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なぜ見つからないのか?そりゃ、中世の城づくりか、現代のゴルフ場の造成とかで遺跡がつぶされてしまったんだろ
邪馬台国はここだ‼と先に決めて、書き写した時に方位が間違っているとか、距離が間違っている、距離も方位も間違っているとか決めた所に行着くルートを都合の良いように考えるからずっと見つからないのでしょうね。
一番ややこしくさせているのは、皇族の陵墓が発掘調査できないことかな。
記紀で誤魔化したのに、発掘で明らかにされたら困るから絶対ダメ!縄文人4+朝鮮系4+南アジア系渡来人1+アイヌ1=蝦夷、出雲蝦夷1+隼人2+熊襲2+中国大陸系5=大和鉄器を大量に製造、農業土木に秀でた大陸系民族が空白の4世紀にあっという間に九州、畿内を制圧。
ある人曰く。天皇陵を発掘すると不都合な 葬祭事例が発掘される可能性が高い事を危ぶみ発掘を禁じたと
箸墓古墳を掘ればどちらかに決定するでしょう。
はっきりさせてしまうと都合が悪い人たちがいるのかもしれない
このタイトルもおかしい。なぜ歴史から消えてしまったのか?こんなタイトルをつけること自体間違っている。倭人伝に書かれた距離がどれぐらいの距離なのかをはっきりせずにあるいは三国時代以後一里が約400mであったのでこれを用いることで、好き勝手な説が出る結果となっている。末蘆国から陸行2千余里、これはいいですか?これを確認しないと先に進めない。
タイトルに惹かれて参りましたが、誠に残念ながら今までに出回っている事実を列挙しただけでしたね! タイトルの「なぜ...」に対する解答がございませんでした。ご自身は『邪馬台国』の所在地はどの辺りにあったのか?そして、その論拠をご披瀝頂けると幸いです。
なるほど。
当時の里は周里で別名短里ともよばれています。1里68mにしか過ぎません、よって関羽将軍の乗った赤兎馬は1000里の駒と呼ばれていますが、68Kmしか走らない馬だったのですね~。時代的にも卑弥呼より少し前ですから度量衡も同じだったはずです。帯方郡からなら800数十キロくらいでしょうか、福岡県田川郡香春あたりでピタリと当てはまります。ちなみにヤマタイでは有りません。ヤマトゥと倭人は発音していました。文字にしても 倭・山門・夜麻登などいくつもありましたが、皆ヤマトゥという発音です。台・臺はトまたはトゥです、それ以外の読み方は大陸の史書にも有りません。で、末羅国が宗像大社の少し上流宗像高女跡、伊都国が宮若市、奴国が飯塚、不彌国が田川市、邪馬台国が香春町です。何しろ神武さんの宮が香春一の岳麓東南鶴岡八幡宮に在ったのですから。神武さんが亡くなって欠史八代の間争いが続いて卑弥呼共立です。魏志倭人伝では卑弥呼と書かれていますが、倭人は比売許(ヒメコ)と呼んでいたようです。
何故見つからないのか?魏の属国になって自分が女王である事を認めさせた豊国宇佐の卑弥呼を隠さなければならないからです。改竄では無く日本が好きだから苦労して解らなくしたと思います。
天照大神が卑弥呼だからだよ!邪馬台国は無いからいくら探しても出て来ないはずだわ~
無理くり前方後円墳から卑弥呼の墓探してるからじゃないですかねえ。大先生達はどしてもただの円墳では不都合なの?と思えるほど、前方後円墳をひたすら押しまくってますけど。
大規模集落に卑弥呼が居たと考えているのが見当違いだと思います。なぜなら、多くの人々が出入りするような大集落は安全ではないと思います。吉野ヶ里遺跡でも多数の鉄鏃が環濠から出土しているので、敵のものだと分かります。二世紀末から三世紀初頭の卑弥呼が登場するまでの鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べましたが、倭国大乱の主戦場は佐賀平野、筑紫平野、福岡平野などです。よろしければ「刮目天の古代史 【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください。これによって当時の倭国の範囲や邪馬台国の場所も判明しました。卑弥呼は山間部の要害堅固な山城に住んでいました。そこに直径150mの日本最大の円墳「三柱山古墳」を発見しました(^_-)-☆古墳マップでご参照ください!kofun.info/kofun/6769
それはどうしても畿内にあったとしたいからですね。無理くりです。畿内説では魏志倭人伝の内容に合致するものは邪馬台国という名称だけ。
@@KeCN その邪馬台国でさえ無理やり改変した名です
耶馬溪から 推測して 九州に有るのでは?
魏志倭人伝が、いい加減な伝聞のまとめだから。
ヤマト国(倭国)の日巫女(ヒミコ)いろんな解釈ができる。
福岡県の筑後地域が有力ですね。
唐津東南500里の伊都国は佐賀大和町川上、その東南100里の奴国は佐賀市街地、伊都国の東100里不彌国は吉野ヶ里。記紀なんぞにこだわるより、グーグルで見れば、佐賀平野に「倭人伝の大トライアングル」が見える。
日本の歴史書の中から卑弥呼と言う文字や言葉の伝承が無いので難しい問題に成っています。卑弥呼=日の巫女=天照大神と成るのではと言う事を耳にしました。そこから考えてみ、古来天皇家の神事は宇佐神宮で行っていて、最も神聖な所でした。今の熱田神宮や伊勢神宮見たいな感じだったようです。その宇佐神宮は古墳の上に有り、発掘で2個の石室が有った後は解っていてます。卑弥呼の死んだ時に日が陰り夜の様に成ったと伝承されているのですが、同じ時期に天の岩戸の話しが有ります。そんな伝承から考えると九州なのかも知れないと思います。
九州はないかな。アワ説を支えるのは水銀採掘遺跡に式内社の存在と内容。あと魏志倭人伝に示される距離と方角の整合性。九州説と畿内説はこの距離と方角がデタラメなんよ。
先日、ヤマタノオロチ氏より邪馬台国は福井県とのあらたな学説が発表されて驚きました。魏志倭人伝に記載された内容とは方角や地名などの点で解釈の仕方にやや疑問点はありましたが九州から海路を出雲へ向かいそこから若狭へ向かい敦賀に至ると言う航路です。特筆すべきは行き帰りの季節による海流や季節風等を考慮し若狭から敦賀は海路を敦賀から若狭へは陸路を選択したことです。他にも越前では農業が確立され当時には約五十万もの人が暮らせるだけの収穫があり、それは地形や河川の状況から容易に推測されるとの言、また初期の古墳が発掘されその技術が滋賀を経て近畿地方へ流れて前方後円墳へと進化したのではとの内容でした。福井に卑弥呼がいたとされる様々な遺跡が発掘されており、福井市内にある円山が卑弥呼の墓ではないかとの事でした。魏志倭人伝に記載された僅かな記述のみをいくら深堀りしても解釈の仕方にそれぞれの推理が混ざり曲解したり、書類が何度も書き換えられた過程で記載ミスや当時の権力者や実力者等の思惑などから真実を見出すのは無理だとの考えに至ります。もっと単純に当時を旅した際の舟の精度・能力・旅をした季節・時期・魏志倭人伝に記載されており何十万人もの人が住んでいたとされる場所・目的地等を考慮して邪馬台国が何処にあったかと言う史実を紐解くのも有りかなと考えます!
失礼します。〇〇余里は、〇〇アマリ と読むのですか?ヨリ ではないのですか?日本語の母語話者として、違和感を覚えまして...😅
「女王」の読みも耳障りでした。ジョウオウ ではなくて、ジョオウ ではないのですか?僕が 旧弊な日本男児だから ですかね😢
創作系のスッキリや怪談や与太話系は誤字脱字読みのミスはあまり気になりませんが、こういう学術的な動画は表記や読みはキッチリ調べてチェックしてアップしてほしい。それは内容の信頼度に直結します。軍事系の動画には本当にウンザリするくらい誤表記や誤った読み上げが多く内容が入ってきません。ま、どうせ同じ様な内容(しかも古い)を何度もアップしていて中身大した事ないんですけど。
@@okurokogunそれについてはひとつの仮説がありまして、まず王のオの字は本来ワ行のヲだろうということ(歴史的仮名遣いで振り仮名を振るとワウになる)。このヲの発音が女王に残って(これがア行のオになるとジョーウになってしまうので)ジョウォウ、そのウォが段々2音節に発音されるようになってジョウオウ、と。あくまで私見ですが。
卑弥呼がいたという記述は魏志倭人伝でしか確認できないと聞きました。そもそも魏志倭人伝という先入観が、日本の古代の歴史を紐解くのに邪魔をしている様に感じます。魏志倭人伝に記載されている内容も「昔々あったとさ」レベルの内容でおとぎ話でしかないですし昔からの悪手で「文明は大陸からきた」っていう誤った解析を続けてることもそうですし例えば漆塗りの技術は、日本→中国であると遺物が証明してるんですよね
そもそも魏志倭人伝の記述が史実に沿ったものなのか。有りもしない場所を探し恥を垂れ流しているだけではないのか!
そうです。
姫巫女の時代は、山門に筑後と肥後の゙境界は無く魏志倭人伝の七万戸は、この広い地域にしか存在しえないー!
