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きたぐには1982年11月のダイヤ改正で大阪ー新潟間に短縮されましたが、新潟ー青森間は「いなほ」として残りました。
平成17年1月、新潟から「金沢返し」で往復したことがある。新潟からの上りは自由席、金沢からの下りはB寝台下段を使った。金沢で下りに乗った際に、車掌に空席状況を確認してからB寝台に乗った。車内販売のB寝台券は、今も捨てずに残している。新潟まで4時間半、よく眠れたのを覚えている。
懐かしいですね。青海川で朝日を浴びて自転車を漕いでいて抜かれるのを思い出します
私が急行きたぐにを良く利用したのは1980年代前半でした。長野県白馬エリアにスキーに行くために利用していました。スキーバスの運行もあったのですが、北陸ワイド周遊券で大糸線の途中まで利用出来、目的駅まで追加運賃を払った方がスキーバスより安かったんですよね。使用されている車両に寝台はなく指定席と自由席だけでした。大阪駅を20時台に出発し青森までの運行でした。早朝3時台に乗り換え駅の糸魚川に到着。大糸線始発までは2時間ほどの待ち時間が有り、暇つぶしに海岸まで歩いて散策した覚えが有ります。大阪駅で乗車時、お婆さんが何か話しかけて来られたんですが全く理解できなかった。そう青森行なので強烈な青森津軽弁だったんだと思います。何度か聞き直すとどうも、この列車は青森に行くのかと聞かれているのが分かり。行きますよとお答えしたのは懐かしい思い出です。あぁ~~もう40年も前の話です。
いま思い出したんですが、京都発直江津ゆきの普通列車が走ってましたよね!?確か昭和50年代まで走ってた。あと昼間特急の白鳥を大阪〜青森、往復乗り通した。思い出も有ります。片道13時間の苦行の旅でした。
@@小北一仁-p1s米原以西は50-3以降ないはずだが😉
@@psychedelicraspberry517 さん。厳密なお話をされる様なので言わせて頂きますが……昭和50年3月って50年代ですよね!
@@小北一仁-p1sまあね。但し、10年間のうちの3ヶ月だが。あと、私の記憶が確かなら、50-3までは、大阪→新潟の夜行普通列車と、その送り込みの富山→大阪の昼行普通列車各1本しかなかった😉
新津から新潟行くとき使ってたわ、通勤使い🤖
上段の寝台を利用したけど、柏崎から新潟までは座席自由席で通勤客と一緒にノンビリと過ごした思い出が。
実は、きたぐに号には首都圏ー北陸間を長岡乗継で結ぶ役割もあった。特に、夜行急行能登号、寝台特急北陸号が廃止後もきたぐに号は残されていたので、その代替にもなった。私が最後にきたぐに号を利用したのも、埼玉から福井への出張で、朝一番で現地入りするために利用した。翌朝の仕事を考えてグリーン車を奮発したのも、懐かしい思い出。
本来の夜行列車の役割に加え、関西圏の終電、北陸⇒首都圏の始発、新潟での通勤利用と、特に下りは多機能な役割を果たしていましたね。
東京での滞在時間を少しでも稼ぐために上越新幹線で長岡乗り換えは何度も実行しましたね。昨今の直ぐに運休する在来線になってしまうとこんな真似は出来ませんが。
北陸新幹線開業前の話ですよね🤔…今なら新幹線→サンダーバードorしらさぎで前日入りで行けますが、昔は昼行なら白山→雷鳥orしらさぎだったけど、本数限られ、時間も掛かりますから、新潟の方出て、きたぐに使った方が良かったりもしますね🤔…
A寝台から普通座席自由席まであったが、唯一無かったのが普通座席指定席だった(グリーン座席指定席はあった)下りのみ新津から快速扱いになり急行券無しでも乗れたが、自由席の1~4号車のみ可にされていた。新潟からは特急いなほに接続し、青森まで行けた。(末期はいなほも秋田までにされたが、更に先特急つがるに乗り継げた)など面白い列車でした。
583系急行「きたぐに」、一度は乗ってみたかったです。西日本国鉄特急色の583系は「きたぐに」を象徴するもので、この塗り分けは、かつて特急「はくたか」や「しらさぎ」で運用されていた485系にも塗装されていたそうです。残念なことに、私の生まれた1年後に急行「きたぐに」「能登」は廃止され、寝台特急「日本海」は臨時格下げ。どちらも乗ったことがないまま、今に至ります…
周遊券が使えたときはよかったなぁ。何度か乗りました❗️ 今となっては583寝台のパン下に、一度は乗っておきたかったですね~
私が学生の時、北海道に行くのに利用いたしました。周遊券を使い大阪駅から乗車、新潟でいなほに乗りつげは青森には夕方には到着いたしました。青森観光して青函連絡船夜行便で早朝函館着、接続の特急に乗れば小樽、札幌には昼頃到着で便利な列車でした。また北陸トンネル大火災事故も印象に残っています。
うっわ懐かしい。金沢で日付が変わるまで飲んだ後もこれに乗って帰宅して2時間ほど寝て、また出勤。体力あったわw
