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上杉「伊勢め」 北条「長尾め」この言い合いすこ
北条を名乗ることになった一説として氏綱の奥さんが横江氏という北条の血筋を引いているから、というのもあるみたいですね
横江は横井とも言われてますね結構新しい説でまだまだ裏付けが少ないのがネックだけど、興味深い説ですね正しいとすれば従来創作や偽系図とされていたいたもにも元となる根拠があったことになるので今後研究が進むことに期待したいですね
ずっと気になってたので有難いです!
伊勢氏から北条氏への改名は、大衆に対してのイメチェンと新規一転だったのですね。今回は皆が興味を持ちながら、他の歴史家があまり取り上げていない、興味深いテーマです。
小田原北条氏大好きなので動画にしてくれてうれしいです! 北条を名乗るまでには地道な根回しとかがあったのは初めて知りました。ありがとうございます!
鎌倉北条氏から上杉謙信の話に繋がった感動
北条早雲の物語はゆうきまさみ氏のコミック「新九郎 奔る」がありますね。中高の歴史でも数行でおわる人物だから興味があったら読んでみるといいかも
私も単行本ですが、読んでいます。大河ドラマで後北条氏でやって欲しいです。
この漫画は、時代考証や武家の風俗などよく描かれていて面白いですよね。知り合いにも勧めて好評です。
自分もずっと気になってました。最初の戦国大名と呼ばれていた北条早雲(伊勢宗揣)は鎌倉北条の血筋がつながっていると思っていました。
母方の祖父の実家が北条姓、三鱗で伊勢(広義の)で寺でした。寺だと歴史が正確なので、いつから始まったのか聞いたところ「1500年代(詳細は忘れた)に相模国から来た」とのことでした。周辺は寺が多く伊勢街道にも近く、親族の誰かが寺参りに行くと、必ず立石餅(本家は閉店)を土産にもらったものです。
鎌倉幕府の執権を代々務めた北条氏伊勢宗瑞(後北条)の出自である室町幕府の政所執事を代々務めた伊勢氏とは直接な血縁関係ではないけどどちらも家系図をさかのぼると桓武平氏に繋がる
いつか小田原北条氏が主役の大河ドラマもやってほしいですよね!
是非見たいですね。今までなぜやらないのか不思議です。
今署名活動で1万票しか集まってない
越後上杉甲斐武田と相模北条の三国志みたいな物語にしたら面白いと思う、北条は上杉武田に比べると面白味がないのかな。
太田道灌の時代から後北条氏まで関東中心の物語ならぜひ見たいです!
じゃあ今川義元も
ユキムラさんの『今川館の戦い』から伊勢~北条の流れの動画を見ると面白いよ。全部見たらかなり長いけど物語として素晴らしい。
大変勉強になりましたこういうことを日本史の授業でしてくれてたらもっと日本史が楽しいものになったでしょう
あのときにTwitterでしていた話の動画がこれなんですね。北条時行公の末裔の話は文献にあるんですかね?義時公、逃げ若こと時行公の血脈が北条氏康公に繋がるならロマンですよね。
空前絶後の「四公六民」って政策を知って後北条氏の物語に興味が沸きました。北条早雲一代記でも北条五代でも、何で大河ドラマにならないんだ?とずっと思ってて、ゆうきまさみさんの「新九郎、奔る!」を原作にドラマ化したら面白いだろうなぁ~! と。
あるTH-camチャンネルで大体は知ったけど改めて解説を見るとよくわかるな〜
風林火山で上杉憲政「あいつらは伊勢じゃ!」長野業正「今それを拘る時じゃありません!」上杉憲政「長野!いや拘る時じゃ!」結果⇒ 憲政は命からがら越後に逃げるこのシーンよくおぼえてます
とても興味深いお話でした。その辺りの話を分かっていると面白いですね!
当時の関東で家格が高い家といえば、古河公方などの足利家と、その執事で後に関東管領となった上杉家。しかし両家とも分裂して互いに争うようになって関東はカオスに。そこを北条(伊勢)氏に付け込まれ、家格上昇のために利用されたり、戦闘して敗れたりしてすっかり衰退。現代では足利氏といえば京都の室町御所、上杉氏といえば謙信の春日山城や鷹山の米沢城のイメージが強く、あまり「関東の名家」というイメージがないから、余計に北条氏の影に隠れてしまっている。関東は城郭もあまり残っていないし。
学校で教わる歴史じゃ、絶対に触れないことだから、本当おもしろい✨まさか、上杉謙信にまで繋がるとは!ありがとうございました。
大河ドラマを見て、大変きになりもやもやしていたました。これでスッキリしました。有難うございます。
氏綱の側室が北条家の血縁者だと聞いたことがありますが違うのでしょうか??
氏綱の側室ではなく正室の養珠院が北条時行の子孫を称する横井氏(横江氏)出身との説がありますね。
養殊院の母が早雲の側室になりました。本来の城主であった母子が早雲の関係者になったことで、韮山入城は楽になりました。
@@Magihallow-mania 正室でしたか。ありがとうございます。
@@ユミコ-i9c 凄いですね。親子で親子をw
面白かったです。この北条氏同士が違うのは知っていたのですが、どうして吾妻鏡を小田原北条氏が持っていたのですか?黒田如水に送られていたと思うので、なぜなんだろうって不思議に思ってます。もし可能でしたら教えてください!
ちょっと難しくて飲み会で話せそうにはありませんが楽しかったです!
