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昔、授業を受けた先生が抑留経験者で「いつか帰れるという気持ちだけが頼りだった。その希望を見失ったら保たなかった。朝になったら同室の仲間が死んでたりしたんだ。」と話されていました。
異国の丘の歌詞ではないですがまさに「倒れちゃならない 祖国の土に 辿り着くまで その日まで」ですね
ある日捕虜になった日本兵が列車に乗せられ、数日揺られた後に広い海が見えてきた、皆口々に「日本海だ!」「帰れるぞ!」と叫んで喜んだそうですが、実は海ではなくバイカル湖で内陸に向かっているのだと知った時は言いようもない絶望に苛まれたそうです。
@@宇都宮秋人 まあ 人は信じたい事だけを信じるからな。 話を聞いただけでもゾッとするエピソードやね。
こういうのは酷だけど腐ってもソ連だからまだ“マシ”な方なのが辛い。これがナチスや大日本帝国の捕虜になった場合比較するのも烏滸がましいくらい捕虜死亡率が上がるのがあの時代の恐ろしいところですね……。
@@コンダイ ちょっと何言ってるか分かりません。
シェフの村上信夫氏のシベリア抑留時代の話にこんな事がありました。余命わずかな同僚が「パイナップルを食べたい」と言うが、極寒のシベリアにパイナップルなんて無いのでリンゴやレモン汁などでパイナップルもどきを作って食べさせるととても喜んでくれた。でもこの話は後日談があって、数か月後に例の同僚と再会した。なんとあのパイナップルを食べて、生き延びたいと思い元気になったというのだ。食欲は偉大ですね。
ある漫画家は戦地で熱病に苦しんでいる時に空襲で片腕を失い、気が狂いながらも配給の食糧だけでなく、軍医の分の食糧すらも奪ってガツガツ食べていたら、切り落とした腕の傷も治ったからな・・食べるのは元気の元ですね
@@もりかわにごう だからあんなに食べる事に執着していたのか。
@@もりかわにごう 鬼太郎のひとだね!持ち前の人柄など現地の部族の人には可愛がられてバナナなどご馳走をお裾分けしてもらったりしてたから同僚の兵隊よりは栄養をとれたみたいな事を自叙伝で言ってましたね
パイナップルもどきの話は、魚乃目三太さんの漫画『戦争めし』で読むことが出来ますね。
帝国ホテルの村上総料理長の逸話ですね。帝国の宴会でお見かけしたことがありますが、外見よりも腰の低い人だったかと思います。
ちなみに当時の黒パンは共産圏あるあるで型に塗るバターを工場で横流ししていて、その足りないバターの代わりに機械油のような油が塗ってあったらしくて臭くてやたらとまずかったらしい
それ、マーガリンかもしれません。グリスもマーガリンも初期は牛脂使ってたので、まんまなんですよね。
祖父がシベリア抑留に合ってタシュケント送りにされていたそうです。日本人捕虜は時計など身に着けてる所持品を収容先で看守してるソ連兵などにあげてタバコをもらってたそうです。必要なのはタバコより食料じゃなかったのと尋ねると、食料が欲しかったが、看守する側さえも食料は余裕がなかったから・・・と聞きました。ソ連はほんま・・・。捕虜は配給される食事以外にもネズミや獣をとらえて皆で食べたりもしてたとも言ってましたね。その辺は寛容な収容先だったので助かったとも言ってました。
祖父がシベリア抑留で亡くなりました。見るかどうか迷いましたが、今見ています。作成ありがとうございます。
生きて帰れなかった人達を思うと辛いものがありますね…
祖父が抑留され、2年半を経て帰還しました。移送列車が故障や天候不順で停まると、ソ連兵の目を盗んで、畑から野菜を取って来て貨車の中で食べたと言っていました。炭鉱では落盤も多かったと話していました。
「ラーゲリより愛をこめて」で黒パンのシーン印象的だった
母方の祖父がシベリアから帰る事ができなかったんですが、同じ部隊の人が帰還後訪ねてきて憶えている限りのことを話してくれたそうです。しかし食べ物に関する話はなかなかひどいもので、抑留経験者は大勢いるのに体験記が少ないのも無理もない感じです。
シベリア取り扱って頂いてありがとうございます。私の祖父もシベリア抑留で炭鉱での労働に従事しました。3日に1人亡くなる程壮絶で一日ジャガイモ3個しか食べれない時も有ったようです。金属に触ってしまうとひっついてとれなくなってしまうので気をつけていたと聞かされました。幸い祖父は指を一本無くしただけで帰って来れましたがこの事は忘れずに風化させないようにしたいです。
人参の青臭さが抜けるってのは寒さで糖分を溜め込んで甘くなったとかなのかな。雪の中に埋めてキャベツ甘くするやつあるし。
シベリア抑留は非常に辛いものだったと思うが、食事に関しては特に虐待や差別してこのような食事になったのではなく、普通にソ連兵も同じもの食って同じような労働をしていた彼らも貧しい農民の出身で社会主義の教育も受けていたので、比較的平等に扱われていたようだ。青トマトも彼らには普通の飯だが、抑留者はあまりの不味さに、空腹でも食いたくないと残した。米食の日本人には黒パンは馴染めず、下痢をして体力を奪われる人が多かったそうな
これでもドイツ兵捕虜が見たら絶望するほどマシな状況なのが恐ろしい
読んだのだとシベリア系と日本人は大差無いけど白人は良いもの食ってたってなってた。
待遇はドイツ兵が一番酷くて時点で日本兵、末端のソビエト兵の順だったそうなドイツに関しては裏切り者だし、最初から純粋に56すために働かせてたのかもな
ドイツ兵の捕虜が食事が酷くて看守に文句言いにいったらソ連兵も同じものを食べてて結局何も言えなかったみたいな話もありましたね
@@アンティーク-v1y フランス人はドイツ人の、ドイツ人はロシア人のパンが不味くて堅くて喰えないってのも有りましたね。耐寒性は反対らしく、フランスパンが棍棒になってもロシアパンは固まらないらしいですが。燕三条や札幌ラーメンと同じくスープは油で蓋されてるから冷え無いけど、口の周りで油が固まるとかそもそも暮らしてるのがヤバイみたいな話しだらけ。
昔、職場に出入りしていた警備のおじいさんがシベリア抑留の経験者で、毎朝最初の仕事が夜の間に凍死した仲間を埋葬することだと言っていたのを思い出した。
仕事で担当した方がシベリア帰りの方でした。黒パンのくじ引きや端っこの話は言ってました。味はすっぱくて不味いけど主食はこれしかなかったとか。堅くてモサモサしていたので薄いスープでふやかして食べたとか。でもノルマを達成しても配給量は変わらないとも言ってました。意外と付近の住民宅に行くことができたので、暖をとらせてもらうついでに、時々食べ物を分けてもらったこともあるとも語ってました。でも栄養失調になり、歯が半分くらい抜け落ちたそうです。
抑留体験者の方が遺骨を発掘するために日本政府に取り合ってロシア政府の協力のもと、現地で遺骨を探すということをコロナが流行する前にやっていたんです。途中、遺骨らしきものを見つけたのですがせっかく見つけたのに現地の法律で鑑定できなかったという話を抑留体験者の方から直接聞く機会がありました。その方の講演会に私も参加させていただいたのですが、遺骨調査の際に彼がシベリアに行った映像には、泣きながら「寒かったよなあ...痛かったよなあ...」と慰霊碑を拭いている映像があったんですよ。ロシア政府がシベリア抑留の過去にあまり触れてほしく無いという事実と慰霊碑に向かって犠牲者に慰めの言葉しか送れないやるせなさに会場が静まり返っていたのを今でも覚えています。
日本人の捕虜はシベリア各地だけでなく、ウクライナやバルト方面などはるか離れた地域にまで送られて分散させられた。だから食事も色々でした。
祖父の友人の抑留経験者は寒いし飯は少ないし寝床は酷かったけどそれ自体は死ぬほどじゃないっていってました ただ、体調を崩しても「役立たず」になり処分されることを恐れて不調を隠しながら働いて死ぬ人がかなりいたとその人は幸運にも待遇の良い病院に入れられて生き延びたみたいです
以下は辺見じゅん氏の『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』に載ってた話だと記憶してますが。「収容所で使役してた馬が病死した。ソ連側は死体を遺棄する際に「もし餓えた日本人捕虜が馬の死体を見つければたちまち拾って食べるだろう。不衛生な肉を食べて捕虜が働けなくなったらイカン」ということで馬の死体を肥溜め(ウンコ溜め)に沈めてしまった。しかし腹が減った日本人捕虜たちは肥溜めから馬の死体を引き上げて元肉屋だったものがきれいに表皮をはがしてあまさず喰ってしまった」というエピソードがあったそうです。
調理師の父が、抑留した曽祖父にトマトのスープを食べさせたら、シベリアでの経験を思い出して泣いていたそうです。
第二次大戦中のソ連兵の配給基準が:パン800g(冬900g)、ジャガイモ500g、野菜320g、シリアル又はパスタ170g、肉150g、魚100g、脂質50g、糖質35gとなってます。
1ヶ月で?一日で?
