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やっぱり、ほら、最後の最後に責任持って行く主が居たほうが、楽じゃね。「ですよね」って。
生きた歴史ですね。人間の生き様を加味する事で歴史の出来事が生き生きと身近に感じられる。ありがとうございます。
本郷先生は教え方が上手いですね、頼朝からみれば地頭、荘園領主からみれば下司、目から鱗が落ちました。隣の女性は音楽が専門なのに先生とのやりとりを聴いてますと相当頭が良いのではないかと思います。歌手なんですか?今度歌を聴いてみます。才色兼備な方ですね。
11:18 ここ重要な点だけど、鎌倉幕府が全国政権でなく関東の地方政権だと明言しておられますね。当初はそれで問題なかったのですが、元寇の後にこれが問題になる。九州防衛のためには西国武士の徴用が不可欠だけど、幕府にはその正統性がないためいろいろと苦労があった。最終的には御家人以外にも動員するんだけど、そうなると御家人以外の裁判にも関与する必要が出てきたり、御家人と非御家人の対立を仲裁する必要が出てきる。その過程で「幕府は御家人のためにある」という前提が崩れていき、後の倒幕に繋がっていくことになります。
今の政府、内閣が皇室の廃止をしないのと同じでしょう。皇室を否定するって事は最長と言われる、日本の歴史と日本そのものを否定する事になる。
目を閉じて聞いてると石橋貴明いつから歴史に詳しくなったんだ、と思うばかり
確かにw
文春も放送局もyoutubeもこの人、好きね。バカ教授達は理解できない八幡太郎頼朝
っw😂
ん?石橋貴明のモノマネしてるコージー富田にしか聞こえないけど?
貴さんは芸人界の将軍的なポジションです
この先生の声も話し方も好きとてもわかりやすい
外部からの侵略者じゃないから現実主義で有れば有るほど既存の権威を利用して権力を増やそうとする秀吉はその行き着く先ただ実際はかなり減ったものの寺社領(荘園)は残り続けた模様
昨年。金沢市内で行われた本郷さんの講演会に参加したがいや~~~~実に興味深い話を聞けた。またこの動画の通り飾らぬ本郷さん・・ご立派。今年も金沢市でやるんだろうな
島津忠久(惟宗忠久)は近衛家の下司職だったから地頭に任命されたんですね
秀吉が、同僚だった武家の上に立つために、官位制度を利用。まず自分が近衛家の養子となり近衛家のトップになってしまう。そのまま関白に就任し、関白を豊臣家の世襲に。近衛家の娘を自分の養子にして、天皇に嫁がせている。天皇を利用することに関しては天才的。
財物に対する所有権というのは本質的に不安定なものですね。
名目上は、鎌倉幕府設置後に六波羅探題っていうのが京都に設置されて、関東から頼朝さんの家臣が赴いた事になってますし、然るべき東国武士の管理があったとは思いますが、頼朝さんの直接の傘下にあった関東と違って、その権威付けは難しかったでしょうね。大変だったと思いますよ😥
支配している訳でも、収奪している訳でもない天皇を否定するメリットなんて無いからね
尊王は倒幕運動における重大要素徳川家からすれば皇統存続は結果として蟻の一穴になってしまいましたね
『国衆の取り合い』戦争をしているから一度の敗北で味方だったはずが寝返る事が頻発した。もうその時点で天皇の威光がよく分かる。逆らう理屈がない。 武田氏は甲斐源氏、安芸武田と若狭もいたけど全部滅ぼされたな。
武田の名前は残ってないですが、蠣崎氏は武田家の血筋ですよね
いまドラマ“将軍”を見ている外国人には理解しにくいところなんだろうなぁ。
ローマ教皇が各地の王様の地位を保証するのと似ているところがあるのかもしれません。
外国人には理解しにくいと言うが、現代の日本人が当時の天皇観をどれだけ理解できているのか
ローマ教皇と諸王や、イスラム世界でのカリフとスルターンの関係が近い。それでもトップが専制政治を行う事がスタンダード化した中華世界や封建制崩壊後の絶対王政時代に慣れた欧米には奇異な習慣だろう。
承久の乱以降も形骸化したとは言え朝廷が日本に残り続けたのは世界的に見てかなり特殊なケースかと思う。
権勢が大きなスルターンに保護されながら宗教的権威だけが残ったイスラーム世界でのカリフに近いとすると意見もあるカリフもオスマン帝国によって永遠に御隠れになるのだけど
ナポレオンが居なければ今でも神聖ローマ帝国皇帝(名目上)が残り続けていたかもしれないし、外部勢力に占領されなかったのは大きいかと
平将門ぐらいはっちゃけられないと頼朝ぐらいが限界だったのだろうね。
平将門も源氏も平氏もみんな天皇家の子孫なんだよ
その頼朝も一代で武士の支持を集めたのではなくて、祖先が何度も乱を戦ったために武士の忠誠を得ることができた。平忠常の乱で源頼信、前九年の役で源頼義、後三年の役で源義家、保元の乱、平治の乱での源為朝
一般人が一般人の上に立つということは非常な困難を伴う。先に既存の権威を利用した方が勝つ。
26:12「脈々と受け継がれてきた血をたやしてはいけないとかいう考え方~」天皇が天皇である条件ってまさしく「血脈」だと思うんだが、この人はなにを言っているんだろう?この人の考えるこれからの時代の天皇制についてじっくり動画にしてほしいなあ。
中国の王朝の場合は例えば九品官人法は「この制度の目的は、後漢から魏へと移行するに際し、後漢に仕えた官僚たちの能力と魏に対する忠誠度を見極めて人材を吸収する事。」とのことであり、権威と権力の一体化が見て取れる。
承久の乱の敗北という天皇家存続最大のピンチを与えたのが北条氏という藤原氏と同じ主に寄生して生きていく一族だったのが幸いしたここで天皇家を滅ぼすという決断をされなかった結果、権威だけはずば抜けた存在になる事が出来た
そう考えると、やはり鎌倉幕府の始まりは1192年だね。
西洋も同じような階層構造で土地の権利が形作られていて面白いよね
なぜこの話のながれで各将軍の「花押」がよくわからないという部分に言及しようとさせるのかが意味不明。先生が「わからなくていいんです」というスタンスでサラリと流すことで話しが聞きやすくなっている。
中国は権力も権威も皇帝が独占していたからね。朝鮮とベトナムもそうだが。中国に関しては春秋・戦国時代の周王朝が天皇家に近い感じ。周を残したまま始皇帝が即位したら周王室が天皇家みたいになる可能性はあったが。現実的じゃない。周は秦の天下統一を認めず反抗して来たから滅ぼされてしまった・・・
江戸時代 幕府は大名家に名ばかりの官名を与えていたが、実際の領地の国司名は与えなかった。例えば島津薩摩守や前田加賀守等。公領という概念はなくなったとはいえ、朝廷の権威と結びつくのを恐れたんだろうと思う。
徳川家斉の娘が前田家に嫁ぐ時「加賀守とはわらわが殿の事か?」って言ってたから、慣例的にはそうしていたようです。
本郷先生おもろい😂10年ほど前はAKBにハマってましたね🤓その頃既に、今や売れっ子の渋谷凪咲さんにも注目していたのはさすがですꉂ🤣𐤔
単なる支配者とか権力者じゃなく司祭だから。
源義経は京で官職に就いて、兄頼朝と対立する様になりました。地方でも地頭を否定できないのだから、義経は京では朝廷に逆らえる筈がないのですね。。
このタイトルから想像した回答は、なぜ中国のように天皇を排除して自分が真の頂点に立たなかったのか、だったんだけど、結局そんな意見はなかったね。なぜ否定できなかったってことの根本的な答えになってないような?