きたぐに電車化は、元々あつた立山を統合した結果です。そのため立山で583系を運用してきたぐにに583系を運用したそうです。ただきたぐにはA寝台の利用率が高かったので、サハ581をサロ581に改造して、充てられた。当時新潟での間合い運用で急行庄内が新潟と酒田で運転されていた。ただし定期列車ではなくて、臨時列車だった。私は485系の特急いなほよりも、583系の急行庄内のほうが空いていれば、シートピッチも広いので楽だと思う。
新大阪から新潟まで乗ったことがあります直江津で目が覚めて外を見たとき一面の雪景色で九州に住むわたしとしては見たこともない景色だったのを覚えていますトワイライト号ともすれちがったなぁ・・・
新潟県人です。急行きたぐにか、懐かしいなぁ。高校時代三条駅付近の踏切で季節問わず通学途中に遭遇したのをよく覚えてる。
新潟駅は入線と逆方向へ行かないと出入庫出来ないから客車は機関車付け替えが発生する。電車なら付け替えの手間が省ける分ホームの専有時間を減らせる。青森まで行っていた時代はこの付け替えでロス時間が長かった。「きたぐに」新潟〜青森間は昼行列車の側面が強いし、関西方面からの直通客も少なかったから上越新幹線開業で「いなほ」に吸収されてしまった。「きたぐに」は急行だったから同じく夜行急行の「能登」と組み合わせる事で新潟から東京ミニ周遊券の移動手段として重宝しました。往復及び周遊区間は急行の自由席が使えたもんなぁ…
客車時代に既に新潟~青森は廃止されてるが😉
ゴウハチサンケイは、急行立山で仕様実績を積んできたぐにに使用されたと聞いています。私は583系よりも旧型客車や、12系、14系時代のほうがなじみがあります。2度ほど12系時代に、全区間乗り通し連絡船と函館から札幌まで、急行すずらんで札幌まで行った経験があります。もちろんオール普通車自由席です。疲れはそんなにかんじなかったけど寝てばかりだったと記憶しています。
「水曜どうでしょう」で寝台券が人数分確保できずに、大泉洋さんが貧乏くじで座席に座っていた。
あったねー懐かしい
痔に耐えられず、ディレクターのベットに這入り込んだらしい
大泉「僕痔です(半ギレ)」
「自由席誰が乗るの?」「若もんか?」「オレヤダよ!?自由席」「僕はねぇ、痔なんです。長いこと座れません!」
闘痔の旅が始まるきっかけですね。
大阪〜中国、九州に行くのには便利だった👍新潟〜大阪まで今は高速バスの方が需要が有る為夜行列車は❓臨時でも運行されて無いのは寂しい😭
583系は日本海縦貫線を行く急行として運転された。きたぐには、米原経由新潟行き。大垣から最終米原行きに乗車して乗り換えたこともある。最後の乗車はグリーン車。隣の人のお土産は当時話題の面白い恋人だった。この車両で初めて青森に行ったことも懐かしい。臨時列車の急行あおもり。5月に満開のサクラを見た。
急行化されるまでは寝台特別急行日本海の臨時便扱いだった時代も有りましたね。特急時代は車内で寝台解体していました。
いや、懐かしい子供の頃に新潟以北(鶴岡)まで乗りましたね。当時はうちの爺さんが国鉄職員で安く乗れていたらしいです。婆さんの旅行予定では会津まで急行を使うはずだったんですが、きたぐにの客車列車を見て私があれに乗りたいと頼んで無理やり乗ったそうです。とんでもない予定変更で爺さん婆さんが生きてる間ずっと笑い話にされました。
きたぐには,1992 年(だったかな?)に乗ったことがあったなあ.新津〜新潟間は急行券不要の快速扱いだった記憶がある.夜を明かしてどんよりした空気の車内に「これから一日がはじまるぞ」って感じの女子高生が新津で乗ってきて,「空気が澱んでいて済まない」と思った思い出
朝方の夜行列車の淀んだ空気を知る人も少なくなるんでしょうな。(ヽ´ω`)
ワイド周遊券を使ってよく乗りました。初乗りは1982.12.23だったような。大阪-金沢間を14系座席でした。金沢着が4時前で、輪島行に抜群の接続でした。鉄道ジャーナル誌の列車追跡での車掌さんの解説でこの接続を知り、早速実行しました。
1990年代前半、大阪から北海道ワイドで渡道する場合、きたぐに、スーパーいなほ(停車駅を極限まで絞った便〕)、客車各停、はまなすというパターンでした。福井に住んでいた時は、下りは大阪でしこたま飲み、未明の三時頃に到着、上りも7時前に大阪に到着する結構便利なダイヤで重宝してました。
なんでもかんでも新幹線にして、名物列車がなくなったね。
末期の頃、下りが新津駅から快速になっていたので途中の亀田駅から新潟駅まで何回か乗りました。その時は寝台車含めかなり混んでいた記憶があるので廃止されると聞いた時はかなりショックを受けました。とても懐かしい思い出です。
隣の荻川が実家の最寄り駅です
子供のころ、旧型客車寝台と12系との組み合わせで青森まで走っていた頃の「きたぐに」に8回(4往復)ほど乗った経験が有ります。子供心に思ったのは最後尾の旧型客車の一番後ろ、鎖が掛かっているだけで扉が無く、線路が丸見えだったのが印象的だったのと、新潟~青森間は12系のみで寝台車は新潟駅で連結していた為、そのシーンをじっくり見る事が出来、連結音が印象的でしたね。ある意味、「列車の旅」を一番楽しめる列車だと思います。学生時代、青春18きっぷの都合上、583系の「きたぐに」にも乗りましたが、やはり味気なかったですね。
臨時運用では湖西線経由に変更されていたっけ?