邪馬台国が、倭国で一番大きい国だったか誰もわからない。三国志の時代邪馬台国は魏と交流があり、大和政権の前身は呉と交易していたとするとどうなる?滅んだ呉の歴史書は焼かれ、邪馬台国よりも大きな政権が倭国にあったとはどこにも記述が残らない。つまり邪馬台国は吉野ケ里にあったとして街構いないが、その国が倭国で一番の大国ではなかったと考えるのが妥当ではないか。勝ち残った魏には倭国=邪馬台国であって、宿敵呉の交易相手である大和政権は書かれていないけど、邪馬台国以上の規模として存在していた。そんなところでしょうね♬♬♬
東征に伴い、拠点が移動していった。制圧とは戦争で勝利しただけで従属はしませんよ!阿波が最初に制圧した場所、ここから畿内を狙って制圧していくのは理にかなう東征だからです!阿波は銅鐸文化圏の畿内と銅矛鉄剣文化圏の境目です!銅矛鉄剣文化圏のほうが制圧者側。古事記に有るとおりヤマトは矛を刺して武力制圧で阿波から始まった。阿波に、攻め入ったのは鉄剣文化圏の中心の九州が妥当ですよ!耕地面積が国力、国力は人口、人口が多ければ武力も大きい。武力を支える鉄製武器。
阿波は、ユダヤの民が渡り着いた土地と考えています。
ユダヤ人を否定はしません。山伏の衣装がユダヤと同じと言われてますから。ただ古事記の国生みとは矛を刺し、次に近くの島々をとなっています!古伝を話すなら古事記も又歴史の一部でしょう!ユダヤの人が追われて葛城山や三輪山へと場所を変えて行った!最後は三輪山のオオモノヌシの国譲りで終結。折り返して磐井の乱で本家を殲滅かと。
ユダヤは荒唐無稽
徳島県なんてありえないですね。
そもそも国家の名前として「やま・たい」などという、湯桶読みっぽい音訓混在の日本語など存在しえない。
そもそも自国名に「邪」とか君主の名前に「卑」とか付けるでしょうか?恐らく大陸目線の創作と考えるのが筋だと思います。
魏志倭人伝にその山に丹ありと記されてる。丹とは水銀朱のこと。当時日本で唯一の鉱山は徳島にあります。
邪馬台国が、元々ない国名なのかもしれませんが、卑弥呼というシャーマンの神託を尊重する連合国家だった可能性です。その神託を授かる場所が、女王の国として記録されたと考えられる。その連合国家の長として、神武天皇の子孫が収まったと考えることができる。神託を受けていた場所に1番近い場所か卑弥呼の墓所に宇佐神宮を建立して、壹与を後継者にすえたのかもしれない。
箸墓古墳が同時代だからと決り文句だが魏志倭人伝、魏使の張政の見聞記だろうが直径百歩余りだと円墳。近畿説は森を見て木を見ずで俯瞰的に親魏大月氏王の同格の親魏倭王の金印だから大月氏国クシャーナ朝~アフガニスタンパキスタン北インドを領有に対して少なくとも大和朝が西日本を領有していなければならないという伏線もある。魏志倭人伝著者の陳寿も邪馬台国は総論大国、各論部族連合のバランス上、九州から距離がいい加減だったことから洛陽に遠くから朝貢したからとサバを読み邪馬台国を過大評価した埋め合わせにしたんよ。
俺は邪馬台国や卑弥呼自体存在しなかったのではないか、と考えてる(勝手に思ってるだけで確証、証拠はないけど😅)昔の中国は、周りの国から貢ぎ物を持った使者がたくさん来ている、ということをアピールするために大袈裟に書いたのではないか🤔まぁ、実際にたくさん来ていたろうが、要は話を盛ったのではないかな、という考えだ。だから方角や距離は適当になった(当時は確かめようもないし)で、噂には聞いていたヤマトという名前を、邪な国を卑しい女王が治めている、と表記したんじゃないかな🤔実際に女王がいたのかもしれない🤔なので当時の中国が聞きかじった日本のヤマト王朝を(バレないと思って)歴史書に記述した、が正解な気がする🤔もう一度言うが、これは俺の完全なる予想?創作?なので悪しからず😅
奈良にしておけば都合がいいからね。
中国が邪馬台国と記述する場合、邪馬台というのは存在しない。ここがわかってないから答えが出ない。
やっぱり海の底にある訳か😖
邪馬台国なんて、そもそもなかったりして。
口伝を調べれば詳しくわかります。「ヤマタイコク」といった時点で少し前の研究者。「ヤマトコク」と読みます。色々な説はあまり信じない方が良いです。現場の顕彰をしておりませんから。
たまたま記録に出てきた卑弥呼。 ほかの時代にも似たようなのがいたけど、記録にない。 そん中に巨魁がいたんかもよ?!
邪馬台国と卑弥呼・・・出雲ヤマト王家と姫巫女、魏志倭人伝の頃なら出雲ヤマト王家の富家から祭司王として選ばれた百襲姫かな・・・だとしたら、6世紀頃の古事記、日本書紀編纂者にとって不都合、不都合な真実として消去かな・・・
邪馬台国の位置は当時の政治政策的状況で南の方にすることが呉国を取り囲もうとするために、南と表現したものであり、本当は東の方角と取り違えて南の方と東北の方角と取り違えて、表現したものであると思われます。
隋書倭国伝に「遣隋使を送ってきたのは魏志倭人伝に書かれているヤマトゥ国」と書かれているのを信じれば済む話です。変な読み方をして別の国だというから見つからないんです。
結局、論争の焦点は京大と東大の権力闘争なんじゃないのかと思えてくる
倭人の女王だから魏は知ってるが日本書紀に出てこないし取り込まれたのは水稲栽培で人口増加になってからじゃないかな。稲の女神さん。倭人のご先祖さん青銅得意だったなー
邪馬台国は存在しなかったという説が何故ないのかが昔からの疑問でした。当時の中国人は日本人を蔑視していましたから適当にそれらしく書き残したと考えられます。
邪馬台国という名前の国はまあないでしょうね。普通に解釈すればヤマト
実に簡単です。邪馬台国は、邪馬台(ヤマト)国です。奈良県橿原市にあった大和朝廷の古代中国表記が邪馬台です。大和朝廷は後の藤原京につながります。 魏志倭人伝が書かれた時代と大和朝廷はぴったり一致します。 ヤマト(神武天皇)が生まれ、住んでいたのは、宮崎市。 日本の歴史書である古事記、日本書紀に書かれたヤマトの祖先である皇祖天照大神が生まれたのも宮崎市と記紀に書かれている。 皇祖天照大神の6代目の子孫がヤマト(神武天皇)。皇祖天照大神からヤマトまでの歴史があるのが宮崎市。 宮崎市のある宮崎平野には古墳が1000基以上現存。 最近は、日本最大の縄文遺跡が相次いで発掘され、巨大な神殿跡も見つかっています。日本最大の古代遺跡都市。 ヤマト(神武天皇)は、東征のために住まいの宮崎市下北方町を出発、宮崎県日向市美々津から船出、大分、福岡、山口、広島、岡山、大阪、和歌山、三重、奈良県橿原市に着き、大和朝廷を開きました。 ヤマト(神武天皇)が生きていたのは西暦100年代。中国で邪馬台国が表記されたのは、それから約150年後。 邪馬台(ヤマト)国の源流地は宮崎市。大和朝廷が国家として花開いたのは奈良県橿原市。ヤマトは移動したのです。 魏志倭人伝が書かれた頃、日向(ひむか)の中心は、宮崎市からその北の西都市、日本最大の古墳群、西都原古墳群がある「投馬(つま)国」に移動。投馬が最盛期を迎えたのは古墳時代中期です。 太陽の国「日向(ひむか)=宮崎」を皇祖天照大神の旗印にしたのが日の丸、旭日。この旗印を使ったのがヤマト(神武天皇)です。 ちなみに皇祖天照大神スサノオ、住吉様らの生誕地は宮崎市北部のシーガイア(43階建ての高級リゾートホテルのシェラトン)そば。皇祖天照大神の父イザナギの生活地、江田神社があります。昔は神階正一位。日本最高の地位が与えられていました。 その西、約4キロの宮崎市南方町に皇祖天照大神の孫に当たる天孫降臨の人物、天孫ニニギノミコトの御陵墓の奈古神社。記紀に書かれた可愛(えの)岳があります。 その南約2キロがヤマト(神武天皇)の生活地。宮崎市は巨大な古代遺跡地帯です。
当時には日本に記録した書物が無いから😖💦。
ィヤマトゥ、ピーミークゥ
ヤマタイコクと読むから見つからない。ヤマトと読めば、いの一番の伊国=阿波国=倭と読めれば、徳島県美馬市地域及び、山都(山の部分が高天原ソラ地域)阿波の海岸部(おもに阿南市地域の海岸部を伊面津イモツ⇒イズモ)、要はヤマト連合(高天原と伊面津)阿波であった。当然、阿波に水銀朱(丹辰砂の産地が阿波徳島であった。)美馬市地域に「倭大國魂神社」があり、淡路島には、大和大国魂神社、そして、木の国が、木の伊の国⇒紀伊の国の紀ノ川から吉野川をなって、奈良盆地へ阿波の倭が、大和座国魂神社へと発達発展しただけの事。阿波の伊国からヤマト國がはじまった。当然、初代天皇も阿波出身、とくに、山の部分美馬市の三木平のアラタエが証明している。
邪馬台を、「ヤマタイ」ではなく、「ヤマト」と正しく読めば、ほとんどすべての疑問が解消する。
消えてないよ、 邪馬台国は遠賀川流域の北九州にあった。 宇佐神宮に痕跡あり
阿蘇山のあるところと書いてあるのでは?