だよね。よくありがちな、「資料ではこうでした」ってやつ。学者は自分の頭で考えられる人いないなぁ。
平将門の立場をどう捉えれるかを考察すべきでは。
中国の天皇って皇帝のこと?だったら天皇と違って本当の権力者だから倒されて当然。徳川政権と同じですよね。今もちゃんと共産党が皇帝やってますよ
いや権限がない奴が突然天皇排除して皆言うこと聞くか?例えば小池百合子が岸田文雄を武力で倒して「今日から私がルールです」と言って言うこと聞くか?聞くとして、その労力を使ってまでして自分が頂点に立つ意味は?天皇を利用しつつ自由に政をした方が楽じゃないか?どうせ天皇は上から見てる他ないんだから。
@@吉野浩章-x9v平将門は新皇を名乗って関東に新しい政権を作ろうとしましたが、京都の朝廷を倒そうとしたわけではありませんでした。京都の朝廷はそのままにしておいて、関東が独立して自治政権を打ち立てようとした。アメリカ合衆国の独立戦争が、イギリスの王室を打倒しようとしたわけではなく、あくまでも王権やイギリス本国からの独立、自立を目指していたのと似てるかもしれませんね。
タカさんと同じ発声方法ですね。
声帯は佐久間さん
@@山-g3l 林家こぶ平も同じ仲間
@@user-bx1vo1uw1n 動物のグループ分けみたいに言うなw
象徴として利用した
気づかれず掠め取るのには別のコミュニティを作って勢力が増したら一気に挿げ替えるってこと?
鎌倉時代から秀吉の時代の間、関白が直接土地を与えられるようになった経緯を知りたかったです。
最初は土地はすべて天皇のもので臣下は与えられるものとなっていったが‥それが開墾した土地は開墾した者の三代までは私有してよいとなり‥それがさらに開墾した土地は開墾した者が私有してよいとなった‥これは中央集権が壊れて封建制度が始まる過程でどこの国でも起る歴史の過程です。秀吉が関白だったから土地を与え奪えることができたというのではなく‥秀吉に教順した臣下の土地を奪えたり与えたりすることができる程の権力をもったということです。それは権力の及ぶ限りのことで家康など秀吉には及ばないが権力はあるという場合は領地を移すぐらいにまで弱まりますが‥
何故皇帝や諸侯は、教皇庁を廃止しなかったかと似ている問題ではないだろうか。
在地領主は、頼朝と領家の両方にみかじめ料をだしていたのでしょうか?
やっぱり東大教授の話は面白い
源氏と平氏ってそもそも天皇の子孫たから偉いっていう位置づけみんな忘れてないか?
タイトル通りの結末が無かったのが不思議でしょうが無かったんです。中国の歴史を見てきた日本人は何故日本の帝王になろうとせず担ぎ上げ続けて来たのか…
漢籍を不自由なく読み内容を理解出来る人間が限られていたから。武士階級の漢籍に対する教育水準や理解度は平和になり朱子学が推奨される江戸時代中期までは高いとは言えない。仮に下克上をする梟雄が帝位簒奪が相次いだ中華の歴史を深く知っていれば「アイツもやった」と自身の行動を正当化する方便には使える。朱子学が普及し既存の上下関係は護るべきという意識が強くなるとこうはいかない。朝貢によって隋唐王朝の統治制度や社会システムをそのまま導入した時代が終わり交流が途絶えた事も大きい。門閥貴族を排し北宋で強化された君主独裁とそれを支える科挙で選抜された官僚による統治は、世襲で権力を維持してきた門閥貴族である藤原氏は勿論、軍事貴族である武家にとっても直輸入すると都合が悪い。試験により直臣を選抜するシステムは近代まで導入出来なかった。
藤原道長は関白になっていないと思います。
小泉さん成田さん、、、文藝春秋の立場を明快に示してますね
将軍も結局は鎌倉の執権や、室町の管領、江戸の老中が政治牛耳ってたからなぁ。信長とか秀吉みたいなトップダウン方式の存在の方がマイノリティだっただけで。だから天皇に成り代わって皇帝なりになる思想もでなかったかと。信長や秀吉はその気があったとしても、簒奪するだけの時間がなかったからでは?
関白になった時はまだまだ東国も九州も平定してないんだよな。秀吉は為政者として大義名分を大事にしてたから関白の命令として惣無事令だしてそれを無視するやつを朝敵として武力征討したり名目上、武士はみな朝廷の臣下なんだから上洛して帝の代理であるわしに頭を下げろと命令できる。
みんな親戚だからでしょ。
みんな達筆ですなあ。
祐筆が書いていますから、どの書状も達筆なのです。
すごく分かりやすくて良かった!荘園公領制が秀吉発給の本領安堵状で否定されるってことは、戦国大名の登場、応仁の乱を境に制度崩壊に進むってことですね。字面にすると多分教科書に書いてあることまんまだと思いますが、内実知ってないと平安末期〜室町時代までが"よくわからない時代"になるので、一般的に人気無い時代なのも分かりますw
守護代が荘園の納税負担をして天皇制度を守ったが伊勢神社等が減税して荘園の納付先を変えそれが飛び地となり地元の神社に八幡宮や宮島などの納付先というか保証先が増えたみたいに❗️
藤原道長は関白ではなく、摂政では?!
