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(注意)動画中の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の復元図は日田古代史研究会に著作権があります。ご注意下さい。(C) 日田古代史研究会
感謝もうしあげます
@閻魔大王_Gabriel True emperor さんこの欄は注意喚起用に固定しています。すみませんが削除しますので、通常のコメント欄に再送信お願いします。
鉄鏃、弥生時代では猿田彦の武力行使では? 造船技術にしても、また、八咫烏との攻防では山窩、海窩の攻防史の存在は? 外輪山周辺説と鹿児島説が気になりました。邪馬台国 女王卑弥呼、つまり、姫巫女を呼べ、大和朝廷の神代文字について、訳せていますが、飛鳥時代で無ければ、海外渡航造船技術が有りません、西暦300年、八咫烏に討伐令を大和朝廷が下した西暦1300年については、如何に?
@@和足蓮見 さんコメントありがとうございます。ただこの欄は注意喚起用に固定しています。すみませんが削除しますので、通常のコメント欄に再送信お願いします。
@@日田卑弥呼の都 わ
時代分布図及び地図へのあらゆる出土製品の落とし込みがあり解りやすく参考なりました。引き続き応援してますので邪馬台国問題に対して投稿お願いします。
ありがとうございます。情報を探しながらの「旅」ですので中々進みませんが、引き続きよろしくお願いします。
この頃は 今と 大きく 地形も違ったようですが ( 古遠賀湾など ) その当時の 地図で 解説して頂きますと より想像が膨らみます✨ 北部九州に住むものとして 胸が高鳴ります 素敵な解説ありがとうございます
お誉めありがとうございます。博多湾の古代の海岸線はおおむね明らかになっているようなので大体分かります。古遠賀湾についても目にしたことはありますが、何処まで研究されているか実態を知りません。機会あれば調べてみたいと思います。
御説に納得です。考古学資料を中心に文献と合わせ込む考え方がとても良いと思います。筑紫平野全体を邪馬台国とし卑弥呼の館を日田とする説は斬新で衝撃的でもありました。魏の使節一行が色々と邪馬台国を観て回って最後に卑弥呼の館に行ったと考えれば「陸行・水行・」という表現も納得できます。それにしても良く勉強されていることに驚き同時に尊敬します。次話以降も楽しみです。
早々にコメント頂きありがとうございます。日田の居館も庄内式甕も、違うことを探していて偶然見つけました。ヤッター、という感じでした。居館の溝にあった土器には祭祀用の物もあったらしいので、ますますココだーと。次回は、臺与の国のお話にしたいところですが・・さて?
興味深い解説と年代表による、鉄鏃・土器等々の出土状況大変勉強になり資料としてもとても解りやすかったです。此の資料により、私の比定地の裏付けにもなりました。大変ありがとうございました。
参考にして頂けたようで嬉しいです。こちらこそありがとうございました。
素晴らしい考古学的資料による解明で、女王国の範囲と邪馬台国の比定地が明確になりました。有難うございました。益々、定説・通説の末蘆国(唐津)の位置(少し長くなりますが後日証明します。)が、違う事が明らかになりました。それ以降の東南50里伊都国東南10里奴国東し10里邪馬台国女王の都する所(不弥国)となる。当然里数は、長里(0.434km)春秋の筆法による。距離以外も1/10で読む。
例の1/10説ですね。追説よろしくお願いします。
黒キジと青石が採れるなら、ありですね。ところで、冬でも裸足で過ごせるくらい暖かいのですか?
基本的に倭地は温暖だったのでしょうし、青玉も真珠も・・・黒キジも、倭地の話だろうと捉えています。
今回も面白かったです!ワクワクしました!
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
いつも拝見しております。おっしゃる通りだと思います。北部九州に住んでいるとわかりますが、この地域の古代の道は日田を起点に出来ています。更に周辺は「ヤマ・ヤメ」と言う地域に囲まれています。ヤマ都が日田に一番ふさわしいと思います。日田や朝倉は物部の後を色濃く残し、那珂国や筑豊、宇佐、大分、佐賀関は安曇・海部の色を強く残します。海幸山幸の話に合致します。
ありがとうございます。おっしゃるように状況証拠だらけですね(笑)。道についてもそうですが、古代の大動脈だったろう筑後川の上流部に位置し、宝満川、御笠川を介して博多湾へも通じていることも見逃せませんね。
特定の土地に留まっているイメージがあるのですが、卑弥呼(邪馬台国)は移動したりしなかったのでしょうか?
それはよく分かりません。私は移動したと思っていますが、ハッキリしたことは分かりません。
色んな解説を見てきたけど、この解説が一番しっくり来る。とてもわかりやすい。
ありがとうございます。私見が沢山入ってますが(笑)。
はじめまして。王が代わると土地を変えていますよね。とよのくに は「豊の国」大分では?いよのくに は「伊予の国」愛媛へ~四国へ行き、奈良へと移って行ったのでは?と考えています。私も日田説推しです。東西南北の中心で情報の拠点と考えています。日田市の南側は山の起伏が激しく敵は入ってこれないと思います。水が湧く湿地帯や谷が沢山あって、いまだに道も作れないでいますから。楽しく拝見致しました。また楽しみにしています。
「日田説推し」ありがとうございます。壹與が東行し、豊国へ伊予へ、そして大和へ。あるかも知れませんね。大和では豊鍬入姫命といわれたのかも、とか・・色々想像するだけで楽しいですが、できれば本当の歴史を知りたい。夢です(笑)。
邪馬台国論争が好きな熊本在住のただのおじさんです。ここ数年色々見て1番腑に落ちる各国の配置でした。卑弥呼が日田ってのだけ無いかなぁって思いました。それ以外は納得です。
日田が無いと言うのは筑後川沿いが、大昔から水害に悩まされる土地だと思うからです。弥生時代の賢者がわざわざそこに住み大事な墓を建てるとは思いません。
筑後川が昔から水害をもたらす川だったことはよく承知しています。筑紫次郎ですね。一方で、ならばこその水田経営が盛んだったろうと想定出来ます。頻繁に水浸しになる土地は肥沃で、水の確保も十分です。そして小高いところに居住すればいいのです。実際筑紫平野には多数の大規模環濠集落があって、その所在は丘の上です。墓も同様です。日田で発見された大規模集落、首長墓も高台にあるので、賢者こそそうしたのだろうと思います。
福岡県朝倉市の平塚川添遺跡を訪れたことがあります。解説図の邪馬台国の中心に位置しており最も有力な候補地ではないでしょうか。
私も平塚川添遺跡へ行ったことがあります。邪馬台国とも言われているところですね。有力な候補地だと思います。朝倉市の「卑弥呼の湯」も良かったです(笑)。
この動画は素晴らしい。私も以前から同じように考えていました。卑弥呼のいた場所は日田市で間違いないでしょう、日の神 卑弥呼は 邪馬台国から見て 日の昇る東の高い場所に祀るのが自然。その後 トヨは、日の昇る東の地 豊国(大分県)にいたと考えています。これはどうでしょう・・・
ありがとうございます。日田市の賛同者、増えてる気がします。(違ってたらどうしよう🥺)卑弥呼は元々伊都国の姫だと思っているので、その先代の平原王墓が正に日の神を祀っているように見受けられ、そのお考えは繋がりますね🎵トヨの国が豊国、は間違いないでしょう。宇佐八幡宮が神功皇后より前から媛をお祀りしていたと、確か社伝にあったと思いますので、それがトヨだと分かりやすいですね。
解りやすくて素晴らしい。私も北九州説に魅力を感じています。魏志倭人伝は早稲田大学で三國志研究者である渡邉先生の話によると距離に関しては余り信用出来ないとの事。また最近、中国で曹操の墓から金銀龍文鏡が発掘され、それが日田市で発見された物と近いとの事。先生の研究、期待しています。
日田で発見された金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、卑弥呼の鏡の可能性が高いと言われていますね。今後のさらなる研究に期待大です。
これはどうでしょう!を楽しみにしている毎日です。先生の次回版楽しみにしています(^^)
先生って私のことですか!いえいえ私は素人の歴史マニアです。勿論、人様に向けて発信しているので、それなりに勉強はしていますが・・・
いいじゃ、ないですか(^^)お嫌ならすみません💦でも久々に感動したので・・ともかくまた期待しています。
@@石山光介 さんお誉め頂き嬉しいです。次回作もよろしくお願いします。
やはり、エビデンスとしては考古学的資料が一番。非常に説得力があります。
ありがとうございます。文献資料は歴史を語りますが、解釈も多様です。考古資料で裏付けることで、真の歴史に近づけるのだと思っています。
色々なデータを地図に落とし込んであるので、非常にイメージしやすくて分かりやすいです。この古代史探索の旅シリーズを教科書として、他の文献、学説、動画を見ていくことにしたいと思います。ありがとうございます。
教科書だなんて恐縮です。本来は、旅すがらの謎を解きながら動画にしていくハズなのですが、なかなか旅にも出れずこんな内容になってしまっています。謎解きの空想旅も楽しいですが・・ミステリーという勿れ・・(笑)。
いろんな説がありますね。これは、永遠のロマンかも知れないと思いますが、はっきりとした証拠が発見されて答えが出る事を願います。
答えが出ないからこその「永遠のロマン」かもです。だから、おじさん達は永遠の少年なのです。
素晴らしく整理されてとても勉強になりました!私的には、日田の地だと南の山の防御がかなり困難になると思いますので、筑後川を防衛線と考え、嘉瀬川水系を主要な水運経路と考えます。佐賀市大和町の與止日女神社に魏志倭人伝に出てくる干珠、満珠という宝物が現存してます。お近くにいらした際はご連絡ください!佐賀平野ご案内致します!
ありがとうございます。今回の日田は、大胆?に予想してみました。與止日女神社の干珠、満珠ですか。知りませんでした。汐満玉、汐干玉ですね。海人族系なのでしょうか。
肥前国風土記より佐嘉の郡(前略)郡の西に川あり。名を佐嘉川といふ。年魚あり。其の源は郡の北の山より出て、南に流れて海に入る。此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。ここに、縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり。二の女子云ひしく、「下田の村の土を取りて、人形・馬形を作りて、此の神を祭祀らば、必ず應和ぎなむ」といひき。大荒田、即ち其の辭の随に、此の神を祭るに、神、此の祭りをうけて、逐に應和ぎき。ここに、大荒田いひしく「此の婦は、如是、實に賢女(さかしめ)なり。故、賢女を以ちて、國の名と為むと欲ふ」といひき。因りて賢女の郡といひき。今、佐嘉の郡と謂ふは、訛れるなり。又、此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神・・・鰐魚を謂ふ・・・年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従う。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることもあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る。(『風土記』日本古典文学大系2より) 以上のように鰐族を従えたようですね。干満の差が激しい佐賀では十分海水に乗ってこれるので港としても成立します。 なんと昨年近くの七ヶ瀬遺跡から弥生後期の三種の神器セットが発掘されました! 以上、昔のことを想像するのは楽しいですね。
干珠、満珠は色んなとこに伝説として残っているので、弱いかと・・・それこそ、筑後一の宮の高良大社は高良玉垂宮といいますが、由来は奉納された干珠満珠がおたまじゃくしみたいな形から玉垂宮といいます。干珠、満珠は海神族が安全に航海をする際に持つ珠であった可能性からたくさんあったのではないでしょうか・・・
@@490526ryu さん干珠、満珠は海神族系ということで、あちこちの海人族にゆかりのある地に伝わっている、ということですね。
面白く読ませていただきました。磐井の乱は九州勢力と近江勢力の対決だったのだろうと考えていますが、磐井の別名が八女の大王で、どうも八面山付近出の豪族だったらしいと言われていますね。日田と八重山は近くと言っても良いでしょう。卑弥呼を守る役割を担っていたのかもしれません。
考古学と照らし合わせ動画には、説得力がありますね。動画、有難う御座います。勉強になりました。
ありがとうございます。考古学資料は蓄積資料なので、時代とともにより確かな事実が浮かび上がるのだろうと思います。関係者の方々のご苦労に、頭が下がります。
日田は江戸時代も各地への連絡がしやすい土地ということで幕府直轄地で九州の中心でしたよね。いろいろ似たような動画見ましたが、一番納得できる感じでした。
共感ありがとうございます。日田は特殊で特別な地域という感じがしています。次に訪れる機会には、もっと決定的な証拠が見つかればと、期待したいです(笑)。
私はこの説に賛成です。その他も動画も拝見していますが、よく調べら根拠もしっかりしており感心させられます。邪馬台国の場所は、福岡県朝倉市付近を中心とし日田も含んだ地域で卑弥呼は祭祀を行っており日田にいたと思われます(日田が邪馬台国にふさわしくないとコメントもあるようですが、自身は政治に関与しておらず、国の中心はあくまで朝倉市近辺と思われます)。神武天皇即位を西暦280~290年と仮説たてた安本美典さんの説がしっくり理解でき、そこから展開される卑弥呼=天照大神、邪馬台国=高天原としたことも「あり」ではとも考えております。邪馬台国は卑弥呼の死後、何らかな事由(狗奴国などの圧力等々)で衰退し、一族は離散、一部は北九州市方面(岡田宮)、一部は宇佐方面、そして一部は南下し高千穂に移動したと考えます(「天孫降臨」?)。南下した一族が神武天皇に繋がり、神武東征したことに続くと考えます。東征の途中、宇佐に立ち寄り、岡田宮に立ち寄り過去の一族と連絡し兵を募り東征したとのではと考えます。なぜ記紀に邪馬台国が登場しないのか、それは邪馬台国を高天原と神格化し天皇を神の子孫として天武天皇期に作り上げたからではと自分で勝手に推論立てております。このように考えrると奈良県と北部九州(福岡県)の地名に類似していることが多い点などスムーズに納得できるように思えます。福岡県と大分県に跨る英彦山の英彦山神宮に天照の子が主祭神となっているなども理解できます。以上、大変参考になります。これからも楽しみしています。
ありがとうございます。ご提示頂いた推論はとても参考になります。私も邪馬台国連合の本体か一部が東遷したのだろうという仮説を持っていますので、賛成です。まず九州各地へ離散したとすれば、各所に残る伝承が説明出来ますね。邪馬台国の後裔が後に物部と言われる人々だとすれば、各地に離散した後に大和に終結してヤマト王権を樹立するという筋書が描けるのではと思っています。今後ともよろしくお願いします🎵
素晴らしい考察です。フィールドワークも良い。
ありがとうございます。
とても面白い動画ありがとうございます!可能なら、古代の海岸線を手書きで描いて、その地図上で説明頂ければ嬉しいです。私は、卑弥呼の殉死者多数の1文に興味有ります。
古代の海岸線の追加、いいご意見です。次回チャンスあれば工夫してみます。ありがとうございました。卑弥呼の殉死者多数の一文・・確かにそうですね。この一文だけで箸墓説は消えることになります(笑)。
邪馬台国の場所が実際よりかなり南に記述されてるのは、魏が対立していた呉の背後に強大な魏の同盟国が存在するように見せかけ、呉を牽制する目的があった説。一都市で7万戸なら祭事用の巨石が見つかってもおかしくない。
巨石有無は分かりませんが、私もその説が正しいのではと思っています。
小迫辻原遺跡は、3世紀中頃です。講演会で日田市文化財保護課の意見です。卑弥呼の時代にも当てはまります。3世紀後期の本は多々ありますが。
なるほど、なるほど❗️
鉄鏡の復元画像には、著作権がありますので、(c)日田古代史研究会を入れてください。
了解しました。ただ、動画自体を差し替えると、頂いているコメントが消えてしまいますので、説明欄と第1コメントにその旨記述しました。それでよろしいでしょうか。
そう書いてあると思います。一方卑弥呼は伊都国、もしくはその直近にいたと書いてありますので、疑いなく糸島近辺に居住しそこで亡くなったはずです。私は平原1号墳を卑弥呼の墓と考え以前から研究しています。彼女は倭国の東遷と言われる時期には既に死亡していたはずですから、近畿邪馬台国を女王国としたのは、知られる限りではトヨのはずです。
卑弥呼かどうかわかりませんが、糸島付近がある時期まで女性のシャーマンの居た国であることは考古学からも明らかです。従っておそらく政治の中心である男王の伊都国は別のところにあったのでしょう。魏志倭人伝を読むと近畿が邪馬台国である可能性も否定できませんが断定することはできません。いずれにしても、大和朝廷と北部九州の女王国が併存しており、互いに独立した連合国であることは間違いないことであると思われます。そして大和朝廷は出雲あたりまでは勢力圏を拡大してたかもしれません。これが魏志倭人伝から推測できる限界です。
良く整理されていて理解できました。しかし、銅鏡空白の100年が気になります。銅鏡を重んじる種族は、北九州から近畿に逃げたということですかね?
そこはまだわからないですね。銅鏡副葬の中心が、北部九州から近畿へ移ったことは確かですが。
帚木蓬生「日御子」は、ほぼこの説で書かれていますね。
そうなんですか。そういう説があることは知らないで推論を重ねていました。勇気付けられます。
説得力がある解説でした。有難うございます。
ご感想お寄せ頂きありがとうございました。
見事、すばらしいです。全面的にこの動画を支持します。とにかく「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の出土地域(地区)に卑弥呼の邪馬台国があったと考えるのが、極自然だと思っていた。少なくとも筑後川流域になる。旧山門郡あたりは当時は海と聞いている。卑弥呼は、防衛上から、また、魏志倭人伝からも、ある程度内陸にいたと思っている。狗奴国は、熊本県北部地域の現在の山鹿市から菊池市、つまり、菊池川流域(菊池平野)にあったと思っている。そこには、方保田東原遺跡がある。圧倒的鉄器の生産量を誇る狗奴国が、邪馬台国を駆逐していったとみることが、この動画からも説明できる。この動画は、考古学資料(証拠)に基づき、これまで確定できなかった、卑弥呼の居場所を明確に指示したとして高く評価したい。私の中では、卑弥呼と邪馬台国、そして大和王権、神武東征の一連の古代日本史の脈絡が、各論者の動画を視聴することにより、明らかとなっている。邪馬台国は、東遷したのではない。神武天皇の即位は、紀元前70年頃で、神武東征の開始は、決して西暦300年頃からではなく、紀元前70年以前(もしくは、波速:難波が地質学上確認できる紀元前50年以前)であった。邪馬台国とヤマト王権とが、西暦3世紀に併存していたということが、各論者の動画から結論できるようになった。
天照大御神さまから高い評価を頂き、光栄です。というか、賛同頂けたことに素直に嬉しいです。そして、台与の時代に北部九州で起きたこと。ヤマト王権の成立への九州の関わり方。神武東征のこと。これらは私の中では思案中です。今後の発信にご期待頂ければ、なお嬉しいです。
理論的に論じられており目から鱗です非常に参考になりました。これからも楽しみにしています。是非続編をお願いします
有難いお言葉。続編、勿論やります(笑)。
資料が整理されており、概ね述べられてる通りだと思います。女王国の都は私も日田と思います。しかしながら想定されてる邪馬台国の領域は魏志倭人伝の人口比率から考えると小さすぎると思います。私は、邪馬台国の領域は日田から下った朝倉と直方平野、北九州、大分さらに延岡付近まであった巨大国家と思います。魏志倭人伝の水行10日は朝鮮南端の狗邪韓国から北九州まで船で渡り陸路で宇佐あたりまで下って日田に上がった行程ではないかと思ってます。従って水行20日の投馬国(熊襲国)は宮崎あたりでしょうか。古事記の国生み神話で”伊邪那岐命・伊邪那美命が産んだ大八島国の一つである筑紫島(九州)は、伊予之二名島と同じく体は1つだが顔は4つある。筑紫国の白日別、豊国の豊日別、肥国の建日向日豊久士比泥別、熊襲国の建日別である。(別とは初期王朝に於ける「別」「耳」は、首長または国の名に使われている。)”邪馬台国はこの豊国だと思います。また、奴国は博多湾と八女の両方にあり(魏志倭人伝でも奴国は2つあります)。伊都国・奴国は、漢の時代には博多湾近郊ですが、魏の時代に防衛上の理由から内陸部に遷都して吉野ヶ里が伊都国ではないかと思います。王が居た伊都国は筑紫国の行政府で奴国は経済の中心、不弥国は筑後川と宝満川の合流するところで防衛拠点であり久留米付近かと思います。筑紫国と豊国は邪馬台国連合を組み、狗奴国と闘い、敗れて直方平野付近まで後退させられたのでしょう。
なる程、そういう廻り方もあり得ますね。水行、陸行の記述をとれば、ということだろうと思いますが、それだと当時の最強国の筑紫平野軍団を嫌ってるようで怒りませんかね(笑)。不弥国は小国なので久留米にだけ小国があったとは思いづらいです。久留米に来たなら、日田まですぐですし・・・・20国の比定を私は出来ていましんが、斯馬国(志摩郡)から東廻りで最後に奴国(博多・春日)へ戻ってきたかなとボヤ~と思っています。奴国ですが考古学文献では弥生中期以降、卑弥呼の後の時代まで順調に発展していっています。勢いが衰えた風はないですね。
日田は筑後川を下って攻め込めるという利点ありますので筑紫平野へ川を使って軍団を送り込めます。下から攻め登るよりはるかに有利ですよね。日田を押さえると北部九州を統率できると言われるほど重要なところです。また、朝鮮半島から直接宗像に渡ることも不可能な距離ではありません。ここの地域を治めると朝鮮との直接交易も不可能ではないということです。筑紫軍団がいくら強くとも日田を攻め落とすのはかなり困難だと思いますし日田盆地は稲作に適した土地で兵站を養える能力があったので戦争しても筑紫国と豊国はほぼ互角かそれ以上かと思います。従って筑紫平野がすべて筑紫国勢力が統率されてたとは限らないと思います。一部は豊国が占領した地域もあった可能性があります。それが倭国大乱でしょうか、それから奴国(博多湾地域)は、漢の時代より衰退してることはないというのは当然そうです。だからと言って邪馬台国の時代に果たして最強であったかどうかは疑問です。単なる中国に朝貢する隷属国家である可能性が高いと思います。何故なら古事記の記述のような九州が4つの国に分かれているというような状況にはならないと思います。また神武東征の話も明らかに九州の東側からのできごとですよね。邪馬台国を奴国・伊都国の南に想定するのはやはり違和感があります。
そんな風に根拠を分かり易くして、私とは違う考えを教えて頂けると、とても有難いです。私はこの分野の専門家ではないので、発信している動画も頂いたコメントへの返しもその時その時に調べ考えて発信しています。皆様のご示唆で筋書きを作って来たとも言えるので、大変ありがたいです。そうした中で、日田の勢力をもっと見直していいというご意見はごもっともと思います。また、上流で舟を作って一気に攻め込むという戦法も現実的だと思います。多分、数年かけて秘密裡に準備する戦法として使えるのだろうと、私もずっと思ってきました。ただ、今回の筋書きで骨子としている要素として、王権と直結しているだろう、甕棺墓、青銅器、漢鏡の広がりの歴史を、第9話から見て頂いていると思いますが、筑紫平野・福岡平野勢力と日田盆地の関係性を見ると、日田盆地勢力は受動的に見えるので本編のような見立てにしました。それと、「邪馬台国を奴国・伊都国の南に想定への違和感」についてですが、魏志倭人伝にはこの南北関係の記述が2か所; ・南至邪馬壹國 女王之所都 ・自女王國以北 特置一大率檢察・・・常治伊都國とあり、そして女王国からみてさらに南に狗奴国があるわけですから、ここを否定しないと、この南北関係は変えられないと思っています。
この点はおっしゃる通りです。魏志倭人伝はどこから南なのか一切のべておりません。しかしながら、使節団は、伊都国近辺までしか実際に行ってないのは確実です。邪馬台国や投馬国の位置はあくまでも倭人から聞いた話です。だから水行とか陸行とかの日数しか述べてないのです。従って”自女王國以北 特置一大率檢察・・・常治伊都國”のところは女王国がどこにあるかはわかってないが取り敢えず自分達が検証した国は伊都国だけなので述べたにすぎません。女王国や投馬国の位置がどこにあるかどうかはわかってない可能性が高いと思います。女王国は日田なら少なくとも伊都国より北にあるわけではないですよね。一方魏志倭人伝をいいかげんな文献であると否定する説もありますが、少なくとも誰でもわかる方角や人口の規模まで否定する根拠は何なのか理解できません。邪馬台国は少なくとも奴国の3倍以上ある国です。そうならば筑紫国の3倍以上の領土を持つ国で筑紫国より国力が上の国でなければなりません。陳寿が嘘を書く理由が何なのかわかりません。何故ならこれは倭人の分析をした報告書で皇帝にも見せるものなので現実的な話だと思います。魏志倭人伝の記述は神武東征にも繋がる内容なので真実が知りたいと思っております。動画で分析されてる内容は専門家の内容よりよっぽど説得力のある内容で敬服しております。また次回の動画を楽しみにしております。
女王国の位置を正確に書かれていないのは、おっしゃるように使節が知らなかったか、正確に書きたくなかったかのどちらかだと思いますが、いずれにしても「女王国の北に伊都国がある」としている以上、伊都国の南に女王国があると解釈することが順当だと思います。「女王国は日田なら少なくとも伊都国より北に」は「伊都国より南に」の書き間違いですよね(笑)。私の解釈は女王国は筑紫平野全体=筑紫平野勢力を指していて、日田は卑弥呼の居館を設定した場所=いた場所、ということです。他の諸々の御指摘は、私も同感であります。このあと、卑弥呼の後の日本の姿をあぶり出していきたいところですが、邪馬台国・畿内説の方は、どうして卑弥呼が大和にいることになったのかを考えることさえ放棄されているようですし、卑弥呼・トヨの東征説の方でも東征自体の実体を解明されようとする論を見たことがありません。(私が見てないだけかも知れませんが)私も暗中模索の状態で先行きは見えませんが、おっしゃるように「神武東征にも繋がる内容」であることは確かだと思いますので国史に関わる解釈でもあり、軽々に推理する訳にもいかないとビビっている昨今です(笑)。
国名は当時の魏国の発音で読んだらどの様になるのかという研究は有るのですかね?例えば好事国という記述が有りますが、中国の魏の時代の発音ですとホカタと発音されてました。これは所謂博多の事ではないかと思うんですが?😅😅
ホカタ=博多。面白いですね。一般に当時の発音は呉音に近いとよく言われますが、知識がないので鵜呑みにするだけです。勉強せんと!
すばらしいですね。スッキリしました。
ありがとうございます。「ホッ」
お久しぶりです。 前編と本編を拝見しました。大変詳しく調べられている事に感服しました。 ただ、卑弥呼が居た処が日田だと言うのは大分県人としては嬉しいのですが、あそこは筑紫平野の奥座敷的なところで仰る様に防衛するには容易なところですが、やっぱり山の中の盆地でちょっと田舎、辺境に過ぎる気がします(^^) 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が卑弥呼の鏡である事は間違いないですが、鏡は移動も考えられますから、出土したダンワラ古墳自体が5世紀くらいの古墳とされていたので鉄鏡を受け継いだ者の子孫が移動したのでは?と思います。 日本最古の居住地跡との事ですが、それは私も地元ながら気がついていませんでした。 すごいですね。 ただ、遺物遺跡の年代は気をつけないと、2、3、4世紀は畿内説の百年古く狂った年代観をそのまま踏習しているケースが多いですから、年代!と言う言葉にはいつも、百年古く狂った?と言う枕言葉をつけて考えています。 飛ぶ鳥の明日香の里の〜、百年も古く狂った年代の〜、ね、五七調で語調が整ってますでしょ(^_^) 日本の考古学界の(畿内説の)年代観はその程度で考えるとちょうど良いです。 庄内式土器ですが、出現期はともかく、布留式土器との交代期はホケノ山古墳の築造期です(庄内式土器と布留式ゼロ期土器が同時に出土)から、その築造期を考えると分かります。 それは以前お話しした様に、ホケノ山古墳から出土した楽浪鏡(画紋帯同向式神獣鏡)が楽浪郡墓の最終期土器と共に出土することから、その墓の埋葬年より後の時代です。 楽浪郡の滅亡年が313年ですので、それ以降、32、30年代の築造でしょう。 さらに、位至三公鏡が年代を考える決め手です。 これは西晋時代(265〜316年)の鏡で墓誌により年代が確定した鏡が洛陽で8面、非洛陽で8面の計16面もあります。 また他にも19面の位至三公鏡のうち1面が魏の末期か西晋早期と考えられる他は全て西晋時代の鏡です。 これは墓誌で年代が確定できる鏡だけでなく、墓制やその出土品の比較によって、墓同士の時代差がほとんど見られない事から、時代が特定できる鏡なわけです。 墓誌から分かる年代は、285年、286年、287年、288年、289年、295年、302年などです。 つまり3世紀の第四四半期以降4世紀の初頭くらいの鏡なのです。 この位至三公鏡が北部九州から多数出土する一方で奈良の纏向遺跡からは全く出土しないと言う事があります。 つまり、4世紀初頭、300年頃までは、西晋の洛陽政府と交渉を持っていたのは北部九州勢力です。 畿内説だと、北部九州勢力が独自政権であったのはせいぜい西暦15〜70年代となるでしょう。 この事からも畿内説の年代は百年古く狂った年代である事が良く分かります。 庄内式土器が北部九州に伝わった年代と仰ってましたが、どのくらいの年代でしょうか? 位至三公鏡の出土と比較するとその年代が正確に分かりますよ。
お久しぶりです。コメントありがとうございます。ダンワラ古墳はおっしゃるように卑弥呼の墓ではないかも知れませんし、祇園山古墳が正にそうなのかも知れないとも思っています。卑弥呼が死んだ後、卑弥呼の墓を造ったのが後継者でない場合は、魏の最高位の鉄鏡を副葬しないと考える方が自然かもしれませんね。ちなみにダンワラ古墳の構造図(漫画レベル)を見たことがありますが、須恵器が出た横穴式石室のもう一つ下層に竪穴式石室があり、そこにこの金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡があったとされていました。そうならば、3~4世紀もあり得るとは思いますが。また、「日本最古の居住地跡」ではなく、Wikipediaには、「日本最古の豪族居館跡」と書いてありました。古墳時代という認識から豪族居館跡という言い方になったのだろうと思います。北部九州で見つかっている庄内式甕の土器編年については、佐々木憲一氏の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」を参考にし、その大元は、久住猛雄氏の論文によります。久住氏は、関西方面で流行っている古墳出現期の早期化?に論証を立てて反論されている研究者で、今回この居館跡の土器編年を近畿式編年に割り当てられ、庄内Ⅱ~Ⅲ式とされました。これは箸墓出現期の前の世代にあたります。そしてこれをAD220ー240年を含む年代とされています。ご指摘の楽浪鏡や西晋鏡などについての知識は相変わらず進化しておりません。今となってはこの辺りの時代の状況を掴むことが自分には大事になってきたので、勉強します(笑)。一つ教えて下さい。「ホケノ山古墳から出土した楽浪鏡(画紋帯同向式神獣鏡)が楽浪郡墓の最終期土器と共に出土することから、その墓の埋葬年より後の時代。楽浪郡の滅亡年が313年ですので、それ以降、32、30年代の築造」について、ホケノ山の築造年が313年の前に持てない理由が今一理解できていません。
@@これはどうでしょう 313年より後というのは言い過ぎでした。 楽浪郡墓の埋葬者の墓が300〜313年であると考えられているからです。 もっと幅を持たせても290年代〜313年くらいでしょう。 現地ではそのように理解されているとの事です。 画紋帯同向式神獣鏡は神獣鏡の一種で呉系統に連なる鏡種である事は異論が無いと思います。 それが呉の地から遥か遠い楽浪郡に分布の中心があるのは、呉が滅亡して、西晋に統一されたからだと考えられるからです。 つまり、この鏡種の上限は呉の滅亡年の280年以降です。 そして下限は313年ですので、かなり時代性が限定してかつ明確な鏡種ですね。 呉の滅亡年に早速楽浪郡で作られ始めたとは考えられませんから、工人が楽浪郡に辿り着いて定着するまでの時間差を考えれば、どんなに早くても285年以降、普通に考えて290年以降とするのが無理が無いのでは?と考察した次第です。 そして、先に倭人が入手した鏡がホケノ山古墳の出土鏡です。 その後に倭人が入手したのが徳島県の萩原弥生墳丘墓出土鏡です。 ところが、先に死亡して埋葬されたのが萩原弥生墳丘墓の被葬者で、その際に埋納されました。 そこで、ホケノ山古墳の鏡を倭人が入手した時期を最も早く285年だとしても、結局はその後に作鏡された萩原弥生墳丘墓の鏡より後の時代に埋葬年をおかなければならないわけです。 なので、どうしても290年以降と考えるのが妥当でしょう。 しかも、萩原弥生墳丘墓の人物がこの鏡種を入手するまでの時間差、そして入手後に死亡するまでの時間差を考えるならば、どう考えても萩原弥生墳丘墓の人物の死亡年は300年前後でしょう。こう言う考察から先ず、萩原弥生墳丘墓の年代が分かってくると思います。 この300年前後と言うのが最も早い想定です。 そして、さらに萩原弥生墳丘墓の方がホケノ山古墳よりも古いのですから、その時代差を加えないといけません。 一方で、後の時代と言っても古代人の寿命の限りですから(伝世ではないとして)、入手してから、どんなに頑張っても40年前後で死亡して、埋納されたのでしょうから、そうすると、320年くらい、少し幅を持たせても、32、30年くらいと考えてるわけです。 (20代の若い首長が入手しても40年後は60代です) これだと萩原弥生墳丘墓とホケノ山古墳の時代差は2、30年です。 どっちかの墓が、より古い!と言う場合、この2、30年差は誤差を考えると、分別できる最小値ではないか?と勝手に考えています。 以上考察と言ってもただの独りよがりの言説に過ぎませんが、そうであるからこそ、「無理のない」「合理的」と言うことを心がけているつもりです。w さて、そこで日田の豪族居館跡ですが、その成立年が箸墓古墳出現前期であるなら、まさにホケノ山古墳の築造期ですから、やはり32、30年代が正しいと考えられます。 つまり、やはり、100年古く狂った年代観です。 もうひとつの考察。唐古鍵遺跡の時代、奈良地方の遺跡出土物では瀬戸内地方との結びつきは驚くほど希薄で、むしろ伊勢湾方面から東海地方との結びつきが強かったとあります。 また、河内地方では池上曽根遺跡の出土物を見ると東瀬戸内地方との結び付きが非常に強い事が分かります。 つまり、大阪湾岸地域と奈良盆地地域の両勢力は政治的、交易上、疎遠な間柄だったのでしょう。 そこで、位至三公鏡の出土状況を見ましょう。この鏡は前回の説明の様に285年代〜302年墓誌の年代がハッキリしている鏡です。 年代がハッキリしていない墓の場合でも出土物や墓制から、同時代の墓である事がハッキリしています。 この鏡の日本国内の分布は北部九州に分布の中心があり、大阪府あたりに少し出土例がありますが、奈良盆地には一例も出土例がありません。 洛陽墓で285〜302年ですよ! 倭人に伝わり、それが埋納されるまでの時間差を考えれば、埋納年代はもう少し後でしょう。 つまり、この300年頃は北部九州に独自政権が存続し、大阪湾岸地域と奈良盆地は前代からの疎遠の状態が続いていたのではないでしょうか? そうすると、大阪湾岸地域と奈良盆地地域が強く結びつく纏向遺跡時代はもっと後の時代なのではないでしょうか? 少なくとも、畿内説の年代観では、285年〜302年ごろの洛陽で多数存在していた位至三公鏡は、北部九州よりもむしろ奈良盆地でドシドシ出土するべき鏡種のハズですよね。 しかし、一例も出土しないのです。 案外、ホケノ山古墳の楽浪鏡も入手したのは310年代になってやっと入手できたのかもしれませんよ。 奈良盆地勢力が大阪湾岸勢力を屈服させたのがそのくらいの時期だったとか?
