【関ヶ原の戦い】驚愕の新事実!【どうする家康 】【地形図で解説】
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- เผยแพร่เมื่อ 3 ต.ค. 2024
- 今回は関ヶ原の戦いについての動画になります!
今まで通説とされていた歴史情報が最近の研究によって、少しずつ変わってきています。
その中の一説を今回はご紹介いたします!
動画が面白かったと思って頂けましたら、
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【使用素材】
画像・動画:イラストAC様、写真AC様、シルエットAC様、動画AC様、Pixabay様
BGM、効果音:甘茶の音楽工房様、魔王魂様、OtoLogic様
SE:効果音ラボ、OtoLogic様
地図引用元:Google社「Google Earth」、国土地理院「地理院地図」等を加工して作成しております。
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最近の研究で小早川は最初から徳川方で、西軍の退路を断つ目的で布陣したとするのが有力です
小早川は元々徳川方だったが進軍途中で石田方からの計略で関白をほのめかされたから参戦するのに迷ってたのですかね?
文章で初めから東軍として戦う旨が残されています。大谷が知らなかったとしたら、その時点で敗北です。
西軍は実質大谷軍が主力なのです。
西軍主力は島津、宇喜多じゃない?
@@名無し-u5e 大谷軍は突出して布陣図し東軍を受け止めるつもりであり、大谷軍の優劣がそのまま勝敗につながると予測できます。しかし部下の朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの裏切りにより大谷軍は総崩れになりそのまま後方の石田・島津・宇喜多の退却になりました。
なるほど・・・最新の布陣の位置なら2時間で勝負が決したのも納得・・ 島津の退口ももう前方にしか退路がない追い込まれ状態だったんですね・・これも納得いく説明でした
すでに乱戦状態に陥っていたとは・・ いい解説で勉強になりました!
最初のところは葵徳川三代を彷彿とさせるナレーションですね🎙️
それ思いました!🤣
自分も思いました!
ボクもです!
最新の山中村説を取り入れた内容で面白かったです。日本の歴史家はなぜこの重要な戦いの実際をちゃんと研究してこなかったのか、非常に不思議。なお、長塚ではなく長束正家でしょう。
お褒めいただきありがとうございます!
また、名前間違いはいけませんね…大変失礼いたしました!
明治時代から長いこと信じられていた従来の説とかのほうが激戦って感じがするからじゃね?
最近の新通説が面白いのは、関ヶ原は偶発戦で、ほぼ旧豊臣家臣団の戦い担ってるよねってところ、ある意味、家康は敵味方を見極める最良の戦いだった。
個人的には、家康が桃配山まで出張ってきていない説は説得力高いと思う、家康からしたら毛利勢は内通しているとはいえ、
小早川、吉川の動き次第では危険すぎる絶体絶命の布陣になるので、伏見城か関ヶ原後方に布陣して
旧豊臣家臣勢同士が戦って勝手に消耗してくれればそれでもよし、
仮に関ヶ原で三成らが勝利し、再度美濃へ進出してきたら野戦においては絶対の自信がある家康、秀忠率いる純度が高い徳川本体とも言える3万近い部隊が残っているので、
次は家康が全面指揮できるALL徳川の戦いになる。逆にいえば、福島や黒田など旧豊臣家臣団への気遣いが無用になる。
その時、毛利や東北の伊達らの動きも気になるが、徳川本体が打ち破られた訳では無いので、一定の求心力は残っていただろう。
西軍の関ケ原への陣地移動は伊勢街道をからですよ。
関ケ原の戦いの敗因は、前田利長及び福島正則を味方にできなかったことが初期段階の失敗、最大の失敗は岐阜城が陥落したことです。これ以降西軍側の動揺が激しくなり、小早川及び毛利も東軍側に傾いていきました。西軍側が大垣城を捨てた要因は岐阜城の支城がすべて東軍側に寝返りが原因です。濃尾平野に東軍に引き込み包囲作戦をすることが崩れたから。
面白く拝見しました。
長束正家 なつか
浅野幸長 よしなが
松平忠吉 ただよし
山内一豊 やまのうち
堀田直政 堀直政ほりなおまさ
居城 きょじょう
痰の毒→胆の毒
主には おもに?