邪馬台国が見つからないのは合衆国の名前だからでは無いかと思う。大陸からの侵攻を恐れて当時の北九州は最も大陸に近いので少しでも大きな国に見せたかった。当時の日本は北九州に小国が三十数カ国あり、その連合体を邪馬台国(ヤマト)と呼んでいた。記紀には卑弥呼は出て来ませんが卑弥呼=天照大神だと考えています。神武東征と出雲の国譲りは同時期と思います。神武東征後西日本全域を手に入れたヤマト連合は首都を奈良県大和地方に移したのが纏向と考えています。
魏志倭人伝と古事記、日本書紀と合わせて調べると私もその意見に辿り着きました。吉野ヶ里遺跡周辺の地名と纏向遺跡周辺の地名が被っています。中国でも遷都した際に国だけでなくその周辺の地名も一緒に移動するとのこと。ほぼ同じ位置にこれらも地名が移動してますよ。
魏志倭人伝を素直に読めば邪馬台国は阿波です。阿波説を支えるのは水銀採掘遺跡に式内社の存在と内容。あと決定的なのは魏志倭人伝に示される距離と方角の整合性。九州説と畿内説はこの距離と方角がデタラメなのです。
そもそも俗に言う魏志倭人伝には邪馬壹国のことが書いてあるだけで邪馬台国とかどこにも書いてないからね書いてない国を書いてあるといいながら書物に嘘が書いてあると言いながら探すというなんとも間抜けな話です
さらにいうと名前が似ているというだけで同じだと思うとかいう論理にもなんにもなってない話をくっつけているだけのどう仕様もない話畿内説はすべてが無理で成立しない話 九州説は投馬国と邪馬台国が無理になる畿内説がどう考えても無理な話をなんとか古代史アイドル卑弥呼を奈良に持ってきたいと邪馬台国邪馬台国と連呼するここが混乱の元凶です まずは畿内説という洗脳悪を完全に抜くことから
魏志東夷伝倭人の条をキチッと読むことが出来れば、邪馬台国の所在地は、それ程難しくありません。一つだけ例を挙げれば、陳寿は、文中の何処にも、帯方郡から邪馬台国までの距離など書いていません。帯方郡から女王国までの距離を記しています。何故陳寿は、この女王国と言う地名をすぐ前の文で、邪馬台国に到る、と記しているのにあえて邪馬台国では無く、女王国としたのでしょうか。これを合理的に解釈しようとすれば、邪馬台国は女王国の中に含まれている、とするか、邪馬台国と女王国は全く別のものである、のどちらかと理解するよりありません。ただ、邪馬台国と女王国を全く別のものとしてしまうと、魏志東夷伝のこの箇所の文の意味自体が、非常に不自然なものとなってしまいます。従って、消去法でいけば、前者の意味が合理的な解釈となるはずです。その方が自然に、しっくり読めるはずです。邪馬台国に到るの文と、女王国に到る萬二千余里の、この二文の関係は、所在地の確認に対して非常に重要な意味を含んでいると、考えられます。又、邪馬台国と、女王国は、同一のものだとするのは、自分の中では、全く成立しません。もちろん、充分な根拠を挙げる事はできますが、ここでは長くなるので、省略します。
そういう魏志倭人伝の解釈の議論を二・三百年重ねても邪馬台国にたどり着けてはいない事実を考えると、今までとは別の視点でこの問題を見つめる必要があると思います。上で述べた、<思い込み その1>に気づく必要があると思いますよ。
別に、思い込んでいるとは思っていません。ただ単に国語力の問題だと考えています。話が長くなり過ぎるので、ここでは、あまり詳しくは書きませんが、まとめて一言で言うなら、要するに、国語力の問題だと考えています。
倭国、女王国、邪馬台国。これらを混同してしまっている方が非常に多いですね。私の現在の解釈では、倭国=九州、四国、本州の概ね南関東辺りまで。(女王国に服さない狗奴国も倭国の範疇に含む)、女王国=当時の倭国内の大部分を纏めていた連合的国家邪馬台国=女王国の王都が置かれた地域の国名と理解します。また、よく邪馬台国四国説の方等が「山に丹あり」の記述を根拠としますが、これは倭国の様子を記したもので、邪馬台国の様子を記した記述では無いですからね。
女王国の都が邪馬台国になり卑弥呼のいるところです。
その通りだと考えています。要するに、日本国の首都の東京都(邪馬台国)に、日本国の総理大臣(女王)が都して、日本(倭国)全体の政治を行っていたと全く同じ事と考えています。
邪馬台国と倭という名称にそのほとんどが含まれています。倭、これは中国から見た歴史から東の海の方に小人(身長120センチから150センチ)が住んでいたことによる俗称をもじったものでヤマトを指すものではありません。また奈良県の大和朝廷の倭とする説もこれにより、天皇家の出とするには大変、天皇家を愚弄するものです。邪馬台国は縄文時代の末期紀元300年頃までに反映し、渡来人が戦争と云う悪文化を当時中国・韓国から持ち込み平和な日本に暗い歴史を持ち込んだため九州に騒乱が勃発したことで、卑弥呼の登場となったわけです。男の王が乱立し話し合いで女性の巫女を立て騒乱を収めたというのは、邪馬台国、那国(今の福岡県)等の北九州の騒乱を卑弥呼を上に置くことで収まったということではないかと思います。しかし邪馬台国の隣国に狗奴国がありました。おそらく熊襲です。熊襲は渡来人から鉄器による武器を手に入れ、戦う手法を大きく変化させ圧倒的な戦略により邪馬台国を窮地に貶めました。卑弥呼は亡くなり、そのあとを継いだ弟も、弟の後を継いだトヨも熊襲に敗れ滅亡したと考えられます。これは古事記や日本書紀にも書かれている、熊襲征伐も記載されており正しい史実でしょう。弥生時代と云うのは、太平洋戦争敗北以降、当時のGHQが日本人弱体教育のために、無理やり作ったものであり自虐化教育が目的としていました。本来は世界でも類をみない縄文文化の破壊を日本から抹殺するためでしょうね。大和朝廷の始祖は九州日向の神武天皇からと古書に書いてあります。これは遠い、中国の史書よりも真実味が高いのに近畿説を唱える、考古学者たちには史実を認めないのですし、あきれたものです。
倭人伝より古い文献に倭国の帥升は顔にも入れ墨があるから倭面土王と言う。とあるから倭とは入れ墨の事でしょう!
解明するには、ドラえもんのタイムマシーンが必要だわ。
太宰府羅城の築造年の鑑定でA.D.240年のモノもあるが、、、その年代が、確定なら、実質、九州説以外は終焉すると思う。(私は九州説という訳では無いが)なぜなら、九州北部以外の勢力が邪馬台国時代に、筑紫コリドーに日本列島の古代史に他に類を見ない規模の大要塞を造る、合理的な理由が全く無いからだ。そのような日本古代史に類を見ない規模の大要塞の建造は、リソースの面でも、九州北部以外の勢力が行うのも無理が有ると思う。A.D.240年位なら、邪馬台国連合と狗奴国の戦争の時代でもあり、戦闘の最前線からある程度離れ、たぶん敵の攻勢限界点近くであり、監視するには最適な基山があり、筑紫コリドー自体が要害の地でもあるから、対狗奴國の、邪馬台国連合の台与や首脳部の大本営、あるいは詰めの城の巨大な大要塞の設置エリアとして理想的であるし、そうであったと、考えるほうが自然だと思う。そして、羅城の壁は版築工法で築造されており、支那世界では、その当時すでに防衛ラインの為の極めてスタンダードな軍事建造物であり、普遍的なモノになっていた。また、それは年代的にも、倭では版築での大要塞を建造する経験もノウハウも乏しいというか、ほぼ無いだろうから、魏国のからの使者であり、卑弥呼から狗奴国との戦闘が本格化したとの報に接し、倭に派遣された張政ら軍事顧問団が関わっている可能性は高いだろう。そして、それは、邪馬台国への行程が不弥国まで里数で記述されている事とも、合致する。詰まり、魏国の使者は不弥國まで来た。そして不弥國の勢力圏か、その近辺に太宰府羅城のエリアがあり、魏の使者のミッションのレッドラインである、同盟国並びに、その最高為政者(祭祀王)を防衛するという事を考えた時、太宰府羅城の領域は、魏の使者の、当面の位置的な目的地に適うと考えるものです。
大和国(奈良)もしくは、日本を指すのかもね。
日本各地に、女性のシャーマンが居たのでは?
隋書倭国伝「夷人不知里數、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」私の超新説では、南北1日差は南北1海里差(南北1.85km差)です。天体の南北1分差が地球の南北1分差となることに由来します。南十日とは緯度が10分南ということです。2地点の軽度差を天体観測で求める場合現在では正確な時計を使います。古代では月蝕時の背景の星座の赤経度方向のずれを観測します。その国(倭国)の境は、東西は経度5×30分、南北は緯度3×30分、でそれぞれ海に至ります。このように表現される領域といえば、北は福岡(関門海峡)、南は佐賀(八代海)、東は大分(豊後水道)、西は佐世保(平戸瀬戸)の北中部九州です。緯度は32.5〜34度、経度は129.5〜132度の領域です。魏志倭人伝の水行十日を緯度10分で読み、南北千里を緯度30分で読むと、邪馬台国の緯度はおよそ32.5度です。
当時の先進地域、北部九州からほど遠からぬところと思います。
邪馬台国をヤマタイと読むのは文字が伝わった後世の日本式の読み方で、卑弥呼の使者が我が国はヤマトと言うといった言葉を中国の史書が中国の似た発音をあてはめ邪馬台国と書いたとみれば連綿と続いている。
そもそも見つからないのは、唐津・末盧国から東南へ行くべきを、ネジ曲げて北東の糸島(伊覩国、イト国)へ進んだこと。それは仲哀記の五十・伊蘇・怡土・伊覩に惹かれてか、糸島・箱崎・博多方面が気になったからだろね。99.9%以上の学者論者がそうだ。しかし今、唐津の小中学生でも東南500里は佐賀市方面と即答する。郡使も、郡製の絵地図を携帯しており、それには長の往来経験から得られた東西南北・道中目印・宿営地等が書き込まれていたはず。かくして郡使は、佐賀川上の伊都国(イツ国)へ正しく到ったのである。
言い古されてはいますが、伊万里のまりが古朝鮮語の頭という意味があり、伊都国の領域だったはず。そして南に水行する起点は牛津だったという説があります。(3世紀当時は海に面していた) 牛津も伊都(いつ)→五津(いつ)→五津(ごづ)→牛津(ごづ)→牛津(うしつ)という音韻の転訛だったと思われます。
丹絡み、水銀鉱脈が伊万里側にありますからね。現糸島市は楽浪式土器、平原等の遺跡基準で曲げたのでしょう。距離も方角も違いますね。或いはシケで近郊の港に泊まる、陸路へ。一時的なもんかもしれません。
うp主が何を以って有力と言うのか知らないが、畿内説だけは無い。
距離について考えてみました。陸続きなら歩測で距離が測れるが、海峡を跨ぐ長距離は天文観測以外に考えられない。一寸千里法があるが、南北の距離はある程度測れるが、東西距離は全く測れない、ポンコツ距離測量計である。しかも、実里とは5、6倍も異なるイイ加減な測量方法であるある。しかし、これを敢えて使ったとすると辻褄が合う。 沙里院と狗邪韓国の陰長差は5.6寸(南北5600里)なので、ピタゴ定理に従い5/4倍すると7000里、同じく沙里院と川内や宮崎の緯度での陰長は9.6寸(9600里)、5/4倍すると12000里。女王国(九州本島)がどのくらい南に伸びているかを調べたと思われる。 陰長はスマホ電卓で計算できる。80×tan(緯度-23.44)洛陽の緯度34.75°の場合16寸となるはず、2箇所の陰長さが南北距離となる、1寸を1000里としている。230803
帯方郡から半径12000里上(一里約76m)には徳島県も入りますね。更に東の海を1000里ほど渡った所に土地(和歌山)があり、丹(辰砂)を産出していた山(若杉山)もあります。魏志倭人伝中での距離を直線距離と考えているなら、距離以外にも様々な邪馬台国の条件が当てはまる徳島県が最有力じゃないでしょうか?