北条も上杉も、どちらも血統的には別な一族が最終的に名前を受け継いだって考えると、似た者同士な気がしてくる
最終的にどっちも平氏だし。北條はどちらもそもそも平氏だからまだいいでしょ。
東国武士としては上杉よりも長尾のほうが由緒あるんですよね
@@tmotchy93 諸説あるけど平貞盛または維衡が共通の祖先っていわれてるね
上杉家は、吉良家と通して元の上杉家の血が入っているので、子孫にはなります。
上杉氏への対決姿勢と正統性のアピールが改姓の契機となったと考えられますが、一応奥方が執権北条氏の末裔に当たるそうなので次代の氏康の為の布石であるとも考えられる様です。北条氏への改姓は朝廷に認められたものですが元々伊勢氏は室町幕府の政所を歴任する家柄で朝廷とも近しかった事と鶴岡八幡宮復興が評価された事が大きかった様ですね。
どうなのかなぁと思ってたのでありがたいお話でした。痒いところに手が届く解説、素晴らしい☺️
ミスター武士道さんの解説はわかりやすい史実を淡々と述べるだけでは無味乾燥になるが、熱のこもった話で興味が湧きますいつもありがとうございます
「北条早雲」こと「伊勢宗瑞」の実家である「伊勢家」は室町幕府の執事を代々務める「関西では」名の知れた家だったんですよね。それが宗瑞の姉が今川家に嫁いだ事で、今川家のお家騒動に介入する事になり、それを納めた事で「韮山」に領地を貰い、ここから関東制覇への道を歩む事になるんですよね。息子の「氏綱」が北条を名乗るのは、それを正当化する為なんですよね。
お家騒動の恩賞で貰ったのは駿河の興国寺城ですね。将軍の命で将軍の母と弟殺しの茶々丸を成敗した後に伊豆の韮山を本拠に置いてますよね。
@@tmotchy93 さん、ああそうでしたね。お家騒動を解決したときに貰ったのは、「興国寺城でした。宗瑞と言えば「韮山様」と言う愛称が有名なので、そこら辺を混同していたみたいです。すみません。
上杉は伊勢と呼んでいた、北条は長尾と呼んでいた
武田信玄も長尾と読んでいた
@@黒ノ貴族呼ぶ
毎度毎度素晴らしすぎる。勉強になります😭
確かに大河ドラマの風林火山で上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)に助けを求め面会した時に北条氏康の祖先のことを元を正せば伊勢新九郎、、、流れ者だとバカにして言ってましたシーンがありましたね。息子を上州に残して越後に助けを求めたものの、息子は家臣の裏切りにあい、北条に引き渡されて殺されるが裏切った家臣もみな打首になる悲惨な事件がありましたね。
今の説では、北条早雲は、伊勢氏の備前の分家の三男で母は本家の娘だそうです。ただそれだと、亡くなった時69才だそうです。(88才で亡くなっているのが通説) もし、最近の説が正解なら、上杉憲実は侮辱できないと思う。(備前の伊勢氏は将軍の甲冑を製作する役目を担っている)
これめっちゃ気になってた!
モヤモヤしていたのでスッキリしました!!ありがとうございます!!
すごい難しくて面白いですねー🤣 学校で教わる歴史は どーしても京都中心だったんで、関東はイマイチ理解不足だったんだけど、NHKの人形劇『新・八犬伝』に出てきた 扇ヶ谷氏や里見氏、長尾氏、そして上杉氏、それぞれが 北条氏に関わりがあるなんて、複雑だけど面白いですねー。いつも ツウ受けのする話題&動画、ありがとうございます❣️ あと、文書によっては、『北條』・・・と、条の字が違う表記があるみたいですが、これは何か 謂れがあるのでましょうか?
共演テストでは北条氏出たけど、私大の入試では出なかったなー渋沢栄一は出たけど
そういえば、早雲は一度も大河に出たことないよな。民放の北大路欣也の(伊勢新九郎)は見たことがあるが
鎌倉北条氏も小田原北条氏も一応同族の桓武平家ではある
以前気になって調べて、血縁関係ではないとなんとな~く知っていましたが、ここまで詳しい理由は分かりませんでした。この動画でスッキリしました〜!本当にありがとうございます😄
話の筋から逸れますが、小田原北条氏が公方家となった足利一族と姻戚になったり、三浦一族を滅ぼしたりと、鎌倉北条氏と被った行動してるのが面白いと思います。
伊勢宗瑞が伊豆北条で旗揚げしたことに因んで北条を名乗り氏綱以降鎌倉北条の名声に寄せていったってのが有力じゃなかったっけ
足利(鎌倉公方)の家令(関東管領)だから、親戚ではあるけど、姻族かなあ。上杉は源氏ではないので誤解を与えそうです。
ワタシは伊勢新九郎盛時(宗瑞)の領地である、荏原荘に住んでいる者です。毎日、伊勢氏の居城、高越城跡を見ながら通勤しています。郷土の英雄伊勢宗瑞とその子孫、後北条氏を取り上げて下さり、感激の極みです。
北条氏康って名前かっこいいんだよな
中国史が個人的に好きで、異民族が漢民族を支配するために昔の有力者の末裔を自称するのは良くあるパターンですが、日本の後北条家がそうだったのは初めて知りました‼️
北条氏綱の正妻が北条氏の末裔という説がありますが…。
登録させて頂きました。勉強させて頂きます♪
テンポの良い語り口でいつ見ても分かりやすくサラッと解説が頭に入って来ます。ただ、後北条氏と前北条氏が“関係はなかった”と言い切るのはどうかと。他にコメントされてる方がいますが、伊豆の国衆で後北条氏の家臣にもなっていた伊豆高橋家過去帳に、氏綱妻で氏康母の養珠院は伊豆の横江北条相模守女との記載があり、黒田基樹氏などが研究中です。また、この北条改姓は朝廷で正式に認可されている可能性があり(家康のような徳川改姓申請の過程を表わす一級資料が残ってないのが弱点ですが)、髙橋家の由緒からの信憑性に着目し黒田基樹氏などが研究しています。氏綱にしても何の脈絡なく突然北条を名乗るとは当時の家格や家柄概念から考えにくいと思いますが・・・。前置き長くなり申し訳ないですが、上記資料が完全に誤記載や信憑性がない資料と判断されるまでは、関係ないと言い切るのはどうかなと思った次第です。以上、不躾なコメントで申し訳けありませんがお許しください。
あっちゃんのパクリだからこそ見やすかった!ナイスパクリ力!あっちゃんのやらない狭い範囲をカバーしてくれてありがたい!これでも褒めてます
伊勢氏はともかく、伊勢新九郎盛時(宗瑞)の母の家が政所執事の伊勢家なので大元は平清盛の血筋になります。よく、織田氏が清盛の血筋だと言われてますが…実際には伊勢盛時の家系こそが清盛の家系、鎌倉北条氏は平直方を祖としているのでどっちも平家ですが桓武平氏か伊勢平氏かってことだけですね鎌倉北条、全国北条、血筋関係があるといえばあるし、ないと言えばない。微妙ですね😅
伊勢平氏も桓武平氏で伊勢平氏が桓武平氏の嫡流ではなかったですか?
鎌倉市は修学旅行や団体旅行で良く行きますが、小田原市は行ったことがない人が多そう。大河ドラマの主役になれば小田原市も鎌倉市みたいになれるかな?
wikiには「正室の養珠院殿が執権北条氏の末裔とされる横井氏(横江氏)の出身であった可能性が指摘されている」とありましたが、どう思われますか?
