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@@daisuke5755 辛辣だが同意俺も一瞬混乱したアナウンス動画とかあったほうがええ
@@musashino_103hip4わ
私はこの地域の生まれ育ちですが、とても納得のいく腹に落ちる見解です。私の実家のお墓は長福寺にあります。また、伝説地のほうには小学校の遠足で行きました。Cルートが最も自然なルートだと思います。また、あのあたりの地形をみても伝説地を核とした合戦説には無理があると思います。価値のある動画だと思います。
生涯、豪雨、豪雪の中の奇襲戦を3度仕掛けて全て成功している信長公が凄すぎる。
あの辺りは隘路になっていて横に20人も並べばふさがってしまうほど狭い。 国道1号が片道1車線しかないような所。そんな場所で自城の救援の為とは言え本陣を手薄にして部下を向かわせた事、それを織田に察知されたのが運の尽きあそこでは兵力の差が10倍あったとしても先制攻撃側が有利すぎる地形。 現地を見ればわかるので是非歩いてみてください。
今川軍にとっては大高・鳴海城の後詰戦にすぎないのだから、信長以外の武将であれば、各砦を放棄して撤退していたことだろう。しかし信長は敵兵力を前線に引き付け義元の首を狙ったところが凄い。地図での説明わかりやすかったです。
今まで見た諸説の中で一番リアリティあるわ。
桶狭間のあたりは仕事で出向いている機械装置の工場があるので地形や道筋なども理解している、それとクリップの解説を照らし合わせてなるほどなぁと納得しながら見ていました。現地の地形などと合わせて考えると他説よりも説得力があると思いますね。
太田牛一の信長公記では雨が降り始めたのは今川との交戦開始後と明記されていること、兵数の差はあったが今川方は広範囲に展開していたため信長の強襲に耐えられなかったとされるなど、桶狭間奇襲説は後世の創作(主に甫庵信長記)と考えられてます。
私の先祖は信長の側近で、桶狭間の戦いでは本隊にはいませんでしたが砦(丹下か中嶋か善照寺だと思われる)を守っていたと伝わっています。今もその戦功で信長公からいただいた土地(父がアパートを立てて管理しています)を所持しており、信長公と桶狭間の戦いには特別な思い入れがあります。詳しく解説してくれてありがとう。
先祖代々の土地を維持するだけでも大変だと思います
こないだ大河ドラマでサルがものすごくザックリと説明していた戦術・戦局がこんなにも濃いのだったとは。次の動画も期待してます。
真偽についてはともかく、こういう考察系で説得力あるの初めて見た。見せ方もうまいし面白い
めっちゃたまたま見つけました!動画再開してくれるとは思ってなくて嬉しい限りです。 ゆっくりじゃないバージョンも良いですね〜。次作も楽しみにしております!
沓掛城から南1.6kmの所に実家がある豊明市民です。なので桶狭間の合戦は今川軍目線でいつも見てます。沓掛城をスタートして、戦人塚、豊明市側の伝説地、緑区側の古戦場公園、丸根・鷲津砦、大高城、先日の大河2回目の翌日に久々回ってきました。石碑等の古さでいえば何といっても伝説地の方。昭和50年代まではこちら側が定説だったと思われ。で古戦場公園は銅像とか設置されて視覚的に訴えかけてるけど、昭和60年代あたりから整備されていて全てにおいてピカピカなんだよね。ただ伝説地にある最古の碑も合戦後250年も経ってから立てられた物。東海道からわずか100m、江戸時代は古戦場テーマパークだったかもしれないし?今川軍進軍ルートは、豊明ボランティアは郷土史家太田先生の鎌倉街道&間米ルートを、緑区は東浦街道&大高道ルートを主張。太田先生説は豊明非公認なんで、もしかすると豊明市教育委員会公式説もある?で太田先生説では、佐々軍の決死の先陣が古戦場公園辺りで今川軍の軍列の先頭と戦い、今川軍は数珠繋ぎの渋滞、進軍できない今川軍は仕方なく進軍停止(休憩)。で伝説地で休息してた義元を信長が襲って討ち取った。とのことです。また緑区説では、大高道から義元本隊のみ外れて古戦場公園で休息してたら信長に襲われて討ち取られた、となっています。どちらもあり得そうなんですよねー。またどんどん研究も進んでいくんでしょうね。ちな以前、伝説地の行った時に豊明ボランティアにいろいろ専門用語含めて質問してたら「ボランティアに入らない?」て逆スカウトされたこと、あります(笑)。
信長はかなりの策士だったんですね。軍議で雑談をして戦略を隠す。素晴らしい。
この有松ルートなら松井宗信の陣地からは織田信長の軍は見えない可能性が高い。鳴海城側を見下ろせる様に高台に陣地を張った場合に織田信長の進軍ルートが近いけどちょっとした丘を挟んでいて隠れてしまっている気がする。もちろん豪雨で見えないのも込みで。でもサラッと描かれてる今川義元の自領での進軍スピードが結構エグくて浜松城→岡崎城とか多分日の出出発で深夜到着になりそう。復活おめでとうございます。チャンネル登録してあるのにおすすめに上がらなかったのはブランクが長かったからかなあ。
地図があると戦況が分かりやすくて助かる!
自分も助かりました!
