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ちょいちょい関西弁が出る中西さん好き
歴史上の偉人を取り上げた番組は数ありますが、当番組が最も面白いです。加来耕三先生のお話がわかりやすくて(関西弁も聞きやすくて)、納得の連続です!毎週楽しみです。
いつも面白いです😊
加来先生は〜何でも良く知ってますね感心しますよ☺
たまたまこの動画を見つけたのですが、すごく内容が興味深く、番組の方も見てみたいと思いました
ユーチューブで初めて拝見致しました。テレビで歴史番組を加来先生をはいけんしており、たまたまユーチューブでこの番組を拝見する機会があり先生の史実と創作ものを見極めてほしいと言うお言葉がなるほどと思い共感する事が出来ました。今まで歴史上の人物のドラマは、史実プラスお話をもっていると思いながら拝見しておりましたが、ほとんどが事実ではないと知り、ショックでしたが、視聴者さんたちを引き付ける為の演出だったのですね。この番組と御縁が出来て本当に嬉しいです。加来先生のファンになりました。
加来先生の着物がいつの間にか裃みたいになっててジワる
都から追い出されて中国地方で無念の思いで亡くなった足利義昭、どんな心で過ごしたか興味深い。需要は、ないとおもうけどドラマか歴史番組でもっと取り上げてもらいたい。歴史を見る時後の発想、解釈ではなくその時、どう考えたかを見て欲しい。加来先生、ナイス名言。
確か、秀吉さんと和解した後は京都宇治の槇島城を領地とした筈ですから~足利義昭さんは、そこか、もしくは大坂城下の大名屋敷で亡くなったと思います~晩年の官位は准三后ですから、足利一門としてもかなり出世した人だと思いますよ~織田信長さんに追い出されてからは貧乏公方と呼ばれて諸国を盥回しにされて毛利氏の支援で鞆幕府を開きましたが~豊臣秀吉さんの下で、将軍家としての権威を使って島津氏を屈伏させる外交実績を上げたのを花道に将軍を退き京都に戻って晩年は秀吉さんの御伽衆入りした感じですね~
@@深縹-t1q 毛利の庇護の元、その領地で生涯を終えたという本を読んだ記憶がだいぶ前にあってそれを信じていたけど違っていたんですね😄 教えてくれてありがとう。秀吉も味なことやりますね。外交実績も上げたんだ。待遇に恵まれてよかったですね義昭は。もし、信長が殺されなくて天下統一していたら八丈島に島流しだったかな。
加来先生の時代考察と人物評価は私共が教科書などで一元的に覚えてきた知識を多角的な方向から見分でき事象の見方と判断方法を教えられます。
木曾義仲は征東大将軍ですよ!
どのような質問にも切れ味良く答えていく加来先生がいいですね。熊野詣は現世利益でしたか。東海道中膝栗毛の弥次喜多も最初は伊勢もうでの話でしたが、実は江戸に住む男達の息抜きでもあったのでは無いかと思っています。
伊勢神宮の下りは重要一部の思想を持った人からすれば批判が来そうだが恐れずはっきり言ってくれる加来耕三先生に感服しました
下り❌件⭕
@@正吾隈本 もともと日本語は、「くだり」「下り」だったらしいです~章、条、段、行、件などは小説などの文学的記述表現として試行錯誤された結果であって~口語表現を重視したい意図があれば、今でも「下り」は間違いでは無く全然使ってOKだと思われます~
悠里さん綺麗やわぁ😂
第一次信長包囲網は義昭包囲網でもあったのでは?
勝者が作る歴史だからな😮
信長が義昭を追放した理由は将軍としての利用価値が無くなったからではありません。信長側は和睦を望んでいましたが義昭側が激しく抵抗してきたために京から追い出すほか無かったのです。追放した後も信長は義昭に対して京へ帰るように働きかけていました。義昭がこれを拒絶したため実現はしませんでしたが。
先生の衣装が気になるー
意外に長生きした将軍!