根菜類は低温栽培したり保管したりすると、自身の凍結防ぐために糖度を上げて耐える働きするみたいなので、それで甘くなったのかな…?
シベリア抑留者の体験記を読みましたが、砂糖が配給になってもパンやカーシャと交換する人が結構いたらしい。でも、黒パンやカーシャでは糖質が圧倒的に足りなくて、交換してしまった人は最悪の転機をとったんだそうだ。だから著者は交換しなかったとあった。スプーン一杯の砂糖の糖質が命を左右したのかと、思い出してゾッとした。
食べることは生きることそのものだから、食事が絶望的なのは生き残らせる気ゼロなんだなと感じました。そんな中でも希望を失わずに帰ってこられた方々には尊敬の念しかないけれど、道半ばで倒れてしまわれた方々の為にも、やはり戦争には絶対に負けちゃいけないんだなと改めて思いました。
感慨深いです、シベリア抑留されてた祖父がこんなものを食べていたとは。
10年ほど前に亡くなった祖父がシベリアのウハ地区に数年間抑留されていました。1日の食料は350gと決められていたそうですが、兵隊が横流しするものであるため実際には200g程度しかなかったそうです。
いつも楽しみにしてます!
この先も歴史+食事ネタ、闇の歴史シリーズを続けてほしいなんか支援いるなら支援したいので( `・∀・´)ノヨロシク
暗い話を客観視するのに明るい曲は知り得た知識が重くならなくて助かる。ナイス配慮👍
父方のおじいちゃん(沖縄出身)がシベリア帰りなので興味深い話題ですね。
ギョウジャニンニクは北海道でも旬の時期にスーパーに出回ってたりする。ジンギスカンと一緒に食べたりします。雪の下キャベツやニンジンは雪に埋めて糖度を上げる保存方法。
ソルジェニーツィンのイワン・デニソヴィッチの1日を思い出しますね…昼飯の挽き割りの粥一杯を落語の時そばみたいな手口でチョロまかすシーンが印象に残ってます
肉体労働だったからかもしれませんが、シベリア抑留捕虜の食事が、黒パン、カーシャ、スープというのは、質が問題だったとしても、終戦直後の状態を考えればまぁまぁなのではないでしょうか?私のドイツの恩師は、32年生まれで、故郷の西ベルリン地区で終戦を迎えています。ソ連ではなく英米仏占領区の西ベルリンなのに、配給食は、ジャガイモに油を掛けただけのものだったとか。でも、ふかしたてのジャガイモ、バターを載せるだけでも美味しいのですよね。ドイツでは今でも、ごく普通の食事です。昨日も私は、朝食はフルーツ入りのミューズリ、夕食は海老とわかめ入りの海鮮蕎麦でしたが、その間は、昼食というよりは午後の間食のような形で、ふかしたジャガイモにペッパーソースをかけて食べました。
うちの爺さんシベリア行ってたんだけど 苦労したんだなあ
私はディサービスで働いていた事が有ってシベリアに行った方もいました。食事の話しになるといつも涙を流して語る方がいました。
食事を残したり文句をつけると祖父に「俺が昔、シベリアにいた頃…」と説教されたことを思い出します。自分が好きなモノのときはそんなこと言わないんですけどねwww足を怪我して病院に入っていたので、普通より少し食事が良かったそうです。だから、帰ってこれたとのことでした。
岩手で一人暮らししてた若い頃、人参しか無くてそれ塩茹でにして一食(一日)済ませた事あったけど、甘くてとても旨かった。でも埼玉の実家に戻ってから思い出してやってみたら、まぁ…食えるかな、って程度だった。品種か生育環境の違いか、それとも自分の精神性が堕落したか…。
更に、過酷な労働プラスだぜ…。
カーシャって今のロシア軍のミリ飯にも入ってますね。お粥というよりも油飯って感じですが。
舞鶴の記念館でバンを計る天秤が展示してあった。極限状態になると日本人も争うのかと思った。記念館で流れていた「岸壁の母」は二葉百合子さんじゃ無く元曲の歌手だった。二葉百合子さんの岸壁の母がカバー曲とは知らなかった。
菊池章子ですね、星の流れにを歌った歌手
最近更新ないな〜って思った頃に貴重な時間を奪われてしまうwww
舅が5年間シベリア抑留経験者。楽天的で呑気なひとでしたね。出世なんか全く考えてなくて。その日その日楽しく過ごせれば良しと。その性格が幸いして生き延びたのかも。あと、身長150センチそこそこで小柄なのが良かったみたい。背が高いと消費カロリー多いので。
祖父がシベリア抑留されていたのですが、戦時中の話を家族に聞くという小学校の宿題で質問した時は「当時のことは思い出したくない」と話して貰えませんでした。祖母と母からそれぞれの思い出と、祖父がシベリアに居たこと、洋裁の技術があって室内で働けたために生き残れたことをこっそり教えてもらいました。戦地では上官からスリッパで叩かれてメガネが壊れて、視界がぼやけた状態で戦ってたなんて話はしてましたが、シベリアのことは最後まで口にしなかったです。
俺のばあちゃんのお父さんが抑留されていて、帰ってきた時のお父さんの顔や雰囲気がそれは恐ろしかったらしい。
長野県の大正時代の体験談では倒木を斧で割って焚き木で焼いておやつにして食べていた って話もありますので虫食は当時は一般的な地域もあったのでは?