地図をがんばって作った甲斐がありました
非常に内容の濃い考察ありがとうございます!しかもわかりやすい!私も、同じ意見です。私は、信長はぎりぎりまで戦場に駆け付けないことで、大将がどこにいるかわからなくし、一つの砦に敵の兵力を集中させないこと(各砦へ攻撃をさせ戦力を分散)、鷲津と丸根への総攻撃が終わったころ(大高の敵戦力の休憩中)を狙ったタイミングでの移動・攻撃、加えて大高と鳴海の間に山があり戦力が大きく分断されること。(山が多い地域で大軍では行動しにくい立地)を把握したうえで戦ったように感じています。このスピード感であれば、誰かが今川に内通していても情報が届かなかったかと思いますね。ぜひ、他にも、関ヶ原の合戦の実態、厳島の戦い(毛利VS陶)など、大きな戦をピックアップして動画を作成いただければと思います!楽しみにしています!
こういう動画大好きだわ
小牧長久手の羽柴秀次のようなもので休憩中に奇襲されると簡単に崩壊する。
こんなにも血が熱くなる合戦は他にない
他にもいっぱい有るやろwww
時代を変えたという点では最も大きな影響を与えた戦い。義元が勝者となれば、まさに天下に最も近い男になっただろう。秀吉が世に出ることもなく、家康が天下を取ることもない。現在、3英傑と言われている人物は歴史において特に語られることもないだろう。そのあとの歴史はどうなったかな?
海道一の弓取りとまで言われて天下人候補でもあった今川を倒した信長はやっぱり凄いんだろうなぁ…
海道一の弓取りと言われるくらい腕にも自信があったから、信長は義元自らが前線まで出て来ると確信してできたんだろうなだから、本陣をどの辺りに敷くか先に分析してそのあたりに密偵を忍ばせてたのかもな
また面白そうな歴史解説チャンネルがひとつ…!
既存の通説が悪天候での奇襲ばかり着目しているところ、前線の攻城戦に今川の戦力を引き出して本陣を手薄にする過程が詳しく解説されていて、良解説だ。
義元をひきずりだした信長の戦略勝ちかなぁと
地図の海岸線がしっかり作り込んであるのに感服しました。
海岸線や国境に街道、河川跡は絵じゃなくて3Dマッピングだったりするので拡大も回転も可能なのです
義元にすれば分散・並列処理して高速に戦に勝つつもりだったし上手く行けばスマートな戦略として称えられたかも。バランスよく布陣させることで諜報網としても使えてたし、天候という運がなかったらどうなってたか・・・
あの時あのタイミングでしか成功はないと思うのでやはり天に選ばれたとしか
勝った側も不確かな伝承しか残してないとこからして、相当無茶な作戦だったのは間違いないんでしょうね
中島砦から4kmも満たない距離に今川本陣があった。本陣の場所がわかって、これくらいの距離なら当時は目の前という感覚だと思う。本陣設営準備の情報が前日までに耳に入っていたなら、信長は前日の会議をはぐらかしたこともわかる。当日は、少なくとも今川本体の一部が離れて警戒していることも斥候の情報で把握していたかもしれないし、天候もゴロゴロと言っていれば、豪雨になることもわかっていた。そうやって、勝手にいろいろと考えてしまうくらい没頭できる素晴らしい内容です。ありがとうございました。
清洲城での軍議が雑談で終わったのはもう軍事情報の秘匿ですね、小説の簗田さんの今川本陣通報が妙に説得力あるのも人物は別として事実に近いからなのかなぁと思っておりまする
数ある桶狭間解説の動画の中で、最も信頼できるまとまった動画であり、かつ娯楽性もあって珍重、珍重と思います。
たまたま見たけどめっちゃ面白い!!次回も期待してます
復活ありがとうございます。
信長本人が後に「(桶狭間で今川に)勝てたのはまぐれ」とはっきり言っているぐらいの奇跡。
おお!新チャンネルなんですね!アイコン変わったな~と思いきや!さっそく登録いたしました!!
義元側目線で見たらかなり完璧に近い配置に見えるけど これはやっぱり信長の捨て身の戦術が凄いとしか言いようがない。
とても興味を引く動画で秀作です。
私は、歴史が好きで桶狭間の戦いが、きになったのでよかったです。
信長は情報収集力と情報処理力が凄かったんだなぁ
豊明市に長年住んでいました。桶狭間も隣町でした。地名もほとんど分かります。わかりやすい解説で面白いですね😊
なるほど。武路に住んでいたことがあるので地形的には納得しやすい展開でした。
義元がそこにいなかったらどうすんだろと思いながら興味深く拝見させて貰いました確証があったからこその策だとは思うのですが、その確証を裏付けるものが欲しいですね
桶狭間は入り組んだ地形で、大軍が近付いてはいけない場所。孫氏の兵法を知る武田信玄なら絶対着陣しなかったはず。信長が近付いてくるのが見えても思うように軍を動かせなかったはずである。
桶狭間から本能寺までハッキリとした詳細が残ってないミステリアスな信長が本当に好き♥
地図のおかげでわかりやすかったです地図上にスケールがあれば、それぞれの間の距離感と移動に掛かるであろう時間を想定できたでしょうから、より理解度が増したと思います流石に細かい時間まではわからないんでしょうかね、それがあれば更にでしょうね
とても分かりやすい説明ですね。この説を基に現地へ旅したいと思います!👍
先日NHKで桶狭間が取り上げられた際に大高城代となってた鵜殿氏について語られていましたまた伊勢湾を挟んだ海西郡の服部党が今川方として参加していたり蟹江城を巡って争っていたりしています義元は尾張の海岸部(特に熱田津島)を抑えようとしてたのかもしれませんね
考察お見事でした。地図を見ながらの説明でとても分かり易く良いものを見れました。
細かいのに分かりやすかったです。次の動画が楽しみです!
