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1991号と1992号は「両運転台車の運転台を両方とも撤去した」という、これまたすさまじい経歴の持ち主でしたね。
大昔見たいテレビ番組があった京橋まで一往復したなぁ懐かしい思い出😂
後継より長寿残念ながら乗車体験はない
北河内民ですが交野線にいたのを覚えてます。2600系は4両なのにこいつは5両でホームを目一杯使ってました。いまじゃ15分間隔(コロナ前は10分だった)、10000か13000の4両ワンマンになってしまった。
テレビカー出町柳からの地下駅で映るのかと思ってたらやっぱり映らなかったの草だったなぁ
鴨川沿いを走る京阪特急は風情がありました
昔はブラウン管テレビを搭載してたんだよなぁ
1900系は交野線利用の自分にとって懐かしく愛嬌ある車両でしたね。交野線直通特急にも何回か乗りましたが超満員なんで枚方市で乗り換えが多かったですね😅(それも満員でしたが)
1900系のAMA-R時代は発電ブレーキを使用していましたが、HSCに換装されてからは発電ブレーキを使用しなくなりました。スイッチはしばらく残っていましたが、後に撤去されました。
昔の京阪特急は七条、京橋間はノンストップだった。今は丹波橋、中書島、樟葉、枚方市が停車駅に加わっているので身近に感じる。
特急車時代は知りませんが5両固定になってから区間急行で複々線を走る時の乗り心地の良さはよく覚えてます。
緑色3ドア後も昇圧までは冷房いる夏場以外の旧3000に次ぐ臨時特急や正月の代用特急に優先的に起用された。80年新設の樟葉急行にも600系と共に使われた
樟葉に住んでいたので良く1900の臨時特急の通過を見届けました。急行が特急に2本抜かれるのも驚きでした。冬は急行は到着したら一度ドアを開けてから閉じ、特急が通過したあとで開いて乗客を乗せていました。樟葉駅ではドア付きの待合室もあって当時としては良かったですね。後年関東に転居してから京阪のサービスレベルの高さをしみじみ感じたものでした。
淀屋橋延長が成された時『京阪特急の歌』も 『♪淀屋橋(元は天満橋)から三条へ〜』に 歌詞が変わったんですよね。1編成が廃車されたら それがドナーとなって他の編成が生き延びたとは なんとも運の良い車両。動画にもあったように『使い勝手の良い車両』だったのでしょうね。因みに『元祖 テレビカー(1600形『開運号』)』を走らせた京成でも 1900系並に大幅な更新工事を行なった『3500形更新車』や3400形で唯一残った3448Fの下回りも『50年超え』となりました。
この歌の歌詞にひらかたパークのローラーコースターや菊人形が出てきますが、この頃の特急は京橋~七条がノンストップで全く特急の恩恵を受けませんでしたね。
@@TSUYOS185 様作詞・作曲した三木鶏郎先生は『南海電車の歌』の歌詞にも『みさき公園』を入れていたので その辺の事は考えずに 沿線の関連娯楽施設の名称を入れたのかもしれませんね。
京阪で初めてATSを装備したのも、実は1900系なんですよね~その後は説明されたように、電動機が90kw×4に出力増強されるなど、壮年期にも京阪線を駆け抜けてくれました!中でも元1810系より改造された1914号車は、1900系唯一の角型タイプの前照灯を備えるなど、京阪史に名を残す異端車ですよね!!
