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家康は前の天下人二人を見て、良い所も悪いところもしっかり勉強できたのが良かったのではと思いますね。
😂🎉😮😢❤😮 3:07
明白な争点を、簡潔にして丁寧に解説している力作です。場面場面で入る霊夢さんのツッコミがまたナイスです。家康のタヌキ親父ぶりは、冷徹の見通しのうえに計算されたものであることが判ります。戦国武将の最期の生き残りですから、伊達政宗や福島正則の一世武将を抑え込んだ手腕を視れば、他の二世、三世武将たちでは太刀打ちできませんね。
😊
家康は歴史上の先輩(鎌倉・室町)が後継者争いでボロボロになったり、形だけの将軍家になったりを見てきたので秀忠に長子相続を徹底するように言ったり、父親や信長が裏切りで死んだ事から近しい身内でも常に裏切りに注意し失態は厳しく罰して、秀吉が身内の層が薄いことを察して自身は11男5女とたくさんの子供を成した。江戸幕府が200年以上続いたのは家康が支配体制を徹底したからなんだよね。豊臣秀次が生きて関白続けたり、秀頼が周りの言葉を無視して徳川家に臣従を誓ったら豊臣恩顧の大名たちと言う不安を常に徳川家は抱え続けて江戸幕府も長続きしなかったかも。って言うifはいくら考えても尽きないですね。
家康は秀吉と和睦を結んだ時、自分は秀吉より長く生きればいずれ天下を取り、徳川家の時代が来ると確信したと思います。そのため健康に気を使って生きたと思います。大阪の陣は世に平和をもたらすには江戸幕府の安泰が大事であるため心を鬼にしたと思います。大坂夏の陣の後はやりきったのでしょう。最期は病に倒れますが。
最期は天ぷらで…
公家ではない人物が関白を横取りをした事がそもそもの始まりだと思う。
朝廷も秀吉の経済力で権威を復興できたのでWin-Winの側面あると思います。戦国の初めの頃は、天皇が死んでも葬儀すらあげれない衰退ぶりでしたしむしろ朝廷の最高職である関白で権力を振るってくれる方がありがたかったかも?(まあ、家康の時代に公家諸法度で対策されることになりますが)
最後の言葉、確かに私は家康って傲慢な人だと思っていました。ある方面ではそうなんだろうけど、その後250年も戦争が起きていない世の中をつくったのは己に対して傲慢なだけでは成し遂げられなかっただろうと考えを新たにしました。
国家安康の鐘を突いたことある。いい音した。鐘を突くのって気持ちいいよ。
家康の一番の勝利の要因は秀吉よりも14年も長く生きたってことだと思う。秀吉も61まで生きたのは当時では早く死んだ訳でもない。また、秀吉の死の後に前田利家も直ぐに死んだのも運が良かったと思う。
ほんそれ寿命が逆なら、秀忠の方が秀頼のような運命だったかも?ノブオは秀吉に歯が立たなかったし、秀頼は家康に完敗だった。2代目じゃ3英雄には勝てない
種ありと種無しの違い
いやこれは分かりやすい。私は初めて大坂の陣を理解した。関ヶ原の戦いで勝利して徳川家は安泰になったと思ってたけど、そのあとにもっと大きなクライマックスがあったんだね。真田信繫もいたんだね。wikiを見ると家康本陣にかなり迫ったとある。今度その辺りの動画を作ってチョンマゲ。
この部分は「葵・徳川三代」を観たいなあ。津川雅彦さんと西田敏行さんの親子演技。大阪城の高齢すぎたw小川真由美・淀殿とその周囲。登場する役者さん全員が名優、怪優ばかりで凄かったなあ。
更に石田三成が江守徹、お江が岩下志麻と贅沢すぎるキャスト。大河史上一番贅沢なキャストだった思う。
当時は若手がいなくて、華やかさにと思っていたけど、大人になって思うと、すごく豪華だった
実年齢と言うより、その人物の地位や雰囲気を、俳優の格や年齢で表したのかな?
生まれて初めて見た大河ドラマが『葵・徳川三代』この作品には、致命的とも言える大きな問題点がある。それは、大河ドラマ史上最も豪華で演技力のあるキャスト陣のせいでその後の大河ドラマが、どうしても物足りないと感じてしまうこと。徳川家康なんて、もう津川雅彦さん以外は考えられないくらい。そして、西田敏行さんは本当に凄い俳優さんだと思う。
この辺のムーブは本当に面白いただ後の世では好かれなくなってる原因でもある
あともう一つは豊臣秀頼だろうね。家康からしたら、秀頼を旗印にされたら天下を盤石できなくなってしまう。
二つの王様 もしくは大将は混乱の種になるから潰すのが正解よな
250年後徳川慶喜率いる幕府軍が大阪城に布陣をし、薩長中心の新政府軍に包囲されるとはさすがの家康も想像できなかったでしょうね
いいえ、してましたよ。伊勢から知多・渥美方面へ抜ける海上交通の要所には本多(忠勝)家を、伊吹山地と鈴鹿山脈の間から関ヶ原へ抜ける、陸上移動の要所には井伊家を、(Googleマップを見ると分かりやすいかも)配置してます。また、家康自身も遺言で、反徳川勢力は西方から進撃して来る事を想定し、死したる後も少しでも睨みをきかせるために、駿河久能山に西向きで埋葬するよう指示しています。なお家康は水戸徳川家に対しては、「水戸徳川家は、平素から勤王の志を厚くせよ。理由は、強大な反徳川勢力が現れた時、彼らは朝廷を旗頭にして、西方から江戸に進撃してくるだろうから、そうなった時、水戸徳川家は朝廷側につき、徳川将軍勢力・反徳川勢力のどっちが勝っても、"徳川"が残るようにせよ」という内容(徳川将軍家の畳み方?)の指示を残していたようです。
250年も雌伏していた、島津と毛利の凄さ!!!w
島津も毛利もいつかとは思ってたんだろうな関ヶ原の後に大分苦い思いさせられたしあれれ?でも吉川さんも島津さんも関ヶ原では動かなかったなw
島津は幕末だと、親幕府ですね。公武合体を進めてました。
家康は島津、毛利、伊達に関しては最期まで危惧してたからいつか反旗を翻されるかもくらい想像してたと思うよ。その辺の大名の処理する前に家康は寿命来ちゃっただけだな。
秀吉はあの世で豊臣の血を現在の皇室にまで残した姉に感謝すべきですね。
どのようないきさつで皇室に豊臣の血が残ったのでしょうか??知らなくて気になったので教えていただけると幸いです。
@@tomato-in5kt 徳川秀忠の正室であるお江は以前豊臣秀次の弟・秀勝の正室でしたが秀勝との間に生まれた娘の完子が公家・九条幸家に嫁ぎ、昭和天皇の母・貞明皇后がその子孫に当たるとされています。
@@山城弾正 なるほど、ありがとうございます
浅井も織田も豊臣も滅んだがその血は生きて残ったのよね
@@もいもいぶるぺん 織田は滅んでないぞw 信雄(宗家)を筆頭に大名や旗本として複数の家系が存続していて今でも居るよ。
家康の評価が分かれるというか最終的には太閤との裏切り関連の好き嫌いだね信用と信頼が好きな人とマキャベリズムが好きな人 人それぞれ
この動画だけまともなこと言ってる。豊臣方の最後の玉砕特攻は真田の功績にされているけど99.99%毛利勝永の功績。
ちゃんと正面部隊が堀を避けて回り込もうとした瞬間、家康本陣が見えたので一気に突撃してるから決断力はすごかったと思う。なので98%くらいかな?笑
BGMが工事現場のような音を出してるね
わずか7歳で殺された秀頼の子、国松。可哀想すぎるって。残酷。
源頼朝「せやせや、子供を殺すなんて残酷や」
家康は確かに軍事の達人でしたが、家康の一番の凄さはむしろ天下を簒奪し豊臣家を滅ぼした手腕の見事さにあるでしょう。政権が出来上がった後の簒奪の形となったためめ、豊臣家側もすんなり服従する訳にもいかず、そのため豊臣家を徹底して滅ぼさざるを得なかったのでしょう。当時の時点での善悪はともかく、この徹底した政権固めが結果的に後の世を安定させたのは確かだと思います。
たしかに東は上杉と伊達さえ抑えればなんとかなるから、西に睨みをきかせた家康は流石と思う。
伊達も上杉も前田も毛利も最後は平和を望んだと思います。徳川の隙を狙えるチャンスはあったと思うけど最後は平和を望んだ。
一つの体制が250年も続くなんて凄い事ですよね。太平洋戦争が終わって憲法が変わってまだ78年ですから•••。そう言う意味で戦国の世を終わらせた家康の偉業だと思います。
奇しくも大日本帝国は78年の命でしたね
まぁあの状態からなら誰でも収め続けれるよな
私も家康亡き後にまた戦乱の世に戻らないためにはやむなきことと考えます
秀吉が織田信長の遺児や血筋の者に対して如何に苛烈な仕打ちをしたか?これを知れば家康のする事に合点がいきやすいと思います。
苛烈な仕打ち?ああ、うつけ……もとい織田信雄を改易したことか織田信孝?あれは自分から戦を仕掛けたんだから自業自得だわしかも目標の秀吉ではなく信雄に切腹させられるという情けなさ
俯瞰して見ると、嘗て、織田家の跡目争いを利用して、織田政権を内から食い破って天下人となった豊臣家が秀吉死後に今度は、家康によって徐々に政権を侵食され、立場を逆転された挙げ句に滅ぼされるという大ブーメランを喰わされたといえますね。
@@浩一加来典型的なワンマンカリスマ社長の会社の1代きり倒産と同じ徳川みたいに自分の家系権力を継承し続けるシステムを作る努力/発想に欠けていた
ノブオはちゃんと家臣を纏めて家康旧領に国替えしてればよかった。 あんな大幅加増なのに、それを実行出来ないです、じゃ無能の烙印押されても仕方ないでしょう。 新年の挨拶求められただけで、秀吉派の重臣殺して挙兵した信雄。二条城で臣下の礼をして、家康が挙兵するまで交渉を続けた秀頼。 どちらがマシかは意見が別れるところだと思います。
これ見て、これから大河ドラマ『どうする家康』を見ると、また何かと興味深い内容になって来ますね。ありがとうございます。 🐧(笑
家康は勝頼の命を奪う気はなかったという描き方をしてる漫画を読んだことあります。仮に勝頼が自害しなかった場合、いずれ徳川家にとって脅威に成りかねないですから。考えづらいです。
@@kashizawa_kosuke さま 勝頼ではなく、秀頼ですよね? 🐧
一応公式には木下家だけど内輪として言う分には豊臣氏は存続してるし、極力秀頼との共存を示したのに拒否されたのは家康の方だけどね
方広寺の一件までは秀頼は最終的に家康の命令には全て従っています。逆らったのは大坂の陣が勃発してからです。
幕府側からすると、「豊臣家が実権を持たずに(せいぜい権威だけ有したお公家さんや一臣下になるか)、余計な煽動をしたり他勢力に利用されることがないなら、別に生かしておいて構わない」だったんじゃないかと思います。これだと戦乱の原因にはほぼならず無害なので。逆にいうと、豊臣家は「実権を持ち徳川との二頭体制になる可能性が十分あり、牢人衆を煽動したり、逆に牢人衆などが担ぐなどして新たな戦乱の要因になる」と判断されたでしょうし、また、豊臣家の存在や行動はそう判断するには十分だったと思いますね。
平家物語📖源頼朝を助けて平家は滅ぼされた歴史を知っていた~
権限持たなかったら喜連川藩みたいな形で豊臣も残ってた可能性あるよね。
秀吉が征夷大将軍になっていたなら豊臣家を滅ぼすしか無いけど関白だからね豊臣家を貴族にして貴族ごと権威だけの存在にするだけの話なんだよな
秀頼が朝廷の権威で政権を復活できたり関白の権威で徳川幕府を壊す権力を持つので生かしておけない?
