家康公朝鮮の時干してたのは考えあったのか?と感ぐります!
普通に考えたら、徳川家康接待の失敗でせっかんされたからってのが王道だと思うけど昔は今とは全く違うくらいメンツとか気にしてた時代だし
家康の接待に失敗したというエピソード自体が後世の創作。
武士ってホンマにヤクザ以上にメンツの世界やもんなぁ
晩年の秀吉は親としての気持ちでは秀頼に後を継いで欲しかったけど、武将としての判断だと徳川が天下をとったほうがいいのを感じてたと思う。秀吉死後もし家康がいなかったらと思うとゾッとする。
これは何とも言えないけど、結果的に豊臣家は家康に滅ぼされてしまうけど未来の事は秀吉には分からないから、家臣筆頭の家康に天下の采配は任せて豊臣家は貴族化する構想はあったかも知れない。秀吉死後、家康が征夷大将軍に任官した時も豊臣家はクレームを入れていないので家康が武家をまとめ、その家康が豊臣に礼を尽くす、といった権力構造を期待していた可能性はある。豊臣政権時は家康は改姓して「豊臣朝臣羽柴家康」になってるから完全に一門衆だしね。
このへんわりと批判されがちな家康を良く見られる風潮がやっと来た気がします。家康は正当な後継者だったし、豊臣家に対してかなり甘かった。
関ヶ原の後、島津征討を無理せずに放置したのと同様、力づくでの徳川制圧は、「費用対効果」の面からしても、得策ではないとの共通の判断か。世界史的に見れば、「大航海時代」のど真ん中。秀吉は、攻められる前に攻めて行く事を選択し、家康は攻められない国内体制を選択したと言う事か。
当時、秀吉の直轄領はそれほど大きくなく、秀吉の手腕で日本をなんとかまとめていた感じですから。家康は有能な部下として働かせていたのでは。織田信雄が有能なら日本をまとめていたはず。秀頼の取り巻きが有能でないから家康が天下を狙ったのでは。秀吉が亡くなった後、伊達政宗、黒田如水、前田利長等、まだ天下を狙う人がいましたからね。それをまとめるのはとても大変な事だと思います。
頼る武将が、家康さんしか居なかった!
天正大地震で家康を叩く機会を逸した、に一票。
そりゃ秀吉生前は東国を任せられて、秀吉死後の政権運営と秀頼の後見人を任せられる人物なんて家康しかおらんからなぁ
有能な蒲生氏郷が若くして死んだのが痛かったね。
@@紳士先輩-f8t 蒲生も急激にデカくなったから家臣団にまとまりが無かったりしたので関東の家康の存在は大きかったり…
秀頼の後見人だとしたら、秀頼はその後見人に難癖をつけられて滅ぼされた事になります。この事が秀吉に分かっていれば殺していたでしょうが、家康は律儀者を装っていたため本性を見抜けなかったのでしょうね。
@@ks5643 秀頼が悪手打ちまくったの無視しちゃいけませんぜ家康は少なくとも関ヶ原時は秀吉遺言体制側ですし、大坂の陣時もギリギリまで大坂方に選択肢を明示しています
@@matukawatositane それは美化しすぎでしょw秀吉が死んだ直後からすでに秀吉の遺言を無力化するように動いてたんだから。
まだ北条いたし、北条倒しても国人衆とかゴタゴタするだろうから家康という強い人に任せたいよなあ三成とかじゃ無理だし清正は九州だし
最新の研究では、豊臣を滅ぼしたかったのは家康ではなく秀忠だったと言われていますね。家康は豊臣をなんとか徳川配下に取り込みたかったが失敗に終わり、元々徳川に対して反抗的だったタカ派と浪人が結託して戦争に入っていたという流れ。じゃあなんで家康は豊臣傘下から離れたかというと、関ヶ原の戦いの少し前に豊臣公儀から追い出されてます。推測ではありますが、「豊臣傘下として豊臣と徳川を守る」ことに限界を感じ、家を守ることを優先したからではないかと思います。そもそもの上杉征伐も、数ある訴訟の一つを処理しようとしただけの話で、家康の野心とはさほど関係ないのですけどね……
それは家康を良く見過ぎていると思う。あなたのコメントにもある通り、秀吉死後家康は豊臣を上回るために動いている。
@@shangtian-i3c そこは難しいバランス。何もしなければ権力を削られるし、生き残りを考えれば政権内の権力を強化して与党を形成しなければならない天下の野望があるかないかに関わらず権力中枢に居続けるためには一方通行
家康の心の中は分かりませんけどね。ただ、秀吉存命中は後に敵対する石田三成とも良好かつ協力して内政や大名間の調整に尽力してますし、豊臣政権の安定のためにそれこそ全力を尽くしています。秀吉も心強かったはず。
野心あるなしにかかわらず、先人と違う形での存続を目指すと乗っ取りに見られるのは仕方ないこと。鍋島とかもそう。
ifを言っても仕方ないが、秀吉は秀次や秀秋を処分せずに秀頼が成長するまで引き継がせれば豊臣政権も家康も動かず安泰だったかもしれないですね
ルー大柴
元々、信雄は後継者候補に名も上がらなかったそうです。理由は無能だったから。本能寺の変の後、意味も無く安土城を放火したりで実力も弟の信孝より下に見られ「三助殿のなさること」と馬鹿にされてたそうです。
無能と言う評価は第一次伊賀攻めの惨敗が大きいと思いますが、安土城を焼いたとか通説になってる信雄のアホアホエピソードのほとんどは創作です。また、織田家家督は信忠の嫡子(三法師)が継ぐ事は信長存命時から決まっていた事で後継候補に上がっていないのは当然です。武将としての能力はともかく、激動の時代を生き抜き、結果的に織田家を今日まで繋いでいるので無能ではありません。
幼少期に家康が今川義元から受けた教育が良かったので天下を取るまで成長した?
秀吉の情報収集力というのはかなりのものであったと思う。配下の蜂須賀小六や一門の杉原家次が抱える透破や乱破のを野に放ち、的確な収集を行っていたとか。だから小牧長久手~の際の状況分析もしっかり行い、信雄を丸め込んで、家康の梯子を下ろした。秀吉、家康双方とも相手に勝つには「肉を切らせて骨を断つ」しかないと思ったはず。それぞれ万一勝っても自軍にかなりのダメージが残る。それなら今は我慢して…となったのではと。当然、年長で衰えが早く来た秀吉が先に他界したので、結果家康の勝ちとなったが。
与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか
わろた
これを見に来た
織田信長が平氏の流れで、平家を理想にしてたなら関白を目指してたでしょうね。信長の後継者としての威信を発揮するなら関白を選ぶべきという秀吉の想いはあったのかもしれませんね。そもそも室町幕府を滅ぼした織田家の人間なら征夷大将軍はあまり魅力的ではなかっただけかもしれませんが。
我々後世の人間は徳川幕府が安定政権を樹立する未来を知っているので将軍になって幕府を拓くのが成功の近道みたいに錯覚しがちですが、秀吉目線だと鎌倉幕府も足利幕府も家臣に家を乗っ取られて早々にお飾り将軍になった失敗例しかないので、武家ではなく貴族化して天皇の権威を利用する道を選んだ。
英雄(えいゆう)を「ひでお」と読むAI流石w
秀吉は俺らが思ってる以上に中国侵略したかった。(結果的に朝鮮で終わってしまったけど)その為に、とっとと関東・東北を手中におさめ、天下統一したかった。旧北条領に家康放り込んで、三河から切り離すと同時に、旧北条領の統治をさせたかった。(できそうなのが家康ぐらいだった)だから、小牧長久手の戦いの時はともかく、その後に家康を殺すなんて選択肢は秀吉に無い。
加藤も、福島も秀吉の小姓も、尾張出信長、秀吉、家康加藤清正、福島政則も尾張近辺は良い地だったのかな
のちのち忠臣だと思っていた家康が全てを支配することを読めなかった秀吉。のちのち毛利や島津の不満が大爆発することを読めなかった家康。最大限を尽くしても、俯瞰してみるとあと一歩になる。だから歴史は面白い!