@@elelsse 様 返信感謝です。魏の時代の機材で、見通しの無い、点と点の距離を測ることはできなかったはずです。もし可能としたら、その方法を知りたいものです。つまり、郡と女王国の方向は分からないまま、距離だけを測ったということです。 一寸千里法は一寸の陰長を千里とした、実里と関係なく決めたイイ加減な単位なのですが、それを承知で南北距離7600里に、5/4倍して東南12000里を算出したと思われます。また、76mなど短里と言うものは認識なかったはずです、歩測(曲路)と鳥道(直路)の比較検証は行ったようですが、結論は出ていないようです。 陰長はスマホ電卓で 80xtan(緯度-23.44°) で概ね計算できます。洛陽の緯度34.75度で16寸になるはずです。2箇所の陰長差から、南北の距離が算出できます。
@@wajin5695 古代中国には「渾天儀」という物があり、それによって天体の位置を観測する事で、2点間の距離と方位を計算で算出できたそうです。
@@elelsse様 渾天儀を使ってどういう計算をすれば距離が解るのでしょうか、しかも里という単位で。具体的な計算方法を知りたいところです。東西の距離は簡単には測れないのです。 渾天儀は天体シミレーションなので、月食日などの未来予想は可能ですが、地表の距離計算は無理じゃ無いでしょうか。他に天体地図を使う方法がありますが、あまりにも計算が複雑すぎたため、1回だけの実例に終わったようです。なお、現在の人工衛星は、計算が速いので天体地図を使っています。 無線通信や精密時計が無い時代です、同一時間での星の位置を知る手段は無いでしょう。もしあるとすれば、月食の初めと終わりを使う方法があります。しかし天候や発生頻度が少ない上に、短い時間で複雑な作業を行う必要がありまう。伊能先生もチャレンジされたようですが、低評価だったようです。
@@wajin5695 色々とお詳しいようですね。私自身は天文学者でも中国史の専門家でもないので詳しい事は説明しかねますが、専門家が出て説明してくれているyoutube番組があります。ですが、どういう訳かそこへのリンクを貼ったりタイトル名を書くとコメントが消されてしまいます。どうすべきでしょうか。
分かりやすくまとまっており楽しく拝見させて貰いました。1年前の動画としては、やや研究不足かなーと感じたのでコメントさせて頂きます。2024/07に 邪馬臺国=吉野ケ里が確定。国宝『翰苑』とその注として引用されている『廣志(広志)』から判明(私の動画で判ります)。女王国の西南海行1日の伊邪分(イヤハ)国が諫早なので女王国が脊振山地を介して伊都国の南に接する邪・馬臺である確証も得られた。 邪馬臺国の記載は魏志倭人伝だけではなく、上記2書の他、後漢書にも有ります。女王国の東南(東)、海を千里渡った所が狗奴国(玉名)です。本動画でそれらの書物に言及がないので、前述の「やや研究不足かなー」と思った次第です。本chは中世が主要のようですが、再度邪馬臺国に関する動画を投稿なさることがあるならば、私の動画を参考にしていただければ幸いです。
土建屋が金儲けのためにぶっ潰したんじゃねーの!?正直に申告したら金にならんらしいからな
私もそう思う法整備以前の突貫工事などしてる時に、邪魔な遺跡だと見て見ぬふりで都市部の地下に埋められてしまってると思う
なぜ水銀朱に触れないのかな?肝心ですよ調べれば分かります。
邪馬台国、卑弥呼。どちらも邪(よこしま)卑(いやしい)といい意味で使われない言葉が入っているのは何故だろう?普通に考えてTOPに立つものに卑しいなんて字を当てるかね?
存在しなかった国だからです。
で、ドコ?きちんと判明してからUpしてね😏いまさら想像はいらないから😊
見つからないのではなくて秘密にしてるだけでしょ自分は天皇制には賛成ですがアカデミックな事は分けるべきだと思ってます
こんにちは(^-^*)/😮
大和王権のプロトタイプ
邪馬台国=ヤマト国で瀬戸内海を中心とする海洋国家が邪馬台国=ヤマト国だという説が妥当だと思うつまり九州説も畿内説も当たらずとも遠からずで両方ともある意味正解だという事
大和地方(奈良県)では『東方に一海を渡るまた倭人在り』が成立しない。奈良県の東方は山である。
倭人伝とは❓背が低く、入れ墨をしていた。ならば北の蝦夷か、南の熊襲か沖縄か❓畿内説は考えられない。
遺跡として残らないように破壊したのかな
物流拠点でしょうね。流れるだけですから痕跡が残り難いとか?
最初の起源は徳島県で起こり、その後直ぐに畿内に移籍した。これが一番の正解です。これで全てが丸く納まります。
徳島と邪馬台国は別種也
私が隠して居ます
あちらでは卑弥呼と言っていただけで、当時の日本では何と言われていたかは分からん。
なかなかいい線じゃないの、ま、卑弥呼も倭国大乱後の初代傀儡だったとは思うが・・、
日本書紀で藤原の孫が「もしかして北東の糸島・箱崎・博多辺りじゃないかな~」とつぶやいたからね、江戸の学者、明治の大学教授以下、ぞろぞろとそっちへ流れたんだよ、東南500里の佐賀平野を探せばすぐ見つかる・・。 格言: 人の行く 裏に道あり 花の山 千利休
熊本なら、句国とか、熊みたいな動物の漢字がつくはず。
銅鏡に関しては魏からもらった邪馬台国かあるいはその後継国が後に近畿に本拠を移したと考える方がすっきりしてると思います。
卑弥呼という当て字 卑しいと言う漢字を当てた魏志倭人伝がそもそも適当ではあるが邪馬台国もヤマト国だろうし水行陸行も方位が90度異なる当時は北を西としていたので水行で日本海なら敦賀のあたり関門海峡から瀬戸内海を通れば大阪に上がりそこから陸行でちょうど奈良県大和に至るもちろん吉野ヶ里遺跡や糸島市の遺跡も伊都国や宰府などの有力な地方都市国家として大陸との玄関口として繁栄していたのだろう専門性から狭窄してる視野を持つ歴史家はかなり怪しいが一般人のほうが正解にたどり着いている人がいる
魏志倭人伝存在してないってかなり爆弾発言だな😂
はあ〜、コメ欄オモロ(関係ない地域の人
やはり ヤマト国 と呼ぶからだったりして
卑弥呼はヒミコと読まないだろ。古代中国でそんな発音はしてない。実在したとすれば地理的に九州北部しか考えられない。出土とか関係なく地理的に絶対に九州。
中国語だと卑弥呼は「ベイミーホー」って発音ですね。ヒミコにはなりませんね
2世紀の上古魏音ですと「フィミク」に近い音になるみたいです。ちなみに邪馬台は「ジャムディ」みたいな音だとか。
音にそれほどこだわる理由はないと思います。漢字の意味が重要で略字された場合に源字が何か考えるのも重要だと思います。
意図的に方位距離が改ざんされています
面白い事に改ざんしてるのは阿波説阿波に邪馬台国はありません。だけどなにかしらの勢力があったのは理解できます
魏志倭人伝どこまで信用できるのか?
偽師話人伝
それそれ。アレ自体が少しおかしいねんな。
倭国は九州王朝のことで日本とは別の国。だから日本書紀には卑弥呼の記載がない。邪馬台国は倭国の連合国家の名称だから邪馬台国は見つからない。卑弥呼がいたのは伊都国。
徳之島に有りますよ、日本の宝
阿蘇山噴火で消えたんやろな
もともと なかったんじゃないの!
『邪馬台国が見つからない理由』いやいや「邪馬台国は北部九州」で確定ですよ。「そうじゃ無い」と言われたら、そりゃ見つからない?でしょ。大笑
関西の方にも楽しんでいただく為にも、九州?大和?って仲良く綱引きを続けましょう!
私は奈良県人で奈良愛は半端ないですが、大和の国に卑弥呼がいて邪馬台国があったという畿内説は無理があり、九州説のほうがはるかに納得性が高いと思っています。
阿波には弥生時代の大規模集落遺跡がどれだけあんのかね
矢野遺跡 隣接に庄遺跡、鮎喰遺跡等あり 一大遺跡群ですね。
存在しない
ま
黥面分身などが縄文土器にあるので文化面からみると邪馬台国は縄文人関係でしょうか、亀の甲羅を焼いて占うは、砥鹿神社の神紋に使われていますね。飛騨国の周りもヤマモトと呼ばれていた歴史書もありますが、関係は謎です。
縄文の国だと、関東から東北地方ですねぇ
@@asa01053 日本列島が断層壁によって分かれていたとすると、中部地方も入ります。
女王国に普通に行こうと思えば魏志倭人伝に書かれている通りに進むのが最適ルートです魏の使者を迎えるのに交通の難所は避けるでしょう潮の流れの激しい海峡や山深い所は避けるということですまた、回り道はしませんでも卑弥呼が誰かは私の中でも明確になってません
後は渡航時期ですね。邪馬台国は遠方と思われます。魏の交流、防衛等の重要地なので伊都国か不彌国に卑弥呼が移動でしょう。私の場合、邪馬台国は九州以外がしっくりいきます。アプローチの違いは面白いですね。
貿易もあります。狗奴国は邪馬台国の南でなく卑弥呼がいる九州の奴国の南になります。
邪馬台国は魏の妄想では?
なぜ見つからないのか?