へーそうなん?皆さん詳しいっすねえ。。。屋根からステーで別取り付けの砲弾型前照灯が可愛かったなー。
さすが、「技術の京阪」と言われるだけあって、改造もマニアックなものになってますね。特急運用から外れてからも、長きにわたって重用されたのは、それだけ初期設計&製造コンセプトが優秀だったからだと思いますよ。
@@まるかつ鉄道 そうそう、「技術の京阪」といえば、先ほど引退した5扉5000系もそうだな。京阪初のアルミ車だし、自動昇降座席も京阪と川重の協力傑作だったな。おいら東京者だけど、そのために駆けつけたくらいだよ。
3扉化で、増設の中央扉を既存扉と等間隔にするため両開き扉を採用、1両に片開き扉と両開き扉が同居するという、魔改造と言えることをやったのも1900系でしたっけ。
後のJR四国の7000系電車がそのパターンで作られた時は驚きました。
1000形や7000系で見慣れてるので普通に見える(by四国民)
1700系・1800系でやった改造方法を踏襲しただけ。
元両運の車両だけ窓割の関係でそうなりましたね。1905と1906は運転台撤去の上、1991・1992に改番中間車化、1925と1926は片運転台化、特に1925は唯一後方パンタの異端車でした。
近鉄も6421系でやってますから
通勤で複々線を爆走する1900系😂最高❤
1:56 2000系の2025-2030編成は特に性能が良くて、御殿山駅から牧野駅間はよく100km/h超えをしていました。
一般車になった1900系に乗った時はうれしかったです。乗り心地が他の一般車と比べて良かったです。
最終の2編成に恐らく1810系からの編入車が残っていたはずで「昭和31年」の銘板を車内で見ました。新造車とは内装に違いがあり、網棚の金具のデザイン等かなりレトロで1950年代の雰囲気を醸し出していました。
1810系は1800系の増備型で空気バネ台車化した物で阪急1300系クロス座席車と対応だからな
子どもの頃の記憶、補助いすがパイプ椅子で倒れないようにロープ状のもので留めてあったような・・・
車齢50年で110キロ爆走→現在の阪急3300系
2200系で現存の車両は最高で今年で59年。それも意外なトリビア。
1977年の春のGWの頃の土曜日の昼間に樟葉から淀屋橋に向かう急行に乗車した際、1900が来て驚きました。この頃の昼間の急行は1000、2200、2400、5000の天下でした。今から考えると真夏でなく冷房を必要としなかったからこそ出来た運用かと思います。1900には真ん中のドアが片開き、両開きのものがあり、両開きの車両は美的に考えるといまいちではあったもののラッシュ対策には有効だったのでしょうね。京阪ではありませんが真ん中のドアだけ両開きの車両が後にJR四国で出るのは予想外でした。
因みに 3ドアで 真ん中だけ両開き扉の車両は 関東鉄道の魔改造気動車でも 国鉄キハ07改造の『キハ610』等 昭和40年代から存在していて私も 国鉄の血を引くJR四国から そういうレイアウトの気動車(や電車)が出た時は 「へぇ~。」と驚きました。
@@toriri-serviceさま平成になる前の常総線は魔改造車の宝庫でしたね。もと南海のきのくに号の車両には両端が片開き、中間の2つのドアは両開きという全国でも珍しい4つドアの車両があったとか。今の常総線は洗練された車両ばかりになりましたね。
@@TSUYOS185 様常総線の元『きのくに』キハ754は 真ん中に扉を増設すると 排気管に干渉するので4扉となったそうです。無駄に重いDMH-17エンジンを2つも吊り下げながら 開口部をこれまた2つも増やして よく台枠が歪まなかったと思います。今の車両は 洗練されたオリジナル車両ですが これらにも真ん中のみ両開き扉の車両があり 最早伝統ですね。
1900系が冷房改造されることなく一般車に格下げになったのは、主電動機(75kW)の出力不足が最大の原因だろうね。昇圧準備工事による絶縁強化で90kWに出力向上した時でさえ冷房改造が見送られているということは、75kWはおろか90kWでも出力不足だったということだし。
京阪1900系名車やと思います。京阪独特の大口径の2灯式ヘッドライトと、車体下部のステンレスのバンパーが印象的ですね。昭和世代の私としては、やっぱり京阪特急は、オレンジとダークレッドのカラリングの方が似合うと思います。
中之島線開業前日の通常運航最終日、萱島駅でお見送りしました。😢車両は古いですが、優等運用で高速走行すると乗り心地の良さがよく分かりました。
勿論リアルに乗ったことないけど1800~1900系かっこいいな!テールランプが丸形というのが時代を感じる!