末裔なんて口でなんとでも言えるからあくまで可能性の一つとしてはあるのかな。くらいに私は思ってます。重要視している点は、後北条氏が『執権北条氏の末裔だから関東を支配しようとした』のではなく、『関東を支配するために北条を名乗る必要があった』というところです。
@@sengokubanashi ご返信有難うございます♫なるほど、納得しました。今後も楽しみにしてます。
昔、大学の単位認定レポートが「伊勢氏が北条を名乗った理由」でした♪近年、氏綱の正妻が北条の血筋という話があります。ン十年前にはそれは聞いたことがありませんでした。今、伊豆の国市に住んでおりますが、現代でも”北条早雲”は よそもの扱いですw
えっ!?小田原では人気が高いのに。😳確かによそ者だけど、優秀な政治家で領民の生活は豊かになったので人気があります。
@@とらねこ-v3h 様、伊豆にやって来て小田原に行っちゃった、という受け取りですね。"早雲"は韮山で生涯を終えて、秀吉の小田原攻略の際も韮山城は最後まで持ちこたえたのですが。だから大河誘致も、頼朝政子は盛り上がりますが、後北条はイマイチ、残念。私は戦国大名で仕えるなら北条家です👍
北条氏綱夫人は北条氏の末裔の横田氏の出身であり、無関係ではないと言われています。
横田ではなく横井でした。お詫びして訂正します。
横江という説もあるようです。先祖を辿ると北条高時に辿り着くそうです。
ま、北條を名乗るからには周囲から指摘されないように北條一族の子孫と縁組はしているだろうな あと、伊勢宗瑞は今川氏の家臣でなく客分ですね 当主の奥さんの弟にして、備中伊勢氏に生まれ、将軍家の奉公衆となっています
@佐藤博文 まあ京都の将軍と関東公方は仲悪いですからね、伊勢とか幕府の有力者だし上杉にしてみれば「関東にまたちょっかいかけてきやがった!」的な感情は有ったでしょうね
後北条は知れば知るほど好きになる戦国大名家だと思います
一番好きな戦国武将(名前)が『伊勢新九郎』な俺得動画。マンガ『新九郎、奔る!』なんかも読むと、後北条がもっと好きになるかも。
北条氏によって断絶危機の上杉家が謙信のおかげで江戸時代まで生き残る歴史の皮肉。でもその江戸時代も上杉家はいろいろ災難があるけどなw
上杉家の姓は藤原だよねって思って調べたら、そうはそうなんだけど、扇谷上杉家祖上杉重顕は足利尊氏の母方の叔父に当たるそう。一様一族といえば一族だけど…
足利尊氏の母方のおじの一族がゆえに鎌倉府を支える関東管領に任命されたともいわれています。
北条氏も伊勢氏も平氏という繋がりはなかったのですか?
小田原北条氏と両上杉氏の因縁は結局は謙信が北条氏康の息子を養子にもらう縁につながる不思議さや三浦氏が二度も北条に滅ぼされる業etc 南関東の群雄割拠は調べれば調べるほど面白いと感じます。
今川義忠の正妻の兄が伊勢早雲で義忠の後継者争いの時に仲裁したのが始まりだったような。太田道灌もそのいざこざに介入してたんじゃなかったかな。義元の3代前くらい。
このあたりの話がYUKIMURA CHANNELにバッチリ載っています。
wiki見てもさっぱりだったので助かるぅ
我々現在人は農民の秀吉が苗字を簡単に変えたりしてるので大した事のないように思ってしまうけれど、苗字を変えるには朝廷の許しを得る必要があると聞いた事があったが・・・。
わかりました。鎌倉の北条氏と戦国の北条氏はそーいうことだったんですね。
調べてもよくわからなかったので、今回の話すごく勉強になりました!!「北条」って言ったもん勝ちな感じですねww
北条改姓は自称ではなく、朝廷に認められています。松平から改姓した徳川も同じです。
@織田大和守敏定 最近の研究で明らかになったようです。
明らかに源氏じゃない徳川ですら認められてるからね朝廷も財政苦しいから献金してくれたお礼に認めたんでしょう。
減税で領民を味方につけて生産能力を上げ、寺社を保護して宗教勢力を味方につけ、朝廷を買収してブランドを得る。優秀な政治家です。すぐに紛争を起こす関東の足利氏と上杉氏とは大違い。
今日の解説に出てくる人の肖像画を矢印でこの人ってやりながら、説明して欲しかったです。登場人物が多すぎて、言葉だけでは覚えられなくて、見終わったけど、ちんぷんかんぷんでした。登場人物の肖像画が出てくるけど、すぐに消えるから、後からその名前が出て来た時に、どの人のことか分からないんです。
伊勢氏は興味があって関連の本を読んでます。伊勢宗瑞が伊豆に行った後の、実家の荏原庄や城はどうなったんでしょうかね?誰かご存知の方いらっしゃいますか?
氏綱の妻が鎌倉北条氏の末裔である、という説もありますよね。
ちょうどユキムラチャンネルでやってて、面白いよ〜。制作意欲があふれかえっておる。
ユキムラチャンネル良いですよね♪ちょうど後北条シリーズやってますね。
ユキムラチャンネルの中に「横井様」「横江じゃ!」というコントがあって、これがどちらが正しいのかはっきり分からないのでコントにしたということが分かった。芸が細かくてビックリ。
@@とらねこ-v3h そーなのかー。 こちらとしては単純に見て面白い〜って思っていただけですた。
今なら関東の公方が何人もいて上杉も何人もいて味方と敵もころころ代わるごちゃごちゃ感を面白く思えるのだけれど、初めて戦国モノに接します、って人だとわけがわからなくなって挫折してしまうかも。もったいない。
司馬遼太郎先生の作品、箱根の坂によりますと、あの当時の伊勢氏は、和式馬術の家元で、伊勢宗瑞さんは、家元お手製の鞍=作りの鞍を作る職人さんでもあって、今川氏親公の元服の時に手ずから鞍とその他の乗馬一セットをプレゼントされたとか。
あの、スリッパ型和式あぶみとかも、手づから作られたとか。
確か北条氏綱の正室が執権北条氏の末裔であることで、朝廷に願い出て認められたのではなかったでしたっけ?その後左京太夫の官位ももらっていますし
確か後北条氏は家宝として吾妻鏡を所有していたはず。吾妻鏡は鎌倉幕府の公式記録で北条氏が編纂させたと考えられるもの。後北条氏が所有していたのは金沢文庫本とされ、何らかのルートでこれを入手したはず。金沢家は北条氏の分家なのでどこかで北条氏の子孫と後北条氏は接点があり、これが入手できたのではないでしょうか?金沢文庫本の伝世ルートは完全にはわかっていないようなので今後の研究成果に期待しています。
元々の北条氏はどこに行ったんでしょうか?気になります。
鎌倉時代が終わって200年近く経ってるのに、北条の名前にまだネームバリューがあったわけですね。逃げ上手の時行くんが引っかき回したおかげで、足利の権威が関東に根付かなかったから、という面もあるのかも?