家康は秀頼の官位が上がるのや、関白就任を徹底的に潰してるから、関白に成られることを一番恐れてたのかも?秀吉が朝廷の権威復興させまくったけど、将軍職は足利一族が権威下げまくってたし……
まあ豊臣家に先を見通す力のある人がいなかったのが原因だとは思いますね。秀頼も大将として、戦いに出てたらまた違ったかもです。
秀長や利家、蜂須賀が消え、次代のエースを期待された蒲生も消え…、人材が途切れてしまいましたからね😅
家康が秀頼と二条城で会見した時、秀頼のデカさ(身長197cm)にビビってコイツが経験も積んだら秀忠では手に負えん存在になると考えて本格的に動き出したんだとかちなみに母親の淀殿は身長168cmで祖父にあたる浅井長政は183cmでまじ巨人の血筋
それ、体躯だけでなく秀頼は利発で、その才能を家康が恐れたんじゃないかって説ありますね☺️
大阪城の内堀埋め立ては豊臣家との和睦の条件との説もありますケドね
秀忠の面子を豊臣側が傷付け過ぎたのが致命傷でしたね。清正や秀康が秀頼に好意的と言っても、秀吉自身が織田家を公卿格➕国持大名格として温存する条件で信長腹心の前田や池田を従えたのを実見した世代ですし。秀忠の統治力が低くない、と実績を積んだ時点で逆転は不可能かと。
個人的には、豊臣家は運が無かったとしか思えんわな。足利家(喜連川家)や今川家、吉良家などもコレクションしてる家康なんだから、元々豊臣家を公家として存続させる方向だったはず。武家としての羽柴家はとうに滅亡してるんだから、プライドと豊国大明神を捨てられれば、生き残ってただろうなぁ。
北政所の兄の木下家が豊臣家の後継として豊臣姓名乗ることも許されてる。家康も豊臣を弔う家は必要だと感じて氏族としてはちゃんと残してる。
@@satousato7 家康は豊臣を完全に滅ぼしたわけではないんだね。秀次とその妻子達を処刑したのは秀吉の完全な失策だな。処刑を決断したのは秀頼を跡継ぎに指名したかった為だが、その秀頼が秀吉の実子ではないと疑われてたらしい。男性不妊症が知られてない時代に。宣教師のフロイスも記述してるし、家康と北政所も疑ってた可能性高いね。
朝鮮出兵や家康を関東に追放など秀吉の失敗が原因だと思います。また弟の秀長や利休、利家らの死も秀吉にとっては痛かったでしょうね。
後づけ理由〜二度漬け禁止😅
朝鮮出兵は、おそらくスペインなどの西欧に対抗する目的がひとつ、あとは自分の出自が卑しいことから領土を褒美にしないと誰もついてこなくなるという不安からかなと思ってる
大坂の陣「真田信繫が味方だ、心強い」→「立花宗茂がなんで徳川秀忠の陣にいるんだぁ(絶望感)」これを仕掛けたのは真田信之が父子の助命嘆願をした際にバックアップした鹿角…w
そら西国最強がいたら誰でもビビるw
肖像画の合間に挟まれた五大老と五奉行のイラストが動画の見所☺️それはさておき、中世日本にあった東西分裂気味な状況が家康の死後も起きていたら、江戸時代はかなり違ったものになったような
幸村があと1歩まで家康に迫りあわやの場面だったと言うのはよく聞く話だけど、どれぐらいあわやだったのか観てみたいなぁと想いを馳せる。
それは難波戦記という江戸時代の軍記物での創作だから…。
@@user-ponkotsukakumei 創作なのですか…私の夢が音を立てて崩れた瞬間www
@@hanonpapadeb 幸村という名前が難波戦記で作られた名前ですからね…記録上は源二郎・信繁・左衛門佐・好白斎以外の名乗りは使ってないですから。
@@hanonpapadebでも、真田丸は実在し、徳川軍を苦しめたというのは事実ですよ😊
例えば、徳川と豊臣が逆な立場だったとしても同じ感じな政権争いと殺し合いがあるかもだから変わらないんでないかなぁ…
秀頼(お拾)の前に早世した鶴松の存在ははしょられてましたね(¯―¯٥)
秀吉はまず、子供ができにくい体だったことは確実、女選び方もねね以外は身分と美貌のみ、家康は確実に子孫を残せる女性の選び方している。朝鮮出兵もおろか極まりない事、もう、性格的長い政権は無理な秀吉、勝負は決まり、家康は愚かではないよ!
花のやうなる秀頼様を 鬼のやうなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ
秀吉の戦ってカネにあかせて兵站ですり潰すが基本思想。むしろ突出した個の武勇や知略を蹂躙しいうならばビジネスとして戦をするやり方なのよね。そのやり方で成り上がった豊臣最後の戦は「突出した個の武勇に縋る」だったというのはなんとも世の皮肉を感じさせる。
大坂夏の陣の後、250年以上も続く天下泰平の世が訪れたことを考えれば、豊臣家の滅亡や、家康が言いがかりをつけて戦争したこともしょうがなかったかもしれないですね。
8:23
秀頼との会見で家康の心が決まったとも云われる。京都で家康が上座で秀頼が下座から挨拶をした時に秀頼が優れた若者に成長し背丈も1m80センチ以上あり、圧倒された家康側が脅威と思った説が在ります。
今川家や、織田といった徳川政権における高家の面々を見れば、豊臣家も、天下人と、何百、何十という石高を捨てれば、生きていたかもしれないな!
ミスター武士道の言うこと(従属するなら、豊臣をなるべく存続させようとしていた)と真逆だな。
TH-camrの言うことを真に受けてはならない。ここも。
最期まで豊臣家に忠誠を尽くした真田信繁らはある意味侍魂を持っていたのでしょう。
真田もそうですが、家康が三成を褒める言葉も残していますね。 戦国時代の武士道は江戸時代のとは違って、終生忠義は必ずしも求められていなかったのに✨
@@一竿風月-t4b家康が実際そのように生きてきたからこそ主人亡き後も忠義を尽くす彼らがかっこよく見えたのかもしれんね
13:08の浅野長政の写真の名前が「福島正則」になってる。
一門衆が少なく適切な後継者を育成する事が困難な秀吉は世襲が慣例となっていた征夷大将軍に任命する事を避け、関白の地位を与える事で日本統一の権力を与え、後継者育成の仕組みを整備していた家康に征夷大将軍の地位を与えたのだと考えています。秀頼の関白就任の噂は豊臣側の勝手な期待で、凄い盛り上がっていたから家康が自分の官位を与えて宥めた、と言うのが実態で、大阪城を家康の言う通りに改修し恭順の意を示せば、千姫を嫁がせた秀頼を滅ぼす気はなかったと思います。
秀頼の関白就任まで関白職って凍結してたんじゃなかったっけな? たしか秀吉の遺言で。朝廷の業務が滞るからって理由で、家康が元の五摂家ローテーションに戻したら、秀頼が怒って右大臣辞めたんだったと思う。たしかに家康は、方広寺の一件辺りまで豊臣家を滅ぼす気は無かったと自分も思います。二条城の会見も危機感を感じたってよく言われてるけど、その後からきっぱり天下不審止めてるし、家康は共存の道はずっと模索してたんじゃないかな?