普通用に格下げの後に乗っていました。一度だけですが全区間急行で使われていたときに乗ったこともあります。赤地に白の縁取りと白文字の方向板が上手く出来ていました。大型の前照灯が時代を物語っていましたね。前面のステンレス板もカッコいいものでした。
テレビカーあったよね😊
1810系から数えて50数年も活躍した1900系🕊️ 当初は2種類の顔が有りましたが、その元1810系は晩年期迄有った様ですが流石に中間車化され顔が見えなくなり…etc、在籍期間が長いだけにその改造の経緯は例えファンであろうと判り難い迷車両💫
曾ては、京都市電と平面交差していました。 成程、道理で架線電圧が同じ600ボルトでは、支障がない訳ですね。
京阪の1900系のうち、1925号と1926号は両運転台車で、鉄道模型HOでは大変レアです。1810系改造1900系は味がありましたね。
テレビカーって実質NHKしか見れなかった
ナイター中継をはじめとしたスポーツ中継があった時にはそのチャンネルにしていたという話。
3000系も8000系の導入で一編成だけ残して富山と大井川に引き取られたし京阪はそこらはケチな割にはドライなんだよね。8000系は歴代の特急車両のなかでもかなり厚遇されてる感じがするけど
つい新しいと思っていた8000系は投入からもう35年と言うのも驚きです。内外のリニューアルで全く古さを感じさせないのも京阪の車両スタッフの匠の技かと思います。
それが当初は、8000系は1編成だけの予定だったのだけど、運転をはじめると8000系目あての客がたくさんいたものだから、急遽全て8000系に置き換えることになったのよ。(これも3000系は1本だけ残すことに変更されたけど)なお、走行装置はほぼ同一で一部は3000系からの廃車発生品を利用している。
今日 その8000系の1編成が 法令の検査上限の60万キロを超えて2週間走っちゃったというニュースがありました。
くずはモールにあの施設が出来るまでは、京阪がまともに保存した車両は60型びわこ号しかない有様だったもんね。
え?600Vでも1800、1900系はオールMで110km/h可能ですよ。MTM編成で103km/hです。但し3000系との併結は3000系の性能落としていました。
近鉄もいまだに55年ものが110キロ出してますよ
「特急一点豪華主義」「普通車は特急のお古」1900系ほど、この2大ポリシーを体現した車両はないですよ。後輩の3000系やライバルの阪急2800系よりも全然長生きしてるし(゚∀゚)(゚∀゚)(*_*)
一般電車にお古を用いるのは戦前の初代ロマンスカーやその後釜の初代1000系シリーズから続くある意味京阪の伝統でしたね。3000がその流れを断ち切ったのもこの動画に出てくるとおり改造にかなりのお金がかかることが原因だったものと思います。
もともと旧3000系は特急以外の種別運行を考えてなかったらしいですね。通勤車改造も考えてなかったらしい。
3000系初登場は1972年ではなく、1971年ですね。
ちょっと前は「台車の京阪」と言われてたのにね。実用空気バネ台車の最初も京阪で、枕バネでは無く軸バネ空気式というビックリ仕様。また逆の軸バネを廃止したエコノミカル台車とか、汽車会社の実験場だったよね。テレビカーは沿線の門真が松下帝国だったので、松下と京阪の思惑が一致した結果と噂された。
今でも台車にはこだわっていますよ。最新の13000系でも、電動車は川崎の軸梁式、付随車は住友のモノリンク式という、基本構造からして違う二種類の台車を履くという京阪の伝統を貫いています。なお、ボルスタレス台車は一両もいません。
@@N--T さいでおまっかー。
@@N--T 電動車と付随車の台車仕様を変えるのは一時期阪急もやっていたよね。