夢を壊して申し訳ないが時行が起こした中先代の乱はそれに呼応したのは北条得宗家がひいきしていた御内人と呼ばれる北条得宗家の家臣たちでした。多くの御家人や幕府の旧役人たちは足利一族に従ったので反乱があっという間に収まったといわれています。
今、某チャンネルで後北条氏を取り上げているので、後北条氏はマイブームです。
伊勢氏という言い方をすれば関係なく見えるが北条早雲は元々は伊勢平氏、そして平清盛の出も伊勢平氏。そして鎌倉北条氏も平氏と言われています。全くの無関係だったかと言えばそうではないでしょう!ちなみに織田信長も自分は平家だと主張しており、豊臣秀吉が小田原城攻めの際に書面に初めて信長様呼びから信長呼びに変わっていた事から見ても秀吉は北条家(平氏)を仮想信長として見ていた事は明らかです。歴史は繋がっています。必ずも関係ないと断言するのはどうかと思います!
ただ、「伊勢氏」もビッグネームなのですけどね。それとあの小笠原貞宗の小笠原家と同じく礼法の家だったそうで。
中先代の乱の再来と見ればいいかと 北条vs足利上杉ですし
そうか。鎌倉と戦国の北条、もともと違ってたんだ~。
何人かの方がコメで指摘されてますが、氏綱の妻横江(横井)氏の出自については黒田基樹氏が自著で鎌倉北条氏と所縁があった可能性を解説されています。未確定項目を断定的に話してしまい、動画の視聴者が安易に事実だと認識してしまうことを残念に思います。
いつも愉しく拝見しております。鎌倉北条氏と小田原北条氏は血縁関係は無いですが、鎌倉北条氏の出身地は、伊豆国の韮山近くにある北条という土地ですね。小田原北条氏は、伊勢宗瑞が、伊豆国に入り、拠点としとしたのが韮山で、北条の近くですよ。鎌倉北条氏と小田原北条氏は関係無いこと無いですよ。少し、関係ありますよ。
鎌倉末期に滅んだとはいえ、北条姓はやはりネームバリューがあったってことでしょうか⁉️滅亡した家の苗字を名乗ることに抵抗は無かったんですかね❓戦国とはいえ、北条を滅ぼした足利がまだ将軍の座についてたわけですし…🤔
それは関東だったからじゃないですかね。関東武士からすれば京都から来た侵略者「伊勢氏」よりも、鎌倉時代に関東を中心に政治を行った「北条氏」の方が受け入れやすかったと思います。また「北条」を名乗る事を朝廷に認めさせたと言う面も、彼らの政治手腕のアピールになっているんでは無いでしょうか。当時の将軍が「足利氏」とは言っても、将軍家は且ての敵方の名前を名乗る事を阻止する事も出来なかったのですから。
@@アサヤス-w8v 現代人とはまた違う、この時代ならではの価値観というものもあったんですかね❓勉強させていただきました🙇♂️
先祖は小田原北条に乗っ取られたわ
信長が生まれる前の物語はあまり語られませんが、応仁の乱から追っていくと色々面白い話ありますよね。
まぁ平清盛も平家とは無縁の噂ですからね
山内上杉氏が衰退したのは関東管領上杉顕定と弟の越後守護上杉房能が上杉謙信の父親である長尾為景に敗れ討ち取られ、後継者争いで揉めたのも理由の1つだとと思います。
次回は、公方の乱立とも絡めて述べてください。
名前は同じでも元は関係ないんだ・・
ごめんなさい話がちょっと薄いね氏綱の夫人が北条氏の末裔である横江氏の出身で父親は伊勢宗瑞と同じ幕僚という関係があったとされている関東に版図を広げる正統な理由として北条に改名する必要性があり朝廷に寺社の保護などで手回しして北条を正式に名乗った関東管領の山内上杉や分家の扇谷上杉更には元は鎌倉公方筋の古河公方など家格が高い相手に対しての対向としての側面が強かったと思われる氏康は横江氏の血も引いていて鎌倉時代の北条氏と無関係とは言い切れない
鎌倉末期の東勝寺での北条氏滅亡がいかに悲惨だったか、氏綱ほどの武将が全く知らなかったとは到底思えませんし、まして戦国武将は命を賭けて戦うのが生業ですから、滅亡した氏族と同姓なんて縁起が悪いじゃないですか⁉️私が氏綱ならそう判断もしたと思います😑
小田原北条氏が何故北条を名乗ったのか分かり易かったです。細かい事ですが,歴史用語は正確に使われた方が良いように思います。鎌倉幕府で執権は(将軍に次ぐ)No.2となる訳ですし,執権を代々出せる得宗(北条得宗家)は確かに事実上の副将軍扱いをされていたことは分かりますが,鎌倉幕府が(例えば足利義昭みたいに)正式に「副将軍」の役職を設定していた訳ではないと言われていますので,簡単に「副将軍」と書くのは少し問題があるように思います。もし仮に分かり易く,という観点で出しているなら,得宗(≒副将軍)位の書き方の方が安全なのではないでしょうか。
北条氏の領国となると他国に比べかなり年貢が安く民政にも心をくだいたので領民は喜んでいたとか。北条氏の旧領を引き継いだ徳川家も同じ税率を引き継いだので江戸時代他国に比べて暮らしやすかったとか。新選組など徳川家の恩を感じて多摩の農民さえ徳川家のために働くという考えの種も実は北条の善政が生み出した名残かも知れませんね。
そんな簡単に姓名を変えるなんて出来るんだね衝撃です!誰に願い出て 変えるの❓
朝廷に献金して公家にも根回しして改姓を認められました。
@@靖昭田原 様有り難う御座います😄やはり¥¥¥今も昔も変わらず お偉いさんが儲かる仕組みなんだね‼️¥¥¥ 苦労しますね😁
朝廷。
@@tmotchy93 さま有り難う御座います😃お名前変えるの大変重要だったんですね
@@タヌキじゃないよ さんとは言ってもお互い平氏の遠い血縁ですからね。どっかの関東管領上杉を継いだあれとはちゃいます。
要するに小田原北条氏はバッタもんて訳やな。同じ北条だから鎌倉から続いてる名家と勘違いしてたわ💢確かに継名も時と氏で違うしな
前世療法うけたら、北条氏康でしたです
北条氏が伊勢平氏を祖と自称していたのが、一つの理由ですかね。
当時ネームバリューは大事だったのねw
副将軍相当は扇谷じゃなくて山内では?
