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私は この番組での落ち着いた物言いといい 綺麗な所作を見るのが大好きです。 やはり日本の礼儀正しさは本当に素敵です。 勿論歴史にももっと興味が出ました。
「是非に及ばず」の真意を説明していただき有難うございました。
信秀を取り上げてくれるのも嬉しいし、信長の死に際について、自分が考えていたことと同じことをおっしゃっていて、嬉しい。
信長の最期 死に様は本当武将らしくてかっこいいですよね確かに信長公は逃げようとせず、生き残る選択肢はもう切ってますね
悠理姫がかわいすぎてつい見てしまう
平手政秀の切腹は最初に知ったときから不可解だったのですが、初めて納得のゆく説明をいただきました。
加来先生の解説は〜よ〜くわかりますね☺
期間限定をなくしてくださったようですね。日本の歴史に興味を持つ動画なので、多くの人が見る機会を持てるように残すことは、日本について知りたい日本人や諸外国人の参考になると思います。
織田信秀の動画、楽しみにしています。
なるほど…平手政秀の新しい見方に驚くと同時に納得出来る内容でした。
悠里ちゃんかわいい。
偉大な人だったのですね☺
私が持っている1989年5月別冊歴史読本では、織田信長との霊界といって霊能者式瀧子氏が出ています。面白いです。平手政秀が切腹したのは信長のうつけぶりを諫めるためにしたというのは「違う」「子だ。勇み過ぎた」と書いてあり、平手の子供(長男が)が調子に乗って何かやり過ぎて殿に申し訳ないとして切腹したと書いてありますがそれは平手の子が持っている馬を信長が欲しがったのを断ったことではないそうです。「こんなことで爺が腹をきることにならん、立場でいえぬこともある」「うつけぶりは塩ビ」平手の菩提樹を建てたのは「よくみせるためもあった」「信長公記 六騎と記されているが本当は?」には「九」熱海神宮から桶狭間へ向かった人数は千五百、迂回奇襲して勝利をえたのは本当。火焔をふらすというのは、燐をまき爆発させかく乱と書いてあります
織田信秀の教育内容、とても興味深いですね。
なるほど、先生の意見を噛み締めてみるとあながち間違いではないなぁと思います。
アナウンサー美人すぎる
今回は偉くリップサービスがいいなぁ・・・・
平手政秀について、学研から発売されている「歴史群像」において、加来耕三先生とは違った角度から論じられています。当然に、従前の信長をいさめる為に切腹をしたという説ではありません。
信秀さん楽しみです
織田信秀、武田信虎、伊達輝宗は偉人の偉大な育ての親ですね。
信長は桶狭間の戦いの戦勝の礼を熱田神宮に行っているし、津島神社、織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対して熱心に保護を行っています。また、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では本能寺等の法華宗寺院を宿所に選ぶなど、法華宗も信仰の形跡もあります。更に家紋に禅宗の教えである「無」の字を用いたりして禅宗への信仰も窺えます。法華宗と浄土宗・仏教とキリスト教の教会対論を行わせたり、およそ無神論者では考えられない事を行っています。むしろ信仰心が厚いがゆえに、神仏を利用して私利私欲を肥やす人達が許せなかったのだと思います。下克上についても、もし政秀にその気があったとしても時期が悪すぎます。この当時の信長は織田家家督は未相続で弟信行と家督争いを行っており、信長は弱小勢力で織田家内の力関係では信秀の重臣の政秀比べても弱小です。政秀が信長を討っても織田家内の弱小一武将を滅ぼしたに過ぎず、今度は政秀単独で信行派と争わなければならなくなり、数も少なく大義名分も無い政秀に勝ち目は少ない。また、信長の首を持って信行派に合流しても優遇はされません。やるなら信秀の生存中か信長の家督相続後です。信長にしてもこの時期に唯一の味方の政秀を処分するとは考え難いと思います。信長はそんなに軽率な人物ではなくむしろ我慢強い人物です。この時敵対した柴田勝家は許し織田家筆頭の家臣として使い続けたし、林通勝や佐久間信盛の処分も28年後です。
とても説得力がありますね
3:36ファザコン有能説(笑)はおもしろいですね3代目、孫有能説とかもありそうですね(笑)
爺の下剋上説、興味深い!