親戚でシベリア抑留されてた人がいた。その人の家行くと仏間に抑留の慰労状みたいのが飾ってあって、幼少期は外国行って賞状貰ったのかー?なんで?くらいにしか思ってなかったシベリア抑留のこと知ってからは興味本位で聞いちゃいけない気がして、おじさんからは結局何の話も聞けなかった。出征前は地元では有名な学生スポーツの花形選手で、記憶の中でも優しくて子供とよく遊んでくれる面白いおじさんだった。こんな苦労してたんだな。ずっと前に亡くなったけど、おじさん思い出したわ。ちょっと泣いた。いい動画をありがとうございます。
35年前に他界した祖父も抑留者で生きて帰国できた一人したが、このようなものを食べたんですね 泣けてきます
"ラーゲリより愛を込めて"、めちゃめちゃ良かったので興味しかないですね
永遠の0の二番煎じみたいで良かったですよね!
@@少年ギター-q8x 戦時中の話ではないので、また別の面白さがありましたね!
@@転生さん-j1k 主人公の雰囲気です。最近の流行りと言うか
ご苦労様です
コメント欄知人や家族などに経験者の方が多いですね。自分の祖父や曽祖父はシベリア経験者ではなかったのでそのような話を聞くことはありませんでした。今こうしてこの動画を通じて当時の食事背景や貴重な体験談を聞けるのは大切なことなのかもしれない
ソバの身のカーシャは炊くと美味しいよ皆さんも一度ご賞味あれ
実際にシベリア送りになった叔父の話では「冬場、毎日のように、隣のやつが栄養失調で死んでいた」そうです。後に聞いた話では、ソ連本国からは必要最低限の食料は送られていたのに、途中で抜かれて、抑留者が悲惨な状態になったと聞いたことがあります。
ソヴィエトでは物資の輸送中の中抜きは常套手段で3割無くなるのは範囲内だったとか。それを考えたらあの国は一度無くした方が世界的にいいのかもしれませんね。あとCも。
おじいさん世代がシベリア抑留体験者の人なんか多いいけどどのくらいの年齢の人が見てるのか…
昔読んだ戦史ものでシベリア抑留で機械油で揚げものして食べたら腹壊したという記述があったのを思い出す。
村上信夫さんもよく生きて帰って帝国ホテルの総料理長までなれたなと…
じゃがいもは年2回収穫できるから貧しい地域の救世主だね
私の叔父さんがシベリア抑留されましたが、本職が農具鍛冶だったために無茶苦茶待遇が良かったらしいです。
寒い場所だから糖分を蓄えるんでしょうね。ちなみに食事はビーツメインだし、パンの端は江田島でも人気の所と手記が沢山あります(密度の関係)。
北海道のタコ部屋労働者の食生活もお願いします
野菜が甘くなるのは、多分雪下野菜みたいなものでしょうねでんぷんが糖に変換されて、甘さが増す効果があります雪国だと割とよくする方法です主に白菜や大根とかが多いですね
どんなに時代が変わろうと国の名前が変わってもあの国は変わらない。
カーシャは蕎麦の実のお粥ですね。立ち位置としてはオートミールに近いかも?蕎麦の香りがするので風味が良いです。牛肉の塊を茹でてほぐしたものと一緒に塩で炊くと美味しかった。TH-camrのトッカグンさんが海外のミリメシレポートされてますが、ロシアのミリメシだとほぼ100%入ってますね。めっちゃ旨そう。
カーシャはロシアで食べましたね。蕎麦は麺にするより粥の方がうまいんじゃないか?って印象。肉料理に物凄く合います
…当時の国際法は軽んじられたらしく、軍に属していない一般の日本国民も公正な裁きや扱い受けず、アメリカなども黙認する私的な刑罰が行われたのですか! その後アメリカは赤が世界を覆いやばいと騒いでいましたが、その一因を自分たちが作っていたのでしょう。あの食事見て、当時の捕まった日本人がソ連の囚人と言っても否定できませんね。ありがとうございました!
1秒と言わず100時間くらい奪ってくれてええんやで
人参が甘いのは日本でも雪国ではよくありますね、積雪下の土中で春まで休ませると糖度が増すのです。「雪下にんじん」が有名ですね。
うちの祖父は抑留中にとろろ昆布を持って行って(おそらくスープに入れて)食べてたそうで現地のロシア兵に「お前カエルの卵食べてるのか?」と気持ち悪がられていたらしい
儂の親父もシベリア抑留されてたから「蕎麦なんて見るのも嫌だ」って言ってましたな。まぁ晩年になってやっと食べられるようになりましたけどね。
歌手の三波春夫さんや考古学者の加藤九祚先生がシベリア抑留経験者だったそうですネ
でもシベリア抑留されて8割以上が生き残ったっていうのも逆に凄いですね!生命力がある!
人間の生命力が時に驚異的になるのは否定しませんが、遭難や災害で救出が少し遅れると生存率がどんどん下がるのと似ていて、抑留が長引けば犠牲者の割合は右肩上がりになったと思いますよ。
送られた先に待遇にピンキリあったからですね。待遇良かった話は余り表に出ない。
日本に捕らえられた連合軍兵士の帰還率はもっと低いはず。食べ物は収容所によって差が大きいようです。交換船に間に合わなかった市民である敵性外国人の収容所からの帰還率も低い。戦場では中国兵を捕虜にしていないのか、まとまった収容所の記録を読んだことがありません。軍は膨大な「遺棄死体」を戦果のように報告・記録している。
現時点の定説ではシベリアからほぼ90%が帰還したとのことです(復員省統計)。日本国内の収容所からの連合軍兵士の帰還率もほぼ同じですが、本土への移送中に1万死んでいるので、そこまで含めると70%。さらに手元に資料がない現地収容所のことは私には不明。
これは絶対に風化してはならない❗
近所にシベリア帰りのおじさんがいました。私の祖父は満洲帰りだったので、おじさんはよくウチに来て祖父と戦争の話をしていました。シベリアで生き抜くために、食べることに関するロシア語はみんなすぐに覚えたとか。外でお小水をすると、放尿したそばから凍って氷柱になるとか。二人は満洲とシベリアの話をよくしていました。ただ おじさんの家系は長生きなのですが、おじさんはガンで早くに亡くなりました。シベリアで身体を酷使したせいじゃないか…と近所では話していました。
スープには腐ったキャベツのスープとかも有ったそうですね。
寒いとこで育つ野菜は凍らないように体内に糖分を蓄えるから甘くなるっていいますね。にんじんとか青臭くないのもそうなんじゃないかな🤔
昔(90年代前半?)、日本とソ連の共同で、バイカル湖を調査する というTV番組があって、そのソ連側スタッフのお昼のメニューが、黒パン、ジャム、紅茶等という、とても質素な物でした。番組内の収容所のメニューと、大きな差がなく驚きです。もちろん、パンは上等な素材を用いて量も充分で、収容所より美味しい物なのでしょうけど。番組はTBSのギミアブレイクだったような…
胡桃沢耕史先生の黒パン俘虜記オススメです。
飯盒を大切にしたよね、
暁に祈る…
そもそも、ソ連は自国民にも同じ有様やったから何とも言えないところなのよね
祖父がシベリア抑留者で、スープにキャベツが1枚でも入ってれば取り合いだったし、朝起きたら昨日まで話してた人が冷たくなっていたという話を聞いた
母方の祖父が抑留者でした。体壊して作業免除になった後、自由時間にひたすら食いもん集めてたと語っていました。「テン(イタチみたいな動物)は食えたもんじゃなかった」という話が印象に残ってます。
人参とか野菜に関しては他、果物なんかも温度差で糖度が高まるらしい( 一一)
忘れない
ロシアへの認識を深める良い動画
私の父方の一族はその満州に行っていたのですけど、ソ連に襲われたので緊急脱出着の身着のままで財産置きっぱなしでの逃避行でしたが、おかげで一族は一人も欠けることなく日本へ脱出できたそうです、今に続く禍根できちゃいましたけど(7:05)ロシアの国はともかく、人と文化は私も好きです/////(←※一応、現当主)
祖父は蒸した芋を食べていたと言ってました!