律儀者と狸親父の両方を併せ持つのが家康のすごさ、大きさ。どっちかで割り切るのは家康を軽く見過ぎてる。
秀吉も年をとり勘が悪くなった。天下を収めて人の心が読めなくなった。秀頼は千姫の婿だから家康にもこれだけ頼み込めば秀頼を守ってくれると信じたかった。家康の演技がそれだけうまかった。結論。毒殺でもしとけば豊臣家は滅びずにすんだかも🤠
豊臣政権は官僚制度が未整備の為独裁的な立場の人間がいないと運営できない。なので誰かにとってかわられるのはしょうがない、それは織田にも言えるんだけどね。秀吉は豊臣家を家康に任せたんだけど、政権の維持までは任せていなかったのかもしれないな。
賢い。秀吉も家康もとにかく賢い。
まあ秀吉は日本最大の経済地域の近畿一円と金銀の流れを支配していたので徳川家が関東で隆盛を誇っても地方政権に終わると思ったいたのじゃないかと。秀吉に対抗して江戸幕府は米を基本にした石高制を採用したがそれが皮肉にも江戸時代を通じて大阪による経済支配を齎す結果になった。
金銀を使った資本は基本的に目減りしない。むしろ価値が上がったりする。使う人口が増えても金銀の産出量はそこまで増えないからだ。目減りしない資本というのは一見いいように映るが、金本位制、銀本位制、西洋の重商主義よろしく。経済に悪影響をもたらす。持っているだけで将来価値が上がるとしたら、だれも金銀を使わなくなるからだ。対して米本位制の場合。コメは目減りする資産になる。目減りする資産というのはグラミン銀行よろしく、価値があるうちに使い切らなければならない。そうするとどうなるか?・・・価値があるうちに使おうとする。=半ば強制的に経済を回すことができる。つまり常に毎年少しずつインフレが起きている状況になる。デフレ社会は社会の停滞を招くが、少しのインフレは発展をもたらす、また米は自然災害に弱いが、ほぼほぼ一年で再度収穫できるし、そこそこの備蓄もできる。
本能寺の変の黒幕ということは、実行犯の明智とも繋がっていたこと?実行犯まで仕事してすぐに黒幕に裏切られたということ?権力者として早々に倒れてしまったが、でも血として豊臣にも徳川にも残ったのは、織田という皮肉。
本能寺の時、織田の当主は信忠になっていた信忠が死んでも家臣団が三法師を支えれば問題なかった秀吉の簒奪が最後の下克上になっただけと思う
家康の退き陣へ追撃できなったのは、追撃で深入りすると紀州の雑賀衆、長宗我部が秀吉の領内で暴れられると困るから。背後が手薄になるのを心配して、畿内に戻らざるを得なかった。
秀吉存命時の家康は内政・軍事共に一級で人望もあり、義理堅く忠義に篤い。裏切る素振りなんか全くないのだから、自分亡き後の秀頼を補佐して盛り立ててくれる人材として得難いと思っていたはず。秀頼の義理の親だし。なので家康を粛清したら秀頼が弱体化する。結果的に秀吉の期待とは違ってしまったが、家康がいなかったとしても豊臣政権が弱体化して室町幕府のようにお飾り君主になるかまた戦国に逆戻りかでどっちにしろ詰んでた。損得関係なく主家のために捨て石になるような身内も譜代もいないのだからそもそも無理があった。
秀吉が家康を滅ぼせなかったのは地震のせいという説が有力だけど、秀吉としては復興に数年間かけてから戦争を仕掛けるのでもよかった気がする秀吉はやはり家康を信じすぎたのかな?国替えをしたりもしてるけど、大きな石高を家康に残し過ぎた
21:55信長が滅ぼしたのは武田信玄ではなく勝頼です
小牧長久手の戦いはなかった、との説をきいたのですが、、
秀吉は源氏じゃないから将軍になれなかったなんて、だれが言ったんだろ? 家柄は清和源氏なんかより、摂関家のほうがずっと高いわけで、摂関家の猶子になれたなら、どんな官職にもつけたはず。鎌倉時代の摂家将軍の前例があったし、朝廷は平氏を名乗っていた信長に将軍職を勧めていた(三職推任)。秀吉の場合、単に将軍になる準備をする前に、関白になれるチャンスが回ってきたのでのっかっただけのように思う。
そうそう。先に内閣総理大臣になれてしまったからあえて降格して防衛大臣になる必要がなかったようなもん
最新の研究で、信長のあとは、信忠三法師と決まっていたみたいだな。清須会議は三法師がまだ幼いから誰がほさするかなど、山崎合戦などの石高分配などの話し合いだったらしいから、このどうがでの秀吉が三法師を立てたというのは、あやまりだな。いくら秀吉でもこの頃はまだ1重臣信孝信雄(笑)のほうがまだまだ超格上秀吉が三法師を後継者に押し皆が納得したのは、作り話みたいだ。
まず5歳しか変わらないし、まさか家康と寿命にこれほど差が出るとは思ってなかったんじゃないかな?しかも秀吉の症状って一気に悪化したから、もう情に縋るしかなかったんだと思う。 むしろよく終活段階で5奉行5大老システムねじ込めたと思う。(機能はしなかったけど)
秀吉死後のムーブについてなら、本当に豊臣の忠臣だとしても同じ事するだろうし。だいたい五大老五奉行なんてガバガバなシステムで10年も日本全体を回せる訳がないのだ。秀頼が成人するまで秀頼の命と大阪が安泰なら他はどうなっても良いみたいな割り切りをしないのであれば、権力を集中させる試みは必要になる。
秀吉はそういう力の論理はわかっていたと思うよ。自分の息子は徳川家康につくしかないことを重々承知していたと思う。だから、家康を後見人にしたし秀吉自身も含めて公家にしたんだと思う。当時としては一度公家になれば、子々孫々まで安泰だし時勢に乗れば武家・大名にもなれる。ただ問題は淀殿(茶々)と石田三成。この二人は全く秀吉の思惑に気づいていない。力の論理もわかっていない。そりゃ家康にもつぶされるよなとしか言いようがない。現代社会でも自然でもそうだけど、実力がない人は、実力がある人にかなわない。実力がない人は、それ相応の身分で我慢するしかない。実力がない人が、実力のある身分につけば、だれかが苦労するし、その苦労する人は他人であり、多くは民衆なんだ。
秀吉は信長に援軍を出す程苦戦してた訳ではなく、毛利は陥落寸前だった。信長をおびき寄せる為に援軍要請したとしか思えない援軍要請して余裕で勝てそうな戦場を信長が見たら激怒すると思う。
徳川家康は、朝廷から期待されていて秀吉も朝廷を敬愛していたために嫉妬心から小牧長久手の戦いが起きたが公家たちは、秀吉に関白の位を与えてなだめ秀吉と家康の融和をはかった秀吉は将軍よりも高位の公家に憧れたのを見れば分かる通り朝廷を敬愛していた
豊臣は自滅に近い。秀次は殺さず秀頼が元服するまで関白やらせておいて秀頼に引き継ぐのが豊臣存続には一番良かった。
木村政彦が力道山を殺さなかったのと同じ理由
みほうし、おおまさしょ……所々クスッと笑えるのが(๑´ㅂ`๑)
だいげんフゥー!