再生速度を0.75倍にすると、とても聞きやすくなりました。
戦場に砦を広く並べて、敵をバラバラにしたわけですね今川側は正面を広く攻めていたつもりが地形の妙で右翼がガラガラになっていたすこし時間がたてば、この状況は無くなってしまいますね。なるほど、コレは偶然の勝利ではない、もし義元がこのルートを取るように仕向けていたのなら、やはり戦争の天才ですね。
地形図を基本にして、細かな軍の動きから客観的に歴史を見る感覚は大好きです。最近信長の義元陣営が真正面から攻めている説がでてきて嬉しい限り。ただ泥田にある道をまっすぐ攻めていくことで、数のマイナスをなくすことはわかるけど、どのように義元陣営を攻めたか?詳しく知りたいです。
現地あたりに住むものですが不思議なのが鳴海城の岡部元信の挙動 善照寺砦も中島砦も鳴海城から500mほどの距離 特に中島砦など鳴海城から俯瞰できる位置関係であるのに真っ昼間信長勢の集散をただ見過ごしてたんですかねえ
包囲下にあったので見てはいたが今川本軍に知らせるすべがなかったとか…?
@十束丹居候太 これまじであり得そうですね
一番の謎はこの作戦は討ち取った後の撤退の方がが難しいからふつうはやらない、返り討ちに合うだけ。なのにあっさり撤退している、歴史上ではこの後に織田と松平(徳川)と同盟しているのだが事前に密約で同盟してたのではないかと疑っている、それなら今川軍の配置が分かり退路の確保はできたので十分に勝算はある。
おひさしゅーございます また動画が見れて嬉しいです
正面突破説とか偶然の遭遇戦説とかあるがどちらも今川軍を軽視している。この新説を支持します。信長は義元のいる場所を特定したのちなるべく軍勢を隠しながら本陣に突撃した。
私も同じ理由で正面突破は懐疑的ですねぇ腐っても今川家なんで簡単に正面突破はされないかなと
地形上、中島砦は鳴海城から丸見え。鳴海城と同じ台地上にあるのが善照寺砦で、鳴海城の唯一の死角が砦の善照寺砦裏。善照寺砦裏手には一段下がった広場のような場所があり軍勢を集結できそうな空間あり。鳴海城からすると善照寺砦が邪魔をして善照寺砦裏手が死角となり、ついでに沓掛城に向かう一本道(現、県道36号)も死角でになっており道が見えない。善照寺砦裏下広場から沓掛城に向かう一本道(現、県道36号)も繋がっているのでそのまま兵を出せます。おそらく鳴海城から見える正面に砦の入口を構え目立つように塀や建物を建造、そして砦の裏手にも出口をもうけてそこから坂を下り広場のような場所に軍勢を集結できるような工夫がなされていた可能性が高い。鳴海城からは入口に入った所は見えるけど裏に下の広場へ通じる出口があったなら集結してるのは見えない。入口から軍勢が入ったのを確認し出てこないので鳴海城側からすれば安心してしまう。この見えない死角を利用し信長は出陣したのでしょうね。鳴海城からの死角で出陣したのがわからなかった。国土地理院地形図(赤色立体地図)から察するに。
地図に布陣、進撃ルート(推定)を示してくれての解説すごく助かります! 義元の本陣強襲説支持派ですが、義元の前衛部隊は避けられるに越したことはないので渡河して前衛を避けながらの強襲(奇襲)ルート説に納得です。
今さらですがこの戦いは、日本史における合戦の中でもひときわインパクトが強く、鮮烈でドラマチックで胸が熱くなるものに思えます。それは、まず展開として圧倒的な兵力や勢力の差を電撃戦とも言える奇襲で覆した大逆転劇だったという点があり、またその後の戦国時代の構図、ひいては日本史自体の流れに大きな影響を与えた転換点とも言えるものだからなのかと思います。信長はこの勝利により勢いを得て天下人への道を進むことになり、若き徳川家康は今川方の従属から外れ、信長の同盟相手としてその勢力に入っていくことになり、その後存在感を増して歴史の表舞台に立っていくことになります。
復活おめでとうございます!考証がロジカルなので見ていて納得出来ます。尾張の海部分、400年ですげー埋め立てられててびっくり!🙀
三河もヤヴァイですw
現代では桶狭間周辺の山々は均されて平地になっているのが良くわかる。地理が好きな自分にはありがたい
今川義元が布陣した場所は中島砦、鳴海城への道と大高城へ回るT字路、信長坂をあがる方面が大高城への道。T字路に沿ってVの字に布陣したのでしょうね。中島砦、鳴海城方面の中山道から敵が来ると想定した布陣で、また状況によって大高城へも鳴海城にも行けるように。桶狭間古戦場の伝承地が二つあるのは、Vの字に布陣した為だと思われます。長福寺の大池方面(大高城への道)に義元がいたなら逃げれたかも、高徳院にいたら逃げ道なし。地形上。どうにしろ義元がT字路付近に布陣するようあらかじめ信長が仕掛けた可能性が高い。長福寺の大池ってのも丁度いい場所に道を塞ぐようにあるので逃げたら渋滞する。池も信長作か?