「やまのうちかずとよ」は伝統的な誤用。「やまうちかつとよ」が正しい。
史実は事実なり 江戸時代以降の資料はウソっぱち マジで勉強になります❤❤❤
毛利勢が桃配山の徳川本陣を後ろから突いていれば勝っていただろうし、最初から戦う気無かったんだろうね。
甲州征伐を拝見してから、凄く見やすかったので、過去動画を見始めました。
0:54 長宗我部盛親が長宗我部守親になってました。高知県人の長宗我部ファンなので、少し気になってしまいました。
漢字間違えのご指摘、ありがとうございます!申し訳ありません><
地図で見てみると、小早川は最初から東軍だったという説が正しかったと思う。
家康が毛利勢に背後を見せていたということは、毛利は攻めないという確信もあったのだろう
大谷軍は小早川軍の突撃をも跳ね返していたそうですね 脇坂らの寝返りが壊滅の決め手になったそうです 大谷軍少ないのに恐ろしや
伝承はあるもので「僕が子供の時にお爺さんがこう言っていた」とは事実やろな。
通説は大事やと思う。
吉川が調略されたのが痛すぎる。根回しという点で石田三成は遅れをとったな
嘗て教育テレビで「んーどこばりくっび!」って言ってたなべおさみが、大河ドラマで吉川広家を演じてたという胸熱。
ハナ肇さんも草葉の陰で喜んだだろうな
三成は家康のスパイです…
処刑は偽装…
元々吉川は広家の父である元春が、一門の経家を死に追いやった鳥取城の件や騙して講和を結ばされた備中高松城の件から秀吉について快く思っておらず。毛利家の一員としては秀吉に従うが、元春個人としては秀吉と距離を置いていたからな。
小早川秀秋は関ヶ原の戦では開戦時には東軍の先鋒として戦ったのが最近の
研究で明らかになっています。
家康が戦後 秀秋を誉めている。
秀秋が早く亡くなったのは若年からの
酒が原因です。
まさかとは思いますが、AIだったら仕方がないのですが、徳川家康の4男は、松平忠吉「ただよし」です。他の武士名が読めているのに、何故なのでしょうか?
ディズニー+で配信されているドラマシリーズ"Shogun"で、最終話で詳しく描かれると思われていた関ケ原をサラッとしかやらなかったのはある意味正解かもな~
大谷吉継は、藤堂隊と京極隊を相手に互角に持ち込み、小早川の大軍を2・3度ほど撃退したと言う。
総大将の毛利勢が一番足手纏いだったな
西軍の大部分は毛利勢だから毛利が何もしなかったら西軍につく他大名が更に減って勝負にすら発展しないけどね
次点の宇喜多秀家は直前にお家騒動で有能家臣に見限られてるのが痛すぎる
毛利輝元はビビりすぎて総大将なのに本戦にすら来なかったのやばい
最初の地形説明
葵徳川三代だ…w
歴史好きは漢字の読みや発音した時の語感とかの気持ち良さも含めて歴代好きだからその辺のご考慮もお願いしたいですね
歴史好きならこの漢字の読みが聞くに耐えなくなると思うが…
朝鮮出兵直後でこれだけ動員出来るのは凄いね
小早川秀秋はのっけから三成と戦う気だったのか😱これを見て解かるのは三成の人気の無さであり主君の筈の淀殿にまで嫌われているというまさに蛇蝎のごとくである。この戦の発端が細川ガラシャ婦人の悲劇だったのか(*_*)
居城→きょじょう
まつだいらただきちwww
タダキチ、シルブプレ?
逆になんでこの状態から島津が逃げれるんだ……w首オイテケ一族最強、、
読み間違いが多すぎ
すみません、よくわからないのですが。。。大垣城の西軍2万は岡山に着陣した家康の東軍9万に対して籠城していたと思いますが西軍はどうやって大垣城を抜け出し山中村方面へ移動できたのでしょうか?野戦で決着をつけたい家康が包囲を解いたのでしょうか?
コメントありがとうございます!