そりゃ、中世の城づくりか、現代のゴルフ場の造成とかで遺跡がつぶされてしまったんだろ
邪馬台国はここだ‼と先に決めて、書き写した時に方位が間違っているとか、距離が間違っている、距離も方位も間違っているとか決めた所に行着くルートを都合の良いように考えるからずっと見つからないのでしょうね。
一番ややこしくさせているのは、皇族の陵墓が発掘調査できないことかな。
記紀で誤魔化したのに、発掘で明らかにされたら困るから絶対ダメ!
縄文人4+朝鮮系4+南アジア系渡来人1+アイヌ1=蝦夷、出雲
蝦夷1+隼人2+熊襲2+中国大陸系5=大和
鉄器を大量に製造、農業土木に秀でた大陸系民族が空白の4世紀にあっという間に九州、畿内を制圧。
ある人曰く。天皇陵を発掘すると不都合な 葬祭事例が発掘される可能性が高い事を危ぶみ
発掘を禁じたと
箸墓古墳を掘ればどちらかに決定するでしょう。
はっきりさせてしまうと
都合が悪い人たちが
いるのかもしれない
このタイトルもおかしい。なぜ歴史から消えてしまったのか?こんなタイトルをつけること自体間違っている。倭人伝に書かれた距離がどれぐらいの距離なのかをはっきりせずにあるいは三国時代以後一里が約400mであったのでこれを用いることで、好き勝手な説が出る結果となっている。末蘆国から陸行2千余里、これはいいですか?これを確認しないと先に進めない。
タイトルに惹かれて参りましたが、誠に残念ながら今までに出回っている事実を列挙しただけでしたね!
タイトルの「なぜ...」に対する解答がございませんでした。
ご自身は『邪馬台国』の所在地はどの辺りにあったのか?そして、その論拠をご披瀝頂けると幸いです。
なるほど。
当時の里は周里で別名短里ともよばれています。1里68mにしか過ぎません、よって関羽将軍の乗った赤兎馬は1000里の駒と呼ばれていますが、68Kmしか走らない馬だったのですね~。時代的にも卑弥呼より少し前ですから度量衡も同じだったはずです。帯方郡からなら800数十キロくらいでしょうか、福岡県田川郡香春あたりでピタリと当てはまります。ちなみにヤマタイでは有りません。ヤマトゥと倭人は発音していました。文字にしても 倭・山門・夜麻登などいくつもありましたが、皆ヤマトゥという発音です。台・臺はトまたはトゥです、それ以外の読み方は大陸の史書にも有りません。で、末羅国が宗像大社の少し上流宗像高女跡、伊都国が宮若市、奴国が飯塚、不彌国が田川市、邪馬台国が香春町です。何しろ神武さんの宮が香春一の岳麓東南鶴岡八幡宮に在ったのですから。神武さんが亡くなって欠史八代の間争いが続いて卑弥呼共立です。魏志倭人伝では卑弥呼と書かれていますが、倭人は比売許(ヒメコ)と呼んでいたようです。
何故見つからないのか?
魏の属国になって自分が女王である事を認めさせた豊国宇佐の卑弥呼を隠さなければならないからです。改竄では無く日本が好きだから苦労して解らなくしたと思います。
天照大神が卑弥呼だからだよ!邪馬台国は無いからいくら探しても出て来ないはずだわ~
無理くり前方後円墳から卑弥呼の墓探してるからじゃないですかねえ。
大先生達はどしてもただの円墳では不都合なの?と思えるほど、前方後円墳をひたすら押しまくってますけど。
大規模集落に卑弥呼が居たと考えているのが見当違いだと思います。なぜなら、多くの人々が出入りするような大集落は安全ではないと思います。吉野ヶ里遺跡でも多数の鉄鏃が環濠から出土しているので、敵のものだと分かります。二世紀末から三世紀初頭の卑弥呼が登場するまでの鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べましたが、倭国大乱の主戦場は佐賀平野、筑紫平野、福岡平野などです。よろしければ「刮目天の古代史 【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください。これによって当時の倭国の範囲や邪馬台国の場所も判明しました。卑弥呼は山間部の要害堅固な山城に住んでいました。そこに直径150mの日本最大の円墳「三柱山古墳」を発見しました(^_-)-☆古墳マップでご参照ください!kofun.info/kofun/6769
それはどうしても畿内にあったとしたいからですね。無理くりです。畿内説では魏志倭人伝の内容に合致するものは邪馬台国という名称だけ。
@@KeCN その邪馬台国でさえ無理やり改変した名です
耶馬溪から 推測して 九州に有るのでは?
魏志倭人伝が、いい加減な伝聞のまとめだから。
ヤマト国(倭国)の日巫女(ヒミコ)
いろんな解釈ができる。
福岡県の筑後地域が有力ですね。
唐津東南500里の伊都国は佐賀大和町川上、その東南100里の奴国は佐賀市街地、伊都国の東100里不彌国は吉野ヶ里。
記紀なんぞにこだわるより、
グーグルで見れば、佐賀平野に「倭人伝の大トライアングル」が見える。
日本の歴史書の中から卑弥呼と言う文字や言葉の伝承が無いので難しい問題に成っています。卑弥呼=日の巫女=天照大神と成るのではと言う事を耳にしました。そこから考えてみ、古来天皇家の神事は宇佐神宮で行っていて、最も神聖な所でした
。今の熱田神宮や伊勢神宮見たいな感じだったようです。その宇佐神宮は古墳の上に有り
、発掘で2個の石室が有った後は解っていてます。卑弥呼の死んだ時に日が陰り夜の様に成ったと伝承されているのですが、同じ時期に天の岩戸の話しが有ります。そんな伝承から考えると九州なのかも知れないと思います。
九州はないかな。
アワ説を支えるのは水銀採掘遺跡に式内社の存在と内容。
あと魏志倭人伝に示される距離と方角の整合性。
九州説と畿内説はこの距離と方角がデタラメなんよ。
先日、ヤマタノオロチ氏より邪馬台国は福井県とのあらたな学説が発表されて驚きました。魏志倭人伝に記載された内容とは方角や地名などの点で解釈の仕方にやや疑問点はありましたが九州から海路を出雲へ向かいそこから若狭へ向かい敦賀に至ると言う航路です。特筆すべきは行き帰りの季節による海流や季節風等を考慮し若狭から敦賀は海路を敦賀から若狭へは陸路を選択したことです。他にも越前では農業が確立され当時には約五十万もの人が暮らせるだけの収穫があり、それは地形や河川の状況から容易に推測されるとの言、また初期の古墳が発掘されその技術が滋賀を経て近畿地方へ流れて前方後円墳へと進化したのではとの内容でした。福井に卑弥呼がいたとされる様々な遺跡が発掘されており、福井市内にある円山が卑弥呼の墓ではないかとの事でした。魏志倭人伝に記載された僅かな記述のみをいくら深堀りしても解釈の仕方にそれぞれの推理が混ざり曲解したり、書類が何度も書き換えられた過程で記載ミスや当時の権力者や実力者等の思惑などから真実を見出すのは無理だとの考えに至ります。もっと単純に当時を旅した際の舟の精度・能力・旅をした季節・時期・魏志倭人伝に記載されており何十万人もの人が住んでいたとされる場所・目的地等を考慮して邪馬台国が何処にあったかと言う史実を紐解くのも有りかなと考えます!
失礼します。
〇〇余里は、〇〇アマリ と読むのですか?
ヨリ ではないのですか?
日本語の母語話者として、違和感を覚えまして...😅
「女王」の読みも耳障りでした。ジョウオウ ではなくて、ジョオウ ではないのですか?
僕が 旧弊な日本男児だから ですかね😢
創作系のスッキリや怪談や与太話系は誤字脱字読みのミスはあまり気になりませんが、こういう学術的な動画は表記や読みはキッチリ調べてチェックしてアップしてほしい。それは内容の信頼度に直結します。
軍事系の動画には本当にウンザリするくらい誤表記や誤った読み上げが多く内容が入ってきません。
ま、どうせ同じ様な内容(しかも古い)を何度もアップしていて中身大した事ないんですけど。
@@okurokogun
それについてはひとつの仮説がありまして、まず王のオの字は本来ワ行のヲだろうということ(歴史的仮名遣いで振り仮名を振るとワウになる)。このヲの発音が女王に残って(これがア行のオになるとジョーウになってしまうので)ジョウォウ、そのウォが段々2音節に発音されるようになってジョウオウ、と。あくまで私見ですが。
卑弥呼がいたという記述は魏志倭人伝でしか確認できないと聞きました。
そもそも魏志倭人伝という先入観が、日本の古代の歴史を紐解くのに邪魔をしている様に感じます。
魏志倭人伝に記載されている内容も「昔々あったとさ」レベルの内容でおとぎ話でしかないですし
昔からの悪手で「文明は大陸からきた」っていう誤った解析を続けてることもそうですし
例えば漆塗りの技術は、日本→中国であると遺物が証明してるんですよね
そもそも魏志倭人伝の記述が史実に沿ったものなのか。
有りもしない場所を探し恥を垂れ流しているだけではないのか!
そうです。
姫巫女の時代は、山門に筑後と肥後の゙境界は無く魏志倭人伝の七万戸は、この広い地域にしか存在しえないー!
邪馬台国が、倭国で一番大きい国だったか誰もわからない。
三国志の時代邪馬台国は魏と交流があり、大和政権の前身は呉と交易していたとするとどうなる?
滅んだ呉の歴史書は焼かれ、邪馬台国よりも大きな政権が倭国にあったとはどこにも記述が残らない。
つまり邪馬台国は吉野ケ里にあったとして街構いないが、その国が倭国で一番の大国ではなかったと考えるのが妥当ではないか。
勝ち残った魏には倭国=邪馬台国であって、宿敵呉の交易相手である大和政権は書かれていないけど、邪馬台国以上の規模として存在していた。
そんなところでしょうね♬♬♬
東征に伴い、拠点が移動していった。制圧とは戦争で勝利しただけで従属はしませんよ!阿波が最初に制圧した場所、ここから畿内を狙って制圧していくのは理にかなう東征だからです!阿波は銅鐸文化圏の畿内と銅矛鉄剣文化圏の境目です!
銅矛鉄剣文化圏のほうが制圧者側。
古事記に有るとおりヤマトは矛を刺して武力制圧で阿波から始まった。阿波に、攻め入ったのは鉄剣文化圏の中心の九州が妥当ですよ!