詳しい解説ありがとうございました。画紋帯同向式神獣鏡のご見解理解できました。生産から埋納までの時間差の見方に見解の差は生じそうですが、楽浪郡墓での埋葬実績から、算定されている時差は私も妥当に思いました。ちなみに私が愛読する坂靖氏の「ヤマト王権の古代学」では、ホケノ山古墳から破片で出土した画紋帯求心式(同向式のこと?)神獣鏡は、魏の領域で3世紀前半代に生産されたとされていました。①日田の豪族居館跡の年代について坂氏によれば、大和での庄内式土器は河内より遅れており、河内で新しい形式が生まれても古いものが作り続けられていたらしいです。ホケノ山でも庄内式と布留0式が出ているのがこの為と思われ、ホケノ山は箸墓と同時期の布留0式と判定されていました。ヤマト以外での一般年式としては庄内式期が3世紀前半と。先の久住氏の見解も庄内Ⅱ~Ⅲ式が220~240年とすることとも合致しています。②唐古・鍵遺跡の交易先の愛読書の受け売りですが、河内、摂津はもちろん、讃岐、吉備、播磨、近江、尾張、三河などとの交易は多く、一部北部九州もある、となっています。③北部九州と近畿の繋がり庄内式期に大阪湾岸のどこかから庄内甕を持った人たちが博多周辺に来て、在地の土で庄内甕を焼き始め、九州各地に流通させた形跡がありますし、弥生中期の大阪湾型銅戈は北部九州由来だったことも分かっているので、早くから繋がりはあったようです。ただ、そういうことを簡単に近畿勢が北部九州を支配しに来たと解釈する方々もいるので、しっかり伝えていかなければと思います。また近畿内で見ていくと、色んな物、鏡、鉄、甕などが大和へは遅れて入って行き、大和が後進地域だという印象があります。④位至三公鏡についてこのご示唆はとても貴重です。私もまさにこの年代のことを知りたいので、出土場所、時期を今後整理していきたいと思っています。ありがとうございました。
配信を、ありがとうございます。動画主さんは、先史、弥生時代の邪馬台国 研究家の、第一人者ですね。邪馬台国研究の第一人者である貴兄の、考古学博士論文の発表を、待っています。
またまた、御冗談を!私は旅行好きの古代史マニアです。
私は、福永晋三氏の邪馬台国(やまと国)筑豊、田川説に歴史の真実を感じています。古代史検索の旅シリーズに筑豊、田川説を取り上げて頂ければと思いコメント致します。納得できる古代史が見えて来るのではないかと思います。
福永晋三氏の動画はTH-camに沢山アップされていて、私もよく見ています。機会あれば筑豊方面も訪れたいと思っています。
壹与姫阿弥子命とその夫の忍穂耳命を祀っている、香春神社もお薦めのスポットです。 そんな二柱 夫婦神の伝承も数多く私達の田川地域に残っています。英彦山も参考地です。如何に 古代倭 邪馬台国の女王 壹与姫命の時代に 魏の帯方郡から、わざわざ、派遣された張政と共に 20年間、邪馬台国の国政を統制したかが、『 狗奴国私考 宮崎照雄 著 』をご参考になるだろうと思います。( 僭越ですが、この著書には、生憎、筑豊地域の邪馬台国の史実が、載っていません ) 女王として、即位した壹与姫命が、筑後の邪馬台国から、筑豊地域の田川へと 遷宮した事も、ご存知になるかと思います。
奈良県説は亡くなりましたね
日田近くには金鉱もあったわけだし重要拠点が隠されていたかもしれないし。いずれにしても、九州は原生エリアが多すぎる。国有地も多いようだし。もっともっと掘り返せば、国宝級の遺物が眠っているんでしょう。だから、開発させない理由もあるのかもしれない。地形図だけを見て、昔の川沿い流域、盆地、高台なんかを調査すると証拠が出てくるんじゃないかと思ってます。奈良なんか、吉野ヶ里とは比にならないくらい遺跡と住宅が隣接してる。お宝の地九州。
九州には古代の謎がまだたくさん残っていそうですね。それで開発許可に影響があるかどうか知りませんが。高速道路建設などの大規模工事が、重要遺跡の発見に繋がるケースが多いようなので、今後に期待したいです。
古代の朝鮮と日本の航路を交易の面から考えてみました。交易とは双方が行き来して成り立つもので日本から朝鮮に渡る場合はどうなるかということも考えなければなりません。可能性の高いのはやはり呼子経由で島伝いに壱岐、対馬を経由する航路です。これが一番容易で海流も朝鮮半島に向かってるので渡り易いことになります。従って最も使われた航路であると考えられます。交易を行うには常に決まった場所に荷揚げを行う必要があり、その地理的条件から糸島近辺がやはり最も有力と思われます。縄文から弥生においては、怡土郡と志摩郡の間には海があり、唐津方面に向かって入口がある湾を形成していたようです。交易の港としては適した立地条件でありここに多くの人が住んでいたと想像できます。つまり、この地区には古代より多くの渡来人が住み着いていたと思われます。多くの楽浪土器など渡来系の遺物がこの地区だけ見つかるのはその理由からでしょう。しかし、現在は完全に陸続きとなってることからここの港は徐々に埋まって行く地形となってるので、その後交易の中心が博多湾に移って行くことになったのでしょう。私が疑問なのは、そこまでの船での交易の中心であった糸島付近が伊都国なら何故直接船で行かなかったということです。一旦唐津に立ち寄っても陸路で行く必要性はまったくないということです。何故なら糸島からの交易路はすべて船でなければおかしいということになります。
前半のお考えの部分は、私も全く同感です。最後の疑問の部分について;伊都国の、当時王が居た場所は三雲・井原遺跡の辺りと思われますので、上陸港が加布里あたりとすれば、上陸後、南寄りの東行することになります。末盧国も伊都国、奴国と並んで王がいたレベルの国で、かつて独自に中国との交易ルートを持っていた国だったと思われますので、使節団も立ち寄ったのだろうと思います。呼子辺りを中継するなら、王に挨拶して行け・・・とか。難解な部分ですが、そんな風にでも解釈するしかないと思っています。
最近、邪馬壹国に興味をもって、このサイトに辿り着きました。魏志倭人伝を忠実に読むと、出発点を博多湾あたりにして、直線方式では投馬国は邪馬壹国の北にあるはず。放射方式でも投馬国は20日、邪馬壹国は40日かかるので、投馬国は邪馬台国より近くにあるはず。位置関係がおかしいのではないですか。
コメントありがとうございます。そういう読み方も出来ると思いますし、色んな読み方が出来る「水行二十日・・・」の記述なのではないでしょうか。普通に解釈すれば奄美、沖縄方面へ行ってもおかしくないですし、南を東の間違いとすると大和へ行ってしまいます。そうすると、その辺りに邪馬台国はありません。おかしな記述なのだと思います。何か意図的なものを感じますが真相は分かりません。
NHKのクロ現で吉野ヶ里の石棺墓の線刻は当時の夏の星座を表してるという解説がありました。確かにそのような配置になってます。これから言えることは筑紫平野ではすでに稲作が盛んに行なわれていたということと、墓の主は天体の動きに精通した呪術師のような人物(墓の大きさから言って恐らく女性)であるということです。いつ種まきをし田植えを行なえば良いと指示できるのですから当然人々から敬われ、権力を持った高い身分の人物であったことは容易に想像できます。まさに卑弥呼ですね。石棺墓から副葬品が出ないことの方が考えられません。弥生末期に恐らく盗掘され泥で埋められたのでしょう。その上に日吉神社(出雲系山王神社)が建てられ祟り神として葬られた。ということでしょうか。
卑弥呼の最期の時の、時代の混乱を想像すると、すぐに墓を暴かれたとしても不思議はないですね。本当は何か出てきて欲しかったですが(笑)。
吉野ヶ里の石棺墓の上蓋は太良岳から運ばれたとの発表がありました。これから吉野ヶ里は有明海一帯をすでに支配下に置いていた広範囲の国家となります。当然筑紫平野も支配下であったと考えられ、この一帯を統治する中心である可能性が高いと思われます。魏志倭人伝で末盧国まで来てる使者が吉野ヶ里のことを記述しないわけがありません。唐津から東南に5百里を陸路で行ける場所は吉野ヶ里しかありません。
ありがとうございます。吉野ヶ里の終末期の有り様をもっと勉強したいと思っています。理由は、筑紫の中では3世紀には福岡平野が、須玖岡本や比恵那珂あたりを中心に最も栄えていると思われるからです。
まだ未発掘エリアが残ってるのですべて終わるまで結論は待っときましょう。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡クラスの遺物が出ればこの論議も終わりですね。☺
ですね。了解しました。
エジプトのファラオの年代はミイラによって殆どの年代は(15代辺り)まで特定されています。日本の初期の年代の空白期間がありますが、邪馬台国存在でこの歴史空白が埋まると良いですね。
日本の国家経営の始まりが大和であったことは間違いないと思いますが、その母体がどんな人達だったのか、そして前段の日本がどんなあり様だったのか、興味が尽きません(笑)。
素晴らしい考察、とても説得力が有ると思います。ただ日田は魅力的な土地ではありますが、邪馬台国には馬が居なかった事を考えると、やや奥まり過ぎている様にも思われます。邪馬台国=筑後平野を統治する為には、この時代、やはりもう少し中心部に居を構える必要が有ったのではないでしょうか?私は全くの素人ですが。。。最近。。。平原王墓遺跡背振り神社吉野ヶ里八女市付近が、ほぼ直線的に並ぶ事と邪馬台国の北に伊都国(背中合わせ?)と言う話が何となく気になっています。(これはどうでしょうか⁉︎)
ありがとうございます。おっしゃるような配列・・と邪馬台国の関係性についてはよくわかりませんが、奥まった位置については以下のように考えています。卑弥呼はそれまで争っていた王達に共立されて女王になっています。だから、擁護される存在でした。武力を伴い実権を握っていたのは吉野ヶ里や平塚川添だったりしたかも知れません。そういう意味では、日田は擁護しやすい守りやすい好都合な立地なのだろうと思っています。
確かにそう言う意味で、日田は魅力的な場所で選択の余地はありますが。。。邪馬台国連合に於いても、卑弥呼様は飾り物ではなく、重要事項に関しては種々お伺いを立てるべき存在の様に記されていると思われます。日田から久留米辺りまで約50km、そこから各部族拠点まで更に20km前後以上。 古代人が健脚であったとしても、何事かのお伺いを立てる使者が頻繁に往来するのに、生前の政の拠点としてはやや距離があり過ぎの様に思われまが、距離感覚の問題としてどうでしょう?
どうでしょうかね。国事について占うような案件が毎日あるとも思えませんので、十分近いのではと思っています。これが畿内だと、こうはいきませんね(笑)。
私は邪馬台国九州説です。しかしながら、邪馬台国の場所や卑弥呼の古墳が特定できてないのが不思議です。大和で特定できなければ、山田で探してみました。朝倉の山田🆍が大きな古墳の中にあります。南駐車場の近くにある長田大塚古墳は大きさ形も魏志倭人伝と一致します。古来、地元では卑弥呼の古墳と伝えられているとか。重点場所として宮内庁に発掘調査を申請しましょう。
卑弥呼の墓はどこなんでしょうね?山田=邪馬台、あるかも知れません。長田大塚古墳は知りませんでしたが、いつ頃の古墳かもわかっていない? でしょうか。
日子(英彦)山の日巫女だと思っています。住んでた所は田川・行橋・宇佐あたり?水行・陸行の日数は移動距離を無視した方が良いと思います。饗応の毎日なので一日数㎞しか進めていないはずですから。
コメントありがとうございます。「日の巫女」という解釈は以前からありますね。
大変興味深く拝見させていただきました。邪馬台国に関してたくさんの人が持論を述べていますが、ほとんど人が『伊都国』の存在を軽視し過ぎてる気がします。邪馬台国はどこだ?のみに集中するあまり伊都国と邪馬台国の関係を疎かにしてます。政治的中枢は伊都国。宗教的中枢が邪馬台国。女王国の中で特に重要な役割を担っていたのがこの二国ではなかったでしょうか?この辺はⅡ-5で貴台も少し触れていらっしゃいましたが、この二国の密な連携は欠かせません。ですので、この二国は比較的近距離に存在していたと考えられます。北陸説など酷いもので、現糸島市に伊都国、北陸に邪馬台国があり、その間日本海岸沿い数百キロにわたり二十数国が連なって女王国が形成されていたというのです。ここで忘れてはいけないのが、卑弥呼は秀吉のように全国統一をしていたわけではないということです。女王国は日本列島のごく一部であって、敵対する勢力が存在していました。魏志倭人伝には狗奴国の名前が出てきますが、狗奴国以外にも敵対勢力は存在していたハズです。「あなたが敵対勢力の人だったらどうしますか?」って話です。女王国がそんな間延びした形なら、途中の手薄なところを攻めて伊都国と邪馬台国を分断してしまえば女王国なんて簡単に崩壊させられます。畿内説や四国説にも同様のことが言えます。これって、邪馬台国を語る根本ではありませんか?まず最初に伊都国と邪馬台国の距離をどう考えるのかをキチンと説明しない限り、それ以降の銅鏡だの土器だの景初三年だの桃の種だのいう話は聞く価値さえありません。邪馬台国がいつ出来ていつ滅んだのか定かではありませんが、少なく見積もっても数十年存続していました。女王国が間延びした形で形成されたなら数十年も存続出来たとは到底考えられません。私は、對馬国一支国を除く女王国はコンパクトにまとまったそれほど広くはない範囲に存在していたと考えます。伊都国と邪馬台国の間はルートが確立していて、伊都国の役人が頻繁に行き来していたのではないでしょうか?陸行のみか陸行+水行かは分かりませんが、3日くらいでは到達できる距離です。(強い根拠ないです)後の時代なら長距離移動は馬を使うのでしょうが、馬も牛もいなかったといいますから長くてもその道のり100km程度でしょう。二国の間に位置する国に、休憩所や宿舎が設置されたイメージでしょうか。ルートが確立していたと言っても当時のこと。歩きやすいようにならした程度だったでしょうから魏国の人からしたらとても道路と呼べるレベルじゃなかったかもしれません。現在は跡形もなくなってるでしょうからその姿は永遠に分からないでしょう。末盧国、吉野ヶ里を西端に、東は門司、南東は大分市、南は熊本県北部までを最大とした範囲内に女王国は形成されていたと考えます。ただ、私はそこまで知識を持っておりませんのでピンポイントで邪馬台国はここだ!という結論は出せません。それでも、畿内でも北陸でも四国でもないことは解ります。日田という結論は、以上のような面でも条件を満たしているので十分ありうると思いました。長っ😅
いちいち御もっとも。賛同致します。当時の姿を具体的に想像しようとされているお姿勢に共感を感じます。そもそも魏志倭人伝の記述を読み解きたいと思うのは、邪馬台国の場所を知りたいことが目的ではありません。当時の日本の国のあり様を知りたいのです。その為には、邪馬台国の場所が大和や四国や、はたまた福井だったとする説がそのままでは困るのです。その後の日本の姿に、邪馬台国がどこにあったかが大きく影響する為です。古今東西、統治するということは、軍備を常駐するかすぐに駆け付けさせるかが無ければ成り立ちません。おっしゃるような、3日/100km+α 位が、当時の馬も大型船も無い世の中の、現実的な統治範囲だろうと思います。
@@これはどうでしょう こんにちは☺魏志倭人伝は謎だらけで如何様にも解釈が可能なため今日まで様々な説を唱える人が後を絶ちません。私も素人なりに考えるのですが、どうしても解せない部分がいくつか残るのです。貴台がご研究をされた中で、私が解せない部分をどのように解釈されたのか非常に気になります。もちろん、真実は誰にも分からないことは重々承知しております。お時間のある時で構いませんので、ぜひお考えをお聞かせいただけないでしょうか。私の疑問は以下のことです。『南至邪馬壹國・・・可七萬餘戸』この七万余戸という数字はいったいどこから出てきたのか?他国に関しても記述があります。末廬国4000余戸伊都国1000余戸奴国2万余戸不弥国1000余家(戸?)投馬国5万戸余戸とは家の数。世帯数と認識しますが、記述されたものだけでも合わせれば10万戸を軽く超えます。魏の使節団は絶対自分たちで数えていません。すると、倭国からの情報をそのまま使用したことになります。そこが解せないです。文字さえ持たない倭国人が数字という概念を持っていたとは思えないです。あったとしてもせいぜい「1・2・3・4・5・たくさん・・・」レベルではなかったでしょうか?とても万単位の数を数えられると思えませんし、そもそも戸籍もない時代に世帯数など数える必要すらありません。ご存知とは思いますが、北陸説の人がこの不明瞭な数字を真に受けて人口を割り出し、必要な米の収穫量を確保出来る水田が作れる場所という観点で北陸説を主張しています。米は天候によって毎年収穫量が違います。天災により水田が全滅なんてことになったら飢え死にしてしまいます。そんな不安定な米飯を主食にしていたとは考えられないのでこのような考察は無意味です。それだけでなく、他地方の主張者でもこの数字に疑問を持つ人がほとんどいないように思うのです。なぜ疑問に思わないのか?魏志倭人伝の信憑性にも繋がる話です。もしこの数字がいい加減なものだったり、別の何かを表現しているものだったら邪馬台国論争が根底から覆りそうに思うのです🤔
確かに今までこの数字を疑ってはいましたが、どこから7万余戸が来たのか、考えたことはありませんでした。確かに難しい問いです。そこで改めて考えてみました。仮に、魏からの使者が伊都国までしか来ていないとします。そして使者は伊都国の東の外れの日向(ひむか)峠に連れて来られます。ここからは西に伊都国、東に奴国/福岡平野が一望できたハズです。ここで使者は、伊都国1000余戸、奴国2万余戸のイメージを実感します。そして、伊都国の役人から説明されるのです。「この南の山並みのずっと南に女王の都する邪馬台国がある。国の大きさは奴国の倍の倍より少し小さい位なり・・・と」勿論邪馬台国の位置は国の大きさを盛る為に、ず~~と南にあると言いますが、実際には山を越えた筑紫平野なのです。当時の伊都国の役人は、もちろん奴国にも筑紫平野・女王国連合国にも行ったことがあり、また山頂から両方を眺め比較したこともあったことでしょう。その山頂は後に基肄城がつくられた基山(きざん)です。現基山(きやま)町にあります。ここからの眺めはこのシリーズⅡの第1話で紹介しました。福岡平野も筑紫平野も、大規模集落が点々とあった大きな平野ですが、山から眺めればそれぞれ一つの国に見え、2万戸、7万戸の規模ということが出来た。そんな風に想像しました。「これはどうでしょう、か?」(笑)
@@これはどうでしょう なるほど💡確かに山の上からの視点はアリですね。というか、ズバリそれでしょう👌実際現地に足を運んだ人でなければ意外と気付かないかもです。魏国の人なら万単位の数を扱えるので合点がいきます。それなら、私の考えはこうなります。魏の使者(梯儁)は不弥国までは確実に行ってます。根拠は距離を里数で表現してるからです。その先を陸行・水行で表現してるのは実際行っておらず聞いた話だからだと・・・実は邪馬台国には行ってない可能性が高いと思います。理由は、遠くて行くのが面倒だし疲れるからです😎しかし、魏志倭人伝にはいかにも見てきた風な感じで書かれています。これは使者(報告書を書いた人)が見た話ではなく、同行した調査団が見た話と考えます。なので、水行二十日や水行十日・陸行一月は末廬国もしくは伊都国から五島灘を経由して有明海に入っていくルートで要した日数だったということになります。ナント❗連続説ではなく放射説が正解でした👍魏志倭人伝の話をTH-camやブログでする人は多いですが、魏の使節団がどれほどの規模だったか想像する人はほとんどいないです。考えたって真実は判らない訳ですが、しかしそこはちゃんと考えなければいけない部分だと思います。多くの下賜品を運ぶのですから、使者とその付き添い、舟の漕ぎ手だけではなく、多くの護衛兵も引き連れてきたハズです。一番の目的は下賜品を渡すことで間違いないですが、それだけでなく倭国の調査も大きな目的です。魏国は世界最先端の大国で、倭国は足元にも及ばない後進国。とはいえ知っておくことは必要です。攻め入る時、大船団が上陸可能な場所とか地形とか、戸数を調べたのは人口から兵力がおおよそ割り出せるからでしょう。使者の滞在中に別行動で大人数の調査団が各地散らばってあらゆる場所を調査していたと考えます。だから、狗奴国の結構詳しい様子や侏儒国・裸国・黒歯国のようなどうでもよさそうに思える国の話まで出てきたのだと。。。なぜ梯儁は不弥国までは行ったのか?一番考えられるのが接待を受けるためです。だいたい、こういうときの使者は態度が横柄と相場が決まっています。邪馬台国、卑弥呼なんて当て字を使ってることからも分かるよう、思い切り見下してるわけです。接待も自分から要求したことは容易く想像出来ます。卑弥呼の方から伊都国に出向いたのではないでしょうか?女王と言ったって魏国の人からすればたかが田舎の婆さんなわけです。山奥まで何十キロも歩いて自分の方から会いに行くなんてことしません。威厳を示すために、わざと女王を呼びつけ、跪かせて挨拶をさせるくらいのことは平気でやりますよ。魏国と倭国。今さら必要?って気はしますが、やはり上下関係をハッキリさせるお約束の儀式は行なったと思われます。それはまぁいいとして、邪馬台国が七万余戸というのはありえないのです。動画内に「ネットワークをもつ環濠集落群」の話が出てきましたが、30国中の小規模国の集まりで、調査団がそれ全部を邪馬台国と勘違いしたと考えれば合点がいきます。長くなりましたので詳細は割愛いたしますが、もし邪馬台国が女王国の中で一番大きい国だったら女王国という連合国家は誕生しなかったハズじゃないですか。
様々なご推察、お見事です。私もここまでの想像力を持っていませんでした。勉強になります。この内容の多くは賛同できるものですし、卑弥呼が伊都国に出向いた、というのもそうかも知れません。ということは、邪馬台国への水行二十日や水行十日・陸行一月の内、水行は魏からの船団で西回り・有明海経由、陸行は伊都国で待っている使者に会いに卑弥呼がトボトボ、或いは輿にゆられて一月かけてやって来た、という推論も成り立つような気がします。最後の、邪馬台国が大国ではなかったお考えは、私も同意見です。あくまでも卑弥呼は大国に共立された女王です。死後はまた戦乱になる訳です。・・・・楽しいご意見、ありがとうございました。
最近ネットで、見つけたのですが御存知かも知れませんが、私は、一読してとても理に適った説であると思いましたので、これはどうでしょう様にもお薦め致したくコメント欄に記載させて頂きます。一部抜粋 「難升米は自らを大夫と名乗っていた。大夫は周の時代の官位である。そこで当時の倭人は距離を表すとき、周の時代の短里を用いていたのではないかと推察したのがこの短里説である。周の時代の一里は諸説あり、短里を約 67.5m、72.5mとする説などがある。だが、どの短里説にも共通していることは、陳寿の編纂した『三国志』の中で、倭人伝以外でこの短里が使用されている例がひとつも示されていないことである。つまり、短里説を実証するものが皆無なのだ。これでは部分最適でしかない。邪馬台国畿内説を唱える研究者が南を東に読み替えることと何ら変わらないのである。の道程・里程記事で最初に悩まされる部分は、不弥国から邪馬台国に至るまでの、不弥国から投馬(殺馬)国までは南に水行 20 日、邪馬台国までは投馬(殺馬)国から南に水行 10 日、陸行一月(30 日)と読み取れる部分だ。道程記事を読みながら里数を足して行くと幾つかの矛盾点にぶつかる。邪馬台国までの距離が帯方郡から約 5,200 ㎞(1 里=434m)というとんでもない遠距離になってしまうのである。これが邪馬台国の比定地論争を生む最大要因になっているのだが、問題は南に水行 20 日で投馬国、南に水行 10 日、陸行一月(30 日)で邪馬台国に「至る」の起点をどこにするかなのである。畿内説はこの問題には触れず、道程記事の中の不弥国から「南」を「東」の間違いだと決めつけ、邪馬台国を近畿地方だと主張したのである。だが、この手法は明らかに禁じ手である。この手法を用いることを認めたなら、方位に限らず、里数や国の名称も間違いだとすることができるため、邪馬台国は何処にでも存在させることができてしまうのである。これは現代の学問では限られた条件下でしか成立しない「部分最適」とされ、真実の証明には至っていないと判断される。これに対し「全体最適」はあらゆる角度で検討した結果、整合性が得られることを意味し、真実の証明が成されたと判断する。つまり畿内説は限られた条件下で得られた結論でしかないことになる。」「魏志倭人伝で陳寿が用いた「春秋の筆法」を解読して得られた 8 つの解 その 1 「陳寿は里数表記を 10 倍にしていた」 細川 圭弘 で検索してみてください。
ご教示ありがとうございます。十分な時間がとれず、細川氏の論文をしっかり読むことが出来ていませんが、その1、その2含めて興味深い内容であることは、良くわかりました。ペンちゃんさんに抜粋を頂きましたので概要を知ることは出来ましたが、他の7項目も含めて、陳寿が10倍していたとする説もまた、短里説同様、推論なのだろうとは思いました。私も結果的には短里説ですが、何故そうなったかは置いといて、帯方郡~狗邪韓国~対馬国~壱岐国~末盧国までの実距離に照らせば、70m/一里と換算するしかない、と思いました。後日、論文を熟読したいと思います。ありがとうございました。
@@これはどうでしょう その2の邪馬台国は 20 数カ国の連合国家の総称 から30 度の方位のずれまでは、思慮中です。ご返信ありがとうございました。当時の里程・旅程を考えると現在の実際の距離を当てはめるのには、少し無理が有り、矛盾が生じるように思われます。今後ともよろしくお願いいたします。
色々悩ましい魏志倭人伝ですね。今後ともよろしくお願いします(笑)。
@@これはどうでしょう ご返信ありがとうございます。今わたしは、卑弥呼の出自卑弥呼は、何処から来たか?!の根拠と、通説・定説の一支国(一大国)から末蘆国について、方角なし、1000里の末蘆国の比定地の裏付けを思考中です。また、1..通説の末蘆国伊都国糸島市平原遺跡と奴国玖須岡本遺跡は、漢鏡等1-7期の遺跡からも、自論女王国の敵国狗奴国の領地影響範囲に入る国々であることから、女王国の比定地を検討しています。豊前国の壹与の漢鏡失われたピースは、卑弥呼も入りそうで、240年代から266年代あたりですから、とても興味深いですね!2. ザックリと甕棺地域3. 鉄鏃地域4. 銅鏡等出土地卑弥呼の伯船鏡の出土5. 漢鏡(前漢鏡・後漢鏡1期から7期の分類による地域)6. 鉄剣の出土7. 銅矛の年代別地域8. 銅剣の年代別地域9. 絹の発掘10.朱丹の産地発掘漢の朱これはどうでしょうさんの資料を基に、推論が固まりましたら、送信致しますのでよろしくお願いいたします。
ご苦労様です。健闘をお祈りしています。
うーむ、どうもしっくり来ません(笑)①卑弥呼の所在地を基本的に魏志倭人伝の記述の通りだとすると、対馬壱岐間の距離からの類推で1里80mとして奴国-不弥国間はせいぜい8km程度。博多から直方では遠すぎます。②不弥国=直方では、南へ水行20里で投馬国へ至る行程が不明です。③甕棺墓の勢力圏はせいぜい奴国までで、宗像以東からの出土はありません。宗像以西と以東を同一勢力とするのは困難ではないでしょうか。④同様に 5:05 広形銅矛と甕棺Ⅳ期は筑紫平野以外では交差していないように見えますがいかがでしょうか。⑤魏志倭人伝の記述の通りだとすると、邪馬台国は投馬国の南なのでは?こんなところでしょうか。
そうですか、しっくりいきませんか?残念(笑)。①伊都国~奴国も百里なので、奴国から東へ百里で、飯塚市に設定しました。嘉麻郡のつもりなので、実際は嘉麻市あたりかもしれません。立岩遺跡が過去にあった地域ですが、便が悪いので郡使は行っていないかも知れません。②そういうことですので、出発点は不弥国ではないかも、と思っています。起点は多くの方が言われるように伊都国かも知れないと思っているのですが、この水行、陸行の議論にしてしまうと、解が無くなるかも知れません。③はどの時代へのご指摘でしょうか?④甕棺Ⅳ期では、広形銅矛の主生産地の奴国では甕棺は終わっていますので、おっしゃる通りです。⑤倭人伝は投馬国と邪馬台国については几帳面に位置をしるそうとしていません。ともに南にある、という理解です。女王国を順番の最後に記述したかった、という事情かもしれません。
①②⑤ですが、御説【古代史探索の旅Ⅱ】第4話 邪馬台国の所在地を最も正しい(と思う)方法で推定しましたth-cam.com/video/CG-mNL-6d8g/w-d-xo.htmlで表された経路が個人的には正しいと考えます。この時点では、投馬国から南へ水行10日陸行1月で邪馬台国という認識だったと思うのですが、こちらの御説は放棄されてしまったのでしょうか。③甕棺墓は全期を通じ、宗像以東の北九州沿岸からは出てきておりません。④興味深いのは 3:21 の図で、これは畿内勢力ともつながりを持つ広形銅矛文化国(物部系)が甕棺墓文化国の奴国(おそらく安曇系)を滅ぼしたことを物語っているのではないかと考えます。奴国王が再起を図って志賀島に金印を隠したのもおそらくこの時期なのでしょう。だれが奴国を滅ぼしたのか謎でしたが合点がいきました。その後、和解があり(天照と素戔嗚の誓?)、卑弥呼の時代には奴国は伊都国側に(なぜか)復したのだと思います。
①②⑤ご指摘のように、Ⅱー第4話では、旧山門郡のみやま市に卑弥呼がいたのではないかと推定しました。メインの根拠は長浜氏にならって、不弥国の南側の既候補地の中から、(その時点でもっとも正しいと思った)候補地を推定したわけです。その後、私なりに邪馬台国探しは続けていたので、特に今回は考古学資料を中心に推定し直しました。どちらも断定ではないので、放棄してる訳でもないです。そんな感じでお付き合い下さい(笑)。③それはそうなのですが、相乱していた国々が卑弥呼のもとに女王国連合になった訳ですので、有りうると思いました。そして、卑弥呼が遣使した弥生時代のこの頃になると、九州内の甕棺墓分布は、筑後地区のほんの一部と糸島地区の一部になっていて、ほぼ消滅しています。邪馬台国範囲を甕棺墓分布域に限定して設定することは無理かと思います。④弥生時代後期(甕棺Ⅳ期)になると奴国(須玖岡本等)では甕棺は廃れますが、逆に須玖岡本周辺は広形銅矛の主生産地です。古墳時代初頭まで続きますし、比恵那珂は都市として発展の一途です。滅びてなどいませんよ。他の方のコメントでも同様に「滅びた・・・」という意見がありました。何かそんな通説があるのでしょうか?参考に教えて頂ければ有難いです。
考古学的資料だけに頼ると、不思議と桃の種まで邪馬台国に見えてきてしまうという謎の奇病におかされますので注意が必要です。奴国の滅亡についてですが、例えばある日を境にニューヨーク市のキリスト教徒の墓が十字架ではなく、卒塔婆が立つようになったことを想定した場合、自然とはそういう風にはならないと思います。ある日突然宗教改革が起こったのでなければ、侵略を受けて十字架の物流が途絶えたか、侵略者によって文化に変えられてしまったと考えるのが妥当ではないでしょうか。いままで地続きだった奴国が甕棺Ⅳ期で甕棺(ex.十字架)が廃れ、広形銅矛(ex.卒塔婆)を祀るようになるのは後者だと思います。また、熊本県白川以北で甕棺墓が途絶えたのは前者だと思います。その後奴国が繁栄したとのことですが、大日本帝国も敗戦後に日本国として経済発展を遂げました。そこに住む国民も変わらないとしても、旧体制の崩壊という意味で「滅亡」としています。東の庄内式土器まで流れ込んでいるのであれば、どの勢力によって滅ぼされ、繁栄させられたかも推測できそうです。他に奴国の滅亡の証を挙げるとすれば、西暦57年に光武帝によって与えられた「漢委奴國王」の金印を志賀島に埋めていたことでも表れていると思います。旧奴国の王族は逃亡の果てに帰還かなわず滅亡してしまったのでしょう。これは、後の安曇磯良が奴国王の末裔なのかもしれないと考えています。私も甕棺墓分布域が女王国の勢力圏と合致しないかと考えていましたが、かつてのローマ帝国のように大きな版図だったものが、卑弥呼の時代には外部勢力によってだいぶ浸食されていることが、今回お示しいただいた甕棺墓のシリーズでよくわかりました。魏志倭人伝は南を東と言ったりせず、「そのまま読む」のが正解だと思います。
卑弥呼の時代、奴国の王権は須玖岡本の王(D地点甕棺墓)の時代と較べて落ちているのだろうとは思いますが、滅びてはいないと思います。それは考古学資料から、①広形銅矛の生産が継続していること。②比恵那珂に運河や1.5km以上の道路の建設が継続していること③近畿系土器が緩やかに流入していて、王への祭祀土器もまた同様であり、王の系統は継続していると思われること。④近畿系の庄内甕の前には吉備甕が入って来ていること。⑤甕棺墓が途絶えても旧甕棺墓が壊されずにそのまま残っていること。などから言えることです。桃の種の例えは、結論有りきの論拠に無理やりくっ付けているだけで、考古学資料を参考にしている例にはほど遠いです。
漢鏡、甕棺墓、銅矛、環濠集落の分布などのデータや倭人伝の記述から、筑紫平野を邪馬台国の比定地に持ってきたのは大賛成です。ただちょっと腑に落ちないのが安本美典さんが説く甘木朝倉の環濠集落である平塚川添遺跡について全く触れていないのが不自然に感じました。吉野ヶ里よりも大きいと言われる先生方もいて、九州説に立たれるのならぜひそのあたりの分析も今後お願いしたいと思っております。日田の遺跡については初めて知りました。ご夫婦二人でこういう活動をされているのを微笑ましく見ております。。。(笑)
ご指摘ありがとうございます。平塚川添遺跡については、邪馬台国候補地として、3年前の動画; シリーズⅡの第3話で、福田台地の遺跡群を含めると吉野ヶ里より大きいかも知れないと言われていることを紹介しました。その後の学習で、筑紫平野全体が邪馬台国連合だという学説を支持するようになりました。
現在、平原1号墳の再調査を求める声が専門家から上がっているようです。この墓は伊都国歴博の2階に再現してありますが、残存物の配置など、どうも変なのです。何より、土壙の底の土を分析すれば、遺体と木棺が本当に腐りはてたのかが分かるはずです。私は、これは卑弥呼の墓で、3世紀末に掘り起こされ、近畿へ移動されたのではないかという疑いを持っています。
骨をも溶けるほどに遺体や木棺が腐敗していたとき、土壌に何か残るのですか?
魏志倭人伝の水行10日、陸行1月は帯方郡から邪馬台国までという説もあるらしいですね。
その説は聞いたことがあります。
黒岩重吾著 古代浪漫紀行に詳しく書かれています。この解釈が自分には一番しっくりきました。
ありがとうございます。いつか拝読したいと思います。
ご返事ありがとうございます。いつも興味深く視聴させていただいております。黒岩重吾氏は作家ですが、森浩一氏と親交があり、いわゆる『邪馬台国東遷』論者です。『古代浪漫紀行』は今から30年位前に書かれた本ですが、僕にとってのバイブルとなっております。
魏の239年(景初3年)卑弥呼が鏡を下賜されたとされます。ところが1年早い呉の238年(赤烏元年)の紀年銘を持つ銅鏡が山梨市川三郷町鳥居原狐塚古墳から出土しています。もうひとつ先最近の関心はこれです。「244年(赤烏7年)の銅鏡が兵庫から出土しています。卑弥呼がクローズアップされますが(もちろん興味深いですが)当時の列島の情勢を垣間見せてくれます。戦乱に明け暮れた三国志の時代、孫権の元に列島から使いを出し鏡を下賜されていたことが想像されます。
コメントありがとうございます。そして新情報もありがとうございます。呉時代の鏡についてはまだよく分からないでいます。前回コメント頂いてた動画のように、私も当時の銅鏡について勉強をしていますが、まだまだ奥は深く一向に成果に結び付きません。研究者の方々のこれまでの努力で、鏡についても、・いつどこで作られたか・いつどこの墓に副葬されたかがある程度分かってきているのですが、知りたいのはその途中の経過なんですね。おっしゃるような、「孫権の元に列島から使いを出し鏡を下賜された」のは誰なのか。そこを想像しながら色々考えるのが楽しいですね(笑)。
南中点の棒の長さでの測量は、非常に興味があります。引き続き調べたいと思います。さてこの論議の中でわかったことがあります。まず魏志倭人伝に記載された郡は平城付近であること(帯方郡か楽浪郡かはわかりませんが)。狗邪韓国(釜山近郊)=倭国の北岸=水行20日の投馬国の北岸の可能性が高いこと。卑弥呼の居する邪馬台国は緯度からみて南九州の可能性が高いこと(投馬国から川を上って10日、そこから測量しながら山越えして1月です。)周旋5000里は奴国を中心とした円をイメージしてるのではないかということ(末盧国から奴国は方位が同じなので距離600里で直径に3.14掛けると3768里、奴国を出発点とし奴国に戻るとすれば600里+3768里+600里=4968里(約5000里)です。従って、周辺の国々は奴国(恐らく高良山麓)を中心に配置されていると思います。。
当時、卑弥呼の居する邪馬台国の緯度が分かっていたのでしょうか?
周算何とかで測定された棒の長さ(緯度)が驚くほど正確に平城と釜山の位置関係(方位と距離)を表しているのに驚きました。500kmもの方位はどうやってわかったのかわかりませんが、何等かの方法で経度まで測れたのではと思ってしまいます。いずれにしても当時の中国人が遠方の緯度と方位を正確に測定できたことは疑いないことと思います。そしてこの緯度の差を測る方法は地軸の傾きに影響されないので現在との誤差を考える必要がありません。検証するに好都合です。何故、観測日が夏至でなくてはならなかったのか。これは冬至は影がぼやけて正確に測れないからです。夏至に渡らなければならなかった理由まで判明しました。しかしながら、当時の中国人が角度(ラジアン)の概念は持ってなく(ずっと後の西洋で考えられた)、三角関数など知る由もなくもっぱらピタゴラスの定理で計算してたと思われます。本題に戻りますが、平城から釜山を結んだ直線をグーグルマップで見るとわかりますが対馬と壱岐を結んだ直線と平行となります。そして魏志倭人伝では真南が測定できるにも拘わらずこの方位を敢えて南としているのです。またこの方位は夏至の太陽の昇る方向からの南です。真南をいちいち測るより便利ですよね。以上のことから平城~釜山の距離7000里は3:4:5の三角形から計算された数字ということがほぼ間違いないと思います。さらに魏志倭人伝の邪馬台国の方向は南と明確に書いてあります。これは韓半島からの方位であることも間違いなく、平城~釜山の直線を延長した方位にあるということです。そのことから導ける邪馬台国の緯度は32.4°となります。
お疲れのこととお察しします(笑)。さて、緯度については夏至の日の棒の長さを大陸内で校正しておけば、遠隔地においてもある程度測定できると思います。また方位については見える範囲であれば南中の方角は分かるので、ある程度の計測も可能でしょう。但し、遠隔地の経度を測るには、大掛かりな渾天儀なる計測器と正確に時を計れる時計が必要になります。それらのことを遠い邪馬台国で実行することは不可能だと思います。何故なら、そんな最高の国家機密の機材を持ち出す意味がないからです。実際、3世紀にそんなことをやって周辺国の測量をやっていたら、とっくに東アジアの地図が出来ているハズですが、そうはなっていません。また、見えるハズの対馬と壱岐の間の方位、距離もアバウトです。
お疲れ様です。(笑)論文書いてる気分です。実はおっしゃる通り渾天儀を使って経度まで測れたとは思っていないのです。別の方法を考えていました。それは狼煙を使う方法です。これは人海戦術となるので大変なのですが中国人いっぱいいるのでできたかもしれないと思います(笑)。緯度は正確に測れるのですから狼煙で見える方位を探り図面に起こして繋ぎ合わせるという方法です。1区間40~50kmくらいが限度で10箇所以上となります。やりたくありませんができないことはありません。恐らく誤差はでるでしょう。実際にやったことはありませんのでどのくらいの精度かはわかりません。原始的な方法ですがそんなに狂うことはないと思います。壱岐と対馬の件は、参考に言えば浅茅湾出口と壱岐北端の方位がその角度30°にあたり距離56.8km緯度差0.6寸で1000里とすれば56.8/5*4/0.6=75.7m/寸となります。この場所で魏志が測ったと思うかどうかはご判断にお任せします。
魏が倭国・九州だけそれだけの測量をする意図が分かりません。卑弥呼がそれを許す道理も分かりません。可能性を追求されるのは素晴らしいことだと思いますが、定説を覆すだけの論拠には至っていないと私は思います。「その角度30°にあたり距離56.8km緯度差0.6寸で1000里とすれば56.8/5*4/0.6=75.7m/寸」も意味がわかりかねます。
いつも包括的で論理的な手法で、分かりやすく古代を説かれていて感服しています。謙虚に自ら素人と言いながら、全体を見ながら一つ一つシンプルに解いていくので、拝見していても臨場感あります。専門の学者さんたちは、こうした全体的な視野で発信してほしいと思います。なお、他の方も指摘していましたが、遠賀川流域と古代の関係も、解き明かしていただきたいです。それからこのシリーズを作成されているナレーターの方のお名前がなかなか分かりません。メルアド等ありますか?