@@N--T確か京急もボルスタレス台車採用してなかったな。あと、草創期から採用してた営団(東京メトロ)が元に戻したのには驚いたな。
@@けん-o4y ボルスタレス台車は急曲線が多い路線にはあまり適さないというのがあるので、「京阪カーブ式会社」とも揶揄される京阪では一回試験はしたけど、以後は一切不採用。京急も急曲線の存在がボルスタレス台車採用に消極的。東京メトロは日比谷線脱線事故(事故を起こしたのは東武車だったけど)を契機に、ボルスタ付きに戻した。
1900系はリアルで特急車として乗った経験ありwまぁ高校の頃まで1700系のツリカケ準急に乗ってた世代だからねwwwでもまだ生きてる2200系はもう車齢60年近いんだがねwww
HSC型制動のスーパーカー2000系に比べ、当初1900系は旧1810系も含めAMA-RD型減圧式制動を踏襲したので、効きはいまいちだった様です。
淀屋橋延長開業のシンボルだった往年の特急車🚃1900系。🐧冷房改造時に1810系からの編入車は中間車化されたが、1914号車だけは新造されたグループの顔つきに変更されている。特急車で活躍した頃、補助椅子の代わりとしてパイプ椅子が設けれていたらしい😮
パイプ椅子補助席にはわざと座りましたよ。関東者には珍しいので。。。
2003年4月のリバイバル特急として運転された際、天満橋駅でそのパイプ椅子に遭遇した。あれから20年以上経ったけど、今も残しているのかな。
テレビカーか懐かしいな でもネット全盛の今となってはテレビもオワコン化してしまいましたし 放映も衛星放送一局なら余り興味をそそるものでもないのであまり必要性を感じなくなったことで終了した感じですかね
1991号と1992号は「両運転台車の運転台を両方とも撤去した」という、これまたすさまじい経歴の持ち主でしたね。
大昔見たいテレビ番組があった京橋まで一往復したなぁ懐かしい思い出😂
後継より長寿
残念ながら乗車体験はない
北河内民ですが交野線にいたのを覚えてます。
2600系は4両なのにこいつは5両でホームを目一杯使ってました。
いまじゃ15分間隔(コロナ前は10分だった)、10000か13000の4両ワンマンになってしまった。
テレビカー
出町柳からの地下駅で映るのかと
思ってたらやっぱり映らなかったの
草だったなぁ
鴨川沿いを走る京阪特急は風情がありました
昔はブラウン管テレビを搭載してたんだよなぁ
1900系は交野線利用の自分にとって懐かしく愛嬌ある車両でしたね。交野線直通特急にも何回か乗りましたが超満員なんで枚方市で乗り換えが多かったですね😅(それも満員でしたが)
1900系のAMA-R時代は発電ブレーキを使用していましたが、HSCに換装されてからは発電ブレーキを使用しなくなりました。スイッチはしばらく残っていましたが、後に撤去されました。
昔の京阪特急は七条、京橋間はノンストップだった。今は丹波橋、中書島、樟葉、枚方市が停車駅に加わっているので身近に感じる。
特急車時代は知りませんが5両固定になってから区間急行で複々線を走る時の乗り心地の良さはよく覚えてます。
緑色3ドア後も昇圧までは冷房いる夏場以外の旧3000に次ぐ臨時特急や正月の代用特急に優先的に起用された。80年新設の樟葉急行にも600系と共に使われた
樟葉に住んでいたので良く1900の臨時特急の通過を見届けました。急行が特急に2本抜かれるのも驚きでした。
冬は急行は到着したら一度ドアを開けてから閉じ、特急が通過したあとで開いて乗客を乗せていました。
樟葉駅ではドア付きの待合室もあって当時としては良かったですね。後年関東に転居してから京阪のサービスレベルの高さをしみじみ感じたものでした。
淀屋橋延長が成された時『京阪特急の歌』も 『♪淀屋橋(元は天満橋)から三条へ〜』に 歌詞が変わったんですよね。