関ヶ原は新説がどんどん出てきている状況で、更に私も分からない事だらけなのですが、
東軍は包囲はしていなかったのではないでしょうか?...と思います。
西軍は杭瀬川にも兵を出せているようなので城を前に睨み合っていたというわけではないようですね。
大垣城の西軍は4万前後はいたと思われます。
内訳は石田6600、福原ら小大名7000程、宇喜多秀家17000、島津1600、小西行長6000です。
2万では小早川にも勝てません。
包囲はされていませんし、普通に城攻めしても難しいので東軍も陽動作戦が必要だったのだと思われます。
@@ks5643 7:24 「総勢2万人が籠もる大垣城を、7万の東軍が包囲」(家康着陣前)となっていましたのでよくわかりませんでしたが4万前後いて包囲はされてなかったのですね。ありがとうございました。
南宮山に布陣していた部隊って、本気で戦おうと思っていたのなら、伊勢街道のほうに降りる事は出来なかったのかな。。。
今48歳の自分もそれを35年くらい考えてる・・・あんた、友達になれそうだな。出会えないのが残念だ(笑)!
「徳川家康の命を受けて」
直江兼続は上杉家の家老で陪臣、五大老から直接命令される立場ではないのでこの表現は無理があります。
ちなみに徳川家康と上杉景勝は五大老で同格、家来でもありません。
そもそも命令できるかどうかも怪しいです。唯一秀頼の名代でしか名目がありません。
「上杉家との交渉」
直江兼続は上杉景勝の家臣なので交渉というのもおかしいし、主君景勝の代わりに徳川家康と交渉しているのが正しいです。
「堀田直政」
誰ですかそれ?
堀直政の間違いでしょう。
なお「直江状」は後世の創作で偽書というのが定説です。
*「(9月)15日、(家康が)濃州赤坂に至り着馬したところ、夜半に敵が関ヶ原へ大垣より回り、先陣において合戦を企てた。この日は雨が降り霧が深く、行く先ははっきりわからなかった。伊勢筋へ回っていた西国衆2万5000はこうづ(海津市南濃町上野河戸)、駒野(海津市南濃町駒野)に居陣した。関ヶ原に石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継、島津義弘、小西行長が今まさに陣を敷こうとしたところへ、小早川秀秋が家康の味方に属したので、敵は敗北し、数百を討ち取った。この時、脇坂安治、小川祐滋らは俄かに家康に属した」(『当代記』)
*「(9月15日の家康の出陣の後)、関ヶ原表にてことごとく追い討ち(追撃)を命じた」(慶長5年9月19日付大関資増宛浅野長政書状)。
*「去る14日、(家康は)赤坂に着き、15日巳の刻、(家康は)関ヶ原へ出陣して一戦に及んだ。石田三成、島津義弘、宇喜多秀家、小西行長の4名は14日夜5ツ時分に大垣(城)の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一緒に押し寄せた。この地の衆(尾張衆)、井伊直政、福島正則が先手となり、その他(の諸将が)全て次々と続き、敵が切所(要害のこと)を守っているところへ出陣して、戦いを交えた時、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠、祐滋父子の4人が家康に御味方して、裏切りをした。このため、敵は敗軍になり、追い討ちにより際限なく(西軍の兵を)討ち取った。(西軍の武将で討ち取った)大将分は大谷吉継、島津忠恒、島左近、島津豊久、戸田勝成、平塚為広、この他を討ち取った」(慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状)
*「彼(家康のこと)は敵(三成のこと)と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様(家康)の軍勢のほうに移っていった。彼らの中には、太閤様(秀吉)の奥方の甥であり、太閤様から筑前の国をもらっていた中納言(小早川秀秋)がいた。奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切り行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利を収めた」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。
*「美濃堺の柏原において、家康の先勢である福田正則・細川忠興・加藤嘉明が合戦を行なったとのことで、大「」の軍勢が敗北し、大谷吉継は討ち死にした。これは小早川秀秋の反逆によるもので、巳の刻であった」(『舜旧記』慶長5年9月15日条)
これらより、関ヶ原はほとんど瞬間的に決着がついたと思われます
狭いから思ったように布陣できず、展開もできず。行ったら分かる。
三成が大垣城出た理由は、大垣城が手狭だからとあるが、島津側の資料には食料が不足していたと。小早川秀秋は毛利秀元等と別れたあとの行動ははっきりしないが、一時佐和山付近にいたようで、西から急に現れて松尾山寺を占領。ここには西国殿が入る予定である戦略上大切な場所。
三成は兵站確保のため、14日まで一緒にいた大谷隊を先行させたが、小早川らの攻撃を受け壊滅、退路を遮断され、反転して戦ったと思える。だから、東軍が圧倒した。吉川の輝元へ書状に始めから勝負にならんとある。実際は、三成の戦略ミスなんだろうね
関ケ原の本戦場で、ほんとに総大将は三成だったのだろうか?