あるいはこうした以下の記事のような事を、婉曲に(?)表現なさったとか?、そんな憶測も思い浮かびましたが…「名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかった」(その一方で貴族の人事を最終決定する「除目」は握り続けており、この当時はこれがいやこれの方が事実上関白に匹敵いやそれ以上??…みたいな ..ただの言い間違いかもモチロンしれませんが😅…)> 「御堂関白」と称された藤原道長は、関白就任の打診を断わり一度もその座に就いていない。 > というのも、摂政・関白という官職そのものは具体的な権限を伴わない。摂政も関白も、あくまでも天皇の個人的な輔弼者(ほひつしゃ、天皇の権能行使について進言する人)という位置づけだったのである。道長は、名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかったというわけだ。 > その代わり、太政官制における事実上の最高責任者である左大臣のポストを手放すことはなく、除目(貴族の人事)を最終決定する権限を握り続けた。人事権こそが権力であることは、いつの時代も変わりない。( 型破りすぎる!伝説の「東大の日本史」問題 解答へのダメ出しがそのまま問題に 2016/08/02 toyokeizai.net/articles/-/129160?page=3 )
この頃関白の座は空位になってしまた、御堂関白と呼ばれるけれども、道長は死のまでに関白をなれられない
3/17に私が返信をしていた以下のは無くなったのかな。まあどうでもいいけど。↓あるいはこうした以下の記事のような事を、婉曲に(?)表現なさったとか?、そんな憶測も思い浮かびましたが...「名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかった」(その一方で貴族の人事を最終決定する「除目」は握り続けており、この当時はこれがいやこれの方が事実上関白に匹敵いやそれ以上??...みたいな..ただの言い間違いかもモチロンしれませんが😅….)> 「御堂関白」と称された藤原道長は、関白就任の打診を断わり一度もその座に就いていない。 > というのも、摂政・関白という官職そのものは具体的な権限を伴わない。摂政も関白も、あくまでも天皇の個人的な輔弼者(ほひつしゃ、天皇の権能行使について進言する人)という位置づけだったのである。道長は、名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかったというわけだ。 > その代わり、太政官制における事実上の最高責任者である左大臣のポストを手放すことはなく、除目(貴族の人事)を最終決定する権限を握り続けた。人事権こそが権力であることは、いつの時代も変わりない。( 型破りすぎる!伝説の「東大の日本史」問題 解答へのダメ出しがそのまま問題に 2016/08/02 toyokeizai.net/articles/-/129160?page=3 )
@@織田上総介三郎信-j5z 「なれられない」「なってしまた」…人民解放軍やその関係者か国防動員法等で中国本土の親族等も人質同然のチャンコロどもですか⁉️😱
摂関政治を始めた代名詞みたいに言われてるけどそうだったんですね‥道長のころは藤原一門で官職をほぼ占有していてその先の一族で誰が首領であるかの争いが始まった時代ですね。東西南北に有力藤原氏がいて争い北家がのこり他は衰退した‥北家は一条家 二条家 九条家 鷹司家 近衛家に分家して摂関政治がしばらく続く‥
あれ?信長以前の戦国大名にとって寺領が結構例外扱いだったはずだが。寺社は政治と軍事と知識と経済の集積地だったから。だから、比叡山燃やしたんじゃなかったか?
源頼朝は最初、独立国のような構想にしたかったとは聞いたことあるな
大化の改新で全ての土地が公の土地になったけどすぐに墾田永年私財法で私有地ができ不入権の確率で完全な私有地が出来ちゃった。それが戦国まで続いたけど秀吉が天下統一して検地で再び土地を公の土地にした。武士が天皇を滅ぼさなかったのは平安中期から天皇に実権がなくお飾りだったからだと思う。室町初期に少しだけ政治に絡んだけどそれくらいだしね。潰すべきは実際に権力持ってる相手だから。
答え→宮家の宮様は仁和寺、比叡山、神社などに居て、普段は政治の表面に出ません。聖武天皇の時代には上奏したという記録が有るが、12世紀以降は消滅していました。伊藤博文の時に国体を整えて富国強兵する為に、天皇制を再構築しました。ドイツやイタリアも1860年頃に同じ事をしています。
足利義満や織田信長には公武合体の構想があったらしいが二人とも突然死んでしまったミステリー
「貴族は世襲なので(農民は)荘園領主にはなれない」鎌倉・室町時代の武家は将軍だと「従二位」とか三管四職や守護だと「従三位」「従四位」などの官位を貰っていましたよね。彼らは武家であっただけでなく貴族でもあったと理解して良いでしょうか?
鎌倉に認めてもらうために武力で奉公するというなら、なぜその武力で周囲の競争相手(武士や旧地頭など)を抑える気にならなかったのかが不思議。やはり「権威には屈するべき」「尊い貴人には逆らってはならない」と言う日本人の特色が昔からあったのでしょうか?それともやはり頼朝様の政治力と人心掌握力を恐れたのでしょうか。いつの間にか周りは敵だらけということを恐れたためとか。
魏文帝曹丕が開いたパンドラの箱「禅譲」。ロイヤルファミリー交代による比較的平和な帝位簒奪。特に帝室外戚が力を付けて簒位していく。この流れが東アジアのスタンダードになる。大陸から渡来人が多数流入しており知識として当然知っていた筈だが、渡来人系の飛鳥豪族も藤原氏も帝室から別れた平家以降の武士も圧力こそ掛けても大陸の真似をしようとしなかった。結果的に世界でも稀有な「万世一系」の血統を持つ帝室が今日でも続いている。
幕府は朝廷から、任官された臨時軍事政権で朝廷の地方出張機構だったと思います。
地頭に任命することしかできなかった。って「~否定できなかったのはなぜ?」って質問の回答になってないやん。例えば頼朝は関東にしか興味がなく関東で自由にできる権力で満足した、とか朝廷を敵に回すと今まで味方だった連中が裏切ってあっち側に付く可能性があったから手が出せなかったとか天皇家を否定してしまうと自らの血統をも否定してしまうことになるのでできなかったとかそういう感じの回答が必要やん。地頭職の任命権は頼朝が天皇を否定しようとしたのかしていないのかに関わらず、のちに幕府と言われるものを運用した証拠でしかないやん
北面の武士、西面の武士など警固を必要としていたが直属の軍事政権は持たなかった。誰が君主を護って政権を委ねる世が続いた
ズレますが日本で市民革命もしくは英国のような革命が起きなかったのは何故ですか?もしくは起きてたんですか?
英仏で起きた市民革命を主導する「市民」が居なかったからでは。地中海文明の影響下にある西欧の一部を除いてユーラシア大陸では君臣の関係しか無い。さらに踏み込めば、欧州での市民革命の行動原理になった哲学や政治思想に近い思想が東アジアに存在しなかった。主に中華世界で育まれ継承された思想は君主制を強固な専制政治体制にする為に作用した。手工業が発達し産業革命手前だったとされる宋代でも民族資本が蓄積されても、政権中枢に居る官僚や宦官に頭を下げ莫大な賄賂を渡して陳情するしか無かった。地中海文明が産んだ「議会」に相当する統治機構が無いので議員になって王に意見するような発想が無い。中華世界では南下する遊牧民も交えて「禅譲と放伐」による王朝交代が発生するが欧州での市民革命とは性質が異なる。その王朝交代すら輸入されなかった本邦。王朝は長く続けば続くほどオーソリティが絶大になる。帝位を奪う事は簡単でも奪った後の統治が難しい。所詮ポッと出の成り上がり者では誰も従わない。曹魏のように実力で帝位を簒奪してもオーソリティが無い政権は長続きしない。この事実が知られていたからこそ大陸から戦乱を避け逃げてきた渡来人が大半である古代の飛鳥豪族や藤原氏に平家以降の武家政権は天皇を圧迫して傀儡君主を据える事はあっても自らが簒位する事は無かった。
歴史学で無名と言うか私が知ら無いだけですが天皇家に公家の動向が記録的に目にする機会がある期間が飛びますね理由は不明ですが個人的に興味有る期間がこの動画での期間なので扱って欲しいです公家とか特別な地位で活躍する時の記録は動乱期なのが不思議です本来の公務では日々記録が有る立場だと思いますが戦渦で焼失したかも知れませんがそれについても触れられ無いのは不思議です扱ってたらすみません🙇
日本人独特の気質でしょうね トップに立ちたがらない
江戸時代ですが。大名は分封された土地の全ての所有者だった、と言うことでしょうか。そうすると、その藩内の庄屋や百姓は、農地所有権者ではなく、耕作権保持者とかでしょうか。そうすると、百姓たちは耕作している土地の売買は出来ないことになりますか。耕作している土地を所有していないので、土地を担保にするなどできないということでしょうか。
武士は治安維持のための暴力なんだから法的根拠が必要だろうさ。単なる私利私欲の輩ではなかったんだと思うな。
それらの関係性は時代によって変化しています。基本は土地の取り合いの世界でしたが、日本はその土地と作物、産物は天からの授かりものだと言う概念を持っていました。天とは太陽と自然です。天皇は神に一番近い存在でした。元来血統を重んじる日本人は天皇の血統以外の者が成り代わるなど誰も考えなかったのです。血族同士の争いはありましたが大名は天皇を守護する将軍が最高位ですからその地位に就こうと戦っただけ。中国は武力と政治力の争いで強いものが取るもので、取れば唯一の存在になりましたから国の取り合いでした。
コテンラジオの本郷先生ゲスト回見たらTH-camにおすすめされたけど‥ここコメント欄酷いな‥民度低いな‥
TH-camのコメント欄は的外れなコメントを半笑いで眺める場所です()
何故に全く答えてくれなくて草鎌倉、室町時代ではなぜ禅譲という手段に出なかったのか、織豊時代ではなぜ滅ぼさなかったのかの見解を反天皇の本郷ならズバッと言うと思ったのに期待ハズレのタイトル詐欺
天皇家を滅ぼしてしまったら、肩書を発行出来る人がいなくなるから困るのでは?