1611年の家康と秀頼の二条城での会見では、満を辞して京都にやって来た(秀頼はそれまで大坂城からほとんど出たことが無かった…)太閤の遺児秀頼を一目見ようと、街道には大勢の京都の民衆が集まり、中には歓声を上げる人もいた様で、それを見た(報告を受けた)家康は秀吉が死んで10年以上経つと言うのに、未だに根強い豊臣人気に少なからず動揺したでしょうし、何より脅威に感じたはずです😅さらに会見で立派に成長した(一説には秀頼は身長190cm体重120kgもあったそうです🐷)19才の秀頼を目の当たりにして、脅威が恐怖に変わったのかも知れませんね😱個人的には家康が豊臣家を本気で潰そうと決意したのは、この二条城会見が発端だと思っています‼️表向きには両家関係の宥和を計った会見が、滅亡へのカウントダウンのスタートになったのは、皮肉としか言いようがありません😰豊臣家(秀吉)人気で言うと、1604年に開催された秀吉の七回忌豊国大明神臨時祭は、空前絶後の大祭礼であったと諸記録に残されており、どれだけ賑やかで華やかなお祭りだったかは「豊国祭礼図屏風」にも描かれています✨こうした民衆の秀吉人気は家康にとって決して受け入れられないものであり、半ば嫉妬に近い感情もあったのかも知れません😂あ、浅野幸長は(よしなが)と読みます😆長文失礼しました🙏
暗殺暗躍二条城会見😂
判官贔屓〜同情集まる
あくまでも個人的意見です。信長・秀吉・家康の中で一番嫌いなのが家康。前者2人の功績を利用するのは良いさ、しかし滅亡ってなによ?本当に滅亡だよ?断絶とかではなくて、後に高家として織田氏(本当の血筋がいる)豊臣氏(所縁もなにもないこじつけで立てた)を起こさせてるけどな~にが約300年平和をなしただ。やったのは綱吉でしょ?
和睦の条件の外堀のみの埋め立ては、豊臣方が抗議したという記録もなく、徳川方も抗議を受けたという報告が一切存在していないため否定的な説が支配的です。
徳川が消したんじゃない?やりそうやん
@@いつかできるから今年サボる 他の大名の国元への手紙でも堀の埋め立てのトラブルは報告されていません。
歴史なんてものは、勝者が後でいくらでも改ざん出来る。
@@べーあー-l3i それを言ったら歴史を論ずること自体が無意味なことになるんだけどね。
抗議は大野らがしていますし、豊臣家は内堀埋めに参加していません。 一切合切です。 それどころか徳川が埋めた堀を堀り直している始末です。これをトラブルと呼ばずに何をトラブルと呼ぶのでしょう? やはり内堀は細川家の記録通り、豊臣側が無期限で埋めるはずだったのに、徳川に突貫工事で埋められたのが牢人の不満を煽り夏の陣へと繋がったと思われます。 わずか4ヶ月で牢人を3万人以上減らし、大阪城を裸城にした。ここは家康公の見事な謀だと讃えるべきではないでしょうか。
関白、太政大臣>征夷大将軍だし伺候席も無い時代だから純粋な朝廷官位も秀頼のが上豊臣姓は源平藤橘に並ぶ新姓の拝領。一方、徳川姓は既存の源平藤橘の一流派を名乗る事を認められたに過ぎない。明らかに「豊臣家の格」が高過ぎた。鎌倉幕府宜しく豊臣を傀儡に徳川が実権を握って盤石な体制を作っても永遠のNo.2は変わらないから滅ぼす気になったんやろな。
敵の子供はたとえ幼くても処刑する所に、大坂夏の陣辺りまでは戦国時代の延長の要素もあったのかも知れませんね。
徳川家は豊臣家を根絶やしにし、豊臣家は狐狩りと魔女狩りをし.....なんだかなぁ(´・ω・`; )
秀次を切腹に追いやったりして自滅したのは秀吉の方だけどね
豊臣秀頼を見た家康がその巨体としっかりした対応を見て、豊臣を滅ばさないと徳川がヤバいと思い滅ぼしたというのをネットで見た。
大河ドラマ真田丸ですね豊臣秀頼である!中川大志迫真の演技
@@ty-ko6rb同じ大河ドラマ「春日局」でも渡辺徹が秀頼でしたね。やはり偉丈夫という設定で😔
清正にしても正則にしても豊臣秀頼と最早、縁を持ちたくなかったっぽいね秀頼は若いから…とか言われて責任を追及されないけど彼の責任は大である
言霊の時代の当時にあの鐘の配慮の無さは責められて当然なんだけどね、少なくともいまだに徳川を主君と認めていないぞという意志有りと見られるのはしょうがない現存するのも「祟りは怖くないが豊臣に非がある証拠品だから破棄せずそのまま残すように」という指示があってもおかしくないし
家康は秀吉に頭下げたけど秀頼は家康に頭下げなかった大阪城方は全大名敵にして勝てると思ってたのかね頭を下げさせる気骨のある臣が秀頼の周りにいればね・・・関ヶ原から約15年も家康は待ってくれたんだよ
関白職は相続〜家康よりも上位にいた秀頼様m(__)m
熊本城の井戸底に秀頼子孫の木下姓の代々の位牌が安置されているというTV番組を昔見た記憶がありますが・・・。家康よりも朝廷から豊臣は嫌われていたのではないかと思います。
どうする家康で、誰か淀殿を演じるのか、楽しみです。
北川景子さんが演じています。お市の方と二役です。
ちなみに、江~姫達の戦国~だと、宮沢りえさんが淀殿を演じてましたね。
簡単。恨みを買ったから、人の恨みは怖い
結局幕末に薩摩(島津)と長州(毛利)に徳川幕府を滅ぼされるんだから徳川も因果応報よな
(´・ω・`)大阪城はフランキ砲で天守閣がやられてるから防御力は正直・・・大砲が無い時代だったら難攻不落だったんだろうけどね。あれがなければ豊臣方も和議には応じなかっただろう。
多分大坂城ほど本丸までの距離があると天守が防御を担うのは弓、鉄砲を使うような距離からだと思うから天守をやられた程度だとまだまだ大丈夫なはず。なので和議さえ応じていなければ……という感じですかね
最初から自分が生きてるうちに豊臣を潰すつもりだったんでしょ。また秀忠を家康は評価してなかったから秀忠には出来ないと思ってたんじゃないかな❓🤠
家康の行動は『悪』だったかもしれませんが江戸時代の太平の世の礎を築いたと考えれば悪とばかりは言えないと思います
豊臣が善なら家康は悪でしょう さて 豊臣は善と言えるでしょうか?秀吉も結構酷い事もしてるし
江戸時代は約260年間だもんねぇ。秀吉の時代は約60年間。
貨幣経済を軽視し、重農主義だった江戸時代も十分悪ですよ。しかも海外渡航制限に、管理貿易により、日本の銅はオランダに握られ、欧州の貨幣をコントロールされる始末。独自の文化こそ発展しましたが、技術力はほとんど進歩せず(事実、200年以上、江戸大坂間の人の移動時間にほとんど変化なし)。しかも日本人が海外にいけないのだから、当然情報不足に陥る。日本の昨今の外交下手は、この時代に作られたと思いますね。幕末の優秀な藩を見ていると、海外の技術をすぐに自国のものとした。産業革命も日本が世界初だったかもしれないだけに、勿体ない。
江戸時代を天下太平と見るか、産業革命や海外進出に乗り遅れた停滞期と見るかで評価が分かれるかもですね。ただ家康が日本屈指の英雄なのは間違いないと思います。
豊臣側「埋めるのは外堀のはず❗」徳川側「埋めるのは総堀と申した」
内堀もを埋めるのも冬の陣の講和の条件に入っているよ、ただ内堀を埋める工事をするのは豊臣方のはずだったのが徳川方が両方埋めたが
公武分担体制を豊臣家が早期に受け入れていればなあ…とりあえず大坂城を出て伏見城か三本木太閤装束屋敷(京都新城)に本拠地移転して世襲摂関家として全公家衆のトップとして朝廷公家サイドの代表者としての豊臣家に変化できていたら…武家伝奏ポジションとしての豊臣摂関家と徳川将軍家の共存共栄も可能性があったかなとも。石高は禁裏御料と他の公家衆の禄高トータルで五十万石弱で。年貢米管理出納の実務は幕府京都所司代が代行。豊臣家移転後の大坂城はもちろん幕府直轄で従来通り大坂城代を置いて管理。これが最適解じゃなかろうか。
😊😊
織田家の家系が現在まで続いていることを考えると豊臣家は惜しいことしましたね。意地張らずにさっさと家康に臣従するとか城を捨てて公家にでもなっていれば助かっただろうに。
たしかにそれが最適解かもしれませんね。ただ家康は大坂の陣までに3か条(国替え、人質、参勤)を突きつけていません。突きつけたのは片桐です。自主的に減封した大名など聞いたこともないですし、大坂城を出て、もし戦になれば惨敗は必須。現代人の我々には最適解が見えますが、当時の秀頼には難しかったのかもしれませんね。(総大将を信雄にしようとしてるし、どこまで実権があったかも不明ですし)
秀吉も織田家盗んだな
秀吉が織田家に対して行った事を身近で見てたわけだしね
解釈の一つではあるがな。徳川家は武家の棟梁としての征夷大将軍として。豊臣秀頼の子孫は武家とは別な、五摂家と並ぶものとして存続し得たはずだし。潰す理由にはならないわな。
仮に大坂の陣で家康の首を上げても負けたと思う。いっときは崩れても既に将軍は秀忠であり、その秀忠は後方に着陣している。父の敵討ち!と激を飛ばせば真田や毛利は殲滅されたであろう。よって家康だけではなく秀忠の首も上げることで徳川は総崩れする可能性があり、しかし流石に両方は無理でしょう。
鐘を破壊しなかったのは、証拠として残す為ではないでしょうか?