せっかく興味深い内容なのに、誤読が多すぎます。残念です😢
豊臣家といっても、秀吉の血筋など誰一人持っていないし、豊臣家を乗っ取られているとしか思えなかったのでは?
石高で言えば家康は秀吉よりも大きい。滅ぼすのは無理。
全くの想像ですが、秀吉は秀頼が可愛くて仕方なかったし、彼があとを継いでくれたらそれでいいとも思ってたけど、彼の後継者争いで諸大名が揉めるくらいなら最大勢力の家康を残しておいて新たな統一政権を作り、スペインからの侵略を防げればいいと思ってたのではないかという英雄秀吉を想像してる
棒読みちゃん残念です
木村政彦は何故力道山を殺さなかったのかみたいなサムネだな
一言で言えば、時代がそれを許さなかった
前田利家が後十年生きていたら少し状況は違っていたかも?
勝家みたいに恨みがそこまでなかったからでしょう。
家康は神君というにはちょいとカリスマが足りないと感じるのよなだから、豊臣の血はまだ絶えてないみたいな俗説やプリンセス・トヨトミみたいなのがある
説が古い
内容は面白いのに漢字の読み間違えが多すぎます。なんとかして下さい。
補足の補足ばっかですげーわかりづらい
あと徳川家康に朝鮮出兵を命じなかったのが謎
家康は行くと言ってたらしいけど、家康いないと政権安定しないし、朝鮮行って活躍しすぎても困るし、結局グダグダに先延ばしになったみたいですね。
命じてはいると思う、だけど秀吉以外は行こうと思ってなくて秀吉も病気で亡くなる寸前だったから口では「行きます」と答えて亡くなるまで待ったとか?
結城秀康と豊臣秀長がもう少し生きていれば豊臣の内輪揉めや滅亡はなかった?私は秀頼は秀吉の実子でない説を信じるのでその辺りがあったのでは。
外国勢力(欧米キリスト教による人身売買など)の脅威が分かったから国内でのイザコザは避けたかったのではないかと思う
ソレ半分くらい嘘やぞ。欧米に人身売買したのは、それに協力した日本人もいるからだぞ。スペイン人とかに無理やり売りつけた日本人もいるくらいだ。それに自分から海外に行った例や傭兵として海外に行った例もある。秀吉が「バテレン追放令」を出したのはただのポーズだよ。日本の寺社勢力に向けての。本当の外国勢力追放は、江戸幕府の「キリスト教禁止令」まで待たなくてはならない。
大政所をおおまさしょと読むのは草
秀吉も家康を粛清したかったのが正直なところだと思うがそれが無理ならせめて弱体化したかっただろうな。家康にしても、豊臣家を滅ぼした後、豊臣恩顧の大名を前田家以外は何かに理由をつけて片っ端から潰したし徳川政権初期では外様大名は全て潰したかったような感じだっただけど、そこまで徹底的にやる力はさすがの秀吉にもなかったのだろう明の永楽帝も漢の高祖も、即位すると有力な臣下は片っ端から粛清したが中国の皇帝にはできても、日本では出来なかったのだろうな
明の太祖、洪武帝朱元璋の残虐さが秀吉にあれば家康は絶対に謀殺してましたね🤠
@@BENETTONCOP19 豊臣政権の時代は、豊臣秀吉の石高は200万石であり、家康の石高は250万石になっていたと言われますよ徳川政権では幕府は600万石という圧倒的な石高を誇ったが。豊臣政権では、そこまでの力はなかった。毛利や宇喜多氏などの有力大名の支持を得て主導権を得ている政権だったから。秀吉と言えど、家康を一方的に粛清するほど好き勝手なことはできなかったのでしょう。
@@御神誉黎 なるほど、そう言われればその通りですね。豊臣家は譜代衆には絶対的な力が無く、大国の大名の支持の元に成り立っていたと思うと、確かに家康本人に手を出すには力が足りなかった訳ですね。明の太祖とは条件が違い過ぎますね🤠
秀吉は政権基盤が弱く、身内も弟の羽柴秀長以外は縁も薄く凡庸であり、自身を犠牲にしても主家に忠義を尽くす譜代家臣もいないから、全国統治のためには優秀な傘下大名に業務を委託せざるを得なかった。家康みたいな優秀な人材を弱体化させるのは逆に豊臣政権の首を絞める事になる。家康の関東移封も左遷などではなく必要な措置。東国は独立気風が強く、土着勢力の影響力も強いため安定統治が困難な地域。なので全国統一に当たって取りあえず身内に任せとけばいいと言うわけには行かない。京・大阪とも遠いので臨機応変の対応力、一揆も多いため内政力も必要、また面従腹背の東国大名を威圧出来るほどの存在感と軍事的履歴を持ち、また義理堅く主君を裏切った過去のない人物といえば前田利家と徳川家康しかいない。家康は北条家との取り次ぎ役をしていたので東国大名にはコネクションがあり、結果東国支配を任される事になった。そして結果的にパーフェクトな仕事をしている。少なくとも秀吉存命中は右腕とも言える存在。だから徳川を羽柴に改姓させ「豊臣朝臣羽柴家康」として一族待遇にした。
奥州州仕置を行ったのは「益田」=>「増田(ました)」?