ウチの死んだじいさんは凍ったトマトが出されたって言ってたなあ。
今もロシアはウクライナの罪なき人たちをシベリア送りにしているという事実に驚愕。
1:35 アンゴラたちの踊り
うちの爺さんもこれ食ってたんかなあ・・・(祖父がシベリアで強制労働させられた孫の言い分
1ヶ月前に[ラーゲリより愛を込めて]を見に行きました、下士官と思われる人物が兵が食べてる黒パンを見て「俺の黒パンと交換な?」と言って強引に交換させてました(多分 交換を拒否したら暴行されます)
これでもドイツ兵捕虜の状況と較べたら遥かにマシだという恐怖
いや、自分は両方体験記読んだけど、ドイツ人はロシアの西側が多くて、シベリアとかは日本人が多かったらしいし、大都市に近い程まともで、日本人から見たらロシア人→ドイツ人→シベリア人→日本人の順で食事悪化してたらしい。凍らない黒パンや固まらないマーガリンはドイツ人には拷問だったみたいだけど、日本人は量の不満の方が深刻だったみたい。ストーブが白人宿舎にしかなかったとか、会話が出来るかどうかで扱いが変わったとか、日本人から見たドイツ人贔屓は結構有るけどドイツ人側はほとんど無かった。まあ、ナチだとヤバイとか、反共産主義はヤバイは共通してたけど。後、ドイツ側には英雄の特別扱いが有ったらしいけど、日本側では載って無かった。後、ドイツの帰還者数は十年以内とか区切って、帰化したり、他の国に行った人とかは抜いてるから生存者数ではなかったりする
星林がドアの向こうでこの動画を観ているかも…
第二次世界大戦の終わりって9月2日じゃなかったっけ?
3:16コーリャンは人間も食ってたくね?本土の兵隊すら末期になると食ってたって本で見たことあるわ
現国の教科書に載ってた『黒パン捕虜記』の、杏の体臭がするロシア兵士は、凄く良い人だったんだなぁ
母が生前「暁に祈る」について話してくれました。抑留日本人同士の◯し合いです。その一方ですが 私が実家から独立した時に近所のお爺さんから抑留時のお話を伺いました。その方は陸軍航空隊地上勤務だった様ですがソ連に部隊備品の香水を提出したところ大変喜ばれて比較的待遇が良かったそうです(香水はパイロットが戦死しても見苦しくない為に持つものだそうです)。その方は60代にしか見えず「流石にシベリアから生還した人は身体の作りが違う」と感心したものでした。因みにソ連では戦後の方がレンドリースが無くなった為か飢餓が酷くなったそうですが それが抑留者の待遇にも影響したのでしょうか?
ホロドモールや長年の農民いじめ処刑で農業の崩壊穀物類不足のピークが丁度日本人抑留者のいた時代ではないかな、戦後間も無く大不作の年をはさんで1960年〜から徐々に農作物の生産が回復しだすようなので、じいちゃん達のいた時代が最も食糧が過酷な時代でそういう意味で影響してたのではないでしょうかある帰還者の手帳だと酷い時だと1日2.3個のジャガイモと平時の3/1の黒パンだそうで、配給が少なくなったのは上官の食糧の横流しだそうです。
①ソ連の食料生産地はチェルノゼムと呼ばれる栄養豊かな黒土がある場所。②チェルノゼムはウクライナ地域に分布③ウクライナ地域は独ソ戦の一大戦場④故に、ウクライナ荒れ放題、戦争で農民(労働者)不足、食料生産行えず⑤慢性的な食料不足に陥る(抑留された人と当時のソ連人の食事事情は同じよう)という流れですね
@@暇な人-n1p 戦後スターリンが人為的・計画的な飢餓を起こさせてウクライナは大変な目にあってるんだよね、何かのインタビューで現代もその時の恨みを忘れてないとかウクライナ人が言ってた
@@nanasinasi-m8d それ、戦前のお話で、ホロドモールってやつですね。NHKの映像の世紀にも出てきたお話です。なので、戦後の食料不足からは少し外れたお話ですね
@@暇な人-n1p ほんとだ勘違いしてたw
松虫って、薪を割ると出てくる鉄砲虫のことかな? 投げ捨てると鳥が食べるアノ虫を人が食べたってこと?
シベリア抑留については、経緯はどうであれ、戦時捕虜として日本政府の責任であることが日本の裁判所で確定してます。それに基づいて、2010年に「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」が成立してます。
00:07 ソ連(ロシア)は今でもアレなんだよなぁ……w
うちの祖父はシベリアに8年抑留されてたから気になって見てみた。イジメの様な実験で、冷たい氷水に手をどれくらい長く入れていられるかとかさせられたとか。看守自体は良いロシア人もいたそうだけど。その後は、アカの国から帰って来たからと良い職には就けなかった。そして私はドイツ在住で旦那はドイツ人だけど、旦那の祖父はアメリカ軍の捕虜になってたそうな。キッチン担当に任命されてラッキーで、玉ねぎくすねて生で丸齧りしたとか話してくれた。その後は大学に行って開業医になった。義祖父は面白おかしくアメリカ捕虜時代の事を話してたし、捕虜になるならアメリカ側だなと思った。。。
抑留グルメというより苦行(´;ω;`)
爺さんがシベリア送りにされてたけれど爺さん大工だったので重宝されてたので看守がウオッカ飲んで寝ている時に見回り兵が目配せで腰の鍵取れと。食材庫に行っても見逃してたらしい!