耕地面積が国力、国力は人口、人口が多ければ武力も大きい。武力を支える鉄製武器。
阿波は、ユダヤの民が渡り着いた土地と考えています。
ユダヤ人を否定はしません。山伏の衣装がユダヤと同じと言われてますから。ただ古事記の国生みとは矛を刺し、次に近くの島々をとなっています!古伝を話すなら古事記も又歴史の一部でしょう!ユダヤの人が追われて葛城山や三輪山へと場所を変えて行った!
最後は三輪山のオオモノヌシの国譲りで終結。折り返して磐井の乱で本家を殲滅かと。
ユダヤは荒唐無稽
徳島県なんてありえないですね。
そもそも国家の名前として「やま・たい」などという、湯桶読みっぽい音訓混在の日本語など存在しえない。
そもそも自国名に「邪」とか君主の名前に「卑」とか付けるでしょうか?
恐らく大陸目線の創作と考えるのが筋だと思います。
魏志倭人伝にその山に丹ありと記されてる。丹とは水銀朱のこと。当時日本で唯一の鉱山は徳島にあります。
邪馬台国が、元々ない国名なのかもしれませんが、卑弥呼というシャーマンの神託を尊重する連合国家だった可能性です。その神託を授かる場所が、女王の国として記録されたと考えられる。その連合国家の長として、神武天皇の子孫が収まったと考えることができる。神託を受けていた場所に1番近い場所か卑弥呼の墓所に宇佐神宮を建立して、壹与を後継者にすえたのかもしれない。
箸墓古墳が同時代だからと決り文句だが魏志倭人伝、魏使の張政の見聞記だろうが直径百歩余りだと円墳。近畿説は森を見て木を見ずで俯瞰的に親魏大月氏王の同格の親魏倭王の金印だから大月氏国クシャーナ朝~アフガニスタンパキスタン北インドを領有に対して少なくとも大和朝が西日本を領有していなければならないという伏線もある。魏志倭人伝著者の陳寿も邪馬台国は総論大国、各論部族連合のバランス上、九州から距離がいい加減だったことから洛陽に遠くから朝貢したからとサバを読み邪馬台国を過大評価した埋め合わせにしたんよ。
俺は邪馬台国や卑弥呼自体存在しなかったのではないか、と考えてる(勝手に思ってるだけで確証、証拠はないけど😅)
昔の中国は、周りの国から貢ぎ物を持った使者がたくさん来ている、ということをアピールするために大袈裟に書いたのではないか🤔
まぁ、実際にたくさん来ていたろうが、要は話を盛ったのではないかな、という考えだ。
だから方角や距離は適当になった(当時は確かめようもないし)
で、噂には聞いていたヤマトという名前を、邪な国を卑しい女王が治めている、と表記したんじゃないかな🤔実際に女王がいたのかもしれない🤔
なので当時の中国が聞きかじった日本のヤマト王朝を(バレないと思って)歴史書に記述した、が正解な気がする🤔
もう一度言うが、これは俺の完全なる予想?創作?なので悪しからず😅
奈良にしておけば都合がいいからね。
中国が邪馬台国と記述する場合、邪馬台というのは存在しない。
ここがわかってないから答えが出ない。
やっぱり海の底にある訳か😖
邪馬台国なんて、そもそもなかったりして。
口伝を調べれば詳しくわかります。「ヤマタイコク」といった時点で少し前の研究者。「ヤマトコク」と読みます。色々な説はあまり信じない方が良いです。現場の顕彰をしておりませんから。
たまたま記録に出てきた卑弥呼。 ほかの時代にも似たようなのがいたけど、記録にない。 そん中に巨魁がいたんかもよ?!
邪馬台国と卑弥呼・・・出雲ヤマト王家と姫巫女、魏志倭人伝の頃なら出雲ヤマト王家の富家から祭司王として選ばれた百襲姫かな・・・だとしたら、6世紀頃の古事記、日本書紀編纂者にとって不都合、不都合な真実として消去かな・・・
邪馬台国の位置は当時の政治政策的状況で南の方にすることが呉国を取り囲もうとするために、南と表現したものであり、本当は東の方角と取り違えて南の方と東北の方角と取り違えて、表現したものであると思われます。
隋書倭国伝に「遣隋使を送ってきたのは魏志倭人伝に書かれているヤマトゥ国」と書かれているのを信じれば済む話です。変な読み方をして別の国だというから見つからないんです。
結局、論争の焦点は京大と東大の権力闘争なんじゃないのかと思えてくる
倭人の女王だから魏は知ってるが日本書紀に出てこないし取り込まれたのは水稲栽培で人口増加になってからじゃないかな。稲の女神さん。
倭人のご先祖さん青銅得意だったなー
邪馬台国は存在しなかったという説が何故ないのかが昔からの疑問でした。当時の中国人は日本人を蔑視していましたから適当にそれらしく書き残したと考えられます。
邪馬台国という名前の国はまあないでしょうね。普通に解釈すればヤマト
実に簡単です。邪馬台国は、邪馬台(ヤマト)国です。
奈良県橿原市にあった大和朝廷の古代中国表記が邪馬台です。大和朝廷は後の藤原京につながります。
魏志倭人伝が書かれた時代と大和朝廷はぴったり一致します。
ヤマト(神武天皇)が生まれ、住んでいたのは、宮崎市。
日本の歴史書である古事記、日本書紀に書かれたヤマトの祖先である皇祖天照大神が生まれたのも宮崎市と記紀に書かれている。
皇祖天照大神の6代目の子孫がヤマト(神武天皇)。皇祖天照大神からヤマトまでの歴史があるのが宮崎市。
宮崎市のある宮崎平野には古墳が1000基以上現存。
最近は、日本最大の縄文遺跡が相次いで発掘され、巨大な神殿跡も見つかっています。日本最大の古代遺跡都市。
ヤマト(神武天皇)は、東征のために住まいの宮崎市下北方町を出発、宮崎県日向市美々津から船出、大分、福岡、山口、広島、岡山、大阪、和歌山、三重、奈良県橿原市に着き、大和朝廷を開きました。
ヤマト(神武天皇)が生きていたのは西暦100年代。中国で邪馬台国が表記されたのは、それから約150年後。
邪馬台(ヤマト)国の源流地は宮崎市。大和朝廷が国家として花開いたのは奈良県橿原市。ヤマトは移動したのです。
魏志倭人伝が書かれた頃、日向(ひむか)の中心は、宮崎市からその北の西都市、日本最大の古墳群、西都原古墳群がある「投馬(つま)国」に移動。
投馬が最盛期を迎えたのは古墳時代中期です。
太陽の国「日向(ひむか)=宮崎」を皇祖天照大神の旗印にしたのが日の丸、旭日。この旗印を使ったのがヤマト(神武天皇)です。
ちなみに皇祖天照大神
スサノオ、住吉様らの生誕地は宮崎市北部のシーガイア(43階建ての高級リゾートホテルのシェラトン)そば。皇祖天照大神の父イザナギの生活地、江田神社があります。昔は神階正一位。日本最高の地位が与えられていました。
その西、約4キロの宮崎市南方町に皇祖天照大神の孫に当たる天孫降臨の人物、天孫ニニギノミコトの御陵墓の奈古神社。記紀に書かれた可愛(えの)岳があります。
その南約2キロがヤマト(神武天皇)の生活地。宮崎市は巨大な古代遺跡地帯です。
当時には日本に記録した書物が無いから😖💦。
ィヤマトゥ、ピーミークゥ
ヤマタイコクと読むから見つからない。ヤマトと読めば、いの一番の伊国=阿波国=倭と読めれば、徳島県美馬市地域及び、山都(山の部分が高天原ソラ地域)阿波の海岸部(おもに阿南市地域の海岸部を伊面津イモツ⇒イズモ)、要はヤマト連合(高天原と伊面津)阿波であった。当然、阿波に水銀朱(丹辰砂の産地が阿波徳島であった。)美馬市地域に「倭大國魂神社」があり、淡路島には、大和大国魂神社、そして、木の国が、木の伊の国⇒紀伊の国の紀ノ川から吉野川をなって、奈良盆地へ阿波の倭が、大和座国魂神社へと発達発展しただけの事。阿波の伊国からヤマト國がはじまった。当然、初代天皇も阿波出身、とくに、山の部分美馬市の三木平のアラタエが証明している。
邪馬台を、「ヤマタイ」ではなく、「ヤマト」と正しく読めば、ほとんどすべての疑問が解消する。
消えてないよ、 邪馬台国は遠賀川流域の北九州にあった。 宇佐神宮に痕跡あり
阿蘇山のあるところと書いてあるのでは?