総大将は五大老の宇喜多秀家の可能性もあるね
大谷隊が壊滅した後に隣の宇喜多勢が小早川と他東軍に崩された時点で西軍の壊走が始まったらしいから
三成の総大将説には昔から懐疑的です。
秀忠が関ヶ原勝利を聞いたのは甲斐だったというのは?
今日再放送の大河見ましたが、島津勢の中央突破チラっと描かれていて、実際はもっとすごかったんですね💡
葵徳川三代をご覧ください、しっかり描かれていますよ😊
島津の行動は謎ですが、敵中突破自体は確実な様です。
何故最後まで無傷で突破する事になったのか、まだ謎は残りますね。
島津の撤退は豊久側に追撃軍を引き付けることができたから。あと、死を恐れなかった島津兵の義弘への忠誠が生み出したもの。
松平ただきちはないだろう😅
それにさらっと言ってるが、秀忠軍は上田を通ってないじゃん。それはどうなの。
ただきちって誰でしょうか?ただよしなら知ってますが。
次から次へと、新説が出てるのね。まぁ、負けた側が多いとは思うけれど、上杉君、伊達君や最上君と、争ってたらしいんだけど、
長谷堂(山形市の西の端)の戦いっすな。
うろ覚えだけど、毛利勢がそこの山から動かないから三成たちも大垣城を出て退いたって何かで見た。
そして三成達の布陣を見ると毛利勢には期待してないというか、警戒してる様にも見えるな。
14:47 ~/22:53 ~ ホンマに・・・見る価値のある部分。時間のない人向け。‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼
秀忠の遅延は、狙い通りだったのではないか?
関ヶ原で豊富恩顧の大名同士を争わせ、徳川譜代の部隊は丸々温存して勝利を収める。
元々小早川秀秋や島津義弘は東軍に属するつもりであった事は家康の耳にも入っていたであろうから、徳川主力がいなくても勝てると見込んでいたのだろう。
榊原康政や本多正信がいながら、あの体たらくは信じられないし、その2人が何も処罰されなかった事もそれを裏付けると思う。
同じタイミングでなくとも、38000もの軍勢で、赤坂の東軍主力は安定していましたから、秀忠は後から来れば十分とも言えたでしょうね。
待たずに進軍を急いだ作戦上の理由があるとすれば、大津城をせめていた立花宗茂、毛利元康らの15000の来援を警戒しており、早く近江方面に突破するために見限ったのかも知れませんが、これもそれ程すっきりはしませんね。
石田三成は所詮は戦下手で、わずか2時間あまりで決着がついたのもうなずける。
最初から家康ペースの合戦だったのが関ヶ原の合戦ということである。
まつだいらただよし、あさのよしなが と読みます
毛利軍は吉川軍と合わせて訳2万5千と言われ、動いてもそうそうやられたとは思われません。
宇喜多秀家軍が天満山に布陣していた事は通説と変わらないという事ですね。
長塚❌
長束正家🙆
読み間違い杉www
関ヶ原アクセスクソ良くて草
問鉄砲は火縄銃の射程で可能なものなのか疑問です。火縄銃は有効射程50メートル程度(10年以上訓練を詰んだものが10発中10発当てられるくらいの距離)と言われています。200メートル以上飛ばすことも可能ですが、威力精度共にまともな性能ではありません。200メートル以上離れて問鉄砲されても自陣側に発砲されたものなのか判断するのは難しいように感じます。問鉄砲は互いに十分目視できる距離で撃たれなければ厳しいはずです。しかし小早川は山中に陣を構えており、ますます相手からの発砲が自身に向けられているものであると判断するのは至難の業です。陣の位置も明らかに異質な配置で、曖昧な態度ばかりであることから既に裏切りは想定していたと考えても不思議ではありません。
強いて言えば石田が大阪城方面へ退却できるような位置取りをしなかったのは本当に謎ですね。小早川の裏切りの可能性にうっすら気づいて陣を遠目の山中に配置したのであれば、味方が挟み撃ちにならないような退路を取って然るべきところを北に逃げたのが謎です。もしかすると小早川は山中を西へ向かい側面から西軍本陣を北へ誘導するように回り込んだのではないかと勘ぐってしまいます。