日本が終戦で完全に骨抜きにされてたら北海道はロシア領になってたし青森もウクライナみたいに侵略されてたと思うと恐ろしいな…
昔、授業を受けた先生が抑留経験者で「いつか帰れるという気持ちだけが頼りだった。その希望を見失ったら保たなかった。朝になったら同室の仲間が死んでたりしたんだ。」と話されていました。
異国の丘の歌詞ではないですがまさに「倒れちゃならない 祖国の土に 辿り着くまで その日まで」ですね
ある日捕虜になった日本兵が列車に乗せられ、数日揺られた後に広い海が見えてきた、皆口々に「日本海だ!」「帰れるぞ!」と叫んで喜んだそうですが、実は海ではなくバイカル湖で内陸に向かっているのだと知った時は言いようもない絶望に苛まれたそうです。
@@宇都宮秋人 まあ 人は信じたい事だけを信じるからな。
話を聞いただけでもゾッとするエピソードやね。
こういうのは酷だけど腐ってもソ連だからまだ“マシ”な方なのが辛い。
これがナチスや大日本帝国の捕虜になった場合比較するのも烏滸がましいくらい捕虜死亡率が上がるのがあの時代の恐ろしいところですね……。
@@コンダイ
ちょっと何言ってるか分かりません。
シェフの村上信夫氏のシベリア抑留時代の話にこんな事がありました。余命わずかな同僚が「パイナップルを食べたい」と言うが、極寒のシベリアにパイナップルなんて無いのでリンゴやレモン汁などでパイナップルもどきを作って食べさせるととても喜んでくれた。
でもこの話は後日談があって、数か月後に例の同僚と再会した。なんとあのパイナップルを食べて、生き延びたいと思い元気になったというのだ。
食欲は偉大ですね。
ある漫画家は戦地で熱病に苦しんでいる時に空襲で片腕を失い、気が狂いながらも配給の食糧だけでなく、軍医の分の食糧すらも奪ってガツガツ食べていたら、切り落とした腕の傷も治ったからな・・食べるのは元気の元ですね
@@もりかわにごう だからあんなに食べる事に執着していたのか。
@@もりかわにごう 鬼太郎のひとだね!持ち前の人柄など現地の部族の人には可愛がられてバナナなどご馳走をお裾分けしてもらったりしてたから同僚の兵隊よりは栄養をとれたみたいな事を自叙伝で言ってましたね
パイナップルもどきの話は、魚乃目三太さんの漫画『戦争めし』で読むことが出来ますね。
帝国ホテルの村上総料理長の逸話ですね。帝国の宴会でお見かけしたことがありますが、外見よりも腰の低い人だったかと思います。
ちなみに当時の黒パンは共産圏あるあるで型に塗るバターを工場で横流ししていて、その足りないバターの代わりに機械油のような油が塗ってあったらしくて臭くてやたらとまずかったらしい
それ、マーガリンかもしれません。
グリスもマーガリンも初期は牛脂使ってたので、まんまなんですよね。
祖父がシベリア抑留に合ってタシュケント送りにされていたそうです。日本人捕虜は時計など身に着けてる所持品を収容先で看守してるソ連兵などにあげてタバコをもらってたそうです。必要なのはタバコより食料じゃなかったのと尋ねると、食料が欲しかったが、看守する側さえも食料は余裕がなかったから・・・と聞きました。ソ連はほんま・・・。
捕虜は配給される食事以外にもネズミや獣をとらえて皆で食べたりもしてたとも言ってましたね。その辺は寛容な収容先だったので助かったとも言ってました。
祖父がシベリア抑留で亡くなりました。見るかどうか迷いましたが、今見ています。作成ありがとうございます。
生きて帰れなかった人達を思うと辛いものがありますね…
祖父が抑留され、2年半を経て帰還しました。
移送列車が故障や天候不順で停まると、ソ連兵の目を盗んで、畑から野菜を取って来て貨車の中で食べたと言っていました。
炭鉱では落盤も多かったと話していました。
「ラーゲリより愛をこめて」で黒パンのシーン印象的だった
母方の祖父がシベリアから帰る事ができなかったんですが、同じ部隊の人が帰還後訪ねてきて憶えている限りのことを話してくれたそうです。しかし食べ物に関する話はなかなかひどいもので、抑留経験者は大勢いるのに体験記が少ないのも無理もない感じです。
シベリア取り扱って頂いてありがとうございます。私の祖父もシベリア抑留で炭鉱での労働に従事しました。3日に1人亡くなる程壮絶で一日ジャガイモ3個しか食べれない時も有ったようです。金属に触ってしまうとひっついてとれなくなってしまうので気をつけていたと聞かされました。
幸い祖父は指を一本無くしただけで帰って来れましたがこの事は忘れずに風化させないようにしたいです。
人参の青臭さが抜けるってのは寒さで糖分を溜め込んで甘くなったとかなのかな。雪の中に埋めてキャベツ甘くするやつあるし。
シベリア抑留は非常に辛いものだったと思うが、食事に関しては特に虐待や差別してこのような食事になったのではなく、普通にソ連兵も同じもの食って同じような労働をしていた
彼らも貧しい農民の出身で社会主義の教育も受けていたので、比較的平等に扱われていたようだ。青トマトも彼らには普通の飯だが、抑留者はあまりの不味さに、空腹でも食いたくないと残した。米食の日本人には黒パンは馴染めず、下痢をして体力を奪われる人が多かったそうな
これでもドイツ兵捕虜が見たら絶望するほどマシな状況なのが恐ろしい
読んだのだとシベリア系と日本人は大差無いけど白人は良いもの食ってたってなってた。
待遇はドイツ兵が一番酷くて時点で日本兵、末端のソビエト兵の順だったそうな
ドイツに関しては裏切り者だし、最初から純粋に56すために働かせてたのかもな
ドイツ兵の捕虜が食事が酷くて看守に文句言いにいったらソ連兵も同じものを食べてて結局何も言えなかったみたいな話もありましたね
@@アンティーク-v1y フランス人はドイツ人の、ドイツ人はロシア人のパンが不味くて堅くて喰えないってのも有りましたね。
耐寒性は反対らしく、フランスパンが棍棒になってもロシアパンは固まらないらしいですが。
燕三条や札幌ラーメンと同じくスープは油で蓋されてるから冷え無いけど、口の周りで油が固まるとか
そもそも暮らしてるのがヤバイみたいな話しだらけ。
昔、職場に出入りしていた警備のおじいさんがシベリア抑留の経験者で、毎朝最初の仕事が夜の間に凍死した仲間を埋葬することだと言っていたのを思い出した。
仕事で担当した方がシベリア帰りの方でした。黒パンのくじ引きや端っこの話は言ってました。味はすっぱくて不味いけど主食はこれしかなかったとか。堅くてモサモサしていたので薄いスープでふやかして食べたとか。でもノルマを達成しても配給量は変わらないとも言ってました。意外と付近の住民宅に行くことができたので、暖をとらせてもらうついでに、時々食べ物を分けてもらったこともあるとも語ってました。でも栄養失調になり、歯が半分くらい抜け落ちたそうです。
抑留体験者の方が遺骨を発掘するために日本政府に取り合ってロシア政府の協力のもと、現地で遺骨を探すということをコロナが流行する前にやっていたんです。
途中、遺骨らしきものを見つけたのですがせっかく見つけたのに現地の法律で鑑定できなかったという話を抑留体験者の方から直接聞く機会がありました。
その方の講演会に私も参加させていただいたのですが、遺骨調査の際に彼がシベリアに行った映像には、泣きながら「寒かったよなあ...痛かったよなあ...」と慰霊碑を拭いている映像があったんですよ。
ロシア政府がシベリア抑留の過去にあまり触れてほしく無いという事実と慰霊碑に向かって犠牲者に慰めの言葉しか送れないやるせなさに会場が静まり返っていたのを今でも覚えています。
日本人の捕虜はシベリア各地だけでなく、ウクライナやバルト方面などはるか離れた地域にまで送られて分散させられた。だから食事も色々でした。
祖父の友人の抑留経験者は寒いし飯は少ないし寝床は酷かったけどそれ自体は死ぬほどじゃないっていってました ただ、体調を崩しても「役立たず」になり処分されることを恐れて不調を隠しながら働いて死ぬ人がかなりいたと
その人は幸運にも待遇の良い病院に入れられて生き延びたみたいです
以下は辺見じゅん氏の『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』に載ってた話だと記憶してますが。
「収容所で使役してた馬が病死した。ソ連側は死体を遺棄する際に「もし餓えた日本人捕虜が馬の死体を見つければたちまち拾って食べるだろう。不衛生な肉を食べて捕虜が働けなくなったらイカン」ということで馬の死体を肥溜め(ウンコ溜め)に沈めてしまった。
しかし腹が減った日本人捕虜たちは肥溜めから馬の死体を引き上げて元肉屋だったものがきれいに表皮をはがしてあまさず喰ってしまった」というエピソードがあったそうです。
調理師の父が、抑留した曽祖父にトマトのスープを食べさせたら、シベリアでの経験を思い出して泣いていたそうです。
第二次大戦中のソ連兵の配給基準が:
パン800g(冬900g)、ジャガイモ500g、野菜320g、シリアル又はパスタ170g、肉150g、魚100g、脂質50g、糖質35g
となってます。
1ヶ月で?一日で?