私は信長が無神論者では無いと考えております。桶狭間前には熱田神宮にお参りしておりますし美濃攻めの時には手力雄神社にも立ち寄っております。政秀の切腹には政秀自身、信長と言う人間が想像もつかない人間で皆誰しも考えが及ばない事を知らしめる為にだとこの政秀以上の人間と教えたかったのではないでしょうか。
近世思考と旧世・中世思考。分かりやすいのは、信長は過料・関所の廃止し、敵対する旧世・中世思考は、過料・関所の税収を重視した。ここに最大の違いがある。政秀は、信長の関所廃止に理解出来ず、諌しした可能性もある。武田氏は長篠の戦いぐらいまで、関所を廃止出来なかった。平手政秀は武田と同じような思考の持ち主であった。
既存の宗教を否定するのも、一種の宗教だとウチは思うっす~むしろ、あらゆる教祖さまの出発点を考えれば、必ずそこから新しい宗教を立ち上げてますからね~ですから織田信長さんも、現代の日本人の多くも、単に特定の宗教団体に所属することを拒否しているだけで無宗教には全く当たらないと思いますね~
信秀の話は少ないです。信長を知ることにもなります。今の日本は人材待望ですからね。
死せる孔明、仲達を…じゃない(加来先生、ちがった?😅
是非に及ばずというのは誰がどのように聞いて言い伝えたのでしょうか創作ではないのでしょうか
信長かっけえ。
平手政秀の死は私も信長との権力争いに敗れた結果だとおもいます。信秀の葬儀で信長がおかしな態度を取ったのは、葬儀を執り仕切った政秀に対する抵抗だったと思います。
遺体を消した(隠した)のは今後のことを考えてという説はその通りだと思いますが首とか骨とかは阿弥陀寺にあるという説もありますね
もし平手政秀さんの下剋上がホンマだったら、信長さんがその後家督争いする相手、弟の信勝?信成?さんが理由でしょうね~当時、信勝?信成?さんの方が弾正忠を名乗っていたらしいから、家中から信長さんは嫡男と認められてなかった可能性が高いですし、その状況から信長さんを見限って信勝?信成?さん方に寝返ろうと平手政秀さんが考えてもおかしくない状況ではあります~ただ当時の信長さんにとって、守り役の平手政秀さんに裏切られることの痛手はハンパないはずですから~それを察知した信長さんが秘密裡に平手政秀さんを始末した可能性は高いかも?知れませんね~そもそも、当然のように嫡男が信長さんだったといわれていますが、まずそこが疑問だと思います~母親の一存で家中で一度決定された嫡男を変えることは、鎌倉のお袋様にして尼将軍、北条政子さんをもってしても非常に困難なのですから~織田信長さんのお母さん、土田御前のようなその後影がめっきり薄くなるような女性が音頭をとってそんな大それた行動を起こすものでしょうか~?ウチとしては、織田信秀さんは嫡男を決めてなかった、もしくは、嫡男に選んだのは信長さんではなく信勝?信成?さんの方だった可能性が高いと思いますね~そう考えると、嫡男に選ばれなかった信長さんがオヤジの墓前に焼香を打ちまける様子を見て平手政秀さんが信長さんを見限っても仕方ないですし~信勝?信成?さんを信長さんが他の兄弟のように生かしておけなかった理由にもなると思います~ただ、そう考えると信長さんは武田信玄さんと同じように父親に選ばれなかった人ですから~ファザコンはともかく、劣等感なく育ったという点は疑問符がつきますよね~ウチはそもそも織田信長さんの際限ない領土拡張意欲の源泉は、父親や織田家中から嫡男に選ばれなかった点にあるのでは?と考えてましたが、正味どうなんでしょうね~
加来先生に同感です。府に落ちます。😊
雨の日でも火事になるかはわからないが本能寺の変の時に雨が降っていて本能寺が燃えなかったら信長と信忠の遺体を光秀は利用できたかもそしたら多数派工作も上手くいったりして秀吉とも互角になれたかも
本能寺は全焼してないと思われます。
平手政秀の切腹は主である信秀への殉死だと私は思います。信長という人は家中の実権も定まらない時期に一番親しい後見役を死に追いやるほど愚かではないと。
中務の謀反とは、目から鱗。発見というより発明くらいの驚き。
資料はウソをついてる、で通用するなら、信長は宇宙人だったから最強だった、も通用する。
もしという話であればどんな洞話でも出来ますわな😁😁
秀吉 家康より息子じゃないんですか?