豊臣家の自滅って印象。今の感覚と違うのはわかるが。狸だなんだ言われてるけど、相当妥協と優遇は豊臣家にはしてるけどね。秀吉の行いも大概。
色づけ作業 🍢二度漬け禁止
寛大すぎるぐらいだよな。
千利休と甥の秀次を切腹させるし、信長の姪(淀殿)を側室にするし、お江与の方の最初の旦那と勝手に離縁させたから。
秀吉も信長暗殺の後色々やったからこれは残当
まあ豊臣家に先を見通す力のある人がいなかったのが原因だとは思いますね。
そもそも、信長の死後に部下達を秀吉は退けて、皆が後に家康に付き豊臣を潰しに掛かった。それは何を意味する?長宗我部の末裔として言います。
大阪夏の陣。 大河ドラマ第9作の「春の坂道」でしたか。1971年徳川秀忠の本陣がくずされ。守るは柳生宗矩ひとり。そこへ大阪方の兵が。確かー大野隊でしたか、赤槍隊でしたか?7人だったか、8人だったか。秀忠が数えていたらしい。そこへ味方が。それで大阪方は逃げていき。そのようなシーンがあったような?うろ覚えです。これは史実ですか?お願いします。夏の陣では真田信繁や毛利勝永が家康本陣へ迫ったという事ばかり。秀忠の本陣へは、どうだったのですか?物語日本史大系 第11巻(国会図書館)難波戦記 巻22 岡山合戦 P.189あたりを読んでも。大野治房麾下三万余で攻め立てたようですが。参謀本部編の日本戦史。大坂の役(国会図書館)P222でも。同じような内容ですか?詳しい方よろしくお願いします。
信長→天下統一(目前)秀吉→天下統一家康→天下簒奪
結局は天下人としての織田の系譜を徹底的に潰したかったんじゃない?秀吉死後の豊臣家は淀殿や大野治長や織田信雄、織田長益、織田信高ら織田の系譜が占めていたし。家臣としての織田家はOKだけど信長を想起させる天下人としての織田の系譜は憎んでいたのかも。ただ信康事件をどう扱うのかという問題はあるけれど、家康を密かに弱体化させたかった信長が家康直下の浜松衆と信康を擁する岡崎衆の対立を密かに煽って結果的に家康が信康を自主的に切腹させる羽目に遭わせたのかもと考えると、娘婿信康を操ってより織田家に直轄化させる為の家康の排除か徳川家の有望な跡継ぎの事前排除かどちらかでしょうな😅
家康は源頼朝をリスペクトしていた、としたら…やはり家康は豊臣を滅したんだと思うよ
大砲がたまたまやけど大阪城の天守閣の瓦にあたって講話しよるんやな。京都所司代を襲って瀬田のあたりまで進撃するとゆう幸村の進言きいとっとたら変わったかもしれんのにな。
これは源氏長者という関白以上すごい権力を持ったためでありますこの源氏長者は15代将軍徳川慶喜まで続きましたから~
豊臣家も既に豊氏長者兼藤氏長者だったワケですけど…五摂家含めて全ての藤原氏庶流公家衆の永久トップとして全公家をも家礼化してもちろん摂関ポストも豊臣家世襲制ということが秀吉逝去以前に実は確定していたのです。だからこそ関ヶ原戦役終結以降に武家統治者権能を徳川将軍家に移譲して全公家のトップとして朝廷公家衆サイドの代表者としてのみ永久世襲終身摂関家の豊臣家に規模縮小すれば生き残れる可能性があったと思われます。
武家の頂点は征夷大将軍ですから、公家と武家の両方の頂点に立ち、武家諸法渡と禁中並びに公家諸法渡を、制定出来た訳です。
豊臣一族は滅ぼしても実家の木下や甥の小出一族は根絶やしにしなかったのは何故だろう?。
大阪の陣で北政所の大阪城入城食い止めたり家康に協力的な姿勢を見せたから。それに戦後に弔いだったり豊臣家関連のごたごた色々あるから婚族くらいは残しておいたほうが都合がいい。
豊臣を滅ぼした家康のやり方は卑怯と言われそうだが見方を変えれば秀吉の遺した大坂城と家臣団の防御力は正攻法では落とせないほど強固だったということ。秀頼自身は未熟で取るに足らなくとも彼を神輿にして家臣団が抵抗する脅威を考えれば天下のために豊臣を根絶やしにしたのもやむを得ないことだろう。秀吉も主君の信長を失った織田家から権力を横取りしたからお互い様。所詮歴史は勝てば官軍だ。
家康は結構残忍で冷酷な一面があるからね結局戦国の大都圏である堺を滅ぼしたの家康だしな
加藤や浅野らの不審死の本当に怖い点は味方であり幼馴染であるはずの平岩親吉も切っているところだからかっこいいともいえる
徳川氏よりも、官位で豊臣氏にオーバーカムされてしまった藤原氏が豊臣氏を抹殺したくて仕方無かったんじゃ無いですかねぇ😊国家安康の銘も藤原氏による陰謀説を考えられては如何でしょう?😊
本来一族絶滅はタブーであったしかし清盛の例を鑑みて断行せざる得なかった特に跡継ぎ問題を重要視したのは織田豊臣を間近で目にしてきたからこそだろう
片桐且元も、淀殿に「家臣同士の争い」と言っていたらしいし、豊臣家に危機感がなかったのがダメなところのひとつかもしれません。
秀吉のし後の豊臣家がうまく行かなかったのは全て淀殿が実権を握っていたためだ。分かりもしない戦にまで口出ししたのもいけなかった。秀頼が母を抑えて実権を握っていれば歴史は変わっていたかもしれない。しかしもしかしたら秀頼本人にはその才覚が無かったのではないか、あまりに無能なため母の淀が仕切るしかなかったのかもしれない。秀頼についての歴史資料が乏しいのか彼のことがあまりよく分かっていないと言える。
秀吉も家康に、秀頼のことせめて自分が秀信にしたくらいの扱いにして欲しいと思っていたかもな
当時の家康の状況だったから豊臣を滅ぼせたよね。秀忠の代では難しかったでしょう。
平清盛が頼朝を生かした失敗を見てるから
後世での悪名を恐れず徹底的に豊臣家を潰した家康の執念に凄みを感じる。この甘さがまったくない冷徹ぶりは秀吉にもそして信長にもなかった家康の天下人たる特質だと思う
晩年秀吉は敵じゃなくて味方を根絶やしにしましたからね・・・・
はい。徳川家康の勝ち。
吾妻鏡を読んでたからだべ😅
まー秀次を殺した時から、豊臣は滅びに向かって行ったやな〜
その前の秀長が早逝した時からでしょう。
というよりも直属家臣団が弱すぎて、外様に政治権力を与えざるおえない状況であった事が問題だと思いますよ。秀吉が死んだ時点で豊臣家は詰んでいたと…。
@@黒煙-i3q そもそも、関ヶ原に豊臣の旗印を出さなかったのが間違え!西軍は、豊臣だと分かれば、豊臣恩顧の大名は寝返るか、国に帰る!だから、最初は家康は、豊臣恩顧の大名だけに先陣をさせて、自分はゆっくり来たんよ!
@@野坂慶一 それを言ったら、茶々を側室にした時からだよ!そもそも元凶は茶々やし!まー親の敵だし、良かったこもね!
これねちょっと短絡的なのよ徳川家が何故喜連川藩をつくったり織田家を尾張藩の中に残したのかってのにつながってくるんやけどその他に秀吉は信長の正当な後継としてなったけど家康は元々織田家の家臣ではないという側面もあったのよしかも秀吉は関白になってるから権威も違うとその辺は光秀が天海となって全国行脚をしてくれたおかげで事なきを得てはいたんだけれど後顧の憂いを断つ意味で徹底的にやった感じやねそれを島津にまでやってればもっと安泰やったんやろうけど時間が足りなかった
秀吉が死んだ後も「亡き太閤閣下との約束だから」と孫娘を秀頼に嫁がせてるから最初から邪魔で滅ぼしたかったってのは違うと思う。
織田家同様一大名家に落ちるか,公家化を選ぶと思って居たと思う淀の気位が高くてどうにもならなかったケド
@@jardins-du-cosmos 女はねぇ。。。。
@@jardins-du-cosmos 淀殿は宥和派なんだよなぁ
@@matukawatositaneなら芳春院の様に出家して江戸へ行くべきなのでは?全然宥和とはかけ離れた行動ばかりに感じます
@@andykamisama9406 本人は江戸行きも考慮してたけど…秀頼周辺がねぇ
家康ってやってることは会長島耕作やん笑
家康は、北条家の仇を取ったのだと思います。また、秀吉が大嫌いだったと思います。だから秀吉の子孫は、存続させたくないとも考えたのではないでしょうか?鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス 家康を例える歌があるが、秀吉の死を待っていたと言うことじゃないかな
もうひとつの理由ですが、南北朝の争いなのですよ。織田は福井の織田町に信長のお父さんだったかお爺さんだったかが武士の裁判官的な要職でした。だからなんですよ。では武田や徳川は北朝であり鎌倉幕府もお仲間となります。つまり天皇家に渡来系統が北朝であり、南朝は正統派となっており、明治維新で南朝側が勝って靖国神社なんて南朝側で亡くなった者を祀る神社を建立し、南朝側で亡くなった武将などを官位を与えて供養する形態が整い、北朝は何処にも祀られていないばかりか会津などの賊軍となった北朝側の者は軍隊でも最前線に行かされるのは北朝側の出身地の者と差別されてますよ。南朝は正統派となってるが李王朝の末裔支配で、日本の弱体化と削減になることに働きかけるのもしょうがないんだけどね😱
現在では騙して内堀を埋めたという通説は誤りとされています。内堀を埋めるのも和睦条件通りだったと一次資料から明らかになっています
家康は前の天下人二人を見て、良い所も悪いところもしっかり勉強できたのが良かったのではと思いますね。
😂🎉😮😢❤😮 3:07
明白な争点を、簡潔にして丁寧に解説している力作です。場面場面で入る霊夢さんのツッコミがまたナイスです。家康のタヌキ親父ぶりは、冷徹の見通しのうえに計算されたものであることが判ります。戦国武将の最期の生き残りですから、伊達政宗や福島正則の一世武将を抑え込んだ手腕を視れば、他の二世、三世武将たちでは太刀打ちできませんね。
😊
家康は歴史上の先輩(鎌倉・室町)が後継者争いでボロボロになったり、形だけの将軍家になったりを見てきたので秀忠に長子相続を徹底するように言ったり、父親や信長が裏切りで死んだ事から近しい身内でも常に裏切りに注意し失態は厳しく罰して、秀吉が身内の層が薄いことを察して自身は11男5女とたくさんの子供を成した。
江戸幕府が200年以上続いたのは家康が支配体制を徹底したからなんだよね。
豊臣秀次が生きて関白続けたり、秀頼が周りの言葉を無視して徳川家に臣従を誓ったら豊臣恩顧の大名たちと言う不安を常に徳川家は抱え続けて江戸幕府も長続きしなかったかも。
って言うifはいくら考えても尽きないですね。
家康は秀吉と和睦を結んだ時、自分は秀吉より長く生きればいずれ天下を取り、徳川家の時代が来ると確信したと思います。そのため健康に気を使って生きたと思います。大阪の陣は世に平和をもたらすには江戸幕府の安泰が大事であるため心を鬼にしたと思います。大坂夏の陣の後はやりきったのでしょう。最期は病に倒れますが。
最期は天ぷらで…
公家ではない人物が関白を横取りをした事がそもそもの始まりだと思う。
朝廷も秀吉の経済力で権威を復興できたのでWin-Winの側面あると思います。
戦国の初めの頃は、天皇が死んでも葬儀すらあげれない衰退ぶりでしたし
むしろ朝廷の最高職である関白で権力を振るってくれる方がありがたかったかも?