じっくりご視聴頂き嬉しいです。そしてお誉めのお言葉、ちょっと恐縮です(笑)。リクエストの遠賀川流域はあと廻しにして来ましたが、今勉強中です。物部の故地という観点もあり、あれから先の時代は魏志倭人伝から離れていくこともあり、考えがなかなかまとまりません。しばしお待ちください。あと、このシリーズを作成しているのは私、「これはどうでしょう」の「かず」です。このシリーズの第3話等にも出演?しております。メルアドは公開しておりませんので、ご連絡あればこのコメント欄にお願いします。
@@これはどうでしょう
至と到の違いから考えてみます。至と到は現在では同じですが魏志倭人伝では使い分けられてます。古代中国語では少し違ってます。至の成り立ちは矢が地面に突き刺さったの意味から一つのことから別のことに到達する程度と範囲ということで歩いて行ってたらその場所に着いたとなります。一方到は至の右に刀が付いているのでその場所に困難を乗り越えて人が立ったとなります。そのことから伊都国に到着したのはやっとの思いで着いたと読めます。陸路は高い草木を掻き分け方向を見失いそうになったり沼地を進んだり断崖絶壁を通ったりしたのでしょう。普通その当時に最も栄えた国に行くのですから道が整備されてたはずです。何故そのような道を選んだのか、それは選ばらざる負えなかったからと思います。つまり想定外の場所に船が着いたのです。末盧国は色々な検証からほぼ唐津付近で間違いないと思われますので末盧国の中心ではない場所に座礁し船を乗り捨てたかのかもしれません。だから末盧国の官にも会えなかったのではないでしょうか。想定できる場所は呼子付近です。それなら糸島に伊都国があったともしても方位は合ってます。
いつもコメントありがとうございます。魏志倭人伝の中の、至と到の使い分けの仕方は、今一理解できていないのですが、草木茂盛行不見前人は、末盧国についての説明ではないかと思っています。
返信ありがとうございます。伊都国が三雲あたりなら奴国の中心は早良平野で不彌国は那珂遺跡群あたりと想定できます。2万戸の奴国は福岡平野一帯を示すことになります。ここから問題となる投馬国と邪馬台国となりますが、間違いないのは方位だけです。何故なら方位を否定すると絶対に目的地には到達できないからです。そこを間違う報告書はあり得ないと思います。書き間違いすら起こる確率は皆無です。さらに次のキーワードとなる水行、陸行なのですが古代中国語では海を船で渡った場合には決して使われない言葉なのです。なので九州島から出ることは決してないということです。投馬国は官や副官まで記載されており使節が実際立ち寄った可能性が高く伊都国から離れた場所にあるとは考えずらく、福岡平野から川沿いに南に行った場所、つまり5万戸の投馬国の場所は吉野ヶ里を中心とした筑紫平野一帯となります。方位は合ってます。では邪馬台国はどこかといえば福岡平野から一旦川沿いを南に下り内陸部を歩くと1万2千里となる地点。恐らく大分あたりではないでしょうか。日数標記に変わってる理由は不明ですが、日数と距離は単純換算不能なのでこのことでどのくらいの距離になるなどと論ずること自体が意味がないことであると認識すべきと思います。女王国の範囲はほぼ奴国(2万)と投馬国(5万)を足した人口になり奴国+投馬国=邪馬台国=女王国となります。これが通説が正しいとした場合の推論となります。さらに重要なことは使節団は数回にわたり派遣されてることそしてその間に女王の居する場所が移動してる可能性が高いこと、がより難解となってる理由と思われます。
私は、吉野ヶ里や現朝倉市を含む筑紫平野全体が邪馬台国連合(7万戸)の実体だと考えています。そして奴国(か不彌国)から南への水行、陸行の記述は、九州島内陸部への道程の説明と思いますが、そう簡単に倭国中心部への道を開示しなかったのだろうと考えています。卑弥呼の時代にも規模は小さいながらも大野城市の水城土塁が築かれていたハズですから、遠い山の向こうを指し示し説明したのだろうと。最終的に卑弥呼に使者を合わせた時、宇佐までの水行、宇佐から日田までの陸行の日数が記述されたとも考えています。
"使節団は数回にわたり派遣されてること"の意味することは方位が間違ってればその間訂正されてなければならないし、正しい方位なので何度も同じ場所に行けたということになります。この時点で近畿ではありません。間違いなく投馬国と邪馬台国は奴国の南にあります。魏志倭人伝は数回の使節団の調査を纏めたものであり1回の調査結果ではないということです。水行の行は本来人の力が関わる意味なので船に乗って旅したとは解釈できません。つまり水際を時には歩き、時には小舟などで渡った旅程を示します。ですので川を大型船では行けないという反論は成り立ちません。大型船を使ったとはどこにも書いてないのですから。むしろ内陸部へは小舟を使ったのでしょう。1回目は不彌国まで測量され里数まで調査されてますが、2回目以降は主に風土の調査にあてられたので日数標記に変わったのではないでしょうか。おっしゃられる説に沿ったとしても筑紫平野は女王国の一部となることは同じです。そして筑紫平野の代表的遺跡である吉野ヶ里と平塚川添を延長した線上に英彦山があるので日田は重要な場所であることは間違いないと思ってます。邪馬台国は陸行で筑紫平野から山越えした場所ではないでしょうか。
陳寿の文章は合理的かつ簡潔で一切無駄なことは書かれてないことで評価されてます。ややもすれば教養の無い人達に理解されなくとも構わないくらいにも感じるくらいです。対馬は朝鮮から見えるので方位は示されてませんが対馬から壱岐は南と方位が示されてます。壱岐から末盧国も方位が示されてませんが、それは同じ方位の南だからと考えられます。同じだから省略してるのです。陳寿は別の方位なら書くと思います。投馬国と邪馬台国は同じ方位の南と書かれてます。連続説なら同一方位は同様に省略するはずです。でも敢えて両方とも南と書いてるのでおそらく両国の方位の起点が奴国である可能性が高いと思ってます。
ヤマトの語源について考えてみます。一般的には奈良盆地から大阪側を見ると連綿と続く笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、自分たちの土地を「山の門」と言いあらわした。と言われてますが果たしてそうでしょうか。明らかにヤマトはそんな小さな意味ではなく日本全体を表した呼び名です。弥生終末期から古墳時代にかけて多くの渡来人が日本に渡ってきており、大和朝廷も彼らが中心となって建国した可能性が高いと思います。ならば彼らがそう呼んだのではないでしょうか。古代ヘブライ語と日本語には多くの共通した言葉があり、その中でヘブライ語の"ya"の発音は"yu"-->"u"へ変化した同じ意味の日本語が多くあるようです。例えば、古代ヘブライ語でyadは、「手」を意味します。そこからya-->yu-->uに変えると”ude”つまり日本語の腕です。海は"yam" 同様に"yum"-->"Umi" です。古代ヘブライ語で”yam”は”海”、"i”は”島”です。これは魏志倭人伝の”邪馬壹”の発音とまったく同じです。つまりヘブライ語のyam-i"は海の島を意味し、これがヤマトの語源ではないでしょうか。もともと九州に上陸した渡来人がそう呼んでいたが、奈良盆地にその呼び方が引き継がれた。ではないでしょうか。
さらに旧約聖書に登場する預言者のひとりイザヤ。彼自身の手による「イザヤ書」は、約束の地をイザヤと共に聖櫃がイスラエルを去り、その一行が新天地となる「東の海の島々」を目指したとなってます。”邪馬壹”=古代ヘブライ語で”yam”は”海”、"i”は”島”ならば、この内容と奇妙に一致します。因みに伊弉諾はイザヤからきてるという説もあります。ここまで一致すれば古代イスラエルとの関係を疑わざる得ません。
魏志倭人伝の倭国が九州を示していたこと。魏志倭人伝の内容が当時の倭国の状況を示すにかなり信憑性が高いこと。卑弥呼が元は筑紫平野付近に居たであろうことなど検証すればするほどこの動画の内容と近いように思えます。そしてその後の記紀に残る九州からの東征の事実もほぼ繋がってくるように思えます。また日田や宇佐はやはり重要な場所ですね。
再評価頂きありがとうございます。(笑)。宇佐から日田へ抜ける途中に耶馬渓があるのも意味深です。
耶馬渓、山国川、ヤマが付いてる地名です。しかし日田から中津に抜ける道はかなり厳しい山道で1か月くらいはかかったかもしれませんね(笑)。また大宰府から朝倉を通って日田へは陸路となります。日田から遠賀川にも降りられるし、大分にもみやこ郡にも行けます。まさに要所の地です。
日田の地勢は特別な気がします。筑後川の上流でかつ、川が集中する盆地ですから、過去には大水害でいろんな物が流されてしまったのかも知れません。
卑弥呼の女王国は南の狗奴国と戦争状態であったわけですから最高権威の卑弥呼はより安全な場所に逃避したと考えるのが普通です。それにシャーマンの最高権威しかどう見ても所持できない魏の時代の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が日田から見つかってるのですから当然日田に居たことになります。それ以外に敢えて日田に持ち込む理由もありません。このことに異論を挟む余地は無いと思います。我田引水の人達はそうは考えないようですが。…
女王卑弥呼が倭国を統率していたという観点から考えてみると離れた国々に卑弥呼のお告げを伝えなければならないのである程度の組織があったと思われます。つまり各国々に巫女が配置されてたと考えられます。そしてその巫女集団を束ねてたのが最高権威の卑弥呼であったのでは、後継者はどのように選ばれたのかはわかりませんが霊力の最も高い巫女が選ばれたのかもしれません。そう考えるとその時の最高権威の地位に就いた巫女の居する場所が魏志倭人伝のいうところの邪馬台国となります。宇佐神宮に祭ってある比売大神とは代々の最高権威の巫女達のことではないでしょうか。それならば当時の最高権威の一人であった壹與の墓なのかもしれません。各国々に巫女が配置されてたことは景行天皇の土蜘蛛征伐時に多くの女首長がいたことからも言えるのではと思います。
素晴らしい卓見です。ここまで解明できたことに喝采を送りたい。すこし私の知識を書きます。完璧になるはずです。実は吉野ヶ里遺跡近隣に三津という地名がありましてここで魏志倭人伝に2口下賜された「5尺の剣」一振りが発見されていました。残念ながらすでに人の手に売買されてしまっていますが、素鐶の剣で片刃直刀5尺(120cm当時の尺貫法による)ということだそうです。下賜されたのは卑弥呼です。吉野ヶ里国は卑弥呼の出身地かも知れません。ちょっと触れられていた「女王国の東、海を渡るに千余里に黒歯国・侏儒国あり」と記されていますが、黒歯国とは「お歯黒の国」侏儒国は蛙を煮て食べる土蜘蛛と記されている国と考えれば奈良・紀ノ川上流とおよそ理解できます。つまり邪馬台国は近畿ではない。物部氏は八女・瀬高の豪族で筑後川(千歳川)左岸を遡って瀬戸内海に出て近畿に入ったらしい形跡があります。(太田亮著「姓氏家系大辞典」初版)ニギハヤヒ、長髄彦ですね。周知のように伊弉諾尊が黄泉の国から帰ってきて汚い物を見たので禊ぎをするという土地ところが書いてあります。「急流でもなく淀みでもない」川があり、「筑紫の日向の小戸の橘のあはきの原」です。これは土地の特定が出来ます。日向は接尾語の「し」が付いて「ひむかし→東、小戸は川の谷から平野に落ちるところ、橘は地名、あはきの原は地名」国土地理院web地図で日田の西から高山の南まで出して見てください。橘田という地名と杷木町の地名がたくさん書いてあります。筑紫国の東の国境、川が平野に流れ落ちてきて、急流が中流になるところ、ここは斉明天皇の陵のあるところですね。天照大御神が活躍したのはその近辺に違いないのです。投馬国がどこかというのは漠としていますが、筑紫国の中にあると思います。5万戸を収容できるのは遠賀川流域と思うのです。この流域には中間市という地名、近間という名字があります。遠賀は「遠馬の川」という意味ならピンときます。すると筑紫国に全てはまり、豊前・豊後はトヨの国、肥前・肥後はヒミコの国と合点することが出来ます。ニギハヤヒが東行したについては狗奴国が逃げ出して東行きしたと考えることも出来ますね。ただ狗奴国を比定するのは私には不能です。肥後なら「たまキナのむら」が玉名になっていますので音は似ています。いろいろです。しかし戦争に負けて近畿に討ち入ったと仮定するのはちょっと違うかなと思うのです。ニギハヤヒを追って東遷したというのなら理屈に合います。でも敵対していて素戔嗚尊が活躍したところは出雲なんですよね。ここは不明です。mond
おもしろいお見立てありがとうございます。参考になります。一点質問させて下さい。「斉明天皇の陵」は奈良盆地南部にあると思っていたのですが、筑紫にもあるのでしょうか?
よくよく考えたら西九州じゃ、水行南へ20日、水行南へ10日陸行一月はオカシイですよね。熊本県沖をその日数水行したら沖縄まで行っちゃいます。川沿いも南へそんな長い距離を行ける川はありません。なので末羅国=松浦伊都国=糸島奴国=博多不弥国=宇美町は違うと思います。末羅国は具体的に何処か比定地が分からないのですが、宗像神湊か遠賀川の東側(芦屋町辺り)だと考えました。伊都国は小倉北区到津ですね。ここは神功皇后が三韓討伐を終えて最後に自分の船団を預けた軍港です。近くの城野遺跡が最近調査されて、九州最大の方墳でふたつの幼児の石棺から大量の辰砂が出土しました。さらに玉と管玉の工房(九州で2つ目)周辺の黒住遺跡群と重留遺跡群と合わせたら相当大規模な集落があった事が判明しています。水軍を指揮できる強大な王がここに居たのです。ここに水軍を置いたのは関門海峡の支配と長門、筑前の監視の為です。その水軍の力で周辺の国々は伊都国を畏怖していたのです。近畿から大陸の物がほとんど出ないのはそのためです。伊都国から東南100里で奴国です。奴国は中津市と宇佐市ですね。「魏志倭人伝の奴国」と「金印の奴国」は別の国です。魏の使者が当て字を使ったので混同されていますね。何故なら魏志倭人伝に「奴国」が2度出て来ます。女王国連合を列挙した一文の最後にもう一つ別の「奴国」が出て来ます。これがもう一つの奴国(那の津)博多ですね。魏志倭人伝の奴国は「豊葦原仲津国」(とよあしはらのなかつこく)の事です。大国主命とトヨが作った新しい邪馬台国の首都ですね。卑弥呼無きあと、ここに新しい都を作ったのです。奴国から東に100里で不弥国です。ここは国東市国見町伊美及び姫島です。伊美から日本神話の姫島へ渡る港があるんです。不弥国から南へ水行20日(豊予海峡は潮が変わると逆方向へ強く流される難所なので距離の割に日数がかかります。)投馬国は別府市と大分市です。大分の語源は「多い田」だと私は思います。それだけの人口が居たと思われます。投馬国から南へ水行10日延岡市に着きます。ですが延岡市だけが邪馬台国ではありません。宮崎県のほぼ全体が邪馬台国です。ここはウガヤフキアエズ王朝です。(天皇家の先祖が居た場所です。)卑弥呼が居たのはここから陸行一月(南へ陸行したのではありません。)内陸方向の山岳地帯を一月進むと高千穂町に到達します。ここは天孫降臨の地であり、高天原です。天照大御神が居た場所天岩戸神社。ここに卑弥呼が居たのです。狗奴国との関係は卑弥呼と似た名前の「卑弥弓呼」が狗奴国に居た。それはつまり、卑弥呼と卑弥弓呼は同族だったのです。地図を見て下さい。高千穂町から西へ行くと熊本県側に山都町(やまとの名前は最近付けられたので関係ありません。。)があります。ここには15000年前から存在したと言われている「幣立神社」があります。幣立神社は宇宙の創造神を祀っています。高千穂町も山都町もどちらも天孫降臨の地であり、どちらも高天原となっているのです。私の思うところ、ここでどちらが神の子孫なのかを巡って宗教的な対立があって、争いが起きてそれが倭国大乱になった可能性があると思っています。
なかなか楽しい筋立て、ありがとうございます。幣立神宮~高千穂神社・・・とても興味深い地域です。私の動画でも、古代史探索旅Ⅳの第14話~15話で紹介しています。ご興味あればご視聴ください。
九州の河川地図も含めて倭人伝解明に有効と思いますが、南九州生目古墳も含めてほしかった 武雄など 佐賀県も有明海で割と早くから栄えていたし漢魏とは交流があるし福岡にかたよりすぎです論争はまだ終わりそうにない
福岡県に偏ったりはしていません。今も邪馬台国連合の発展の中心は佐賀県だろうと思っていますし、実際に佐賀県側にも有力な遺跡が多いです。宮崎県生目にも大いに関心があり、本日アップしたⅣー第9話にも少し登場します。今後に期待です。
邪馬台国近畿説の根幹は強力な国家権力を示す巨大古墳と王墓にあります。その点で言えば近畿説では比定できる場所は奈良以外にありません。しかしながら日本書紀に記されてる神武東征時の日下部の地の標高は30mぐらいでそこまでは湖であったことがわかってます。さらに奈良盆地の一番低い場所も30~50mで当時は奈良盆地の一部は水没してたか沼地であったことになります。ところがある時を境に多くの巨大古墳が造られ大規模な土木工事によって灌漑、治水対策で急速な都市化がはじまり強大な大和政権が誕生したと考えても概ね間違いではないと思われます。そのような時代に合致するのは崇神天皇の時代でしょう。なので近畿説では箸墓を卑弥呼の墓としてます。しかし卑弥呼の時代は環濠集落や甕棺墓の時代でまったく合いません。しかも奈良盆地が洪水に合わなくなったのはもっと後です。平安時代まで奈良から京都への主たる街道は山野辺の道であったことからもわかります。総合的に考えて邪馬台国は九州であったと考えるのが適切と思われます。
邪馬台国時代の奈良盆地でどんな人たちがどんな生活をしていたのか、とても興味深いです。盆地中央に唐古鍵遺跡がありますが、ここは纏向より標高で30m位下になりますが、弥生時代中期~大規模な環濠集落です。似たような集落は奈良盆地各所にあり、水害と戦いながらも多くの人が暮らしていたことが分かっています。勿論、邪馬台国との直接の関わりはありませんが。
失礼いたしました。魏志倭人伝に書いてあるような「宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。」環濠集落ではありません。箸墓古墳の敷石は二上山から運ばれてきており、おそらく大和川を使ったのでしょうが現在の大和川より水面は高くなければ船で運べません。そのことからも中央部はかなり沼地の部分があったと思われます。纏向古墳群はいつの時代かは結論でてませんが、柳本古墳群と左程年代は離れてないように思えます。
箸墓や纏向の造営に、大和川やそれを繋ぐ運河が利用されたことは明らかですね。それが崇神の時代だったことも想定できますが、当時の奈良盆地の王墓級古墳が、記紀にある天皇の順に合致していないことも考察しないといけませんね。
記紀も出雲口伝も先代旧事本紀もすべて口伝です。ですのでそこに書かれてる歴史は必ずしも真実であるとは限りません。しかしながら、まったくの出鱈目でもありません。天皇のお名前に注目するとおよそどんな天皇であったかはわかります。神武天皇は磐余彦ですが磐余は現在の奈良の桜井あたりでここの王であったことがわかります。葛城 襲津彦は葛城付近の王等々、このように名前に地名がついてるケースが多く見受けられます。崇神天皇はミマキイリヒコ、ミマキという場所に外から移り住んだと読めます。おそらくミマキの場所は三輪あたりかと考えられます。三輪に向かって建てられた神殿がマキムク(纏向)ではないでしょうか。外から移り住んだ天皇がもう一人います。イクメイリビコそう垂仁天皇です。もうひとりミマキあたりにいたと思われる人物がいます。崇神天皇の皇后のミマキ姫の父である大彦です。本来の三輪の大王は大彦ではないでしょうか。
巨大古墳群の築造には、膨大な人力が必要です。なので多くの人が奈良盆地に入植してきたでしょう。また、これだけの事業は民衆に何等かの目的がなければ成しえません。そういう意味では奈良盆地の治水と灌漑による大規模水耕稲作地帯への開発が最も合理的な目的だと思います。従って古墳は盛土です。もしそうであるなら箸墓が最初に築造されるのはおかしいと思います。普通は川の上流から治水しなければならないからです。箸墓がどうみても前方後円墳の完成形であることと合致します。
基本的に賛成。同感。邪馬台国は広大で豊かな筑後川流域にあった。その連合国は宇佐地方まであった。その中心は朝倉川添遺跡群~久留米の高良祇園山遺跡群にあった。邪馬台国と対立戦争した南の狗奴国は熊本の菊池川流域にあった。その中心は山鹿の方保田東原遺跡群。その南限は城南塚原古墳群まであった。砂鉄と稲作の生産力があった。同時代に存在した奈良平野の遺跡群は邪馬台国の東の海の向こうの倭人の国々。北部九州と違い争いが少ない銅鐸文化の牧歌的平和な国々だった。後年、九州勢力が朝鮮半島の動乱の関係で東遷したが鉄の武力に勝る北部九州の倭の五王勢力は簡単に奈良平野を征服した。河内に巨大な古墳群を造営し初期ヤマト王権を造った。間違いない。
基本的に同感です(笑)。一点、倭の五王の時代は初期のヤマト王権ができた頃より後の時代だと思っています。
確かに。3世紀の邪馬台国~4世紀末からの倭の五王。北部九州から畿内ヘの東遷は途中の中四国の出雲、吉備、徳島辺りの征服にかなり時間がかかった。銅鐸文化の奈良盆地は鉄の武力で容易く征服、河内平野に巨大な前方後円墳群を造営しましたね。中身も初期の呪術的な出土品から騎馬武器の出土品に変わった。
大分県括りで、日田と宇佐をつなげたがる人が多いけど、地元民としてはほぼ関りが無い。むしろ筑紫平野とのかかわりが深い。現在中津市の耶馬渓方面に行くのも、旧道は険しかった。四方を山に囲まれ、唯一筑後川が流れる朝倉・久留米側が交通の便が良かったのではと推測。近世まで木材を筑後川で輸送。下流にあるのが家具の町大川。景行天皇「この国の地形は鏡の面に似たるかも。」と豊後風土記。
地元の方の感覚ではそんな感じなんでしょうね。参考になります。大川まで連携したご考察はなるほど、ですね。
@@これはどうでしょう 地元ネタと言うか、他の地方はわかりませんが「参り所」という霊能者に診ていただくという風習も有ります。知っているのは竹田・日田と福岡・熊本。いわゆる口寄せ。たしか政財界に影響力のある人が昭和の時代に居たなと調べたら藤田小女姫さん。福岡市出身だったんですね。ある福岡市出身の女性は霊感が強すぎて、英彦山・南蔵院・不入道と師匠と共に滝行したり。私が行ったときは女性だけの集団。卑弥呼の鬼道の一端を感じました。
卑弥呼の鬼道が今も続いていますか!!!
邪馬台国は30か国からなる国家連合で、1か国の大きさは伊都国(糸島市)や奴国(福岡市)、末盧国(松浦市)など現在の市町村レベル。記載された国だけで15か国ほどあるので、どう考えても邪馬台国とその属する地域の30か国とは福岡県程度の大きさになると思います。畿内説だと西日本全域で30か国となり1か国の大きさが現在の都道府県並みでないとおかしくなります。
同感です。畿内説の場合、北部九州を始めとする西日本全域の地域が、畿内を中心にして統治されていたことになるのだと思いますが、当時の軍備、交通事情などを考慮すると、それが起こり得ないことが分かります。船を介してしか軍事介入できない場合は、相当な兵站の海運力が不可欠になり、磐井の乱の時のように大規模軍事力を大規模船団で送り込まなければ不可能です。当時の畿内にそんな軍事力が存在した形跡は何もありませんし、当時の国内には大型船もありません。だから、「邪馬台国とその属する地域の30か国とは福岡県程度の大きさになる」とするお考えは正しいと思います。
日田ではないと思いますが…この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探し、を発刊しました。関心があれば、読んで下さい
ご案内ありがとうございます。
はじめに「この内容を認めないとまた300年混乱するよ」と脅してからだからなぁ。そうであってほしいっていう願望でしょ
そうではないです。魏志倭人伝や記紀の解釈だけで道筋をつけようとすると、300年議論することになるよ、と言っているのです。300年前の研究者もそこは散々読み込んでいるハズだし、我々よりも読解力があるかも知れない。そうでは無くて近年の考古学資料を存分に利用しましょう、という考えです。莫大な費用と労力と時間が掛かっています。
5万余戸と七万余戸の「5、7」は整数で、たんに「多い」と理解したほうがいいんじゃないでしょうか?邪馬台国は投馬国より戸数が多いとは言えそうですが。。
そうかも知れませんね。よく分かりませんが。
国東半島から日田に掛けての場所でしょうね
その辺り、私もとても「怪しい」と思います(笑)。
遅くなりましたが、やっとちゃんと視聴させていただきました。分かりやく興味深い内容でした。この時代のことが気になってしようがありません。見れば見るほど混乱します。それで最大の関心事は、卑弥呼あるいは狗奴国と神武東征になにかつながりはないのでしょうか、狗奴国というのは謎めいていますね。
ありがとうございます。神武東征、関係はあるでしょうね。色んな事実を考古学資料で理解してから、文献史、伝承などを考察していきたい。私的な考える手順にしたいと思っています。狗奴国は邪馬台国に大きく影響したでしょうね。
大変興味深く拝見させていただきました。いくつか教えていただきたいのでコメント致します。お手数ですが、どうぞよろしくお願い致します。(1)卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?卑弥呼が小迫辻原遺跡で発見された古墳時代最古の居館跡に居たという推理ですが、弥生終末期に環濠集落があったようですので、候補として挙げるのはいいのですが、居館跡はそれより後の三世紀末のもののようですので卑弥呼の宗女台与の時代かその後ではないかと思います。卑弥呼が三世紀中頃247年以後に急造され、葬られた径百余歩(直径約150m)の円墳と奴婢百余人の殉葬址は見つかっているのでしょうか?また日田盆地が卑弥呼の居所に相応しいとされ、当時の最高傑作の鉄鏡などが出土していることから納得されておられますが、これらについても以下のとおり問題があります。まず、日田盆地は東西南北の道が集まる場所ですから、防御が困難な地形だと思いますので戦乱期の女王の宮室を置くことは考えにくいと思います。また、豪華な鏡などが卑弥呼のものであったとしても、持ち運べるものですので出土地が卑弥呼の居所だったとは限りません。またこれらのものは後漢時代のものですので卑弥呼が貰ったものかどうかもはっきりしませんが、その点はどうお考えでしょうか?さらに女王国から東に渡海千余里に倭種が居るということで、四国をあげておられますが、日田盆地から海に出るまでに山々を越えて周防灘に面した海岸に出なければならないので、女王が日田盆地に居たとするとこの記事は違和感がありますけど、どう思われますでしょうか?(2)邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?魏志倭人伝の行程記事で奴国までは考古学の成果とだいたい一致しますので、まあいいとして、不弥国から先が記事と考古学の成果とが一致しませんので邪馬台国問題が解決していないのだと思います。不弥国を飯塚市辺りとする方は多いですが、その先の投馬国と邪馬台国が当時の列島最大の都市があった奴国の2万戸よりもはるかに多い、それぞれ5万戸、7万戸とされています。1戸あたり4人として奴国が8万人に対して、投馬国20万人、邪馬台国28万人ですから、推理された筑紫平野・佐賀平野にそれほど人口があったのでしょうか?また、邪馬台国が投馬国の北側に隣接しているというのも魏志倭人伝の記述と合いません。上で違和感を述べたように、なぜ行程記事がそのように矛盾するような内容になっているのでしょうか?(3)狗奴国の鉄はどこから?投馬国の南側の熊本県に狗奴国があったとされていますが、狗奴国の豊富な鉄鏃はどのように入手していたのか、説明されていなかったと思います。倭国大乱は卑弥呼が擁立されて収まったとされているので、半島へのルートは卑弥呼側が握っていたはずですので、狗奴国は入手できないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?(4)卑弥呼の正体は?倭国大乱は福岡平野から筑紫平野・佐賀平野で起っていたと考えるのはいいですが、南から熊本にあった狗奴国が攻めてきたので卑弥呼を女王にして、女王国としてまとまったということのようですが、そう推理された根拠は何でしょうか?卑弥呼の素性はどう考えられているのでしょうか?(5)ヤマト王権との関係は?当時の畿内の土器(庄内式)が奴国に大量に出土しているとのことですが、三世紀に纏向遺跡が出現し、箸墓よりも前に石塚古墳などいくつか前方後円墳が造営されています。そこに北部九州の土器がほとんど出土していないので、纏向の勢力と祭祀を共にしていないので北部九州はむしろ対立していて、畿内勢力が北部九州に侵入してきたと考える方が自然ではありませんか?熊本の狗奴国と纏向の関係はどうなっているのでしょうか?ヤマト王権の成立をどのように説明されるのでしょうか?
沢山のコメントありがとうございます。数えると10項目あるようですので、勝手ながら番号をふらせて頂きました。(①~⑩)(1)①「居館跡はそれより後の三世紀末のもの」について庄内式Ⅱ~Ⅲ式の土器が居館跡から出ているので、AD200~250年としました。三世紀末とされる根拠は何ですか?②卑弥呼の墓が発見されたか候補の墓はいくつかあると思いますが、決め手は無いですね。金印が出れば決まりですが。③日田盆地の防御性盆地の防御性は基本的に高いと言えます。入口さえ見張ればいい訳ですし、実際、福岡県の西ノ谷遺跡や大分県白岩遺跡などは、当時の日田盆地の監視用とも考えられる立地です(片岡宏二氏)④金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡か2年前に中国の研究者から、魏の曹操の鏡と同型鏡と鑑定されているので、金印まで下賜されている卑弥呼に対しては、相応の鏡と言えます。鏡は動く物ですから幾通りもストーリーは考えられますが、今回示したものはその一つです。⑤「女王国から東に渡海千余里に倭種」について女王国は広い連合国と捉えておりますので、日田盆地からではなく宇佐あたりから東に出れば渡海千余里で四国につくハズです。(2)⑥筑紫平野・佐賀平野の人口当時の日本列島の人口は60万人位だったとする推計がありますので、投馬国20万人、邪馬台国28万人は現実的ではない、と考える方が理にかなっていると思っています。⑦邪馬台国が投馬国の北側に隣接?投馬国位置の提案は一つの案です。あくまでも、筑紫平野=邪馬台国の南が狗奴国です。(3)⑧狗奴国の鉄はどこから?当時独自に鉄の入手ルートを持っていただろうと推測できる程の鉄製品製造地域は、伊都国・奴国以外では、ここ菊鹿盆地あたりと丹波の国だけだろうと思っています。入手先は半島でしょう。(4)⑨卑弥呼の正体は?卑弥呼共立前の連合体制は、伊都国連合、奴国連合、邪馬台国連合、そして狗奴国だろうと思っています。魏志倭人伝では前者3連合が女王国連合になっていた訳ですので、狗奴国の北上しかないと考えました。軍事的には邪馬台国優位での連合ですから、卑弥呼自身は元伊都国の女王だった人なのかなあ、とも。そして軟禁状態だった可能性もあると見ています。(5)⑩ヤマト王権との関係は?これからゆっくり解明していきたい所存です。一つ言えるのは、畿内勢力が北部九州に侵攻してくるのはもっと後の話です。甕の話で誤解されている方も多いですが、庄内式甕の前から吉備甕も含めて、瀬戸内を広く東西に流通しています。主な製作地は吉備、播磨、河内などです。まだ纏向の出番はありません。広く流通している甕は政権・王権の進出の証しなどではありません。その証拠に、当時それらの土器が入ってきていた、日本最大最新の都市ともいえる比恵・那珂遺跡の集落に、征服された痕跡は何一つなく、数百年間発展していき古墳時代にそのまま入っています。
大変興味深い仮説だと思います。素人ですが、これはどうでしょうさんのお考えが理にかなっていると思います。
@@これはどうでしょう さん早速、ご回答いただき感謝いたします。それぞれにコメントさせていただきます。(1)卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?①Wiki「小迫辻原遺跡」概要に「3基の環壕居館の遺構は、出土した土器から3世紀末-4世紀初頭のものであると推定されており、日本最古の豪族居館跡であると考えられている。」とありました。「庄内式Ⅱ~Ⅲ式の土器が居館跡から出ているので、AD200~250年としました。」とありますが、調査報告書にあったのでしょうか?この様式であればわたしは「230~250」と考えています。そうすると一番新しい様式の250年頃に畿内の勢力が来たことを示すと考えるのがよいと思います。何故ならば、畿内との交流が一方向と考えられるからです。九州から畿内には3世紀の前半は交流がありませんから。つまり247年後死亡した卑弥呼の死に関わる畿内の勢力がやって来たことを示すものだと考えています。そして居館の様子は、その頃の宇佐市小部遺跡に見られるものと同じような形式のようで、270年頃に畿内勢力が九州遠征し、占領した時のものと考えています。それから金印が出土したとしても、宮室址と明確に分かる遺跡かその付近で見つからない限り、持ち運べる貴重品ですのでそこが卑弥呼の場所だとは言えないと思います。②候補が幾つかあるというのは初耳です。直径150mクラスは宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三柱山にあるくらいしか知りません。100mクラスも同じ遺跡に一つあります。また、佐賀県鳥栖市の愛宕神社古墳くらいだと思います。いずれにしてもこの時代の100mを越える円墳は列島内にもあまりないと思いますので、あるのならば是非お教えください。③日田盆地は先に述べたように東西南北どこからでも襲うことができ、事前に軍勢を見張るのも結構困難かと思いますので、防御性は良くないと考えていました。二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱期には日田盆地を狗奴国側に抑えられると筑紫平野の倭国勢力は熊本側と連動して襲われて劣勢になる、軍事的に重要な場所だったと考えています。しかし、その時期の戦闘の址ははっきりわかりません。日田市天瀬町五馬市の五馬大坪遺跡の墓から鉄鏃がひとつ見つかっている程度で、付近には見当たりません。わたしの知る限り、その時期の日田盆地には鉄鏃は出土していません。卑弥呼を警護した兵士の鉄鏃が住居跡などから出土しているのでしょうか?④おっしゃるとおりですが、wiki「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」に「ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。また、古墳からではなく、横穴墓から出土したとも言われる[7]。」とあり、持ち運べる貴重品ですからダンワラ古墳が卑弥呼の墓でない限り、その鏡も卑弥呼が貰ったものと決めることはできないと思います。⑤「日田盆地からではなく宇佐あたりから」ということは分かりますが、宇佐は女王の居所付近ではないと思ったので、表現に違和感があると思いました。
(2)邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?⑥佐賀平野や筑紫平野は現在と違い当時は筑後川などの流域はかなり広い湿地帯だったようですから、50万人規模の人が居住していたとは考えにくいですね。現実的ではないと考えられているとのことですから、なぜ七万戸・五万戸のような数字が出てきたのか?魏志倭人伝の記述の理由を検討されているのかをお聞きしたわけです。わたしは、邪馬台国への行程記事は政治的な理由で魏使の報告書が書かれ、それに基づいて陳寿が書いたのだと推理しています。つまり、従来は漢字を読み書きできない倭人から聞き取り、韻書の筆頭の文字を当てたとなっていたのですが、最近、当時の倭人の中に漢字を読み書きできた人物が居た証拠が出てきて、従来の説が覆っていますので、この推理を裏付けています。拙ブログ「変わる弥生時代観!」「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」などをご参照ください。⑦ですから、邪馬台国の南に狗奴国があったというのもあてにならないということです。卑弥呼が共立される前は、纏向の狗奴国勢力の中の狗古智卑狗が率いる部隊が大分県大野川流域から阿蘇・熊本に軍事基地を作って佐賀平野・筑紫平野そして福岡平野から糸島平野まで襲撃した痕跡を鉄鏃の出土状況から発見しました。ところが、狗古智卑狗が倭国側の軍勢に襲われて戦死した証拠として、糸島平野福岡平野の住居跡から銅鏃が見つかり、方保田東原遺跡とうてな遺跡の溝から倭国側のものと見られる銅鏃が見つかっていますので、倭国側に襲撃されたと推理しました。さらに、狗古智卑狗の墓まで分かりました。詳しくは拙ブログ「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」をご参照ください!(3)狗奴国の鉄はどこから?⑧申し上げたとおり、卑弥呼が共立されるまでは半島南部への魏志倭人伝のルートは倭国側に抑えられていたので、北九州市付近から沖ノ島経由のルートで半島南部に渡り、鉄素材を入手していたと考えています。方保田東原遺跡には山陰・畿内の土器が出ており、倭国はその東側の狗奴国勢力と戦っていた模様が分かります。卑弥呼が登場してからは狗奴国側は半島南部に渡れなくなったので、纏向に政治都市を作り旧奴国の王族を集めたと突き止めました。拙ブログ「【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)」などを参照ください。(4)卑弥呼の正体は?⑨卑弥呼が共立される前の倭国は107年に後漢に朝貢した師升王の一族が伊都国を王都として、奴国・末盧国・筑紫平野・佐賀平野の国々を治めていたと考えています。それに敵対する狗奴国は倭国以東の国々ですが、上で述べた沖ノ島ルートを支配していたのは縄文海人ムナカタ族の赤坂比古一派(和邇氏の祖)だと分かりました。ムナカタ族が王と仰いでいた狗古智卑狗が戦死したので、伊都国の倭国王難升米に懐柔され、赤坂比古が狗奴国を裏切って倭国側に着いたと推理しました。卑弥呼はムナカタ族の姫巫女だと突き止めました。日本書紀では宗像三女神として隠しましたが、宇佐神宮の祭神比売大神イチキシマヒメがその正体です。大和朝廷が最も畏れた神々の一柱ですので、日本全国で祀られています。沖ノ島祭祀も卑弥呼を祀っていたと推理しています。魏志倭人伝では政治的な理由で女王としたと分かりました。魏に使いした大夫難升米は魏から直接軍旗を授かっていますので、倭国王だと分かります。師升王の子孫であることも分かりました。証拠も出てきました。拙ブログ「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」「【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください。(5)ヤマト王権との関係は?⑩是非、ご検討ください。奴国は師升によって二世紀初頭に滅ぼされますが、その前は奴国の比恵・那珂遺跡が列島内の交易センターでしたから色々なところから人々が来ています。奴国が滅ぼされた当初は楽浪郡と倭国の交易が盛んで来たので、吉備の人たちだけでなく瀬戸内の人々は奴国の交易センターに出かけています。後漢王朝が内部抗争の為に半島支配が弱体化して韓・濊人が暴れ、倭国は楽浪郡と交易できなくなって衰退します。一方、半島南部にコネのあった奴国最後の王スサノヲの子孫の狗古智卑狗が旧奴国に鉄素材や鉄製の武器を作って供給し、スサノヲの弟ニギハヤヒが吉備を平定して奴国を再興しました。楯築王墓の被葬者です。その子孫が河内から纏向に移り政治都市を築き、旧奴国勢を集めて、倭国討伐します。そこから少しややこしいのですが、最終的に九州を滅ぼし、列島全体も支配下に置いてヤマト王権が成立したと推理しました。これについても弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて判明しています。よろしければこれも拙ブログ「鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」などをご参照ください。最後に、甕棺墓が衰退したのは卑弥呼が登場してからだと推理しています。太陽神のお告げによって政治を行う様式に倭国の伝統祭祀による政治を難升米王が変えたことと関係あると思います。その時代から筑紫平野に縄文系の箱型石棺が多くみられるようになるのでそう推理できます。いろいろと教えていただき感謝いたします。後ほど拙ブログにこのやり取りを掲載させていただきますので、何かお気づきの点がございましたら、コメントいただけると有り難いです。どうぞよろしくお願い致します。取り敢えず、どうもありがとうございました。
@@katumoku10 さんご返信ありがとうございます。まとめて①~⑩について再返信させて頂きます。①居館1号から出土した土器は庄内式Ⅱ~Ⅲ式相当の土器(九州の土器編年では久住ⅠB期)ですので、AD200~250年としました。説明欄に記載しているように、佐々木憲一氏の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」を参考にしています。「九州から畿内には3世紀の前半は交流がありません」は事実と思いますが。畿内ではない近畿、つまり大阪湾沿岸や瀬戸内と北部九州は弥生中期より深い交流がありました。北部九州の中細形銅戈(弥生中期末葉)をもとに大阪湾型銅戈が製作されたと考えられています。一方で、女王国連合の実質中心となった奴国・伊都国・邪馬台国において、卑弥呼の時代の前後で近畿方面から侵攻された形跡は全くありません。②卑弥呼の墓は百余歩ですがその大きさの解釈は色々あることはご存知と思いますし、あちこちに卑弥呼の墓候補地があるのもそうですね。金印は下賜された品目で最重要でしょうから、おっしゃるように墓に埋葬するかは怪しいですね。③実際当時の日田盆地に大きな戦闘が発生していなさそうだということは、ご指摘のことからも分かります。安全に過ごせていた訳です。一般に鉄鏃が出土するのは、戦場だった場合と王の墓の副葬品として、まれに菊鹿盆地のどこかの遺跡にあったように工房らしき住居跡などからと思います。兵士は退去するときに矢は置いていきません。④卑弥呼が貰った鏡と決めることはできない、は同意です。可能性を申し上げています。⑤倭人伝にある「女王国の東」とは、倭国連合の東という意味だと思います。魏は卑弥呼が倭人の国29国の王だと捉えていますので、九州の東、海を渡って千余里の地が四国であることは合理性があると思います。⑥なぜ七万戸・五万戸のような数字が出てきたのか?私も陳寿が盛って書いたのだろうと推測してますが、本当のことは分かりません。⑦「邪馬台国の南に狗奴国があったというのもあてにならない」という可能性は否定できませんが、邪馬台国議論の中で重要な要素だと思いますので、そのご主張には根拠が必要だと思います。⑥~⑩にて興味深い御自論を紹介頂いておりますが、その内容を具体的にこのコメント欄で議論するのは適切ではないと思います。後日、貴ブログも拝見したいと思います。ただ、この中で気になった記述がありましたので・・・奴国(比恵・那珂遺跡などが中心)は二世紀初頭に滅ぼされたとありますが、遺跡にそのような痕跡はなく、継続して発展し繁栄しています。また卑弥呼の時代、纏向に邪馬台国に関わる考古学上の痕跡(狗奴国を含む)は一切ありません。
日田ですか~~卑弥呼に聞いときます
よろしくお願いします。いつもお手数お掛けします😀
倭国は周旋5000里と書かれており道のりとすると南九州が邪馬台国になり極南界にあります 吉野ヶ里伊都国から 筑後川遡上し久留米経由不彌国日田に東行しその後南に陸行したとすると行程と遺物分布にあいます
この件に関して、もう意見を差し上げるつもりはありませんが、一点お願いがあります。コメントを投稿される際には、他者が見て理解できるようにご配慮をお願いします。
たいへん 失礼しました 後漢書倭伝見ていただくとわかりやすいと思います 忠実に魏志倭人伝を地図に書けば唐津から南東500里は北東になりません伊都国吉野ケ里になります 西安市内やや北から1216キロで北回帰線緯度23.4度になり短理76メートルが解明されます
@@これはどうでしょう 筑後川の伊都国吉野ケ里 奴国久留米 日田不彌国が倭人伝行程で邪馬台国ネットワーク漢鏡分布甕棺分布と一致し邪馬台国薩摩川内は南九州にあり人口も7万戸が考えられます 当時平野の比較的狭い環濠集落だけでは人口がたりません
唐津市桜馬場遺跡から吉野ケ里遺跡まで直距離は42kmで、方角も南東ではなく、八方角で言えば東です。
邪馬台国ネットワークに、薩摩川内は含まれません。遠すぎます。
日田・宇佐地域(大分)と生目古墳群・西都原古墳群(宮崎)の否定をして下さるともっと信憑性が増すかと・・・。
日田は否定してないんですけど(笑)。
前々から、邪馬台国は大分(日田)ではないかと思っていました。多少語呂合わせにはなりますが、大分は「豊」の国ですよね。卑弥呼の後継者の名前と同じです。
私も豊の国は台与から来ているのではと思っています。
水行10日、陸行一月はどうなったの?