根菜類は低温栽培したり保管したりすると、自身の凍結防ぐために糖度を上げて耐える働きするみたいなので、それで甘くなったのかな…?
シベリア抑留者の体験記を読みましたが、砂糖が配給になってもパンやカーシャと交換する人が結構いたらしい。でも、黒パンやカーシャでは糖質が圧倒的に足りなくて、交換してしまった人は最悪の転機をとったんだそうだ。だから著者は交換しなかったとあった。スプーン一杯の砂糖の糖質が命を左右したのかと、思い出してゾッとした。
食べることは生きることそのものだから、
食事が絶望的なのは生き残らせる気ゼロなんだなと感じました。
そんな中でも希望を失わずに帰ってこられた方々には尊敬の念しかないけれど、
道半ばで倒れてしまわれた方々の為にも、やはり戦争には絶対に負けちゃいけないんだなと改めて思いました。
感慨深いです、シベリア抑留されてた祖父がこんなものを食べていたとは。
10年ほど前に亡くなった祖父がシベリアのウハ地区に数年間抑留されていました。1日の食料は350gと決められていたそうですが、兵隊が横流しするものであるため実際には200g程度しかなかったそうです。
いつも楽しみにしてます!
この先も歴史+食事ネタ、闇の歴史シリーズを続けてほしい
なんか支援いるなら支援したいので( `・∀・´)ノヨロシク
暗い話を客観視するのに明るい曲は知り得た知識が重くならなくて助かる。ナイス配慮👍
父方のおじいちゃん(沖縄出身)がシベリア帰りなので興味深い話題ですね。
ギョウジャニンニクは北海道でも旬の時期にスーパーに出回ってたりする。ジンギスカンと一緒に食べたりします。雪の下キャベツやニンジンは雪に埋めて糖度を上げる保存方法。
ソルジェニーツィンのイワン・デニソヴィッチの1日を思い出しますね…
昼飯の挽き割りの粥一杯を落語の時そばみたいな手口でチョロまかすシーンが印象に残ってます
肉体労働だったからかもしれませんが、シベリア抑留捕虜の食事が、黒パン、カーシャ、スープというのは、質が問題だったとしても、終戦直後の状態を考えればまぁまぁなのではないでしょうか?
私のドイツの恩師は、32年生まれで、故郷の西ベルリン地区で終戦を迎えています。
ソ連ではなく英米仏占領区の西ベルリンなのに、配給食は、ジャガイモに油を掛けただけのものだったとか。
でも、ふかしたてのジャガイモ、バターを載せるだけでも美味しいのですよね。ドイツでは今でも、ごく普通の食事です。
昨日も私は、朝食はフルーツ入りのミューズリ、夕食は海老とわかめ入りの海鮮蕎麦でしたが、その間は、昼食というよりは午後の間食のような形で、ふかしたジャガイモにペッパーソースをかけて食べました。
うちの爺さんシベリア行ってたんだけど 苦労したんだなあ
私はディサービスで働いていた事が有ってシベリアに行った方もいました。食事の話しになるといつも涙を流して語る方がいました。
食事を残したり文句をつけると祖父に「俺が昔、シベリアにいた頃…」と説教されたことを思い出します。自分が好きなモノのときはそんなこと言わないんですけどねwww
足を怪我して病院に入っていたので、普通より少し食事が良かったそうです。
だから、帰ってこれたとのことでした。
岩手で一人暮らししてた若い頃、人参しか無くてそれ塩茹でにして一食(一日)済ませた事あったけど、甘くてとても旨かった。でも埼玉の実家に戻ってから思い出してやってみたら、まぁ…食えるかな、って程度だった。品種か生育環境の違いか、それとも自分の精神性が堕落したか…。
更に、過酷な労働プラスだぜ…。
カーシャって今のロシア軍のミリ飯にも入ってますね。
お粥というよりも油飯って感じですが。
舞鶴の記念館でバンを計る天秤が展示してあった。極限状態になると日本人も争うのかと思った。記念館で流れていた「岸壁の母」は二葉百合子さんじゃ無く元曲の歌手だった。二葉百合子さんの岸壁の母がカバー曲とは知らなかった。
菊池章子ですね、星の流れにを歌った歌手
最近更新ないな〜って思った頃に貴重な時間を奪われてしまうwww
舅が5年間シベリア抑留経験者。楽天的で呑気なひとでしたね。出世なんか全く考えてなくて。その日その日楽しく過ごせれば良しと。その性格が幸いして生き延びたのかも。あと、身長150センチそこそこで小柄なのが良かったみたい。背が高いと消費カロリー多いので。
祖父がシベリア抑留されていたのですが、戦時中の話を家族に聞くという小学校の宿題で質問した時は「当時のことは思い出したくない」と話して貰えませんでした。祖母と母からそれぞれの思い出と、祖父がシベリアに居たこと、洋裁の技術があって室内で働けたために生き残れたことをこっそり教えてもらいました。戦地では上官からスリッパで叩かれてメガネが壊れて、視界がぼやけた状態で戦ってたなんて話はしてましたが、シベリアのことは最後まで口にしなかったです。
俺のばあちゃんのお父さんが抑留されていて、帰ってきた時のお父さんの顔や雰囲気がそれは恐ろしかったらしい。
長野県の大正時代の体験談では倒木を斧で割って焚き木で焼いておやつにして食べていた って話もありますので虫食は当時は一般的な地域もあったのでは?