1編成が廃車されたら それがドナーとなって他の編成が生き延びたとは なんとも運の良い車両。
動画にもあったように『使い勝手の良い車両』だったのでしょうね。
因みに『元祖 テレビカー(1600形『開運号』)』を走らせた京成でも 1900系並に大幅な更新工事を行なった『3500形更新車』や3400形で唯一残った3448Fの下回りも『50年超え』となりました。
この歌の歌詞にひらかたパークのローラーコースターや菊人形が出てきますが、この頃の特急は京橋~七条がノンストップで全く特急の恩恵を受けませんでしたね。
@@TSUYOS185 様
作詞・作曲した三木鶏郎先生は『南海電車の歌』の歌詞にも『みさき公園』を入れていたので その辺の事は考えずに 沿線の関連娯楽施設の名称を入れたのかもしれませんね。
京阪で初めてATSを装備したのも、実は1900系なんですよね~
その後は説明されたように、電動機が90kw×4に出力増強されるなど、壮年期にも京阪線を駆け抜けてくれました!
中でも元1810系より改造された1914号車は、1900系唯一の角型タイプの前照灯を備えるなど、京阪史に名を残す異端車ですよね!!
へーそうなん?皆さん詳しいっすねえ。。。屋根からステーで別取り付けの砲弾型前照灯が可愛かったなー。
さすが、「技術の京阪」と言われるだけあって、改造もマニアックなものになってますね。特急運用から外れてからも、長きにわたって重用されたのは、それだけ初期設計&製造コンセプトが優秀だったからだと思いますよ。
@@まるかつ鉄道 そうそう、「技術の京阪」といえば、先ほど引退した5扉5000系もそうだな。京阪初のアルミ車だし、自動昇降座席も京阪と川重の協力傑作だったな。おいら東京者だけど、そのために駆けつけたくらいだよ。
3扉化で、増設の中央扉を既存扉と等間隔にするため両開き扉を採用、1両に片開き扉と両開き扉が同居するという、魔改造と言えることをやったのも1900系でしたっけ。
後のJR四国の7000系電車がそのパターンで作られた時は驚きました。
1000形や7000系で見慣れてるので
普通に見える(by四国民)
1700系・1800系でやった改造方法を踏襲しただけ。
元両運の車両だけ窓割の関係でそうなりましたね。
1905と1906は運転台撤去の上、1991・1992に改番中間車化、1925と1926は片運転台化、特に1925は唯一後方パンタの異端車でした。
近鉄も6421系でやってますから
通勤で複々線を爆走する1900系😂最高❤
1:56 2000系の2025-2030編成は特に性能が良くて、御殿山駅から牧野駅間はよく100km/h超えをしていました。
一般車になった1900系に乗った時はうれしかったです。乗り心地が他の一般車と比べて良かったです。
最終の2編成に恐らく1810系からの編入車が残っていたはずで「昭和31年」の銘板を車内で見ました。
新造車とは内装に違いがあり、網棚の金具のデザイン等かなりレトロで1950年代の雰囲気を醸し出していました。
1810系は1800系の増備型で空気バネ台車化した物で
阪急1300系クロス座席車と対応だからな
子どもの頃の記憶、補助いすがパイプ椅子で倒れないようにロープ状のもので留めてあったような・・・
車齢50年で110キロ爆走→現在の阪急3300系
2200系で現存の車両は最高で今年で59年。
それも意外なトリビア。
1977年の春のGWの頃の土曜日の昼間に樟葉から淀屋橋に向かう急行に乗車した際、1900が来て驚きました。
この頃の昼間の急行は1000、2200、2400、5000の天下でした。今から考えると真夏でなく冷房を必要としなかったからこそ出来た運用かと思います。