上杉「伊勢め」 北条「長尾め」
この言い合いすこ
北条を名乗ることになった一説として
氏綱の奥さんが横江氏という北条の血筋を引いているから、というのもあるみたいですね
横江は横井とも言われてますね
結構新しい説でまだまだ裏付けが少ないのがネックだけど、興味深い説ですね
正しいとすれば従来創作や偽系図とされていたいたもにも元となる根拠があったことになるので
今後研究が進むことに期待したいですね
ずっと気になってたので有難いです!
伊勢氏から北条氏への改名は、大衆に対してのイメチェンと新規一転だったのですね。今回は皆が興味を持ちながら、他の歴史家があまり取り上げていない、興味深いテーマです。
小田原北条氏大好きなので動画にしてくれてうれしいです! 北条を名乗るまでには地道な根回しとかがあったのは初めて知りました。ありがとうございます!
鎌倉北条氏から上杉謙信の話に繋がった感動
北条早雲の物語はゆうきまさみ氏のコミック「新九郎 奔る」がありますね。
中高の歴史でも数行でおわる人物だから興味があったら読んでみるといいかも
私も単行本ですが、読んでいます。
大河ドラマで後北条氏でやって欲しいです。
この漫画は、時代考証や武家の風俗などよく描かれていて面白いですよね。知り合いにも勧めて好評です。
自分もずっと気になってました。
最初の戦国大名と呼ばれていた北条早雲(伊勢宗揣)は鎌倉北条の血筋がつながっていると思っていました。
母方の祖父の実家が北条姓、三鱗で伊勢(広義の)で寺でした。寺だと歴史が正確なので、いつから始まったのか聞いたところ「1500年代(詳細は忘れた)に相模国から来た」とのことでした。周辺は寺が多く伊勢街道にも近く、親族の誰かが寺参りに行くと、必ず立石餅(本家は閉店)を土産にもらったものです。
鎌倉幕府の執権を代々務めた北条氏
伊勢宗瑞(後北条)の出自である室町幕府の政所執事を代々務めた伊勢氏とは直接な血縁関係ではないけど
どちらも家系図をさかのぼると桓武平氏に繋がる
いつか小田原北条氏が主役の大河ドラマもやってほしいですよね!
是非見たいですね。今までなぜやらないのか不思議です。
今署名活動で1万票しか集まってない
越後上杉甲斐武田と相模北条の三国志みたいな物語にしたら面白いと思う、北条は上杉武田に比べると面白味がないのかな。
太田道灌の時代から後北条氏まで関東中心の物語ならぜひ見たいです!
じゃあ今川義元も
ユキムラさんの『今川館の戦い』から伊勢~北条の流れの動画を見ると面白いよ。
全部見たらかなり長いけど物語として素晴らしい。
大変勉強になりました
こういうことを日本史の授業でしてくれてたらもっと日本史が楽しいものになったでしょう
あのときにTwitterでしていた話の動画がこれなんですね。
北条時行公の末裔の話は文献にあるんですかね?
義時公、逃げ若こと時行公の血脈が北条氏康公に繋がるならロマンですよね。
空前絶後の「四公六民」って政策を知って後北条氏の物語に興味が沸きました。
北条早雲一代記でも北条五代でも、何で大河ドラマにならないんだ?とずっと思ってて、
ゆうきまさみさんの「新九郎、奔る!」を原作にドラマ化したら面白いだろうなぁ~! と。
あるTH-camチャンネルで大体は知ったけど改めて解説を見るとよくわかるな〜
風林火山で
上杉憲政「あいつらは伊勢じゃ!」
長野業正「今それを拘る時じゃありません!」
上杉憲政「長野!いや拘る時じゃ!」
結果⇒ 憲政は命からがら越後に逃げる
このシーンよくおぼえてます
とても興味深いお話でした。
その辺りの話を分かっていると面白いですね!
当時の関東で家格が高い家といえば、古河公方などの足利家と、その執事で後に関東管領となった上杉家。しかし両家とも分裂して互いに争うようになって関東はカオスに。そこを北条(伊勢)氏に付け込まれ、家格上昇のために利用されたり、戦闘して敗れたりしてすっかり衰退。現代では足利氏といえば京都の室町御所、上杉氏といえば謙信の春日山城や鷹山の米沢城のイメージが強く、あまり「関東の名家」というイメージがないから、余計に北条氏の影に隠れてしまっている。関東は城郭もあまり残っていないし。
学校で教わる歴史じゃ、絶対に触れないことだから、本当おもしろい✨まさか、上杉謙信にまで繋がるとは!
ありがとうございました。
大河ドラマを見て、大変きになりもやもやしていたました。これでスッキリしました。有難うございます。
氏綱の側室が北条家の血縁者だと聞いたことがありますが違うのでしょうか??
氏綱の側室ではなく正室の養珠院が北条時行の子孫を称する横井氏(横江氏)出身との説がありますね。
養殊院の母が早雲の側室になりました。本来の城主であった母子が早雲の関係者になったことで、韮山入城は楽になりました。
@@Magihallow-mania
正室でしたか。
ありがとうございます。
@@ユミコ-i9c
凄いですね。
親子で親子をw
面白かったです。この北条氏同士が違うのは知っていたのですが、どうして吾妻鏡を小田原北条氏が持っていたのですか?黒田如水に送られていたと思うので、なぜなんだろうって不思議に思ってます。もし可能でしたら教えてください!
ちょっと難しくて飲み会で話せそうにはありませんが楽しかったです!