荘園って概念、応仁の乱以降から、徐々にでは有る様だが、消えて行き、鎌倉政府、関東周辺ですよね。戦国大名が誕生してからかも?、
なるほど勉強になりました。同じ「征夷大将軍」であっても頼朝・尊氏時代と秀吉・家康時代とで実行支配力に差があるわけですね。この支配構造は秀吉は関白・太閤、家康は「内府殿」と言われた今の光る君へでの藤原道兼と同じ内大臣であったことが「見せかけはったりとしての征夷大将軍」よりも朝廷内権力ヒエラルキーでより重要だったのかもですね。頼朝、尊氏時代は逆に、初代征夷大将軍が坂上田村麻呂だったように「臨時の役職」その延長線上で関白・内大臣より遥に下の地位だったってことなんでしょうか。
天皇は「権力者」ではなく「権威者」だったから
説明から解釈するところによると、公地公民失敗して土地の私有認めるものの、太閤検地まで、権利を保証する仕組みがととのっていない、すなわち天皇の権威によるしかなかった、という認識であってますか
聖櫃を司る失われた高貴な一族に触れることは神の怒りに触れることになる
4:58 浅野が2人、つまりW浅野だな。
藤原道長は関白には結局就任してません。彼は左大臣です。まぁ関白なんて令外官ですし😮
それを言ってしまったら天皇に失礼だよ。
道長は関白になってませんよ😅
北方版三国志の劉備が目指していたもの
坂東独立を謳った平将門は武士にとって憧れの存在だったらしい。その将門は天皇家がルーツなので、天皇家を無視する事は将門を蔑ろにする事にも繋がったのかなと思います。
「天皇制」?「皇室制度」だろ
国体
道長は関白やってない…こういった動画で、肩書きある人が曖昧な知識や記憶で話さないでもらいたい
そう言う事ですね〜そうです!どう言う事!意味がわからない笑
浅野幸長 よしながでは?
武家政権は日本株式会社に属する武家の労働組合、その中で武家には武家の利害やロジックがあるのは当然。武士好きな人は幕府の朝廷からの独立性や天皇を凌駕する武力みたいな事ばかりに着目するけど、当の武家からすれば筋違いな話なんじゃないの?別の理由って本郷先生は言うけど信長も秀吉も朝廷に他意は無いだろうし、朝廷守護は武士の本来的任務という以外に特に理由があるとも思えない。武家が朝廷を潰さない理由は日本の起源を握ってる天皇の権威が一番強力だからで、日本に属する者がそのOriginに手を出せば逆賊簒奪破壊者にしかならない。そういう事ができるのは外国勢力だけでしょ。
私は自然神(全知全能)を歴史的に信じ、その習慣が我が国では行き渡ってた。それと共に中国の周時代の社会仕組み「徳仁」ある人が、国を治める孔子の教えで冠位等を定め社会仕組みが出来ていた。その中で武士の権力武力は増したが、それを人徳、冠位を授け認める天皇以外に、手段を持ち合わせてない事に気づいた為と思われる。中国の秦の始皇帝は、古の習慣、儒学者等を抹殺し武力一遍等になった為、永続せず、後の中国も同じ道を辿っていると思う。
潰さなかったのではなく潰せなかったが正解
高校の教科書レベルの日本史の知識すらない人が案外多いのに驚きです
はいはい、俺って頭が良い自慢はここだけで終わらせよーね。
だって天皇の子孫だもん😂
武力を以て天皇を潰すって言う発想が出てこなかったって言うのが不思議
一応、天皇家は神様の子孫って設定になってるし、現代人と違って、割と本気でその設定も信じていただろうからね。現代人の俺たちだって、古くなったからってお守りをゴミ箱にポイってやるの、なんか心理的なハードル高いじゃない(笑)? そういう感じだったんじゃないかなと想像してる。
そう?自分の国を自ら潰すって発想は普通出ないと思うけどなー
@@た南無阿弥陀仏-z2h そう?自分の国ではなく、天皇の国って発想自体が不思議。結局「錦の御旗」みたいに神輿に担ぐ奴が出て来たらシラットして神輿に乗ってきただけでうまいこと時流を泳いで生き残って来ただけだよ。
潰すより利用した方が良いからでしょ?天皇を奉じれば手っ取り早く天下が獲れる
東国の武士が求めていたのは自分達が開拓した領域は自分達の裁量で好きにさせろであり、この要求がより先鋭化して独立まで踏み込んで消されたのが平将門。それより穏便に自治と徴税を認めろと朝廷と交渉出来たのが源氏将軍を擁する鎌倉幕府。最後は承久の乱にて実力で要求を呑ませて君主を流罪にして傀儡君主を据えた。
結局武力なのか
武士って、清和源氏、桓武平氏が源流だからじゃないのかな。
でも天皇の血流れてない北条泰時も御成敗式目作った時天皇(公家)に忖度してたよ
土地に人は住んでないかのような、ずいぶん上から目線の歴史観ですね。
八幡神が応神天皇だったからでは?
剛腕狼藉者が取った領地で好き勝手出来るお墨付を出させる為😮
祟られるから
秀吉の理由は結局分からないままなのね
なぜ武士が天皇を否定できないか。武士は天皇により命ぜられる職であることから、天皇を否定すると、自らの存在を否定することになるからだと考えます。
道長は関白にはなってないよ!
