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1925年の上野から大宮までの汽車駅は上野→日暮里→田端→赤羽→川口町(今の川口)→蕨→浦和→与野→大宮だったですよ!1932年に尾久経由になり大宮まで電車化すると田端、王子、川口(川口町から改称)、蕨、与野駅は電車駅になりましたよ!ちなみに日暮里駅は1976年まで東北本線、高崎線のホームがあったらしいです!
>1925年ちょうどこの年、山手線が環状運転を開始した年ですね。祖父がこの頃、渋谷〜田端〜山形まで、利用していて、よく、「環状運転開始した山手線は、6両10分間隔の運転で、扉は既に自動ドアだったんだぞ。これに乗って、田端から乗り換えて、山形まで帰省したんだぞ。福島で停車時間が長かったので、駅の水道で、顔についた汽車の煤を落としたんだぞ。」と話していたのを思い出した。
福島で停車時間が長かったのは、板谷峠用の機関車への付け替えがあったからでしょうね。1925年当時の福島米沢間は単線非電化でスイッチバックもスルー構造でないため、優等列車も赤岩・板谷・峠・大沢の4駅に連続停車したようです。ちなみに電化されるのは1949年。同時に上記4駅がスルー構造になり、優等列車の通過が可能になりました。
田端で乗り換えは当時は田端駅も汽車駅だったからですね!電車駅になったのは1932年ですから!確か当時の田端駅は今の田端貨物駅あたりがが田端駅だっただと思いますよ!(田端駅私が旅行に行く時京浜東北南行始発利用する時利用します!普段は時折さいたま新都心に行く時に利用します)
3:50 青森まで丸1日、次の日に函館に渡って、そこから稚内までほぼ丸1日・・・トータルで2日半くらいかかったのですね・・・
この100年前の1825年はまだ江戸時代。江戸から蝦夷地の稚内に行くのに1825年の移動技術では2日半では到底行けない距離。そう考えると、1925年当時の移動手段というのはものすごいと言えたのかも知れませんね。
動画お疲れ様です。まだ上越国境はトンネルができていない時代。新潟へ行くにも信越本線経由でないと行けなかったことを考えると、清水トンネル開通やその後の上越新幹線開業でどれだけ新潟と関東が近づいたのかよくわかります。
他にも郡山から磐越西線経由も良く使われていたそうです。
当時は日本の経済を支えていた繊維産業が盛んな地域であり、後に機械工業も盛んになっていく時期だったからでしょうか。両毛線系統が多く設定されているのが印象的でした。1940年と比べると、1925年時点で軸となる列車設定は仕上がっていたように思えましたね。
139列車(773列車?)が今の北陸新幹線+しらさぎルートそのままで驚く今のルートと同じく上野ではなく途中駅の需要を拾っているのだと思う
国境のトンネルができる前、信越本線(直江津経由)と磐越西線(郡山経由)で新潟への直行列車が運行されていたことが興味深い。
703列車1923年1月では奥羽本線経由で青森行き青森着、翌日535着上野発、秋田着は1925年と同じ長距離化すると思ったら、運転短縮もあったんですね
東北本線、常磐線、高崎・上越・信越本線、各方面が現在のローカル線並みの運行頻度(当時というか昭和前期のローカル線はもっと凄かったみたいですが)ですねぇ朝昼の中距離便はなんとか24時までに抑えようとしているように感じますが、長距離と夕方以降は諦めて夜行にしている感じがしますねしかし北海道の重要性が、列車番号によく現れていますし、『急行宗谷』への接続がとことん図られているのがよくわかりますね
中距離や長距離を夜行主体にしているのは新聞や荷物を運ぶ目的があったからかと思います。読売、朝日、毎日と言った全国紙は戦後も長く東京で印刷されて東日本各地へ運ばれました。(西日本へは大阪から)各地に全国紙の印刷工場が設けられたのは昭和50年代です。
いつもありがとうございます。お怪我は大丈夫でしょうか?上野駅がこの時代に東京と東日本各地を結ぶ重要な拠点としていることが良くわかりますね。新潟まで夜行急行が碓氷峠、直江津経由で12時間かけていたのもすごいものです。清水トンネルはまさに越後と東京に大きな風の穴を開けた存在ですね。
編集お疲れ様です。お怪我は大丈夫ですか?今では考えられない遠距離方面の列車が発車していたのがスゴイですね。