邪馬台国が見つからないのは合衆国の名前だからでは無いかと思う。
大陸からの侵攻を恐れて当時の北九州は最も大陸に近いので少しでも大きな国に見せたかった。
当時の日本は北九州に小国が三十数カ国あり、その連合体を邪馬台国(ヤマト)と呼んでいた。
記紀には卑弥呼は出て来ませんが卑弥呼=天照大神だと考えています。
神武東征と出雲の国譲りは同時期と思います。
神武東征後西日本全域を手に入れたヤマト連合は首都を奈良県大和地方に移したのが纏向と考えています。
魏志倭人伝と古事記、日本書紀と合わせて調べると私もその意見に辿り着きました。
吉野ヶ里遺跡周辺の地名と纏向遺跡周辺の地名が被っています。
中国でも遷都した際に国だけでなくその周辺の地名も一緒に移動するとのこと。
ほぼ同じ位置にこれらも地名が移動してますよ。
魏志倭人伝を素直に読めば邪馬台国は阿波です。
阿波説を支えるのは水銀採掘遺跡に式内社の存在と内容。
あと決定的なのは魏志倭人伝に示される距離と方角の整合性。
九州説と畿内説はこの距離と方角がデタラメなのです。
そもそも俗に言う魏志倭人伝には邪馬壹国のことが書いてあるだけで
邪馬台国とかどこにも書いてないからね
書いてない国を書いてあるといいながら書物に嘘が書いてあると言いながら探すという
なんとも間抜けな話です
さらにいうと名前が似ているというだけで同じだと思うとかいう
論理にもなんにもなってない話をくっつけているだけの
どう仕様もない話
畿内説はすべてが無理で成立しない話 九州説は投馬国と邪馬台国が無理になる
畿内説がどう考えても無理な話をなんとか古代史アイドル卑弥呼を奈良に持ってきたいと
邪馬台国邪馬台国と連呼する
ここが混乱の元凶です まずは畿内説という洗脳悪を完全に抜くことから
魏志東夷伝倭人の条をキチッと読むことが出来れば、邪馬台国の所在地は、それ程難しくありません。一つだけ例を挙げれば、陳寿は、文中の何処にも、帯方郡から邪馬台国までの距離など書いていません。帯方郡から女王国までの距離を記しています。何故陳寿は、この女王国と言う地名をすぐ前の文で、邪馬台国に到る、と記しているのにあえて邪馬台国では無く、女王国としたのでしょうか。これを合理的に解釈しようとすれば、邪馬台国は女王国の中に含まれている、とするか、邪馬台国と女王国は全く別のものである、のどちらかと理解するよりありません。ただ、邪馬台国と女王国を全く別のものとしてしまうと、魏志東夷伝のこの箇所の文の意味自体が、非常に不自然なものとなってしまいます。従って、消去法でいけば、前者の意味が合理的な解釈となるはずです。その方が自然に、しっくり読めるはずです。邪馬台国に到るの文と、女王国に到る萬二千余里の、この二文の関係は、所在地の確認に対して非常に重要な意味を含んでいると、考えられます。又、邪馬台国と、女王国は、同一のものだとするのは、自分の中では、全く成立しません。もちろん、充分な根拠を挙げる事はできますが、ここでは長くなるので、省略します。
そういう魏志倭人伝の解釈の議論を二・三百年重ねても邪馬台国にたどり着けてはいない事実を考えると、今までとは別の視点でこの問題を見つめる必要があると思います。上で述べた、<思い込み その1>に気づく必要があると思いますよ。
別に、思い込んでいるとは思っていません。ただ単に国語力の問題だと考えています。話が長くなり過ぎるので、ここでは、あまり詳しくは書きませんが、まとめて一言で言うなら、要するに、国語力の問題だと考えています。
倭国、女王国、邪馬台国。
これらを混同してしまっている方が非常に多いですね。
私の現在の解釈では、
倭国=九州、四国、本州の概ね南関東辺りまで。
(女王国に服さない狗奴国も倭国の範疇に含む)、
女王国=当時の倭国内の大部分を纏めていた連合的国家
邪馬台国=女王国の王都が置かれた地域の国名
と理解します。
また、よく邪馬台国四国説の方等が「山に丹あり」の記述を根拠としますが、
これは倭国の様子を記したもので、邪馬台国の様子を記した記述では無いですからね。
女王国の都が邪馬台国になり卑弥呼のいるところです。
その通りだと考えています。要するに、日本国の首都の東京都(邪馬台国)に、日本国の総理大臣(女王)が都して、日本(倭国)全体の政治を行っていたと全く同じ事と考えています。
邪馬台国と倭という名称にそのほとんどが含まれています。倭、これは中国から見た歴史から東の海の方に小人(身長120センチから150センチ)が住んでいたことによる俗称をもじったものでヤマトを指すものではありません。また奈良県の大和朝廷の倭とする説もこれにより、天皇家の出とするには大変、天皇家を愚弄するものです。邪馬台国は縄文時代の末期紀元300年頃までに反映し、渡来人が戦争と云う悪文化を当時中国・韓国から持ち込み平和な日本に暗い歴史を持ち込んだため九州に騒乱が勃発したことで、卑弥呼の登場となったわけです。男の王が乱立し話し合いで女性の巫女を立て騒乱を収めたというのは、邪馬台国、那国(今の福岡県)等の北九州の騒乱を卑弥呼を上に置くことで収まったということではないかと思います。しかし邪馬台国の隣国に狗奴国がありました。おそらく熊襲です。熊襲は渡来人から鉄器による武器を手に入れ、戦う手法を大きく変化させ圧倒的な戦略により邪馬台国を窮地に貶めました。卑弥呼は亡くなり、そのあとを継いだ弟も、弟の後を継いだトヨも熊襲に敗れ滅亡したと考えられます。これは古事記や日本書紀にも書かれている、熊襲征伐も記載されており正しい史実でしょう。弥生時代と云うのは、太平洋戦争敗北以降、当時のGHQが日本人弱体教育のために、無理やり作ったものであり自虐化教育が目的としていました。本来は世界でも類をみない縄文文化の破壊を日本から抹殺するためでしょうね。大和朝廷の始祖は九州日向の神武天皇からと古書に書いてあります。これは遠い、中国の史書よりも真実味が高いのに近畿説を唱える、考古学者たちには史実を認めないのですし、あきれたものです。
倭人伝より古い文献に倭国の帥升は顔にも入れ墨があるから倭面土王と言う。とあるから
倭とは入れ墨の事でしょう!
解明するには、ドラえもんのタイムマシーンが必要だわ。
太宰府羅城の築造年
の鑑定でA.D.240年のモノもあるが、、、
その年代が、確定なら、
実質、九州説以外は終焉すると思う。
(私は九州説という訳では無いが)
なぜなら、九州北部以外の勢力が邪馬台国時代に、
筑紫コリドーに日本列島の古代史に他に類を見ない規模の大要塞を造る、
合理的な理由が全く無いからだ。
そのような日本古代史に類を見ない規模の大要塞の建造は、
リソースの面でも、九州北部以外の勢力が行うのも無理が有ると思う。
A.D.240年位なら、邪馬台国連合と狗奴国の戦争の時代でもあり、
戦闘の最前線からある程度離れ、たぶん敵の攻勢限界点近くであり、
監視するには最適な基山があり、筑紫コリドー自体が要害の地でもあるから、
対狗奴國の、
邪馬台国連合の台与や首脳部の大本営、あるいは
詰めの城の巨大な大要塞の設置エリアとして理想的であるし、
そうであったと、考えるほうが自然だと思う。
そして、羅城の壁は版築工法で築造されており、
支那世界では、その当時すでに
防衛ラインの為の極めてスタンダードな軍事建造物であり、普遍的なモノになっていた。
また、それは年代的にも、
倭では版築での大要塞を建造する経験もノウハウも乏しいというか、ほぼ無いだろうから、
魏国のからの使者であり、
卑弥呼から狗奴国との戦闘が本格化したとの報に接し、
倭に派遣された張政ら軍事顧問団が関わっている可能性は高いだろう。
そして、それは、邪馬台国への行程が不弥国まで里数で記述されている事とも、合致する。
詰まり、魏国の使者は不弥國まで来た。
そして不弥國の勢力圏か、その近辺に太宰府羅城のエリアがあり、
魏の使者のミッションのレッドラインである、同盟国並びに、その最高為政者(祭祀王)を防衛するという事を考えた時、
太宰府羅城の領域は、
魏の使者の、当面の位置的な目的地に適うと考えるものです。
大和国(奈良)もしくは、日本を指すのかもね。
日本各地に、女性のシャーマンが居たのでは?
隋書倭国伝「夷人不知里數、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」
私の超新説では、南北1日差は南北1海里差(南北1.85km差)です。天体の南北1分差が地球の南北1分差となることに由来します。南十日とは緯度が10分南ということです。2地点の軽度差を天体観測で求める場合現在では正確な時計を使います。古代では月蝕時の背景の星座の赤経度方向のずれを観測します。
その国(倭国)の境は、東西は経度5×30分、南北は緯度3×30分、でそれぞれ海に至ります。
このように表現される領域といえば、北は福岡(関門海峡)、南は佐賀(八代海)、東は大分(豊後水道)、西は佐世保(平戸瀬戸)の北中部九州です。
緯度は32.5〜34度、経度は129.5〜132度の領域です。
魏志倭人伝の水行十日を緯度10分で読み、南北千里を緯度30分で読むと、邪馬台国の緯度はおよそ32.5度です。
当時の先進地域、北部九州からほど遠からぬところと思います。
邪馬台国をヤマタイと読むのは文字が伝わった後世の日本式の読み方で、卑弥呼の使者が我が国はヤマトと言うといった言葉を中国の史書が中国の似た発音をあてはめ邪馬台国と書いたとみれば連綿と続いている。
そもそも見つからないのは、唐津・末盧国から東南へ行くべきを、ネジ曲げて北東の糸島(伊覩国、イト国)へ進んだこと。それは仲哀記の五十・伊蘇・怡土・伊覩に惹かれてか、糸島・箱崎・博多方面が気になったからだろね。99.9%以上の学者論者がそうだ。しかし今、唐津の小中学生でも東南500里は佐賀市方面と即答する。郡使も、郡製の絵地図を携帯しており、それには長の往来経験から得られた東西南北・道中目印・宿営地等が書き込まれていたはず。かくして郡使は、佐賀川上の伊都国(イツ国)へ正しく到ったのである。
言い古されてはいますが、伊万里のまりが古朝鮮語の頭という意味があり、伊都国の領域だったはず。そして南に水行する起点は牛津だったという説があります。(3世紀当時は海に面していた) 牛津も伊都(いつ)→五津(いつ)→五津(ごづ)→牛津(ごづ)→牛津(うしつ)という音韻の転訛だったと思われます。
丹絡み、水銀鉱脈が伊万里側にありますからね。現糸島市は楽浪式土器、平原等の遺跡基準で曲げたのでしょう。距離も方角も違いますね。或いはシケで近郊の港に泊まる、陸路へ。一時的なもんかもしれません。
うp主が何を以って有力と言うのか知らないが、畿内説だけは無い。
距離について考えてみました。陸続きなら歩測で距離が測れるが、海峡を跨ぐ長距離は天文観測以外に考えられない。一寸千里法があるが、南北の距離はある程度測れるが、東西距離は全く測れない、ポンコツ距離測量計である。しかも、実里とは5、6倍も異なるイイ加減な測量方法であるある。しかし、これを敢えて使ったとすると辻褄が合う。
沙里院と狗邪韓国の陰長差は5.6寸(南北5600里)なので、ピタゴ定理に従い5/4倍すると7000里、同じく沙里院と川内や宮崎の緯度での陰長は9.6寸(9600里)、5/4倍すると12000里。女王国(九州本島)がどのくらい南に伸びているかを調べたと思われる。
陰長はスマホ電卓で計算できる。80×tan(緯度-23.44)
洛陽の緯度34.75°の場合16寸となるはず、2箇所の陰長さが南北距離となる、1寸を1000里としている。230803
帯方郡から半径12000里上(一里約76m)には徳島県も入りますね。更に東の海を1000里ほど渡った所に土地(和歌山)があり、
丹(辰砂)を産出していた山(若杉山)もあります。
魏志倭人伝中での距離を直線距離と考えているなら、距離以外にも様々な邪馬台国の条件が当てはまる徳島県が最有力じゃないでしょうか?