このきたぐにには、乗車したことはありませんが、高校の修学旅行で青森から上野迄に同じ形にお世話になりました。連絡船からの乗り継ぎ揺られながら上野に着く前に起きて準備した光景が今でも懐かしい思いでです。帰りの列車も常磐線経由のこの電車でしたね。青森に午後23時位について連絡船に乗ったて函館には午前4時過ぎにつき特別急行おおぞらで旭川に帰ってバスに乗り換え富良野に帰った思いでのひとこまです😆🎵🎵
もう少し需要が残っていれば サンライズの285系が 投入されていたかもしれない 残念です・・・「きたぐに」は 国鉄最後の日に乗車した 思い出の電車寝台なので・・・
きたぐに は1980年代東北ワイドを利用して乗車した事があります。12系客車でした 流石に車内は終着駅に近いためかゴミだらけでした。弘前から青森だと思います。その後ねぶた祭りを観ました。
583系きたぐには何度か利用したけど青森行き時代に乗れなかったのが残念
1986年に新潟から大阪まで自由席に乗車しました。2月中旬の平日で、空席も多く広いスペースを使えたこともありよく眠れましたが、滋賀県の米原辺りから徐々に乗ってくる人が増え、大阪に到着する頃には通勤電車のような状態でした。寝台車も連結していたので、ケチらずに寝台車に乗ればよかったと思ったのを覚えています。
一回だけ乗ったけどいい列車だった。今は関西と新潟の鉄道移動が超不便になったから復活してほしい。
北陸新幹線が繋がっても高崎乗り換え、これでは結局東海道新幹線に集中してしまう。
第三セクター会社に深夜の列車を動かすコストは捻出できる余裕は無いし、事実上 深夜の時間帯はJR貨物に路線を貸し出すから旅客列車は寧ろ邪魔でしかない。
かつて北陸線では583系と共に、普通列車に改造された419系もあった。改造前、後が分かるので見比べ、乗り比べることができた。また楽しみだった。
子供の頃、11番ホームで雷鳥を待って583が来た時はがっかりしたな。
ムーンライト仙台で乗ったけど、興奮しすぎて寝れなかった(笑)
A寝台は改造車なんですよね。
サハネ581の上段寝台を撤去して2段式にしたサロネ581ですね。
北陸や長野、SLばんえつ物語撮影旅行にはよく乗った御用達列車だったなぁ☺️当然、ほとんど自由席並んで乗った😁👍たま~に懐に余裕あった時、一度「きたぐに」の名の入った指定券が欲しかった(自由席は当然列車名無記載)のもあったので奮発してグリーン車に乗ったことがある💺✨(当然そのグリーン券切符🎫は無効印押してもらい宝物に✨)そう言えばJR発足直後の数年辺りまで、閑散期に、この普通車自由席のボックス席のシートを勝手に引き出して下段寝台に組み立てて、寝とるオッサンを見たことあるなぁ…(当時、鉄道雑誌にも紹介されてたが…)そういうオッサン等に言わせて見れば通称「C寝台😁」だとか…😅当然違反行為だから、その後、下段のシートを素人が引き出せないよう、ボルト🔩でロックされたそうな…(* ̄∇ ̄*)🤭-w-w
583も急行きたぐにも一度乗りたかった車体と内装だけでも583を模したような車両を…
北陸トンネルの事故でよく廃止にならなかったな…😮
あの程度では廃止にならないよ。長距離移動手段の主流は在来線優等列車だった時代だよ。食堂車を一律に外したの措置だって本社が世間体に過剰反応しただけ。
以前コメントした急行きたぐに ありがとうございます(^ ^)私が乗ったのは郵便車 グリーン車(スロ62だった記憶が…)が編成に組み込まれていました 懐かしいなぁ(^ ^)
末期の「きたぐに」はUSJや関西空港へのアクセス手段としても利用されていて、深夜の金沢や富山でかなり乗り降りがありました。(上り便は米原で関西空港行きはるかに同一ホーム接続するのもミソ)自由席・グリーン車・A寝台・B寝台それぞれの設備で異なる需要に対応しており、583系の特色が遺憾なく発揮されていました。
クハネ581の保存車、できれば原型の連結器カバー(平べったい形)に復元できないものか。
「最後まで生き残った国鉄急行電車」という見出しにはツッコミを入れておきます。急行型として設計が始まるもデビュー時から一応特急型ですからね。国鉄末期に余剰になってから急行デビューしましたが。特急雷鳥の間合いで急行立山夜行運用に使用した583系を客車で運用していた急行きたぐにと統合する形で1985年3月から投入。静粛性で客車が上と言いたいが、14系は発電機用エンジン付きに当たると災難。夏場に稼働したクーラーもかなりの騒音を発するタイプだったから、電車とは言え防音に配慮した583系は優秀。座席に固定した自由席も閑散期なら1ボックス占有で下手に寝台上中段を取るより快適な移動が出来ました。廉価な急行料金とこまめに停車して客を拾っていくスタイルで夜行列車以外に始発と最終列車を兼ねていたものの、航空機運賃が値下がりし脱法バスが台頭してくる00年代になると平日は空席が目立ち始め、北陸新幹線金沢開業でどの道命運が尽きるとされていたので、新幹線開業までは持ってくれるかと思っていたら持たなかったのは残念。