9:46 801列車が左ペインは急行、右ペインはオレンジ色の普通になっている。急行が正しいんでしょうが。7:15 201列車が左ペインは普通になっているけれど、下にも書いてあるけれど急行?というか、この当時は急行と普通で列番分けていないんですね。
昭和何年だったか忘れたが、小沢昭一さんが、TV番組で「昔、一日に1本だけ新宿発、新宿行きと言う千葉を一週して戻って来る電車があった。」と、話された事が有りました。詳しい話しでは無かったので、詳細が知りたいのですけど、今となってはもう無理でしょうね。
日本海周りの米原行、機会があったら乗りたいけれど、敦賀・米原間に新幹線ができたら…
お怪我の具合はいかがでしょうか?あまり無理はなさらないでくださいねしかし沼田駅が終着駅だったんですね。ちなみに今年は上越線開業100周年で、沼田駅でも敷島駅や岩本駅と共に記念イベントをこの前やってましたが、北毛の中心都市の玄関口とはいえだいぶ寂しくなりましたよorz😭
19時発の金沢ゆきと、22時10分発の米原ゆきは、北陸新幹線の御先祖さまですね。
上野ー大宮1時間弱って、今よりも結構時間かかっていたのですね
上野~日暮里~田端~王子~赤羽~川口町~蕨~浦和~与野と止まっていましたからね。 まだ(京浜)東北線各駅停車はありません
9:56 今では考えられないルートで米原に向かいますうーん、北陸新幹線とやらがそのルートで米原に向かおうとしていたんだよなあ
サクラ大戦の大神さんが上野にやってきたのも丁度この頃だと思うと感慨深い!
長距離列車に紛れて大宮行きがそこそこの本数運転されてるのにびっくりおそらく入庫運用の営業化とは思うが
上野から米原行きの普通列車(22時10分発)があるのは驚きですが、更に驚くのは何と「横川から先は米原まで各駅停車」だったそうです。「横川から先は米原まで各駅停車」、何というパワーワードでしょうか。
773列車、上野~大宮及び熊谷~横川間だけ通過駅があるというのもなんともはや。
18:00発の青森行き普通が急行と所要時間ほぼ変わらない…設備面の差で急行にしなかっただけ…?
当時は上越線が全通していないから、上越南線の沼田までしか走ってなかった。新潟に行くには信越本線・直江津経由か、磐越西線経由でしかなかった。横軽間はアプト式で通過するのに時間がかかる隘路で、粘着運転に切り替えられたのは1963年、実に38年後です。1998年の北陸新幹線・長野延伸で横軽間は廃止、軽井沢から先は三セク化された。信越本線・北陸本線経由米原行には(@_@;)。大宮までの電車運転は1932年で、1968年に東北本線の列車と京浜東北線の電車が分離運転実施とか、(Wikipedia情報です。)
今では「京浜東北線」しかない大宮行の「列車」があるのに驚きました。
信じられない話ではありますが、大宮行きですら機関車と客車でした。まだ今の都区内の人口も少なく、通勤通学も都電で間に合っていたのでしょうね。
@@TSUYOS185 上野から大宮まで電車化したのは1932年でしたから!ちなみに1925年の上野から大宮までの汽車駅は上野から日暮里→田端→王子→赤羽→川口町(今の川口)→蕨→浦和→与野そして大宮でした!今の鶯谷、上中里、東十条、北浦和は1932年の電車化で西川口駅は1952年、南浦和駅、西日暮里駅はは武蔵野線西船橋↔府中本町開業した1972年、さいたま新都心駅は2001年頃に開業しました!
下りの宇都宮線なら大宮行きあるけどね?
こうみると、当時から上野発は本数が多いもんですね。さすが、北の玄関口って感じがします。ところで体調はいかがですか?いつも作成お疲れ様です。
ホント1800発の201列車って上野出ると王子、赤羽、浦和、大宮、小山、宇都宮と止まっていき後はどんどん通過していく、快速区間は上野~石越であり、各駅停車になるのは石越駅(翌日500)からだ急行でも良いとは思うけど、急行よりは停車駅多いので、やっぱり快速だろうなあ。でも対の202列車青森14:35発は快速区間が石越~福島なので、やっぱり201列車は異常
この年の8月から青函航路は貨車のまま直接船で運べるようになりました...ところで、腕の調子はいかがでしょうか? くれぐれも御自愛くださいませ...
何だろう、現在では考えられないレベルの長距離普通列車が走ってた時代なんですね。。。
19時00分の急行と普通って同時発車ということは既に複々線?
この当時で既に高崎線・東北本線と常磐線が分離していたということですね。
今の倍くらいの時間を要したんだな
馬より、速いのかな?