子供の頃瑞穂区や笠寺や鳴海に住んでて砦って善照寺砦がまだ残っててそこで遊んでて信長は幼稚園の頃からこどもの英雄扱い(笑)大高も大高公園あったので年中遊びに行ってたし遠足で東の方もよく行ってたので地形は把握してました大人になって信長公記とか読んでなるほどーと思いつつも昔はここまで海岸だったんだよなーと
攻めてるはずが攻められている戦これは歴史上稀に見る名戦だよね厳島の戦いもあるけどあっちは海上の有利を取らなかったから負けただけだから桶狭間の戦いとは状況の有利が違う
それなら戦国三大奇襲の残りの一つ、河越夜戦は如何かな?相手が格落ちするとか言うのは禁句だよ!
テンポが良かったです。
この戦いを知れば知るほど今川義元はそこまでの失策を犯していないことがよくわかるし、むしろ打てる手はしっかり打った上で盤石な進軍をしているのだから、本当に運がなかったのだと思うもちろん、その運を引き寄せる布石を入念に打った信長が素晴らしいのは大前提として
戦闘目的の違いも大きいね。今川義元からすれば前線の砦を救い、自国領を広げるための、ある意味「いつもの」戦い。しかし織田信長は今川義元の首級を取る事が最大の目的である「己を賭けた」戦い。今川義元はまさか織田信長が首級を取りに来るとは考えていなかったのかな。
当時を思い出すと概ね合ってます。
桶狭間は色々な説がありますが納得できる考察です!次回の動画も楽しみにしています!
織田秀敏が生き残っていたというのは初めて聞きました。なんだか嬉しいです。
敵の大将や君主を野戦で討ち取るか囚えれば勝ちだけど世界史でも滅多に起きない劣勢側の大逆転をやっちゃう信長が凄いというか宮島合戦なども含めて何度か起きてる戦国時代がヤバすぎい
世界的に見てもかなりの戦闘民族だと思います。鎌倉武士とか世界最強クラスのマルチファイターですし
会社近くに 沓掛城趾 があります。春になると桜🌸が咲き良いところです。
聖應寺の裏山が当時の沓掛城(沓掛古城)じゃないかと云われてますので、近くならそっちにもオススメかも
歴史解説はもちろんですが、当時の海岸線がとても面白いです 水野家は水運の家だったのかな? 今の刈谷城は内陸にあるので意外でした
すばらしいです。感動🥹
桶狭間地元民ですが桶狭間山の地はいまだ確定してないので一説として面白いと思います。神明様の北は緩やかな窪地になっていて今の桶狭間小学校とカーマ辺りで乱戦でしょうかねぇ
これは妥当な見解ですね。説得力があります。
大変に説得力のある内容で面白かったです😊織田信長の桶狭間は、どこまでが偶然でどこまでが必然だったのか?最後に今川本体がばらけて手薄になったのは流石に読みきれないはずで、ラッキーだったのかなぁとは思いました😂
地図があるととても分かりやすいです
地図は頑張って作ってるので褒められると嬉しいです
納得できる内容だった
常識から言って五騎で出発して、同日に数千が集まるはずなく、事前に陣ぶれしてるはず。今川の兵力を分散させながら、想定された場所に本陣をはらせた作戦勝ちと言うところか。この辺りは小さい丘があり、谷の間をぬって接近したと言うのは同感です。元々、今川の国力と尾張統一をほぼ果たした信長の国力はそんなに差はなく、地の利を生かした信長が負ける要素はなかったと考えます。総大将が戦場で討ち死にするところまで、想定しておらず、これは棚ぼただったのでしょうが、運が味方した信長に歴史は一気に傾いたのでしょう。
面白かった
今宵はこれまでにいたしとうございます。ってかなり前の大河ドラマの毎回の最後を締める言葉でしたね。(タイトル忘れちゃった)
大河「武田信玄」の信玄母役の若尾文子の名セリフ良い大河には記憶に残る良いセリフがある・・・
今川義元が本陣の守備をもっと固めていたなら、織田信長の特攻にも対応できたと思われる。この時、信長の兵は精鋭とは言っても大きく見積もって3500。対する今川は5000程。奇襲でなく正面突破でも織田側が勝つ機会は有りました。ともかく、子細に調べてて好感が持てましたので、Ch登録致します。
正面突破説が厳しいなぁと思って自分は新・迂回襲撃説をとっておりますが、そのうち詳細なリメイクを作りたいとも思ってます
分かりやすくて面白かったです。
内容は良かったが自動音声が聞きづらく、是非改善してくれ。
応援しています🎉
尾張・美濃のマイナーな戦いを解説する動画がなくて復活してほしいチャンネルだったので\(^_^)/今後も楽しみにしてます。
案の定2作目がクソマイナーな戦いてんこ盛りw
復活おめでとうございます。今後も楽しみです。
15:10 もしかして豊明側の伝承地って、敗残兵狩りの場だったのでは……?