地震で殺せなかったのは大きい、朝鮮出兵の時に戦闘に出さなかったのは謎だけど黒田長政は豊臣方ではなく、家康と親戚関係になっていて関が原の戦いでは調略により勝利を納めた最大の功労者なので多いのは当然だよ。
秀吉は小田原平定よりも前に、琉球を薩摩に帰属させようとしてたし、スペイン領フィリピンに降伏勧告の書状を出してるし、天下統一よりも前に朝鮮や明の侵攻を計画してたよね。だから生かしたまま利用したほうが価値があると判断したんじゃないかな。
殺そうとはしてたよ 秀吉は小牧長久手の戦いで思いのほか粘られて、和睦にはなったけどその間に家康の同盟関係を調略・崩していって討伐or制圧する直前に天正地震で瓦解しただけ 九州平定の予定もあったし、家康を討伐するのは時間がかかるのを考えて臣従・融和策にきりかえただけ まぁその後は家康は秀吉に処刑理由が無いように慎重に忠実に律義者を通したけど豊臣政権の秀次事件なんか内部のごたごたに朝鮮出兵の失敗、秀吉の死で脆くなった所を滅ぼしたわけだけど
慶長大地震は捨象出来ないと思いますが
関東納められるのなんて家康しかいないからな平野クソ広いけど北条以外まともに納められなかった土地でその北条が滅んで民心が安定してないその上で周りが何するか分からん真田、若くて野心のありそうな伊達、関東管領継いでる上杉(長尾)こんなのまとめて抑えるには関東全部まとめられる人が必要になるし、その力あるのなんて家康しかいない家康に関東丸ごと預けたのは必然
地震のおかげ
三法師でしょ…
秀吉の実子でもない秀頼にまでに律儀する必要ないしな
藤原氏の養子になって関白になったのなら、どっかの源氏の養子になって将軍になればいいやんw
いや信長は信玄を滅ぼしてないですよ。
良かったぁ…ちゃんとのぶかつって言ってるわ…
のぶおwww
@@紳士先輩-f8t えいゆう→ひでおとかならまぁイイとしても大切な所はちゃんとしてもらわんと困る
マジレスすると「のぶを」と読んでる史料もあるja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84
「三法師」のことを「みほうし」って言ってるけど💦
うちの子をおなしゃす…(´゚ω゚`)
殺さなかったのじゃなくて殺せなかったんだ。家康は危険を感じて近づかなかったのだろう。
家康はもしかして地震も起こせたのかな?
徳川秀忠は嫡男ではなく、三男ですよ(´・ω・`)
嫡男は長男て意味じゃなくて世継ぎ(家督を継ぐ立場の男子)の事ですよなので秀忠は嫡男です
嫡男は松平信康、次男は結城秀康、三男は徳川秀忠で、信康は既に故人、秀康は結城家を継いでいたから・・・秀忠が嫡男になる・・・と言う事ですね!?失礼しました\(^o^)/
天正地震で家康討伐を諦めた。
バックミュージックがうるさ過ぎる
そりゃだって殺したら歴史変わっちゃうからだろ
地震が無ければ滅ぼしていただろう。そうなると秀吉存命中はともかく死後の流れは大きく変わるかも。
小牧・長久手の戦いで家康にボロ負けしたからでしょ
実は「関ヶ原の役」は豊臣家中の内輪もめ説は説得力ある。
(家康が秀吉の義弟で、豊臣姓持ってるてのは意外とスルーされてる)
豊臣朝臣徳川家康
@@SirHumphryDavy1 違うよ
豊臣朝臣羽柴家康だよ
信長・秀吉・家康・三人の共通目標には、「自分が天下人になる」と同時に「戦のない世を実現する」があったのだと思います。
そしてその実現のためには、まずは自分の力で天下を抑える、次には継続できる体制を整える、という事でしょう。
秀吉は自分(達)の理想の継承者ナンバーワンは家康だと判断していたのだと思いますよ。個人欲の秀頼にも期待しつつも。
淀君の浅慮が豊臣家を滅ぼしたのだと思います。
14:43 一発触発の状態 → 一触即発の状態 ですね。
「おとなしく従うなら安堵するよ」で侵略コストを抑えてたからでは。
従ってくれれば、(ワイが)安堵するよぉ…(´゚ω゚`)
結果論として、信長、秀吉、家康の3人で戦国時代を終わらせ、戦いのない世の中ができた。
秀吉はいつかの時点で、それを分かっていた。
殺す機会を逸ししてしまって、なら最大の敵を身内という最も身近な存在にしてしまおうという発想の転換が秀吉の恐ろしさだと思う。家康も北条みたいにごねたりしないで、秀吉から最大の譲歩を引き出したことでそれで良しとし、秀吉が生きている間はその中で存在価値を高めることに腐心した。関東行きも家康しか適任がいないという現実の方がでかいだろうし。
秀次事件で秀吉個人への不満が生じたこと、朝鮮での各大名の疲弊で大名がとにかく自分の家の立て直しに迫られたことも、豊臣政権の瓦解につながったと思う。
実は家康も豊臣家に対してある程度忠誠心あったんじゃないかな?
秀次切腹事件や唐入りで豊臣家のゴタゴタなければ引き続き仕えてたのでは
秀吉も実力があり過ぎただけでせめて信忠が生きていれば忠臣のままだったかもね
朝鮮の役敗退や秀次粛清のようなことがなければ、豊臣を支えた大名も多いし
家康も簡単には豊臣政権を倒すことはできなかっただろうな
秀吉存命中は政権重鎮として豊臣政権の安定に尽力しているし、臣下として秀吉には忠義を尽くしていた。
秀吉が死んだら義理は済んだという思いだったのでは?
譜代の豊臣家臣じゃないし。
忠誠心なんてないでしょうが、争っても仕方ないし、義理を果たしてただけかと。
忠誠心を持つような関係じゃないし。
柴田勝家はどう説得しても仲間(部下😖)にならないけど、家康は条件次第では可能だった。有能な武将は殺すより 生かして利用した方が良い😊
地震がなきゃ確実に負けて滅ぼされてたけどな、家康は。
それが新政権の大老だから、幸運なんてもんじゃない。
@@紳士先輩-f8t 単純に地震で殺し損ねたと言うだけでなく、その後全国統一に当たって東国の経営を任せられる人材がいなかった。
東国は独立気風も強く京・大阪とも遠いので内政力と軍事力が必要なため身内ならよいとは行かない。
こうした治めにくい東日本を統治しつつ、東国大名を威圧出来る実力+義理堅く主君を裏切った事のない信用できる人物と言えば前田利家と徳川家康しかいない。
家康は北条家の取り次ぎだったので東国ではコネクションもあり東国統治を任される事になった。
@@紳士先輩-f8t 単純に殺し損ねた家康が運良く豊臣政権No.2になったという話ではない。
東国は独立気風が強く、土着勢力の影響力も強いため安定統治が困難な地域。なので全国統一に当たって取りあえず身内に任せとけばいいと言うわけには行かず人材が不足していた。
京・大阪とも遠いので臨機応変の対応力、一揆も多いため内政力も必要、また面従腹背の東国大名を威圧出来るほどの威圧感と軍事的履歴を持ち、また義理堅く主君を裏切った過去のない人物といえば前田利家と徳川家康しかいない。