(まあ、家康の時代に公家諸法度で対策されることになりますが)
最後の言葉、
確かに私は家康って傲慢な人だと思っていました。
ある方面ではそうなんだろうけど、
その後250年も戦争が起きていない世の中をつくったのは
己に対して傲慢なだけでは成し遂げられなかっただろうと考えを新たにしました。
国家安康の鐘を突いたことある。いい音した。鐘を突くのって気持ちいいよ。
家康の一番の勝利の要因は秀吉よりも14年も長く生きたってことだと思う。
秀吉も61まで生きたのは当時では早く死んだ訳でもない。
また、秀吉の死の後に前田利家も直ぐに死んだのも運が良かったと思う。
ほんそれ
寿命が逆なら、秀忠の方が秀頼のような運命だったかも?
ノブオは秀吉に歯が立たなかったし、秀頼は家康に完敗だった。
2代目じゃ3英雄には勝てない
種ありと種無しの違い
いやこれは分かりやすい。私は初めて大坂の陣を理解した。関ヶ原の戦いで勝利して徳川家は安泰になったと思ってたけど、そのあとにもっと大きなクライマックスがあったんだね。
真田信繫もいたんだね。wikiを見ると家康本陣にかなり迫ったとある。今度その辺りの動画を作ってチョンマゲ。
この部分は「葵・徳川三代」を観たいなあ。津川雅彦さんと西田敏行さんの親子演技。
大阪城の高齢すぎたw小川真由美・淀殿とその周囲。登場する役者さん全員が名優、怪優ばかりで凄かったなあ。
更に石田三成が江守徹、お江が岩下志麻と贅沢すぎるキャスト。大河史上一番贅沢なキャストだった思う。
当時は若手がいなくて、華やかさにと思っていたけど、大人になって思うと、すごく豪華だった
実年齢と言うより、その人物の地位や雰囲気を、俳優の格や年齢で表したのかな?
生まれて初めて見た大河ドラマが『葵・徳川三代』
この作品には、致命的とも言える大きな問題点がある。
それは、大河ドラマ史上最も豪華で演技力のあるキャスト陣のせいで
その後の大河ドラマが、どうしても物足りないと感じてしまうこと。
徳川家康なんて、もう津川雅彦さん以外は考えられないくらい。
そして、西田敏行さんは本当に凄い俳優さんだと思う。
この辺のムーブは本当に面白い
ただ後の世では好かれなくなってる原因でもある
あともう一つは豊臣秀頼だろうね。家康からしたら、秀頼を旗印にされたら天下を盤石できなくなってしまう。
二つの王様 もしくは大将は混乱の種になるから
潰すのが正解よな
250年後徳川慶喜率いる幕府軍が大阪城に布陣をし、薩長中心の新政府軍に包囲されるとはさすがの家康も想像できなかったでしょうね
いいえ、してましたよ。
伊勢から知多・渥美方面へ抜ける海上交通の要所には本多(忠勝)家を、
伊吹山地と鈴鹿山脈の間から関ヶ原へ抜ける、陸上移動の要所には井伊家を、(Googleマップを見ると分かりやすいかも)配置してます。
また、家康自身も遺言で、反徳川勢力は西方から進撃して来る事を想定し、死したる後も少しでも睨みをきかせるために、駿河久能山に西向きで埋葬するよう指示しています。
なお家康は水戸徳川家に対しては、
「水戸徳川家は、平素から勤王の志を厚くせよ。
理由は、強大な反徳川勢力が現れた時、彼らは朝廷を旗頭にして、西方から江戸に進撃してくるだろうから、そうなった時、水戸徳川家は朝廷側につき、徳川将軍勢力・反徳川勢力のどっちが勝っても、"徳川"が残るようにせよ」
という内容(徳川将軍家の畳み方?)の指示を残していたようです。
250年も雌伏していた、島津と毛利の凄さ!!!w
島津も毛利もいつかとは思ってたんだろうな
関ヶ原の後に大分苦い思いさせられたし
あれれ?でも吉川さんも島津さんも関ヶ原では動かなかったなw
島津は幕末だと、親幕府ですね。公武合体を進めてました。
家康は島津、毛利、伊達に関しては最期まで危惧してたからいつか反旗を翻されるかもくらい想像してたと思うよ。その辺の大名の処理する前に家康は寿命来ちゃっただけだな。
秀吉はあの世で豊臣の血を現在の皇室にまで残した姉に感謝すべきですね。
どのようないきさつで皇室に豊臣の血が残ったのでしょうか??知らなくて気になったので教えていただけると幸いです。
@@tomato-in5kt
徳川秀忠の正室であるお江は以前豊臣秀次の弟・秀勝の正室でしたが秀勝との間に生まれた娘の完子が公家・九条幸家に嫁ぎ、昭和天皇の母・貞明皇后がその子孫に当たるとされています。
@@山城弾正 なるほど、ありがとうございます
浅井も織田も豊臣も滅んだが
その血は生きて残ったのよね
@@もいもいぶるぺん 織田は滅んでないぞw 信雄(宗家)を筆頭に大名や旗本として複数の家系が存続していて今でも居るよ。
家康の評価が分かれるというか最終的には太閤との裏切り関連の好き嫌いだね
信用と信頼が好きな人とマキャベリズムが好きな人 人それぞれ
この動画だけまともなこと言ってる。
豊臣方の最後の玉砕特攻は真田の功績にされているけど99.99%毛利勝永の功績。
ちゃんと正面部隊が堀を避けて回り込もうとした瞬間、家康本陣が見えたので一気に突撃してるから決断力はすごかったと思う。
なので98%くらいかな?笑
BGMが工事現場のような音を出してるね
わずか7歳で殺された秀頼の子、国松。可哀想すぎるって。残酷。
源頼朝「せやせや、子供を殺すなんて残酷や」
家康は確かに軍事の達人でしたが、家康の一番の凄さはむしろ天下を簒奪し豊臣家を滅ぼした手腕の見事さにあるでしょう。
政権が出来上がった後の簒奪の形となったためめ、豊臣家側もすんなり服従する訳にもいかず、そのため豊臣家を徹底して滅ぼさざるを得なかったのでしょう。
当時の時点での善悪はともかく、この徹底した政権固めが結果的に後の世を安定させたのは確かだと思います。
たしかに東は上杉と伊達さえ抑えればなんとかなるから、西に睨みをきかせた家康は流石と思う。
伊達も上杉も前田も毛利も最後は平和を望んだと思います。徳川の隙を狙えるチャンスはあったと思うけど最後は平和を望んだ。
一つの体制が250年も続くなんて凄い事ですよね。太平洋戦争が終わって憲法が変わってまだ78年ですから•••。そう言う意味で戦国の世を終わらせた家康の偉業だと思います。
奇しくも大日本帝国は78年の命でしたね
まぁあの状態からなら誰でも収め続けれるよな
私も家康亡き後にまた戦乱の世に戻らないためにはやむなきことと考えます
秀吉が織田信長の遺児や血筋の者に対して如何に苛烈な仕打ちをしたか?
これを知れば家康のする事に合点がいきやすいと思います。
苛烈な仕打ち?
ああ、うつけ……もとい織田信雄を改易したことか
織田信孝?