親戚でシベリア抑留されてた人がいた。
その人の家行くと仏間に抑留の慰労状みたいのが飾ってあって、幼少期は外国行って賞状貰ったのかー?なんで?くらいにしか思ってなかった
シベリア抑留のこと知ってからは興味本位で聞いちゃいけない気がして、おじさんからは結局何の話も聞けなかった。
出征前は地元では有名な学生スポーツの花形選手で、記憶の中でも優しくて子供とよく遊んでくれる面白いおじさんだった。
こんな苦労してたんだな。
ずっと前に亡くなったけど、おじさん思い出したわ。ちょっと泣いた。
いい動画をありがとうございます。
35年前に他界した祖父も抑留者で生きて帰国できた一人したが、このようなものを食べたんですね 泣けてきます
"ラーゲリより愛を込めて"、めちゃめちゃ良かったので興味しかないですね
永遠の0の二番煎じみたいで良かったですよね!
@@少年ギター-q8x 戦時中の話ではないので、また別の面白さがありましたね!
@@転生さん-j1k 主人公の雰囲気です。
最近の流行りと言うか
ご苦労様です
コメント欄知人や家族などに経験者の方が多いですね。自分の祖父や曽祖父はシベリア経験者ではなかったのでそのような話を聞くことはありませんでした。今こうしてこの動画を通じて当時の食事背景や貴重な体験談を聞けるのは大切なことなのかもしれない
ソバの身のカーシャは炊くと美味しいよ
皆さんも一度ご賞味あれ
実際にシベリア送りになった叔父の話では「冬場、毎日のように、隣のやつが栄養失調で死んでいた」そうです。
後に聞いた話では、ソ連本国からは必要最低限の食料は送られていたのに、途中で抜かれて、抑留者が悲惨な状態になったと聞いたことがあります。
ソヴィエトでは物資の輸送中の中抜きは常套手段で3割無くなるのは範囲内だったとか。
それを考えたらあの国は一度無くした方が世界的にいいのかもしれませんね。あとCも。
おじいさん世代がシベリア抑留体験者の人なんか多いいけどどのくらいの年齢の人が見てるのか…
昔読んだ戦史ものでシベリア抑留で機械油で揚げものして食べたら腹壊したという記述があったのを思い出す。
村上信夫さんもよく生きて帰って帝国ホテルの総料理長までなれたなと…
じゃがいもは年2回収穫できるから貧しい地域の救世主だね
私の叔父さんがシベリア抑留されましたが、本職が農具鍛冶だったために無茶苦茶待遇が良かったらしいです。
寒い場所だから糖分を蓄えるんでしょうね。ちなみに食事はビーツメインだし、パンの端は江田島でも人気の所と手記が沢山あります(密度の関係)。
北海道のタコ部屋労働者の食生活もお願いします
野菜が甘くなるのは、多分雪下野菜みたいなものでしょうね
でんぷんが糖に変換されて、甘さが増す効果があります
雪国だと割とよくする方法です
主に白菜や大根とかが多いですね
どんなに時代が変わろうと
国の名前が変わっても
あの国は変わらない。
カーシャは蕎麦の実のお粥ですね。立ち位置としてはオートミールに近いかも?蕎麦の香りがするので風味が良いです。牛肉の塊を茹でてほぐしたものと一緒に塩で炊くと美味しかった。
TH-camrのトッカグンさんが海外のミリメシレポートされてますが、ロシアのミリメシだとほぼ100%入ってますね。めっちゃ旨そう。
カーシャはロシアで食べましたね。蕎麦は麺にするより粥の方がうまいんじゃないか?って印象。肉料理に物凄く合います
…当時の国際法は軽んじられたらしく、軍に属していない一般の日本国民も公正な裁きや扱い受けず、アメリカなども黙認する私的な刑罰が行われたのですか! その後アメリカは赤が世界を覆いやばいと騒いでいましたが、その一因を自分たちが作っていたのでしょう。あの食事見て、当時の捕まった日本人がソ連の囚人と言っても否定できませんね。ありがとうございました!
1秒と言わず100時間くらい奪ってくれてええんやで
人参が甘いのは日本でも雪国ではよくありますね、積雪下の土中で春まで休ませると糖度が増すのです。「雪下にんじん」が有名ですね。
うちの祖父は抑留中にとろろ昆布を持って行って(おそらくスープに入れて)食べてたそうで
現地のロシア兵に「お前カエルの卵食べてるのか?」と気持ち悪がられていたらしい
儂の親父もシベリア抑留されてたから「蕎麦なんて見るのも嫌だ」って言ってましたな。
まぁ晩年になってやっと食べられるようになりましたけどね。
歌手の三波春夫さんや考古学者の加藤九祚先生がシベリア抑留経験者だったそうですネ
でもシベリア抑留されて8割以上が生き残ったっていうのも逆に凄いですね!生命力がある!
人間の生命力が時に驚異的になるのは否定しませんが、遭難や災害で救出が少し遅れると生存率がどんどん下がるのと似ていて、抑留が長引けば犠牲者の割合は右肩上がりになったと思いますよ。
送られた先に待遇にピンキリあったからですね。待遇良かった話は余り表に出ない。
日本に捕らえられた連合軍兵士の帰還率はもっと低いはず。食べ物は収容所によって差が大きいようです。交換船に間に合わなかった市民である敵性外国人の収容所からの帰還率も低い。戦場では中国兵を捕虜にしていないのか、まとまった収容所の記録を読んだことがありません。軍は膨大な「遺棄死体」を戦果のように報告・記録している。
現時点の定説ではシベリアからほぼ90%が帰還したとのことです(復員省統計)。日本国内の収容所からの連合軍兵士の帰還率もほぼ同じですが、本土への移送中に1万死んでいるので、そこまで含めると70%。さらに手元に資料がない現地収容所のことは私には不明。
これは絶対に風化してはならない❗
近所にシベリア帰りのおじさんがいました。私の祖父は満洲帰りだったので、おじさんはよくウチに来て祖父と戦争の話をしていました。
シベリアで生き抜くために、食べることに関するロシア語はみんなすぐに覚えたとか。外でお小水をすると、放尿したそばから凍って氷柱になるとか。
二人は満洲とシベリアの話をよくしていました。
ただ おじさんの家系は長生きなのですが、おじさんはガンで早くに亡くなりました。シベリアで身体を酷使したせいじゃないか…と近所では話していました。
スープには腐ったキャベツのスープとかも有ったそうですね。
寒いとこで育つ野菜は
凍らないように体内に糖分を蓄えるから
甘くなるっていいますね。
にんじんとか青臭くないのも
そうなんじゃないかな🤔
昔(90年代前半?)、日本とソ連の共同で、バイカル湖を調査する というTV番組があって、
そのソ連側スタッフのお昼のメニューが、
黒パン、ジャム、紅茶等という、とても質素な物でした。
番組内の収容所のメニューと、大きな差がなく驚きです。
もちろん、パンは上等な素材を用いて量も充分で、収容所より美味しい物なのでしょうけど。
番組はTBSのギミアブレイクだったような…
胡桃沢耕史先生の黒パン俘虜記オススメです。
飯盒を大切にしたよね、
暁に祈る…
そもそも、ソ連は自国民にも同じ有様やったから何とも言えないところなのよね
祖父がシベリア抑留者で、スープにキャベツが1枚でも入ってれば取り合いだったし、朝起きたら昨日まで話してた人が冷たくなっていたという話を聞いた
母方の祖父が抑留者でした。体壊して作業免除になった後、自由時間にひたすら食いもん集めてたと語っていました。
「テン(イタチみたいな動物)は食えたもんじゃなかった」という話が印象に残ってます。
人参とか野菜に関しては他、果物なんかも温度差で糖度が高まるらしい( 一一)
忘れない
ロシアへの認識を深める良い動画
私の父方の一族はその満州に行っていたのですけど、ソ連に襲われたので緊急脱出
着の身着のままで財産置きっぱなしでの逃避行でしたが、おかげで一族は一人も欠けることなく日本へ脱出できたそうです、今に続く禍根できちゃいましたけど
(7:05)ロシアの国はともかく、人と文化は私も好きです/////(←※一応、現当主)
祖父は蒸した芋を食べていたと言ってました!