御堂関白にはなったんだよね
御堂関白にはなったんだよね!入試のひっかけ問題
やっぱり、ほら、最後の最後に責任持って行く主が居たほうが、楽じゃね。「ですよね」って。
生きた歴史ですね。人間の生き様を加味する事で歴史の出来事が生き生きと身近に感じられる。ありがとうございます。
本郷先生は教え方が上手いですね、頼朝からみれば地頭、荘園領主からみれば下司、目から鱗が落ちました。
隣の女性は音楽が専門なのに先生とのやりとりを聴いてますと相当頭が良いのではないかと思います。歌手なんですか?今度歌を聴いてみます。
才色兼備な方ですね。
11:18 ここ重要な点だけど、鎌倉幕府が全国政権でなく関東の地方政権だと明言しておられますね。当初はそれで問題なかったのですが、元寇の後にこれが問題になる。九州防衛のためには西国武士の徴用が不可欠だけど、幕府にはその正統性がないためいろいろと苦労があった。最終的には御家人以外にも動員するんだけど、そうなると御家人以外の裁判にも関与する必要が出てきたり、御家人と非御家人の対立を仲裁する必要が出てきる。その過程で「幕府は御家人のためにある」という前提が崩れていき、後の倒幕に繋がっていくことになります。
今の政府、内閣が皇室の廃止をしないのと同じでしょう。
皇室を否定するって事は最長と言われる、日本の歴史と日本そのものを否定する事になる。
目を閉じて聞いてると石橋貴明いつから歴史に詳しくなったんだ、と思うばかり
確かにw
文春も放送局もyoutubeもこの人、好きね。
バカ教授達は理解できない八幡太郎頼朝
っw😂
ん?石橋貴明のモノマネしてるコージー富田にしか聞こえないけど?
貴さんは芸人界の将軍的なポジションです
この先生の声も話し方も好き
とてもわかりやすい
外部からの侵略者じゃないから
現実主義で有れば有るほど既存の権威を利用して権力を増やそうとする秀吉はその行き着く先
ただ実際はかなり減ったものの寺社領(荘園)は残り続けた模様
昨年。金沢市内で行われた本郷さんの講演会に参加したが
いや~~~~実に興味深い話を聞けた。またこの動画の通り
飾らぬ本郷さん・・ご立派。今年も金沢市でやるんだろうな
島津忠久(惟宗忠久)は近衛家の下司職だったから地頭に任命されたんですね
秀吉が、同僚だった武家の上に立つために、官位制度を利用。まず自分が近衛家の養子となり近衛家のトップになってしまう。そのまま関白に就任し、関白を豊臣家の世襲に。近衛家の娘を自分の養子にして、天皇に嫁がせている。天皇を利用することに関しては天才的。
財物に対する所有権というのは本質的に不安定なものですね。
名目上は、鎌倉幕府設置後に六波羅探題っていうのが京都に設置されて、関東から頼朝さんの家臣が赴いた事になってますし、然るべき東国武士の管理があったとは思いますが、頼朝さんの直接の傘下にあった関東と違って、その権威付けは難しかったでしょうね。大変だったと思いますよ😥
支配している訳でも、収奪している訳でもない天皇を否定するメリットなんて無いからね
尊王は倒幕運動における重大要素
徳川家からすれば皇統存続は
結果として蟻の一穴になってしまいましたね
『国衆の取り合い』戦争をしているから一度の敗北で味方だったはずが寝返る事が頻発した。もうその時点で天皇の威光がよく分かる。逆らう理屈がない。
武田氏は甲斐源氏、安芸武田と若狭もいたけど全部滅ぼされたな。
武田の名前は残ってないですが、蠣崎氏は武田家の血筋ですよね
いまドラマ“将軍”を見ている外国人には理解しにくいところなんだろうなぁ。
ローマ教皇が各地の王様の地位を保証するのと似ているところがあるのかもしれません。
外国人には理解しにくいと言うが、現代の日本人が当時の天皇観をどれだけ理解できているのか
ローマ教皇と諸王や、
イスラム世界でのカリフとスルターンの関係が近い。
それでもトップが専制政治を行う事がスタンダード化した中華世界や封建制崩壊後の絶対王政時代に慣れた欧米には奇異な習慣だろう。
承久の乱以降も形骸化したとは言え朝廷が日本に残り続けたのは世界的に見てかなり特殊なケースかと思う。
権勢が大きなスルターンに保護されながら宗教的権威だけが残ったイスラーム世界でのカリフに近いとすると意見もある
カリフもオスマン帝国によって永遠に御隠れになるのだけど
ナポレオンが居なければ今でも神聖ローマ帝国皇帝(名目上)が残り続けていたかもしれないし、外部勢力に占領されなかったのは大きいかと
平将門ぐらいはっちゃけられないと頼朝ぐらいが限界だったのだろうね。
平将門も源氏も平氏もみんな天皇家の子孫なんだよ
その頼朝も一代で武士の支持を集めたのではなくて、祖先が何度も乱を戦ったために武士の忠誠を得ることができた。
平忠常の乱で源頼信、前九年の役で源頼義、後三年の役で源義家、保元の乱、平治の乱での源為朝
一般人が一般人の上に立つということは非常な困難を伴う。
先に既存の権威を利用した方が勝つ。
26:12
「脈々と受け継がれてきた血をたやしてはいけないとかいう考え方~」
天皇が天皇である条件ってまさしく「血脈」だと思うんだが、この人はなにを言っているんだろう?
この人の考えるこれからの時代の天皇制についてじっくり動画にしてほしいなあ。
中国の王朝の場合は例えば九品官人法は「この制度の目的は、後漢から魏へと移行するに際し、後漢に仕えた官僚たちの能力と魏に対する忠誠度を見極めて人材を吸収する事。」とのことであり、権威と権力の一体化が見て取れる。
承久の乱の敗北という天皇家存続最大のピンチを与えたのが北条氏という藤原氏と同じ主に寄生して生きていく一族だったのが幸いした
ここで天皇家を滅ぼすという決断をされなかった結果、権威だけはずば抜けた存在になる事が出来た
そう考えると、やはり鎌倉幕府の始まりは1192年だね。
西洋も同じような階層構造で土地の権利が形作られていて面白いよね
なぜこの話のながれで各将軍の「花押」がよくわからないという部分に言及しようとさせるのかが意味不明。
先生が「わからなくていいんです」というスタンスでサラリと流すことで話しが聞きやすくなっている。
中国は権力も権威も皇帝が独占していたからね。朝鮮とベトナムもそうだが。中国に関しては春秋・戦国時代の周王朝が天皇家に近い感じ。周を残したまま始皇帝が即位したら周王室が天皇家みたいになる可能性はあったが。現実的じゃない。周は秦の天下統一を認めず反抗して来たから滅ぼされてしまった・・・
江戸時代 幕府は大名家に名ばかりの官名を与えていたが、実際の領地の国司名は与えなかった。例えば島津薩摩守や前田加賀守等。
公領という概念はなくなったとはいえ、朝廷の権威と結びつくのを恐れたんだろうと思う。
徳川家斉の娘が前田家に嫁ぐ時「加賀守とはわらわが殿の事か?」って言ってたから、慣例的にはそうしていたようです。
本郷先生おもろい😂
10年ほど前はAKBにハマってましたね🤓
その頃既に、今や売れっ子の渋谷凪咲さんにも注目していたのはさすがですꉂ🤣𐤔
単なる支配者とか権力者じゃなく司祭だから。
源義経は京で官職に就いて、兄頼朝と対立する様になりました。地方でも地頭を否定できないのだから、義経は京では朝廷に逆らえる筈がないのですね。。
このタイトルから想像した回答は、なぜ中国のように天皇を排除して自分が真の頂点に立たなかったのか、だったんだけど、結局そんな意見はなかったね。なぜ否定できなかったってことの根本的な答えになってないような?