@@elelsse 様 返信感謝です。魏の時代の機材で、見通しの無い、点と点の距離を測ることはできなかったはずです。もし可能としたら、その方法を知りたいものです。つまり、郡と女王国の方向は分からないまま、距離だけを測ったということです。
一寸千里法は一寸の陰長を千里とした、実里と関係なく決めたイイ加減な単位なのですが、それを承知で南北距離7600里に、5/4倍して東南12000里を算出したと思われます。また、76mなど短里と言うものは認識なかったはずです、歩測(曲路)と鳥道(直路)の比較検証は行ったようですが、結論は出ていないようです。
陰長はスマホ電卓で 80xtan(緯度-23.44°) で概ね計算できます。洛陽の緯度34.75度で16寸になるはずです。2箇所の陰長差から、南北の距離が算出できます。
@@wajin5695
古代中国には「渾天儀」という物があり、それによって天体の位置を観測する事で、2点間の距離と方位を計算で算出できたそうです。
@@elelsse様 渾天儀を使ってどういう計算をすれば距離が解るのでしょうか、しかも里という単位で。具体的な計算方法を知りたいところです。東西の距離は簡単には測れないのです。
渾天儀は天体シミレーションなので、月食日などの未来予想は可能ですが、地表の距離計算は無理じゃ無いでしょうか。他に天体地図を使う方法がありますが、あまりにも計算が複雑すぎたため、1回だけの実例に終わったようです。なお、現在の人工衛星は、計算が速いので天体地図を使っています。
無線通信や精密時計が無い時代です、同一時間での星の位置を知る手段は無いでしょう。もしあるとすれば、月食の初めと終わりを使う方法があります。しかし天候や発生頻度が少ない上に、短い時間で複雑な作業を行う必要がありまう。伊能先生もチャレンジされたようですが、低評価だったようです。
@@wajin5695
色々とお詳しいようですね。私自身は天文学者でも中国史の専門家でもないので詳しい事は説明しかねますが、専門家が出て説明してくれているyoutube番組があります。
ですが、どういう訳かそこへのリンクを貼ったりタイトル名を書くとコメントが消されてしまいます。どうすべきでしょうか。
分かりやすくまとまっており楽しく拝見させて貰いました。1年前の動画としては、やや研究不足かなーと感じたのでコメントさせて頂きます。2024/07に 邪馬臺国=吉野ケ里が確定。国宝『翰苑』とその注として引用されている『廣志(広志)』から判明(私の動画で判ります)。女王国の西南海行1日の伊邪分(イヤハ)国が諫早なので女王国が脊振山地を介して伊都国の南に接する邪・馬臺である確証も得られた。
邪馬臺国の記載は魏志倭人伝だけではなく、上記2書の他、後漢書にも有ります。女王国の東南(東)、海を千里渡った所が狗奴国(玉名)です。本動画でそれらの書物に言及がないので、前述の「やや研究不足かなー」と思った次第です。本chは中世が主要のようですが、再度邪馬臺国に関する動画を投稿なさることがあるならば、私の動画を参考にしていただければ幸いです。
土建屋が金儲けのためにぶっ潰したんじゃねーの!?
正直に申告したら金にならんらしいからな
私もそう思う法整備以前の突貫工事などしてる時に、邪魔な遺跡だと見て見ぬふりで都市部の地下に埋められてしまってると思う
なぜ水銀朱に触れないのかな?肝心ですよ調べれば分かります。
邪馬台国、卑弥呼。
どちらも邪(よこしま)卑(いやしい)といい意味で使われない言葉が入っているのは何故だろう?
普通に考えてTOPに立つものに卑しいなんて字を当てるかね?
存在しなかった国だからです。
で、ドコ?
きちんと判明してからUpしてね😏
いまさら想像はいらないから😊
見つからないのではなくて秘密にしてるだけでしょ
自分は天皇制には賛成ですがアカデミックな事は分けるべきだと思ってます
こんにちは(^-^*)/😮
大和王権のプロトタイプ
邪馬台国=ヤマト国で
瀬戸内海を中心とする海洋国家が
邪馬台国=ヤマト国だという説が妥当だと思う
つまり九州説も畿内説も当たらずとも遠からずで
両方ともある意味正解だという事
大和地方(奈良県)では『東方に一海を渡るまた倭人在り』が成立しない。奈良県の東方は山である。
倭人伝とは❓
背が低く、入れ墨をしていた。
ならば北の蝦夷か、南の熊襲か
沖縄か❓畿内説は考えられない。
遺跡として残らないように破壊したのかな
物流拠点でしょうね。
流れるだけですから痕跡が残り難いとか?
最初の起源は徳島県で起こり、その後直ぐに畿内に移籍した。これが一番の正解です。
これで全てが丸く納まります。
徳島と邪馬台国は別種也
私が隠して居ます
あちらでは卑弥呼と言っていただけで、当時の日本では何と言われていたかは分からん。
なかなかいい線じゃないの、
ま、卑弥呼も倭国大乱後の初代傀儡だったとは思うが・・、
日本書紀で藤原の孫が「もしかして北東の糸島・箱崎・博多辺りじゃないかな~」とつぶやいたからね、
江戸の学者、明治の大学教授以下、ぞろぞろとそっちへ流れたんだよ、東南500里の佐賀平野を探せばすぐ見つかる・・。
格言: 人の行く 裏に道あり 花の山 千利休
熊本なら、句国とか、熊みたいな動物の漢字がつくはず。
銅鏡に関しては魏からもらった邪馬台国かあるいはその後継国が後に近畿に本拠を移したと考える方がすっきりしてると思います。
卑弥呼という当て字 卑しいと言う漢字を当てた魏志倭人伝がそもそも適当ではあるが
邪馬台国もヤマト国だろうし水行陸行も方位が90度異なる
当時は北を西としていたので水行で日本海なら敦賀のあたり関門海峡から瀬戸内海を通れば大阪に上がりそこから陸行でちょうど奈良県大和に至る
もちろん吉野ヶ里遺跡や糸島市の遺跡も伊都国や宰府などの有力な地方都市国家として大陸との玄関口として繁栄していたのだろう
専門性から狭窄してる視野を持つ歴史家はかなり怪しいが一般人のほうが正解にたどり着いている人がいる
魏志倭人伝存在してないって
かなり爆弾発言だな😂
はあ〜、コメ欄オモロ(関係ない地域の人
やはり ヤマト国 と呼ぶからだったりして
卑弥呼はヒミコと読まないだろ。
古代中国でそんな発音はしてない。
実在したとすれば地理的に
九州北部しか考えられない。
出土とか関係なく地理的に絶対に九州。
中国語だと卑弥呼は「ベイミーホー」って発音ですね。ヒミコにはなりませんね
2世紀の上古魏音ですと「フィミク」に近い音になるみたいです。ちなみに邪馬台は「ジャムディ」みたいな音だとか。
音にそれほどこだわる理由はないと思います。漢字の意味が重要で略字された場合に源字が何か考えるのも重要だと思います。
意図的に方位距離が改ざんされています
面白い事に改ざんしてるのは阿波説
阿波に邪馬台国はありません。
だけどなにかしらの勢力が
あったのは理解できます
魏志倭人伝どこまで信用できるのか?
偽師話人伝
それそれ。
アレ自体が少しおかしいねんな。
倭国は九州王朝のことで日本とは別の国。
だから日本書紀には卑弥呼の記載がない。
邪馬台国は倭国の連合国家の名称だから
邪馬台国は見つからない。
卑弥呼がいたのは伊都国。
徳之島に有りますよ、日本の宝
阿蘇山噴火で消えたんやろな
もともと なかったんじゃないの!
『邪馬台国が見つからない理由』
いやいや「邪馬台国は北部九州」で確定ですよ。
「そうじゃ無い」と言われたら、
そりゃ見つからない?でしょ。大笑
関西の方にも楽しんでいただく為にも、
九州?大和?って仲良く綱引きを続けましょう!
私は奈良県人で奈良愛は半端ないですが、大和の国に卑弥呼がいて邪馬台国があったという畿内説は無理があり、九州説のほうがはるかに納得性が高いと思っています。
阿波には弥生時代の大規模集落遺跡がどれだけあんのかね
矢野遺跡 隣接に庄遺跡、鮎喰遺跡等あり 一大遺跡群ですね。
存在しない
ま
黥面分身などが縄文土器にあるので文化面からみると邪馬台国は縄文人関係でしょうか、亀の甲羅を焼いて占うは、
砥鹿神社の神紋に使われていますね。飛騨国の周りもヤマモトと呼ばれていた歴史書もありますが、関係は謎です。
縄文の国だと、関東から東北地方ですねぇ
@@asa01053
日本列島が断層壁によって分かれていたとすると、中部地方も入ります。
女王国に普通に行こうと思えば
魏志倭人伝に書かれている通りに進むのが最適ルートです
魏の使者を迎えるのに交通の難所は避けるでしょう
潮の流れの激しい海峡や山深い所は避けるということです
また、回り道はしません
でも卑弥呼が誰かは私の中でも明確になってません
後は渡航時期ですね。
邪馬台国は遠方と思われます。
魏の交流、防衛等の重要地なので伊都国か不彌国に卑弥呼が移動でしょう。私の場合、邪馬台国は九州以外がしっくりいきます。アプローチの違いは面白いですね。
貿易もあります。狗奴国は邪馬台国の南でなく卑弥呼がいる九州の奴国の南になります。
邪馬台国は魏の妄想では?