色が変わりましたね新チャンネルも応援します
今川家という名門の大家と尾張の自由奔放な若大将との戦いですから、その双方の特徴が明暗を分けましたね。大軍に勝つにはどうするのか?の答えがあります。地の利と行動力だけでなく運も味方をしました。積極性があったからでしょう。この戦いの結果はその後の織田家の行く末に良い影響を及ぼし続けましたね。
桶狭間の戦いを詳しく知らない人でも、地形図を使った解説で分かりやすい動画だと思う。信長が義元に奇襲で勝利できたのは強運だけでなく、戦場となった尾張南部の地形を熟知していたことも大きいでしょうね。裏道や小道を使って、桶狭間まで上手く移動できたのは大きかった。
当時の地形をさらに重ねると面白い
敗因は太原雪斎がなくったからだな多分
雪斎が生きていれば尾張に対してもう少し早く大きな手を打ててた可能性が高いですからね少なくとも義元が討死する様な状況にはなってなかったでしょう
けっして義元が無能な訳では無いが雪斎がいないのはかなり痛手だよね
雪斎が生きていたら、義元のように油断して桶狭間山で ランチ会なんてすることなかったと思う。信長が清州城から出る前に、そのまま本陣を大高城に速やかに移動させていたと思う。実際に小豆坂の戦いで、雪斎VS織田信秀(信長の父)の戦いで、信秀を出し抜いて大勝しているし。
その通り皆んな良く知ってますね
それもあるが情報戦で負けていたのだ、天気や地形、敵の状況等々
詳しくはないのですが結構妥当そうで面白かったです。信長って基本的に味方も信用しませんよね
一瞬の油断と天候で歴史は変わる。信長も最後は本能寺だからなあ。
信長は神がってる。敵の部隊を分散させて、本陣を手薄にして天候を味方につけ、短時間の内に義元の首を取り、その情報を戦地に広めて今川軍を追い払う素早さ。どっちつかずの水野の動きを使って今川軍に退路を断たせることも出来たはず
参考になったので来月自分のチャンネルで桶狭間行って動画にします
尾張は経済的に発展しており、石高も今川との差が少なかったと言われていますね。後世で言うほど、数千人VS数万人の戦いではなかったのかも知れませんね。
大変に分かりやすい解説でした。信長公記では前衛部隊との戦闘は記されておらず直接今川義元本陣を襲撃しているのですが、このような迂回であれば納得もいきますし、窮地において半ばパニックに陥り仲間を頼ろうと集まる本能により山を降り、谷津で雨による泥濘にはまってしまう流れも自然です。織田信長が今川義元本陣を特定できたのは、周囲の友軍から見えるよう馬印などを高々と掲げていたという点も大きいでしょうね。逆に織田勢は旗指物は全て捨ててステルス性を高めて接近したでしょう。
正面攻撃説は無いかなぁと思ってこの説を採用しました名古屋市側の地元では信長坂からの攻撃を推してるんですよね
今川家好きだったから、織田家に勝って勢力拡大するところ見たかったな😭…
復活おめでとうございます。いつも楽しく見ていますので、楽しみにしています。
10:54 ここがこの動画のポイントだ。
分散するように引き込んで砦も分散して配置して織田軍でも対応できる数に今川の大軍を分散させるように地形を利用していたんですね
なぜあれだけの戦力の今川軍が崩れたか、なぜ今川義元が討たれたのか非常にわかりやすかった。今川義元無能油断説や今川軍正面突破説など、なんか腑に落ちないものが散見するので、それらが腑に落ちて良かった。唯一の今川の敗因は太原雪斎を亡くしていたことだろうな。あと、後詰なら、あんな砦近くまで行く必要もなかったら気もする。元に家康は後詰成功してるし。
今川家も見当違いだったかもしれませんがやれることはやって負けたと思ってます、おっしゃる通り最近主流だった正面突破説は今川家の戦力を低く見過ぎかなーと思って採用しませんでした
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義元をひきずりだした信長の戦略勝ちかなぁと
地図の海岸線がしっかり作り込んであるのに感服しました。
海岸線や国境に街道、河川跡は絵じゃなくて3Dマッピングだったりするので拡大も回転も可能なのです
義元にすれば分散・並列処理して高速に戦に勝つつもりだったし上手く行けばスマートな戦略として称えられたかも。
バランスよく布陣させることで諜報網としても使えてたし、天候という運がなかったらどうなってたか・・・
あの時あのタイミングでしか成功はないと思うのでやはり天に選ばれたとしか
勝った側も不確かな伝承しか残してないとこからして、相当無茶な作戦だったのは間違いないんでしょうね
中島砦から4kmも満たない距離に今川本陣があった。本陣の場所がわかって、これくらいの距離なら当時は目の前という感覚だと思う。本陣設営準備の情報が前日までに耳に入っていたなら、信長は前日の会議をはぐらかしたこともわかる。当日は、少なくとも今川本体の一部が離れて警戒していることも斥候の情報で把握していたかもしれないし、天候もゴロゴロと言っていれば、豪雨になることもわかっていた。そうやって、勝手にいろいろと考えてしまうくらい没頭できる素晴らしい内容です。ありがとうございました。
清洲城での軍議が雑談で終わったのはもう軍事情報の秘匿ですね、小説の簗田さんの今川本陣通報が妙に説得力あるのも人物は別として事実に近いからなのかなぁと思っておりまする
数ある桶狭間解説の動画の中で、最も信頼できるまとまった動画であり、かつ娯楽性もあって珍重、珍重と思います。
たまたま見たけどめっちゃ面白い!!次回も期待してます
復活ありがとうございます。
信長本人が後に「(桶狭間で今川に)勝てたのはまぐれ」とはっきり言っているぐらいの奇跡。
おお!新チャンネルなんですね!アイコン変わったな~と思いきや!