だよね。よくありがちな、「資料ではこうでした」ってやつ。学者は自分の頭で考えられる人いないなぁ。
平将門の立場をどう捉えれるかを考察すべきでは。
中国の天皇って皇帝のこと?だったら天皇と違って本当の権力者だから倒されて当然。徳川政権と同じですよね。今もちゃんと共産党が皇帝やってますよ
いや権限がない奴が突然天皇排除して皆言うこと聞くか?例えば小池百合子が岸田文雄を武力で倒して「今日から私がルールです」と言って言うこと聞くか?聞くとして、その労力を使ってまでして自分が頂点に立つ意味は?天皇を利用しつつ自由に政をした方が楽じゃないか?どうせ天皇は上から見てる他ないんだから。
@@吉野浩章-x9v
平将門は新皇を名乗って関東に新しい政権を作ろうとしましたが、京都の朝廷を倒そうとしたわけではありませんでした。
京都の朝廷はそのままにしておいて、関東が独立して自治政権を打ち立てようとした。
アメリカ合衆国の独立戦争が、イギリスの王室を打倒しようとしたわけではなく、あくまでも王権やイギリス本国からの独立、自立を目指していたのと似てるかもしれませんね。
タカさんと同じ発声方法ですね。
声帯は佐久間さん
@@山-g3l
林家こぶ平も同じ仲間
@@user-bx1vo1uw1n 動物のグループ分けみたいに言うなw
象徴として利用した
気づかれず掠め取るのには別のコミュニティを作って勢力が増したら一気に挿げ替えるってこと?
鎌倉時代から秀吉の時代の間、関白が直接土地を与えられるようになった経緯を知りたかったです。
最初は土地はすべて天皇のもので臣下は与えられるものとなっていったが‥
それが開墾した土地は開墾した者の三代までは私有してよいとなり‥
それがさらに開墾した土地は開墾した者が私有してよいとなった‥
これは中央集権が壊れて封建制度が始まる過程でどこの国でも起る歴史の過程です。
秀吉が関白だったから土地を与え奪えることができたというのではなく‥
秀吉に教順した臣下の土地を奪えたり与えたりすることができる程の権力をもったということです。
それは権力の及ぶ限りのことで家康など秀吉には及ばないが権力はあるという場合は領地を移すぐらいにまで弱まりますが‥
何故皇帝や諸侯は、教皇庁を廃止しなかったかと似ている問題ではないだろうか。
在地領主は、頼朝と領家の両方にみかじめ料をだしていたのでしょうか?
やっぱり東大教授の話は面白い
源氏と平氏ってそもそも天皇の子孫たから偉いっていう位置づけみんな忘れてないか?
タイトル通りの結末が無かったのが不思議でしょうが無かったんです。
中国の歴史を見てきた日本人は何故日本の帝王になろうとせず担ぎ上げ続けて来たのか…
漢籍を不自由なく読み内容を理解出来る人間が限られていたから。
武士階級の漢籍に対する教育水準や理解度は平和になり朱子学が推奨される江戸時代中期までは高いとは言えない。
仮に下克上をする梟雄が帝位簒奪が相次いだ中華の歴史を深く知っていれば「アイツもやった」と自身の行動を正当化する方便には使える。
朱子学が普及し既存の上下関係は護るべきという意識が強くなるとこうはいかない。
朝貢によって隋唐王朝の統治制度や社会システムをそのまま導入した時代が終わり交流が途絶えた事も大きい。
門閥貴族を排し北宋で強化された君主独裁とそれを支える科挙で選抜された官僚による統治は、
世襲で権力を維持してきた門閥貴族である藤原氏は勿論、軍事貴族である武家にとっても直輸入すると都合が悪い。
試験により直臣を選抜するシステムは近代まで導入出来なかった。
藤原道長は関白になっていないと思います。
小泉さん成田さん、、、
文藝春秋の立場を明快に示してますね
将軍も結局は鎌倉の執権や、室町の管領、江戸の老中が政治牛耳ってたからなぁ。信長とか秀吉みたいなトップダウン方式の存在の方がマイノリティだっただけで。だから天皇に成り代わって皇帝なりになる思想もでなかったかと。信長や秀吉はその気があったとしても、簒奪するだけの時間がなかったからでは?
関白になった時はまだまだ東国も九州も平定してないんだよな。秀吉は為政者として大義名分を大事にしてたから関白の命令として惣無事令だしてそれを無視するやつを朝敵として武力征討したり名目上、武士はみな朝廷の臣下なんだから上洛して帝の代理であるわしに頭を下げろと命令できる。
みんな親戚だからでしょ。
みんな達筆ですなあ。
祐筆が書いていますから、どの書状も達筆なのです。
すごく分かりやすくて良かった!
荘園公領制が秀吉発給の本領安堵状で否定されるってことは、戦国大名の登場、応仁の乱を境に制度崩壊に進むってことですね。
字面にすると多分教科書に書いてあることまんまだと思いますが、内実知ってないと平安末期〜室町時代までが"よくわからない時代"になるので、一般的に人気無い時代なのも分かりますw
守護代が荘園の納税負担をして天皇制度を守ったが伊勢神社等が減税して荘園の納付先を変えそれが飛び地となり地元の神社に八幡宮や宮島などの納付先というか保証先が増えたみたいに❗️
藤原道長は関白ではなく、摂政では?!
あるいはこうした以下の記事のような事を、婉曲に(?)表現なさったとか?、そんな憶測も思い浮かびましたが…「名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかった」(その一方で貴族の人事を最終決定する「除目」は握り続けており、この当時はこれがいやこれの方が事実上関白に匹敵いやそれ以上??…みたいな ..ただの言い間違いかもモチロンしれませんが😅…)
> 「御堂関白」と称された藤原道長は、関白就任の打診を断わり一度もその座に就いていない。
> というのも、摂政・関白という官職そのものは具体的な権限を伴わない。摂政も関白も、あくまでも天皇の個人的な輔弼者(ほひつしゃ、天皇の権能行使について進言する人)という位置づけだったのである。道長は、名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかったというわけだ。
> その代わり、太政官制における事実上の最高責任者である左大臣のポストを手放すことはなく、除目(貴族の人事)を最終決定する権限を握り続けた。人事権こそが権力であることは、いつの時代も変わりない。( 型破りすぎる!伝説の「東大の日本史」問題 解答へのダメ出しがそのまま問題に 2016/08/02 toyokeizai.net/articles/-/129160?page=3 )
この頃関白の座は空位になってしまた、御堂関白と呼ばれるけれども、道長は死のまでに関白をなれられない
3/17に私が返信をしていた以下のは無くなったのかな。まあどうでもいいけど。↓
あるいはこうした以下の記事のような事を、婉曲に(?)表現なさったとか?、そんな憶測も思い浮かびましたが...「名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかった」(その一方で貴族の人事を最終決定する「除目」は握り続けており、この当時はこれがいやこれの方が事実上関白に匹敵いやそれ以上??...みたいな..ただの言い間違いかもモチロンしれませんが😅….)