織田信秀と松平清康と妖刀村正で何か作品ができそうですね
平手、林、佐久間…信長に疎まれていった一族に共通点はあるのでしょうか?
平手、林、佐久間の共通点は、「一向宗、本願寺派に対して積極的に対応しなかった事」だ。特に佐久間は4年も対峙して、進展は全くなかった。コレが信長を恐れさせた。なぜ恐れたか?それは第一次朝倉征伐の際に、浅井が突如、反信長陣営に付いた事だ。自身の妹を嫁がせ、「長政は余の弟である。」と言い切り信じきっていた信長は、浅井の寝返りにより、しにかけた経験から連合統一ではなく、単独統一に変更する。この激しさは、家康の妻は武田の内通者と疑われるので、その者を処刑せよ、と信長は家康に命じる激しさだった。(築山騒動)部下に反信長、謂わば近世化を受け入れない者が居たら、いつ裏切り自身の天下布武が出来なくなる可能性がある。(明智光秀はその通りの行動を実施。是非もなし、は大方、予想していたのだろう。)少しでも「旧世・中世思考」だと信長が判断すると、容赦ない粛清、弾圧する事を実施したのが信長であった。佐久間、平手、林、安藤守就、等は何らかの行動や発言により、「中世思想」と信長に判断されたからだろう。だから追放されたのだ。
分からんのが、本能寺が囲まれた時に自分の死は覚悟したとして、信忠が死ぬ事は予期してないと思うけど。
信忠の生死は問題にしていないし、加来先生の話にも出てこなかったけど。
うーん…⁇先生の平手政秀の見解、、分からなくもないですが、自分は信長の純粋な弔い毎ではなかったのかなって思います。父信秀が亡くなった時は、信長もまだ若く天下布武を唱えた信長にはまだ成っていなかった様な気がします。
そ
信長の謎の殆どが親父さんなのになぜあまり取り上げられないんですかね?本能寺の変は納得してしまったけれど、平手はどうだろう🤔平手本人というより、弟信行と繋がる動きがあったの方が納得できそうだけど、わたしの想像力が足りないのかな。平手くらいなら、弟の器量を見極めてそうだし、やはり平手本人の胡乱な動きなのかな。。。
有能であったが、改革者、革命者ではなかった。武田信玄と同じ水準の持ち主。尾張統一も各地の豪族と協定を結び、強力な支配体制を敷く事は出来なかった。事実、信秀死後の信長は各地の離反や叛乱に苦労する事になる。信玄死後の勝頼も最後は裏切りが重なり、武田滅亡。信長は中世政治思想の限界を感じて、早々に近世政治思想を導入し、古参の重臣ばかり、重視せず、光秀、秀吉、丹羽等の登用し、活躍の場を与えた。(関所の廃止もソレに当たる。)そして京都上洛、本願寺との全面衝突に勝利した。信秀は信玄と同じく、「戦が強い地方の一大名に過ぎなかった。」
物語でいうところの信長さんの弟、織田信行さんは、史実では信勝さんもしくは信成さんと記されているそうですが~織田信秀さんの死後に織田弾正忠を名乗っていることから、正式な嫡男は信長さんではなくて信勝?信成さんの方だった可能性があるそうです~ちなみに、土田御前は信秀さんの正室でなく側室で後ろ盾となる大名も武将もいなかったみたいですし~なぜ信長さんの実母でもある土田御前さんが、敢えて弟の方を支持したんだろう?って凄く疑問ですよね~
2:35 信長・・・父親の地盤がなかたら・・・せいぜい 尾張 1国の大名で 終わっていたやろね。2022年11月23日現在なら・・・アメリカで 白人として 生まれること・・・と・・・日本で 日本人として 生まれること・・・将来の 世界的な影響力 を持ちうるかどうか・・・という意味では・・・生まれた時点で・・・雲泥の差がある。奇跡でも起きない限り・・・このギャップを埋めることは・・・不可能。劣等感を持たない・・・という意味では・・・【 白い 】アメリカ人は・・・地球上どこでも・・・自分中心に世界が回っている・・・という絶対的な自信を・・・持っている。
信長が無神論者って言いましたけど、無神論者が桶狭間の前に、熱田神宮で戦勝祈願しますかね?その後、熱田神宮に塀を寄進するかね?