さっそく登録いたしました!!
義元側目線で見たらかなり完璧に近い配置に見えるけど これはやっぱり信長の捨て身の戦術が凄いとしか言いようがない。
とても興味を引く動画で秀作です。
私は、歴史が好きで桶狭間の戦いが、きになったのでよかったです。
信長は情報収集力と情報処理力が凄かったんだなぁ
豊明市に長年住んでいました。桶狭間も隣町でした。地名もほとんど分かります。
わかりやすい解説で面白いですね😊
なるほど。武路に住んでいたことがあるので地形的には納得しやすい展開でした。
義元がそこにいなかったらどうすんだろ
と思いながら興味深く拝見させて貰いました
確証があったからこその策だとは思うのですが、その確証を裏付けるものが欲しいですね
桶狭間は入り組んだ地形で、大軍が近付いてはいけない場所。孫氏の兵法を知る武田信玄なら絶対着陣しなかったはず。
信長が近付いてくるのが見えても思うように軍を動かせなかったはずである。
桶狭間から本能寺までハッキリとした詳細が残ってないミステリアスな信長が本当に好き♥
地図のおかげでわかりやすかったです
地図上にスケールがあれば、それぞれの間の距離感と移動に掛かるであろう時間を想定できたでしょうから、より理解度が増したと思います
流石に細かい時間まではわからないんでしょうかね、それがあれば更にでしょうね
とても分かりやすい説明ですね。この説を基に現地へ旅したいと思います!👍
先日NHKで桶狭間が取り上げられた際に大高城代となってた鵜殿氏について語られていました
また伊勢湾を挟んだ海西郡の服部党が今川方として参加していたり蟹江城を巡って争っていたりしています
義元は尾張の海岸部(特に熱田津島)を抑えようとしてたのかもしれませんね
考察お見事でした。地図を見ながらの説明でとても分かり易く良いものを見れました。
細かいのに分かりやすかったです。次の動画が楽しみです!
再生速度を0.75倍にすると、とても聞きやすくなりました。
戦場に砦を広く並べて、敵をバラバラにしたわけですね
今川側は正面を広く攻めていたつもりが地形の妙で右翼がガラガラになっていた
すこし時間がたてば、この状況は無くなってしまいますね。
なるほど、コレは偶然の勝利ではない、もし義元がこのルートを取るように仕向けていたのなら、やはり戦争の天才ですね。
地形図を基本にして、細かな軍の動きから客観的に歴史を見る感覚は大好きです。最近信長の義元陣営が真正面から攻めている説がでてきて嬉しい限り。ただ泥田にある道をまっすぐ攻めていくことで、数のマイナスをなくすことはわかるけど、どのように義元陣営を攻めたか?詳しく知りたいです。
現地あたりに住むものですが不思議なのが鳴海城の岡部元信の挙動 善照寺砦も中島砦も鳴海城から500mほどの距離 特に中島砦など鳴海城から俯瞰できる位置関係であるのに真っ昼間信長勢の集散をただ見過ごしてたんですかねえ
包囲下にあったので見てはいたが今川本軍に知らせるすべがなかったとか…?
@十束丹居候太 これまじであり得そうですね
一番の謎はこの作戦は討ち取った後の撤退の方がが難しいからふつうはやらない、返り討ちに合うだけ。
なのにあっさり撤退している、歴史上ではこの後に織田と松平(徳川)と同盟しているのだが事前に密約で同盟してたのではないかと疑っている、それなら今川軍の配置が分かり退路の確保はできたので十分に勝算はある。
おひさしゅーございます また動画が見れて嬉しいです
正面突破説とか偶然の遭遇戦説とかあるがどちらも今川軍を軽視している。この新説を支持します。信長は義元のいる場所を特定したのちなるべく軍勢を隠しながら本陣に突撃した。
私も同じ理由で正面突破は懐疑的ですねぇ
腐っても今川家なんで簡単に正面突破はされないかなと
地形上、中島砦は鳴海城から丸見え。鳴海城と同じ台地上にあるのが善照寺砦で、鳴海城の唯一の死角が砦の善照寺砦裏。
善照寺砦裏手には一段下がった広場のような場所があり軍勢を集結できそうな空間あり。
鳴海城からすると善照寺砦が邪魔をして善照寺砦裏手が死角となり、ついでに沓掛城に向かう一本道(現、県道36号)も死角でになっており道が見えない。善照寺砦裏下広場から沓掛城に向かう一本道(現、県道36号)も繋がっているのでそのまま兵を出せます。
おそらく鳴海城から見える正面に砦の入口を構え目立つように塀や建物を建造、そして砦の裏手にも出口をもうけてそこから坂を下り
広場のような場所に軍勢を集結できるような工夫がなされていた可能性が高い。
鳴海城からは入口に入った所は見えるけど裏に下の広場へ通じる出口があったなら集結してるのは見えない。入口から軍勢が入ったのを確認し出てこないので鳴海城側からすれば安心してしまう。
この見えない死角を利用し信長は出陣したのでしょうね。鳴海城からの死角で出陣したのがわからなかった。国土地理院地形図(赤色立体地図)から察するに。
地図に布陣、進撃ルート(推定)を示してくれての解説すごく助かります! 義元の本陣強襲説支持派ですが、義元の前衛部隊は避けられるに越したことはないので渡河して前衛を避けながらの強襲(奇襲)ルート説に納得です。
今さらですがこの戦いは、日本史における合戦の中でもひときわインパクトが強く、鮮烈でドラマチックで胸が熱くなるものに思えます。それは、まず展開として圧倒的な兵力や勢力の差を電撃戦とも言える奇襲で覆した大逆転劇だったという点があり、またその後の戦国時代の構図、ひいては日本史自体の流れに大きな影響を与えた転換点とも言えるものだからなのかと思います。
信長はこの勝利により勢いを得て天下人への道を進むことになり、若き徳川家康は今川方の従属から外れ、信長の同盟相手としてその勢力に入っていくことになり、その後存在感を増して歴史の表舞台に立っていくことになります。
復活おめでとうございます!