ここを重視しすぎると、日本列島上に邪馬台国を置くことが出来なくなります。なので、私の考えを4:00のところで述べています。
つまり、なかったことにしないと答えが見つからないということですね?
そうとも言えますね(笑)。
それは、九州をグルと回っただけです。
解決方法として帯方郡がらと考える人もいますが、賛否は保留もしくは触れずなのでしょう
――「福永晋三」氏の研究は真実性が高いです。・・一度「検索」してみて下さい。
福永氏のTH-camは沢山アップされているので、よく見させて頂きました。正直いうと、あまり評価できていないです。どこが?と問われると難しいですが、客観性に欠ける言い方が気になりました。
吉野ヶ里の石棺墓から目ぼしい遺物が出てこない以上考古学的に見ても伊都国が三雲あたりであったことは確実だと思われます。このことから他の国の場所を割り出して行くことになります。末盧国=唐津呼子が上陸地点で、おそらく陸地でしか測量できないため少なくとも測量隊はここに上陸したのでしょう。本隊は直接船で伊都国に向かったかもしれません。なので官には会ってません。方位(東南)も距離(直線距離500里=30~35km)も記述通りです。三雲から(東南)100里は日向峠越えで10㎞進んだ場所の奴国で大規模集落跡が発見されてる早良平野。そこから(東)に10㎞進んだ場所の不彌国は那珂遺跡群になるかと思われます。那珂遺跡群は御笠川と那珂川に挟まれた地形で当時の主要な運搬手段である河川道の要所であることや不彌国という国名の漢字の意味(弦が緩まないことから2本の河川で閉鎖されてる地域)からも合致すると思います。ここから南に行くには川を遡上するしかなく(日本の河川は流れが速く手漕ぎ船では思うように進みません。陸路も山の中なので悪路です。)水行・陸行の意味もわかります。そして敢えて次に記述されてる投馬国はおそらく邪馬台国に行くまでに経由する国と考えるのが最も納得できる解釈かと思います。2万戸の奴国は福岡平野、5万戸の投馬国は筑紫平野、7万戸の邪馬台国はその他の女王国連合全体ということでしょうか。人口はあまりあてになりませんが(笑)。女王国の中心が宇佐であれば宮崎あたりまで含まれてたかもしれません。
神武東征が宇佐から始まったことを考えると魏志倭人伝との接点は宇佐しかないように思えます。また瓊瓊杵尊の子である彦火火出見尊が記紀に書いてある通りそのまま神武天皇のことではないでしょうか。時代はずばり邪馬台国トヨの時代かと。
比恵・那珂遺跡は王都であり手工業の集積地域ではあっても耕作跡は小規模なので、早良地区より人口規模はかなり小さい可能性はありますね。故にここが不彌国とするお考えは、「なるほど」です。
この辺りはまだ結論を持てないでいます。色々な考え方ができそうですね。
邪馬台国の所在地について、外輪山周辺説と鹿児島説を残しますね、山窩の倭人 攻防戦は猿田彦、奴国、海窩の攻防戦での身分制度については? 大和朝廷史には山彦、海彦、弓彦、弥生時代では既に邪馬台国は大和朝廷の猿田彦かと、八咫烏の飛鳥時代から前では?
コメントありがとうございます。ただ、ご主旨が今一理解できておらず、返信できないでいます。
@@これはどうでしょう その西暦について、土器時代、縄文時代かと、八咫烏は猿田彦かと、つまりメトロポリタン、猿田彦の統治下の時代です。
ん~~ ???残念です。
@@これはどうでしょう つまり、石器時代、土器時代が縄文を迎える時代ですから、邪馬台国が弥生文化、大和朝廷と邪馬台国、二分した豪族、あとから飛鳥時代?
初めて貴チャンネルを拝聴いたしました。大変興味深い内容で、他の話題もお聞きしたいと思います。ただ、BGMの音が大きすぎてせっかくのナレーションが聞きにくいです。BGMの音量を小さくするか消してしまって再投稿してもらいたいと希望しています。
ご意見ありがとうございます。今までBGMの音量は自分なりにベストの調整をしてきたつもりでしたが、そういう観点で聞き直してみると、邪魔にならないとは言い切れない・・・とも思いました。ただ、再投稿するとこれまで頂いたコメントの数々が消えてしまうので、できないのです。次回以降、もっと音量を絞る等の配慮をしたいと思いますので、どうかお許しください。
@@これはどうでしょう さまご丁寧な御返信をありがとうございます。高齢者ゆえにBGMとナレーションとを聞き分けにくくなっている私自身の不都合を棚に上げて、身勝手なお願いをしたことをお許しください。興味深い話題とお優しい対応が嬉しいので、早速チャンネル登録させて頂きます。これからもよろしくお願いします。
いえいえ、貴重なご意見ありがとうございました。家内と聞き合わせをしてみて、言われてみれば確かに・・・と反省してます。今後ともよろしくお願いします。
古代筑紫国の人口が三韓(韓国)とほぼ同じで、移動に2ヶ月かかってた事になりますねあと、九州説の人は日田や筑紫平野が水害沈没地帯である事を軽視していると思いますハザードマップを一切見ずに土地を購入する人ぐらいに浅はかです
ハハハ。笑っちゃう位「浅はか」ですね。でも弥生時代も多くの人が筑紫平野に住み、多くの環濠集落跡を残しています。水田経営と水害は表裏一体の関係なのです。
魏志倭人伝と物証から組み立てられた説に好感。博多(奴国たと推定)には那珂八幡古墳(3世紀中頃に造成とされる)があり前方後円墳です。ヤマト連合政権(この頃はまだ連行政権と推定)の権力が奴国に及んでいたことの証拠です。そして伊都国もヤマト連合政権の構成国であり、一大率はヤマト連合政権から派遣された人間だとも考えてます。奴国、伊都国と邪馬台国は特に戦をしていた情報が無く邪馬台国の遣使もスムーズに通り過ぎていることから、邪馬台国もヤマト連合政権の構成国だと考えています。この頃のヤマト連合政権の中心地は、まだ奈良ではなく、大阪の北側、あるいは堺あたりだと考えています。
好感ありがとうございます(笑)。し、しかしです!ヤマト連合への組み込みは早くないですか!大和はもとより河内の勢力すら、卑弥呼の時代に奴国、伊都国を統治できていた証左は何もありません。もしヤマト王権の勢力下だとしたら、奴国、伊都国レベルの中国由来の重要品(鏡など)が畿内から出土するはずですが、それらの畿内からの出土は4世紀からです。私も3世紀半ばとする那珂八幡古墳の存在はとても気になっています。前方後円墳が大和発のものだという通説が間違っているのかも知れません。土器編年の絶対年代がおかしくなっているのかも知れません。
@@これはどうでしょう さん私の書き込みヤマト連合政権の根拠は前方後円墳の存在だけです。でも西暦250年頃にはすでに鉄器と青銅器が日本に入ってきており(紀元前4世紀に日本へ)、それが畿内でさえ弥生時代中期後半には鉄器が普及していたとのことですので(日本の歴史学会の定説)、あながち間違っていないように感じています。
弥生後期に畿内にも鉄がたくさん入って来ていたとするのは定説ではなく、邪馬台国畿内説の学者さんだけの主張ではないでしょうか。その時の根拠は、「鉄は溶かして再生産できるので、この時代の遺跡からは発見されない。・・・だから鉄があったのだ・・・」と。こんなレベルの根拠しか私は知りません。
@@これはどうでしょう さんレスありがとうございます。日本に鍛冶技術が伝わったのは古墳時代の中頃。製鉄技術が伝わったのは古墳時代の終わり頃だそうです。ここで初めて鉄鉱石や砂鉄から鉄を作ることができるようになりました。いずれにせよ邪馬台国時代には大陸から渡ってきた鉄器を基本的にはそのまま使う形で、壊れたら削るなどして工具にしたり釣り針にしたり程度の加工技術しかなかったようです。ですので古墳時代初期のところから鉄器が出てきたら大陸から運ばれてきたものが国内で紆余曲折があったにせよ畿内で見つかるのはやはりそれなりに人の流れがあったと推察されるのです。米作りには鉄器は必要で便利ですしね。普及しますよね。鉄器が有って、古墳が有って、人の流れもあるのなら、権力も有った状況証拠にはなるのかなと思います。私は邪馬台国九州説派てすけど、邪馬台国はヤマト連合政権の構成国の一つと考えていますので。単にヤマト連合政権の友好国というだけかもしれませんが。
邪馬台国、ヤマト王権という観点を置いておいたとしても、この頃、弥生時代~古墳時代前期にかけての列島内の勢力図を考えると、大和地域が北部九州地域を勢力下においていたと考えられる考古学上の資料は何もありません。地域毎に古墳造営が進む時代なので、地域ごとに首長の権力は生まれていたでしょうが、権力どうしの勢力争いとなると、単純な友好国の関係というものは想像できません。北部九州は個々の国同士の争いが、戦いの形で続いてきた訳ですし、勢力下に置くというのは、実際に戦いにまで進んだか否かはケースバイケースだとしても、武力による勢力争いがベースになっていただろうことは、考えておかなければならないと思います。卑弥呼の時代、3世紀の前半において、邪馬台国がヤマトの勢力下に入っていることは考えられない訳です。そしてそこに那珂八幡古墳や前方後円墳の謎が生まれるのだと捉えています。
三角縁神獣鏡は国産の鏡で古墳時代に作られたもの。箸墓、纏向は4世紀に造られたもの。など橿原考古学研究所の関川尚功先生が講演なさってる動画がユーチューブにアップされてます。考古学の立場から、また、奈良盆地の発掘に関わってきた立場から極めて論理的にご説明されてます。おそらくこれが真実に最も近いと思われます。”畿内ではありえぬ「邪馬台国」 -- 考古学から見た邪馬台国大和説 関川尚功”
倭国の周旋5000里を考えてみます。いろんな説は有るかと思いますが、私はこれは倭国の領土の範囲を示してるのではないかと思います。というのは最後に奴国が出てきてここが倭国の境界の終わるところと書いてあるからです。つまり、奴国を起点にして周旋5000里(5000*70~75m=350~375km)廻って奴国に戻るので。この範囲が最後の奴国で境界の尽きるところ(奴国に戻るので終わり=範囲)であると解釈できると思います。そうであれば動画で指摘されてる北部九州の範囲とほぼ一致します。また、投馬国も邪馬台国も日数起点が奴国であると思われますので両国ともこの範囲内にあることになります。
なるほどです。Googleマップでぐるっと距離を測ってみると、375kmになりました。中四国にも近畿にも行けない訳ですね(笑)。
魏の使節は、通常伊都国に留め置かれ伊都国と不彌国は都でありながら大国の奴国の衛星都市的な配置となってるのですから奴国が起点となることに何の違和感もありません。また、これらの国は遠隔でよくわからないと言ってるわけですから魏の使節は実際に行ってはいないことになります。しかし、不彌国までこれだけ正確な方位と距離を得てることから測量部隊がいたことは間違いないと思います。そしてその他の旁国は魏の測量部隊が倭人に測量方法を教えて計らせたのではないでしょうか。今も昔も日本人の気質は変わらず先進技術は積極的に受け入れ実直に実行すると考えれば正確なのも納得できます。魏の使節は日本人がそれほどの能力を持ってるとは想像してないので詳しくはわからないと言ったと思います。
なるほど・・・そうですね。一方、卑弥呼の時代にこの地域で有力な王がいた場所は、糸島市三雲~平原と福岡市比恵那珂あたりになります。早良平野との関係性はどう捉えることができるでしょうか。
奴国は2万戸の大国ながら官と副官しかいません。伊都国は千戸でも官と副官2名です。また、代々王が居たともあります。これらのことから関係を推察すれば伊都国は貿易、政治の中心、不彌国は商工業中心で国内交易の国、そして奴国は2つの重要な国を支える食料供給の国(奴は忠実に従うという漢字の意)となるのではないかと思います。早良平野に奴国の都があったのは、内陸部の高台の野芥あたりに福岡平野の各地から農業生産物を集め倉庫に蓄えることで常に確保し、日向越えで伊都国へ農産物を容易に運べる利点があったのではないかと考えてます。因みに後漢の倭奴国とこの奴国は違う国と思ってます。
倭人に測量させた。と考えれば何故日数標記に変わったか、また、陸行に一月・水行十日もかかったのかも理解できます。測量しながらの旅程ならそのくらいかかってもおかしくありません。というかそれ以外にすべての矛盾を説明できるすべが無いと思います。
『伊都国は邪馬台国の北にある』なので佐賀平野ですね。
佐賀平野を含む筑紫平野全体が邪馬台国連合と考えています。
傍な辰砂が産出される山がありますか? 又、東側に海が存在しますか? 無ければ該当地で有りませんヨ!
真珠、青玉、丹がある地は列島全体でしかないので、広く「倭人の国」の描写だと捉えています。
寂しいですが熊襲により、邪馬台国が滅ぼされたということでしょうか。昔のことですので終わったことはそのまま受け止めますが大和朝廷の熊襲征伐をみえば、この説は正しいと思います。邪馬台国が滅び、九州に残った群雄が熊襲尊であれば、大和から派兵された大和尊はかなり卑怯な手を使ったとかの手塚治虫先生が描いていました。怠慢でけんかをするのにルールはありません。宮本武蔵でも同じでした。日向の子孫の大和尊が熊襲尊を征伐しても歴史の流れです。
狗奴国勢力が熊襲であり、そのせいで邪馬台国が終焉したのかも知れませんね。九州各地に離散していた旧邪馬台国勢力が集結して東征していったとすれば、神武東征が当てはまりそうです。
歩幅76センチは3.03cmを1寸とすると25寸になり10500里は角度27.6度から1.14かけて約萬2千里になり経験と資料から分かったと思います
????????意図が分かりません。
なぜ12000里ガレーザーをつかわずわかるのか回答したものです 陳寿は魏使の測量資料からわかったと思います邪馬台国で日影をはかった
魏志の測量資料からわかるのは棒の影の長さのみで1里=76mまではわからないと思いますが。グーグルマップがないものと考えればすぐにわかる話と思います。
長安から北回帰線は約1216キロあり16*75cmは1200キロで16キロも誤差があるので76キロが正解だと思います 測れるのです
12.35尺でなく12.35寸です 失礼しました 歩幅76センチは寸2.45cmで31寸になります日影差10500里は798キロになり斜めが萬2千里912キロであることが解明されました
末蘆国・邪馬台国の比定と、一旦置いておいて、里程と旅程は切り離すと次の考え方がなり立ちます。里数は、短里(0.0675km)で計算する。魏志倭人伝の通りに①帯方郡→狗邪韓国(7,000余里)→対馬国(1,000余里+方400余里(方は一辺400南東で二辺800余里)1,800余里→一大国(1,000余里+方300余里(方は一辺300南東で二辺600余里)1,600余里→末蘆国(1,000余里)→伊都国(500里)→奴国(100里)→不弥国(100里)=12100里「郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」②帯方郡→女王国(12,000余里)となり①=②となります。よって、里数においては、不弥国(12,100里)=女王国(12,000余里)となります。「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。」ここは、長里(0.434km)を採用する。(仮定出発起点を帯方郡)南→水行10日(120里*0.434=52.08km/d)→陸行1月(30日)(40*0.434=17.36km/d)(長里0.434km)を採用すると、[一日の水行距離] 水行 10 日=陸行 30 日= 10 : 30 = 1 : 3 陸行1日=40 里 水行 1 日=40 里×3=120 里=17.36km×3=52.08 km 1200里/日*0.434km=520.08kmはあり得ないので、[一日の水行距離] 水行 10 日=陸行 30 日= 10 : 30 = 1 : 3 陸行1日=40 里 水行 1 日=40 里×3=120 里=17.36km×3=52,08 ㎞ ( 12,100*0.0434=5251km)はあり得ない。1/10とすると、③帯方郡から邪馬台国1,210里である。水行の到着地松浦国まで1,210-70-10-10=1,140里1,140里/120里/日=9.5日となり、残り70+10+10=90里/40里=2.25日+9.5日=11.75日=10日+1.75日で、邪馬台国に到着する。①=②=③で、不弥国=女王国=邪馬台国となる。
①での800里、600里を足すロジックが分かりません。
@@これはどうでしょう ①での800里.600里は、原文では「對海国・方可四百 里(方可四百餘里)」「一大國・方可三百里(方可三百里)」(実距離とは異なる)と記述されている。 この時代の船は海岸線に添って航海していた。つまり、対馬国の 400 里四方という意味は島 の大きさを表しているだけではなく、(正四角形ではありません)船が島を通過して行くには海岸線に沿っていったん東に (又は西)に行き、島の先端部分から方向を南に変えて大海に出て次の目的地に向かう航路を辿 る必要があった。その移動距離は島の大きさを表す東西の距離と南北の距離の二辺に相当する。 つまり、狗邪韓国から対馬国までの距離は1,000 里だが、そこに島の大きさ、東西 400 里、南 北 400 里の二辺の合計 800 里を加算しなければならないのである。同様に一支国は 300 里四方 であるから、一支国を通過するための東西 300 里、南北 300 里の合計 600 里を加算しなければ ならない。 と云う説明になります。帯方郡→7000余里狗邪韓国→1000余里対馬国800里→1000余里一支国600里→1000余里末蘆国→500里伊都国→100里奴国→100里不弥国=12100里
対馬の中継地は当時の遺跡から浅茅湾周辺と考えることが出来、この時の海水面や船の大きさを考えても大船越や小船越で船越したと考える方が自然です。800里も迂回する必要はありません。
@@これはどうでしょうさんへ、① 対馬国方可400里・壱岐国方可300里として、この里数を表記している事は、船を漕ぎながら船上から乗組員が、島の沿岸部を観察している。よって、里程距離に加えるのが自然である。帯方郡→7,000余里狗邪韓国→1,000余里対馬国800里→1,000余里一支国600里→1,000余里末蘆国(824.22km)→500里伊都国→100里奴国→100里不弥国=12,100里(874.8km)=帯方郡から女王国に至るには12,000余里(874.8km)である。邪馬台国(都する所)内に不弥国(女王の住居)がある1,000余家60戸不弥国(6戸)(100余家) 末蘆国から邪馬台国内(不弥国)700里*(短里三種0.0675-0.0723-0.076km)三種47.25・50.61・53.2km内にある。水行10日陸行1月(30日)の速度比率3:1から考えると874.8km/10日=87.48km/d:29.16km/d=87.48/8=10.935km/h:3.645km/hで満足する。よって、陸行は、700里(50.61km/29.16km/日=1.735日帯方郡→水行10日末蘆国1,140里(824.22km/87.48km/d=9.42日≒10日となる。
@@これはどうでしょう 大船から小船で船越ししたと云っておられるのでしょうか?そんな面倒くさいことを荷物もあるのに移し替えるのですか?それこそ不自然ではないですか。
楽しく拝見しました。 私は見逃していたのですが、対馬と壱岐は古代船では航行不可能だったんですね。 考えてみると、魏は対馬から出雲(投馬國とする)へは、倭国連合が運営する交易ルートを通るしかありません。往路は帯方郡→狗邪韓國→対馬→出雲→宗像→壱岐→伊都國となります。大半が地乗り航法となるため、伊都國までは、水行20日、水行10日陸行1月は妥当でしょう。一方、里数は一寸千里法で測定した直線距離で、魏が描く地図を言葉で説明したものでしょう。 対馬と壱岐が1000里と近いけど遠回りで約1.5月かかるということです。12000里は沙里院と宮崎神宮付近で、天体測定した計算値であり、7000里を差引いた5000里が筑紫島を含む女王國のザックリとした大きさを示しています。 卑弥呼の時代には、勒島から壱岐に直行する新航路があったにもかからず、天体測定のために対馬に立寄ったのには納得いきます。追伸:短里の千里は76.6km、最小単位は100里。500里や100里も句股術で計算した結果です。
おっしゃっていることが良く理解できません。対馬から壱岐へ、直接渡海出来なかったということでしょうか?
@@これはどうでしょう そう無理なんですね、古代船の準構造船は丸木が土台の転覆しやすい船だったのです。手漕ぎは4から5km/hで、20から30kmの対馬海流には漂流航法しかなかった。詳細は papaさん チャンネルが参考になります。
対馬海流が2、30キロという話は聞いたことがないですね。その方の勘違いじゃないでしょうか。
@@これはどうでしょう すみません、東方向に2.5km/hの間違いです。申し訳ありません。
@@wajin5695 さん 小名木先生が、「丸木舟」ベースではなくて、「葦船」ベースではないかと言われていました。それだと大型船が作れる。邪馬台国は、縄文人系列です。海のフェニキア人みたいな、海洋民族系知識がある。入れ墨があるのも、海洋民族のミームで、海で死んで手足がもがれて顔もわからなくても、一部が残って、それが刺青模様なら、顔見知りは誰のかわかります。エジプトの船は葦船で、わりと大きいのも作れた。なので、航行技術が案外と高いと想定すると、漂流式だけとは限らないです。中国に稲をもらいにいけるだけのハイテク航海術があったのだから、あまり範囲を小さくしないでもいいと思います。
水行、陸行の日数を距離に換算する件、4:00~陸行は、徒歩なので大体の距離は合うと思います。水行の方は、舟での移動としたとき、従来は当り前のように海上を進む計算をしていました。これが、間違いの元だったのでしょう。海上ではなく、川をさかのぼる船旅だとしたら、全く異なる結果になるでしょうね。動画のUP主さんは、川をさかのぼることで、対象の場所を探り当てられたのでしょうか?
いえ、今回は川の航行日数を参考にした訳ではありません。この記述は倭人からの伝聞をそのまま載せている、使者は実際には邪馬台国に行っていない。そんな解釈をとっています。奴国から日田へ行くとしたら、ほぼ川で航行できると思いますが、陸行1月は現実的ではありません。
水行~の記述は無視の解釈ということですね。
残念ですがそうですね。ここを重視しすぎると、日本列島上に邪馬台国を置くことが出来なくなります。なので、私の考えを4:00のところで述べています。
壱岐島からの距離とその後の方角が違うのでは?
方角のズレや距離の間違いはあったろうと思います。ピッタリ当てはまる場所がないので、300年にわたる議論が継続しているのだと思います。
台与の国の鏡表(150-250年)変ですね。248年卑弥呼没ですよね?
確かに!筑前、筑豊、豊前の漢鏡は古墳時代初頭の認識なので、△のゾーンはもう少し右で、「台与の国の鏡」も言い過ぎかも知れませんね。この辺りを実際に考察する時に検証したいと思います。ご指摘ありがとうございました。
@@これはどうでしょう お返事ありがとうございます。自分自身の歴史への考察が増す度にまた聞き直し、思考妄想し楽しんでいます。大変参考になります。
それは有り難いお話です。今後ともよろしくお願いします。
オ~、我が母方の故郷日田ですかぁ~。考古からの導き すっかり在野の先生ですね(^^)「こんなん知らんやろ?」と魏が下賜した『鉛丹』が鉄鏡の裏から確認されませんかね~(^^)
思い切って、日田を想定してみました。去年訪問した時は、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を見たいだけでしたが、色んなことを調べているうちに、居館遺跡や庄内式期土器の存在を知ることになりました。もっともっと色んな物が出てくると、より確かな推論になると思うのですが🎵また行きたい日田です。mongenさんお薦めのモツ入りチャンポンも食べて無いですし(笑)。
@@これはどうでしょう さん。タブレットの不調で遅くなりました。九州醤油ベースのモツチャンポンを是非(^^)前回動画からの考察 甕棺と銅矛の変遷は旧家の伝承とも一致しますね。2016年5月中国河北省で113基の甕棺墓(大人用含む)が発見されました。吉野ヶ里では甕棺が2000基以上出土し山東省歴城県のものと形状が酷似。とあります。朝鮮半島では甕棺墓は南部だけ、つまり シナから直接伝播した甕棺の風習が北部九州から半島南部に伝わった。国内では肥前から筑前、筑後に広がったが邪馬台国の時代は最盛期を過ぎ衰退。墓制は簡単に変わりません。集団の移住者によってもたらされます。シナの「史記」や出雲旧家、九州の古代からの豪族 宇佐氏に伝わる伝承が見事に一致します。BC200頃 大型の準構造船の船団で工人、陶工、武人を伴って今の佐賀県諸福の湊に上陸した『徐福』‘九州の地’では『ニギハヤヒ』を名乗る モノノベの祖です(^^)
へ~~~!河北省や山東省から甕棺が出てるんですね。知りませんでした。今まで甕棺は。縄文期の日本古来のものが北部九州に入って来た先進土器製法と合わさって、九州で出現したものと思っていました。甕棺を盛んに流行らせた人達が何処から来たのか、一層の考察が必要になって来ました(笑)。一方で徐福来訪は、佐賀県に残る説話などもあり、歴史的に私も解き明かしたいテーマですが、甕棺墓の創始期、甕棺Ⅰ期は、糸島、唐津、相良、佐賀、小城、熊本あたりで始まっていますが、考古学上は弥生時代前期に区分されていて、BC5世紀~3世紀のことだろうと言われているようです。(→第9話)徐福一行がBC3世紀に来訪したとしたとき、微妙に時代が合わないのではとも思っています。私も出雲旧家、向井家の御本を目を皿のようにして熟読しています。基本的には真実の伝承だろうというスタンスで読んでいますが、この内容が考古学資料と合致していくと、自分の中で納得した歴史が描けるかも知れない、とワクワクしているところです。モツチャンポン、次回訪問では必ず・・・秋に行ければ、と思っているところです(笑)。
@@これはどうでしょう さんオ~~!へ~に対抗しました(^^)向家=富家(登美)コトシロヌシ 見てますかぁ~流石っすね~先輩(^^)去年 妻木晚田遺跡に行った時 近くの神社の祭神調べてたら高杉神社(孝霊天皇宮) 欠史8代?しかも宮?記紀には記載ないので 僕も出雲の伝承本に至りました。吉備勢力の成り立ちまで腑に落ちました。4000年以上前『鼻の長い動物の住む国から民族移動して日本に来た』お~天とかアチャラじゃ無いんだ(^^) 目から鱗の話が多く神社祭神の謎が幾つも解けました。先月 また出雲大社に行き 『ホヒのしめ縄の方が立派じゃん』『神事で身を隠すんだろ?』独りニヤニヤシャントン饒安県から石見、佐賀 大きくは2度集団を引き連れ渡来した彦火明(海部氏、尾張氏祖)=『徐福』=ニギハヤヒ=火明饒速日尊(物部氏祖)これが記紀や、海部氏、竹内文書等が架空のスサノヲ等を創作し隠した最大の真実。ユダヤ系かつ道教思想からその後の神社の催事が繫がりますよね。神獣鏡祭祀を強要するわけだ(^^)ニギハヤヒは最初 伊万里湾に入るも 先客から『山の向こうに人の少ない湿地がある』西海回り 有明海 諸福湊(しょふく?笑)に入ったとあるので春秋戦国で逃れた勢力も居たのだと思います。争った記述が無いので言葉が通じたんでしょうか それが甕棺墓のグループだと考えます。遠賀川以東はやはり別勢力(出雲)なんですね。卑弥呼登場前に東征(構造船持ってるので四国の南!鹿児島に伝承あったり高知に銅矛出るわけですね)あ、日ノ宮弊立神宮によると太古の日本人は世界中に散らばった五色人ですね。聖書はくどい程 『神は東から来た』『東から救世主がやってくる』遠く北欧の地では縄文土器が出土しています。世界中で文明を創った日本人は先祖の地に帰ってきています。まさに『八紘一宇』大御心に感謝です。消されないですよね^_^; でも本心です。
ワァ~~、妻木晚田遺跡行かれたんですね!羨ましぃ~~。私が買った向井家の本は「出雲と蘇我王国」ですが、この本の影響で出雲に再び興味を持ち、妻木晩田遺跡の本を図書館で借りてきて調べ始めました。ここの四隅突出型墳丘墓/洞ノ原墳丘墓群と、出雲の西谷墳墓群、三次盆地の四隅突出型墳丘墓などの関連性を知りたいと思っているところです。ご示唆頂いている事は興味のある事ばかり。Mongenさんの頭の中では、既に多くのことが繋がっているようですね。早く追いつかないと!! (笑)。
ちょいと気になったので、書き込みます。卑弥呼の後に女王となった女性の事を『壹与』と書いて『とよ』と読んでますが、これは二重の意味でおかしいです。卑弥呼が治めた国の事を『邪馬台国』と書いていますが、『邪馬台国』の『台』と『壹与』の『壹』は同じ漢字でなければいけません。つまり『邪馬台国』と書くなら『台与』と書かなければならないのです。最低でも『臺与』です。また、中国では原則として同じ時代なら同じ漢字は同じ音で読みます。つまり『邪馬台国』を『やまたいこく』と読むなら『台与』も『たいよ』としか読めないのです。この原則を守らない学者や研究者が多すぎます。せっかく話の内容自体は説得力があるのに、こんなくだらない事で信憑性が落ちるのはもったいないです。
ご指摘ありがとうございます。私は壹与の本当の読み方も中国での原則も知りません。また邪馬台国が、邪馬臺国なのか邪馬壹国なのか。臺与なのか壹与なのか。「やまたいこく」なのか「やまいちこく」なのか「やまとこく」なのか。「とよ」なのか「いよ」なのか「たいよ」なのか。それらについて自分の意見を持っていませんし、通説もあるとは思えないので、一般呼称で、「やまたいこく」、「とよ」と呼んでいます。ご指摘として頂戴しておきます。
北部九州に住む者として、大変興味を持って拝聴いたしました。素晴らしい研究と存じます。BGM(Background music)とナレーションのバランスが悪い ように感じます。(BGMのボリュームが大きすぎる)。動画の最後近くのバランスが適当と思います。
ご視聴ありがとうございます。そしてご意見もありがとうございました。他の方からも同様のご意見を頂いていて、今バランスを見直しているところです。次回以降、もっと配慮した動画にしたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。
吉野ヶ里伊都国の港から短里4000里304キロで種子島とグーグルマップで証明できます そこから魏使は北上し東に1000里四国に渡ったと考える自説と共通するところがあります
ご説明の4000里は、どこから抽出された里数でしょうか?
@@これはどうでしょう 後漢書倭伝と魏志倭人伝に倭から4000里と書いてありどこの港からが不明なのです 四国の愛媛 香川 土佐が広形銅剣漢鏡の渡来地で東1000里が比定できます
@@これはどうでしょう 銅剣でなく銅矛でした 失礼しました
倭国の女王国を去ること四千里、南方にあった侏儒国(しゅじゅこく)ということでしょうか?
おしゃるとうりです その女王国を伊都国吉野ケ里とすると距離があうのです
不弥国って呼び名からも粕屋郡宇美町が定説でしょ?飯塚市は宇美町のさらに東側で山を越えないといけないので、違うと思いますよ。飯塚市は田川市や直方市と同じく遠賀川流域の豊の国の一部でしょうし。遠賀川流域は地質学で昔は大阪平野と同じく内海だったことが分かっています。福岡県民より・・・
そうですね。宇美町という見方もありますね。今回は立岩遺跡のある飯塚市に置きました。遠賀川流域は確かに筑前・筑後・肥前の一帯とは異なる文化圏だったと思いますが、弥生時代後期にはこの飯塚周辺だけ筑前・筑後・肥前と同様の甕棺墓圏となり、福岡平野、糸島平野の王墓に匹敵する王墓が立岩遺跡なのです。そういう理由で、飯塚市と置きました。
(注意)
動画中の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の復元図は日田古代史研究会に著作権があります。
ご注意下さい。
(C) 日田古代史研究会
感謝もうしあげます
@閻魔大王_Gabriel True emperor さん
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すみませんが削除しますので、通常のコメント欄に再送信お願いします。
鉄鏃、弥生時代では猿田彦の武力行使では? 造船技術にしても、また、八咫烏との攻防では山窩、海窩の攻防史の存在は? 外輪山周辺説と鹿児島説が気になりました。邪馬台国 女王卑弥呼、つまり、姫巫女を呼べ、大和朝廷の神代文字について、訳せていますが、飛鳥時代で無ければ、海外渡航造船技術が有りません、西暦300年、八咫烏に討伐令を大和朝廷が下した西暦1300年については、如何に?