家康は北条家との取り次ぎ役をしていたので東国大名にはコネクションがあり、結果東国支配を任される事になった。
そして結果的にパーフェクトな仕事をしている。少なくとも秀吉存命中は右腕とも言える存在だよ。
だから徳川を羽柴に改姓させ「豊臣朝臣羽柴家康」として一族待遇にした。
@@紳士先輩-f8t 単純に殺し損ねた家康が運良く豊臣政権No.2になったという話ではない。
東国は独立気風が強く、土着勢力の影響力も強いため安定統治が困難な地域。なので全国統一に当たって取りあえず身内に任せとけばいいと言うわけには行かず人材が不足していた。
京・大阪とも遠いので臨機応変の対応力、一揆も多いため内政力も必要、また面従腹背の東国大名を威圧出来るほどの存在感と軍事的履歴を持ち、また義理堅く主君を裏切った過去のない人物といえば前田利家と徳川家康しかいない。
家康は北条家との取り次ぎ役をしていたので東国大名にはコネクションがあり、結果東国支配を任される事になった。
そして結果的にパーフェクトな仕事をしている。少なくとも秀吉存命中は右腕とも言える存在だよ。
だから徳川を羽柴に改姓させ「豊臣朝臣羽柴家康」として一族待遇にした。
@@紳士先輩-f8t 単純に殺し損ねた家康が運良く豊臣政権No.2になったという話ではない。
東国は独立気風が強く、土着勢力の影響力も強いため安定統治が困難な地域。なので全国統一に当たって取りあえず身内に任せとけばいいと言うわけには行かず人材が不足していた。
京・大阪とも遠いので臨機応変の対応力、一揆も多いため内政力も必要、また面従腹背の東国大名を威圧出来るほどの存在感と軍事的履歴を持ち、また義理堅く主君を裏切った過去のない人物といえば前田利家と徳川家康しかいない。
家康は北条家との取り次ぎ役をしていたので東国大名にはコネクションがあり、結果東国支配を任される事になった。
そして結果的にパーフェクトな仕事をしている。少なくとも秀吉存命中は右腕とも言える存在だよ。
だから徳川を羽柴に改姓させ「豊臣朝臣羽柴家康」として一族待遇にした。
家康が、忠誠を誓ったのでそれを信じていたのだと思います。
彼が天下を取ろうと思ったのは、秀吉の死後だと思います。
少なくとも、表面的には、おくびにも出さなかったと思います。
あんまりこういうこと言いたくないけど、徳川家康は天下を取ろうとしなくても天下をとれたんよな。
豊臣政権下の徳川家康・・・。大阪城で政権掌握した徳川家康時代は、日本国の大名の内政問題に介入し、それを成功させたことでどんどん大名の影響力をを掌握した。それは人を騙したわけではなく、人を幸福にして感謝された。
石田三成が蟄居している間に、徳川家康は、影響力を拡大させた。
困ったのは石田三成で、自分のやり方が最善だと思っていたのに、それを家康が楽々と超える政策を打ち出す。
・・・時期的に、徳川政権が続いた場合、徳川の力は最強になる。それがわかっていたから石田三成の影響力が残っている段階で大急ぎで、関ヶ原の戦いを引き起こした。
最終的には豊臣政権が残っていたとしても徳川家康は最強であり。豊臣秀吉が亡くなった時点で、天下は徳川家康が握った。
秀吉自身も主家である織田家を裏切り、天下を取ったのに?
秀吉自身がやってきたことだから、そんなものは戦国の世には通用しないことを知っているよ
何とか徳川を排除、それが出来ないなら弱体化させたかったから
秀吉は当時、へき地だった江戸に徳川を送ったのだしな
@@御神誉黎
何故、徳川家康のあだ名が「狸親父」だったのか。
それは腹のうちの黒い部分を決して、人に見せなかったからだと思います。
少なくとも信長と秀吉の前では、忠義者の仮面を一度たりともはずさなかったはずです。
彼が少しでも、野心を垣間見せたら、すぐに二人に殺されていたでしょう。
秀吉は自分に自信があり傲慢が故に、家康のその忠義っぷりを信じたのです。
日本最大の平野である関東平野のほぼ全域を与えたのは家康に対する誠意だよ。
関東諸将を糾合して上方に攻め上ってくる頼朝の例もあるのだから危険人物に江戸を与えるわけない。
むしろ背反ただならぬ関東・東北の抑えとして信頼している家康(秀頼の義理の父だし)を江戸に置いたと言うのが正しい。
我々はその後家康が豊臣政権を横領した歴史を知っているが、秀吉の認識は危機的状況に陥っても織田-徳川同名を守り通した義理堅い武将だよ。
それと、織田が乗っ取られたから自分も乗っ取られると言う前提なら家康一人殺しても解決しないよ。全国の大名の息の根止めないと。
未来を知らない秀吉視点だと義理堅い家康より毛利、上杉、伊達などの方がよっぽど危険。
確かに撤退せずにつぶせたし、地震は大被害ではあるが強制的に集め、2、3年で攻めれば良い。やっぱり、家康公朝鮮の時干してたのは考えあったのか?と感ぐります!
普通に考えたら、徳川家康接待の失敗でせっかんされたからってのが王道だと思うけど
昔は今とは全く違うくらいメンツとか気にしてた時代だし
家康の接待に失敗したというエピソード自体が後世の創作。
武士ってホンマにヤクザ以上にメンツの世界やもんなぁ
晩年の秀吉は親としての気持ちでは秀頼に後を継いで欲しかったけど、武将としての判断だと徳川が天下をとったほうがいいのを感じてたと思う。
秀吉死後もし家康がいなかったらと思うとゾッとする。
これは何とも言えないけど、結果的に豊臣家は家康に滅ぼされてしまうけど未来の事は秀吉には分からないから、家臣筆頭の家康に天下の采配は任せて豊臣家は貴族化する構想はあったかも知れない。
秀吉死後、家康が征夷大将軍に任官した時も豊臣家はクレームを入れていないので家康が武家をまとめ、その家康が豊臣に礼を尽くす、といった権力構造を期待していた可能性はある。
豊臣政権時は家康は改姓して「豊臣朝臣羽柴家康」になってるから完全に一門衆だしね。
このへんわりと批判されがちな家康を良く見られる風潮がやっと来た気がします。
家康は正当な後継者だったし、豊臣家に対してかなり甘かった。
関ヶ原の後、島津征討を無理せずに放置したのと同様、力づくでの徳川制圧は、「費用対効果」の面からしても、得策ではないとの共通の判断か。
世界史的に見れば、「大航海時代」のど真ん中。秀吉は、攻められる前に攻めて行く事を選択し、家康は攻められない国内体制を選択したと言う事か。
当時、秀吉の直轄領はそれほど大きくなく、秀吉の手腕で日本をなんとかまとめていた感じですから。
家康は有能な部下として働かせていたのでは。
織田信雄が有能なら日本をまとめていたはず。秀頼の取り巻きが有能でないから家康が天下を狙ったのでは。
秀吉が亡くなった後、伊達政宗、黒田如水、前田利長等、まだ天下を狙う人がいましたからね。
それをまとめるのはとても大変な事だと思います。
頼る武将が、家康さんしか居なかった!