武生に停車するのに一度も我が街の駅には、停車してくれなかった。2時に通過するダイヤで、ラストランのきたぐにを撮影して今でも保存してあります。きたぐにと言えば )=🔥🚋🔥=(北陸トンネル火災事故です。あの事故によって夜行列車が見直されて、食堂車の廃止、旧車の入れ替えが進んだんですが、急行越前だけは最後まで旧車のままで終わりました。きたぐにが客車であると、牽引する機関車を交直流の境目で何度も付け替えないといけない手間も多く、客車時代には停車する必要もない田村駅にまで止まることになって時間的にも、手間としても余計な負担が生じました。鉄道史の上で、北陸トンネル事故は衝撃的な事故でした。30人の方が亡くなっておられます。
おや、サムネの写真自分のですね(^◇^;)懐かしい。サイトの名前は浦部ではなく裏辺ですね。
ご視聴ありがとうございます。お借りした写真の撮影者の方にご覧いただけるとは嬉しい限りです🙇♀出典は訂正いたします。
ダイヤを見ても、並行する北陸道の夜行バス相手に(対石川富山であれば)十分に対抗できる。はまなすが東室蘭以西の最終列車として機能していた様に、きたぐにも米原以東の最終列車として機能していたそして安さ重視の自由席から快適性の寝台車まで豊富な設備も魅力それでも車両が古いから儲かって無かったんだろうなぁ
各停車駅を開けておく人的コスト・負担も現代では大きそうですね…
クハネ581、機器室内に発電機と空気圧縮機が搭載されていてスペースが狭く、整備が大変な子でした(^_^;)
本職の方?
大阪〜新潟に寝台特急「つるぎ」がありましたね。距離や有効時間から客車特急「つるぎ」と米原回りだけれど電車急行「きたぐに」の所要時間が殆ど変わらないという…。特に上りは大阪着時刻があまり変わらない…。。。1975〜1990当時は夜行急行がかなり走っていて列車を選べるという良き時代でした!
大阪~新潟間はよく列車で移動しました。下りは新潟に早く着きたい時はつるぎ、急がない時はきたぐにと使い分けていました。上りはもっぱらきたぐに利用でした。
ちなみに、小松駅の高架工事に伴う線路切替のとき、急ぎ客のために、不通区間の加賀温泉?~金沢間を代行バス、金沢から、ほぼ定刻の別列車に乗り継ぐパターンと、ゆっくり寝ていたい客のため、線路切替が終わるまで大阪から来た列車でそのまま待機、金沢以遠が臨時(遅れ)のダイヤとなる2パターンの乗車が選択できるようになってました。
トンネル火災事故が教訓になった列車の一つです。
一度だけ乗れました。B寝台下段だったかな?車内探検楽しかったな~
大学時代に行事で新潟まで行って自由解散だったので、「きたぐに」で関西まで帰りましたよ。寝台車に乗ったのは後にも先にもこの時だけです。エチゴビールを寝台で傾けつつ、幼少時からの悲願を叶えた自分に快哉を叫びました(*^-^*)(*^-^*)
12年1月に大阪→新潟で乗ったなあ。車両はクハネ581ー33の3段B寝台の下段。少し前に北斗星の(上段)寝台に乗った事と比較すると、やたら頭上が狭かった事が印象に残ってます。あと動画で述べられたように、新潟地域では急行にあるまじき「のんびり運行」していたのが印象に残ってます。
寝台車の小窓って、イイですよね~。😊
北陸トンネルの火災事故以前の客車時代が、いかにも「夜行急行列車」らしい急行だった。A・B寝台、グリーン、食堂車を連結の上、編成も新潟まで長大だった。昼行の羽越本線以北は日本海沿岸の風景も堪能できたであろうから。何より近畿圏から北海道へは仕上がりで行ける選択肢であったから。
末期583系の"きたぐに"に1回しか乗ったことがないのが、「パン上」を間違って「パン下」として指定券発見した想い出…いやよく寝れましたよ。上もいなかったと思います。
583系の「きたぐに」なら元のように青森まで走っても良かったなあ。
きたぐには1982年11月のダイヤ改正で大阪ー新潟間に短縮されましたが、新潟ー青森間は「いなほ」として残りました。
平成17年1月、新潟から「金沢返し」で往復したことがある。
新潟からの上りは自由席、金沢からの下りはB寝台下段を使った。
金沢で下りに乗った際に、車掌に空席状況を確認してからB寝台に乗った。
車内販売のB寝台券は、今も捨てずに残している。
新潟まで4時間半、よく眠れたのを覚えている。
懐かしいですね。青海川で朝日を浴びて自転車を漕いでいて抜かれるのを思い出します
私が急行きたぐにを良く利用したのは1980年代前半でした。
長野県白馬エリアにスキーに行くために利用していました。