あれは自分から戦を仕掛けたんだから自業自得だわ
しかも目標の秀吉ではなく信雄に切腹させられるという情けなさ
俯瞰して見ると、嘗て、織田家の跡目争いを利用して、織田政権を内から食い破って天下人となった豊臣家が秀吉死後に今度は、家康によって徐々に政権を侵食され、立場を逆転された挙げ句に滅ぼされるという大ブーメランを喰わされたといえますね。
@@浩一加来
典型的なワンマンカリスマ社長の会社の1代きり倒産と同じ
徳川みたいに自分の家系権力を継承し続けるシステムを作る努力/発想に欠けていた
ノブオはちゃんと家臣を纏めて家康旧領に国替えしてればよかった。
あんな大幅加増なのに、それを実行出来ないです、じゃ無能の烙印押されても仕方ないでしょう。
新年の挨拶求められただけで、秀吉派の重臣殺して挙兵した信雄。
二条城で臣下の礼をして、家康が挙兵するまで交渉を続けた秀頼。
どちらがマシかは意見が別れるところだと思います。
これ見て、これから大河ドラマ『どうする家康』を見ると、また何かと興味深い内容になって来ますね。
ありがとうございます。 🐧(笑
家康は勝頼の命を奪う気はなかったという描き方をしてる漫画を読んだことあります。仮に勝頼が自害しなかった場合、いずれ徳川家にとって脅威に成りかねないですから。考えづらいです。
@@kashizawa_kosuke さま 勝頼ではなく、秀頼ですよね? 🐧
一応公式には木下家だけど内輪として言う分には豊臣氏は存続してるし、極力秀頼との共存を示したのに拒否されたのは家康の方だけどね
方広寺の一件までは秀頼は最終的に家康の命令には全て従っています。
逆らったのは大坂の陣が勃発してからです。
幕府側からすると、「豊臣家が実権を持たずに(せいぜい権威だけ有したお公家さんや一臣下になるか)、余計な煽動をしたり他勢力に利用されることがないなら、別に生かしておいて構わない」だったんじゃないかと思います。これだと戦乱の原因にはほぼならず無害なので。
逆にいうと、豊臣家は「実権を持ち徳川との二頭体制になる可能性が十分あり、牢人衆を煽動したり、逆に牢人衆などが担ぐなどして新たな戦乱の要因になる」と判断されたでしょうし、また、豊臣家の存在や行動はそう判断するには十分だったと思いますね。
平家物語📖源頼朝を助けて平家は滅ぼされた歴史を知っていた~
権限持たなかったら喜連川藩みたいな形で豊臣も残ってた可能性あるよね。
秀吉が征夷大将軍になっていたなら豊臣家を滅ぼすしか無いけど関白だからね
豊臣家を貴族にして貴族ごと権威だけの存在にするだけの話なんだよな
秀頼が朝廷の権威で政権を復活できたり関白の権威で徳川幕府を壊す権力を持つので生かしておけない?
家康は秀頼の官位が上がるのや、関白就任を徹底的に潰してるから、関白に成られることを一番恐れてたのかも?
秀吉が朝廷の権威復興させまくったけど、将軍職は足利一族が権威下げまくってたし……
まあ豊臣家に先を見通す力のある人がいなかったのが原因だとは思いますね。秀頼も大将として、戦いに出てたらまた違ったかもです。
秀長や利家、蜂須賀が消え、次代のエースを期待された蒲生も消え…、人材が途切れてしまいましたからね😅
家康が秀頼と二条城で会見した時、秀頼のデカさ(身長197cm)にビビってコイツが経験も積んだら秀忠では手に負えん存在になると考えて本格的に動き出したんだとか
ちなみに母親の淀殿は身長168cmで祖父にあたる浅井長政は183cmでまじ巨人の血筋
それ、体躯だけでなく秀頼は利発で、その才能を家康が恐れたんじゃないかって説ありますね☺️
大阪城の内堀埋め立ては豊臣家との和睦の条件との説もありますケドね
秀忠の面子を豊臣側が傷付け過ぎたのが致命傷でしたね。
清正や秀康が秀頼に好意的と言っても、秀吉自身が織田家を公卿格➕国持大名格として温存する条件で信長腹心の前田や池田を従えたのを実見した世代ですし。
秀忠の統治力が低くない、と実績を積んだ時点で逆転は不可能かと。
個人的には、豊臣家は運が無かったとしか思えんわな。
足利家(喜連川家)や今川家、吉良家などもコレクションしてる家康なんだから、元々豊臣家を公家として存続させる方向だったはず。
武家としての羽柴家はとうに滅亡してるんだから、プライドと豊国大明神を捨てられれば、生き残ってただろうなぁ。
北政所の兄の木下家が豊臣家の後継として豊臣姓名乗ることも許されてる。家康も豊臣を弔う家は必要だと感じて氏族としてはちゃんと残してる。
@@satousato7
家康は豊臣を完全に滅ぼしたわけではないんだね。
秀次とその妻子達を処刑したのは秀吉の完全な失策だな。処刑を決断したのは秀頼を跡継ぎに指名したかった為だが、その秀頼が秀吉の実子ではないと疑われてたらしい。男性不妊症が知られてない時代に。
宣教師のフロイスも記述してるし、家康と北政所も疑ってた可能性高いね。
朝鮮出兵や家康を関東に追放など秀吉の失敗が原因だと思います。また弟の秀長や利休、利家らの死も秀吉にとっては痛かったでしょうね。
後づけ理由〜二度漬け禁止😅
朝鮮出兵は、おそらくスペインなどの西欧に対抗する目的がひとつ、あとは自分の出自が卑しいことから領土を褒美にしないと誰もついてこなくなるという不安からかなと思ってる
大坂の陣「真田信繫が味方だ、心強い」→「立花宗茂がなんで徳川秀忠の陣にいるんだぁ(絶望感)」
これを仕掛けたのは真田信之が父子の助命嘆願をした際にバックアップした鹿角…w
そら西国最強がいたら誰でもビビるw
肖像画の合間に挟まれた五大老と五奉行のイラストが動画の見所☺️
それはさておき、中世日本にあった東西分裂気味な状況が家康の死後も起きていたら、江戸時代はかなり違ったものになったような
幸村があと1歩まで家康に迫りあわやの場面だったと言うのはよく聞く話だけど、どれぐらいあわやだったのか観てみたいなぁと想いを馳せる。
それは難波戦記という江戸時代の
軍記物での創作だから…。
@@user-ponkotsukakumei 創作なのですか…私の夢が音を立てて崩れた瞬間www
@@hanonpapadeb
幸村という名前が難波戦記で作られた
名前ですからね…
記録上は源二郎・信繁・左衛門佐・好白斎
以外の名乗りは使ってないですから。
@@hanonpapadebでも、真田丸は実在し、徳川軍を苦しめたというのは事実ですよ😊
例えば、徳川と豊臣が逆な立場だったとしても同じ感じな政権争いと殺し合いがあるかもだから変わらないんでないかなぁ…
秀頼(お拾)の前に早世した鶴松の存在ははしょられてましたね(¯―¯٥)
秀吉はまず、子供ができにくい体だったことは確実、女選び方もねね以外は身分と美貌のみ、家康は確実に子孫を残せる女性の選び方している。
朝鮮出兵もおろか極まりない事、もう、性格的長い政権は無理な秀吉、勝負は決まり、家康は愚かではないよ!
花のやうなる秀頼様を 鬼のやうなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ
秀吉の戦ってカネにあかせて兵站ですり潰すが基本思想。むしろ突出した個の武勇や知略を蹂躙しいうならばビジネスとして戦をするやり方なのよね。
そのやり方で成り上がった豊臣最後の戦は「突出した個の武勇に縋る」だったというのはなんとも世の皮肉を感じさせる。
大坂夏の陣の後、250年以上も続く天下泰平の世が訪れたことを考えれば、
豊臣家の滅亡や、家康が言いがかりをつけて戦争したこともしょうがなかったかもしれないですね。
8:23
秀頼との会見で家康の心が決まったとも云われる。京都で家康が上座で秀頼が下座から挨拶をした時に秀頼が優れた若者に成長し背丈も1m80センチ以上あり、圧倒された家康側が脅威と思った説が在ります。
今川家や、織田といった徳川政権における高家の面々を見れば、豊臣家も、天下人と、何百、何十という石高を捨てれば、生きていたかもしれないな!
ミスター武士道の言うこと(従属するなら、豊臣をなるべく存続させようとしていた)と真逆だな。
TH-camrの言うことを真に受けてはならない。ここも。
最期まで豊臣家に忠誠を尽くした真田信繁らはある意味侍魂を持っていたのでしょう。
真田もそうですが、家康が三成を褒める言葉も残していますね。 戦国時代の武士道は江戸時代のとは違って、終生忠義は必ずしも求められていなかったのに✨
@@一竿風月-t4b
家康が実際そのように生きてきたからこそ
主人亡き後も忠義を尽くす彼らがかっこよく見えたのかもしれんね
13:08の浅野長政の写真の名前が「福島正則」になってる。
一門衆が少なく適切な後継者を育成する事が困難な秀吉は世襲が慣例となっていた征夷大将軍に任命する事を避け、関白の地位を与える事で日本統一の権力を与え、後継者育成の仕組みを整備していた家康に征夷大将軍の地位を与えたのだと考えています。
秀頼の関白就任の噂は豊臣側の勝手な期待で、凄い盛り上がっていたから家康が自分の官位を与えて宥めた、と言うのが実態で、大阪城を家康の言う通りに改修し恭順の意を示せば、千姫を嫁がせた秀頼を滅ぼす気はなかったと思います。
秀頼の関白就任まで関白職って凍結してたんじゃなかったっけな?
たしか秀吉の遺言で。
朝廷の業務が滞るからって理由で、家康が元の五摂家ローテーションに戻したら、秀頼が怒って右大臣辞めたんだったと思う。
たしかに家康は、方広寺の一件辺りまで豊臣家を滅ぼす気は無かったと自分も思います。
二条城の会見も危機感を感じたってよく言われてるけど、その後からきっぱり天下不審止めてるし、家康は共存の道はずっと模索してたんじゃないかな?