(´・ω・)ネー武装教団の一向宗、本願寺を嫌っただけで、武装していない教団は庇護したりしている。基督教はその典型。もし基督教が武装していて、あれこれ信長に指図していたら大変なことになっていただろう。無神論者ではない。
無神論者でも神頼みしたくなるときはあるよ
本人は無神論者だとしても部下は違うからね。あんなの軍の戦意を上げるパフォーマンスでしょう。
※織田信秀は何度も美濃攻略を試みたがすべて失敗した。その原因は美濃兵が強兵で尾張兵が弱兵だからである。だから。難攻不落の稲葉山城が落ちる筈がない。つまり、秀吉の調略によって落ちたのである。即ち、竹中半兵衛と西美濃三人衆が裏切って織田方に付いた。古老の言葉に美濃を制する者が天下を制すとある。美濃兵は質実剛健だから強兵なのである。それに木曽三川によって恵まれた穀倉地帯である。おまけに白川村の合掌作り縁の下で焔硝を作っていた。米作による富国強兵、長槍と鉄砲の導入は軍師・明智光秀の指図である。つまり、織田信長は優れた軍師・明智光秀と強兵の美濃兵を獲得したから天下取りができた。弱兵の尾張兵では天下を取れない。徳川家康は弱兵の三河兵では天下を取れない。松平元康は今川義元に人質にされていた。それは三河兵が弱兵で今川に支配されていたのである。信長が桶狭間の戦いで義元を討ってくれたお陰で解放された。だから、家康は信長の家来として仕えた。そんな関係の信長が家康など接待する訳がない。家康が天下を取れたのは強兵の美濃兵と軍師・明智光秀を獲得したからである。光秀は死なずに千利休に化け、それが発覚したから切腹の芝居で誤魔化した。今度は南光坊天海として黒衣の宰相として家康に仕えた。関ヶ原合戦の小早川秀秋の裏切り工作、寺の鐘の刻印で家康を倒すという意図があると難癖を付け、大阪冬の陣で大砲を天守閣に撃って和議に持ち込んで、大阪城の外堀を埋めて勝利した。これ献作も天海の指示である。 尾張・三河の弱兵では天下を取れない。三方ヶ原で家康は武田信玄に敗北した。だから、無敵の騎馬軍団という虚構が生まれた。それと互角に戦った上杉謙信も戦上手と持ち上げられた。すべては秀吉・家康の嘘から生まれた作り話である。 秀吉と家康はこのままでは信長の家来に終わると考えた二人は共謀して信長暗殺を企て、秀吉は二条城にいた信長を、家康は安土城いた信忠を策略で暗殺した。その犯人に明智光秀を仕立てて、天下取りを企てた。信長が京都へ上がったのは家来に中国・九州征伐を命じてその軍配を取るためである。そんな信長が悠長に本能寺でお茶会を行う訳がない。明智光秀、細川藤孝、筒井順慶、徳川家康らも出陣要請を受けて進軍していた。そんな情勢で信長を暗殺することは不可能である。不思議なことに筒井順慶は信長が出陣を取りやめて安土へ帰ったと言う書状(信長の花押がおされた)を受け取った。つまり、祐筆が書状を偽造したのである。光秀もその書状を受け取って腑に落ちないから安土城へ事情を聴きに安土へ向かった。信長を擁護する軍団が居なくなった隙に秀吉と家康が信長親子を暗殺した。秀吉・家康は信長の天下を盗んだ大悪党である。何が三英傑か、笑わせるな。
このじじい何言ってんだ
中西悠里さん、アナウンサーとしてはある状態を表現する言葉の語彙が少ないように感じます。特に昔の時代の事象を扱っているのだから現代的な表現をするにしてもそれなりの言い方があると思います。もっと勉強して使い分け出来るようになって欲しい。
このアドバイスでは曖昧過ぎて、具体的にどう改善すべきか分かりづらいと思いますよ
南無妙法蓮華経🌍南無妙法蓮華経
私は この番組での落ち着いた物言いといい 綺麗な所作を見るのが大好きです。 やはり日本の礼儀正しさは本当に素敵です。 勿論歴史にももっと興味が出ました。
「是非に及ばず」の真意を説明していただき有難うございました。
信秀を取り上げてくれるのも嬉しいし、信長の死に際について、自分が考えていたことと同じことをおっしゃっていて、嬉しい。