天正大地震で家康を叩く機会を逸した、に一票。
そりゃ秀吉生前は東国を任せられて、秀吉死後の政権運営と秀頼の後見人を任せられる人物なんて家康しかおらんからなぁ
有能な蒲生氏郷が若くして死んだのが痛かったね。
@@紳士先輩-f8t 蒲生も急激にデカくなったから家臣団にまとまりが無かったりしたので関東の家康の存在は大きかったり…
秀頼の後見人だとしたら、秀頼はその後見人に難癖をつけられて滅ぼされた事になります。
この事が秀吉に分かっていれば殺していたでしょうが、家康は律儀者を装っていたため本性を見抜けなかったのでしょうね。
@@ks5643 秀頼が悪手打ちまくったの無視しちゃいけませんぜ
家康は少なくとも関ヶ原時は秀吉遺言体制側ですし、大坂の陣時もギリギリまで大坂方に選択肢を明示しています
@@matukawatositane
それは美化しすぎでしょw
秀吉が死んだ直後からすでに秀吉の遺言を無力化するように動いてたんだから。
まだ北条いたし、北条倒しても国人衆とかゴタゴタするだろうから家康という強い人に任せたいよなあ
三成とかじゃ無理だし清正は九州だし
最新の研究では、豊臣を滅ぼしたかったのは家康ではなく秀忠だったと言われていますね。
家康は豊臣をなんとか徳川配下に取り込みたかったが失敗に終わり、元々徳川に対して反抗的だったタカ派と浪人が結託して戦争に入っていたという流れ。
じゃあなんで家康は豊臣傘下から離れたかというと、関ヶ原の戦いの少し前に豊臣公儀から追い出されてます。
推測ではありますが、「豊臣傘下として豊臣と徳川を守る」ことに限界を感じ、家を守ることを優先したからではないかと思います。
そもそもの上杉征伐も、数ある訴訟の一つを処理しようとしただけの話で、家康の野心とはさほど関係ないのですけどね……
それは家康を良く見過ぎていると思う。
あなたのコメントにもある通り、秀吉死後家康は豊臣を上回るために動いている。
@@shangtian-i3c そこは難しいバランス。何もしなければ権力を削られるし、生き残りを考えれば政権内の権力を強化して与党を形成しなければならない
天下の野望があるかないかに関わらず権力中枢に居続けるためには一方通行
家康の心の中は分かりませんけどね。
ただ、秀吉存命中は後に敵対する石田三成とも良好かつ協力して内政や大名間の調整に尽力してますし、豊臣政権の安定のためにそれこそ全力を尽くしています。
秀吉も心強かったはず。
野心あるなしにかかわらず、先人と違う形での存続を目指すと乗っ取りに見られるのは仕方ないこと。鍋島とかもそう。
ifを言っても仕方ないが、秀吉は秀次や秀秋を処分せずに秀頼が成長するまで引き継がせれば豊臣政権も家康も動かず安泰だったかもしれないですね
ルー大柴
元々、信雄は後継者候補に名も上がらなかったそうです。理由は無能だったから。本能寺の変の後、意味も無く安土城を放火したりで実力も弟の信孝より下に見られ「三助殿のなさること」と馬鹿にされてたそうです。
無能と言う評価は第一次伊賀攻めの惨敗が大きいと思いますが、安土城を焼いたとか通説になってる信雄のアホアホエピソードのほとんどは創作です。
また、織田家家督は信忠の嫡子(三法師)が継ぐ事は信長存命時から決まっていた事で後継候補に上がっていないのは当然です。
武将としての能力はともかく、激動の時代を生き抜き、結果的に織田家を今日まで繋いでいるので無能ではありません。
幼少期に家康が
今川義元から受けた
教育が良かったので
天下を取るまで成長した?
秀吉の情報収集力というのはかなりのものであった
と思う。配下の蜂須賀小六や一門の杉原家次が抱える
透破や乱破のを野に放ち、的確な収集を行っていたとか。
だから小牧長久手~の際の状況分析もしっかり行い、信
雄を丸め込んで、家康の梯子を下ろした。
秀吉、家康双方とも相手に勝つには「肉を切らせて骨を
断つ」しかないと思ったはず。それぞれ万一勝っても自軍
にかなりのダメージが残る。それなら今は我慢して…と
なったのではと。当然、年長で衰えが早く来た秀吉が先に
他界したので、結果家康の勝ちとなったが。
与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか
わろた
これを見に来た
織田信長が平氏の流れで、平家を理想にしてたなら関白を目指してたでしょうね。信長の後継者としての威信を発揮するなら関白を選ぶべきという秀吉の想いはあったのかもしれませんね。そもそも室町幕府を滅ぼした織田家の人間なら征夷大将軍はあまり魅力的ではなかっただけかもしれませんが。
我々後世の人間は徳川幕府が安定政権を樹立する未来を知っているので将軍になって幕府を拓くのが成功の近道みたいに錯覚しがちですが、秀吉目線だと鎌倉幕府も足利幕府も家臣に家を乗っ取られて早々にお飾り将軍になった失敗例しかないので、武家ではなく貴族化して天皇の権威を利用する道を選んだ。
英雄(えいゆう)を「ひでお」と読むAI流石w
秀吉は俺らが思ってる以上に中国侵略したかった。(結果的に朝鮮で終わってしまったけど)
その為に、とっとと関東・東北を手中におさめ、天下統一したかった。
旧北条領に家康放り込んで、三河から切り離すと同時に、旧北条領の統治をさせたかった。(できそうなのが家康ぐらいだった)
だから、小牧長久手の戦いの時はともかく、その後に家康を殺すなんて選択肢は秀吉に無い。
加藤も、福島も秀吉の小姓も、尾張出
信長、秀吉、家康
加藤清正、福島政則も尾張近辺は良い地だったのかな
のちのち忠臣だと思っていた家康が全てを支配することを読めなかった秀吉。のちのち毛利や島津の不満が大爆発することを読めなかった家康。最大限を尽くしても、俯瞰してみるとあと一歩になる。だから歴史は面白い!
律儀者と狸親父の両方を併せ持つのが家康のすごさ、大きさ。どっちかで割り切るのは家康を軽く見過ぎてる。
秀吉も年をとり勘が悪くなった。天下を収めて人の心が読めなくなった。秀頼は千姫の婿だから家康にもこれだけ頼み込めば秀頼を守ってくれると信じたかった。
家康の演技がそれだけうまかった。
結論。毒殺でもしとけば豊臣家は滅びずにすんだかも🤠
豊臣政権は官僚制度が未整備の為独裁的な立場の人間がいないと運営できない。
なので誰かにとってかわられるのはしょうがない、それは織田にも言えるんだけどね。
秀吉は豊臣家を家康に任せたんだけど、政権の維持までは任せていなかったのかもしれないな。
賢い。
秀吉も家康もとにかく賢い。
まあ秀吉は日本最大の経済地域の近畿一円と金銀の流れを支配していたので徳川家が関東で隆盛を誇っても地方政権に終わると思ったいたのじゃないかと。秀吉に対抗して江戸幕府は米を基本にした石高制を採用したがそれが皮肉にも江戸時代を通じて大阪による経済支配を齎す結果になった。
金銀を使った資本は基本的に目減りしない。むしろ価値が上がったりする。使う人口が増えても金銀の産出量はそこまで増えないからだ。
目減りしない資本というのは一見いいように映るが、金本位制、銀本位制、西洋の重商主義よろしく。経済に悪影響をもたらす。持っているだけで将来価値が上がるとしたら、だれも金銀を使わなくなるからだ。
対して米本位制の場合。コメは目減りする資産になる。目減りする資産というのはグラミン銀行よろしく、価値があるうちに使い切らなければならない。そうするとどうなるか?・・・価値があるうちに使おうとする。=半ば強制的に経済を回すことができる。
つまり常に毎年少しずつインフレが起きている状況になる。
デフレ社会は社会の停滞を招くが、少しのインフレは発展をもたらす、また米は自然災害に弱いが、ほぼほぼ一年で再度収穫できるし、そこそこの備蓄もできる。
本能寺の変の黒幕ということは、実行犯の明智とも繋がっていたこと?