先生への質問、だんだん長文になる傾向があるな
コメ欄もそういう人増えてるよね。まあ、自分もその一人だけど…😅
為に〜なりますね〜☺
熊野はちょっと先なのに・・・。伊勢神宮がプロモーションでもしたんかいな。街道が整備されて行きやすいとか、熊野は山道でしんどいとか・・・。
武力はないがかなりの策士だね
神回ですね。伊勢神宮についての情報ありがとうございました。廃仏毀釈はまだ続いているように感じます。
伊勢神宮の遷宮が行われなかったのはお金がなかったからです。この時数百年振りに遷宮出来たのは織田信秀が費用を負担したからです。
もし信玄と謙信が亡くならなければ織田信長包囲網は成功したのではないか碌に武力も持たない義昭を筆頭に?実に夢のあるifですね
最後の将軍?は完全結果論だけどもう少し「分」と器を弁えていたら歴史が変わっていた気はする
加来先生、げんせりえきではなくげんせりやくでは?どちらでもいいのかな?中西悠理さんは才色兼備に益々磨きがかかってますね。時折見せる気の強そうな表情に痺れます。
戦国以前は摂関家のほうが偉いというのは加来先生と意見が異なります足利義満が太政大臣になって以降は将軍が摂関家の当主に偏諱をしていました勿論、偏諱は主君が家臣に授けるものであり、逆はあり得ないわけですから、力関係は足利義満以降は将軍>摂関家だと考えています
太政大臣>摂関家という図式であって、征夷大将軍>摂関家ではないと思います。
@@小路正則 いやいやそれは逆ですよ一座の宣旨の慣例により摂関>太政大臣になっていますあともうひとつは太政大臣に昇りつめた清華家の人物が摂関家に偏諱をした例がないことも証左でしょう足利義満の時代にパワーバランスが完全公武逆転して将軍という役職がただの地方政権の長だったのが名実ともに日本のトップになったと言えます
何故に義昭の権威が確立されなかったのか経緯を説明してほしいものです
必死の思いで築き上げた二度の信長包囲網も、それぞれ最強格のお二人の死により・・・逆に、信長はここで一生分の運を使い果たした印象
その一生分の運が強すぎるw
そうだつたのですか〜
いらない敵は作らない…ってめちゃめちゃ作りまくってんだよな…笑
無能で傀儡のお坊ちゃんってイメージが強かった義昭ですが新しい違った目線で見れました
逆に家康はなぜ関白や太閤にならなかったのでしょう?
おそらくは朝廷に介入されることなく政治を行いたかったからじゃろう。
@@officialyoutubechannel9198 脊髄反射するとその通りなのですが動画の内容に沿っての解答を希望します
14:30 16:43 なるほど・・・これが・・・ありのままの・・・現実・・・やね。美しい日本・・・とやらの・・・な。
伊勢神宮の話ですが、まず、古代日本では、男性皇族の長が天皇となり、女性皇族の長が皇后となり、婚姻を結ぶ習わしだったそうです~その時の天皇の祭神宮が宇佐八幡宮であり、皇后の祭神宮は伊勢神宮であったとか~そういった由来もあり、伊勢神宮の斎宮はもともとの古代の女性皇族の皇位継承者一位、つまり次代の皇后となる皇族が管理する習わしだったようなのですが~一大事件が起こります、奈良の東大寺を建立した聖武天皇が過去の習わしを無視し、強引に日本史上初の藤原氏の皇后を迎え入れてしまったのです~女性皇族の地位の低下を招いたのはもちろんですが、それをきっかけにして、その後も藤原氏の皇后が続くにつれて女性皇族の長としての伊勢神宮の斎宮に藤原氏系の従者が増えることとなりました~平安時代になると藤原氏に皇后位は独占され、古来の皇族色は薄れるとともに大陸風の強い藤原氏の影響力が増し、武士の台頭に従った藤原氏の衰退とともにだんだんと管理が廃れていってしまったのではないか?と考えられます~
足利義昭・・・大河ドラマの主人公にしたら・・・わいは毎回視聴するで。また 家康なんぞ 見たくもないわ。あと・・・今川氏真も 足利義明同様に・・・しぶとさ・・・という意味では・・・興味深い人生やと・・・ワイは思うで。また 家康を大河ドラマの主人公にするぐらいなら・・・な。