信長の最期 死に様は本当武将らしくてかっこいいですよね
確かに信長公は逃げようとせず、生き残る選択肢はもう切ってますね
悠理姫がかわいすぎてつい見てしまう
平手政秀の切腹は最初に知ったときから不可解だったのですが、初めて納得のゆく説明をいただきました。
加来先生の
解説は〜よ〜く
わかりますね☺
期間限定をなくしてくださったようですね。
日本の歴史に興味を持つ動画なので、多くの人が見る機会を持てるように残すことは、日本について知りたい日本人や諸外国人の参考になると思います。
織田信秀の動画、楽しみにしています。
なるほど…平手政秀の新しい見方に驚くと同時に納得出来る内容でした。
悠里ちゃんかわいい。
偉大な人だったのですね☺
私が持っている1989年5月別冊歴史読本では、織田信長との霊界といって霊能者式瀧子氏が出ています。面白いです。平手政秀が切腹したのは信長のうつけぶりを諫めるためにしたというのは「違う」「子だ。勇み過ぎた」と書いてあり、平手の子供(長男が)が調子に乗って何かやり過ぎて殿に申し訳ないとして切腹したと書いてありますがそれは平手の子が持っている馬を信長が欲しがったのを断ったことではないそうです。「こんなことで爺が腹をきることにならん、立場でいえぬこともある」「うつけぶりは塩ビ」平手の菩提樹を建てたのは「よくみせるためもあった」「信長公記 六騎と記されているが本当は?」には「九」熱海神宮から桶狭間へ向かった人数は千五百、迂回奇襲して勝利をえたのは本当。火焔をふらすというのは、燐をまき爆発させかく乱と書いてあります
織田信秀の教育内容、とても興味深いですね。
なるほど、先生の意見を噛み締めてみるとあながち間違いではないなぁと思います。
アナウンサー美人すぎる
今回は偉くリップサービスがいいなぁ・・・・
平手政秀について、学研から発売されている「歴史群像」において、加来耕三先生とは違った角度から論じられています。当然に、従前の信長をいさめる為に切腹をしたという説ではありません。
信秀さん楽しみです
織田信秀、武田信虎、伊達輝宗は偉人の偉大な育ての親ですね。
信長は桶狭間の戦いの戦勝の礼を熱田神宮に行っているし、津島神社、織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対して熱心に保護を行っています。また、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では本能寺等の法華宗寺院を宿所に選ぶなど、法華宗も信仰の形跡もあります。更に家紋に禅宗の教えである「無」の字を用いたりして禅宗への信仰も窺えます。法華宗と浄土宗・仏教とキリスト教の教会対論を行わせたり、およそ無神論者では考えられない事を行っています。むしろ信仰心が厚いがゆえに、神仏を利用して私利私欲を肥やす人達が許せなかったのだと思います。
下克上についても、もし政秀にその気があったとしても時期が悪すぎます。この当時の信長は織田家家督は未相続で弟信行と家督争いを行っており、信長は弱小勢力で織田家内の力関係では信秀の重臣の政秀比べても弱小です。政秀が信長を討っても織田家内の弱小一武将を滅ぼしたに過ぎず、今度は政秀単独で信行派と争わなければならなくなり、数も少なく大義名分も無い政秀に勝ち目は少ない。また、信長の首を持って信行派に合流しても優遇はされません。やるなら信秀の生存中か信長の家督相続後です。信長にしてもこの時期に唯一の味方の政秀を処分するとは考え難いと思います。信長はそんなに軽率な人物ではなくむしろ我慢強い人物です。この時敵対した柴田勝家は許し織田家筆頭の家臣として使い続けたし、林通勝や佐久間信盛の処分も28年後です。
とても説得力がありますね
3:36ファザコン有能説(笑)
はおもしろいですね
3代目、孫有能説とかもありそうですね(笑)
爺の下剋上説、興味深い!