スキーバスの運行もあったのですが、北陸ワイド周遊券で大糸線の途中まで利用出来、目的駅まで追加運賃を払った方がスキーバスより安かったんですよね。
使用されている車両に寝台はなく指定席と自由席だけでした。
大阪駅を20時台に出発し青森までの運行でした。
早朝3時台に乗り換え駅の糸魚川に到着。大糸線始発までは2時間ほどの待ち時間が有り、暇つぶしに海岸まで歩いて散策した覚えが有ります。
大阪駅で乗車時、お婆さんが何か話しかけて来られたんですが全く理解できなかった。そう青森行なので強烈な青森津軽弁だったんだと思います。何度か聞き直すとどうも、この列車は青森に行くのかと聞かれているのが分かり。行きますよとお答えしたのは懐かしい思い出です。
あぁ~~
もう40年も前の話です。
いま思い出したんですが、京都発直江津ゆきの普通列車が走ってましたよね!?確か昭和50年代まで走ってた。
あと昼間特急の白鳥を大阪〜青森、往復乗り通した。思い出も有ります。片道13時間の苦行の旅でした。
@@小北一仁-p1s米原以西は50-3以降ないはずだが😉
@@psychedelicraspberry517 さん。
厳密なお話をされる様なので言わせて頂きますが……
昭和50年3月って50年代ですよね!
@@小北一仁-p1sまあね。但し、10年間のうちの3ヶ月だが。あと、私の記憶が確かなら、50-3までは、大阪→新潟の夜行普通列車と、その送り込みの富山→大阪の昼行普通列車各1本しかなかった😉
新津から新潟行くとき使ってたわ、通勤使い🤖
上段の寝台を利用したけど、柏崎から新潟までは座席自由席で通勤客と一緒にノンビリと過ごした思い出が。
実は、きたぐに号には首都圏ー北陸間を長岡乗継で結ぶ役割もあった。
特に、夜行急行能登号、寝台特急北陸号が廃止後もきたぐに号は残されていたので、その代替にもなった。
私が最後にきたぐに号を利用したのも、埼玉から福井への出張で、朝一番で現地入りするために利用した。翌朝の仕事を考えてグリーン車を奮発したのも、懐かしい思い出。
本来の夜行列車の役割に加え、関西圏の終電、北陸⇒首都圏の始発、新潟での通勤利用と、特に下りは多機能な役割を果たしていましたね。
東京での滞在時間を少しでも稼ぐために上越新幹線で長岡乗り換えは何度も実行しましたね。
昨今の直ぐに運休する在来線になってしまうとこんな真似は出来ませんが。
北陸新幹線開業前の話ですよね🤔…今なら新幹線→サンダーバードorしらさぎで前日入りで行けますが、昔は昼行なら白山→雷鳥orしらさぎだったけど、本数限られ、時間も掛かりますから、新潟の方出て、きたぐに使った方が良かったりもしますね🤔…
A寝台から普通座席自由席まであったが、唯一無かったのが普通座席指定席だった
(グリーン座席指定席はあった)
下りのみ新津から快速扱いになり急行券無しでも乗れたが、自由席の1~4号車のみ可にされていた。
新潟からは特急いなほに接続し、青森まで行けた。
(末期はいなほも秋田までにされたが、更に先特急つがるに乗り継げた)
など面白い列車でした。
583系急行「きたぐに」、一度は乗ってみたかったです。西日本国鉄特急色の583系は「きたぐに」を象徴するもので、この塗り分けは、かつて特急「はくたか」や「しらさぎ」で運用されていた485系にも塗装されていたそうです。残念なことに、私の生まれた1年後に急行「きたぐに」「能登」は廃止され、寝台特急「日本海」は臨時格下げ。どちらも乗ったことがないまま、今に至ります…
周遊券が使えたときはよかったなぁ。何度か乗りました❗️ 今となっては583寝台のパン下に、一度は乗っておきたかったですね~
私が学生の時、北海道に行くのに利用いたしました。周遊券を使い大阪駅から乗車、新潟でいなほに乗りつげは青森には夕方には到着いたしました。青森観光して青函連絡船夜行便で早朝函館着、接続の特急に乗れば小樽、札幌には昼頃到着で便利な列車でした。
また北陸トンネル大火災事故も印象に残っています。
うっわ懐かしい。
金沢で日付が変わるまで飲んだ後もこれに乗って帰宅して2時間ほど寝て、また出勤。体力あったわw
きたぐに電車化は、元々あつた立山を統合した結果です。そのため立山で583系を運用してきたぐにに583系を運用したそうです。ただきたぐにはA寝台の利用率が高かったので、サハ581をサロ581に改造して、充てられた。当時新潟での間合い運用で急行庄内が新潟と酒田で運転されていた。ただし定期列車ではなくて、臨時列車だった。私は485系の特急いなほよりも、583系の急行庄内のほうが空いていれば、シートピッチも広いので楽だと思う。
新大阪から新潟まで乗ったことがあります
直江津で目が覚めて外を見たとき一面の雪景色で
九州に住むわたしとしては見たこともない景色だったのを覚えています