北条も上杉も、どちらも血統的には別な一族が最終的に名前を受け継いだって考えると、似た者同士な気がしてくる
最終的にどっちも平氏だし。北條はどちらもそもそも平氏だからまだいいでしょ。
東国武士としては上杉よりも長尾のほうが由緒あるんですよね
@@tmotchy93
諸説あるけど平貞盛または維衡が共通の祖先っていわれてるね
上杉家は、吉良家と通して元の上杉家の血が入っているので、子孫にはなります。
上杉氏への対決姿勢と正統性のアピールが改姓の契機となったと考えられますが、一応奥方が執権北条氏の末裔に当たるそうなので次代の氏康の為の布石であるとも考えられる様です。
北条氏への改姓は朝廷に認められたものですが元々伊勢氏は室町幕府の政所を歴任する家柄で朝廷とも近しかった事と鶴岡八幡宮復興が評価された事が大きかった様ですね。
どうなのかなぁと思ってたのでありがたいお話でした。痒いところに手が届く解説、素晴らしい☺️
ミスター武士道さんの解説はわかりやすい
史実を淡々と述べるだけでは無味乾燥になるが、熱のこもった話で興味が湧きます
いつもありがとうございます
「北条早雲」こと「伊勢宗瑞」の実家である「伊勢家」は室町幕府の執事を代々務める「関西では」
名の知れた家だったんですよね。それが宗瑞の姉が今川家に嫁いだ事で、今川家のお家騒動に
介入する事になり、それを納めた事で「韮山」に領地を貰い、ここから関東制覇への道を歩む
事になるんですよね。息子の「氏綱」が北条を名乗るのは、それを正当化する為なんですよね。
お家騒動の恩賞で貰ったのは駿河の興国寺城ですね。将軍の命で将軍の母と弟殺しの茶々丸を成敗した後に伊豆の韮山を本拠に置いてますよね。
@@tmotchy93 さん、ああそうでしたね。お家騒動を解決したときに貰ったのは、「興国寺城でした。宗瑞と言えば「韮山様」と言う愛称が有名なので、そこら辺を混同していたみたいです。すみません。
上杉は伊勢と呼んでいた、北条は長尾と呼んでいた
武田信玄も長尾と読んでいた
@@黒ノ貴族呼ぶ
毎度毎度素晴らしすぎる。
勉強になります😭
確かに大河ドラマの風林火山で上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)に助けを求め面会した時に北条氏康の祖先のことを元を正せば伊勢新九郎、、、流れ者だとバカにして言ってましたシーンがありましたね。
息子を上州に残して越後に助けを求めたものの、息子は家臣の裏切りにあい、北条に引き渡されて殺されるが裏切った家臣もみな打首になる悲惨な事件がありましたね。
今の説では、北条早雲は、伊勢氏の備前の分家の三男で母は本家の娘だそうです。ただそれだと、亡くなった時69才だそうです。(88才で亡くなっているのが通説)
もし、最近の説が正解なら、上杉憲実は侮辱できないと思う。(備前の伊勢氏は将軍の甲冑を製作する役目を担っている)
これめっちゃ気になってた!
モヤモヤしていたのでスッキリしました!!ありがとうございます!!
すごい難しくて面白いですねー🤣 学校で教わる歴史は どーしても京都中心だったんで、関東はイマイチ理解不足だったんだけど、NHKの人形劇『新・八犬伝』に出てきた 扇ヶ谷氏や里見氏、長尾氏、そして上杉氏、それぞれが 北条氏に関わりがあるなんて、複雑だけど面白いですねー。いつも ツウ受けのする話題&動画、ありがとうございます❣️ あと、文書によっては、『北條』・・・と、条の字が違う表記があるみたいですが、これは何か 謂れがあるのでましょうか?
共演テストでは北条氏出たけど、私大の入試では出なかったなー
渋沢栄一は出たけど
そういえば、早雲は一度も大河に出たことないよな。民放の北大路欣也の(伊勢新九郎)は見たことがあるが
鎌倉北条氏も小田原北条氏も一応同族の桓武平家ではある
以前気になって調べて、血縁関係ではないとなんとな~く知っていましたが、ここまで詳しい理由は分かりませんでした。
この動画でスッキリしました〜!
本当にありがとうございます😄
話の筋から逸れますが、小田原北条氏が公方家となった足利一族と姻戚になったり、三浦一族を滅ぼしたりと、鎌倉北条氏と被った行動してるのが面白いと思います。
伊勢宗瑞が伊豆北条で旗揚げしたことに因んで北条を名乗り
氏綱以降鎌倉北条の名声に寄せていったってのが有力じゃなかったっけ
足利(鎌倉公方)の家令(関東管領)だから、親戚ではあるけど、姻族かなあ。上杉は源氏ではないので誤解を与えそうです。
ワタシは伊勢新九郎盛時(宗瑞)の領地である、荏原荘に住んでいる者です。
毎日、伊勢氏の居城、高越城跡を見ながら通勤しています。
郷土の英雄伊勢宗瑞とその子孫、後北条氏を取り上げて下さり、感激の極みです。
北条氏康って名前かっこいいんだよな
中国史が個人的に好きで、異民族が漢民族を支配するために昔の有力者の末裔を自称するのは良くあるパターンですが、日本の後北条家がそうだったのは初めて知りました‼️
北条氏綱の正妻が北条氏の末裔という説がありますが…。
登録させて頂きました。勉強させて頂きます♪
テンポの良い語り口でいつ見ても分かりやすくサラッと解説が頭に入って来ます。
ただ、後北条氏と前北条氏が“関係はなかった”と言い切るのはどうかと。
他にコメントされてる方がいますが、伊豆の国衆で後北条氏の家臣にもなっていた伊豆高橋家過去帳に、氏綱妻で氏康母の養珠院は伊豆の横江北条相模守女との記載があり、黒田基樹氏などが研究中です。
また、この北条改姓は朝廷で正式に認可されている可能性があり(家康のような徳川改姓申請の過程を表わす一級資料が残ってないのが弱点ですが)、髙橋家の由緒からの信憑性に着目し黒田基樹氏などが研究しています。
氏綱にしても何の脈絡なく突然北条を名乗るとは当時の家格や家柄概念から考えにくいと思いますが・・・。
前置き長くなり申し訳ないですが、上記資料が完全に誤記載や信憑性がない資料と判断されるまでは、関係ないと言い切るのはどうかなと思った次第です。
以上、不躾なコメントで申し訳けありませんがお許しください。
あっちゃんのパクリだからこそ見やすかった!
ナイスパクリ力!
あっちゃんのやらない狭い範囲をカバーしてくれてありがたい!
これでも褒めてます
伊勢氏はともかく、伊勢新九郎盛時(宗瑞)の母の家が政所執事の伊勢家なので大元は平清盛の血筋になります。
よく、織田氏が清盛の血筋だと言われてますが…実際には伊勢盛時の家系こそが清盛の家系、鎌倉北条氏は平直方を祖としているのでどっちも平家ですが桓武平氏か伊勢平氏かってことだけですね
鎌倉北条、全国北条、血筋関係があるといえばあるし、ないと言えばない。微妙ですね😅
伊勢平氏も桓武平氏で伊勢平氏が桓武平氏の嫡流ではなかったですか?
鎌倉市は修学旅行や団体旅行で良く行きますが、小田原市は行ったことがない人が多そう。
大河ドラマの主役になれば
小田原市も鎌倉市みたいに
なれるかな?
wikiには「正室の養珠院殿が執権北条氏の末裔とされる横井氏(横江氏)の出身であった可能性が指摘されている」と
ありましたが、どう思われますか?