1611年の家康と秀頼の二条城での会見では、満を辞して京都にやって来た(秀頼はそれまで大坂城からほとんど出たことが無かった…)太閤の遺児秀頼を一目見ようと、街道には大勢の京都の民衆が集まり、中には歓声を上げる人もいた様で、それを見た(報告を受けた)家康は秀吉が死んで10年以上経つと言うのに、未だに根強い豊臣人気に少なからず動揺したでしょうし、何より脅威に感じたはずです😅
さらに会見で立派に成長した(一説には秀頼は身長190cm体重120kgもあったそうです🐷)19才の秀頼を目の当たりにして、脅威が恐怖に変わったのかも知れませんね😱
個人的には家康が豊臣家を本気で潰そうと決意したのは、この二条城会見が発端だと思っています‼️
表向きには両家関係の宥和を計った会見が、滅亡へのカウントダウンのスタートになったのは、皮肉としか言いようがありません😰
豊臣家(秀吉)人気で言うと、1604年に開催された秀吉の七回忌豊国大明神臨時祭は、空前絶後の大祭礼であったと諸記録に残されており、どれだけ賑やかで華やかなお祭りだったかは「豊国祭礼図屏風」にも描かれています✨
こうした民衆の秀吉人気は家康にとって決して受け入れられないものであり、半ば嫉妬に近い感情もあったのかも知れません😂
あ、浅野幸長は(よしなが)と読みます😆
長文失礼しました🙏
暗殺暗躍二条城会見😂
判官贔屓〜同情集まる
あくまでも個人的意見です。
信長・秀吉・家康の中で一番嫌いなのが家康。
前者2人の功績を利用するのは良いさ、しかし滅亡ってなによ?
本当に滅亡だよ?断絶とかではなくて、後に高家として織田氏(本当の血筋がいる)
豊臣氏(所縁もなにもないこじつけで立てた)を起こさせてるけどな~にが約300年
平和をなしただ。やったのは綱吉でしょ?
和睦の条件の外堀のみの埋め立ては、豊臣方が抗議したという記録もなく、徳川方も抗議を受けたという報告が一切存在していないため否定的な説が支配的です。
徳川が消したんじゃない?
やりそうやん
@@いつかできるから今年サボる
他の大名の国元への手紙でも堀の埋め立てのトラブルは報告されていません。
歴史なんてものは、勝者が後でいくらでも改ざん出来る。
@@べーあー-l3i
それを言ったら歴史を論ずること自体が無意味なことになるんだけどね。
抗議は大野らがしていますし、豊臣家は内堀埋めに参加していません。
一切合切です。
それどころか徳川が埋めた堀を堀り直している始末です。
これをトラブルと呼ばずに何をトラブルと呼ぶのでしょう?
やはり内堀は細川家の記録通り、豊臣側が無期限で埋めるはずだったのに、徳川に突貫工事で埋められたのが牢人の不満を煽り夏の陣へと繋がったと思われます。
わずか4ヶ月で牢人を3万人以上減らし、大阪城を裸城にした。
ここは家康公の見事な謀だと讃えるべきではないでしょうか。
関白、太政大臣>征夷大将軍だし伺候席も無い時代だから純粋な朝廷官位も秀頼のが上
豊臣姓は源平藤橘に並ぶ新姓の拝領。
一方、徳川姓は既存の源平藤橘の一流派を名乗る事を認められたに過ぎない。
明らかに「豊臣家の格」が高過ぎた。
鎌倉幕府宜しく豊臣を傀儡に徳川が実権を握って盤石な体制を作っても永遠のNo.2は変わらないから滅ぼす気になったんやろな。
敵の子供はたとえ幼くても処刑する所に、大坂夏の陣辺りまでは戦国時代の延長の要素もあったのかも知れませんね。
徳川家は豊臣家を根絶やしにし、豊臣家は狐狩りと魔女狩りをし.....
なんだかなぁ(´・ω・`; )
秀次を切腹に追いやったりして自滅したのは秀吉の方だけどね
豊臣秀頼を見た家康がその巨体としっかりした対応を見て、豊臣を滅ばさないと徳川がヤバいと思い滅ぼしたというのをネットで見た。
大河ドラマ真田丸ですね
豊臣秀頼である!中川大志迫真の演技
@@ty-ko6rb同じ大河ドラマ「春日局」でも渡辺徹が秀頼でしたね。やはり偉丈夫という設定で😔
清正にしても正則にしても豊臣秀頼と最早、縁を持ちたくなかったっぽいね
秀頼は若いから…とか言われて責任を追及されないけど彼の責任は大である
言霊の時代の当時にあの鐘の配慮の無さは責められて当然なんだけどね、少なくともいまだに徳川を主君と認めていないぞという意志有りと見られるのはしょうがない
現存するのも「祟りは怖くないが豊臣に非がある証拠品だから破棄せずそのまま残すように」という指示があってもおかしくないし
家康は秀吉に頭下げたけど
秀頼は家康に頭下げなかった
大阪城方は全大名敵にして勝てると思ってたのかね
頭を下げさせる気骨のある臣が秀頼の周りにいればね・・・
関ヶ原から約15年も家康は待ってくれたんだよ
関白職は相続〜家康よりも上位にいた秀頼様m(__)m
熊本城の井戸底に秀頼子孫の木下姓の代々の位牌が安置されているというTV番組を昔見た記憶がありますが・・・。
家康よりも朝廷から豊臣は嫌われていたのではないかと思います。
どうする家康で、誰か淀殿を演じるのか、楽しみです。
北川景子さんが演じています。お市の方と二役です。
ちなみに、江~姫達の戦国~だと、宮沢りえさんが淀殿を演じてましたね。
簡単。恨みを買ったから、人の恨みは怖い
結局幕末に薩摩(島津)と長州(毛利)に徳川幕府を滅ぼされるんだから徳川も因果応報よな
(´・ω・`)大阪城はフランキ砲で天守閣がやられてるから防御力は正直・・・
大砲が無い時代だったら難攻不落だったんだろうけどね。
あれがなければ豊臣方も和議には応じなかっただろう。
多分大坂城ほど本丸までの距離があると天守が防御を担うのは弓、鉄砲を使うような距離からだと思うから天守をやられた程度だとまだまだ大丈夫なはず。
なので和議さえ応じていなければ……
という感じですかね
最初から自分が生きてるうちに豊臣を潰すつもりだったんでしょ。また秀忠を家康は評価してなかったから秀忠には出来ないと思ってたんじゃないかな❓🤠
家康の行動は『悪』だったかもしれませんが江戸時代の太平の世の礎を築いたと考えれば悪とばかりは言えないと思います
豊臣が善なら家康は悪でしょう さて 豊臣は善と言えるでしょうか?
秀吉も結構酷い事もしてるし
江戸時代は約260年間だもんねぇ。
秀吉の時代は約60年間。
貨幣経済を軽視し、重農主義だった江戸時代も十分悪ですよ。しかも海外渡航制限に、管理貿易により、日本の銅はオランダに握られ、欧州の貨幣をコントロールされる始末。独自の文化こそ発展しましたが、技術力はほとんど進歩せず(事実、200年以上、江戸大坂間の人の移動時間にほとんど変化なし)。しかも日本人が海外にいけないのだから、当然情報不足に陥る。日本の昨今の外交下手は、この時代に作られたと思いますね。幕末の優秀な藩を見ていると、海外の技術をすぐに自国のものとした。産業革命も日本が世界初だったかもしれないだけに、勿体ない。
江戸時代を天下太平と見るか、産業革命や海外進出に乗り遅れた停滞期と見るかで評価が分かれるかもですね。
ただ家康が日本屈指の英雄なのは間違いないと思います。
豊臣側「埋めるのは外堀のはず❗」
徳川側「埋めるのは総堀と申した」
内堀もを埋めるのも冬の陣の講和の条件に入っているよ、ただ内堀を埋める工事をするのは豊臣方のはずだったのが徳川方が両方埋めたが
公武分担体制を豊臣家が早期に受け入れていればなあ…
とりあえず大坂城を出て
伏見城か三本木太閤装束屋敷(京都新城)に本拠地移転して
世襲摂関家として全公家衆のトップとして
朝廷公家サイドの代表者としての豊臣家に変化できていたら…
武家伝奏ポジションとしての豊臣摂関家と徳川将軍家の共存共栄も可能性があったかなとも。
石高は禁裏御料と他の公家衆の禄高トータルで五十万石弱で。
年貢米管理出納の実務は幕府京都所司代が代行。
豊臣家移転後の大坂城はもちろん幕府直轄で
従来通り大坂城代を置いて管理。
これが最適解じゃなかろうか。
😊😊
織田家の家系が現在まで続いていることを考えると豊臣家は惜しいことしましたね。意地張らずにさっさと家康に臣従するとか城を捨てて公家にでもなっていれば助かっただろうに。
たしかにそれが最適解かもしれませんね。
ただ家康は大坂の陣までに3か条(国替え、人質、参勤)を突きつけていません。
突きつけたのは片桐です。
自主的に減封した大名など聞いたこともないですし、大坂城を出て、もし戦になれば惨敗は必須。
現代人の我々には最適解が見えますが、当時の秀頼には難しかったのかもしれませんね。
(総大将を信雄にしようとしてるし、どこまで実権があったかも不明ですし)
秀吉も織田家盗んだな
秀吉が織田家に対して行った事を身近で見てたわけだしね
解釈の一つではあるがな。徳川家は武家の棟梁としての征夷大将軍として。豊臣秀頼の子孫は武家とは別な、五摂家と並ぶものとして存続し得たはずだし。潰す理由にはならないわな。
仮に大坂の陣で家康の首を上げても負けたと思う。
いっときは崩れても既に将軍は秀忠であり、その秀忠は後方に着陣している。
父の敵討ち!と激を飛ばせば真田や毛利は殲滅されたであろう。
よって家康だけではなく秀忠の首も上げることで徳川は総崩れする可能性があり、しかし流石に両方は無理でしょう。
鐘を破壊しなかったのは、証拠として残す為ではないでしょうか?