@@和足蓮見 さん
コメントありがとうございます。
ただこの欄は注意喚起用に固定しています。
すみませんが削除しますので、通常のコメント欄に再送信お願いします。
@@日田卑弥呼の都 わ
時代分布図及び地図へのあらゆる出土製品の落とし込みがあり解りやすく参考なりました。引き続き応援してますので邪馬台国問題に対して投稿お願いします。
ありがとうございます。
情報を探しながらの「旅」ですので中々進みませんが、引き続きよろしくお願いします。
この頃は 今と 大きく 地形も違ったようですが ( 古遠賀湾など ) その当時の 地図で 解説して頂きますと より想像が膨らみます✨ 北部九州に住むものとして 胸が高鳴ります
素敵な解説ありがとうございます
お誉めありがとうございます。
博多湾の古代の海岸線はおおむね明らかになっているようなので大体分かります。
古遠賀湾についても目にしたことはありますが、何処まで研究されているか実態を知りません。
機会あれば調べてみたいと思います。
御説に納得です。考古学資料を中心に文献と合わせ込む考え方がとても良いと思います。筑紫平野全体を邪馬台国とし
卑弥呼の館を日田とする説は斬新で衝撃的でもありました。魏の使節一行が色々と邪馬台国を観て回って最後に卑弥呼の館に行ったと考えれば「陸行・水行・」という表現も納得できます。それにしても良く勉強されていることに驚き同時に尊敬します。
次話以降も楽しみです。
早々にコメント頂きありがとうございます。
日田の居館も庄内式甕も、違うことを探していて偶然見つけました。
ヤッター、という感じでした。
居館の溝にあった土器には祭祀用の物もあったらしいので、ますますココだーと。
次回は、臺与の国のお話にしたいところですが・・さて?
興味深い解説と年代表による、鉄鏃・土器等々の出土状況大変勉強になり資料としてもとても解りやすかったです。此の資料により、私の比定地の裏付けにもなりました。大変ありがとうございました。
参考にして頂けたようで嬉しいです。
こちらこそありがとうございました。
素晴らしい考古学的資料による解明で、女王国の範囲と邪馬台国の比定地が明確になりました。有難うございました。益々、定説・通説の末蘆国(唐津)の位置(少し長くなりますが後日証明します。)が、違う事が明らかになりました。それ以降の東南50里伊都国東南10里奴国東し10里邪馬台国女王の都する所(不弥国)となる。当然里数は、長里(0.434km)春秋の筆法による。距離以外も1/10で読む。
例の1/10説ですね。
追説よろしくお願いします。
黒キジと青石が採れるなら、ありですね。ところで、冬でも裸足で過ごせるくらい暖かいのですか?
基本的に倭地は温暖だったのでしょうし、青玉も真珠も・・・黒キジも、倭地の話だろうと捉えています。
今回も面白かったです!
ワクワクしました!
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
いつも拝見しております。おっしゃる通りだと思います。北部九州に住んでいるとわかりますが、この地域の古代の道は日田を起点に出来ています。更に周辺は「ヤマ・ヤメ」と言う地域に囲まれています。ヤマ都が日田に一番ふさわしいと思います。日田や朝倉は物部の後を色濃く残し、那珂国や筑豊、宇佐、大分、佐賀関は安曇・海部の色を強く残します。海幸山幸の話に合致します。
ありがとうございます。
おっしゃるように状況証拠だらけですね(笑)。
道についてもそうですが、古代の大動脈だったろう筑後川の上流部に位置し、宝満川、御笠川を介して博多湾へも通じていることも見逃せませんね。
特定の土地に留まっているイメージがあるのですが、卑弥呼(邪馬台国)は移動したりしなかったのでしょうか?
それはよく分かりません。
私は移動したと思っていますが、ハッキリしたことは分かりません。
色んな解説を見てきたけど、この解説が一番しっくり来る。
とてもわかりやすい。
ありがとうございます。
私見が沢山入ってますが(笑)。
はじめまして。
王が代わると土地を変えていますよね。
とよのくに は「豊の国」大分では?いよのくに は「伊予の国」愛媛へ~四国へ行き、奈良へと移って行ったのでは?と考えています。
私も日田説推しです。東西南北の中心で情報の拠点と考えています。
日田市の南側は山の起伏が激しく敵は入ってこれないと思います。水が湧く湿地帯や谷が沢山あって、いまだに道も作れないでいますから。
楽しく拝見致しました。また楽しみにしています。
「日田説推し」ありがとうございます。
壹與が東行し、豊国へ伊予へ、そして大和へ。
あるかも知れませんね。
大和では豊鍬入姫命といわれたのかも、とか・・
色々想像するだけで楽しいですが、できれば本当の歴史を知りたい。
夢です(笑)。
邪馬台国論争が好きな
熊本在住のただのおじさんです。
ここ数年色々見て
1番腑に落ちる
各国の配置でした。
卑弥呼が日田ってのだけ
無いかなぁって思いました。それ以外は納得です。
日田が無いと言うのは
筑後川沿いが、大昔から
水害に悩まされる土地だと思うからです。
弥生時代の賢者が
わざわざそこに住み大事な墓を建てるとは
思いません。
筑後川が昔から水害をもたらす川だったことはよく承知しています。
筑紫次郎ですね。
一方で、ならばこその水田経営が盛んだったろうと想定出来ます。
頻繁に水浸しになる土地は肥沃で、水の確保も十分です。そして小高いところに居住すればいいのです。
実際筑紫平野には多数の大規模環濠集落があって、その所在は丘の上です。
墓も同様です。
日田で発見された大規模集落、首長墓も高台にあるので、賢者こそそうしたのだろうと思います。
福岡県朝倉市の平塚川添遺跡を訪れたことがあります。解説図の邪馬台国の中心に位置しており最も有力な候補地ではないでしょうか。
私も平塚川添遺跡へ行ったことがあります。
邪馬台国とも言われているところですね。
有力な候補地だと思います。
朝倉市の「卑弥呼の湯」も良かったです(笑)。
この動画は素晴らしい。私も以前から同じように考えていました。
卑弥呼のいた場所は日田市で間違いないでしょう、日の神 卑弥呼は 邪馬台国から見て 日の昇る東の高い場所に祀るのが自然。
その後 トヨは、日の昇る東の地 豊国(大分県)にいたと考えています。これはどうでしょう・・・
ありがとうございます。
日田市の賛同者、増えてる気がします。
(違ってたらどうしよう🥺)
卑弥呼は元々伊都国の姫だと思っているので、その先代の平原王墓が正に日の神を祀っているように見受けられ、そのお考えは繋がりますね🎵
トヨの国が豊国、は間違いないでしょう。
宇佐八幡宮が神功皇后より前から媛をお祀りしていたと、確か社伝にあったと思いますので、それがトヨだと分かりやすいですね。
解りやすくて素晴らしい。私も北九州説に魅力を感じています。魏志倭人伝は早稲田大学で三國志研究者である渡邉先生の話によると距離に関しては余り信用出来ないとの事。また最近、中国で曹操の墓から金銀龍文鏡が発掘され、それが日田市で発見された物と近いとの事。先生の研究、期待しています。
日田で発見された金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、卑弥呼の鏡の可能性が高いと言われていますね。
今後のさらなる研究に期待大です。
これはどうでしょう!を楽しみにしている毎日です。先生の次回版楽しみにしています(^^)
先生って私のことですか!
いえいえ私は素人の歴史マニアです。
勿論、人様に向けて発信しているので、それなりに勉強はしていますが・・・
いいじゃ、ないですか(^^)お嫌ならすみません💦でも久々に感動したので・・
ともかくまた期待しています。
@@石山光介 さん
お誉め頂き嬉しいです。
次回作もよろしくお願いします。
やはり、エビデンスとしては考古学的資料が一番。非常に説得力があります。
ありがとうございます。
文献資料は歴史を語りますが、解釈も多様です。
考古資料で裏付けることで、真の歴史に近づけるのだと思っています。
色々なデータを地図に落とし込んであるので、非常にイメージしやすくて分かりやすいです。この古代史探索の旅シリーズを教科書として、
他の文献、学説、動画を見ていくことにしたいと思います。ありがとうございます。
教科書だなんて恐縮です。
本来は、旅すがらの謎を解きながら動画にしていくハズなのですが、なかなか旅にも出れずこんな内容になってしまっています。
謎解きの空想旅も楽しいですが・・
ミステリーという勿れ・・(笑)。
いろんな説がありますね。
これは、永遠のロマンかも知れないと思いますが、はっきりとした証拠が発見されて答えが出る事を願います。
答えが出ないからこその「永遠のロマン」かもです。
だから、おじさん達は永遠の少年なのです。
素晴らしく整理されてとても勉強になりました!
私的には、日田の地だと南の山の防御がかなり困難になると思いますので、筑後川を防衛線と考え、嘉瀬川水系を主要な水運経路と考えます。佐賀市大和町の與止日女神社に魏志倭人伝に出てくる干珠、満珠という宝物が現存してます。
お近くにいらした際はご連絡ください!佐賀平野ご案内致します!
ありがとうございます。
今回の日田は、大胆?に予想してみました。
與止日女神社の干珠、満珠ですか。
知りませんでした。汐満玉、汐干玉ですね。
海人族系なのでしょうか。
肥前国風土記より
佐嘉の郡
(前略)郡の西に川あり。名を佐嘉川といふ。年魚あり。其の源は郡の北の山より出て、南に流れて海に入る。此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。ここに、縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり。二の女子云ひしく、「下田の村の土を取りて、人形・馬形を作りて、此の神を祭祀らば、必ず應和ぎなむ」といひき。大荒田、即ち其の辭の随に、此の神を祭るに、神、此の祭りをうけて、逐に應和ぎき。ここに、大荒田いひしく「此の婦は、如是、實に賢女(さかしめ)なり。故、賢女を以ちて、國の名と為むと欲ふ」といひき。因りて賢女の郡といひき。今、佐嘉の郡と謂ふは、訛れるなり。又、此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神・・・鰐魚を謂ふ・・・年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従う。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることもあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る。(『風土記』日本古典文学大系2より)
以上のように鰐族を従えたようですね。干満の差が激しい佐賀では十分海水に乗ってこれるので港としても成立します。
なんと昨年近くの七ヶ瀬遺跡から弥生後期の三種の神器セットが発掘されました!
以上、昔のことを想像するのは楽しいですね。
干珠、満珠は色んなとこに伝説として残っているので、弱いかと・・・
それこそ、筑後一の宮の高良大社は高良玉垂宮といいますが、
由来は奉納された干珠満珠がおたまじゃくしみたいな形から玉垂宮といいます。
干珠、満珠は海神族が安全に航海をする際に持つ珠であった可能性から
たくさんあったのではないでしょうか・・・
@@490526ryu さん
干珠、満珠は海神族系ということで、あちこちの海人族にゆかりのある地に伝わっている、ということですね。
面白く読ませていただきました。
磐井の乱は九州勢力と近江勢力の対決だったのだろうと考えていますが、磐井の別名が八女の大王で、どうも八面山付近出の豪族だったらしいと言われていますね。
日田と八重山は近くと言っても良いでしょう。卑弥呼を守る役割を担っていたのかもしれません。
考古学と照らし合わせ動画には、説得力がありますね。
動画、有難う御座います。
勉強になりました。
ありがとうございます。
考古学資料は蓄積資料なので、時代とともにより確かな事実が浮かび上がるのだろうと思います。
関係者の方々のご苦労に、頭が下がります。
日田は江戸時代も各地への連絡がしやすい土地ということで幕府直轄地で九州の中心でしたよね。
いろいろ似たような動画見ましたが、一番納得できる感じでした。
共感ありがとうございます。
日田は特殊で特別な地域という感じがしています。
次に訪れる機会には、もっと決定的な証拠が見つかればと、期待したいです(笑)。
私はこの説に賛成です。
その他も動画も拝見していますが、よく調べら根拠もしっかりしており感心させられます。
邪馬台国の場所は、福岡県朝倉市付近を中心とし日田も含んだ地域で卑弥呼は祭祀を行っており
日田にいたと思われます(日田が邪馬台国にふさわしくないとコメントもあるようですが、自身は政治に関与しておらず、国の中心はあくまで朝倉市近辺と思われます)。
神武天皇即位を西暦280~290年と仮説たてた安本美典さんの説がしっくり理解でき、そこから展開される卑弥呼=天照大神、邪馬台国=高天原としたことも「あり」ではとも考えております。
邪馬台国は卑弥呼の死後、何らかな事由(狗奴国などの圧力等々)で衰退し、一族は離散、一部は北九州市方面(岡田宮)、一部は宇佐方面、そして一部は南下し高千穂に移動したと考えます(「天孫降臨」?)。南下した一族が神武天皇に繋がり、神武東征したことに続くと考えます。
東征の途中、宇佐に立ち寄り、岡田宮に立ち寄り過去の一族と連絡し兵を募り東征したとのではと考えます。
なぜ記紀に邪馬台国が登場しないのか、それは邪馬台国を高天原と神格化し天皇を神の子孫として天武天皇期に作り上げたからではと自分で勝手に推論立てております。
このように考えrると奈良県と北部九州(福岡県)の地名に類似していることが多い点などスムーズに納得できるように思えます。
福岡県と大分県に跨る英彦山の英彦山神宮に天照の子が主祭神となっているなども理解できます。
以上、大変参考になります。これからも楽しみしています。
ありがとうございます。
ご提示頂いた推論はとても参考になります。
私も邪馬台国連合の本体か一部が東遷したのだろうという仮説を持っていますので、賛成です。
まず九州各地へ離散したとすれば、各所に残る伝承が説明出来ますね。
邪馬台国の後裔が後に物部と言われる人々だとすれば、各地に離散した後に大和に終結してヤマト王権を樹立するという筋書が描けるのではと思っています。
今後ともよろしくお願いします🎵
素晴らしい考察です。フィールドワークも良い。
ありがとうございます。
とても面白い動画ありがとうございます!
可能なら、古代の海岸線を手書きで描いて、その地図上で説明頂ければ嬉しいです。
私は、卑弥呼の殉死者多数の1文に興味有ります。
古代の海岸線の追加、いいご意見です。次回チャンスあれば工夫してみます。
ありがとうございました。
卑弥呼の殉死者多数の一文・・
確かにそうですね。この一文だけで箸墓説は消えることになります(笑)。
邪馬台国の場所が実際よりかなり南に記述されてるのは、魏が対立していた呉の背後に強大な魏の同盟国が存在するように見せかけ、呉を牽制する目的があった説。
一都市で7万戸なら祭事用の巨石が見つかってもおかしくない。
巨石有無は分かりませんが、私もその説が正しいのではと思っています。
小迫辻原遺跡は、3世紀中頃です。講演会で日田市文化財保護課の意見です。卑弥呼の時代にも当てはまります。3世紀後期の本は多々ありますが。
なるほど、なるほど❗️
鉄鏡の復元画像には、著作権がありますので、(c)日田古代史研究会を入れてください。
了解しました。
ただ、動画自体を差し替えると、頂いているコメントが消えてしまいますので、説明欄と第1コメントにその旨記述しました。
それでよろしいでしょうか。
そう書いてあると思います。一方卑弥呼は伊都国、もしくはその直近にいたと書いてありますので、疑いなく糸島近辺に居住しそこで亡くなったはずです。私は平原1号墳を卑弥呼の墓と考え以前から研究しています。彼女は倭国の東遷と言われる時期には既に死亡していたはずですから、近畿邪馬台国を女王国としたのは、知られる限りではトヨのはずです。
卑弥呼かどうかわかりませんが、糸島付近がある時期まで女性のシャーマンの居た国であることは考古学からも明らかです。従っておそらく政治の中心である男王の伊都国は別のところにあったのでしょう。魏志倭人伝を読むと近畿が邪馬台国である可能性も否定できませんが断定することはできません。いずれにしても、大和朝廷と北部九州の女王国が併存しており、互いに独立した連合国であることは間違いないことであると思われます。そして大和朝廷は出雲あたりまでは勢力圏を拡大してたかもしれません。これが魏志倭人伝から推測できる限界です。
良く整理されていて理解できました。しかし、銅鏡空白の100年が気になります。銅鏡を重んじる種族は、北九州から近畿に逃げたということですかね?
そこはまだわからないですね。
銅鏡副葬の中心が、北部九州から近畿へ移ったことは確かですが。
帚木蓬生「日御子」は、ほぼこの説で書かれていますね。
そうなんですか。
そういう説があることは知らないで推論を重ねていました。
勇気付けられます。
説得力がある解説でした。有難うございます。
ご感想お寄せ頂きありがとうございました。
見事、すばらしいです。全面的にこの動画を支持します。
とにかく「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の出土地域(地区)に卑弥呼の邪馬台国があったと考えるのが、極自然だと思っていた。少なくとも筑後川流域になる。旧山門郡あたりは当時は海と聞いている。卑弥呼は、防衛上から、また、魏志倭人伝からも、ある程度内陸にいたと思っている。
狗奴国は、熊本県北部地域の現在の山鹿市から菊池市、つまり、菊池川流域(菊池平野)にあったと思っている。そこには、方保田東原遺跡がある。圧倒的鉄器の生産量を誇る狗奴国が、邪馬台国を駆逐していったとみることが、この動画からも説明できる。
この動画は、考古学資料(証拠)に基づき、これまで確定できなかった、卑弥呼の居場所を明確に指示したとして高く評価したい。
私の中では、卑弥呼と邪馬台国、そして大和王権、神武東征の一連の古代日本史の脈絡が、各論者の動画を視聴することにより、明らかとなっている。
邪馬台国は、東遷したのではない。神武天皇の即位は、紀元前70年頃で、神武東征の開始は、決して西暦300年頃からではなく、紀元前70年以前(もしくは、波速:難波が地質学上確認できる紀元前50年以前)であった。
邪馬台国とヤマト王権とが、西暦3世紀に併存していたということが、各論者の動画から結論できるようになった。
天照大御神さまから高い評価を頂き、光栄です。
というか、賛同頂けたことに素直に嬉しいです。
そして、
台与の時代に北部九州で起きたこと。
ヤマト王権の成立への九州の関わり方。
神武東征のこと。
これらは私の中では思案中です。
今後の発信にご期待頂ければ、なお嬉しいです。
理論的に論じられており目から鱗です非常に参考になりました。これからも楽しみにしています。是非続編をお願いします
有難いお言葉。
続編、勿論やります(笑)。
資料が整理されており、概ね述べられてる通りだと思います。女王国の都は私も日田と思います。しかしながら想定されてる邪馬台国の領域は魏志倭人伝の人口比率から考えると小さすぎると思います。私は、邪馬台国の領域は日田から下った朝倉と直方平野、北九州、大分さらに延岡付近まであった巨大国家と思います。魏志倭人伝の水行10日は朝鮮南端の狗邪韓国から北九州まで船で渡り陸路で宇佐あたりまで下って日田に上がった行程ではないかと思ってます。従って水行20日の投馬国(熊襲国)は宮崎あたりでしょうか。古事記の国生み神話で”伊邪那岐命・伊邪那美命が産んだ大八島国の一つである筑紫島(九州)は、伊予之二名島と同じく体は1つだが顔は4つある。筑紫国の白日別、豊国の豊日別、肥国の建日向日豊久士比泥別、熊襲国の建日別である。(別とは初期王朝に於ける「別」「耳」は、首長または国の名に使われている。)”邪馬台国はこの豊国だと思います。また、奴国は博多湾と八女の両方にあり(魏志倭人伝でも奴国は2つあります)。伊都国・奴国は、漢の時代には博多湾近郊ですが、魏の時代に防衛上の理由から内陸部に遷都して吉野ヶ里が伊都国ではないかと思います。王が居た伊都国は筑紫国の行政府で奴国は経済の中心、不弥国は筑後川と宝満川の合流するところで防衛拠点であり久留米付近かと思います。筑紫国と豊国は邪馬台国連合を組み、狗奴国と闘い、敗れて直方平野付近まで後退させられたのでしょう。
なる程、そういう廻り方もあり得ますね。
水行、陸行の記述をとれば、ということだろうと思いますが、それだと当時の最強国の筑紫平野軍団を嫌ってるようで怒りませんかね(笑)。
不弥国は小国なので久留米にだけ小国があったとは思いづらいです。
久留米に来たなら、日田まですぐですし・・・・
20国の比定を私は出来ていましんが、斯馬国(志摩郡)から東廻りで最後に奴国(博多・春日)へ戻ってきたかなとボヤ~と思っています。
奴国ですが考古学文献では弥生中期以降、卑弥呼の後の時代まで順調に発展していっています。
勢いが衰えた風はないですね。
日田は筑後川を下って攻め込めるという利点ありますので筑紫平野へ川を使って軍団を送り込めます。下から攻め登るよりはるかに有利ですよね。日田を押さえると北部九州を統率できると言われるほど重要なところです。また、朝鮮半島から直接宗像に渡ることも不可能な距離ではありません。ここの地域を治めると朝鮮との直接交易も不可能ではないということです。筑紫軍団がいくら強くとも日田を攻め落とすのはかなり困難だと思いますし日田盆地は稲作に適した土地で兵站を養える能力があったので戦争しても筑紫国と豊国はほぼ互角かそれ以上かと思います。従って筑紫平野がすべて筑紫国勢力が統率されてたとは限らないと思います。一部は豊国が占領した地域もあった可能性があります。それが倭国大乱でしょうか、それから奴国(博多湾地域)は、漢の時代より衰退してることはないというのは当然そうです。だからと言って邪馬台国の時代に果たして最強であったかどうかは疑問です。単なる中国に朝貢する隷属国家である可能性が高いと思います。何故なら古事記の記述のような九州が4つの国に分かれているというような状況にはならないと思います。また神武東征の話も明らかに九州の東側からのできごとですよね。邪馬台国を奴国・伊都国の南に想定するのはやはり違和感があります。
そんな風に根拠を分かり易くして、私とは違う考えを教えて頂けると、とても有難いです。
私はこの分野の専門家ではないので、発信している動画も頂いたコメントへの返しもその時その時に調べ考えて発信しています。
皆様のご示唆で筋書きを作って来たとも言えるので、大変ありがたいです。
そうした中で、日田の勢力をもっと見直していいというご意見はごもっともと思います。
また、上流で舟を作って一気に攻め込むという戦法も現実的だと思います。多分、数年かけて秘密裡に準備する戦法として使えるのだろうと、私もずっと思ってきました。
ただ、今回の筋書きで骨子としている要素として、王権と直結しているだろう、甕棺墓、青銅器、漢鏡の広がりの歴史を、第9話から見て頂いていると思いますが、筑紫平野・福岡平野勢力と日田盆地の関係性を見ると、日田盆地勢力は受動的に見えるので本編のような見立てにしました。
それと、「邪馬台国を奴国・伊都国の南に想定への違和感」についてですが、魏志倭人伝にはこの南北関係の記述が2か所;
・南至邪馬壹國 女王之所都
・自女王國以北 特置一大率檢察・・・常治伊都國
とあり、そして女王国からみてさらに南に狗奴国があるわけですから、ここを否定しないと、この南北関係は変えられないと思っています。
この点はおっしゃる通りです。魏志倭人伝はどこから南なのか一切のべておりません。しかしながら、使節団は、伊都国近辺までしか実際に行ってないのは確実です。邪馬台国や投馬国の位置はあくまでも倭人から聞いた話です。だから水行とか陸行とかの日数しか述べてないのです。従って”自女王國以北 特置一大率檢察・・・常治伊都國”のところは女王国がどこにあるかはわかってないが取り敢えず自分達が検証した国は伊都国だけなので述べたにすぎません。女王国や投馬国の位置がどこにあるかどうかはわかってない可能性が高いと思います。女王国は日田なら少なくとも伊都国より北にあるわけではないですよね。一方魏志倭人伝をいいかげんな文献であると否定する説もありますが、少なくとも誰でもわかる方角や人口の規模まで否定する根拠は何なのか理解できません。邪馬台国は少なくとも奴国の3倍以上ある国です。そうならば筑紫国の3倍以上の領土を持つ国で筑紫国より国力が上の国でなければなりません。陳寿が嘘を書く理由が何なのかわかりません。何故ならこれは倭人の分析をした報告書で皇帝にも見せるものなので現実的な話だと思います。魏志倭人伝の記述は神武東征にも繋がる内容なので真実が知りたいと思っております。動画で分析されてる内容は専門家の内容よりよっぽど説得力のある内容で敬服しております。また次回の動画を楽しみにしております。
女王国の位置を正確に書かれていないのは、おっしゃるように使節が知らなかったか、正確に書きたくなかったかのどちらかだと思いますが、いずれにしても「女王国の北に伊都国がある」としている以上、伊都国の南に女王国があると解釈することが順当だと思います。
「女王国は日田なら少なくとも伊都国より北に」は「伊都国より南に」の書き間違いですよね(笑)。
私の解釈は女王国は筑紫平野全体=筑紫平野勢力を指していて、日田は卑弥呼の居館を設定した場所=いた場所、ということです。
他の諸々の御指摘は、私も同感であります。
このあと、卑弥呼の後の日本の姿をあぶり出していきたいところですが、
邪馬台国・畿内説の方は、どうして卑弥呼が大和にいることになったのかを考えることさえ放棄されているようですし、卑弥呼・トヨの東征説の方でも東征自体の実体を解明されようとする論を見たことがありません。
(私が見てないだけかも知れませんが)
私も暗中模索の状態で先行きは見えませんが、おっしゃるように「神武東征にも繋がる内容」であることは確かだと思いますので国史に関わる解釈でもあり、軽々に推理する訳にもいかないとビビっている昨今です(笑)。
国名は当時の魏国の発音で読んだらどの様になるのかという研究は有るのですかね?例えば好事国という記述が有りますが、中国の魏の時代の発音ですとホカタと発音されてました。これは所謂博多の事ではないかと思うんですが?😅😅
ホカタ=博多。
面白いですね。
一般に当時の発音は呉音に近いとよく言われますが、知識がないので鵜呑みにするだけです。
勉強せんと!
すばらしいですね。スッキリしました。
ありがとうございます。
「ホッ」
お久しぶりです。
前編と本編を拝見しました。
大変詳しく調べられている事に感服しました。
ただ、卑弥呼が居た処が日田だと言うのは大分県人としては嬉しいのですが、あそこは筑紫平野の奥座敷的なところで仰る様に防衛するには容易なところですが、やっぱり山の中の盆地でちょっと田舎、辺境に過ぎる気がします(^^)
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が卑弥呼の鏡である事は間違いないですが、鏡は移動も考えられますから、出土したダンワラ古墳自体が5世紀くらいの古墳とされていたので鉄鏡を受け継いだ者の子孫が移動したのでは?と思います。
日本最古の居住地跡との事ですが、それは私も地元ながら気がついていませんでした。
すごいですね。
ただ、遺物遺跡の年代は気をつけないと、2、3、4世紀は畿内説の百年古く狂った年代観をそのまま踏習しているケースが多いですから、年代!と言う言葉にはいつも、百年古く狂った?と言う枕言葉をつけて考えています。
飛ぶ鳥の明日香の里の〜、百年も古く狂った年代の〜、ね、五七調で語調が整ってますでしょ(^_^)
日本の考古学界の(畿内説の)年代観はその程度で考えるとちょうど良いです。
庄内式土器ですが、出現期はともかく、布留式土器との交代期はホケノ山古墳の築造期です(庄内式土器と布留式ゼロ期土器が同時に出土)から、その築造期を考えると分かります。
それは以前お話しした様に、ホケノ山古墳から出土した楽浪鏡(画紋帯同向式神獣鏡)が楽浪郡墓の最終期土器と共に出土することから、その墓の埋葬年より後の時代です。 楽浪郡の滅亡年が313年ですので、それ以降、32、30年代の築造でしょう。
さらに、位至三公鏡が年代を考える決め手です。 これは西晋時代(265〜316年)の鏡で墓誌により年代が確定した鏡が洛陽で8面、非洛陽で8面の計16面もあります。
また他にも19面の位至三公鏡のうち1面が魏の末期か西晋早期と考えられる他は全て西晋時代の鏡です。
これは墓誌で年代が確定できる鏡だけでなく、墓制やその出土品の比較によって、墓同士の時代差がほとんど見られない事から、時代が特定できる鏡なわけです。
墓誌から分かる年代は、285年、286年、287年、288年、289年、295年、302年などです。
つまり3世紀の第四四半期以降4世紀の初頭くらいの鏡なのです。
この位至三公鏡が北部九州から多数出土する一方で奈良の纏向遺跡からは全く出土しないと言う事があります。
つまり、4世紀初頭、300年頃までは、西晋の洛陽政府と交渉を持っていたのは北部九州勢力です。
畿内説だと、北部九州勢力が独自政権であったのはせいぜい西暦15〜70年代となるでしょう。
この事からも畿内説の年代は百年古く狂った年代である事が良く分かります。
庄内式土器が北部九州に伝わった年代と仰ってましたが、どのくらいの年代でしょうか?
位至三公鏡の出土と比較するとその年代が正確に分かりますよ。
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
ダンワラ古墳はおっしゃるように卑弥呼の墓ではないかも知れませんし、祇園山古墳が正にそうなのかも知れないとも思っています。
卑弥呼が死んだ後、卑弥呼の墓を造ったのが後継者でない場合は、魏の最高位の鉄鏡を副葬しないと考える方が自然かもしれませんね。
ちなみにダンワラ古墳の構造図(漫画レベル)を見たことがありますが、須恵器が出た横穴式石室のもう一つ下層に竪穴式石室があり、そこにこの金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡があったとされていました。
そうならば、3~4世紀もあり得るとは思いますが。
また、「日本最古の居住地跡」ではなく、Wikipediaには、「日本最古の豪族居館跡」と書いてありました。古墳時代という認識から豪族居館跡という言い方になったのだろうと思います。
北部九州で見つかっている庄内式甕の土器編年については、
佐々木憲一氏の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
を参考にし、その大元は、久住猛雄氏の論文によります。
久住氏は、関西方面で流行っている古墳出現期の早期化?に論証を立てて反論されている研究者で、今回この居館跡の土器編年を近畿式編年に割り当てられ、庄内Ⅱ~Ⅲ式とされました。これは箸墓出現期の前の世代にあたります。
そしてこれをAD220ー240年を含む年代とされています。
ご指摘の楽浪鏡や西晋鏡などについての知識は相変わらず進化しておりません。今となってはこの辺りの時代の状況を掴むことが自分には大事になってきたので、勉強します(笑)。
一つ教えて下さい。
「ホケノ山古墳から出土した楽浪鏡(画紋帯同向式神獣鏡)が楽浪郡墓の最終期土器と共に出土することから、その墓の埋葬年より後の時代。楽浪郡の滅亡年が313年ですので、それ以降、32、30年代の築造」
について、ホケノ山の築造年が313年の前に持てない理由が今一理解できていません。
@@これはどうでしょう
313年より後というのは言い過ぎでした。
楽浪郡墓の埋葬者の墓が300〜313年であると考えられているからです。 もっと幅を持たせても290年代〜313年くらいでしょう。
現地ではそのように理解されているとの事です。
画紋帯同向式神獣鏡は神獣鏡の一種で呉系統に連なる鏡種である事は異論が無いと思います。
それが呉の地から遥か遠い楽浪郡に分布の中心があるのは、呉が滅亡して、西晋に統一されたからだと考えられるからです。
つまり、この鏡種の上限は呉の滅亡年の280年以降です。 そして下限は313年ですので、かなり時代性が限定してかつ明確な鏡種ですね。
呉の滅亡年に早速楽浪郡で作られ始めたとは考えられませんから、工人が楽浪郡に辿り着いて定着するまでの時間差を考えれば、どんなに早くても285年以降、普通に考えて290年以降とするのが無理が無いのでは?と考察した次第です。
そして、先に倭人が入手した鏡がホケノ山古墳の出土鏡です。
その後に倭人が入手したのが徳島県の萩原弥生墳丘墓出土鏡です。
ところが、先に死亡して埋葬されたのが萩原弥生墳丘墓の被葬者で、その際に埋納されました。
そこで、ホケノ山古墳の鏡を倭人が入手した時期を最も早く285年だとしても、結局はその後に作鏡された萩原弥生墳丘墓の鏡より後の時代に埋葬年をおかなければならないわけです。
なので、どうしても290年以降と考えるのが妥当でしょう。
しかも、萩原弥生墳丘墓の人物がこの鏡種を入手するまでの時間差、そして入手後に死亡するまでの時間差を考えるならば、どう考えても萩原弥生墳丘墓の人物の死亡年は300年前後でしょう。こう言う考察から先ず、萩原弥生墳丘墓の年代が分かってくると思います。
この300年前後と言うのが最も早い想定です。
そして、さらに萩原弥生墳丘墓の方がホケノ山古墳よりも古いのですから、その時代差を加えないといけません。
一方で、後の時代と言っても古代人の寿命の限りですから(伝世ではないとして)、入手してから、どんなに頑張っても40年前後で死亡して、埋納されたのでしょうから、そうすると、320年くらい、少し幅を持たせても、32、30年くらいと考えてるわけです。
(20代の若い首長が入手しても40年後は60代です)
これだと萩原弥生墳丘墓とホケノ山古墳の時代差は2、30年です。
どっちかの墓が、より古い!と言う場合、この2、30年差は誤差を考えると、分別できる最小値ではないか?と勝手に考えています。
以上考察と言ってもただの独りよがりの言説に過ぎませんが、そうであるからこそ、「無理のない」「合理的」と言うことを心がけているつもりです。w
さて、そこで日田の豪族居館跡ですが、その成立年が箸墓古墳出現前期であるなら、まさにホケノ山古墳の築造期ですから、やはり32、30年代が正しいと考えられます。
つまり、やはり、100年古く狂った年代観です。
もうひとつの考察。
唐古鍵遺跡の時代、奈良地方の遺跡出土物では瀬戸内地方との結びつきは驚くほど希薄で、むしろ伊勢湾方面から東海地方との結びつきが強かったとあります。
また、河内地方では池上曽根遺跡の出土物を見ると東瀬戸内地方との結び付きが非常に強い事が分かります。
つまり、大阪湾岸地域と奈良盆地地域の両勢力は政治的、交易上、疎遠な間柄だったのでしょう。
そこで、位至三公鏡の出土状況を見ましょう。
この鏡は前回の説明の様に285年代〜302年墓誌の年代がハッキリしている鏡です。
年代がハッキリしていない墓の場合でも出土物や墓制から、同時代の墓である事がハッキリしています。
この鏡の日本国内の分布は北部九州に分布の中心があり、大阪府あたりに少し出土例がありますが、奈良盆地には一例も出土例がありません。
洛陽墓で285〜302年ですよ!
倭人に伝わり、それが埋納されるまでの時間差を考えれば、埋納年代はもう少し後でしょう。
つまり、この300年頃は北部九州に独自政権が存続し、大阪湾岸地域と奈良盆地は前代からの疎遠の状態が続いていたのではないでしょうか?
そうすると、大阪湾岸地域と奈良盆地地域が強く結びつく纏向遺跡時代はもっと後の時代なのではないでしょうか?
少なくとも、畿内説の年代観では、285年〜302年ごろの洛陽で多数存在していた位至三公鏡は、北部九州よりもむしろ奈良盆地でドシドシ出土するべき鏡種のハズですよね。
しかし、一例も出土しないのです。
案外、ホケノ山古墳の楽浪鏡も入手したのは310年代になってやっと入手できたのかもしれませんよ。 奈良盆地勢力が大阪湾岸勢力を屈服させたのがそのくらいの時期だったとか?
詳しい解説ありがとうございました。
画紋帯同向式神獣鏡のご見解理解できました。
生産から埋納までの時間差の見方に見解の差は生じそうですが、楽浪郡墓での埋葬実績から、算定されている時差は私も妥当に思いました。
ちなみに私が愛読する坂靖氏の「ヤマト王権の古代学」では、ホケノ山古墳から破片で出土した画紋帯求心式(同向式のこと?)神獣鏡は、魏の領域で3世紀前半代に生産されたとされていました。
①日田の豪族居館跡の年代について
坂氏によれば、大和での庄内式土器は河内より遅れており、河内で新しい形式が生まれても古いものが作り続けられていたらしいです。
ホケノ山でも庄内式と布留0式が出ているのがこの為と思われ、ホケノ山は箸墓と同時期の布留0式と判定されていました。
ヤマト以外での一般年式としては庄内式期が3世紀前半と。
先の久住氏の見解も庄内Ⅱ~Ⅲ式が220~240年とすることとも合致しています。
②唐古・鍵遺跡の交易
先の愛読書の受け売りですが、河内、摂津はもちろん、讃岐、吉備、播磨、近江、尾張、三河などとの交易は多く、一部北部九州もある、となっています。
③北部九州と近畿の繋がり
庄内式期に大阪湾岸のどこかから庄内甕を持った人たちが博多周辺に来て、在地の土で庄内甕を焼き始め、九州各地に流通させた形跡がありますし、弥生中期の大阪湾型銅戈は北部九州由来だったことも分かっているので、早くから繋がりはあったようです。
ただ、そういうことを簡単に近畿勢が北部九州を支配しに来たと解釈する方々もいるので、しっかり伝えていかなければと思います。
また近畿内で見ていくと、色んな物、鏡、鉄、甕などが大和へは遅れて入って行き、大和が後進地域だという印象があります。
④位至三公鏡について
このご示唆はとても貴重です。私もまさにこの年代のことを知りたいので、出土場所、時期を今後整理していきたいと思っています。
ありがとうございました。
配信を、ありがとうございます。
動画主さんは、先史、弥生時代の邪馬台国 研究家の、第一人者ですね。
邪馬台国研究の第一人者である貴兄の、考古学博士論文の発表を、待っています。
またまた、御冗談を!