末裔なんて口でなんとでも言えるからあくまで可能性の一つとしてはあるのかな。くらいに私は思ってます。
重要視している点は、後北条氏が『執権北条氏の末裔だから関東を支配しようとした』のではなく、『関東を支配するために北条を名乗る必要があった』というところです。
@@sengokubanashi ご返信有難うございます♫
なるほど、納得しました。
今後も楽しみにしてます。
昔、大学の単位認定レポートが「伊勢氏が北条を名乗った理由」でした♪
近年、氏綱の正妻が北条の血筋という話があります。ン十年前にはそれは聞いたことがありませんでした。
今、伊豆の国市に住んでおりますが、現代でも”北条早雲”は よそもの扱いですw
えっ!?小田原では人気が高いのに。😳
確かによそ者だけど、優秀な政治家で領民の生活は豊かになったので人気があります。
@@とらねこ-v3h 様、伊豆にやって来て小田原に行っちゃった、という受け取りですね。
"早雲"は韮山で生涯を終えて、秀吉の小田原攻略の際も韮山城は最後まで持ちこたえたのですが。
だから大河誘致も、頼朝政子は盛り上がりますが、後北条はイマイチ、残念。
私は戦国大名で仕えるなら北条家です👍
北条氏綱夫人は北条氏の末裔の横田氏の出身であり、無関係ではないと
言われています。
横田ではなく横井でした。
お詫びして訂正します。
横江という説もあるようです。先祖を辿ると北条高時に辿り着くそうです。
ま、北條を名乗るからには周囲から指摘されないように
北條一族の子孫と縁組はしているだろうな
あと、伊勢宗瑞は今川氏の家臣でなく客分ですね
当主の奥さんの弟にして、備中伊勢氏に生まれ、将軍家の奉公衆となっています
@佐藤博文 まあ京都の将軍と関東公方は仲悪いですからね、伊勢とか幕府の有力者だし上杉にしてみれば「関東にまたちょっかいかけてきやがった!」的な感情は有ったでしょうね
後北条は知れば知るほど好きになる戦国大名家だと思います
一番好きな戦国武将(名前)が『伊勢新九郎』な俺得動画。
マンガ『新九郎、奔る!』なんかも読むと、後北条がもっと好きになるかも。
北条氏によって断絶危機の上杉家が謙信のおかげで江戸時代まで生き残る歴史の皮肉。
でもその江戸時代も上杉家はいろいろ災難があるけどなw
上杉家の姓は藤原だよねって思って調べたら、そうはそうなんだけど、扇谷上杉家祖上杉重顕は足利尊氏の母方の叔父に当たるそう。一様一族といえば一族だけど…
足利尊氏の母方のおじの一族がゆえに鎌倉府を支える関東管領に任命されたともいわれています。
北条氏も伊勢氏も平氏という繋がりはなかったのですか?
小田原北条氏と両上杉氏の因縁は結局は謙信が北条氏康の息子を養子にもらう縁につながる不思議さや三浦氏が二度も北条に滅ぼされる業etc 南関東の群雄割拠は調べれば調べるほど面白いと感じます。
今川義忠の正妻の兄が伊勢早雲で義忠の後継者争いの時に仲裁したのが始まりだったような。太田道灌もそのいざこざに介入してたんじゃなかったかな。義元の3代前くらい。
このあたりの話がYUKIMURA CHANNELにバッチリ載っています。
wiki見てもさっぱりだったので助かるぅ
我々現在人は農民の秀吉が苗字を簡単に変えたりしてるので大した事のないように思ってしまうけれど、苗字を変えるには朝廷の許しを得る必要があると聞いた事があったが・・・。
わかりました。
鎌倉の北条氏と戦国の北条氏はそーいうことだったんですね。
調べてもよくわからなかったので、今回の話すごく勉強になりました!!「北条」って言ったもん勝ちな感じですねww
北条改姓は自称ではなく、朝廷に認められています。松平から改姓した徳川も同じです。
@織田大和守敏定
最近の研究で明らかになったようです。
明らかに源氏じゃない徳川ですら認められてるからね
朝廷も財政苦しいから献金してくれたお礼に認めたんでしょう。
減税で領民を味方につけて生産能力を上げ、寺社を保護して宗教勢力を味方につけ、朝廷を買収してブランドを得る。優秀な政治家です。すぐに紛争を起こす関東の足利氏と上杉氏とは大違い。
今日の解説に出てくる人の肖像画を矢印でこの人ってやりながら、説明して欲しかったです。登場人物が多すぎて、言葉だけでは覚えられなくて、見終わったけど、ちんぷんかんぷんでした。
登場人物の肖像画が出てくるけど、すぐに消えるから、後からその名前が出て来た時に、どの人のことか分からないんです。
伊勢氏は興味があって関連の本を読んでます。伊勢宗瑞が伊豆に行った後の、実家の荏原庄や城はどうなったんでしょうかね?誰かご存知の方いらっしゃいますか?
氏綱の妻が鎌倉北条氏の末裔である、という説もありますよね。
ちょうどユキムラチャンネルでやってて、面白いよ〜。
制作意欲があふれかえっておる。
ユキムラチャンネル良いですよね♪ちょうど後北条シリーズやってますね。
ユキムラチャンネルの中に「横井様」「横江じゃ!」というコントがあって、これがどちらが正しいのかはっきり分からないのでコントにしたということが分かった。芸が細かくてビックリ。
@@とらねこ-v3h そーなのかー。 こちらとしては単純に見て面白い〜って思っていただけですた。
今なら関東の公方が何人もいて上杉も何人もいて味方と敵もころころ代わるごちゃごちゃ感を面白く思えるのだけれど、初めて戦国モノに接します、って人だとわけがわからなくなって挫折してしまうかも。もったいない。
司馬遼太郎先生の作品、
箱根の坂
によりますと、あの当時の伊勢氏は、和式馬術の家元で、伊勢宗瑞さんは、
家元お手製の鞍=作りの鞍
を作る職人さんでもあって、
今川氏親公の元服の時に手ずから鞍とその他の乗馬一セットをプレゼントされたとか。
あの、スリッパ型和式あぶみとかも、
手づから作られたとか。
確か北条氏綱の正室が執権北条氏の末裔であることで、朝廷に願い出て認められたのではなかったでしたっけ?その後左京太夫の官位ももらっていますし
確か後北条氏は家宝として吾妻鏡を所有していたはず。吾妻鏡は鎌倉幕府の公式記録で北条氏が編纂させたと考えられるもの。後北条氏が所有していたのは金沢文庫本とされ、何らかのルートでこれを入手したはず。金沢家は北条氏の分家なのでどこかで北条氏の子孫と後北条氏は接点があり、これが入手できたのではないでしょうか?
金沢文庫本の伝世ルートは完全にはわかっていないようなので今後の研究成果に期待しています。
元々の北条氏はどこに行ったんでしょうか?気になります。
鎌倉時代が終わって200年近く経ってるのに、北条の名前にまだネームバリューがあったわけですね。逃げ上手の時行くんが引っかき回したおかげで、足利の権威が関東に根付かなかったから、という面もあるのかも?