ウチの死んだじいさんは凍ったトマトが出されたって言ってたなあ。
今もロシアはウクライナの罪なき人たちをシベリア送りにしているという事実に驚愕。
1:35 アンゴラたちの踊り
うちの爺さんもこれ食ってたんかなあ・・・(祖父がシベリアで強制労働させられた孫の言い分
1ヶ月前に[ラーゲリより愛を込めて]を見に行きました、下士官と思われる人物が兵が食べてる黒パンを見て「俺の黒パンと交換な?」と言って強引に交換させてました(多分 交換を拒否したら暴行されます)
これでもドイツ兵捕虜の状況と較べたら遥かにマシだという恐怖
いや、自分は両方体験記読んだけど、ドイツ人はロシアの西側が多くて、シベリアとかは日本人が多かったらしいし、大都市に近い程まともで、日本人から見たらロシア人→ドイツ人→シベリア人→日本人の順で食事悪化してたらしい。
凍らない黒パンや固まらないマーガリンはドイツ人には拷問だったみたいだけど、日本人は量の不満の方が深刻だったみたい。
ストーブが白人宿舎にしかなかったとか、会話が出来るかどうかで扱いが変わったとか、日本人から見たドイツ人贔屓は結構有るけどドイツ人側はほとんど無かった。
まあ、ナチだとヤバイとか、反共産主義はヤバイは共通してたけど。
後、ドイツ側には英雄の特別扱いが有ったらしいけど、日本側では載って無かった。
後、ドイツの帰還者数は十年以内とか区切って、帰化したり、他の国に行った人とかは抜いてるから生存者数ではなかったりする
星林がドアの向こうでこの動画を観ているかも…
第二次世界大戦の終わりって9月2日じゃなかったっけ?
3:16
コーリャンは人間も食ってたくね?
本土の兵隊すら末期になると食ってたって本で見たことあるわ
現国の教科書に載ってた『黒パン捕虜記』の、杏の体臭がするロシア兵士は、凄く良い人だったんだなぁ
母が生前「暁に祈る」について話してくれました。
抑留日本人同士の◯し合いです。
その一方ですが 私が実家から独立した時に近所のお爺さんから抑留時のお話を伺いました。
その方は陸軍航空隊地上勤務だった様ですがソ連に部隊備品の香水を提出したところ大変喜ばれて比較的待遇が良かったそうです(香水はパイロットが戦死しても見苦しくない為に持つものだそうです)。
その方は60代にしか見えず「流石にシベリアから生還した人は身体の作りが違う」と感心したものでした。
因みにソ連では戦後の方がレンドリースが無くなった為か飢餓が酷くなったそうですが それが抑留者の待遇にも影響したのでしょうか?
ホロドモールや長年の農民いじめ処刑で農業の崩壊穀物類不足のピークが丁度日本人抑留者のいた時代ではないかな、戦後間も無く大不作の年をはさんで1960年〜から徐々に農作物の生産が回復しだすようなので、じいちゃん達のいた時代が最も食糧が過酷な時代でそういう意味で影響してたのではないでしょうか
ある帰還者の手帳だと酷い時だと1日2.3個のジャガイモと平時の3/1の黒パンだそうで、配給が少なくなったのは上官の食糧の横流しだそうです。
①ソ連の食料生産地はチェルノゼムと呼ばれる栄養豊かな黒土がある場所。
②チェルノゼムはウクライナ地域に分布
③ウクライナ地域は独ソ戦の一大戦場
④故に、ウクライナ荒れ放題、戦争で農民(労働者)不足、食料生産行えず
⑤慢性的な食料不足に陥る(抑留された人と当時のソ連人の食事事情は同じよう)
という流れですね
@@暇な人-n1p 戦後スターリンが人為的・計画的な飢餓を起こさせてウクライナは大変な目にあってるんだよね、何かのインタビューで現代もその時の恨みを忘れてないとかウクライナ人が言ってた
@@nanasinasi-m8d それ、戦前のお話で、ホロドモールってやつですね。
NHKの映像の世紀にも出てきたお話です。
なので、戦後の食料不足からは少し外れたお話ですね
@@暇な人-n1p ほんとだ勘違いしてたw
松虫って、薪を割ると出てくる鉄砲虫のことかな? 投げ捨てると鳥が食べるアノ虫を人が食べたってこと?
シベリア抑留については、経緯はどうであれ、戦時捕虜として日本政府の責任であることが日本の裁判所で確定してます。それに基づいて、2010年に「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」が成立してます。
00:07 ソ連(ロシア)は今でもアレなんだよなぁ……w
うちの祖父はシベリアに8年抑留されてたから気になって見てみた。イジメの様な実験で、冷たい氷水に手をどれくらい長く入れていられるかとかさせられたとか。看守自体は良いロシア人もいたそうだけど。その後は、アカの国から帰って来たからと良い職には就けなかった。
そして私はドイツ在住で旦那はドイツ人だけど、旦那の祖父はアメリカ軍の捕虜になってたそうな。キッチン担当に任命されてラッキーで、玉ねぎくすねて生で丸齧りしたとか話してくれた。その後は大学に行って開業医になった。
義祖父は面白おかしくアメリカ捕虜時代の事を話してたし、捕虜になるならアメリカ側だなと思った。。。
抑留グルメというより苦行(´;ω;`)
爺さんがシベリア送りにされてたけれど爺さん大工だったので重宝されてたので看守がウオッカ飲んで寝ている時に見回り兵が目配せで腰の鍵取れと。食材庫に行っても見逃してたらしい!
日本が終戦で完全に骨抜きにされてたら北海道はロシア領になってたし青森もウクライナみたいに侵略されてたと思うと恐ろしいな…