トワイライト号ともすれちがったなぁ・・・
新潟県人です。急行きたぐにか、懐かしいなぁ。
高校時代三条駅付近の踏切で季節問わず通学途中に遭遇したのをよく覚えてる。
新潟駅は入線と逆方向へ行かないと出入庫出来ないから客車は機関車付け替えが発生する。電車なら付け替えの手間が省ける分ホームの専有時間を減らせる。青森まで行っていた時代はこの付け替えでロス時間が長かった。「きたぐに」新潟〜青森間は昼行列車の側面が強いし、関西方面からの直通客も少なかったから上越新幹線開業で「いなほ」に吸収されてしまった。
「きたぐに」は急行だったから同じく夜行急行の「能登」と組み合わせる事で新潟から東京ミニ周遊券の移動手段として重宝しました。往復及び周遊区間は急行の自由席が使えたもんなぁ…
客車時代に既に新潟~青森は廃止されてるが😉
ゴウハチサンケイは、急行立山で仕様実績を積んできたぐにに使用されたと聞いています。私は583系よりも旧型客車や、12系、14系時代のほうがなじみがあります。2度ほど12系時代に、全区間乗り通し連絡船と函館から札幌まで、急行すずらんで札幌まで行った経験があります。もちろんオール普通車自由席です。疲れはそんなにかんじなかったけど寝てばかりだったと記憶しています。
「水曜どうでしょう」で寝台券が人数分確保できずに、大泉洋さんが貧乏くじで座席に座っていた。
あったねー懐かしい
痔に耐えられず、ディレクターのベットに這入り込んだらしい
大泉「僕痔です(半ギレ)」
「自由席誰が乗るの?」
「若もんか?」
「オレヤダよ!?自由席」
「僕はねぇ、痔なんです。長いこと座れません!」
闘痔の旅が始まるきっかけですね。
大阪〜中国、九州に行くのには便利だった👍
新潟〜大阪まで今は高速バスの方が需要が有る為夜行列車は❓
臨時でも運行されて無いのは寂しい😭
583系は日本海縦貫線を行く急行として運転された。きたぐには、米原経由新潟行き。大垣から最終米原行きに乗車して乗り換えたこともある。最後の乗車はグリーン車。隣の人のお土産は当時話題の面白い恋人だった。この車両で初めて青森に行ったことも懐かしい。臨時列車の急行あおもり。5月に満開のサクラを見た。
急行化されるまでは寝台特別急行日本海の臨時便扱いだった時代も有りましたね。
特急時代は車内で寝台解体していました。
いや、懐かしい子供の頃に新潟以北(鶴岡)まで乗りましたね。当時はうちの爺さんが国鉄職員で安く乗れていたらしいです。
婆さんの旅行予定では会津まで急行を使うはずだったんですが、きたぐにの客車列車を見て私があれに乗りたいと頼んで無理やり乗ったそうです。
とんでもない予定変更で爺さん婆さんが生きてる間ずっと笑い話にされました。
きたぐには,1992 年(だったかな?)に乗ったことがあったなあ.
新津〜新潟間は急行券不要の快速扱いだった記憶がある.
夜を明かしてどんよりした空気の車内に「これから一日がはじまるぞ」って感じの女子高生が新津で乗ってきて,「空気が澱んでいて済まない」と思った思い出
朝方の夜行列車の淀んだ空気を知る人も少なくなるんでしょうな。(ヽ´ω`)
ワイド周遊券を使ってよく乗りました。
初乗りは1982.12.23だったような。大阪-金沢間を14系座席でした。
金沢着が4時前で、輪島行に抜群の接続でした。鉄道ジャーナル誌の列車追跡での車掌さんの解説でこの接続を知り、早速実行しました。
1990年代前半、大阪から北海道ワイドで渡道する場合、きたぐに、スーパーいなほ(停車駅を極限まで絞った便〕)、
客車各停、はまなすというパターンでした。
福井に住んでいた時は、下りは大阪でしこたま飲み、未明の三時頃に到着、上りも7時前に大阪に到着する
結構便利なダイヤで重宝してました。
なんでもかんでも新幹線にして、名物列車がなくなったね。
末期の頃、下りが新津駅から快速になっていたので途中の亀田駅から新潟駅まで何回か乗りました。
その時は寝台車含めかなり混んでいた記憶があるので廃止されると聞いた時はかなりショックを受けました。
とても懐かしい思い出です。
隣の荻川が実家の最寄り駅です
子供のころ、旧型客車寝台と12系との組み合わせで青森まで走っていた頃の「きたぐに」に8回(4往復)ほど乗った経験が有ります。
子供心に思ったのは最後尾の旧型客車の一番後ろ、鎖が掛かっているだけで扉が無く、線路が丸見えだったのが印象的だったのと、新潟~青森間は12系のみで寝台車は新潟駅で連結していた為、そのシーンをじっくり見る事が出来、連結音が印象的でしたね。
ある意味、「列車の旅」を一番楽しめる列車だと思います。
学生時代、青春18きっぷの都合上、583系の「きたぐに」にも乗りましたが、やはり味気なかったですね。
臨時運用では湖西線経由に変更されていたっけ?