1900には真ん中のドアが片開き、両開きのものがあり、両開きの車両は美的に考えるといまいちではあったもののラッシュ対策には有効だったのでしょうね。
京阪ではありませんが真ん中のドアだけ両開きの車両が後にJR四国で出るのは予想外でした。
因みに 3ドアで 真ん中だけ両開き扉の車両は 関東鉄道の魔改造気動車でも 国鉄キハ07改造の『キハ610』等 昭和40年代から存在していて
私も 国鉄の血を引くJR四国から そういうレイアウトの気動車(や電車)が出た時は 「へぇ~。」と驚きました。
@@toriri-serviceさま
平成になる前の常総線は魔改造車の宝庫でしたね。もと南海のきのくに号の車両には両端が片開き、中間の2つのドアは両開きという全国でも珍しい4つドアの車両があったとか。
今の常総線は洗練された車両ばかりになりましたね。
@@TSUYOS185 様
常総線の元『きのくに』キハ754は 真ん中に扉を増設すると 排気管に干渉するので4扉となったそうです。
無駄に重いDMH-17エンジンを2つも吊り下げながら 開口部をこれまた2つも増やして よく台枠が歪まなかったと思います。
今の車両は 洗練されたオリジナル車両ですが これらにも真ん中のみ両開き扉の車両があり 最早伝統ですね。
1900系が冷房改造されることなく一般車に格下げになったのは、
主電動機(75kW)の出力不足が最大の原因だろうね。
昇圧準備工事による絶縁強化で90kWに出力向上した時でさえ冷房改造が見送られているということは、
75kWはおろか90kWでも出力不足だったということだし。
京阪1900系名車やと思います。京阪独特の大口径の2灯式ヘッドライトと、車体下部のステンレスのバンパーが印象的ですね。昭和世代の私としては、やっぱり京阪特急は、オレンジとダークレッドのカラリングの方が似合うと思います。
中之島線開業前日の通常運航最終日、萱島駅でお見送りしました。😢
車両は古いですが、優等運用で高速走行すると乗り心地の良さがよく分かりました。
勿論リアルに乗ったことないけど1800~1900系かっこいいな!
テールランプが丸形というのが時代を感じる!
普通用に格下げの後に乗っていました。一度だけですが全区間急行で使われていたときに乗ったこともあります。赤地に白の縁取りと白文字の方向板が上手く出来ていました。
大型の前照灯が時代を物語っていましたね。前面のステンレス板もカッコいいものでした。
テレビカーあったよね😊
1810系から数えて50数年も活躍した1900系🕊️ 当初は2種類の顔が有りましたが、その元1810系は晩年期迄有った様ですが流石に中間車化され顔が見えなくなり…etc、在籍期間が長いだけにその改造の経緯は例えファンであろうと判り難い迷車両💫
曾ては、京都市電と平面交差していました。 成程、道理で架線電圧が同じ600ボルトでは、支障がない訳ですね。
京阪の1900系のうち、1925号と1926号は両運転台車で、鉄道模型HOでは大変レアです。
1810系改造1900系は味がありましたね。
テレビカーって実質NHKしか見れなかった
ナイター中継をはじめとしたスポーツ中継があった時にはそのチャンネルにしていたという話。
3000系も8000系の導入で一編成だけ残して富山と大井川に引き取られたし京阪はそこらはケチな割にはドライなんだよね。
8000系は歴代の特急車両のなかでもかなり厚遇されてる感じがするけど
つい新しいと思っていた8000系は投入からもう35年と言うのも驚きです。内外のリニューアルで全く古さを感じさせないのも京阪の車両スタッフの匠の技かと思います。
それが当初は、8000系は1編成だけの予定だったのだけど、運転をはじめると8000系目あての客がたくさんいたものだから、急遽全て8000系に置き換えることになったのよ。(これも3000系は1本だけ残すことに変更されたけど)