実行犯まで仕事してすぐに黒幕に裏切られたということ?
権力者として早々に倒れてしまったが、でも血として豊臣にも徳川にも残ったのは、織田という皮肉。
本能寺の時、織田の当主は信忠になっていた
信忠が死んでも家臣団が三法師を支えれば問題なかった
秀吉の簒奪が最後の下克上になっただけと思う
家康の退き陣へ追撃できなったのは、追撃で深入りすると紀州の雑賀衆、長宗我部が秀吉の領内で暴れられると困るから。
背後が手薄になるのを心配して、畿内に戻らざるを得なかった。
秀吉存命時の家康は内政・軍事共に一級で人望もあり、義理堅く忠義に篤い。裏切る素振りなんか全くないのだから、自分亡き後の秀頼を補佐して盛り立ててくれる人材として得難いと思っていたはず。秀頼の義理の親だし。
なので家康を粛清したら秀頼が弱体化する。
結果的に秀吉の期待とは違ってしまったが、家康がいなかったとしても豊臣政権が弱体化して室町幕府のようにお飾り君主になるかまた戦国に逆戻りかでどっちにしろ詰んでた。
損得関係なく主家のために捨て石になるような身内も譜代もいないのだからそもそも無理があった。
秀吉が家康を滅ぼせなかったのは地震のせいという説が有力だけど、秀吉としては復興に数年間かけてから戦争を仕掛けるのでもよかった気がする
秀吉はやはり家康を信じすぎたのかな?国替えをしたりもしてるけど、大きな石高を家康に残し過ぎた
21:55
信長が滅ぼしたのは武田信玄ではなく勝頼です
小牧長久手の戦いはなかった、との説をきいたのですが、、
秀吉は源氏じゃないから将軍になれなかったなんて、だれが言ったんだろ? 家柄は清和源氏なんかより、摂関家のほうがずっと高いわけで、摂関家の猶子になれたなら、どんな官職にもつけたはず。鎌倉時代の摂家将軍の前例があったし、朝廷は平氏を名乗っていた信長に将軍職を勧めていた(三職推任)。秀吉の場合、単に将軍になる準備をする前に、関白になれるチャンスが回ってきたのでのっかっただけのように思う。
そうそう。先に内閣総理大臣になれてしまったからあえて降格して防衛大臣になる必要がなかったようなもん
最新の研究で、信長のあとは、信忠三法師と決まっていたみたいだな。清須会議は三法師がまだ幼いから誰がほさするかなど、山崎合戦などの石高分配などの話し合いだったらしいから、このどうがでの秀吉が三法師を立てたというのは、あやまりだな。いくら秀吉でもこの頃はまだ1重臣信孝信雄(笑)のほうがまだまだ超格上秀吉が三法師を後継者に押し皆が納得したのは、作り話みたいだ。
まず5歳しか変わらないし、まさか家康と寿命にこれほど差が出るとは思ってなかったんじゃないかな?
しかも秀吉の症状って一気に悪化したから、もう情に縋るしかなかったんだと思う。
むしろよく終活段階で5奉行5大老システムねじ込めたと思う。(機能はしなかったけど)
秀吉死後のムーブについてなら、本当に豊臣の忠臣だとしても同じ事するだろうし。
だいたい五大老五奉行なんてガバガバなシステムで10年も日本全体を回せる訳がないのだ。
秀頼が成人するまで秀頼の命と大阪が安泰なら他はどうなっても良いみたいな割り切りをしないのであれば、権力を集中させる試みは必要になる。
秀吉はそういう力の論理はわかっていたと思うよ。自分の息子は徳川家康につくしかないことを重々承知していたと思う。
だから、家康を後見人にしたし秀吉自身も含めて公家にしたんだと思う。
当時としては一度公家になれば、子々孫々まで安泰だし時勢に乗れば武家・大名にもなれる。
ただ問題は淀殿(茶々)と石田三成。この二人は全く秀吉の思惑に気づいていない。力の論理もわかっていない。
そりゃ家康にもつぶされるよなとしか言いようがない。
現代社会でも自然でもそうだけど、実力がない人は、実力がある人にかなわない。
実力がない人は、それ相応の身分で我慢するしかない。
実力がない人が、実力のある身分につけば、だれかが苦労するし、その苦労する人は他人であり、多くは民衆なんだ。
秀吉は信長に援軍を出す程苦戦してた訳ではなく、毛利は陥落寸前だった。
信長をおびき寄せる為に援軍要請したとしか思えない
援軍要請して余裕で勝てそうな戦場を信長が見たら激怒すると思う。
徳川家康は、朝廷から期待されていて秀吉も朝廷を
敬愛していたために嫉妬心から小牧長久手の戦いが起きたが公家たちは、秀吉に関白の位を与えてなだめ秀吉と家康の融和をはかった
秀吉は将軍よりも高位の公家に憧れたのを見れば分かる通り朝廷を敬愛していた
豊臣は自滅に近い。秀次は殺さず秀頼が元服するまで関白やらせておいて秀頼に引き継ぐのが豊臣存続には一番良かった。
木村政彦が力道山を殺さなかったのと同じ理由
みほうし、おおまさしょ……所々クスッと笑えるのが(๑´ㅂ`๑)
だいげんフゥー!
せっかく興味深い内容なのに、誤読が多すぎます。
残念です😢
豊臣家といっても、秀吉の血筋など誰一人持っていないし、豊臣家を乗っ取られているとしか思えなかったのでは?
石高で言えば家康は秀吉よりも大きい。
滅ぼすのは無理。
全くの想像ですが、秀吉は秀頼が可愛くて仕方なかったし、彼があとを継いでくれたらそれでいいとも思ってたけど、彼の後継者争いで諸大名が揉めるくらいなら最大勢力の家康を残しておいて新たな統一政権を作り、スペインからの侵略を防げればいいと思ってたのではないか
という英雄秀吉を想像してる
棒読みちゃん残念です
木村政彦は何故力道山を殺さなかったのか
みたいなサムネだな
一言で言えば、時代がそれを許さなかった
前田利家が後十年生きていたら少し状況は違っていたかも?
勝家みたいに恨みがそこまでなかったからでしょう。
家康は神君というにはちょいとカリスマが足りないと感じるのよな
だから、豊臣の血はまだ絶えてないみたいな俗説やプリンセス・トヨトミみたいなのがある
説が古い
内容は面白いのに漢字の読み間違えが多すぎます。なんとかして下さい。
補足の補足ばっかですげーわかりづらい
あと徳川家康に朝鮮出兵を命じなかったのが謎
家康は行くと言ってたらしいけど、家康いないと政権安定しないし、朝鮮行って活躍しすぎても困るし、結局グダグダに先延ばしになったみたいですね。
命じてはいると思う、だけど秀吉以外は行こうと思ってなくて秀吉も病気で亡くなる寸前だったから口では「行きます」と答えて亡くなるまで待ったとか?