> 「御堂関白」と称された藤原道長は、関白就任の打診を断わり一度もその座に就いていない。
> というのも、摂政・関白という官職そのものは具体的な権限を伴わない。摂政も関白も、あくまでも天皇の個人的な輔弼者(ほひつしゃ、天皇の権能行使について進言する人)という位置づけだったのである。道長は、名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかったというわけだ。
> その代わり、太政官制における事実上の最高責任者である左大臣のポストを手放すことはなく、除目(貴族の人事)を最終決定する権限を握り続けた。人事権こそが権力であることは、いつの時代も変わりない。( 型破りすぎる!伝説の「東大の日本史」問題 解答へのダメ出しがそのまま問題に 2016/08/02 toyokeizai.net/articles/-/129160?page=3 )
@@織田上総介三郎信-j5z 「なれられない」「なってしまた」…人民解放軍やその関係者か国防動員法等で中国本土の親族等も人質同然のチャンコロどもですか⁉️😱
摂関政治を始めた代名詞みたいに言われてるけどそうだったんですね‥
道長のころは藤原一門で官職をほぼ占有していてその先の一族で誰が首領であるかの争いが始まった時代ですね。
東西南北に有力藤原氏がいて争い北家がのこり他は衰退した‥
北家は一条家 二条家 九条家 鷹司家 近衛家に分家して摂関政治がしばらく続く‥
あれ?信長以前の戦国大名にとって寺領が結構例外扱いだったはずだが。
寺社は政治と軍事と知識と経済の集積地だったから。
だから、比叡山燃やしたんじゃなかったか?
源頼朝は最初、独立国のような構想にしたかったとは聞いたことあるな
大化の改新で全ての土地が公の土地になったけど
すぐに墾田永年私財法で私有地ができ不入権の
確率で完全な私有地が出来ちゃった。
それが戦国まで続いたけど秀吉が天下統一して
検地で再び土地を公の土地にした。
武士が天皇を滅ぼさなかったのは平安中期
から天皇に実権がなくお飾りだったからだと思う。
室町初期に少しだけ政治に絡んだけど
それくらいだしね。
潰すべきは実際に権力持ってる相手だから。
答え→宮家の宮様は仁和寺、比叡山、神社などに居て、普段は政治の表面に出ません。聖武天皇の時代には上奏したという記録が有るが、12世紀以降は消滅していました。伊藤博文の時に国体を整えて富国強兵する為に、天皇制を再構築しました。ドイツやイタリアも1860年頃に同じ事をしています。
足利義満や織田信長には公武合体の構想があったらしいが二人とも突然死んでしまったミステリー
「貴族は世襲なので(農民は)荘園領主にはなれない」
鎌倉・室町時代の武家は将軍だと「従二位」とか三管四職や守護だと「従三位」「従四位」などの官位を貰っていましたよね。彼らは武家であっただけでなく貴族でもあったと理解して良いでしょうか?
鎌倉に認めてもらうために武力で奉公するというなら、なぜその武力で周囲の競争相手(武士や旧地頭など)を抑える気にならなかったのかが不思議。やはり「権威には屈するべき」「尊い貴人には逆らってはならない」と言う日本人の特色が昔からあったのでしょうか?それともやはり頼朝様の政治力と人心掌握力を恐れたのでしょうか。いつの間にか周りは敵だらけということを恐れたためとか。
魏文帝曹丕が開いたパンドラの箱「禅譲」。
ロイヤルファミリー交代による比較的平和な帝位簒奪。
特に帝室外戚が力を付けて簒位していく。
この流れが東アジアのスタンダードになる。
大陸から渡来人が多数流入しており知識として当然知っていた筈だが、
渡来人系の飛鳥豪族も藤原氏も帝室から別れた平家以降の武士も圧力こそ掛けても大陸の真似をしようとしなかった。
結果的に世界でも稀有な「万世一系」の血統を持つ帝室が今日でも続いている。
幕府は朝廷から、任官された臨時軍事政権で朝廷の地方出張機構だったと思います。
地頭に任命することしかできなかった。って「~否定できなかったのはなぜ?」って質問の回答になってないやん。
例えば頼朝は関東にしか興味がなく関東で自由にできる権力で満足した、とか
朝廷を敵に回すと今まで味方だった連中が裏切ってあっち側に付く可能性があったから手が出せなかったとか
天皇家を否定してしまうと自らの血統をも否定してしまうことになるのでできなかったとかそういう感じの回答が必要やん。
地頭職の任命権は頼朝が天皇を否定しようとしたのかしていないのかに関わらず、のちに幕府と言われるものを運用した証拠でしかないやん
北面の武士、西面の武士など警固を必要としていたが直属の軍事政権は持たなかった。誰が君主を護って政権を委ねる世が続いた
ズレますが日本で市民革命もしくは英国のような革命が起きなかったのは何故ですか?もしくは起きてたんですか?
英仏で起きた市民革命を主導する「市民」が居なかったからでは。
地中海文明の影響下にある西欧の一部を除いてユーラシア大陸では君臣の関係しか無い。
さらに踏み込めば、欧州での市民革命の行動原理になった哲学や政治思想に近い思想が東アジアに存在しなかった。
主に中華世界で育まれ継承された思想は君主制を強固な専制政治体制にする為に作用した。
手工業が発達し産業革命手前だったとされる宋代でも民族資本が蓄積されても、
政権中枢に居る官僚や宦官に頭を下げ莫大な賄賂を渡して陳情するしか無かった。
地中海文明が産んだ「議会」に相当する統治機構が無いので議員になって王に意見するような発想が無い。
中華世界では南下する遊牧民も交えて「禅譲と放伐」による王朝交代が発生するが欧州での市民革命とは性質が異なる。
その王朝交代すら輸入されなかった本邦。
王朝は長く続けば続くほどオーソリティが絶大になる。
帝位を奪う事は簡単でも奪った後の統治が難しい。
所詮ポッと出の成り上がり者では誰も従わない。
曹魏のように実力で帝位を簒奪してもオーソリティが無い政権は長続きしない。
この事実が知られていたからこそ大陸から戦乱を避け逃げてきた渡来人が大半である古代の飛鳥豪族や藤原氏に平家以降の武家政権は天皇を圧迫して傀儡君主を据える事はあっても自らが簒位する事は無かった。
歴史学で無名と言うか私が知ら無いだけですが
天皇家に公家の動向が記録的に目にする機会がある期間が飛びますね
理由は不明ですが個人的に興味有る期間がこの動画での期間なので扱って欲しいです
公家とか特別な地位で活躍する時の記録は動乱期なのが不思議です本来の公務では日々記録が有る立場だと思いますが戦渦で焼失したかも知れませんがそれについても触れられ無いのは不思議です
扱ってたらすみません🙇
日本人独特の気質でしょうね トップに立ちたがらない
江戸時代ですが。大名は分封された土地の全ての所有者だった、と言うことでしょうか。そうすると、その藩内の庄屋や百姓は、農地所有権者ではなく、耕作権保持者とかでしょうか。そうすると、百姓たちは耕作している土地の売買は出来ないことになりますか。耕作している土地を所有していないので、土地を担保にするなどできないということでしょうか。
武士は治安維持のための暴力なんだから法的根拠が必要だろうさ。単なる私利私欲の輩ではなかったんだと思うな。
それらの関係性は時代によって変化しています。基本は土地の取り合いの世界でしたが、日本はその土地と作物、産物は天からの授かりものだと言う概念を持っていました。天とは太陽と自然です。天皇は神に一番近い存在でした。元来血統を重んじる日本人は天皇の血統以外の者が成り代わるなど誰も考えなかったのです。血族同士の争いはありましたが大名は天皇を守護する将軍が最高位ですからその地位に就こうと戦っただけ。
中国は武力と政治力の争いで強いものが取るもので、取れば唯一の存在になりましたから国の取り合いでした。
コテンラジオの本郷先生ゲスト回見たらTH-camにおすすめされたけど‥
ここコメント欄酷いな‥民度低いな‥
TH-camのコメント欄は的外れなコメントを半笑いで眺める場所です()
何故に全く答えてくれなくて草
鎌倉、室町時代ではなぜ禅譲という手段に出なかったのか、織豊時代ではなぜ滅ぼさなかったのかの
見解を反天皇の本郷ならズバッと言うと思ったのに期待ハズレのタイトル詐欺
天皇家を滅ぼしてしまったら、肩書を発行出来る人がいなくなるから困るのでは?