※当チャンネルの管理者の判断で、コメントを削除させていただく場合がございます。予めご了承ください。
ちょいちょい関西弁が出る中西さん好き
歴史上の偉人を取り上げた番組は数ありますが、当番組が最も面白いです。加来耕三先生のお話がわかりやすくて(関西弁も聞きやすくて)、納得の連続です!毎週楽しみです。
いつも面白いです😊
加来先生は〜
何でも良く
知ってますね
感心しますよ☺
たまたまこの動画を見つけたのですが、すごく内容が興味深く、番組の方も見てみたいと思いました
ユーチューブで初めて拝見致しました。テレビで歴史番組を加来先生をはいけんしており、たまたまユーチューブでこの番組を拝見する機会があり
先生の史実と創作ものを見極めてほしいと言うお言葉がなるほどと思い共感する事が出来ました。今まで歴史上の人物のドラマは、史実プラスお話をもっていると思いながら拝見しておりましたが、ほとんどが事実ではないと知り、ショックでしたが、視聴者さんたちを引き付ける為の演出だったのですね。この番組と御縁が出来て本当に嬉しいです。加来先生のファンになりました。
加来先生の着物がいつの間にか裃みたいになっててジワる
都から追い出されて中国地方で無念の思いで亡くなった足利義昭、どんな心で過ごしたか興味深い。
需要は、ないとおもうけどドラマか歴史番組でもっと取り上げてもらいたい。
歴史を見る時後の発想、解釈ではなくその時、どう考えたかを見て欲しい。加来先生、ナイス名言。
確か、秀吉さんと和解した後は京都宇治の槇島城を領地とした筈ですから~
足利義昭さんは、そこか、もしくは大坂城下の大名屋敷で亡くなったと思います~
晩年の官位は准三后ですから、足利一門としてもかなり出世した人だと思いますよ~
織田信長さんに追い出されてからは貧乏公方と呼ばれて諸国を盥回しにされて毛利氏の支援で鞆幕府を開きましたが~
豊臣秀吉さんの下で、将軍家としての権威を使って島津氏を屈伏させる外交実績を上げたのを花道に将軍を退き京都に戻って晩年は秀吉さんの御伽衆入りした感じですね~
@@深縹-t1q 毛利の庇護の元、その領地で生涯を終えたという本を読んだ記憶が
だいぶ前にあってそれを信じていたけど違っていたんですね😄
教えてくれてありがとう。秀吉も味なことやりますね。外交実績も上げたんだ。待遇に恵まれてよかったですね義昭は。
もし、信長が殺されなくて天下統一していたら八丈島に島流しだったかな。
加来先生の時代考察と人物評価は私共が教科書などで一元的に覚えてきた知識を多角的な方向から見分でき事象の見方と判断方法を教えられます。
木曾義仲は征東大将軍ですよ!
どのような質問にも切れ味良く答えていく加来先生がいいですね。熊野詣は現世利益でしたか。東海道中膝栗毛の弥次喜多も最初は伊勢もうでの話でしたが、実は江戸に住む男達の息抜きでもあったのでは無いかと思っています。
伊勢神宮の下りは重要
一部の思想を持った人からすれば批判が来そうだが恐れずはっきり言ってくれる加来耕三先生に感服しました
下り❌
件⭕
@@正吾隈本
もともと日本語は、「くだり」「下り」だったらしいです~
章、条、段、行、件などは小説などの文学的記述表現として試行錯誤された結果であって~
口語表現を重視したい意図があれば、今でも「下り」は間違いでは無く全然使ってOKだと思われます~
悠里さん綺麗やわぁ😂
第一次信長包囲網は義昭包囲網でもあったのでは?
勝者が作る歴史だからな😮
信長が義昭を追放した理由は将軍としての利用価値が無くなったからではありません。
信長側は和睦を望んでいましたが義昭側が激しく抵抗してきたために京から追い出すほか無かったのです。
追放した後も信長は義昭に対して京へ帰るように働きかけていました。義昭がこれを拒絶したため実現はしませんでしたが。
先生の衣装が気になるー
意外に長生きした将軍!