夢を壊して申し訳ないが時行が起こした中先代の乱はそれに呼応したのは北条得宗家がひいきしていた御内人と呼ばれる北条得宗家の家臣たちでした。多くの御家人や幕府の旧役人たちは足利一族に従ったので反乱があっという間に収まったといわれています。
今、某チャンネルで後北条氏を取り上げているので、後北条氏はマイブームです。
伊勢氏という言い方をすれば関係なく見えるが北条早雲は元々は伊勢平氏、そして平清盛の出も伊勢平氏。そして鎌倉北条氏も平氏と言われています。
全くの無関係だったかと言えばそうではないでしょう!
ちなみに織田信長も自分は平家だと主張しており、豊臣秀吉が小田原城攻めの際に書面に初めて信長様呼びから信長呼びに変わっていた事から見ても秀吉は北条家(平氏)を仮想信長として見ていた事は明らかです。
歴史は繋がっています。必ずも関係ないと断言するのはどうかと思います!
ただ、「伊勢氏」もビッグネームなのですけどね。それとあの小笠原貞宗の小笠原家と同じく礼法の家だったそうで。
中先代の乱の再来と見ればいいかと 北条vs足利上杉ですし
そうか。鎌倉と戦国の北条、もともと違ってたんだ~。
何人かの方がコメで指摘されてますが、氏綱の妻横江(横井)氏の出自については黒田基樹氏が自著で鎌倉北条氏と所縁があった可能性を解説されています。未確定項目を断定的に話してしまい、動画の視聴者が安易に事実だと認識してしまうことを残念に思います。
いつも愉しく拝見しております。
鎌倉北条氏と小田原北条氏は血縁関係は無いですが、鎌倉北条氏の出身地は、伊豆国の韮山近くにある北条という土地ですね。
小田原北条氏は、伊勢宗瑞が、伊豆国に入り、拠点としとしたのが韮山で、北条の近くですよ。
鎌倉北条氏と小田原北条氏は関係無いこと無いですよ。
少し、関係ありますよ。
鎌倉末期に滅んだとはいえ、北条姓はやはりネームバリューがあったってことでしょうか⁉️滅亡した家の苗字を名乗ることに抵抗は無かったんですかね❓戦国とはいえ、北条を滅ぼした足利がまだ将軍の座についてたわけですし…🤔
それは関東だったからじゃないですかね。
関東武士からすれば京都から来た侵略者「伊勢氏」よりも、鎌倉時代に関東を中心に政治を行った「北条氏」の方が受け入れやすかったと思います。
また「北条」を名乗る事を朝廷に認めさせたと言う面も、彼らの政治手腕のアピールになっているんでは無いでしょうか。当時の将軍が「足利氏」とは言っても、将軍家は且ての敵方の名前を名乗る事を阻止する事も出来なかったのですから。
@@アサヤス-w8v
現代人とはまた違う、この時代ならではの価値観というものもあったんですかね❓勉強させていただきました🙇♂️
先祖は小田原北条に乗っ取られたわ
信長が生まれる前の物語はあまり語られませんが、応仁の乱から追っていくと色々面白い話ありますよね。
まぁ平清盛も平家とは無縁の噂ですからね
山内上杉氏が衰退したのは関東管領上杉顕定と弟の越後守護上杉房能が上杉謙信の父親である長尾為景に敗れ討ち取られ、後継者争いで揉めたのも理由の1つだとと思います。
次回は、公方の乱立とも絡めて述べてください。
名前は同じでも元は関係ないんだ・・
ごめんなさい話がちょっと薄いね
氏綱の夫人が北条氏の末裔である横江氏の
出身で父親は伊勢宗瑞と同じ幕僚という関係があったとされている
関東に版図を広げる正統な理由として北条に改名する必要性があり朝廷に寺社の保護などで手回しして北条を正式に名乗った
関東管領の山内上杉や分家の扇谷上杉更には元は鎌倉公方筋の古河公方など
家格が高い相手に対しての対向としての側面が強かったと思われる
氏康は横江氏の血も引いていて鎌倉時代の北条氏と無関係とは言い切れない
鎌倉末期の東勝寺での北条氏滅亡がいかに悲惨だったか、氏綱ほどの武将が全く知らなかったとは到底思えませんし、まして戦国武将は命を賭けて戦うのが生業ですから、滅亡した氏族と同姓なんて縁起が悪いじゃないですか⁉️
私が氏綱ならそう判断もしたと思います😑
小田原北条氏が何故北条を名乗ったのか分かり易かったです。
細かい事ですが,歴史用語は正確に使われた方が良いように思います。
鎌倉幕府で執権は(将軍に次ぐ)No.2となる訳ですし,執権を代々出せる得宗(北条得宗家)は確かに事実上の副将軍扱いをされていたことは分かりますが,鎌倉幕府が(例えば足利義昭みたいに)正式に「副将軍」の役職を設定していた訳ではないと言われていますので,簡単に「副将軍」と書くのは少し問題があるように思います。
もし仮に分かり易く,という観点で出しているなら,得宗(≒副将軍)位の書き方の方が安全なのではないでしょうか。
北条氏の領国となると
他国に比べかなり年貢が安く民政にも心をくだいたので
領民は喜んでいたとか。
北条氏の旧領を引き継いだ徳川家も
同じ税率を引き継いだので
江戸時代他国に比べて暮らしやすかったとか。
新選組など徳川家の恩を感じて多摩の農民さえ
徳川家のために働くという考えの種も
実は北条の善政が生み出した
名残かも知れませんね。
そんな簡単に
姓名を変えるなんて出来るんだね衝撃です!
誰に願い出て 変えるの❓
朝廷に献金して公家にも根回しして改姓を認められました。
@@靖昭田原 様
有り難う御座います😄
やはり¥¥¥今も昔も変わらず お偉いさんが儲かる仕組みなんだね‼️¥¥¥ 苦労しますね😁
朝廷。
@@tmotchy93 さま
有り難う御座います
😃お名前変えるの大変重要だったんですね
@@タヌキじゃないよ さん
とは言ってもお互い平氏の遠い血縁ですからね。どっかの関東管領上杉を継いだあれとはちゃいます。
要するに
小田原北条氏は
バッタもんて訳やな。
同じ北条だから鎌倉から続いてる名家と勘違いしてたわ💢
確かに継名も時と氏で違うしな
前世療法うけたら、北条氏康でしたです
北条氏が伊勢平氏を祖と自称していたのが、一つの理由ですかね。
当時ネームバリューは大事だったのねw
副将軍相当は扇谷じゃなくて山内では?