私は信長が無神論者では無いと考えております。
桶狭間前には熱田神宮にお参りしておりますし美濃攻めの時には手力雄神社にも立ち寄っております。
政秀の切腹には政秀自身、信長と言う人間が想像もつかない人間で皆誰しも考えが及ばない事を知らしめる為にだとこの政秀以上の人間と教えたかったのではないでしょうか。
近世思考と旧世・中世思考。
分かりやすいのは、信長は過料・関所の廃止し、敵対する旧世・中世思考は、過料・関所の税収を重視した。
ここに最大の違いがある。
政秀は、信長の関所廃止に理解出来ず、諌しした可能性もある。
武田氏は長篠の戦いぐらいまで、関所を廃止出来なかった。平手政秀は武田と同じような思考の持ち主であった。
既存の宗教を否定するのも、一種の宗教だとウチは思うっす~
むしろ、あらゆる教祖さまの出発点を考えれば、必ずそこから新しい宗教を立ち上げてますからね~
ですから織田信長さんも、現代の日本人の多くも、単に特定の宗教団体に所属することを拒否しているだけで無宗教には全く当たらないと思いますね~
信秀の話は少ないです。信長を知ることにもなります。今の日本は人材待望ですからね。
死せる孔明、仲達を…じゃない(加来先生、ちがった?😅
是非に及ばず
というのは誰がどのように聞いて
言い伝えたのでしょうか
創作ではないのでしょうか
信長かっけえ。
平手政秀の死は私も信長との権力争いに敗れた結果だとおもいます。
信秀の葬儀で信長がおかしな態度を取ったのは、葬儀を執り仕切った政秀に対する抵抗だったと思います。
遺体を消した(隠した)のは今後のことを考えてという説はその通りだと思いますが首とか骨とかは阿弥陀寺にあるという説もありますね
もし平手政秀さんの下剋上がホンマだったら、信長さんがその後家督争いする相手、弟の信勝?信成?さんが理由でしょうね~
当時、信勝?信成?さんの方が弾正忠を名乗っていたらしいから、家中から信長さんは嫡男と認められてなかった可能性が高いですし、その状況から信長さんを見限って信勝?信成?さん方に寝返ろうと平手政秀さんが考えてもおかしくない状況ではあります~
ただ当時の信長さんにとって、守り役の平手政秀さんに裏切られることの痛手はハンパないはずですから~
それを察知した信長さんが秘密裡に平手政秀さんを始末した可能性は高いかも?知れませんね~
そもそも、当然のように嫡男が信長さんだったといわれていますが、まずそこが疑問だと思います~
母親の一存で家中で一度決定された嫡男を変えることは、鎌倉のお袋様にして尼将軍、北条政子さんをもってしても非常に困難なのですから~
織田信長さんのお母さん、土田御前のようなその後影がめっきり薄くなるような女性が音頭をとってそんな大それた行動を起こすものでしょうか~?
ウチとしては、織田信秀さんは嫡男を決めてなかった、もしくは、嫡男に選んだのは信長さんではなく信勝?信成?さんの方だった可能性が高いと思いますね~
そう考えると、嫡男に選ばれなかった信長さんがオヤジの墓前に焼香を打ちまける様子を見て平手政秀さんが信長さんを見限っても仕方ないですし~
信勝?信成?さんを信長さんが他の兄弟のように生かしておけなかった理由にもなると思います~
ただ、そう考えると信長さんは武田信玄さんと同じように父親に選ばれなかった人ですから~
ファザコンはともかく、劣等感なく育ったという点は疑問符がつきますよね~
ウチはそもそも織田信長さんの際限ない領土拡張意欲の源泉は、父親や織田家中から嫡男に選ばれなかった点にあるのでは?と考えてましたが、正味どうなんでしょうね~
加来先生に同感です。府に落ちます。😊
雨の日でも
火事になるかは
わからないが
本能寺の変の時に
雨が降っていて
本能寺が燃えなかったら
信長と信忠の遺体を
光秀は利用できたかも
そしたら多数派工作も
上手くいったりして
秀吉とも互角になれたかも
本能寺は全焼してないと思われます。
平手政秀の切腹は主である信秀への殉死だと私は思います。
信長という人は家中の実権も定まらない時期に一番親しい後見役を死に追いやるほど愚かではないと。
中務の謀反とは、目から鱗。発見というより発明くらいの驚き。
資料はウソをついてる、で通用するなら、信長は宇宙人だったから最強だった、も通用する。
もしという話であればどんな洞話でも出来ますわな😁😁
秀吉 家康より息子じゃないんですか?