なお、走行装置はほぼ同一で一部は3000系からの廃車発生品を利用している。
今日 その8000系の1編成が 法令の検査上限の60万キロを超えて2週間走っちゃったというニュースがありました。
くずはモールにあの施設が出来るまでは、
京阪がまともに保存した車両は60型びわこ号しかない有様だったもんね。
え?600Vでも1800、1900系はオールMで110km/h可能ですよ。MTM編成で103km/hです。但し3000系との併結は3000系の性能落としていました。
近鉄もいまだに55年ものが110キロ出してますよ
「特急一点豪華主義」「普通車は特急のお古」
1900系ほど、この2大ポリシーを体現した車両はないですよ。後輩の3000系やライバルの阪急2800系よりも全然長生きしてるし(゚∀゚)(゚∀゚)(*_*)
一般電車にお古を用いるのは戦前の初代ロマンスカーやその後釜の初代1000系シリーズから続くある意味京阪の伝統でしたね。
3000がその流れを断ち切ったのもこの動画に出てくるとおり改造にかなりのお金がかかることが原因だったものと思います。
もともと旧3000系は特急以外の種別運行を考えてなかったらしいですね。
通勤車改造も考えてなかったらしい。
3000系初登場は1972年ではなく、1971年ですね。
ちょっと前は「台車の京阪」と言われてたのにね。実用空気バネ台車の最初も京阪で、枕バネでは無く軸バネ空気式というビックリ仕様。また逆の軸バネを廃止したエコノミカル台車とか、汽車会社の実験場だったよね。テレビカーは沿線の門真が松下帝国だったので、松下と京阪の思惑が一致した結果と噂された。
今でも台車にはこだわっていますよ。
最新の13000系でも、電動車は川崎の軸梁式、付随車は住友のモノリンク式という、基本構造からして違う二種類の台車を履くという京阪の伝統を貫いています。
なお、ボルスタレス台車は一両もいません。
@@N--T さいでおまっかー。
@@N--T 電動車と付随車の台車仕様を変えるのは一時期阪急もやっていたよね。
@@N--T確か京急もボルスタレス台車採用してなかったな。あと、草創期から採用してた営団(東京メトロ)が元に戻したのには驚いたな。
@@けん-o4y
ボルスタレス台車は急曲線が多い路線にはあまり適さないというのがあるので、「京阪カーブ式会社」とも揶揄される京阪では一回試験はしたけど、以後は一切不採用。
京急も急曲線の存在がボルスタレス台車採用に消極的。
東京メトロは日比谷線脱線事故(事故を起こしたのは東武車だったけど)を契機に、ボルスタ付きに戻した。
1900系はリアルで特急車として乗った経験ありw
まぁ高校の頃まで1700系のツリカケ準急に乗ってた世代だからねwww
でもまだ生きてる2200系はもう車齢60年近いんだがねwww
HSC型制動のスーパーカー2000系に比べ、当初1900系は旧1810系も含めAMA-RD型減圧式制動を踏襲したので、効きはいまいちだった様です。
淀屋橋延長開業のシンボルだった往年の特急車🚃1900系。🐧冷房改造時に1810系からの編入車は中間車化されたが、1914号車だけは新造されたグループの顔つきに変更されている。特急車で活躍した頃、補助椅子の代わりとしてパイプ椅子が設けれていたらしい😮
パイプ椅子補助席にはわざと座りましたよ。関東者には珍しいので。。。
2003年4月のリバイバル特急として運転された際、天満橋駅でそのパイプ椅子に遭遇した。
あれから20年以上経ったけど、今も残しているのかな。
テレビカーか懐かしいな でもネット全盛の今となってはテレビもオワコン化してしまいましたし 放映も衛星放送一局なら余り興味をそそるものでもないのであまり必要性を感じなくなったことで終了した感じですかね