いちこめ
1925年の上野から大宮までの汽車駅は上野→日暮里→田端→赤羽→川口町(今の川口)→蕨→浦和→与野→大宮だったですよ!1932年に尾久経由になり大宮まで電車化すると田端、王子、川口(川口町から改称)、蕨、与野駅は電車駅になりましたよ!ちなみに日暮里駅は1976年まで東北本線、高崎線のホームがあったらしいです!
>1925年
ちょうどこの年、山手線が環状運転を開始した年ですね。
祖父がこの頃、渋谷〜田端〜山形まで、利用していて、よく、
「環状運転開始した山手線は、6両10分間隔の運転で、扉は既に自動ドアだったんだぞ。これに乗って、田端から乗り換えて、山形まで帰省したんだぞ。福島で停車時間が長かったので、駅の水道で、顔についた汽車の煤を落としたんだぞ。」
と話していたのを思い出した。
福島で停車時間が長かったのは、板谷峠用の機関車への付け替えがあったからでしょうね。
1925年当時の福島米沢間は単線非電化でスイッチバックもスルー構造でないため、優等列車も赤岩・板谷・峠・大沢の4駅に連続停車したようです。
ちなみに電化されるのは1949年。同時に上記4駅がスルー構造になり、優等列車の通過が可能になりました。
田端で乗り換えは当時は田端駅も汽車駅だったからですね!電車駅になったのは1932年ですから!確か当時の田端駅は今の田端貨物駅あたりがが田端駅だっただと思いますよ!(田端駅私が旅行に行く時京浜東北南行始発利用する時利用します!普段は時折さいたま新都心に行く時に利用します)
3:50 青森まで丸1日、次の日に函館に渡って、そこから稚内までほぼ丸1日・・・トータルで2日半くらいかかったのですね・・・
この100年前の1825年はまだ江戸時代。江戸から蝦夷地の稚内に行くのに1825年の移動技術では2日半では到底行けない距離。
そう考えると、1925年当時の移動手段というのはものすごいと言えたのかも知れませんね。
動画お疲れ様です。
まだ上越国境はトンネルができていない時代。
新潟へ行くにも信越本線経由でないと行けなかったことを考えると、清水トンネル開通やその後の上越新幹線開業でどれだけ新潟と関東が近づいたのかよくわかります。
他にも郡山から磐越西線経由も良く使われていたそうです。
当時は日本の経済を支えていた繊維産業が盛んな地域であり、後に機械工業も盛んになっていく時期だったからでしょうか。両毛線系統が多く設定されているのが印象的でした。1940年と比べると、1925年時点で軸となる列車設定は仕上がっていたように思えましたね。
139列車(773列車?)が今の北陸新幹線+しらさぎルートそのままで驚く
今のルートと同じく上野ではなく途中駅の需要を拾っているのだと思う
国境のトンネルができる前、信越本線(直江津経由)と磐越西線(郡山経由)で新潟への直行列車が運行されていたことが興味深い。
703列車
1923年1月では
奥羽本線経由で青森行き
青森着、翌日535着
上野発、秋田着は1925年と同じ
長距離化すると思ったら、運転短縮もあったんですね
東北本線、常磐線、高崎・上越・信越本線、各方面が現在のローカル線並みの運行頻度(当時というか昭和前期のローカル線はもっと凄かったみたいですが)ですねぇ
朝昼の中距離便はなんとか24時までに抑えようとしているように感じますが、長距離と夕方以降は諦めて夜行にしている感じがしますね
しかし北海道の重要性が、列車番号によく現れていますし、『急行宗谷』への接続がとことん図られているのがよくわかりますね
中距離や長距離を夜行主体にしているのは新聞や荷物を運ぶ目的があったからかと思います。読売、朝日、毎日と言った全国紙は戦後も長く東京で印刷されて東日本各地へ運ばれました。(西日本へは大阪から)
各地に全国紙の印刷工場が設けられたのは昭和50年代です。
いつもありがとうございます。お怪我は大丈夫でしょうか?
上野駅がこの時代に東京と東日本各地を結ぶ重要な拠点としていることが良くわかりますね。
新潟まで夜行急行が碓氷峠、直江津経由で12時間かけていたのもすごいものです。
清水トンネルはまさに越後と東京に大きな風の穴を開けた存在ですね。
編集お疲れ様です。
お怪我は大丈夫ですか?
今では考えられない遠距離方面の列車が発車していたのがスゴイですね。
9:46 801列車が左ペインは急行、右ペインはオレンジ色の普通になっている。急行が正しいんでしょうが。
7:15 201列車が左ペインは普通になっているけれど、下にも書いてあるけれど急行?