私は旅行好きの古代史マニアです。
私は、福永晋三氏の邪馬台国(やまと国)筑豊、田川説に歴史の真実を感じています。古代史検索の旅シリーズに筑豊、田川説を取り上げて頂ければと思いコメント致します。納得できる古代史が見えて来るのではないかと思います。
福永晋三氏の動画はTH-camに沢山アップされていて、私もよく見ています。
機会あれば筑豊方面も訪れたいと思っています。
壹与姫阿弥子命とその夫の忍穂耳命を祀っている、香春神社もお薦めのスポットです。
そんな二柱 夫婦神の伝承も数多く私達の田川地域に残っています。英彦山も参考地です。
如何に 古代倭 邪馬台国の女王 壹与姫命の時代に 魏の帯方郡から、わざわざ、派遣された張政と共に 20年間、邪馬台国の国政を統制したかが、『 狗奴国私考 宮崎照雄 著 』をご参考になるだろうと思います。( 僭越ですが、この著書には、生憎、筑豊地域の邪馬台国の史実が、載っていません ) 女王として、即位した壹与姫命が、筑後の邪馬台国から、筑豊地域の田川へと 遷宮した事も、ご存知になるかと思います。
奈良県説は亡くなりましたね
日田近くには金鉱もあったわけだし重要拠点が隠されていたかもしれないし。
いずれにしても、九州は原生エリアが多すぎる。国有地も多いようだし。
もっともっと掘り返せば、国宝級の遺物が眠っているんでしょう。
だから、開発させない理由もあるのかもしれない。
地形図だけを見て、昔の川沿い流域、盆地、高台なんかを調査すると
証拠が出てくるんじゃないかと思ってます。
奈良なんか、吉野ヶ里とは比にならないくらい遺跡と住宅が隣接してる。
お宝の地九州。
九州には古代の謎がまだたくさん残っていそうですね。
それで開発許可に影響があるかどうか知りませんが。
高速道路建設などの大規模工事が、重要遺跡の発見に繋がるケースが多いようなので、今後に期待したいです。
古代の朝鮮と日本の航路を交易の面から考えてみました。交易とは双方が行き来して成り立つもので日本から朝鮮に渡る場合はどうなるかということも考えなければなりません。可能性の高いのはやはり呼子経由で島伝いに壱岐、対馬を経由する航路です。これが一番容易で海流も朝鮮半島に向かってるので渡り易いことになります。従って最も使われた航路であると考えられます。交易を行うには常に決まった場所に荷揚げを行う必要があり、その地理的条件から糸島近辺がやはり最も有力と思われます。縄文から弥生においては、怡土郡と志摩郡の間には海があり、唐津方面に向かって入口がある湾を形成していたようです。交易の港としては適した立地条件でありここに多くの人が住んでいたと想像できます。つまり、この地区には古代より多くの渡来人が住み着いていたと思われます。多くの楽浪土器など渡来系の遺物がこの地区だけ見つかるのはその理由からでしょう。しかし、現在は完全に陸続きとなってることからここの港は徐々に埋まって行く地形となってるので、その後交易の中心が博多湾に移って行くことになったのでしょう。私が疑問なのは、そこまでの船での交易の中心であった糸島付近が伊都国なら何故直接船で行かなかったということです。一旦唐津に立ち寄っても陸路で行く必要性はまったくないということです。何故なら糸島からの交易路はすべて船でなければおかしいということになります。
前半のお考えの部分は、私も全く同感です。
最後の疑問の部分について;
伊都国の、当時王が居た場所は三雲・井原遺跡の辺りと思われますので、上陸港が加布里あたりとすれば、上陸後、南寄りの東行することになります。
末盧国も伊都国、奴国と並んで王がいたレベルの国で、かつて独自に中国との交易ルートを持っていた国だったと思われますので、使節団も立ち寄ったのだろうと思います。
呼子辺りを中継するなら、王に挨拶して行け・・・とか。
難解な部分ですが、そんな風にでも解釈するしかないと思っています。
最近、邪馬壹国に興味をもって、このサイトに辿り着きました。
魏志倭人伝を忠実に読むと、出発点を博多湾あたりにして、
直線方式では投馬国は邪馬壹国の北にあるはず。
放射方式でも投馬国は20日、邪馬壹国は40日かかるので、
投馬国は邪馬台国より近くにあるはず。
位置関係がおかしいのではないですか。
コメントありがとうございます。
そういう読み方も出来ると思いますし、色んな読み方が出来る「水行二十日・・・」の記述なのではないでしょうか。
普通に解釈すれば奄美、沖縄方面へ行ってもおかしくないですし、南を東の間違いとすると大和へ行ってしまいます。そうすると、その辺りに邪馬台国はありません。
おかしな記述なのだと思います。
何か意図的なものを感じますが真相は分かりません。
NHKのクロ現で吉野ヶ里の石棺墓の線刻は当時の夏の星座を表してるという解説がありました。確かにそのような配置になってます。これから言えることは筑紫平野ではすでに稲作が盛んに行なわれていたということと、墓の主は天体の動きに精通した呪術師のような人物(墓の大きさから言って恐らく女性)であるということです。いつ種まきをし田植えを行なえば良いと指示できるのですから当然人々から敬われ、権力を持った高い身分の人物であったことは容易に想像できます。まさに卑弥呼ですね。石棺墓から副葬品が出ないことの方が考えられません。弥生末期に恐らく盗掘され泥で埋められたのでしょう。その上に日吉神社(出雲系山王神社)が建てられ祟り神として葬られた。ということでしょうか。
卑弥呼の最期の時の、時代の混乱を想像すると、すぐに墓を暴かれたとしても不思議はないですね。
本当は何か出てきて欲しかったですが(笑)。
吉野ヶ里の石棺墓の上蓋は太良岳から運ばれたとの発表がありました。これから吉野ヶ里は有明海一帯をすでに支配下に置いていた広範囲の国家となります。当然筑紫平野も支配下であったと考えられ、この一帯を統治する中心である可能性が高いと思われます。魏志倭人伝で末盧国まで来てる使者が吉野ヶ里のことを記述しないわけがありません。唐津から東南に5百里を陸路で行ける場所は吉野ヶ里しかありません。
ありがとうございます。
吉野ヶ里の終末期の有り様をもっと勉強したいと思っています。
理由は、筑紫の中では3世紀には福岡平野が、須玖岡本や比恵那珂あたりを中心に最も栄えていると思われるからです。
まだ未発掘エリアが残ってるのですべて終わるまで結論は待っときましょう。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡クラスの遺物が出ればこの論議も終わりですね。☺
ですね。了解しました。
エジプトのファラオの年代はミイラによって殆どの年代は(15代辺り)まで特定されています。
日本の初期の年代の空白期間がありますが、邪馬台国存在でこの歴史空白が埋まると良いですね。
日本の国家経営の始まりが大和であったことは間違いないと思いますが、その母体がどんな人達だったのか、そして前段の日本がどんなあり様だったのか、興味が尽きません(笑)。
素晴らしい考察、とても説得力が有ると思います。
ただ日田は魅力的な土地ではありますが、邪馬台国には馬が居なかった事を考えると、やや奥まり過ぎている様にも思われます。
邪馬台国=筑後平野を統治する為には、この時代、やはりもう少し中心部に居を構える必要が有ったのではないでしょうか?
私は全くの素人ですが。。。最近。。。
平原王墓遺跡背振り神社吉野ヶ里八女市付近が、ほぼ直線的に並ぶ事と邪馬台国の北に伊都国(背中合わせ?)と言う話が何となく気になっています。(これはどうでしょうか⁉︎)
ありがとうございます。
おっしゃるような配列・・と邪馬台国の関係性についてはよくわかりませんが、奥まった位置については以下のように考えています。
卑弥呼はそれまで争っていた王達に共立されて女王になっています。だから、擁護される存在でした。
武力を伴い実権を握っていたのは吉野ヶ里や平塚川添だったりしたかも知れません。
そういう意味では、日田は擁護しやすい守りやすい好都合な立地なのだろうと思っています。
確かにそう言う意味で、日田は魅力的な場所で選択の余地はありますが。。。
邪馬台国連合に於いても、卑弥呼様は飾り物ではなく、重要事項に関しては種々お伺いを立てるべき存在の様に記されていると思われます。
日田から久留米辺りまで約50km、そこから各部族拠点まで更に20km前後以上。 古代人が健脚であったとしても、何事かのお伺いを立てる使者が頻繁に往来するのに、生前の政の拠点としてはやや距離があり過ぎの様に思われまが、距離感覚の問題としてどうでしょう?
どうでしょうかね。
国事について占うような案件が毎日あるとも思えませんので、十分近いのではと思っています。
これが畿内だと、こうはいきませんね(笑)。
私は邪馬台国九州説です。
しかしながら、邪馬台国の場所や卑弥呼の古墳が特定できてないのが不思議です。
大和で特定できなければ、山田で探してみました。
朝倉の山田🆍が大きな古墳の中にあります。
南駐車場の近くにある長田大塚古墳は大きさ形も
魏志倭人伝と一致します。
古来、地元では卑弥呼の古墳と伝えられているとか。
重点場所として宮内庁に発掘調査を申請しましょう。
卑弥呼の墓はどこなんでしょうね?
山田=邪馬台、あるかも知れません。
長田大塚古墳は知りませんでしたが、いつ頃の古墳かもわかっていない? でしょうか。
日子(英彦)山の日巫女だと思っています。住んでた所は田川・行橋・宇佐あたり?水行・陸行の日数は移動距離を無視した方が良いと思います。饗応の毎日なので一日数㎞しか進めていないはずですから。
コメントありがとうございます。
「日の巫女」という解釈は以前からありますね。
大変興味深く拝見させていただきました。
邪馬台国に関してたくさんの人が持論を述べていますが、ほとんど人が『伊都国』の存在を軽視し過ぎてる気がします。
邪馬台国はどこだ?のみに集中するあまり伊都国と邪馬台国の関係を疎かにしてます。
政治的中枢は伊都国。宗教的中枢が邪馬台国。
女王国の中で特に重要な役割を担っていたのがこの二国ではなかったでしょうか?
この辺はⅡ-5で貴台も少し触れていらっしゃいましたが、この二国の密な連携は欠かせません。
ですので、この二国は比較的近距離に存在していたと考えられます。
北陸説など酷いもので、現糸島市に伊都国、北陸に邪馬台国があり、その間日本海岸沿い数百キロにわたり二十数国が連なって女王国が形成されていたというのです。
ここで忘れてはいけないのが、卑弥呼は秀吉のように全国統一をしていたわけではないということです。
女王国は日本列島のごく一部であって、敵対する勢力が存在していました。
魏志倭人伝には狗奴国の名前が出てきますが、狗奴国以外にも敵対勢力は存在していたハズです。
「あなたが敵対勢力の人だったらどうしますか?」って話です。
女王国がそんな間延びした形なら、途中の手薄なところを攻めて伊都国と邪馬台国を分断してしまえば女王国なんて簡単に崩壊させられます。
畿内説や四国説にも同様のことが言えます。
これって、邪馬台国を語る根本ではありませんか?
まず最初に伊都国と邪馬台国の距離をどう考えるのかをキチンと説明しない限り、それ以降の銅鏡だの土器だの景初三年だの桃の種だのいう話は聞く価値さえありません。
邪馬台国がいつ出来ていつ滅んだのか定かではありませんが、少なく見積もっても数十年存続していました。
女王国が間延びした形で形成されたなら数十年も存続出来たとは到底考えられません。
私は、對馬国一支国を除く女王国はコンパクトにまとまったそれほど広くはない範囲に存在していたと考えます。
伊都国と邪馬台国の間はルートが確立していて、伊都国の役人が頻繁に行き来していたのではないでしょうか?
陸行のみか陸行+水行かは分かりませんが、3日くらいでは到達できる距離です。(強い根拠ないです)
後の時代なら長距離移動は馬を使うのでしょうが、馬も牛もいなかったといいますから長くてもその道のり100km程度でしょう。
二国の間に位置する国に、休憩所や宿舎が設置されたイメージでしょうか。
ルートが確立していたと言っても当時のこと。歩きやすいようにならした程度だったでしょうから魏国の人からしたらとても道路と呼べるレベルじゃなかったかもしれません。
現在は跡形もなくなってるでしょうからその姿は永遠に分からないでしょう。
末盧国、吉野ヶ里を西端に、東は門司、南東は大分市、南は熊本県北部までを最大とした範囲内に女王国は形成されていたと考えます。
ただ、私はそこまで知識を持っておりませんのでピンポイントで邪馬台国はここだ!という結論は出せません。
それでも、畿内でも北陸でも四国でもないことは解ります。
日田という結論は、以上のような面でも条件を満たしているので十分ありうると思いました。長っ😅
いちいち御もっとも。賛同致します。
当時の姿を具体的に想像しようとされているお姿勢に共感を感じます。
そもそも魏志倭人伝の記述を読み解きたいと思うのは、邪馬台国の場所を知りたいことが目的ではありません。
当時の日本の国のあり様を知りたいのです。
その為には、邪馬台国の場所が大和や四国や、はたまた福井だったとする説がそのままでは困るのです。
その後の日本の姿に、邪馬台国がどこにあったかが大きく影響する為です。
古今東西、統治するということは、軍備を常駐するかすぐに駆け付けさせるかが無ければ成り立ちません。
おっしゃるような、3日/100km+α 位が、当時の馬も大型船も無い世の中の、現実的な統治範囲だろうと思います。
@@これはどうでしょう こんにちは☺
魏志倭人伝は謎だらけで如何様にも解釈が可能なため今日まで様々な説を唱える人が後を絶ちません。
私も素人なりに考えるのですが、どうしても解せない部分がいくつか残るのです。
貴台がご研究をされた中で、私が解せない部分をどのように解釈されたのか非常に気になります。
もちろん、真実は誰にも分からないことは重々承知しております。
お時間のある時で構いませんので、ぜひお考えをお聞かせいただけないでしょうか。
私の疑問は以下のことです。
『南至邪馬壹國・・・可七萬餘戸』
この七万余戸という数字はいったいどこから出てきたのか?
他国に関しても記述があります。
末廬国4000余戸
伊都国1000余戸
奴国2万余戸
不弥国1000余家(戸?)
投馬国5万戸余
戸とは家の数。世帯数と認識しますが、記述されたものだけでも合わせれば10万戸を軽く超えます。
魏の使節団は絶対自分たちで数えていません。
すると、倭国からの情報をそのまま使用したことになります。
そこが解せないです。
文字さえ持たない倭国人が数字という概念を持っていたとは思えないです。
あったとしてもせいぜい「1・2・3・4・5・たくさん・・・」レベルではなかったでしょうか?
とても万単位の数を数えられると思えませんし、そもそも戸籍もない時代に世帯数など数える必要すらありません。
ご存知とは思いますが、北陸説の人がこの不明瞭な数字を真に受けて人口を割り出し、必要な米の収穫量を確保出来る水田が作れる場所という観点で北陸説を主張しています。
米は天候によって毎年収穫量が違います。天災により水田が全滅なんてことになったら飢え死にしてしまいます。
そんな不安定な米飯を主食にしていたとは考えられないのでこのような考察は無意味です。
それだけでなく、他地方の主張者でもこの数字に疑問を持つ人がほとんどいないように思うのです。
なぜ疑問に思わないのか?
魏志倭人伝の信憑性にも繋がる話です。
もしこの数字がいい加減なものだったり、別の何かを表現しているものだったら邪馬台国論争が根底から覆りそうに思うのです🤔
確かに今までこの数字を疑ってはいましたが、どこから7万余戸が来たのか、考えたことはありませんでした。
確かに難しい問いです。
そこで改めて考えてみました。
仮に、魏からの使者が伊都国までしか来ていないとします。
そして使者は伊都国の東の外れの日向(ひむか)峠に連れて来られます。ここからは西に伊都国、東に奴国/福岡平野が一望できたハズです。ここで使者は、
伊都国1000余戸、奴国2万余戸のイメージを実感します。そして、伊都国の役人から説明されるのです。
「この南の山並みのずっと南に女王の都する邪馬台国がある。国の大きさは奴国の倍の倍より少し小さい位なり・・・と」
勿論邪馬台国の位置は国の大きさを盛る為に、ず~~と南にあると言いますが、実際には山を越えた筑紫平野なのです。
当時の伊都国の役人は、もちろん奴国にも筑紫平野・女王国連合国にも行ったことがあり、また山頂から両方を眺め比較したこともあったことでしょう。
その山頂は後に基肄城がつくられた基山(きざん)です。現基山(きやま)町にあります。
ここからの眺めはこのシリーズⅡの第1話で紹介しました。
福岡平野も筑紫平野も、大規模集落が点々とあった大きな平野ですが、山から眺めればそれぞれ一つの国に見え、2万戸、7万戸の規模ということが出来た。
そんな風に想像しました。
「これはどうでしょう、か?」(笑)
@@これはどうでしょう
なるほど💡確かに山の上からの視点はアリですね。というか、ズバリそれでしょう👌
実際現地に足を運んだ人でなければ意外と気付かないかもです。
魏国の人なら万単位の数を扱えるので合点がいきます。
それなら、私の考えはこうなります。
魏の使者(梯儁)は不弥国までは確実に行ってます。根拠は距離を里数で表現してるからです。
その先を陸行・水行で表現してるのは実際行っておらず聞いた話だからだと・・・
実は邪馬台国には行ってない可能性が高いと思います。
理由は、遠くて行くのが面倒だし疲れるからです😎
しかし、魏志倭人伝にはいかにも見てきた風な感じで書かれています。
これは使者(報告書を書いた人)が見た話ではなく、同行した調査団が見た話と考えます。
なので、水行二十日や水行十日・陸行一月は末廬国もしくは伊都国から五島灘を経由して有明海に入っていくルートで要した日数だったということになります。
ナント❗連続説ではなく放射説が正解でした👍
魏志倭人伝の話をTH-camやブログでする人は多いですが、魏の使節団がどれほどの規模だったか想像する人はほとんどいないです。
考えたって真実は判らない訳ですが、しかしそこはちゃんと考えなければいけない部分だと思います。
多くの下賜品を運ぶのですから、使者とその付き添い、舟の漕ぎ手だけではなく、多くの護衛兵も引き連れてきたハズです。
一番の目的は下賜品を渡すことで間違いないですが、それだけでなく倭国の調査も大きな目的です。
魏国は世界最先端の大国で、倭国は足元にも及ばない後進国。とはいえ知っておくことは必要です。
攻め入る時、大船団が上陸可能な場所とか地形とか、戸数を調べたのは人口から兵力がおおよそ割り出せるからでしょう。
使者の滞在中に別行動で大人数の調査団が各地散らばってあらゆる場所を調査していたと考えます。
だから、狗奴国の結構詳しい様子や侏儒国・裸国・黒歯国のようなどうでもよさそうに思える国の話まで出てきたのだと。。。
なぜ梯儁は不弥国までは行ったのか?
一番考えられるのが接待を受けるためです。
だいたい、こういうときの使者は態度が横柄と相場が決まっています。
邪馬台国、卑弥呼なんて当て字を使ってることからも分かるよう、思い切り見下してるわけです。
接待も自分から要求したことは容易く想像出来ます。
卑弥呼の方から伊都国に出向いたのではないでしょうか?
女王と言ったって魏国の人からすればたかが田舎の婆さんなわけです。
山奥まで何十キロも歩いて自分の方から会いに行くなんてことしません。
威厳を示すために、わざと女王を呼びつけ、跪かせて挨拶をさせるくらいのことは平気でやりますよ。
魏国と倭国。今さら必要?って気はしますが、やはり上下関係をハッキリさせるお約束の儀式は行なったと思われます。
それはまぁいいとして、邪馬台国が七万余戸というのはありえないのです。
動画内に「ネットワークをもつ環濠集落群」の話が出てきましたが、30国中の小規模国の集まりで、調査団がそれ全部を邪馬台国と勘違いしたと考えれば合点がいきます。
長くなりましたので詳細は割愛いたしますが、もし邪馬台国が女王国の中で一番大きい国だったら女王国という連合国家は誕生しなかったハズじゃないですか。
様々なご推察、お見事です。
私もここまでの想像力を持っていませんでした。勉強になります。
この内容の多くは賛同できるものですし、卑弥呼が伊都国に出向いた、というのもそうかも知れません。
ということは、邪馬台国への水行二十日や水行十日・陸行一月の内、水行は魏からの船団で西回り・有明海経由、陸行は伊都国で待っている使者に会いに卑弥呼がトボトボ、或いは輿にゆられて一月かけてやって来た、という推論も成り立つような気がします。
最後の、邪馬台国が大国ではなかったお考えは、私も同意見です。あくまでも卑弥呼は大国に共立された女王です。
死後はまた戦乱になる訳です。
・・・・
楽しいご意見、ありがとうございました。
最近ネットで、見つけたのですが御存知かも知れませんが、私は、一読してとても理に適った説であると思いましたので、これはどうでしょう様にもお薦め致したくコメント欄に記載させて頂きます。
一部抜粋 「難升米は自らを大夫と名乗っていた。大夫は周の時代の官位である。そこで当時の倭人は距離
を表すとき、周の時代の短里を用いていたのではないかと推察したのがこの短里説である。
周の時代の一里は諸説あり、短里を約 67.5m、72.5mとする説などがある。だが、どの短里説にも共通していることは、陳寿の編纂した『三国志』の中で、倭人伝以外でこの短里が使用されている例がひとつも示されていないことである。つまり、短里説を実証するものが皆無なのだ。
これでは部分最適でしかない。邪馬台国畿内説を唱える研究者が南を東に読み替えることと何
ら変わらないのである。の道程・里程記事で最初に悩まされる
部分は、不弥国から邪馬台国に至るまでの、不弥国から投馬(殺馬)国までは南に水行 20 日、邪馬台国までは投馬(殺馬)国から南に水行 10 日、陸行一月(30 日)と読み取れる部分だ。道程記事を読みながら里数を足して行くと幾つかの矛盾点にぶつかる。邪馬台国までの距離が帯方郡から約 5,200 ㎞(1 里=434m)というとんでもない遠距離になってしまうのである。これが邪馬台国の比定地論争を生む最大要因になっているのだが、問題は南に水行 20 日で投馬国、南に水行 10 日、陸行一月(30 日)で邪馬台国に「至る」の起点をどこにするかなのである。畿内説はこの問題には触れず、道程記事の中の不弥国から「南」を「東」の間違いだと決めつけ、邪馬台国を近畿地方だと主張したのである。だが、この手法は明らかに禁じ手である。この手法を用いることを認めたなら、方位に限らず、里数や国の名称も間違いだとすることができるため、邪馬台国は何処にでも存在させることができてしまうのである。これは現代の学問では限られた条件下でしか成立しない「部分最適」とされ、真実の証明には至っていないと判断される。これに対し「全体最適」はあらゆる角度で検討した結果、整合性が得られることを意味し、真実の証明が成されたと判断する。つまり畿内説は限られた条件下で得られた結論でしかないことになる。」
「魏志倭人伝で陳寿が用いた「春秋の筆法」を解読して得られた 8 つの解
その 1 「陳寿は里数表記を 10 倍にしていた」
細川 圭弘 で検索してみてください。
ご教示ありがとうございます。
十分な時間がとれず、細川氏の論文をしっかり読むことが出来ていませんが、その1、その2含めて興味深い内容であることは、良くわかりました。
ペンちゃんさんに抜粋を頂きましたので概要を知ることは出来ましたが、他の7項目も含めて、陳寿が10倍していたとする説もまた、短里説同様、推論なのだろうとは思いました。
私も結果的には短里説ですが、何故そうなったかは置いといて、帯方郡~狗邪韓国~対馬国~壱岐国~末盧国までの実距離に照らせば、70m/一里と換算するしかない、と思いました。
後日、論文を熟読したいと思います。
ありがとうございました。
@@これはどうでしょう その2の邪馬台国は 20 数カ国の連合国家の総称 から30 度の方位のずれまでは、思慮中です。ご返信ありがとうございました。当時の里程・旅程を考えると現在の実際の距離を当てはめるのには、少し無理が有り、矛盾が生じるように思われます。今後ともよろしくお願いいたします。
色々悩ましい魏志倭人伝ですね。
今後ともよろしくお願いします(笑)。
@@これはどうでしょう ご返信ありがとうございます。今わたしは、卑弥呼の出自卑弥呼は、何処から来たか?!の根拠と、通説・定説の一支国(一大国)から末蘆国について、方角なし、1000里の末蘆国の比定地の裏付けを思考中です。また、1..通説の末蘆国伊都国糸島市平原遺跡と奴国玖須岡本遺跡は、漢鏡等1-7期の遺跡からも、自論女王国の敵国狗奴国の領地影響範囲に入る国々であることから、女王国の比定地を検討しています。豊前国の壹与の漢鏡失われたピースは、卑弥呼も入りそうで、240年代から266年代あたりですから、とても興味深いですね!
2. ザックリと甕棺地域
3. 鉄鏃地域
4. 銅鏡等出土地卑弥呼の伯船鏡の出土
5. 漢鏡(前漢鏡・後漢鏡1期から7期の分類による地域)
6. 鉄剣の出土
7. 銅矛の年代別地域
8. 銅剣の年代別地域
9. 絹の発掘
10.朱丹の産地発掘漢の朱
これはどうでしょうさんの資料を基に、推論が固まりましたら、送信致しますのでよろしくお願いいたします。
ご苦労様です。
健闘をお祈りしています。
うーむ、どうもしっくり来ません(笑)
①卑弥呼の所在地を基本的に魏志倭人伝の記述の通りだとすると、対馬壱岐間の距離からの類推で1里80mとして奴国-不弥国間はせいぜい8km程度。博多から直方では遠すぎます。
②不弥国=直方では、南へ水行20里で投馬国へ至る行程が不明です。
③甕棺墓の勢力圏はせいぜい奴国までで、宗像以東からの出土はありません。宗像以西と以東を同一勢力とするのは困難ではないでしょうか。
④同様に 5:05 広形銅矛と甕棺Ⅳ期は筑紫平野以外では交差していないように見えますがいかがでしょうか。
⑤魏志倭人伝の記述の通りだとすると、邪馬台国は投馬国の南なのでは?
こんなところでしょうか。
そうですか、しっくりいきませんか?
残念(笑)。
①伊都国~奴国も百里なので、奴国から東へ百里で、飯塚市に設定しました。嘉麻郡のつもりなので、実際は嘉麻市あたりかもしれません。立岩遺跡が過去にあった地域ですが、便が悪いので郡使は行っていないかも知れません。
②そういうことですので、出発点は不弥国ではないかも、と思っています。
起点は多くの方が言われるように伊都国かも知れないと思っているのですが、この水行、陸行の議論にしてしまうと、解が無くなるかも知れません。
③はどの時代へのご指摘でしょうか?
④甕棺Ⅳ期では、広形銅矛の主生産地の奴国では甕棺は終わっていますので、おっしゃる通りです。
⑤倭人伝は投馬国と邪馬台国については几帳面に位置をしるそうとしていません。ともに南にある、という理解です。
女王国を順番の最後に記述したかった、という事情かもしれません。
①②⑤ですが、御説【古代史探索の旅Ⅱ】第4話 邪馬台国の所在地を最も正しい(と思う)方法で推定しました
th-cam.com/video/CG-mNL-6d8g/w-d-xo.html
で表された経路が個人的には正しいと考えます。
この時点では、投馬国から南へ水行10日陸行1月で邪馬台国という認識だったと思うのですが、こちらの御説は放棄されてしまったのでしょうか。
③甕棺墓は全期を通じ、宗像以東の北九州沿岸からは出てきておりません。
④興味深いのは 3:21 の図で、これは畿内勢力ともつながりを持つ広形銅矛文化国(物部系)が甕棺墓文化国の奴国(おそらく安曇系)を滅ぼしたことを物語っているのではないかと考えます。奴国王が再起を図って志賀島に金印を隠したのもおそらくこの時期なのでしょう。だれが奴国を滅ぼしたのか謎でしたが合点がいきました。
その後、和解があり(天照と素戔嗚の誓?)、卑弥呼の時代には奴国は伊都国側に(なぜか)復したのだと思います。
①②⑤
ご指摘のように、Ⅱー第4話では、旧山門郡のみやま市に卑弥呼がいたのではないかと推定しました。
メインの根拠は長浜氏にならって、不弥国の南側の既候補地の中から、(その時点でもっとも正しいと思った)候補地を推定したわけです。
その後、私なりに邪馬台国探しは続けていたので、特に今回は考古学資料を中心に推定し直しました。
どちらも断定ではないので、放棄してる訳でもないです。
そんな感じでお付き合い下さい(笑)。
③
それはそうなのですが、相乱していた国々が卑弥呼のもとに女王国連合になった訳ですので、有りうると思いました。
そして、卑弥呼が遣使した弥生時代のこの頃になると、九州内の甕棺墓分布は、筑後地区のほんの一部と糸島地区の一部になっていて、ほぼ消滅しています。
邪馬台国範囲を甕棺墓分布域に限定して設定することは無理かと思います。
④弥生時代後期(甕棺Ⅳ期)になると奴国(須玖岡本等)では甕棺は廃れますが、逆に須玖岡本周辺は広形銅矛の主生産地です。古墳時代初頭まで続きますし、比恵那珂は都市として発展の一途です。
滅びてなどいませんよ。
他の方のコメントでも同様に「滅びた・・・」という意見がありました。何かそんな通説があるのでしょうか?
参考に教えて頂ければ有難いです。
考古学的資料だけに頼ると、不思議と桃の種まで邪馬台国に見えてきてしまうという謎の奇病におかされますので注意が必要です。
奴国の滅亡についてですが、例えばある日を境にニューヨーク市のキリスト教徒の墓が十字架ではなく、卒塔婆が立つようになったことを想定した場合、自然とはそういう風にはならないと思います。ある日突然宗教改革が起こったのでなければ、侵略を受けて十字架の物流が途絶えたか、侵略者によって文化に変えられてしまったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
いままで地続きだった奴国が甕棺Ⅳ期で甕棺(ex.十字架)が廃れ、広形銅矛(ex.卒塔婆)を祀るようになるのは後者だと思います。また、熊本県白川以北で甕棺墓が途絶えたのは前者だと思います。
その後奴国が繁栄したとのことですが、大日本帝国も敗戦後に日本国として経済発展を遂げました。そこに住む国民も変わらないとしても、旧体制の崩壊という意味で「滅亡」としています。
東の庄内式土器まで流れ込んでいるのであれば、どの勢力によって滅ぼされ、繁栄させられたかも推測できそうです。
他に奴国の滅亡の証を挙げるとすれば、西暦57年に光武帝によって与えられた「漢委奴國王」の金印を志賀島に埋めていたことでも表れていると思います。
旧奴国の王族は逃亡の果てに帰還かなわず滅亡してしまったのでしょう。これは、後の安曇磯良が奴国王の末裔なのかもしれないと考えています。
私も甕棺墓分布域が女王国の勢力圏と合致しないかと考えていましたが、かつてのローマ帝国のように大きな版図だったものが、卑弥呼の時代には外部勢力によってだいぶ浸食されていることが、今回お示しいただいた甕棺墓のシリーズでよくわかりました。
魏志倭人伝は南を東と言ったりせず、「そのまま読む」のが正解だと思います。
卑弥呼の時代、奴国の王権は須玖岡本の王(D地点甕棺墓)の時代と較べて落ちているのだろうとは思いますが、滅びてはいないと思います。
それは考古学資料から、
①広形銅矛の生産が継続していること。
②比恵那珂に運河や1.5km以上の道路の建設が継続していること
③近畿系土器が緩やかに流入していて、王への祭祀土器もまた同様であり、王の系統は継続していると思われること。
④近畿系の庄内甕の前には吉備甕が入って来ていること。
⑤甕棺墓が途絶えても旧甕棺墓が壊されずにそのまま残っていること。
などから言えることです。
桃の種の例えは、結論有りきの論拠に無理やりくっ付けているだけで、考古学資料を参考にしている例にはほど遠いです。
漢鏡、甕棺墓、銅矛、環濠集落の分布などのデータや倭人伝の記述から、筑紫平野を邪馬台国の比定地に持ってきたのは大賛成です。ただちょっと腑に落ちないのが安本美典さんが説く甘木朝倉の環濠集落である平塚川添遺跡について全く触れていないのが不自然に感じました。吉野ヶ里よりも大きいと言われる先生方もいて、九州説に立たれるのならぜひそのあたりの分析も今後お願いしたいと思っております。日田の遺跡については初めて知りました。ご夫婦二人でこういう活動をされているのを微笑ましく見ております。。。(笑)
ご指摘ありがとうございます。
平塚川添遺跡については、邪馬台国候補地として、3年前の動画;
シリーズⅡの第3話で、
福田台地の遺跡群を含めると吉野ヶ里より大きいかも知れないと言われていることを紹介しました。
その後の学習で、筑紫平野全体が邪馬台国連合だという学説を支持するようになりました。
現在、平原1号墳の再調査を求める声が専門家から上がっているようです。この墓は伊都国歴博の2階に再現してありますが、残存物の配置など、どうも変なのです。何より、土壙の底の土を分析すれば、遺体と木棺が本当に腐りはてたのかが分かるはずです。私は、これは卑弥呼の墓で、3世紀末に掘り起こされ、近畿へ移動されたのではないかという疑いを持っています。
骨をも溶けるほどに遺体や木棺が腐敗していたとき、土壌に何か残るのですか?
魏志倭人伝の水行10日、陸行1月は帯方郡から邪馬台国までという説もあるらしいですね。
その説は聞いたことがあります。
黒岩重吾著 古代浪漫紀行に詳しく書かれています。
この解釈が自分には一番しっくりきました。
ありがとうございます。
いつか拝読したいと思います。
ご返事ありがとうございます。
いつも興味深く視聴させていただいております。
黒岩重吾氏は作家ですが、森浩一氏と親交があり、いわゆる『邪馬台国東遷』論者です。
『古代浪漫紀行』は今から30年位前に書かれた本ですが、僕にとってのバイブルとなっております。
魏の239年(景初3年)卑弥呼が鏡を下賜されたとされます。ところが1年早い呉の238年(赤烏元年)の紀年銘を持つ銅鏡が山梨市川三郷町鳥居原狐塚古墳から出土しています。もうひとつ先最近の関心はこれです。「244年(赤烏7年)の銅鏡が兵庫から出土しています。卑弥呼がクローズアップされますが(もちろん興味深いですが)当時の列島の情勢を垣間見せてくれます。戦乱に明け暮れた三国志の時代、孫権の元に列島から使いを出し鏡を下賜されていたことが想像されます。
コメントありがとうございます。
そして新情報もありがとうございます。
呉時代の鏡についてはまだよく分からないでいます。
前回コメント頂いてた動画のように、私も当時の銅鏡について勉強をしていますが、まだまだ奥は深く一向に成果に結び付きません。
研究者の方々のこれまでの努力で、鏡についても、
・いつどこで作られたか
・いつどこの墓に副葬されたか
がある程度分かってきているのですが、知りたいのはその途中の経過なんですね。
おっしゃるような、
「孫権の元に列島から使いを出し鏡を下賜された」
のは誰なのか。
そこを想像しながら色々考えるのが楽しいですね(笑)。
南中点の棒の長さでの測量は、非常に興味があります。引き続き調べたいと思います。さてこの論議の中でわかったことがあります。まず魏志倭人伝に記載された郡は平城付近であること(帯方郡か楽浪郡かはわかりませんが)。狗邪韓国(釜山近郊)=倭国の北岸=水行20日の投馬国の北岸の可能性が高いこと。卑弥呼の居する邪馬台国は緯度からみて南九州の可能性が高いこと(投馬国から川を上って10日、そこから測量しながら山越えして1月です。)周旋5000里は奴国を中心とした円をイメージしてるのではないかということ(末盧国から奴国は方位が同じなので距離600里で直径に3.14掛けると3768里、奴国を出発点とし奴国に戻るとすれば600里+3768里+600里=4968里(約5000里)です。従って、周辺の国々は奴国(恐らく高良山麓)を中心に配置されていると思います。。
当時、卑弥呼の居する邪馬台国の緯度が分かっていたのでしょうか?
周算何とかで測定された棒の長さ(緯度)が驚くほど正確に平城と釜山の位置関係(方位と距離)を表しているのに驚きました。500kmもの方位はどうやってわかったのかわかりませんが、何等かの方法で経度まで測れたのではと思ってしまいます。いずれにしても当時の中国人が遠方の緯度と方位を正確に測定できたことは疑いないことと思います。そしてこの緯度の差を測る方法は地軸の傾きに影響されないので現在との誤差を考える必要がありません。検証するに好都合です。
何故、観測日が夏至でなくてはならなかったのか。これは冬至は影がぼやけて正確に測れないからです。夏至に渡らなければならなかった理由まで判明しました。しかしながら、当時の中国人が角度(ラジアン)の概念は持ってなく(ずっと後の西洋で考えられた)、三角関数など知る由もなくもっぱらピタゴラスの定理で計算してたと思われます。本題に戻りますが、平城から釜山を結んだ直線をグーグルマップで見るとわかりますが対馬と壱岐を結んだ直線と平行となります。そして魏志倭人伝では真南が測定できるにも拘わらずこの方位を敢えて南としているのです。またこの方位は夏至の太陽の昇る方向からの南です。真南をいちいち測るより便利ですよね。以上のことから平城~釜山の距離7000里は3:4:5の三角形から計算された数字ということがほぼ間違いないと思います。さらに魏志倭人伝の邪馬台国の方向は南と明確に書いてあります。これは韓半島からの方位であることも間違いなく、平城~釜山の直線を延長した方位にあるということです。そのことから導ける邪馬台国の緯度は32.4°となります。
お疲れのこととお察しします(笑)。
さて、緯度については夏至の日の棒の長さを大陸内で校正しておけば、遠隔地においてもある程度測定できると思います。
また方位については見える範囲であれば南中の方角は分かるので、ある程度の計測も可能でしょう。
但し、遠隔地の経度を測るには、大掛かりな渾天儀なる計測器と正確に時を計れる時計が必要になります。
それらのことを遠い邪馬台国で実行することは不可能だと思います。何故なら、そんな最高の国家機密の機材を持ち出す意味がないからです。
実際、3世紀にそんなことをやって周辺国の測量をやっていたら、とっくに東アジアの地図が出来ているハズですが、そうはなっていません。
また、見えるハズの対馬と壱岐の間の方位、距離もアバウトです。
お疲れ様です。(笑)論文書いてる気分です。実はおっしゃる通り渾天儀を使って経度まで測れたとは思っていないのです。別の方法を考えていました。それは狼煙を使う方法です。これは人海戦術となるので大変なのですが中国人いっぱいいるのでできたかもしれないと思います(笑)。緯度は正確に測れるのですから狼煙で見える方位を探り図面に起こして繋ぎ合わせるという方法です。1区間40~50kmくらいが限度で10箇所以上となります。やりたくありませんができないことはありません。恐らく誤差はでるでしょう。実際にやったことはありませんのでどのくらいの精度かはわかりません。原始的な方法ですがそんなに狂うことはないと思います。壱岐と対馬の件は、参考に言えば浅茅湾出口と壱岐北端の方位がその角度30°にあたり距離56.8km緯度差0.6寸で1000里とすれば56.8/5*4/0.6=75.7m/寸となります。この場所で魏志が測ったと思うかどうかはご判断にお任せします。
魏が倭国・九州だけそれだけの測量をする意図が分かりません。
卑弥呼がそれを許す道理も分かりません。
可能性を追求されるのは素晴らしいことだと思いますが、定説を覆すだけの論拠には至っていないと私は思います。
「その角度30°にあたり距離56.8km緯度差0.6寸で1000里とすれば56.8/5*4/0.6=75.7m/寸」
も意味がわかりかねます。
いつも包括的で論理的な手法で、分かりやすく古代を説かれていて感服しています。謙虚に自ら素人と言いながら、全体を見ながら一つ一つシンプルに解いていくので、拝見していても臨場感あります。専門の学者さんたちは、こうした全体的な視野で発信してほしいと思います。
なお、他の方も指摘していましたが、遠賀川流域と古代の関係も、解き明かしていただきたいです。それからこのシリーズを作成されているナレーターの方のお名前がなかなか分かりません。メルアド等ありますか?