結城秀康と豊臣秀長がもう少し生きていれば豊臣の内輪揉めや滅亡はなかった?私は秀頼は秀吉の実子でない説を信じるのでその辺りがあったのでは。
外国勢力(欧米キリスト教による人身売買など)の脅威が分かったから国内でのイザコザは避けたかったのではないかと思う
ソレ半分くらい嘘やぞ。欧米に人身売買したのは、それに協力した日本人もいるからだぞ。
スペイン人とかに無理やり売りつけた日本人もいるくらいだ。
それに自分から海外に行った例や傭兵として海外に行った例もある。
秀吉が「バテレン追放令」を出したのはただのポーズだよ。日本の寺社勢力に向けての。
本当の外国勢力追放は、江戸幕府の「キリスト教禁止令」まで待たなくてはならない。
大政所をおおまさしょと読むのは草
秀吉も家康を粛清したかったのが正直なところだと思うが
それが無理ならせめて弱体化したかっただろうな。
家康にしても、豊臣家を滅ぼした後、豊臣恩顧の大名を前田家以外は何かに理由をつけて片っ端から潰したし
徳川政権初期では外様大名は全て潰したかったような感じだった
だけど、そこまで徹底的にやる力はさすがの秀吉にもなかったのだろう
明の永楽帝も漢の高祖も、即位すると有力な臣下は片っ端から粛清したが
中国の皇帝にはできても、日本では出来なかったのだろうな
明の太祖、洪武帝朱元璋の残虐さが秀吉にあれば家康は絶対に謀殺してましたね🤠
@@BENETTONCOP19
豊臣政権の時代は、豊臣秀吉の石高は200万石であり、家康の石高は250万石になっていたと言われますよ
徳川政権では幕府は600万石という圧倒的な石高を誇ったが。
豊臣政権では、そこまでの力はなかった。
毛利や宇喜多氏などの有力大名の支持を得て主導権を得ている政権だったから。
秀吉と言えど、家康を一方的に粛清するほど好き勝手なことはできなかったのでしょう。
@@御神誉黎 なるほど、そう言われればその通りですね。
豊臣家は譜代衆には絶対的な力が無く、大国の大名の支持の元に成り立っていたと思うと、確かに家康本人に手を出すには力が足りなかった訳ですね。明の太祖とは条件が違い過ぎますね🤠
秀吉は政権基盤が弱く、身内も弟の羽柴秀長以外は縁も薄く凡庸であり、自身を犠牲にしても主家に忠義を尽くす譜代家臣もいないから、全国統治のためには優秀な傘下大名に業務を委託せざるを得なかった。
家康みたいな優秀な人材を弱体化させるのは逆に豊臣政権の首を絞める事になる。
家康の関東移封も左遷などではなく必要な措置。
東国は独立気風が強く、土着勢力の影響力も強いため安定統治が困難な地域。なので全国統一に当たって取りあえず身内に任せとけばいいと言うわけには行かない。
京・大阪とも遠いので臨機応変の対応力、一揆も多いため内政力も必要、また面従腹背の東国大名を威圧出来るほどの存在感と軍事的履歴を持ち、また義理堅く主君を裏切った過去のない人物といえば前田利家と徳川家康しかいない。
家康は北条家との取り次ぎ役をしていたので東国大名にはコネクションがあり、結果東国支配を任される事になった。
そして結果的にパーフェクトな仕事をしている。少なくとも秀吉存命中は右腕とも言える存在。
だから徳川を羽柴に改姓させ「豊臣朝臣羽柴家康」として一族待遇にした。
奥州州仕置を行ったのは「益田」=>「増田(ました)」?
地震で殺せなかったのは大きい、朝鮮出兵の時に戦闘に出さなかったのは謎だけど
黒田長政は豊臣方ではなく、家康と親戚関係になっていて
関が原の戦いでは調略により勝利を納めた最大の功労者なので多いのは当然だよ。
秀吉は小田原平定よりも前に、琉球を薩摩に帰属させようとしてたし、スペイン領フィリピンに降伏勧告の書状を出してるし、天下統一よりも前に朝鮮や明の侵攻を計画してたよね。だから生かしたまま利用したほうが価値があると判断したんじゃないかな。
殺そうとはしてたよ 秀吉は小牧長久手の戦いで思いのほか粘られて、和睦にはなったけどその間に家康の同盟関係を調略・崩していって討伐or制圧する直前に天正地震で瓦解しただけ 九州平定の予定もあったし、家康を討伐するのは時間がかかるのを考えて臣従・融和策にきりかえただけ まぁその後は家康は秀吉に処刑理由が無いように慎重に忠実に律義者を通したけど豊臣政権の秀次事件なんか内部のごたごたに朝鮮出兵の失敗、秀吉の死で脆くなった所を滅ぼしたわけだけど
慶長大地震は捨象出来ないと思いますが
関東納められるのなんて家康しかいないからな
平野クソ広いけど北条以外まともに納められなかった土地でその北条が滅んで民心が安定してない
その上で周りが何するか分からん真田、若くて野心のありそうな伊達、関東管領継いでる上杉(長尾)
こんなのまとめて抑えるには関東全部まとめられる人が必要になるし、その力あるのなんて家康しかいない
家康に関東丸ごと預けたのは必然
地震のおかげ
三法師でしょ…
秀吉の実子でもない秀頼にまでに律儀する必要ないしな
藤原氏の養子になって関白になったのなら、どっかの源氏の養子になって将軍になればいいやんw
いや信長は信玄を滅ぼしてないですよ。
良かったぁ…ちゃんと
のぶかつ
って言ってるわ…
のぶおwww
@@紳士先輩-f8t えいゆう→ひでお
とかならまぁイイとしても大切な所はちゃんとしてもらわんと困る
マジレスすると「のぶを」と読んでる史料もある
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84
「三法師」のことを「みほうし」って言ってるけど💦
うちの子をおなしゃす…(´゚ω゚`)
殺さなかったのじゃなくて殺せなかったんだ。家康は危険を感じて近づかなかったのだろう。
家康はもしかして地震も起こせたのかな?
徳川秀忠は嫡男ではなく、三男ですよ(´・ω・`)
嫡男は長男て意味じゃなくて世継ぎ(家督を継ぐ立場の男子)の事ですよ
なので秀忠は嫡男です
嫡男は松平信康、次男は結城秀康、三男は徳川秀忠で、信康は既に故人、秀康は結城家を継いでいたから・・・秀忠が嫡男になる・・・と言う事ですね!?
失礼しました\(^o^)/
天正地震で家康討伐を諦めた。
バックミュージックがうるさ過ぎる
そりゃだって殺したら歴史変わっちゃうからだろ
地震が無ければ滅ぼしていただろう。
そうなると秀吉存命中はともかく死後の流れは大きく変わるかも。
小牧・長久手の戦いで家康にボロ負けしたからでしょ