このきたぐにには、乗車したことはありませんが、高校の修学旅行で青森から上野迄に同じ形にお世話になりました。
連絡船からの乗り継ぎ揺られながら上野に着く前に起きて準備した光景が今でも懐かしい思いでです。
帰りの列車も常磐線経由のこの電車でしたね。青森に午後23時位について連絡船に乗ったて函館には午前4時過ぎにつき
特別急行おおぞらで旭川に帰ってバスに乗り換え富良野に帰った思いでのひとこまです😆🎵🎵
もう少し需要が残っていれば サンライズの285系が 投入されていたかもしれない 残念です・・・
「きたぐに」は 国鉄最後の日に乗車した 思い出の電車寝台なので・・・
きたぐに は1980年代東北ワイドを利用して乗車した事があります。12系客車でした 流石に車内は終着駅に近いためかゴミだらけでした。弘前から青森だと思います。その後ねぶた祭りを観ました。
583系きたぐには何度か利用したけど
青森行き時代に乗れなかったのが残念
1986年に新潟から大阪まで自由席に乗車しました。
2月中旬の平日で、空席も多く広いスペースを使えたこともありよく眠れましたが、滋賀県の米原辺りから徐々に乗ってくる人が増え、大阪に到着する頃には通勤電車のような状態でした。
寝台車も連結していたので、ケチらずに寝台車に乗ればよかったと思ったのを覚えています。
一回だけ乗ったけどいい列車だった。
今は関西と新潟の鉄道移動が超不便になったから復活してほしい。
北陸新幹線が繋がっても高崎乗り換え、これでは結局東海道新幹線に集中してしまう。
第三セクター会社に深夜の列車を動かすコストは捻出できる余裕は無いし、事実上 深夜の時間帯はJR貨物に路線を貸し出すから旅客列車は寧ろ邪魔でしかない。
かつて北陸線では583系と共に、普通列車に改造された419系もあった。改造前、後が分かるので見比べ、乗り比べることができた。また楽しみだった。
子供の頃、11番ホームで雷鳥を待って583が来た時はがっかりしたな。
ムーンライト仙台で乗ったけど、興奮しすぎて寝れなかった(笑)
A寝台は改造車なんですよね。
サハネ581の上段寝台を撤去して2段式にしたサロネ581ですね。
北陸や長野、SLばんえつ物語撮影旅行にはよく乗った御用達列車だったなぁ☺️当然、ほとんど自由席並んで乗った😁👍
たま~に懐に余裕あった時、一度「きたぐに」の名の入った指定券が欲しかった(自由席は当然列車名無記載)のもあったので奮発してグリーン車に乗ったことがある💺✨
(当然そのグリーン券切符🎫は無効印押してもらい宝物に✨)
そう言えばJR発足直後の数年辺りまで、閑散期に、この普通車自由席のボックス席のシートを勝手に引き出して下段寝台に組み立てて、寝とるオッサンを見たことあるなぁ…
(当時、鉄道雑誌にも紹介されてたが…)
そういうオッサン等に言わせて見れば通称「C寝台😁」だとか…😅
当然違反行為だから、その後、下段のシートを素人が引き出せないよう、ボルト🔩でロックされたそうな…(* ̄∇ ̄*)🤭-w-w
583も急行きたぐにも一度乗りたかった
車体と内装だけでも583を模したような車両を…
北陸トンネルの事故でよく廃止にならなかったな…😮
あの程度では廃止にならないよ。
長距離移動手段の主流は在来線優等列車だった時代だよ。
食堂車を一律に外したの措置だって本社が世間体に過剰反応しただけ。
以前コメントした急行きたぐに ありがとうございます(^ ^)
私が乗ったのは郵便車 グリーン車(スロ62だった記憶が…)が編成に組み込まれていました 懐かしいなぁ(^ ^)
末期の「きたぐに」はUSJや関西空港へのアクセス手段としても利用されていて、深夜の金沢や富山でかなり乗り降りがありました。
(上り便は米原で関西空港行きはるかに同一ホーム接続するのもミソ)
自由席・グリーン車・A寝台・B寝台それぞれの設備で異なる需要に対応しており、583系の特色が遺憾なく発揮されていました。
クハネ581の保存車、できれば原型の連結器カバー(平べったい形)に復元できないものか。
「最後まで生き残った国鉄急行電車」という見出しにはツッコミを入れておきます。
急行型として設計が始まるもデビュー時から一応特急型ですからね。
国鉄末期に余剰になってから急行デビューしましたが。
特急雷鳥の間合いで急行立山夜行運用に使用した583系を客車で運用していた急行きたぐにと統合する形で1985年3月から投入。
静粛性で客車が上と言いたいが、14系は発電機用エンジン付きに当たると災難。