じっくりご視聴頂き嬉しいです。
そしてお誉めのお言葉、ちょっと恐縮です(笑)。
リクエストの遠賀川流域はあと廻しにして来ましたが、今勉強中です。
物部の故地という観点もあり、あれから先の時代は魏志倭人伝から離れていくこともあり、考えがなかなかまとまりません。しばしお待ちください。
あと、このシリーズを作成しているのは私、
「これはどうでしょう」の「かず」です。
このシリーズの第3話等にも出演?しております。
メルアドは公開しておりませんので、ご連絡あればこのコメント欄にお願いします。
@@これはどうでしょう
至と到の違いから考えてみます。至と到は現在では同じですが魏志倭人伝では使い分けられてます。古代中国語では少し違ってます。至の成り立ちは矢が地面に突き刺さったの意味から一つのことから別のことに到達する程度と範囲ということで歩いて行ってたらその場所に着いたとなります。一方到は至の右に刀が付いているのでその場所に困難を乗り越えて人が立ったとなります。そのことから伊都国に到着したのはやっとの思いで着いたと読めます。陸路は高い草木を掻き分け方向を見失いそうになったり沼地を進んだり断崖絶壁を通ったりしたのでしょう。普通その当時に最も栄えた国に行くのですから道が整備されてたはずです。何故そのような道を選んだのか、それは選ばらざる負えなかったからと思います。つまり想定外の場所に船が着いたのです。末盧国は色々な検証からほぼ唐津付近で間違いないと思われますので末盧国の中心ではない場所に座礁し船を乗り捨てたかのかもしれません。だから末盧国の官にも会えなかったのではないでしょうか。想定できる場所は呼子付近です。それなら糸島に伊都国があったともしても方位は合ってます。
いつもコメントありがとうございます。
魏志倭人伝の中の、至と到の使い分けの仕方は、今一理解できていないのですが、草木茂盛行不見前人は、末盧国についての説明ではないかと思っています。
返信ありがとうございます。伊都国が三雲あたりなら奴国の中心は早良平野で不彌国は那珂遺跡群あたりと想定できます。2万戸の奴国は福岡平野一帯を示すことになります。ここから問題となる投馬国と邪馬台国となりますが、間違いないのは方位だけです。何故なら方位を否定すると絶対に目的地には到達できないからです。そこを間違う報告書はあり得ないと思います。書き間違いすら起こる確率は皆無です。さらに次のキーワードとなる水行、陸行なのですが古代中国語では海を船で渡った場合には決して使われない言葉なのです。なので九州島から出ることは決してないということです。投馬国は官や副官まで記載されており使節が実際立ち寄った可能性が高く伊都国から離れた場所にあるとは考えずらく、福岡平野から川沿いに南に行った場所、つまり5万戸の投馬国の場所は吉野ヶ里を中心とした筑紫平野一帯となります。方位は合ってます。では邪馬台国はどこかといえば福岡平野から一旦川沿いを南に下り内陸部を歩くと1万2千里となる地点。恐らく大分あたりではないでしょうか。日数標記に変わってる理由は不明ですが、日数と距離は単純換算不能なのでこのことでどのくらいの距離になるなどと論ずること自体が意味がないことであると認識すべきと思います。女王国の範囲はほぼ奴国(2万)と投馬国(5万)を足した人口になり奴国+投馬国=邪馬台国=女王国となります。これが通説が正しいとした場合の推論となります。さらに重要なことは使節団は数回にわたり派遣されてることそしてその間に女王の居する場所が移動してる可能性が高いこと、がより難解となってる理由と思われます。
私は、吉野ヶ里や現朝倉市を含む筑紫平野全体が邪馬台国連合(7万戸)の実体だと考えています。
そして奴国(か不彌国)から南への水行、陸行の記述は、九州島内陸部への道程の説明と思いますが、そう簡単に倭国中心部への道を開示しなかったのだろうと考えています。
卑弥呼の時代にも規模は小さいながらも大野城市の水城土塁が築かれていたハズですから、遠い山の向こうを指し示し説明したのだろうと。
最終的に卑弥呼に使者を合わせた時、宇佐までの水行、宇佐から日田までの陸行の日数が記述されたとも考えています。
"使節団は数回にわたり派遣されてること"の意味することは方位が間違ってればその間訂正されてなければならないし、正しい方位なので何度も同じ場所に行けたということになります。この時点で近畿ではありません。間違いなく投馬国と邪馬台国は奴国の南にあります。魏志倭人伝は数回の使節団の調査を纏めたものであり1回の調査結果ではないということです。水行の行は本来人の力が関わる意味なので船に乗って旅したとは解釈できません。つまり水際を時には歩き、時には小舟などで渡った旅程を示します。ですので川を大型船では行けないという反論は成り立ちません。大型船を使ったとはどこにも書いてないのですから。むしろ内陸部へは小舟を使ったのでしょう。1回目は不彌国まで測量され里数まで調査されてますが、2回目以降は主に風土の調査にあてられたので日数標記に変わったのではないでしょうか。おっしゃられる説に沿ったとしても筑紫平野は女王国の一部となることは同じです。そして筑紫平野の代表的遺跡である吉野ヶ里と平塚川添を延長した線上に英彦山があるので日田は重要な場所であることは間違いないと思ってます。邪馬台国は陸行で筑紫平野から山越えした場所ではないでしょうか。
陳寿の文章は合理的かつ簡潔で一切無駄なことは書かれてないことで評価されてます。ややもすれば教養の無い人達に理解されなくとも構わないくらいにも感じるくらいです。対馬は朝鮮から見えるので方位は示されてませんが対馬から壱岐は南と方位が示されてます。壱岐から末盧国も方位が示されてませんが、それは同じ方位の南だからと考えられます。同じだから省略してるのです。陳寿は別の方位なら書くと思います。投馬国と邪馬台国は同じ方位の南と書かれてます。連続説なら同一方位は同様に省略するはずです。でも敢えて両方とも南と書いてるのでおそらく両国の方位の起点が奴国である可能性が高いと思ってます。
ヤマトの語源について考えてみます。一般的には奈良盆地から大阪側を見ると連綿と続く笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、自分たちの土地を「山の門」と言いあらわした。と言われてますが果たしてそうでしょうか。明らかにヤマトはそんな小さな意味ではなく日本全体を表した呼び名です。弥生終末期から古墳時代にかけて多くの渡来人が日本に渡ってきており、大和朝廷も彼らが中心となって建国した可能性が高いと思います。ならば彼らがそう呼んだのではないでしょうか。古代ヘブライ語と日本語には多くの共通した言葉があり、その中でヘブライ語の"ya"の発音は"yu"-->"u"へ変化した同じ意味の日本語が多くあるようです。例えば、古代ヘブライ語でyadは、「手」を意味します。そこからya-->yu-->uに変えると”ude”つまり日本語の腕です。海は"yam" 同様に"yum"-->"Umi" です。古代ヘブライ語で”yam”は”海”、"i”は”島”です。これは魏志倭人伝の”邪馬壹”の発音とまったく同じです。つまりヘブライ語のyam-i"は海の島を意味し、これがヤマトの語源ではないでしょうか。もともと九州に上陸した渡来人がそう呼んでいたが、奈良盆地にその呼び方が引き継がれた。ではないでしょうか。
さらに旧約聖書に登場する預言者のひとりイザヤ。彼自身の手による「イザヤ書」は、約束の地をイザヤと共に聖櫃がイスラエルを去り、その一行が新天地となる「東の海の島々」を目指したとなってます。”邪馬壹”=古代ヘブライ語で”yam”は”海”、"i”は
”島”ならば、この内容と奇妙に一致します。因みに伊弉諾はイザヤからきてるという説もあります。ここまで一致すれば古代イスラエルとの関係を疑わざる得ません。
魏志倭人伝の倭国が九州を示していたこと。魏志倭人伝の内容が当時の倭国の状況を示すにかなり信憑性が高いこと。卑弥呼が元は筑紫平野付近に居たであろうことなど検証すればするほどこの動画の内容と近いように思えます。そしてその後の記紀に残る九州からの東征の事実もほぼ繋がってくるように思えます。また日田や宇佐はやはり重要な場所ですね。
再評価頂きありがとうございます。(笑)。
宇佐から日田へ抜ける途中に耶馬渓があるのも意味深です。
耶馬渓、山国川、ヤマが付いてる地名です。しかし日田から中津に抜ける道はかなり厳しい山道で1か月くらいはかかったかもしれませんね(笑)。また大宰府から朝倉を通って日田へは陸路となります。日田から遠賀川にも降りられるし、大分にもみやこ郡にも行けます。まさに要所の地です。
日田の地勢は特別な気がします。
筑後川の上流でかつ、川が集中する盆地ですから、過去には大水害でいろんな物が流されてしまったのかも知れません。
卑弥呼の女王国は南の狗奴国と戦争状態であったわけですから最高権威の卑弥呼はより安全な場所に逃避したと考えるのが普通です。それにシャーマンの最高権威しかどう見ても所持できない魏の時代の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が日田から見つかってるのですから当然日田に居たことになります。それ以外に敢えて日田に持ち込む理由もありません。このことに異論を挟む余地は無いと思います。我田引水の人達はそうは考えないようですが。…
女王卑弥呼が倭国を統率していたという観点から考えてみると離れた国々に卑弥呼のお告げを伝えなければならないのである程度の組織があったと思われます。つまり各国々に巫女が配置されてたと考えられます。そしてその巫女集団を束ねてたのが最高権威の卑弥呼であったのでは、後継者はどのように選ばれたのかはわかりませんが霊力の最も高い巫女が選ばれたのかもしれません。そう考えるとその時の最高権威の地位に就いた巫女の居する場所が魏志倭人伝のいうところの邪馬台国となります。宇佐神宮に祭ってある比売大神とは代々の最高権威の巫女達のことではないでしょうか。それならば当時の最高権威の一人であった壹與の墓なのかもしれません。各国々に巫女が配置されてたことは景行天皇の土蜘蛛征伐時に多くの女首長がいたことからも言えるのではと思います。
素晴らしい卓見です。ここまで解明できたことに喝采を送りたい。すこし私の知識を書きます。完璧になるはずです。実は吉野ヶ里遺跡近隣に三津という地名がありましてここで魏志倭人伝に2口下賜された「5尺の剣」一振りが発見されていました。残念ながらすでに人の手に売買されてしまっていますが、素鐶の剣で片刃直刀5尺(120cm当時の尺貫法による)ということだそうです。下賜されたのは卑弥呼です。吉野ヶ里国は卑弥呼の出身地かも知れません。
ちょっと触れられていた「女王国の東、海を渡るに千余里に黒歯国・侏儒国あり」と記されていますが、黒歯国とは「お歯黒の国」侏儒国は蛙を煮て食べる土蜘蛛と記されている国と考えれば奈良・紀ノ川上流とおよそ理解できます。つまり邪馬台国は近畿ではない。物部氏は八女・瀬高の豪族で筑後川(千歳川)左岸を遡って瀬戸内海に出て近畿に入ったらしい形跡があります。(太田亮著「姓氏家系大辞典」初版)ニギハヤヒ、長髄彦ですね。
周知のように伊弉諾尊が黄泉の国から帰ってきて汚い物を見たので禊ぎをするという土地ところが書いてあります。「急流でもなく淀みでもない」川があり、「筑紫の日向の小戸の橘のあはきの原」です。これは土地の特定が出来ます。日向は接尾語の「し」が付いて「ひむかし→東、小戸は川の谷から平野に落ちるところ、橘は地名、あはきの原は地名」国土地理院web地図で日田の西から高山の南まで出して見てください。橘田という地名と杷木町の地名がたくさん書いてあります。筑紫国の東の国境、川が平野に流れ落ちてきて、急流が中流になるところ、ここは斉明天皇の陵のあるところですね。天照大御神が活躍したのはその近辺に違いないのです。
投馬国がどこかというのは漠としていますが、筑紫国の中にあると思います。5万戸を収容できるのは遠賀川流域と思うのです。この流域には中間市という地名、近間という名字があります。遠賀は「遠馬の川」という意味ならピンときます。すると筑紫国に全てはまり、豊前・豊後はトヨの国、肥前・肥後はヒミコの国と合点することが出来ます。ニギハヤヒが東行したについては狗奴国が逃げ出して東行きしたと考えることも出来ますね。ただ狗奴国を比定するのは私には不能です。肥後なら「たまキナのむら」が玉名になっていますので音は似ています。いろいろです。しかし戦争に負けて近畿に討ち入ったと仮定するのはちょっと違うかなと思うのです。ニギハヤヒを追って東遷したというのなら理屈に合います。でも敵対していて素戔嗚尊が活躍したところは出雲なんですよね。ここは不明です。mond
おもしろいお見立てありがとうございます。
参考になります。
一点質問させて下さい。
「斉明天皇の陵」は奈良盆地南部にあると思っていたのですが、筑紫にもあるのでしょうか?
よくよく考えたら西九州じゃ、水行南へ20日、水行南へ10日陸行一月はオカシイですよね。
熊本県沖をその日数水行したら沖縄まで行っちゃいます。
川沿いも南へそんな長い距離を行ける川はありません。
なので
末羅国=松浦
伊都国=糸島
奴国=博多
不弥国=宇美町
は違うと思います。
末羅国は具体的に何処か比定地が分からないのですが、宗像神湊か遠賀川の東側(芦屋町辺り)だと考えました。
伊都国は小倉北区到津ですね。
ここは神功皇后が三韓討伐を終えて最後に自分の船団を預けた軍港です。
近くの城野遺跡が最近調査されて、九州最大の方墳でふたつの幼児の石棺から大量の辰砂が出土しました。
さらに玉と管玉の工房(九州で2つ目)
周辺の黒住遺跡群と重留遺跡群と合わせたら相当大規模な集落があった事が判明しています。
水軍を指揮できる強大な王がここに居たのです。
ここに水軍を置いたのは関門海峡の支配と長門、筑前の監視の為です。
その水軍の力で周辺の国々は伊都国を畏怖していたのです。
近畿から大陸の物がほとんど出ないのはそのためです。
伊都国から東南100里で奴国です。
奴国は中津市と宇佐市ですね。
「魏志倭人伝の奴国」と「金印の奴国」は別の国です。
魏の使者が当て字を使ったので混同されていますね。
何故なら魏志倭人伝に「奴国」が2度出て来ます。
女王国連合を列挙した一文の最後にもう一つ別の「奴国」が出て来ます。
これがもう一つの奴国(那の津)博多ですね。
魏志倭人伝の奴国は「豊葦原仲津国」
(とよあしはらのなかつこく)の事です。
大国主命とトヨが作った新しい邪馬台国の首都ですね。
卑弥呼無きあと、ここに新しい都を作ったのです。
奴国から東に100里で不弥国です。
ここは国東市国見町伊美及び姫島です。
伊美から日本神話の姫島へ渡る港があるんです。
不弥国から南へ水行20日
(豊予海峡は潮が変わると逆方向へ強く流される難所なので距離の割に日数がかかります。)
投馬国は別府市と大分市です。
大分の語源は「多い田」だと私は思います。
それだけの人口が居たと思われます。
投馬国から南へ水行10日
延岡市に着きます。
ですが延岡市だけが邪馬台国ではありません。
宮崎県のほぼ全体が邪馬台国です。
ここはウガヤフキアエズ王朝です。
(天皇家の先祖が居た場所です。)
卑弥呼が居たのはここから陸行一月
(南へ陸行したのではありません。)
内陸方向の山岳地帯を一月進むと
高千穂町に到達します。
ここは天孫降臨の地であり、高天原です。
天照大御神が居た場所天岩戸神社。
ここに卑弥呼が居たのです。
狗奴国との関係は卑弥呼と似た名前の「卑弥弓呼」が狗奴国に居た。
それはつまり、卑弥呼と卑弥弓呼は同族だったのです。
地図を見て下さい。
高千穂町から西へ行くと熊本県側に山都町(やまとの名前は最近付けられたので関係ありません。。)があります。
ここには15000年前から存在したと言われている「幣立神社」があります。
幣立神社は宇宙の創造神を祀っています。
高千穂町も山都町もどちらも天孫降臨の地であり、どちらも高天原となっているのです。
私の思うところ、ここでどちらが神の子孫なのかを巡って宗教的な対立があって、争いが起きてそれが倭国大乱になった可能性があると思っています。
なかなか楽しい筋立て、ありがとうございます。
幣立神宮~高千穂神社・・・
とても興味深い地域です。
私の動画でも、
古代史探索旅Ⅳの第14話~15話で紹介しています。
ご興味あればご視聴ください。
九州の河川地図も含めて倭人伝解明に有効と思いますが、南九州生目古墳も含めてほしかった 武雄など 佐賀県も有明海で割と早くから栄えていたし漢魏とは交流があるし福岡にかたよりすぎです論争はまだ終わりそうにない
福岡県に偏ったりはしていません。
今も邪馬台国連合の発展の中心は佐賀県だろうと思っていますし、実際に佐賀県側にも有力な遺跡が多いです。
宮崎県生目にも大いに関心があり、本日アップしたⅣー第9話にも少し登場します。
今後に期待です。
邪馬台国近畿説の根幹は強力な国家権力を示す巨大古墳と王墓にあります。その点で言えば近畿説では比定できる場所は奈良以外にありません。しかしながら日本書紀に記されてる神武東征時の日下部の地の標高は30mぐらいでそこまでは湖であったことがわかってます。さらに奈良盆地の一番低い場所も30~50mで当時は奈良盆地の一部は水没してたか沼地であったことになります。ところがある時を境に多くの巨大古墳が造られ大規模な土木工事によって灌漑、治水対策で急速な都市化がはじまり強大な大和政権が誕生したと考えても概ね間違いではないと思われます。そのような時代に合致するのは崇神天皇の時代でしょう。なので近畿説では箸墓を卑弥呼の墓としてます。しかし卑弥呼の時代は環濠集落や甕棺墓の時代でまったく合いません。しかも奈良盆地が洪水に合わなくなったのはもっと後です。平安時代まで奈良から京都への主たる街道は山野辺の道であったことからもわかります。総合的に考えて邪馬台国は九州であったと考えるのが適切と思われます。
邪馬台国時代の奈良盆地でどんな人たちがどんな生活をしていたのか、とても興味深いです。
盆地中央に唐古鍵遺跡がありますが、ここは纏向より標高で30m位下になりますが、弥生時代中期~大規模な環濠集落です。
似たような集落は奈良盆地各所にあり、水害と戦いながらも多くの人が暮らしていたことが分かっています。
勿論、邪馬台国との直接の関わりはありませんが。
失礼いたしました。魏志倭人伝に書いてあるような「宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。」環濠集落ではありません。箸墓古墳の敷石は二上山から運ばれてきており、おそらく大和川を使ったのでしょうが現在の大和川より水面は高くなければ船で運べません。そのことからも中央部はかなり沼地の部分があったと思われます。纏向古墳群はいつの時代かは結論でてませんが、柳本古墳群と左程年代は離れてないように思えます。
箸墓や纏向の造営に、大和川やそれを繋ぐ運河が利用されたことは明らかですね。
それが崇神の時代だったことも想定できますが、当時の奈良盆地の王墓級古墳が、記紀にある天皇の順に合致していないことも考察しないといけませんね。
記紀も出雲口伝も先代旧事本紀もすべて口伝です。ですのでそこに書かれてる歴史は必ずしも真実であるとは限りません。しかしながら、まったくの出鱈目でもありません。天皇のお名前に注目するとおよそどんな天皇であったかはわかります。神武天皇は磐余彦ですが磐余は現在の奈良の桜井あたりでここの王であったことがわかります。葛城 襲津彦は葛城付近の王等々、このように名前に地名がついてるケースが多く見受けられます。崇神天皇はミマキイリヒコ、ミマキという場所に外から移り住んだと読めます。おそらくミマキの場所は三輪あたりかと考えられます。三輪に向かって建てられた神殿がマキムク(纏向)ではないでしょうか。外から移り住んだ天皇がもう一人います。イクメイリビコそう垂仁天皇です。もうひとりミマキあたりにいたと思われる人物がいます。崇神天皇の皇后のミマキ姫の父である大彦です。本来の三輪の大王は大彦ではないでしょうか。
巨大古墳群の築造には、膨大な人力が必要です。なので多くの人が奈良盆地に入植してきたでしょう。また、これだけの事業は民衆に何等かの目的がなければ成しえません。そういう意味では奈良盆地の治水と灌漑による大規模水耕稲作地帯への開発が最も合理的な目的だと思います。従って古墳は盛土です。もしそうであるなら箸墓が最初に築造されるのはおかしいと思います。普通は川の上流から治水しなければならないからです。箸墓がどうみても前方後円墳の完成形であることと合致します。
基本的に賛成。同感。
邪馬台国は広大で豊かな
筑後川流域にあった。
その連合国は宇佐地方まであった。その中心は朝倉川添遺跡群~久留米の高良
祇園山遺跡群にあった。
邪馬台国と対立戦争した
南の狗奴国は熊本の菊池川流域にあった。その中心は山鹿の方保田東原遺跡群。その南限は城南塚原古墳群まであった。砂鉄と稲作の生産力があった。
同時代に存在した奈良平野の遺跡群は邪馬台国の東の海の向こうの倭人の国々。北部九州と違い争いが
少ない銅鐸文化の牧歌的
平和な国々だった。後年、九州勢力が朝鮮半島の動乱の関係で東遷したが鉄の
武力に勝る北部九州の倭の五王勢力は簡単に奈良平野を征服した。河内に巨大な古墳群を造営し初期ヤマト王権を造った。
間違いない。
基本的に同感です(笑)。
一点、倭の五王の時代は初期のヤマト王権ができた頃より後の時代だと思っています。
確かに。3世紀の邪馬台国~4世紀末からの倭の五王。北部九州から畿内ヘの東遷は途中の中四国の出雲、吉備、徳島辺りの征服にかなり時間がかかった。銅鐸文化の奈良盆地は鉄の武力で容易く征服、河内平野に巨大な前方後円墳群を造営しましたね。中身も初期の呪術的な出土品から騎馬武器の出土品に変わった。
大分県括りで、日田と宇佐をつなげたがる人が多いけど、地元民としてはほぼ関りが無い。むしろ筑紫平野とのかかわりが深い。現在中津市の耶馬渓方面に行くのも、旧道は険しかった。四方を山に囲まれ、唯一筑後川が流れる朝倉・久留米側が交通の便が良かったのではと推測。近世まで木材を筑後川で輸送。下流にあるのが家具の町大川。景行天皇「この国の地形は鏡の面に似たるかも。」と豊後風土記。
地元の方の感覚ではそんな感じなんでしょうね。
参考になります。
大川まで連携したご考察はなるほど、ですね。
@@これはどうでしょう 地元ネタと言うか、他の地方はわかりませんが「参り所」という霊能者に診ていただくという風習も有ります。知っているのは竹田・日田と福岡・熊本。いわゆる口寄せ。たしか政財界に影響力のある人が昭和の時代に居たなと調べたら藤田小女姫さん。福岡市出身だったんですね。ある福岡市出身の女性は霊感が強すぎて、英彦山・南蔵院・不入道と師匠と共に滝行したり。私が行ったときは女性だけの集団。卑弥呼の鬼道の一端を感じました。
卑弥呼の鬼道が今も続いていますか!!!
邪馬台国は30か国からなる国家連合で、1か国の大きさは伊都国(糸島市)や奴国(福岡市)、末盧国(松浦市)など現在の市町村レベル。記載された国だけで15か国ほどあるので、どう考えても邪馬台国とその属する地域の30か国とは福岡県程度の大きさになると思います。畿内説だと西日本全域で30か国となり1か国の大きさが現在の都道府県並みでないとおかしくなります。
同感です。
畿内説の場合、北部九州を始めとする西日本全域の地域が、畿内を中心にして統治されていたことになるのだと思いますが、当時の軍備、交通事情などを考慮すると、それが起こり得ないことが分かります。
船を介してしか軍事介入できない場合は、相当な兵站の海運力が不可欠になり、磐井の乱の時のように大規模軍事力を大規模船団で送り込まなければ不可能です。
当時の畿内にそんな軍事力が存在した形跡は何もありませんし、当時の国内には大型船もありません。
だから、「邪馬台国とその属する地域の30か国とは福岡県程度の大きさになる」とするお考えは正しいと思います。
日田ではないと思いますが…この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探し、を発刊しました。関心があれば、読んで下さい
ご案内ありがとうございます。
はじめに「この内容を認めないとまた300年混乱するよ」と脅してからだからなぁ。
そうであってほしいっていう願望でしょ
そうではないです。
魏志倭人伝や記紀の解釈だけで道筋をつけようとすると、300年議論することになるよ、と言っているのです。
300年前の研究者もそこは散々読み込んでいるハズだし、我々よりも読解力があるかも知れない。
そうでは無くて近年の考古学資料を存分に利用しましょう、という考えです。莫大な費用と労力と時間が掛かっています。
5万余戸と七万余戸の「5、7」は整数で、たんに「多い」と理解したほうがいいんじゃないでしょうか?
邪馬台国は投馬国より戸数が多いとは言えそうですが。。
そうかも知れませんね。
よく分かりませんが。
国東半島から日田に掛けての場所でしょうね
その辺り、私もとても「怪しい」と思います(笑)。
遅くなりましたが、やっとちゃんと視聴させていただきました。分かりやく興味深い内容でした。この時代のことが気になってしようがありません。見れば見るほど混乱します。
それで最大の関心事は、卑弥呼あるいは狗奴国と神武東征になにかつながりはないのでしょうか、狗奴国というのは謎めいていますね。
ありがとうございます。
神武東征、関係はあるでしょうね。
色んな事実を考古学資料で理解してから、文献史、伝承などを考察していきたい。
私的な考える手順にしたいと思っています。
狗奴国は邪馬台国に大きく影響したでしょうね。
大変興味深く拝見させていただきました。いくつか教えていただきたいのでコメント致します。お手数ですが、どうぞよろしくお願い致します。
(1)卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?
卑弥呼が小迫辻原遺跡で発見された古墳時代最古の居館跡に居たという推理ですが、弥生終末期に環濠集落があったようですので、候補として挙げるのはいいのですが、居館跡はそれより後の三世紀末のもののようですので卑弥呼の宗女台与の時代かその後ではないかと思います。卑弥呼が三世紀中頃247年以後に急造され、葬られた径百余歩(直径約150m)の円墳と奴婢百余人の殉葬址は見つかっているのでしょうか?
また日田盆地が卑弥呼の居所に相応しいとされ、当時の最高傑作の鉄鏡などが出土していることから納得されておられますが、これらについても以下のとおり問題があります。
まず、日田盆地は東西南北の道が集まる場所ですから、防御が困難な地形だと思いますので戦乱期の女王の宮室を置くことは考えにくいと思います。
また、豪華な鏡などが卑弥呼のものであったとしても、持ち運べるものですので出土地が卑弥呼の居所だったとは限りません。またこれらのものは後漢時代のものですので卑弥呼が貰ったものかどうかもはっきりしませんが、その点はどうお考えでしょうか?
さらに女王国から東に渡海千余里に倭種が居るということで、四国をあげておられますが、日田盆地から海に出るまでに山々を越えて周防灘に面した海岸に出なければならないので、女王が日田盆地に居たとするとこの記事は違和感がありますけど、どう思われますでしょうか?
(2)邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?
魏志倭人伝の行程記事で奴国までは考古学の成果とだいたい一致しますので、まあいいとして、不弥国から先が記事と考古学の成果とが一致しませんので邪馬台国問題が解決していないのだと思います。不弥国を飯塚市辺りとする方は多いですが、その先の投馬国と邪馬台国が当時の列島最大の都市があった奴国の2万戸よりもはるかに多い、それぞれ5万戸、7万戸とされています。1戸あたり4人として奴国が8万人に対して、投馬国20万人、邪馬台国28万人ですから、推理された筑紫平野・佐賀平野にそれほど人口があったのでしょうか?
また、邪馬台国が投馬国の北側に隣接しているというのも魏志倭人伝の記述と合いません。上で違和感を述べたように、なぜ行程記事がそのように矛盾するような内容になっているのでしょうか?
(3)狗奴国の鉄はどこから?
投馬国の南側の熊本県に狗奴国があったとされていますが、狗奴国の豊富な鉄鏃はどのように入手していたのか、説明されていなかったと思います。倭国大乱は卑弥呼が擁立されて収まったとされているので、半島へのルートは卑弥呼側が握っていたはずですので、狗奴国は入手できないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
(4)卑弥呼の正体は?
倭国大乱は福岡平野から筑紫平野・佐賀平野で起っていたと考えるのはいいですが、南から熊本にあった狗奴国が攻めてきたので卑弥呼を女王にして、女王国としてまとまったということのようですが、そう推理された根拠は何でしょうか?卑弥呼の素性はどう考えられているのでしょうか?
(5)ヤマト王権との関係は?
当時の畿内の土器(庄内式)が奴国に大量に出土しているとのことですが、三世紀に纏向遺跡が出現し、箸墓よりも前に石塚古墳などいくつか前方後円墳が造営されています。そこに北部九州の土器がほとんど出土していないので、纏向の勢力と祭祀を共にしていないので北部九州はむしろ対立していて、畿内勢力が北部九州に侵入してきたと考える方が自然ではありませんか?熊本の狗奴国と纏向の関係はどうなっているのでしょうか?ヤマト王権の成立をどのように説明されるのでしょうか?
沢山のコメントありがとうございます。
数えると10項目あるようですので、勝手ながら番号をふらせて頂きました。(①~⑩)
(1)
①「居館跡はそれより後の三世紀末のもの」について
庄内式Ⅱ~Ⅲ式の土器が居館跡から出ているので、AD200~250年としました。
三世紀末とされる根拠は何ですか?
②卑弥呼の墓が発見されたか
候補の墓はいくつかあると思いますが、決め手は無いですね。
金印が出れば決まりですが。
③日田盆地の防御性
盆地の防御性は基本的に高いと言えます。入口さえ見張ればいい訳ですし、実際、福岡県の西ノ谷遺跡や大分県白岩遺跡などは、当時の日田盆地の監視用とも考えられる立地です(片岡宏二氏)
④金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡か
2年前に中国の研究者から、魏の曹操の鏡と同型鏡と鑑定されているので、金印まで下賜されている卑弥呼に対しては、相応の鏡と言えます。鏡は動く物ですから幾通りもストーリーは考えられますが、今回示したものはその一つです。
⑤「女王国から東に渡海千余里に倭種」について
女王国は広い連合国と捉えておりますので、日田盆地からではなく宇佐あたりから東に出れば渡海千余里で四国につくハズです。
(2)
⑥筑紫平野・佐賀平野の人口
当時の日本列島の人口は60万人位だったとする推計がありますので、投馬国20万人、邪馬台国28万人は現実的ではない、と考える方が理にかなっていると思っています。
⑦邪馬台国が投馬国の北側に隣接?
投馬国位置の提案は一つの案です。
あくまでも、筑紫平野=邪馬台国の南が狗奴国です。
(3)
⑧狗奴国の鉄はどこから?
当時独自に鉄の入手ルートを持っていただろうと推測できる程の鉄製品製造地域は、伊都国・奴国以外では、ここ菊鹿盆地あたりと丹波の国だけだろうと思っています。
入手先は半島でしょう。
(4)
⑨卑弥呼の正体は?
卑弥呼共立前の連合体制は、伊都国連合、奴国連合、邪馬台国連合、そして狗奴国だろうと思っています。
魏志倭人伝では前者3連合が女王国連合になっていた訳ですので、狗奴国の北上しかないと考えました。
軍事的には邪馬台国優位での連合ですから、卑弥呼自身は元伊都国の女王だった人なのかなあ、とも。
そして軟禁状態だった可能性もあると見ています。
(5)
⑩ヤマト王権との関係は?
これからゆっくり解明していきたい所存です。
一つ言えるのは、畿内勢力が北部九州に侵攻してくるのはもっと後の話です。甕の話で誤解されている方も多いですが、庄内式甕の前から吉備甕も含めて、瀬戸内を広く東西に流通しています。主な製作地は吉備、播磨、河内などです。まだ纏向の出番はありません。広く流通している甕は政権・王権の進出の証しなどではありません。
その証拠に、当時それらの土器が入ってきていた、日本最大最新の都市ともいえる比恵・那珂遺跡の集落に、征服された痕跡は何一つなく、数百年間発展していき古墳時代にそのまま入っています。
大変興味深い仮説だと思います。素人ですが、これはどうでしょうさんのお考えが理にかなっていると思います。
@@これはどうでしょう さん
早速、ご回答いただき感謝いたします。
それぞれにコメントさせていただきます。
(1)卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?
①Wiki「小迫辻原遺跡」概要に「3基の環壕居館の遺構は、出土した土器から3世紀末-4世紀初頭のものであると推定されており、日本最古の豪族居館跡であると考えられている。」とありました。「庄内式Ⅱ~Ⅲ式の土器が居館跡から出ているので、AD200~250年としました。」とありますが、調査報告書にあったのでしょうか?この様式であればわたしは「230~250」と考えています。そうすると一番新しい様式の250年頃に畿内の勢力が来たことを示すと考えるのがよいと思います。何故ならば、畿内との交流が一方向と考えられるからです。九州から畿内には3世紀の前半は交流がありませんから。つまり247年後死亡した卑弥呼の死に関わる畿内の勢力がやって来たことを示すものだと考えています。
そして居館の様子は、その頃の宇佐市小部遺跡に見られるものと同じような形式のようで、270年頃に畿内勢力が九州遠征し、占領した時のものと考えています。
それから金印が出土したとしても、宮室址と明確に分かる遺跡かその付近で見つからない限り、持ち運べる貴重品ですのでそこが卑弥呼の場所だとは言えないと思います。
②候補が幾つかあるというのは初耳です。直径150mクラスは宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三柱山にあるくらいしか知りません。100mクラスも同じ遺跡に一つあります。また、佐賀県鳥栖市の愛宕神社古墳くらいだと思います。いずれにしてもこの時代の100mを越える円墳は列島内にもあまりないと思いますので、あるのならば是非お教えください。
③日田盆地は先に述べたように東西南北どこからでも襲うことができ、事前に軍勢を見張るのも結構困難かと思いますので、防御性は良くないと考えていました。二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱期には日田盆地を狗奴国側に抑えられると筑紫平野の倭国勢力は熊本側と連動して襲われて劣勢になる、軍事的に重要な場所だったと考えています。しかし、その時期の戦闘の址ははっきりわかりません。日田市天瀬町五馬市の五馬大坪遺跡の墓から鉄鏃がひとつ見つかっている程度で、付近には見当たりません。わたしの知る限り、その時期の日田盆地には鉄鏃は出土していません。卑弥呼を警護した兵士の鉄鏃が住居跡などから出土しているのでしょうか?
④おっしゃるとおりですが、wiki「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」に「ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。また、古墳からではなく、横穴墓から出土したとも言われる[7]。」とあり、持ち運べる貴重品ですからダンワラ古墳が卑弥呼の墓でない限り、その鏡も卑弥呼が貰ったものと決めることはできないと思います。
⑤「日田盆地からではなく宇佐あたりから」ということは分かりますが、宇佐は女王の居所付近ではないと思ったので、表現に違和感があると思いました。
(2)邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?
⑥佐賀平野や筑紫平野は現在と違い当時は筑後川などの流域はかなり広い湿地帯だったようですから、50万人規模の人が居住していたとは考えにくいですね。現実的ではないと考えられているとのことですから、なぜ七万戸・五万戸のような数字が出てきたのか?魏志倭人伝の記述の理由を検討されているのかをお聞きしたわけです。わたしは、邪馬台国への行程記事は政治的な理由で魏使の報告書が書かれ、それに基づいて陳寿が書いたのだと推理しています。つまり、従来は漢字を読み書きできない倭人から聞き取り、韻書の筆頭の文字を当てたとなっていたのですが、最近、当時の倭人の中に漢字を読み書きできた人物が居た証拠が出てきて、従来の説が覆っていますので、この推理を裏付けています。拙ブログ「変わる弥生時代観!」「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」などをご参照ください。
⑦ですから、邪馬台国の南に狗奴国があったというのもあてにならないということです。卑弥呼が共立される前は、纏向の狗奴国勢力の中の狗古智卑狗が率いる部隊が大分県大野川流域から阿蘇・熊本に軍事基地を作って佐賀平野・筑紫平野そして福岡平野から糸島平野まで襲撃した痕跡を鉄鏃の出土状況から発見しました。
ところが、狗古智卑狗が倭国側の軍勢に襲われて戦死した証拠として、糸島平野福岡平野の住居跡から銅鏃が見つかり、方保田東原遺跡とうてな遺跡の溝から倭国側のものと見られる銅鏃が見つかっていますので、倭国側に襲撃されたと推理しました。さらに、狗古智卑狗の墓まで分かりました。詳しくは拙ブログ「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」をご参照ください!
(3)狗奴国の鉄はどこから?
⑧申し上げたとおり、卑弥呼が共立されるまでは半島南部への魏志倭人伝のルートは倭国側に抑えられていたので、北九州市付近から沖ノ島経由のルートで半島南部に渡り、鉄素材を入手していたと考えています。方保田東原遺跡には山陰・畿内の土器が出ており、倭国はその東側の狗奴国勢力と戦っていた模様が分かります。卑弥呼が登場してからは狗奴国側は半島南部に渡れなくなったので、纏向に政治都市を作り旧奴国の王族を集めたと突き止めました。拙ブログ「【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)」などを参照ください。
(4)卑弥呼の正体は?