というか、この当時は急行と普通で列番分けていないんですね。
昭和何年だったか忘れたが、
小沢昭一さんが、TV番組で
「昔、一日に1本だけ新宿発、
新宿行きと言う
千葉を一週して戻って来る電車があった。」
と、話された事が有りました。
詳しい話しでは無かったので、
詳細が知りたいのですけど、
今となってはもう無理でしょうね。
日本海周りの米原行、機会があったら乗りたいけれど、敦賀・米原間に新幹線ができたら…
お怪我の具合はいかがでしょうか?あまり無理はなさらないでくださいね
しかし沼田駅が終着駅だったんですね。ちなみに今年は上越線開業100周年で、沼田駅でも敷島駅や岩本駅と共に記念イベントをこの前やってましたが、北毛の中心都市の玄関口とはいえだいぶ寂しくなりましたよorz😭
19時発の金沢ゆきと、22時10分発の米原ゆきは、北陸新幹線の御先祖さまですね。
上野ー大宮1時間弱って、今よりも結構時間かかっていたのですね
上野~日暮里~田端~王子~赤羽~川口町~蕨~浦和~与野と止まっていましたからね。 まだ(京浜)東北線各駅停車はありません
9:56 今では考えられないルートで米原に向かいます
うーん、北陸新幹線とやらがそのルートで米原に向かおうとしていたんだよなあ
サクラ大戦の大神さんが上野にやってきたのも丁度この頃だと思うと感慨深い!
長距離列車に紛れて大宮行きがそこそこの本数運転されてるのにびっくり
おそらく入庫運用の営業化とは思うが
上野から米原行きの普通列車(22時10分発)があるのは驚きですが、更に驚くのは何と「横川から先は米原まで各駅停車」だったそうです。
「横川から先は米原まで各駅停車」、何というパワーワードでしょうか。
773列車、上野~大宮及び熊谷~横川間だけ通過駅があるというのもなんともはや。
18:00発の青森行き普通が急行と所要時間ほぼ変わらない…設備面の差で急行にしなかっただけ…?
当時は上越線が全通していないから、上越南線の沼田までしか走ってなかった。
新潟に行くには信越本線・直江津経由か、磐越西線経由でしかなかった。
横軽間はアプト式で通過するのに時間がかかる隘路で、粘着運転に切り替えられたのは1963年、実に38年後です。1998年の北陸新幹線・長野延伸で横軽間は廃止、軽井沢から先は三セク化された。
信越本線・北陸本線経由米原行には(@_@;)。
大宮までの電車運転は1932年で、1968年に東北本線の列車と京浜東北線の電車が分離運転実施とか、(Wikipedia情報です。)
今では「京浜東北線」しかない大宮行の「列車」があるのに驚きました。
信じられない話ではありますが、大宮行きですら機関車と客車でした。
まだ今の都区内の人口も少なく、通勤通学も都電で間に合っていたのでしょうね。
@@TSUYOS185 上野から大宮まで電車化したのは1932年でしたから!ちなみに1925年の上野から大宮までの汽車駅は上野から日暮里→田端→王子→赤羽→川口町(今の川口)→蕨→浦和→与野そして大宮でした!今の鶯谷、上中里、東十条、北浦和は1932年の電車化で西川口駅は1952年、南浦和駅、西日暮里駅はは武蔵野線西船橋↔府中本町開業した1972年、さいたま新都心駅は2001年頃に開業しました!
下りの宇都宮線なら大宮行きあるけどね?
こうみると、当時から上野発は本数が多いもんですね。
さすが、北の玄関口って感じがします。
ところで体調はいかがですか?
いつも作成お疲れ様です。
ホント1800発の201列車って上野出ると王子、赤羽、浦和、大宮、小山、宇都宮と止まっていき後はどんどん通過していく、快速区間は上野~石越であり、各駅停車になるのは石越駅(翌日500)からだ
急行でも良いとは思うけど、急行よりは停車駅多いので、やっぱり快速だろうなあ。
でも対の202列車青森14:35発は快速区間が石越~福島なので、やっぱり201列車は異常
この年の8月から青函航路は貨車のまま直接船で運べるようになりました...
ところで、
腕の調子はいかがでしょうか? くれぐれも御自愛くださいませ...
何だろう、現在では考えられないレベルの長距離普通列車が走ってた時代なんですね。。。
19時00分の急行と普通って同時発車ということは既に複々線?
この当時で既に高崎線・東北本線と常磐線が分離していたということですね。
今の倍くらいの時間を要したんだな
馬より、速いのかな?
いちこめ