夏場に稼働したクーラーもかなりの騒音を発するタイプだったから、
電車とは言え防音に配慮した583系は優秀。
座席に固定した自由席も閑散期なら1ボックス占有で下手に寝台上中段を取るより快適な移動が出来ました。
廉価な急行料金とこまめに停車して客を拾っていくスタイルで夜行列車以外に始発と最終列車を兼ねていたものの、
航空機運賃が値下がりし脱法バスが台頭してくる00年代になると平日は空席が目立ち始め、
北陸新幹線金沢開業でどの道命運が尽きるとされていたので、
新幹線開業までは持ってくれるかと思っていたら持たなかったのは残念。
武生に停車するのに一度も我が街の駅には、停車してくれなかった。2時に通過するダイヤで、ラストランのきたぐにを撮影して今でも保存してあります。きたぐにと言えば )=🔥🚋🔥=(北陸トンネル火災事故です。あの事故によって夜行列車が見直されて、食堂車の廃止、旧車の入れ替えが進んだんですが、急行越前だけは最後まで旧車のままで終わりました。きたぐにが客車であると、牽引する機関車を交直流の境目で何度も付け替えないといけない手間も多く、客車時代には停車する必要もない田村駅にまで止まることになって時間的にも、手間としても余計な負担が生じました。鉄道史の上で、北陸トンネル事故は衝撃的な事故でした。30人の方が亡くなっておられます。
おや、サムネの写真自分のですね(^◇^;)
懐かしい。
サイトの名前は浦部ではなく裏辺ですね。
ご視聴ありがとうございます。お借りした写真の撮影者の方にご覧いただけるとは嬉しい限りです🙇♀出典は訂正いたします。
ダイヤを見ても、並行する北陸道の夜行バス相手に(対石川富山であれば)十分に対抗できる。はまなすが東室蘭以西の最終列車として機能していた様に、きたぐにも米原以東の最終列車として機能していた
そして安さ重視の自由席から快適性の寝台車まで豊富な設備も魅力
それでも車両が古いから儲かって無かったんだろうなぁ
各停車駅を開けておく人的コスト・負担も現代では大きそうですね…
クハネ581、機器室内に発電機と空気圧縮機が搭載されていてスペースが狭く、整備が大変な子でした(^_^;)
本職の方?
大阪〜新潟に寝台特急「つるぎ」がありましたね。距離や有効時間から客車特急「つるぎ」と米原回りだけれど電車急行「きたぐに」の所要時間が殆ど変わらないという…。特に上りは大阪着時刻があまり変わらない…。。。
1975〜1990当時は夜行急行がかなり走っていて列車を選べるという良き時代でした!
大阪~新潟間はよく列車で移動しました。下りは新潟に早く着きたい時はつるぎ、急がない時はきたぐにと使い分けていました。上りはもっぱらきたぐに利用でした。
ちなみに、小松駅の高架工事に伴う線路切替のとき、急ぎ客のために、不通区間の加賀温泉?~金沢間を代行バス、金沢から、ほぼ定刻の別列車に乗り継ぐパターンと、ゆっくり寝ていたい客のため、線路切替が終わるまで大阪から来た列車でそのまま待機、金沢以遠が臨時(遅れ)のダイヤとなる2パターンの乗車が選択できるようになってました。
トンネル火災事故が教訓になった列車の一つです。
一度だけ乗れました。
B寝台下段だったかな?
車内探検楽しかったな~
大学時代に行事で新潟まで行って自由解散だったので、「きたぐに」で関西まで帰りましたよ。
寝台車に乗ったのは後にも先にもこの時だけです。エチゴビールを寝台で傾けつつ、幼少時からの悲願を叶えた自分に快哉を叫びました(*^-^*)(*^-^*)
12年1月に大阪→新潟で乗ったなあ。車両はクハネ581ー33の3段B寝台の下段。
少し前に北斗星の(上段)寝台に乗った事と比較すると、やたら頭上が狭かった事が印象に残ってます。
あと動画で述べられたように、新潟地域では急行にあるまじき「のんびり運行」していたのが印象に残ってます。
寝台車の小窓って、イイですよね~。😊
北陸トンネルの火災事故以前の客車時代が、いかにも「夜行急行列車」らしい急行だった。A・B寝台、グリーン、食堂車を連結の上、編成も新潟まで長大だった。昼行の羽越本線以北は日本海沿岸の風景も堪能できたであろうから。何より近畿圏から北海道へは仕上がりで行ける選択肢であったから。
末期583系の"きたぐに"に1回しか乗ったことがないのが、「パン上」を間違って「パン下」として指定券発見した想い出…
いやよく寝れましたよ。上もいなかったと思います。
583系の「きたぐに」なら元のように青森まで走っても良かったなあ。