荘園って概念、応仁の乱以降から、徐々にでは有る様だが、消えて行き、鎌倉政府、関東周辺ですよね。戦国大名が誕生してからかも?、
なるほど勉強になりました。同じ「征夷大将軍」であっても頼朝・尊氏時代と秀吉・家康時代とで実行支配力に差があるわけですね。この支配構造は秀吉は関白・太閤、家康は「内府殿」と言われた今の光る君へでの藤原道兼と同じ内大臣であったことが「見せかけはったりとしての征夷大将軍」よりも朝廷内権力ヒエラルキーでより重要だったのかもですね。頼朝、尊氏時代は逆に、初代征夷大将軍が坂上田村麻呂だったように「臨時の役職」その延長線上で関白・内大臣より遥に下の地位だったってことなんでしょうか。
天皇は「権力者」ではなく「権威者」だったから
説明から解釈するところによると、公地公民失敗して土地の私有認めるものの、太閤検地まで、権利を保証する仕組みがととのっていない、すなわち天皇の権威によるしかなかった、という認識であってますか
聖櫃を司る失われた高貴な一族に触れることは神の怒りに触れることになる
4:58 浅野が2人、つまりW浅野だな。
藤原道長は関白には結局就任してません。彼は左大臣です。
まぁ関白なんて令外官ですし😮
それを言ってしまったら天皇に失礼だよ。
道長は関白になってませんよ😅
北方版三国志の劉備が目指していたもの
坂東独立を謳った平将門は武士にとって憧れの存在だったらしい。その将門は天皇家がルーツなので、天皇家を無視する事は将門を蔑ろにする事にも繋がったのかなと思います。
「天皇制」?
「皇室制度」だろ
国体
道長は関白やってない…
こういった動画で、肩書きある人が曖昧な知識や記憶で話さないでもらいたい
そう言う事ですね〜
そうです!
どう言う事!意味がわからない笑
浅野幸長 よしながでは?
武家政権は日本株式会社に属する武家の労働組合、その中で武家には武家の利害やロジックがあるのは当然。武士好きな人は幕府の朝廷からの独立性や天皇を凌駕する武力みたいな事ばかりに着目するけど、当の武家からすれば筋違いな話なんじゃないの?別の理由って本郷先生は言うけど信長も秀吉も朝廷に他意は無いだろうし、朝廷守護は武士の本来的任務という以外に特に理由があるとも思えない。武家が朝廷を潰さない理由は日本の起源を握ってる天皇の権威が一番強力だからで、日本に属する者がそのOriginに手を出せば逆賊簒奪破壊者にしかならない。そういう事ができるのは外国勢力だけでしょ。
私は自然神(全知全能)を歴史的に信じ、その習慣が我が国では行き渡ってた。それと共に中国の周時代の社会仕組み「徳仁」ある人が、国を治める孔子の教えで冠位等を定め社会仕組みが出来ていた。その中で武士の権力武力は増したが、それを人徳、冠位を授け認める天皇以外に、手段を持ち合わせてない事に気づいた為と思われる。中国の秦の始皇帝は、古の習慣、儒学者等を抹殺し武力一遍等になった為、永続せず、後の中国も同じ道を辿っていると思う。
潰さなかったのではなく潰せなかったが正解
高校の教科書レベルの日本史の知識すらない人が案外多いのに驚きです
はいはい、俺って頭が良い自慢はここだけで終わらせよーね。
だって天皇の子孫だもん😂
武力を以て天皇を潰すって言う発想が出てこなかったって言うのが不思議
一応、天皇家は神様の子孫って設定になってるし、現代人と違って、割と本気でその設定も信じていただろうからね。
現代人の俺たちだって、古くなったからってお守りをゴミ箱にポイってやるの、なんか心理的なハードル高いじゃない(笑)? そういう感じだったんじゃないかなと想像してる。
そう?自分の国を自ら潰すって発想は普通出ないと思うけどなー
@@た南無阿弥陀仏-z2h そう?
自分の国ではなく、天皇の国って発想自体が不思議。
結局「錦の御旗」みたいに神輿に担ぐ奴が出て来たらシラットして神輿に乗ってきただけでうまいこと時流を泳いで生き残って来ただけだよ。
潰すより利用した方が良いからでしょ?
天皇を奉じれば手っ取り早く天下が獲れる
東国の武士が求めていたのは自分達が開拓した領域は自分達の裁量で好きにさせろであり、
この要求がより先鋭化して独立まで踏み込んで消されたのが平将門。
それより穏便に自治と徴税を認めろと朝廷と交渉出来たのが源氏将軍を擁する鎌倉幕府。
最後は承久の乱にて実力で要求を呑ませて君主を流罪にして傀儡君主を据えた。
結局武力なのか
武士って、清和源氏、桓武平氏が源流だからじゃないのかな。
でも天皇の血流れてない北条泰時も御成敗式目作った時天皇(公家)に忖度してたよ
土地に人は住んでないかのような、ずいぶん上から目線の歴史観ですね。
八幡神が応神天皇だったからでは?
剛腕狼藉者が取った領地で好き勝手出来るお墨付を出させる為😮
祟られるから
秀吉の理由は結局分からないままなのね
なぜ武士が天皇を否定できないか。
武士は天皇により命ぜられる職であることから、天皇を否定すると、自らの存在を否定することになるからだと考えます。
道長は関白にはなってないよ!
御堂関白にはなったんだよね
御堂関白にはなったんだよね!入試のひっかけ問題