豊臣家の自滅って印象。
今の感覚と違うのはわかるが。
狸だなんだ言われてるけど、相当妥協と優遇は豊臣家にはしてるけどね。
秀吉の行いも大概。
色づけ作業 🍢二度漬け禁止
寛大すぎるぐらいだよな。
千利休と甥の秀次を切腹させるし、信長の姪(淀殿)を側室にするし、お江与の方の最初の旦那と勝手に離縁させたから。
秀吉も信長暗殺の後色々やったからこれは残当
まあ豊臣家に先を見通す力のある人がいなかったのが原因だとは思いますね。
そもそも、信長の死後に部下達を秀吉は退けて、皆が後に家康に付き豊臣を潰しに掛かった。それは何を意味する?長宗我部の末裔として言います。
大阪夏の陣。
大河ドラマ第9作の「春の坂道」でしたか。1971年
徳川秀忠の本陣がくずされ。
守るは柳生宗矩ひとり。
そこへ大阪方の兵が。
確かー大野隊でしたか、赤槍隊でしたか?
7人だったか、8人だったか。
秀忠が数えていたらしい。
そこへ味方が。
それで大阪方は逃げていき。
そのようなシーンがあったような?
うろ覚えです。
これは史実ですか?
お願いします。
夏の陣では真田信繁や毛利勝永が家康本陣へ迫ったという事ばかり。
秀忠の本陣へは、どうだったのですか?
物語日本史大系 第11巻(国会図書館)
難波戦記 巻22 岡山合戦 P.189
あたりを読んでも。
大野治房麾下三万余で攻め立てたようですが。
参謀本部編の日本戦史。
大坂の役(国会図書館)P222でも。
同じような内容ですか?
詳しい方よろしくお願いします。
信長→天下統一(目前)
秀吉→天下統一
家康→天下簒奪
結局は天下人としての織田の系譜を徹底的に潰したかったんじゃない?
秀吉死後の豊臣家は淀殿や大野治長や織田信雄、織田長益、織田信高ら
織田の系譜が占めていたし。
家臣としての織田家はOKだけど
信長を想起させる天下人としての
織田の系譜は憎んでいたのかも。
ただ信康事件をどう扱うのかという
問題はあるけれど、
家康を密かに弱体化させたかった
信長が家康直下の浜松衆と
信康を擁する岡崎衆の対立を
密かに煽って結果的に家康が信康を
自主的に切腹させる羽目に遭わせた
のかもと考えると、
娘婿信康を操ってより織田家に
直轄化させる為の家康の排除か
徳川家の有望な跡継ぎの事前排除か
どちらかでしょうな😅
家康は源頼朝をリスペクトしていた、としたら…
やはり家康は豊臣を滅したんだと思うよ
大砲がたまたまやけど大阪城の天守閣の瓦にあたって講話しよるんやな。京都所司代を襲って瀬田のあたりまで進撃するとゆう幸村の進言きいとっとたら変わったかもしれんのにな。
これは源氏長者という関白以上すごい権力を持ったためであります
この源氏長者は15代将軍徳川慶喜まで続きましたから~
豊臣家も既に豊氏長者兼藤氏長者だったワケですけど…
五摂家含めて全ての藤原氏庶流公家衆の永久トップとして
全公家をも家礼化して
もちろん摂関ポストも豊臣家世襲制ということが
秀吉逝去以前に実は確定していたのです。
だからこそ関ヶ原戦役終結以降に
武家統治者権能を徳川将軍家に移譲して
全公家のトップとして朝廷公家衆サイドの代表者としてのみ
永久世襲終身摂関家の豊臣家に規模縮小すれば
生き残れる可能性があったと思われます。
武家の頂点は征夷大将軍ですから、公家と武家の両方の頂点に立ち、武家諸法渡と禁中並びに公家諸法渡を、制定出来た訳です。
豊臣一族は滅ぼしても実家の木下や甥の小出一族は根絶やしにしなかったのは何故だろう?。
大阪の陣で北政所の大阪城入城食い止めたり家康に協力的な姿勢を見せたから。それに戦後に弔いだったり豊臣家関連のごたごた色々あるから婚族くらいは残しておいたほうが都合がいい。
豊臣を滅ぼした家康のやり方は卑怯と言われそうだが
見方を変えれば秀吉の遺した大坂城と家臣団の防御力
は正攻法では落とせないほど強固だったということ。
秀頼自身は未熟で取るに足らなくとも彼を神輿にして
家臣団が抵抗する脅威を考えれば天下のために豊臣を
根絶やしにしたのもやむを得ないことだろう。秀吉も
主君の信長を失った織田家から権力を横取りしたから
お互い様。所詮歴史は勝てば官軍だ。
家康は結構残忍で冷酷な一面があるからね
結局戦国の大都圏である堺を滅ぼしたの家康だしな
加藤や浅野らの不審死の本当に怖い点は味方であり幼馴染であるはずの平岩親吉も切っているところ
だからかっこいいともいえる
徳川氏よりも、官位で豊臣氏にオーバーカムされてしまった藤原氏が豊臣氏を抹殺したくて仕方無かったんじゃ無いですかねぇ😊国家安康の銘も藤原氏による陰謀説を考えられては如何でしょう?😊
本来一族絶滅はタブーであった
しかし清盛の例を鑑みて断行せざる得なかった
特に跡継ぎ問題を重要視したのは織田豊臣を間近で目にしてきたからこそだろう
片桐且元も、淀殿に「家臣同士の争い」と言っていたらしいし、豊臣家に危機感がなかったのがダメなところのひとつかもしれません。
秀吉のし後の豊臣家がうまく行かなかったのは全て淀殿が実権を握っていたためだ。分かりもしない戦にまで口出ししたのもいけなかった。秀頼が母を抑えて実権を握っていれば歴史は変わっていたかもしれない。しかしもしかしたら秀頼本人にはその才覚が無かったのではないか、あまりに無能なため母の淀が仕切るしかなかったのかもしれない。
秀頼についての歴史資料が乏しいのか彼のことがあまりよく分かっていないと言える。
秀吉も家康に、秀頼のことせめて自分が秀信にしたくらいの扱いにして欲しいと思っていたかもな
当時の家康の状況だったから豊臣を滅ぼせたよね。秀忠の代では難しかったでしょう。
平清盛が頼朝を生かした失敗を見てるから
後世での悪名を恐れず徹底的に豊臣家を潰した家康の執念に凄みを感じる。この甘さがまったくない冷徹ぶりは秀吉にもそして信長にもなかった家康の天下人たる特質だと思う
晩年秀吉は敵じゃなくて味方を根絶やしにしましたからね・・・・
はい。徳川家康の勝ち。
吾妻鏡を読んでたからだべ😅
まー秀次を殺した時から、豊臣は滅びに向かって行ったやな〜
その前の秀長が早逝した時からでしょう。
というよりも直属家臣団が弱すぎて、外様に政治権力を与えざるおえない状況であった事が問題だと思いますよ。秀吉が死んだ時点で豊臣家は詰んでいたと…。
@@黒煙-i3q そもそも、関ヶ原に豊臣の旗印を出さなかったのが間違え!
西軍は、豊臣だと分かれば、豊臣恩顧の大名は寝返るか、国に帰る!
だから、最初は家康は、豊臣恩顧の大名だけに先陣をさせて、自分はゆっくり来たんよ!
@@野坂慶一 それを言ったら、茶々を側室にした時からだよ!
そもそも元凶は茶々やし!
まー親の敵だし、良かったこもね!
これねちょっと短絡的なのよ
徳川家が何故喜連川藩をつくったり織田家を尾張藩の中に残したのかってのにつながってくるんやけどその他に秀吉は信長の正当な後継としてなったけど家康は元々織田家の家臣ではないという側面もあったのよ
しかも秀吉は関白になってるから権威も違うと
その辺は光秀が天海となって全国行脚をしてくれたおかげで事なきを得てはいたんだけれど後顧の憂いを断つ意味で徹底的にやった感じやね
それを島津にまでやってればもっと安泰やったんやろうけど時間が足りなかった
秀吉が死んだ後も「亡き太閤閣下との約束だから」と孫娘を秀頼に嫁がせてるから最初から邪魔で滅ぼしたかったってのは違うと思う。
織田家同様一大名家に落ちるか,公家化を選ぶと思って居たと思う
淀の気位が高くてどうにもならなかったケド
@@jardins-du-cosmos 女はねぇ。。。。
@@jardins-du-cosmos 淀殿は宥和派なんだよなぁ
@@matukawatositane
なら芳春院の様に出家して江戸へ行くべきなのでは?
全然宥和とはかけ離れた行動ばかりに感じます
@@andykamisama9406 本人は江戸行きも考慮してたけど…秀頼周辺がねぇ
家康ってやってることは会長島耕作やん笑
家康は、北条家の仇を取ったのだと思います。
また、秀吉が大嫌いだったと思います。
だから秀吉の子孫は、存続させたくないとも考えたのではないでしょうか?
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス 家康を例える歌があるが、
秀吉の死を待っていたと言うことじゃないかな
もうひとつの理由ですが、南北朝の争いなのですよ。織田は福井の織田町に信長のお父さんだったかお爺さんだったかが武士の裁判官的な要職でした。だからなんですよ。では武田や徳川は北朝であり鎌倉幕府もお仲間となります。
つまり天皇家に渡来系統が北朝であり、南朝は正統派となっており、明治維新で南朝側が勝って靖国神社なんて南朝側で亡くなった者を祀る神社を建立し、南朝側で亡くなった武将などを官位を与えて供養する形態が整い、北朝は何処にも祀られていないばかりか会津などの賊軍となった北朝側の者は軍隊でも最前線に行かされるのは北朝側の出身地の者と差別されてますよ。南朝は正統派となってるが李王朝の末裔支配で、日本の弱体化と削減になることに働きかけるのもしょうがないんだけどね😱
現在では騙して内堀を埋めたという通説は誤りとされています。内堀を埋めるのも和睦条件通りだったと一次資料から明らかになっています