考証がロジカルなので見ていて納得
出来ます。
尾張の海部分、400年ですげー埋め立てられててびっくり!🙀
三河もヤヴァイですw
現代では桶狭間周辺の山々は均されて平地になっているのが良くわかる。地理が好きな自分にはありがたい
今川義元が布陣した場所は中島砦、鳴海城への道と大高城へ回るT字路、信長坂をあがる方面が大高城への道。
T字路に沿ってVの字に布陣したのでしょうね。中島砦、鳴海城方面の中山道から敵が来ると想定した布陣で、また状況によって大高城へも鳴海城にも行けるように。
桶狭間古戦場の伝承地が二つあるのは、Vの字に布陣した為だと思われます。
長福寺の大池方面(大高城への道)に義元がいたなら逃げれたかも、高徳院にいたら逃げ道なし。地形上。
どうにしろ義元がT字路付近に布陣するようあらかじめ信長が仕掛けた可能性が高い。
長福寺の大池ってのも丁度いい場所に道を塞ぐようにあるので逃げたら渋滞する。池も信長作か?
子供の頃瑞穂区や笠寺や鳴海に住んでて砦って善照寺砦がまだ残っててそこで遊んでて信長は幼稚園の頃からこどもの英雄扱い(笑)
大高も大高公園あったので年中遊びに行ってたし遠足で東の方もよく行ってたので地形は把握してました
大人になって信長公記とか読んでなるほどーと思いつつも昔はここまで海岸だったんだよなーと
攻めてるはずが攻められている戦
これは歴史上稀に見る名戦だよね
厳島の戦いもあるけど
あっちは海上の有利を取らなかったから負けただけだから
桶狭間の戦いとは状況の有利が違う
それなら戦国三大奇襲の残りの一つ、河越夜戦は如何かな?
相手が格落ちするとか言うのは禁句だよ!
テンポが良かったです。
この戦いを知れば知るほど今川義元はそこまでの失策を犯していないことがよくわかるし、むしろ打てる手はしっかり打った上で盤石な進軍をしているのだから、本当に運がなかったのだと思う
もちろん、その運を引き寄せる布石を入念に打った信長が素晴らしいのは大前提として
戦闘目的の違いも大きいね。今川義元からすれば前線の砦を救い、自国領を広げるための、ある意味「いつもの」戦い。しかし織田信長は今川義元の首級を取る事が最大の目的である「己を賭けた」戦い。今川義元はまさか織田信長が首級を取りに来るとは考えていなかったのかな。
当時を思い出すと概ね合ってます。
桶狭間は色々な説がありますが納得できる考察です!
次回の動画も楽しみにしています!
織田秀敏が生き残っていたというのは初めて聞きました。なんだか嬉しいです。
敵の大将や君主を野戦で討ち取るか囚えれば勝ちだけど
世界史でも滅多に起きない劣勢側の大逆転をやっちゃう信長が凄い
というか宮島合戦なども含めて何度か起きてる戦国時代がヤバすぎい
世界的に見てもかなりの戦闘民族だと思います。鎌倉武士とか世界最強クラスのマルチファイターですし
会社近くに 沓掛城趾 があります。春になると桜🌸が咲き良いところです。
聖應寺の裏山が当時の沓掛城(沓掛古城)じゃないかと云われてますので、
近くならそっちにもオススメかも
歴史解説はもちろんですが、当時の海岸線がとても面白いです 水野家は水運の家だったのかな? 今の刈谷城は内陸にあるので意外でした
すばらしいです。感動🥹
桶狭間地元民ですが桶狭間山の地はいまだ確定してないので一説として面白いと思います。
神明様の北は緩やかな窪地になっていて今の桶狭間小学校とカーマ辺りで乱戦でしょうかねぇ
これは妥当な見解ですね。説得力があります。
大変に説得力のある内容で面白かったです😊織田信長の桶狭間は、どこまでが偶然でどこまでが必然だったのか?