西軍は運悪く。みんな捕まっちまったよな。。。
お陰で領地は引き渡しになっちゃった。もっと時間稼がないと。
西軍は最初から取り囲まれた状態だったってことですかね
小早川より総大将のくせに本戦に来なかった毛利輝元の方がやばい結局その後どっちにも味方してたのがバレて大幅減封くらってるし何がしたかったんや
関ヶ原の合戦こそ、秀吉対家康の小牧の戦いの最終決戦でもあった。遂に秀吉は家康に戦い敗れたのである。家康の日本国統一、平和国家!以後家康の国家は260年、日本国に平和をもたらした。
ただきちが気になる。
秀吉はスル賢いチピ夫、
小早川へモラハラした事が全て
何べん聞いても前進撤退のくだりは、そうはならんやろとしか思えない…
基本山中説に基づいた布陣なのに、そこだけは旧来説に基づいた布陣になっているので、違和感が半端ない😂
問鉄砲はともかく多数の記述があるようであり、事実でないにしては出典が豊富すぎ、それ自体はあった可能性があります。
つまり小早川秀秋は完全に東軍とは言い難かったとも思えますし、初めから参戦していた事も疑わしいと思います。
これはAIでナレーションしてますか?
松平忠吉(まつだいら ただよし)
福島正則て、新東名高速道路 通ったのだろうか……
小早川の西軍攻めと毛利、吉川の不戦はどう頑張っても西軍敗戦は確定して
いた、
毛利輝元が出陣せずに石田三成を噛ませ犬にしたのは輝元の愚将の証明。
25:08 なるほど・・・歴史は・・・勝者によって・・・つくられる・・・か。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
家康を知らないのか?秀吉なんて宗教団体いたから市民だぞ?武士もやめて、周りは井伊しかいない。俺は日本では坂上田村麻呂だがな?
年貢米の件はさておくとしても、国替えされた挙句秀吉の葬式やらなにやらで景勝は領地を治めるどころじゃなかったのは確かだからなあ。正直同情してる。
なんか。物足りない。。。
これが関ヶ原?
なつかまさいえと読んで
事前の情報戦で負けた時点で、まともに戦争する事もできないのか
松平ただきちって。
黒田長政何人いるねん
土地福原で邸くれよかよ。追い回すなよ。つらいだろ?家とか努力家しか手に入らない。札が高くて支払いが怖い!
鼻詰まり声が気になるわ
居城の読み方がおかしい
天下分け目の戦いと言われるのに、21歳の若造、小早川秀秋の1万3000人が、勝敗を決するとは、情けない😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮
ん〜何の小説由来の情報だろ。
色々全然違うよ。
間違いが多すぎ
全く関係あるかわからないですが
19歳ぐらいの時に関ヶ原合戦跡地みたいな所心霊スポットのノリで行ったら友達がガチで乗り移られてマジでノリで行く所ではないと思いました
石田三成じゃムリ。
立花宗茂が間に合っていたら福島正則隊は撃破できた‼️
立花隊は1万5000
関ケ原に到着したなら
石田三成に小早川秀明の暗殺を献策し、
見事にやってのけ
小早川隊はまったく動けなくなり立花隊は福島隊におそいかかり
それをみた宇喜多隊も福島隊に挟撃、たちまち徳川本陣まで後退。
それをみた黒田、細川も家康陣まで後退。石田は奮い立ち、大谷、戸田、赤座、小川、脇坂らは丸山に上り、黒田、細川に鉄砲と突進隊を編成、五分五分まで戦線を戻した。
そして毛利秀元は
吉川を振り切り迂回して山を下った。
徳川を側面から攻撃。
家康は首を取られた。
間違いない、
西軍逆転大勝利である
隣は平の清盛じゃないですか!403かよ!オウムかよ!脱走した猿に似てるぞ!俺なんか、人間なのに代理だし。俺は女の妲己だったが、難しい。
関ヶ原闘いなんて無かったよ🪖全部メイクストーリー💄