⑨卑弥呼が共立される前の倭国は107年に後漢に朝貢した師升王の一族が伊都国を王都として、奴国・末盧国・筑紫平野・佐賀平野の国々を治めていたと考えています。それに敵対する狗奴国は倭国以東の国々ですが、上で述べた沖ノ島ルートを支配していたのは縄文海人ムナカタ族の赤坂比古一派(和邇氏の祖)だと分かりました。ムナカタ族が王と仰いでいた狗古智卑狗が戦死したので、伊都国の倭国王難升米に懐柔され、赤坂比古が狗奴国を裏切って倭国側に着いたと推理しました。卑弥呼はムナカタ族の姫巫女だと突き止めました。日本書紀では宗像三女神として隠しましたが、宇佐神宮の祭神比売大神イチキシマヒメがその正体です。大和朝廷が最も畏れた神々の一柱ですので、日本全国で祀られています。沖ノ島祭祀も卑弥呼を祀っていたと推理しています。魏志倭人伝では政治的な理由で女王としたと分かりました。魏に使いした大夫難升米は魏から直接軍旗を授かっていますので、倭国王だと分かります。師升王の子孫であることも分かりました。証拠も出てきました。拙ブログ「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」「【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください。
(5)ヤマト王権との関係は?
⑩是非、ご検討ください。
奴国は師升によって二世紀初頭に滅ぼされますが、その前は奴国の比恵・那珂遺跡が列島内の交易センターでしたから色々なところから人々が来ています。奴国が滅ぼされた当初は楽浪郡と倭国の交易が盛んで来たので、吉備の人たちだけでなく瀬戸内の人々は奴国の交易センターに出かけています。
後漢王朝が内部抗争の為に半島支配が弱体化して韓・濊人が暴れ、倭国は楽浪郡と交易できなくなって衰退します。一方、半島南部にコネのあった奴国最後の王スサノヲの子孫の狗古智卑狗が旧奴国に鉄素材や鉄製の武器を作って供給し、スサノヲの弟ニギハヤヒが吉備を平定して奴国を再興しました。楯築王墓の被葬者です。その子孫が河内から纏向に移り政治都市を築き、旧奴国勢を集めて、倭国討伐します。そこから少しややこしいのですが、最終的に九州を滅ぼし、列島全体も支配下に置いてヤマト王権が成立したと推理しました。これについても弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて判明しています。よろしければこれも拙ブログ「鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」などをご参照ください。
最後に、甕棺墓が衰退したのは卑弥呼が登場してからだと推理しています。太陽神のお告げによって政治を行う様式に倭国の伝統祭祀による政治を難升米王が変えたことと関係あると思います。その時代から筑紫平野に縄文系の箱型石棺が多くみられるようになるのでそう推理できます。
いろいろと教えていただき感謝いたします。後ほど拙ブログにこのやり取りを掲載させていただきますので、何かお気づきの点がございましたら、コメントいただけると有り難いです。どうぞよろしくお願い致します。取り敢えず、どうもありがとうございました。
@@katumoku10 さん
ご返信ありがとうございます。
まとめて①~⑩について再返信させて頂きます。
①居館1号から出土した土器は庄内式Ⅱ~Ⅲ式相当の土器(九州の土器編年では久住ⅠB期)ですので、AD200~250年としました。
説明欄に記載しているように、
佐々木憲一氏の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
を参考にしています。
「九州から畿内には3世紀の前半は交流がありません」は事実と思いますが。畿内ではない近畿、つまり大阪湾沿岸や瀬戸内と北部九州は弥生中期より深い交流がありました。
北部九州の中細形銅戈(弥生中期末葉)をもとに大阪湾型銅戈が製作されたと考えられています。
一方で、女王国連合の実質中心となった奴国・伊都国・邪馬台国において、卑弥呼の時代の前後で近畿方面から侵攻された形跡は全くありません。
②卑弥呼の墓は百余歩ですがその大きさの解釈は色々あることはご存知と思いますし、あちこちに卑弥呼の墓候補地があるのもそうですね。
金印は下賜された品目で最重要でしょうから、おっしゃるように墓に埋葬するかは怪しいですね。
③実際当時の日田盆地に大きな戦闘が発生していなさそうだということは、ご指摘のことからも分かります。
安全に過ごせていた訳です。
一般に鉄鏃が出土するのは、戦場だった場合と王の墓の副葬品として、まれに菊鹿盆地のどこかの遺跡にあったように工房らしき住居跡などからと思います。
兵士は退去するときに矢は置いていきません。
④卑弥呼が貰った鏡と決めることはできない、は同意です。
可能性を申し上げています。
⑤倭人伝にある「女王国の東」とは、倭国連合の東という意味だと思います。魏は卑弥呼が倭人の国29国の王だと捉えていますので、九州の東、海を渡って千余里の地が四国であることは合理性があると思います。
⑥なぜ七万戸・五万戸のような数字が出てきたのか?
私も陳寿が盛って書いたのだろうと推測してますが、本当のことは分かりません。
⑦「邪馬台国の南に狗奴国があったというのもあてにならない」という可能性は否定できませんが、邪馬台国議論の中で重要な要素だと思いますので、そのご主張には根拠が必要だと思います。
⑥~⑩にて興味深い御自論を紹介頂いておりますが、その内容を具体的にこのコメント欄で議論するのは適切ではないと思います。後日、貴ブログも拝見したいと思います。
ただ、この中で気になった記述がありましたので・・・
奴国(比恵・那珂遺跡などが中心)は二世紀初頭に滅ぼされたとありますが、遺跡にそのような痕跡はなく、継続して発展し繁栄しています。
また卑弥呼の時代、纏向に邪馬台国に関わる考古学上の痕跡(狗奴国を含む)は一切ありません。
日田ですか~~
卑弥呼に聞いときます
よろしくお願いします。
いつもお手数お掛けします😀
倭国は周旋5000里と書かれており道のりとすると南九州が邪馬台国になり極南界にあります 吉野ヶ里伊都国から 筑後川遡上し久留米経由不彌国日田に東行しその後南に陸行したとすると行程と遺物分布にあいます
この件に関して、もう意見を差し上げるつもりはありませんが、一点お願いがあります。
コメントを投稿される際には、他者が見て理解できるようにご配慮をお願いします。
たいへん 失礼しました 後漢書倭伝見ていただくとわかりやすいと思います 忠実に魏志倭人伝を地図に書けば唐津から南東500里は北東になりません伊都国吉野ケ里になります 西安市内やや北から1216キロで北回帰線緯度23.4度になり短理76メートルが解明されます
@@これはどうでしょう 筑後川の伊都国吉野ケ里 奴国久留米 日田不彌国が倭人伝行程で邪馬台国ネットワーク漢鏡分布甕棺分布と一致し邪馬台国薩摩川内は南九州にあり人口も7万戸が考えられます 当時平野の比較的狭い環濠集落だけでは人口がたりません
唐津市桜馬場遺跡から吉野ケ里遺跡まで直距離は42kmで、方角も南東ではなく、八方角で言えば東です。
邪馬台国ネットワークに、薩摩川内は含まれません。遠すぎます。
日田・宇佐地域(大分)と生目古墳群・西都原古墳群(宮崎)の否定をして下さるともっと信憑性が増すかと・・・。
日田は否定してないんですけど(笑)。
前々から、邪馬台国は大分(日田)ではないかと思っていました。
多少語呂合わせにはなりますが、大分は「豊」の国ですよね。卑弥呼の後継者の名前と同じです。
私も豊の国は台与から来ているのではと思っています。
水行10日、陸行一月はどうなったの?
ここを重視しすぎると、日本列島上に邪馬台国を置くことが出来なくなります。
なので、私の考えを4:00のところで述べています。
つまり、なかったことにしないと答えが見つからないということですね?
そうとも言えますね(笑)。
それは、九州をグルと回っただけです。
解決方法として帯方郡がらと考える人もいますが、賛否は保留もしくは触れずなのでしょう
――「福永晋三」氏の研究は真実性が高いです。・・一度「検索」してみて下さい。
福永氏のTH-camは沢山アップされているので、よく見させて頂きました。
正直いうと、あまり評価できていないです。
どこが?と問われると難しいですが、客観性に欠ける言い方が気になりました。
吉野ヶ里の石棺墓から目ぼしい遺物が出てこない以上考古学的に見ても伊都国が三雲あたりであったことは確実だと思われます。このことから他の国の場所を割り出して行くことになります。
末盧国=唐津呼子が上陸地点で、おそらく陸地でしか測量できないため少なくとも測量隊はここに上陸したのでしょう。本隊は直接船で伊都国に向かったかもしれません。なので官には会ってません。方位(東南)も距離(直線距離500里=30~35km)も記述通りです。三雲から(東南)100里は日向峠越えで10㎞進んだ場所の奴国で大規模集落跡が発見されてる早良平野。そこから(東)に10㎞進んだ場所の不彌国は那珂遺跡群になるかと思われます。那珂遺跡群は御笠川と那珂川に挟まれた地形で当時の主要な運搬手段である河川道の要所であることや不彌国という国名の漢字の意味(弦が緩まないことから2本の河川で閉鎖されてる地域)からも合致すると思います。ここから南に行くには川を遡上するしかなく(日本の河川は流れが速く手漕ぎ船では思うように進みません。陸路も山の中なので悪路です。)水行・陸行の意味もわかります。そして敢えて次に記述されてる投馬国はおそらく邪馬台国に行くまでに経由する国と考えるのが最も納得できる解釈かと思います。2万戸の奴国は福岡平野、5万戸の投馬国は筑紫平野、7万戸の邪馬台国はその他の女王国連合全体ということでしょうか。人口はあまりあてになりませんが(笑)。女王国の中心が宇佐であれば宮崎あたりまで含まれてたかもしれません。
神武東征が宇佐から始まったことを考えると魏志倭人伝との接点は宇佐しかないように思えます。また瓊瓊杵尊の子である彦火火出見尊が記紀に書いてある通りそのまま神武天皇のことではないでしょうか。時代はずばり邪馬台国トヨの時代かと。
比恵・那珂遺跡は王都であり手工業の集積地域ではあっても耕作跡は小規模なので、早良地区より人口規模はかなり小さい可能性はありますね。
故にここが不彌国とするお考えは、「なるほど」です。
この辺りはまだ結論を持てないでいます。
色々な考え方ができそうですね。
邪馬台国の所在地について、外輪山周辺説と鹿児島説を残しますね、山窩の倭人 攻防戦は猿田彦、奴国、
海窩の攻防戦での身分制度については? 大和朝廷史には山彦、海彦、弓彦、弥生時代では既に邪馬台国は大和朝廷の猿田彦かと、八咫烏の飛鳥時代から前では?
コメントありがとうございます。
ただ、ご主旨が今一理解できておらず、返信できないでいます。
@@これはどうでしょう その西暦について、土器時代、縄文時代かと、八咫烏は猿田彦かと、つまりメトロポリタン、猿田彦の統治下の時代です。
ん~~ ???
残念です。
@@これはどうでしょう つまり、石器時代、土器時代が縄文を迎える時代ですから、邪馬台国が弥生文化、大和朝廷と邪馬台国、二分した豪族、あとから飛鳥時代?
初めて貴チャンネルを拝聴いたしました。大変興味深い内容で、他の話題もお聞きしたいと思います。
ただ、BGMの音が大きすぎてせっかくのナレーションが聞きにくいです。BGMの音量を小さくするか消してしまって再投稿してもらいたいと希望しています。
ご意見ありがとうございます。
今までBGMの音量は自分なりにベストの調整をしてきたつもりでしたが、そういう観点で聞き直してみると、邪魔にならないとは言い切れない・・・とも思いました。
ただ、再投稿するとこれまで頂いたコメントの数々が消えてしまうので、できないのです。
次回以降、もっと音量を絞る等の配慮をしたいと思いますので、どうかお許しください。
@@これはどうでしょう さま
ご丁寧な御返信をありがとうございます。高齢者ゆえにBGMとナレーションとを聞き分けにくくなっている私自身の不都合を棚に上げて、身勝手なお願いをしたことをお許しください。
興味深い話題とお優しい対応が嬉しいので、早速チャンネル登録させて頂きます。これからもよろしくお願いします。
いえいえ、貴重なご意見ありがとうございました。
家内と聞き合わせをしてみて、言われてみれば確かに・・・と反省してます。
今後ともよろしくお願いします。
古代筑紫国の人口が三韓(韓国)とほぼ同じで、移動に2ヶ月かかってた事になりますね
あと、九州説の人は日田や筑紫平野が水害沈没地帯である事を軽視していると思います
ハザードマップを一切見ずに土地を購入する人ぐらいに浅はかです
ハハハ。笑っちゃう位「浅はか」ですね。
でも弥生時代も多くの人が筑紫平野に住み、多くの環濠集落跡を残しています。
水田経営と水害は表裏一体の関係なのです。
魏志倭人伝と物証から組み立てられた説に好感。
博多(奴国たと推定)には那珂八幡古墳(3世紀中頃に造成とされる)があり前方後円墳です。ヤマト連合政権(この頃はまだ連行政権と推定)の権力が奴国に及んでいたことの証拠です。
そして伊都国もヤマト連合政権の構成国であり、一大率はヤマト連合政権から派遣された人間だとも考えてます。
奴国、伊都国と邪馬台国は特に戦をしていた情報が無く邪馬台国の遣使もスムーズに通り過ぎていることから、邪馬台国もヤマト連合政権の構成国だと考えています。
この頃のヤマト連合政権の中心地は、まだ奈良ではなく、大阪の北側、あるいは堺あたりだと考えています。
好感ありがとうございます(笑)。
し、しかしです!
ヤマト連合への組み込みは早くないですか!
大和はもとより河内の勢力すら、卑弥呼の時代に奴国、伊都国を統治できていた証左は何もありません。
もしヤマト王権の勢力下だとしたら、奴国、伊都国レベルの中国由来の重要品(鏡など)が畿内から出土するはずですが、それらの畿内からの出土は4世紀からです。
私も3世紀半ばとする那珂八幡古墳の存在はとても気になっています。
前方後円墳が大和発のものだという通説が間違っているのかも知れません。
土器編年の絶対年代がおかしくなっているのかも知れません。
@@これはどうでしょう さん
私の書き込みヤマト連合政権の根拠は前方後円墳の存在だけです。
でも西暦250年頃にはすでに鉄器と青銅器が日本に入ってきており(紀元前4世紀に日本へ)、それが畿内でさえ弥生時代中期後半には鉄器が普及していたとのことですので(日本の歴史学会の定説)、あながち間違っていないように感じています。
弥生後期に畿内にも鉄がたくさん入って来ていたとするのは定説ではなく、邪馬台国畿内説の学者さんだけの主張ではないでしょうか。
その時の根拠は、
「鉄は溶かして再生産できるので、この時代の遺跡からは発見されない。・・・だから鉄があったのだ・・・」と。
こんなレベルの根拠しか私は知りません。
@@これはどうでしょう さん
レスありがとうございます。
日本に鍛冶技術が伝わったのは古墳時代の中頃。
製鉄技術が伝わったのは古墳時代の終わり頃だそうです。ここで初めて鉄鉱石や砂鉄から鉄を作ることができるようになりました。
いずれにせよ邪馬台国時代には大陸から渡ってきた鉄器を基本的にはそのまま使う形で、壊れたら削るなどして工具にしたり釣り針にしたり程度の加工技術しかなかったようです。
ですので古墳時代初期のところから鉄器が出てきたら大陸から運ばれてきたものが国内で紆余曲折があったにせよ畿内で見つかるのはやはりそれなりに人の流れがあったと推察されるのです。
米作りには鉄器は必要で便利ですしね。普及しますよね。
鉄器が有って、古墳が有って、人の流れもあるのなら、権力も有った状況証拠にはなるのかなと思います。私は邪馬台国九州説派てすけど、邪馬台国はヤマト連合政権の構成国の一つと考えていますので。単にヤマト連合政権の友好国というだけかもしれませんが。
邪馬台国、ヤマト王権という観点を置いておいたとしても、この頃、弥生時代~古墳時代前期にかけての列島内の勢力図を考えると、大和地域が北部九州地域を勢力下においていたと考えられる考古学上の資料は何もありません。
地域毎に古墳造営が進む時代なので、地域ごとに首長の権力は生まれていたでしょうが、権力どうしの勢力争いとなると、単純な友好国の関係というものは想像できません。
北部九州は個々の国同士の争いが、戦いの形で続いてきた訳ですし、勢力下に置くというのは、実際に戦いにまで進んだか否かはケースバイケースだとしても、武力による勢力争いがベースになっていただろうことは、考えておかなければならないと思います。
卑弥呼の時代、3世紀の前半において、邪馬台国がヤマトの勢力下に入っていることは考えられない訳です。
そしてそこに那珂八幡古墳や前方後円墳の謎が生まれるのだと捉えています。
三角縁神獣鏡は国産の鏡で古墳時代に作られたもの。箸墓、纏向は4世紀に造られたもの。など橿原考古学研究所の関川尚功先生が講演なさってる動画がユーチューブにアップされてます。考古学の立場から、また、奈良盆地の発掘に関わってきた立場から極めて論理的にご説明されてます。おそらくこれが真実に最も近いと思われます。”畿内ではありえぬ「邪馬台国」 -- 考古学から見た邪馬台国大和説 関川尚功”
倭国の周旋5000里を考えてみます。いろんな説は有るかと思いますが、私はこれは倭国の領土の範囲を示してるのではないかと思います。というのは最後に奴国が出てきてここが倭国の境界の終わるところと書いてあるからです。つまり、奴国を起点にして周旋5000里(5000*70~75m=350~375km)廻って奴国に戻るので。この範囲が最後の奴国で境界の尽きるところ(奴国に戻るので終わり=範囲)であると解釈できると思います。そうであれば動画で指摘されてる北部九州の範囲とほぼ一致します。また、投馬国も邪馬台国も日数起点が奴国であると思われますので両国ともこの範囲内にあることになります。
なるほどです。
Googleマップでぐるっと距離を測ってみると、375kmになりました。
中四国にも近畿にも行けない訳ですね(笑)。
魏の使節は、通常伊都国に留め置かれ伊都国と不彌国は都でありながら大国の奴国の衛星都市的な配置となってるのですから奴国が起点となることに何の違和感もありません。また、これらの国は遠隔でよくわからないと言ってるわけですから魏の使節は実際に行ってはいないことになります。しかし、不彌国までこれだけ正確な方位と距離を得てることから測量部隊がいたことは間違いないと思います。そしてその他の旁国は魏の測量部隊が倭人に測量方法を教えて計らせたのではないでしょうか。今も昔も日本人の気質は変わらず先進技術は積極的に受け入れ実直に実行すると考えれば正確なのも納得できます。魏の使節は日本人がそれほどの能力を持ってるとは想像してないので詳しくはわからないと言ったと思います。
なるほど・・・そうですね。
一方、卑弥呼の時代にこの地域で有力な王がいた場所は、糸島市三雲~平原と福岡市比恵那珂あたりになります。
早良平野との関係性はどう捉えることができるでしょうか。
奴国は2万戸の大国ながら官と副官しかいません。伊都国は千戸でも官と副官2名です。また、代々王が居たともあります。これらのことから関係を推察すれば伊都国は貿易、政治の中心、不彌国は商工業中心で国内交易の国、そして奴国は2つの重要な国を支える食料供給の国(奴は忠実に従うという漢字の意)となるのではないかと思います。早良平野に奴国の都があったのは、内陸部の高台の野芥あたりに福岡平野の各地から農業生産物を集め倉庫に蓄えることで常に確保し、日向越えで伊都国へ農産物を容易に運べる利点があったのではないかと考えてます。因みに後漢の倭奴国とこの奴国は違う国と思ってます。
倭人に測量させた。と考えれば何故日数標記に変わったか、また、陸行に一月・水行十日もかかったのかも理解できます。測量しながらの旅程ならそのくらいかかってもおかしくありません。というかそれ以外にすべての矛盾を説明できるすべが無いと思います。
『伊都国は邪馬台国の北にある』なので佐賀平野ですね。
佐賀平野を含む筑紫平野全体が邪馬台国連合と考えています。
傍な辰砂が産出される山がありますか? 又、東側に海が存在しますか? 無ければ該当地で有りませんヨ!
真珠、青玉、丹がある地は列島全体でしかないので、広く「倭人の国」の描写だと捉えています。
寂しいですが熊襲により、邪馬台国が滅ぼされたということでしょうか。昔のことですので終わったことはそのまま受け止めますが大和朝廷の熊襲征伐をみえば、この説は正しいと思います。邪馬台国が滅び、九州に残った群雄が熊襲尊であれば、大和から派兵された大和尊はかなり卑怯な手を使ったとかの手塚治虫先生が描いていました。怠慢でけんかをするのにルールはありません。宮本武蔵でも同じでした。日向の子孫の大和尊が熊襲尊を征伐しても歴史の流れです。
狗奴国勢力が熊襲であり、そのせいで邪馬台国が終焉したのかも知れませんね。
九州各地に離散していた旧邪馬台国勢力が集結して東征していったとすれば、神武東征が当てはまりそうです。
歩幅76センチは3.03cmを1寸とすると25寸になり10500里は角度27.6度から1.14かけて約萬2千里になり経験と資料から分かったと思います
????????
意図が分かりません。
なぜ12000里ガレーザーをつかわずわかるのか回答したものです 陳寿は魏使の測量資料からわかったと思います邪馬台国で日影をはかった
魏志の測量資料からわかるのは棒の影の長さのみで1里=76mまではわからないと思いますが。グーグルマップがないものと考えればすぐにわかる話と思います。
長安から北回帰線は約1216キロあり16*75cmは1200キロで16キロも誤差があるので76キロが正解だと思います 測れるのです
12.35尺でなく12.35寸です 失礼しました 歩幅76センチは寸2.45cmで31寸になります日影差10500里は798キロになり斜めが萬2千里912キロであることが解明されました
末蘆国・邪馬台国の比定と、一旦置いておいて、里程と旅程は切り離すと次の考え方がなり立ちます。里数は、短里(0.0675km)で計算する。魏志倭人伝の通りに
①帯方郡→狗邪韓国(7,000余里)→対馬国(1,000余里+方400余里(方は一辺400南東で二辺800余里)1,800余里→一大国(1,000余里+方300余里(方は一辺300南東で二辺600余里)1,600余里→末蘆国(1,000余里)→伊都国(500里)→奴国(100里)→不弥国(100里)=12100里
「郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」②帯方郡→女王国(12,000余里)となり①=②となります。
よって、里数においては、不弥国(12,100里)=女王国(12,000余里)となります。
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。」ここは、長里(0.434km)を採用する。(仮定出発起点を帯方郡)南→水行10日(120里*0.434=52.08km/d)→陸行1月(30日)(40*0.434=17.36km/d)(長里0.434km)を採用すると、[一日の水行距離] 水行 10 日=陸行 30 日= 10 : 30 = 1 : 3 陸行1日=40 里 水行 1 日=40 里×3=120 里=17.36km×3=52.08 km 1200里/日*0.434km=520.08kmはあり得ないので、[一日の水行距離] 水行 10 日=陸行 30 日= 10 : 30 = 1 : 3 陸行1日=40 里 水行 1 日=40 里×3=120 里=17.36km×3=52,08 ㎞ ( 12,100*0.0434=5251km)はあり得ない。1/10とすると、③帯方郡から邪馬台国1,210里である。水行の到着地松浦国まで1,210-70-10-10=1,140里1,140里/120里/日=9.5日となり、残り70+10+10=90里/40里=2.25日+9.5日=11.75日=10日+1.75日で、邪馬台国に到着する。①=②=③で、不弥国=女王国=邪馬台国となる。
①での800里、600里を足すロジックが分かりません。
@@これはどうでしょう ①での800里.600里は、原文では「對海国・方可四百 里(方可四百餘里)」「一大國・方可三百里(方可三百里)」(実距離とは異なる)と記述されている。 この時代の船は海岸線に添って航海していた。つまり、対馬国の 400 里四方という意味は島 の大きさを表しているだけではなく、(正四角形ではありません)船が島を通過して行くには海岸線に沿っていったん東に (又は西)に行き、島の先端部分から方向を南に変えて大海に出て次の目的地に向かう航路を辿 る必要があった。その移動距離は島の大きさを表す東西の距離と南北の距離の二辺に相当する。 つまり、狗邪韓国から対馬国までの距離は1,000 里だが、そこに島の大きさ、東西 400 里、南 北 400 里の二辺の合計 800 里を加算しなければならないのである。同様に一支国は 300 里四方 であるから、一支国を通過するための東西 300 里、南北 300 里の合計 600 里を加算しなければ ならない。 と云う説明になります。帯方郡→7000余里狗邪韓国→1000余里対馬国800里→1000余里一支国600里→1000余里末蘆国→500里伊都国→100里奴国→100里不弥国=12100里
対馬の中継地は当時の遺跡から浅茅湾周辺と考えることが出来、この時の海水面や船の大きさを考えても大船越や小船越で船越したと考える方が自然です。
800里も迂回する必要はありません。
@@これはどうでしょうさんへ、① 対馬国方可400里・壱岐国方可300里として、この里数を表記している事は、船を漕ぎながら船上から乗組員が、島の沿岸部を観察している。よって、里程距離に加えるのが自然である。帯方郡→7,000余里狗邪韓国→1,000余里対馬国800里→1,000余里一支国600里→1,000余里末蘆国(824.22km)→500里伊都国→100里奴国→100里不弥国=12,100里(874.8km)=帯方郡から女王国に至るには12,000余里(874.8km)である。邪馬台国(都する所)内に不弥国(女王の住居)がある1,000余家60戸不弥国(6戸)(100余家) 末蘆国から邪馬台国内(不弥国)700里*(短里三種0.0675-0.0723-0.076km)三種47.25・50.61・53.2km内にある。水行10日陸行1月(30日)の速度比率3:1から考えると874.8km/10日=87.48km/d:29.16km/d=87.48/8=10.935km/h:3.645km/hで満足する。よって、陸行は、700里(50.61km/29.16km/日=1.735日帯方郡→水行10日末蘆国1,140里(824.22km/87.48km/d=9.42日≒10日となる。
@@これはどうでしょう 大船から小船で船越ししたと云っておられるのでしょうか?そんな面倒くさいことを荷物もあるのに移し替えるのですか?それこそ不自然ではないですか。
楽しく拝見しました。
私は見逃していたのですが、対馬と壱岐は古代船では航行不可能だったんですね。
考えてみると、魏は対馬から出雲(投馬國とする)へは、倭国連合が運営する交易ルートを通るしかありません。
往路は帯方郡→狗邪韓國→対馬→出雲→宗像→壱岐→伊都國となります。大半が地乗り航法となるため、伊都國までは、水行20日、水行10日陸行1月は妥当でしょう。
一方、里数は一寸千里法で測定した直線距離で、魏が描く地図を言葉で説明したものでしょう。
対馬と壱岐が1000里と近いけど遠回りで約1.5月かかるということです。
12000里は沙里院と宮崎神宮付近で、天体測定した計算値であり、7000里を差引いた5000里が筑紫島を含む女王國のザックリとした大きさを示しています。
卑弥呼の時代には、勒島から壱岐に直行する新航路があったにもかからず、天体測定のために対馬に立寄ったのには納得いきます。
追伸:短里の千里は76.6km、最小単位は100里。500里や100里も句股術で計算した結果です。
おっしゃっていることが良く理解できません。
対馬から壱岐へ、直接渡海出来なかったということでしょうか?
@@これはどうでしょう そう無理なんですね、古代船の準構造船は丸木が土台の転覆しやすい船だったのです。手漕ぎは4から5km/hで、20から30kmの対馬海流には漂流航法しかなかった。詳細は papaさん
チャンネルが参考になります。
対馬海流が2、30キロという話は聞いたことがないですね。
その方の勘違いじゃないでしょうか。
@@これはどうでしょう すみません、東方向に2.5km/hの間違いです。申し訳ありません。
@@wajin5695 さん 小名木先生が、「丸木舟」ベースではなくて、「葦船」ベースではないかと言われていました。それだと大型船が作れる。邪馬台国は、縄文人系列です。海のフェニキア人みたいな、海洋民族系知識がある。入れ墨があるのも、海洋民族のミームで、海で死んで手足がもがれて顔もわからなくても、一部が残って、それが刺青模様なら、顔見知りは誰のかわかります。エジプトの船は葦船で、わりと大きいのも作れた。なので、航行技術が案外と高いと想定すると、漂流式だけとは限らないです。中国に稲をもらいにいけるだけのハイテク航海術があったのだから、あまり範囲を小さくしないでもいいと思います。
水行、陸行の日数を距離に換算する件、4:00~
陸行は、徒歩なので大体の距離は合うと思います。水行の方は、舟での移動としたとき、従来は当り前のように海上を進む計算をしていました。これが、間違いの元だったのでしょう。海上ではなく、川をさかのぼる船旅だとしたら、全く異なる結果になるでしょうね。
動画のUP主さんは、川をさかのぼることで、対象の場所を探り当てられたのでしょうか?
いえ、今回は川の航行日数を参考にした訳ではありません。
この記述は倭人からの伝聞をそのまま載せている、使者は実際には邪馬台国に行っていない。
そんな解釈をとっています。
奴国から日田へ行くとしたら、ほぼ川で航行できると思いますが、陸行1月は現実的ではありません。
水行~の記述は無視の解釈ということですね。
残念ですがそうですね。
ここを重視しすぎると、日本列島上に邪馬台国を置くことが出来なくなります。
なので、私の考えを4:00のところで述べています。
壱岐島からの距離とその後の方角が違うのでは?
方角のズレや距離の間違いはあったろうと思います。
ピッタリ当てはまる場所がないので、300年にわたる議論が継続しているのだと思います。
台与の国の鏡表(150-250年)変ですね。
248年卑弥呼没ですよね?
確かに!
筑前、筑豊、豊前の漢鏡は古墳時代初頭の認識なので、△のゾーンはもう少し右で、「台与の国の鏡」も言い過ぎかも知れませんね。
この辺りを実際に考察する時に検証したいと思います。
ご指摘ありがとうございました。
@@これはどうでしょう
お返事ありがとうございます。
自分自身の歴史への考察が増す度に
また聞き直し、思考妄想し楽しんで
います。大変参考になります。
それは有り難いお話です。
今後ともよろしくお願いします。
オ~、我が母方の故郷日田ですかぁ~。
考古からの導き すっかり在野の先生ですね(^^)
「こんなん知らんやろ?」と魏が下賜した『鉛丹』が鉄鏡の裏から確認されませんかね~(^^)
思い切って、日田を想定してみました。
去年訪問した時は、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を見たいだけでしたが、色んなことを調べているうちに、居館遺跡や庄内式期土器の存在を知ることになりました。
もっともっと色んな物が出てくると、より確かな推論になると思うのですが🎵
また行きたい日田です。
mongenさんお薦めのモツ入りチャンポンも食べて無いですし(笑)。
@@これはどうでしょう さん。タブレットの不調で遅くなりました。
九州醤油ベースのモツチャンポンを是非(^^)
前回動画からの考察 甕棺と銅矛の変遷は旧家の伝承とも一致しますね。
2016年5月中国河北省で113基の甕棺墓(大人用含む)が発見されました。
吉野ヶ里では甕棺が2000基以上出土し山東省歴城県のものと形状が酷似。とあります。
朝鮮半島では甕棺墓は南部だけ、つまり シナから直接伝播した甕棺の風習が北部九州から半島南部に伝わった。
国内では肥前から筑前、筑後に広がったが邪馬台国の時代は最盛期を過ぎ衰退。
墓制は簡単に変わりません。集団の移住者によってもたらされます。
シナの「史記」や出雲旧家、九州の古代からの豪族 宇佐氏に伝わる伝承が見事に一致します。
BC200頃 大型の準構造船の船団で工人、陶工、武人を伴って今の佐賀県諸福の湊に上陸した
『徐福』‘九州の地’では『ニギハヤヒ』を名乗る モノノベの祖です(^^)
へ~~~!
河北省や山東省から甕棺が出てるんですね。知りませんでした。
今まで甕棺は。縄文期の日本古来のものが北部九州に入って来た先進土器製法と合わさって、九州で出現したものと思っていました。
甕棺を盛んに流行らせた人達が何処から来たのか、一層の考察が必要になって来ました(笑)。
一方で徐福来訪は、佐賀県に残る説話などもあり、歴史的に私も解き明かしたいテーマですが、甕棺墓の創始期、甕棺Ⅰ期は、糸島、唐津、相良、佐賀、小城、熊本あたりで始まっていますが、考古学上は弥生時代前期に区分されていて、BC5世紀~3世紀のことだろうと言われているようです。(→第9話)
徐福一行がBC3世紀に来訪したとしたとき、微妙に時代が合わないのではとも思っています。
私も出雲旧家、向井家の御本を目を皿のようにして熟読しています。
基本的には真実の伝承だろうというスタンスで読んでいますが、この内容が考古学資料と合致していくと、自分の中で納得した歴史が描けるかも知れない、とワクワクしているところです。
モツチャンポン、次回訪問では必ず・・・
秋に行ければ、と思っているところです(笑)。
@@これはどうでしょう さん
オ~~!へ~に対抗しました(^^)
向家=富家(登美)コトシロヌシ 見てますかぁ~流石っすね~先輩(^^)
去年 妻木晚田遺跡に行った時 近くの神社の祭神調べてたら
高杉神社(孝霊天皇宮) 欠史8代?しかも宮?
記紀には記載ないので 僕も出雲の伝承本に至りました。
吉備勢力の成り立ちまで腑に落ちました。
4000年以上前『鼻の長い動物の住む国から民族移動して日本に来た』
お~天とかアチャラじゃ無いんだ(^^) 目から鱗の話が多く神社祭神の謎が幾つも解けました。
先月 また出雲大社に行き 『ホヒのしめ縄の方が立派じゃん』『神事で身を隠すんだろ?』独りニヤニヤ
シャントン饒安県から石見、佐賀 大きくは2度集団を引き連れ渡来した
彦火明(海部氏、尾張氏祖)=『徐福』=ニギハヤヒ=火明饒速日尊(物部氏祖)
これが記紀や、海部氏、竹内文書等が架空のスサノヲ等を創作し隠した最大の真実。
ユダヤ系かつ道教思想からその後の神社の催事が繫がりますよね。
神獣鏡祭祀を強要するわけだ(^^)
ニギハヤヒは最初 伊万里湾に入るも 先客から『山の向こうに人の少ない湿地がある』
西海回り 有明海 諸福湊(しょふく?笑)に入ったとあるので春秋戦国で逃れた勢力も居たのだと思います。
争った記述が無いので言葉が通じたんでしょうか それが甕棺墓のグループだと考えます。
遠賀川以東はやはり別勢力(出雲)なんですね。
卑弥呼登場前に東征(構造船持ってるので四国の南!鹿児島に伝承あったり高知に銅矛出るわけですね)
あ、日ノ宮弊立神宮によると太古の日本人は世界中に散らばった
五色人ですね。
聖書はくどい程 『神は東から来た』『東から救世主がやってくる』遠く北欧の地では縄文土器が出土しています。
世界中で文明を創った日本人は先祖の地に帰ってきています。
まさに『八紘一宇』大御心に感謝です。
消されないですよね^_^; でも本心です。
ワァ~~、妻木晚田遺跡行かれたんですね!
羨ましぃ~~。
私が買った向井家の本は「出雲と蘇我王国」ですが、この本の影響で出雲に再び興味を持ち、妻木晩田遺跡の本を図書館で借りてきて調べ始めました。
ここの四隅突出型墳丘墓/洞ノ原墳丘墓群と、出雲の西谷墳墓群、三次盆地の四隅突出型墳丘墓などの関連性を知りたいと思っているところです。
ご示唆頂いている事は興味のある事ばかり。
Mongenさんの頭の中では、既に多くのことが繋がっているようですね。
早く追いつかないと!! (笑)。
ちょいと気になったので、書き込みます。
卑弥呼の後に女王となった女性の事を『壹与』と書いて『とよ』と読んでますが、これは二重の意味でおかしいです。
卑弥呼が治めた国の事を『邪馬台国』と書いていますが、『邪馬台国』の『台』と『壹与』の『壹』は同じ漢字でなければいけません。
つまり『邪馬台国』と書くなら『台与』と書かなければならないのです。
最低でも『臺与』です。
また、中国では原則として同じ時代なら同じ漢字は同じ音で読みます。
つまり『邪馬台国』を『やまたいこく』と読むなら『台与』も『たいよ』としか読めないのです。
この原則を守らない学者や研究者が多すぎます。
せっかく話の内容自体は説得力があるのに、こんなくだらない事で信憑性が落ちるのはもったいないです。
ご指摘ありがとうございます。
私は壹与の本当の読み方も中国での原則も知りません。
また邪馬台国が、邪馬臺国なのか邪馬壹国なのか。
臺与なのか壹与なのか。
「やまたいこく」なのか「やまいちこく」なのか「やまとこく」なのか。
「とよ」なのか「いよ」なのか「たいよ」なのか。
それらについて自分の意見を持っていませんし、通説もあるとは思えないので、一般呼称で、
「やまたいこく」、「とよ」と呼んでいます。
ご指摘として頂戴しておきます。
北部九州に住む者として、大変興味を持って拝聴いたしました。素晴らしい研究と存じます。
BGM(Background music)とナレーションのバランスが悪い ように感じます。(BGMのボリュームが大きすぎる)。動画の最後近くのバランスが適当と思います。
ご視聴ありがとうございます。
そしてご意見もありがとうございました。
他の方からも同様のご意見を頂いていて、今バランスを見直しているところです。
次回以降、もっと配慮した動画にしたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。
吉野ヶ里伊都国の港から短里4000里304キロで種子島とグーグルマップで証明できます そこから魏使は北上し東に1000里四国に渡ったと考える自説と共通するところがあります
ご説明の4000里は、どこから抽出された里数でしょうか?
@@これはどうでしょう 後漢書倭伝と魏志倭人伝に倭から4000里と書いてありどこの港からが不明なのです 四国の愛媛 香川 土佐が広形銅剣漢鏡の渡来地で東1000里が比定できます
@@これはどうでしょう 銅剣でなく銅矛でした 失礼しました
倭国の女王国を去ること四千里、南方にあった侏儒国(しゅじゅこく)ということでしょうか?
おしゃるとうりです その女王国を伊都国吉野ケ里とすると距離があうのです
不弥国って呼び名からも粕屋郡宇美町が定説でしょ?
飯塚市は宇美町のさらに東側で山を越えないといけないので、
違うと思いますよ。
飯塚市は田川市や直方市と同じく遠賀川流域の豊の国の一部でしょうし。
遠賀川流域は地質学で昔は大阪平野と同じく内海だったことが分かっています。
福岡県民より・・・
そうですね。
宇美町という見方もありますね。
今回は立岩遺跡のある飯塚市に置きました。
遠賀川流域は確かに筑前・筑後・肥前の一帯とは異なる文化圏だったと思いますが、弥生時代後期にはこの飯塚周辺だけ筑前・筑後・肥前と同様の甕棺墓圏となり、福岡平野、糸島平野の王墓に匹敵する王墓が立岩遺跡なのです。
そういう理由で、飯塚市と置きました。