最後に今川本体がばらけて手薄になったのは流石に読みきれないはずで、ラッキーだったのかなぁとは思いました😂
地図があるととても分かりやすいです
地図は頑張って作ってるので褒められると嬉しいです
納得できる内容だった
常識から言って五騎で出発して、同日に数千が集まるはずなく、事前に陣ぶれしてるはず。今川の兵力を分散させながら、想定された場所に本陣をはらせた作戦勝ちと言うところか。この辺りは小さい丘があり、谷の間をぬって接近したと言うのは同感です。
元々、今川の国力と尾張統一をほぼ果たした信長の国力はそんなに差はなく、地の利を生かした信長が負ける要素はなかったと考えます。総大将が戦場で討ち死にするところまで、想定しておらず、これは棚ぼただったのでしょうが、運が味方した信長に歴史は一気に傾いたのでしょう。
面白かった
今宵はこれまでにいたしとうございます。
ってかなり前の大河ドラマの毎回の最後を締める言葉でしたね。
(タイトル忘れちゃった)
大河「武田信玄」の信玄母役の若尾文子の名セリフ
良い大河には記憶に残る良いセリフがある・・・
今川義元が本陣の守備をもっと固めていたなら、織田信長の特攻にも対応できたと思われる。
この時、信長の兵は精鋭とは言っても大きく見積もって3500。対する今川は5000程。
奇襲でなく正面突破でも織田側が勝つ機会は有りました。
ともかく、子細に調べてて好感が持てましたので、Ch登録致します。
正面突破説が厳しいなぁと思って自分は新・迂回襲撃説をとっておりますが、そのうち詳細なリメイクを作りたいとも思ってます
分かりやすくて面白かったです。
内容は良かったが自動音声が聞きづらく、是非改善してくれ。
応援しています🎉
尾張・美濃のマイナーな戦いを解説する動画がなくて復活してほしいチャンネルだったので\(^_^)/今後も楽しみにしてます。
案の定2作目がクソマイナーな戦いてんこ盛りw
復活おめでとうございます。今後も楽しみです。
15:10 もしかして豊明側の伝承地って、敗残兵狩りの場だったのでは……?
色が変わりましたね
新チャンネルも応援します
今川家という名門の大家と尾張の自由奔放な若大将との戦いですから、その双方の特徴が明暗を分けましたね。大軍に勝つにはどうするのか?の答えがあります。地の利と行動力だけでなく運も味方をしました。積極性があったからでしょう。
この戦いの結果はその後の織田家の行く末に良い影響を及ぼし続けましたね。
桶狭間の戦いを詳しく知らない人でも、地形図を使った解説で分かりやすい動画だと思う。
信長が義元に奇襲で勝利できたのは強運だけでなく、戦場となった尾張南部の地形を熟知していたことも大きいでしょうね。
裏道や小道を使って、桶狭間まで上手く移動できたのは大きかった。
当時の地形をさらに重ねると面白い
敗因は太原雪斎がなくったからだな多分
雪斎が生きていれば
尾張に対してもう少し早く大きな手を打ててた可能性が高いですからね
少なくとも義元が討死する様な状況にはなってなかったでしょう
けっして義元が無能な訳では無いが雪斎がいないのはかなり痛手だよね
雪斎が生きていたら、義元のように油断して桶狭間山で ランチ会なんてすることなかったと思う。信長が清州城から出る前に、そのまま本陣を大高城に速やかに移動させていたと思う。実際に小豆坂の戦いで、雪斎VS織田信秀(信長の父)の戦いで、信秀を出し抜いて大勝しているし。
その通り
皆んな良く知ってますね
それもあるが情報戦で負けていたのだ、天気や地形、敵の状況等々
詳しくはないのですが結構妥当そうで面白かったです。信長って基本的に味方も信用しませんよね
一瞬の油断と天候で歴史は変わる。信長も最後は本能寺だからなあ。
信長は神がってる。敵の部隊を分散させて、本陣を手薄にして天候を味方につけ、短時間の内に義元の首を取り、その情報を戦地に広めて今川軍を追い払う素早さ。
どっちつかずの水野の動きを使って今川軍に退路を断たせることも出来たはず
参考になったので来月自分のチャンネルで桶狭間行って動画にします
尾張は経済的に発展しており、石高も今川との差が少なかったと言われていますね。
後世で言うほど、数千人VS数万人の戦いではなかったのかも知れませんね。
大変に分かりやすい解説でした。
信長公記では前衛部隊との戦闘は記されておらず直接今川義元本陣を襲撃しているのですが、このような迂回であれば納得もいきますし、窮地において半ばパニックに陥り仲間を頼ろうと集まる本能により山を降り、谷津で雨による泥濘にはまってしまう流れも自然です。
織田信長が今川義元本陣を特定できたのは、周囲の友軍から見えるよう馬印などを高々と掲げていたという点も大きいでしょうね。
逆に織田勢は旗指物は全て捨ててステルス性を高めて接近したでしょう。
正面攻撃説は無いかなぁと思ってこの説を採用しました
名古屋市側の地元では信長坂からの攻撃を推してるんですよね
今川家好きだったから、織田家に勝って勢力拡大するところ見たかったな😭…
復活おめでとうございます。いつも楽しく見ていますので、楽しみにしています。
10:54 ここがこの動画のポイントだ。
分散するように引き込んで砦も分散して配置して織田軍でも対応できる数に今川の大軍を分散させるように地形を利用していたんですね
なぜあれだけの戦力の今川軍が崩れたか、なぜ今川義元が討たれたのか非常にわかりやすかった。
今川義元無能油断説や今川軍正面突破説など、なんか腑に落ちないものが散見するので、それらが腑に落ちて良かった。
唯一の今川の敗因は太原雪斎を亡くしていたことだろうな。あと、後詰なら、あんな砦近くまで行く必要もなかったら気もする。
元に家康は後詰成功してるし。
今川家も見当違いだったかもしれませんがやれることはやって負けたと思ってます、おっしゃる通り最近主流だった正面突破説は今川家の戦力を低く見過ぎかなーと思って採用しませんでした