先生への質問、だんだん長文になる傾向があるな
コメ欄もそういう人増えてるよね。
まあ、自分もその一人だけど…😅
為に〜なりますね〜☺
熊野はちょっと先なのに・・・。伊勢神宮がプロモーションでもしたんかいな。街道が整備されて行きやすいとか、熊野は山道でしんどいとか・・・。
武力はないが
かなりの策士だね
神回ですね。
伊勢神宮についての情報ありがとうございました。廃仏毀釈はまだ続いているように感じます。
伊勢神宮の遷宮が行われなかったのはお金がなかったからです。この時数百年振りに遷宮出来たのは織田信秀が費用を負担したからです。
もし信玄と謙信が亡くならなければ織田信長包囲網は成功したのではないか
碌に武力も持たない義昭を筆頭に?実に夢のあるifですね
最後の将軍?は完全結果論だけどもう少し「分」と器を弁えていたら歴史が変わっていた気はする
加来先生、げんせりえきではなくげんせりやくでは?どちらでもいいのかな?
中西悠理さんは才色兼備に益々磨きがかかってますね。時折見せる気の強そうな表情に痺れます。
戦国以前は摂関家のほうが偉いというのは加来先生と意見が異なります
足利義満が太政大臣になって以降は将軍が摂関家の当主に偏諱をしていました
勿論、偏諱は主君が家臣に授けるものであり、
逆はあり得ないわけですから、力関係は足利義満以降は将軍>摂関家だと考えています
太政大臣>摂関家という図式であって、征夷大将軍>摂関家ではないと思います。
@@小路正則
いやいやそれは逆ですよ
一座の宣旨の慣例により
摂関>太政大臣になっています
あともうひとつは太政大臣に昇りつめた清華家の人物が摂関家に偏諱をした例がないことも証左でしょう
足利義満の時代にパワーバランスが完全公武逆転して
将軍という役職がただの地方政権の長だったのが名実ともに日本のトップになったと言えます
何故に義昭の権威が確立されなかったのか経緯を説明してほしいものです
必死の思いで築き上げた二度の信長包囲網も、それぞれ最強格のお二人の死により・・・逆に、信長はここで一生分の運を使い果たした印象
その一生分の運が強すぎるw
そうだつたのですか〜
いらない敵は作らない…ってめちゃめちゃ作りまくってんだよな…笑
無能で傀儡のお坊ちゃんってイメージが強かった義昭ですが新しい違った目線で見れました
逆に家康はなぜ関白や太閤にならなかったのでしょう?
おそらくは朝廷に介入されることなく政治を行いたかったからじゃろう。
@@officialyoutubechannel9198 脊髄反射するとその通りなのですが動画の内容に沿っての解答を希望します
14:30 16:43 なるほど・・・これが・・・ありのままの・・・現実・・・やね。美しい日本・・・とやらの・・・な。
伊勢神宮の話ですが、まず、古代日本では、男性皇族の長が天皇となり、女性皇族の長が皇后となり、婚姻を結ぶ習わしだったそうです~
その時の天皇の祭神宮が宇佐八幡宮であり、皇后の祭神宮は伊勢神宮であったとか~
そういった由来もあり、伊勢神宮の斎宮はもともとの古代の女性皇族の皇位継承者一位、つまり次代の皇后となる皇族が管理する習わしだったようなのですが~
一大事件が起こります、奈良の東大寺を建立した聖武天皇が過去の習わしを無視し、強引に日本史上初の藤原氏の皇后を迎え入れてしまったのです~
女性皇族の地位の低下を招いたのはもちろんですが、それをきっかけにして、その後も藤原氏の皇后が続くにつれて女性皇族の長としての伊勢神宮の斎宮に藤原氏系の従者が増えることとなりました~
平安時代になると藤原氏に皇后位は独占され、古来の皇族色は薄れるとともに大陸風の強い藤原氏の影響力が増し、武士の台頭に従った藤原氏の衰退とともにだんだんと管理が廃れていってしまったのではないか?と考えられます~
足利義昭・・・大河ドラマの主人公にしたら・・・わいは毎回視聴するで。また 家康なんぞ 見たくもないわ。あと・・・今川氏真も 足利義明同様に・・・しぶとさ・・・という意味では・・・興味深い人生やと・・・ワイは思うで。また 家康を大河ドラマの主人公にするぐらいなら・・・な。
歴史上の偉人を取り上げた番組は数ありますが、当番組が最も面白いです。加来耕三先生のお話がわかりやすくて(関西弁も聞きやすくて)、納得の連続です!毎週楽しみです。