織田信秀と松平清康と妖刀村正で何か作品ができそうですね
平手、林、佐久間…信長に疎まれていった一族に共通点はあるのでしょうか?
平手、林、佐久間の共通点は、「一向宗、本願寺派に対して積極的に対応しなかった事」だ。
特に佐久間は4年も対峙して、進展は全くなかった。
コレが信長を恐れさせた。
なぜ恐れたか?
それは第一次朝倉征伐の際に、浅井が突如、反信長陣営に付いた事だ。
自身の妹を嫁がせ、「長政は余の弟である。」と言い切り信じきっていた信長は、浅井の寝返りにより、しにかけた経験から連合統一ではなく、単独統一に変更する。
この激しさは、家康の妻は武田の内通者と疑われるので、その者を処刑せよ、と信長は家康に命じる激しさだった。(築山騒動)
部下に反信長、謂わば近世化を受け入れない者が居たら、いつ裏切り自身の天下布武が出来なくなる可能性がある。(明智光秀はその通りの行動を実施。是非もなし、は大方、予想していたのだろう。)
少しでも「旧世・中世思考」だと信長が判断すると、容赦ない粛清、弾圧する事を実施したのが信長であった。
佐久間、平手、林、安藤守就、等は何らかの行動や発言により、「中世思想」と信長に判断されたからだろう。
だから追放されたのだ。
分からんのが、本能寺が囲まれた時に自分の死は覚悟したとして、信忠が死ぬ事は予期してないと思うけど。
信忠の生死は問題にしていないし、加来先生の話にも出てこなかったけど。
うーん…⁇
先生の平手政秀の見解、、分からなくもないですが、自分は信長の純粋な弔い毎ではなかったのかなって思います。
父信秀が亡くなった時は、信長もまだ若く天下布武を唱えた信長にはまだ成っていなかった様な気がします。
そ
信長の謎の殆どが親父さんなのになぜあまり取り上げられないんですかね?
本能寺の変は納得してしまったけれど、平手はどうだろう🤔
平手本人というより、弟信行と繋がる動きがあったの方が納得できそうだけど、わたしの想像力が足りないのかな。
平手くらいなら、弟の器量を見極めてそうだし、やはり平手本人の胡乱な動きなのかな。。。
有能であったが、改革者、革命者ではなかった。
武田信玄と同じ水準の持ち主。
尾張統一も各地の豪族と協定を結び、強力な支配体制を敷く事は出来なかった。
事実、信秀死後の信長は各地の離反や叛乱に苦労する事になる。
信玄死後の勝頼も最後は裏切りが重なり、武田滅亡。
信長は中世政治思想の限界を感じて、早々に近世政治思想を導入し、古参の重臣ばかり、重視せず、光秀、秀吉、丹羽等の登用し、活躍の場を与えた。(関所の廃止もソレに当たる。)そして京都上洛、本願寺との全面衝突に勝利した。
信秀は信玄と同じく、「戦が強い地方の一大名に過ぎなかった。」
物語でいうところの信長さんの弟、織田信行さんは、史実では信勝さんもしくは信成さんと記されているそうですが~
織田信秀さんの死後に織田弾正忠を名乗っていることから、正式な嫡男は信長さんではなくて信勝?信成さんの方だった可能性があるそうです~
ちなみに、土田御前は信秀さんの正室でなく側室で後ろ盾となる大名も武将もいなかったみたいですし~
なぜ信長さんの実母でもある土田御前さんが、敢えて弟の方を支持したんだろう?って凄く疑問ですよね~
2:35 信長・・・父親の地盤がなかたら・・・せいぜい 尾張 1国の大名で 終わっていたやろね。2022年11月23日現在なら・・・アメリカで 白人として 生まれること・・・と・・・日本で 日本人として 生まれること・・・将来の 世界的な影響力 を持ちうるかどうか・・・という意味では・・・生まれた時点で・・・雲泥の差がある。奇跡でも起きない限り・・・このギャップを埋めることは・・・不可能。劣等感を持たない・・・という意味では・・・【 白い 】アメリカ人は・・・地球上どこでも・・・自分中心に世界が回っている・・・という絶対的な自信を・・・持っている。
信長が無神論者って言いましたけど、無神論者が桶狭間の前に、熱田神宮で戦勝祈願しますかね?
その後、熱田神宮に塀を寄進するかね?
(´・ω・)ネー
武装教団の一向宗、本願寺を嫌っただけで、武装していない教団は庇護したりしている。
基督教はその典型。
もし基督教が武装していて、あれこれ信長に指図していたら大変なことになっていただろう。
無神論者ではない。
無神論者でも神頼みしたくなるときはあるよ
本人は無神論者だとしても部下は違うからね。
あんなの軍の戦意を上げるパフォーマンスでしょう。
※織田信秀は何度も美濃攻略を試みたがすべて失敗した。その原因は美濃兵が強兵で尾張兵が弱兵だからである。だから。難攻不落の稲葉山城が落ちる筈がない。つまり、秀吉の調略によって落ちたのである。即ち、竹中半兵衛と西美濃三人衆が裏切って織田方に付いた。古老の言葉に美濃を制する者が天下を制すとある。美濃兵は質実剛健だから強兵なのである。それに木曽三川によって恵まれた穀倉地帯である。おまけに白川村の合掌作り縁の下で焔硝を作っていた。米作による富国強兵、長槍と鉄砲の導入は軍師・明智光秀の指図である。つまり、織田信長は優れた軍師・明智光秀と強兵の美濃兵を獲得したから天下取りができた。弱兵の尾張兵では天下を取れない。徳川家康は弱兵の三河兵では天下を取れない。松平元康は今川義元に人質にされていた。それは三河兵が弱兵で今川に支配されていたのである。信長が桶狭間の戦いで義元を討ってくれたお陰で解放された。だから、家康は信長の家来として仕えた。そんな関係の信長が家康など接待する訳がない。家康が天下を取れたのは強兵の美濃兵と軍師・明智光秀を獲得したからである。光秀は死なずに千利休に化け、それが発覚したから切腹の芝居で誤魔化した。今度は南光坊天海として黒衣の宰相として家康に仕えた。関ヶ原合戦の小早川秀秋の裏切り工作、寺の鐘の刻印で家康を倒すという意図があると難癖を付け、大阪冬の陣で大砲を天守閣に撃って和議に持ち込んで、大阪城の外堀を埋めて勝利した。これ献作も天海の指示である。
尾張・三河の弱兵では天下を取れない。三方ヶ原で家康は武田信玄に敗北した。だから、無敵の騎馬軍団という虚構が生まれた。それと互角に戦った上杉謙信も戦上手と持ち上げられた。すべては秀吉・家康の嘘から生まれた作り話である。
秀吉と家康はこのままでは信長の家来に終わると考えた二人は共謀して信長暗殺を企て、秀吉は二条城にいた信長を、家康は安土城いた信忠を策略で暗殺した。その犯人に明智光秀を仕立てて、天下取りを企てた。信長が京都へ上がったのは家来に中国・九州征伐を命じてその軍配を取るためである。そんな信長が悠長に本能寺でお茶会を行う訳がない。明智光秀、細川藤孝、筒井順慶、徳川家康らも出陣要請を受けて進軍していた。そんな情勢で信長を暗殺することは不可能である。不思議なことに筒井順慶は信長が出陣を取りやめて安土へ帰ったと言う書状(信長の花押がおされた)を受け取った。つまり、祐筆が書状を偽造したのである。光秀もその書状を受け取って腑に落ちないから安土城へ事情を聴きに安土へ向かった。信長を擁護する軍団が居なくなった隙に秀吉と家康が信長親子を暗殺した。秀吉・家康は信長の天下を盗んだ大悪党である。何が三英傑か、笑わせるな。
このじじい何言ってんだ
中西悠里さん、アナウンサーとしてはある状態を表現する言葉の語彙が少ないように感じます。特に昔の時代の事象を扱っているのだから
現代的な表現をするにしてもそれなりの言い方があると思います。もっと勉強して使い分け出来るようになって欲しい。
このアドバイスでは曖昧過ぎて、具体的にどう改善すべきか分かりづらいと思いますよ
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