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実際に本番で吹く時に、研究発表にならないようなレッスンがいいですね。勉強は勉強として。
ありがとうございます😊教わった事を糧にどう音楽を作るかは、その人次第ですね。
私が考える良いレッスンは目標とすべきことを生徒に分かるように伝えられるレッスンだと思います。生徒が何を目指して練習すべきなのかが伝われば厳しい優しいはあまり大した問題ではないような気がします。
なるほど勉強になります。😌キチンと目標を伝えて生徒さんと歩む必要がありますね。✨✨
大昔、小中高時代フルートを習ってました。3人先生がいて、その中のお一人が吉田雅夫先生に師事されてたと仰り、小学生目線ではとても厳しいレッスンでした。兎に角、基礎が重要で楽器の持ち方が悪いと指を引っ張られたり、呼吸法など細かく指導されました。その先生のレッスンは小学生の頃は嫌で仕方なかったのですが、中学生になると上達していることに気が付きます。優しい先生のレッスンは自分のどこがダメなのか分かりにくい。そこに気が付くと、厳しい先生のレッスンを望むようになりました。神田氏の仰る通り、上手くなるためには厳しさは必要だと思いますし、現役の人たちも分かっているのではないでしょうか。
ありがとうございます。😁生徒みんなを練習に打ち込む気分にさせるレッスンが良いですね。
N響神田先生インタビューシリーズ興味深く拝見しました。物がとぶとか恫喝とかは論外だけどたまに人格否定する人先生もいてそれは厳しさとは違うと思います。それがコンプライアンス的に問題なのかと思います。知り合いの先生は大学から注意されて「下手だから下手と言って何が悪い」とプンプンしてました。話は違いますが神田寛明先生の芸大の先輩の方に習っていたことがありよく神田先生の話をしていていつも「神田君、神田君」と仰っていたので私の中で寛明先生は「神田君」です。
結局自分が受けたレッスンしか提供出来ませんからねぇ😅とはいえ生徒は手下ではありませんので、人としておもんぱかる姿勢が大事ですね。
こんばんは。レッスンお話、面白いですね。私は、定年退職と同時に久しぶりにレッスンを受けることにしました。Y先生と言いますが、メールでやり取りする中で「僕、ガンだから永くはレッスンできないよ…」といわれました。3年半のレッスンでした。主にアンデルセンのエチュードで、最後のエチュードはアンデルセンのop.15でした(難しい!)「難しいけど、僕が大事にしているエチュード。死ぬまでに伝えたいことをできるだけ言っておきたいので」と言われました。たくさんのメモ書きがありますが、ほんの一部しか身についていませんね。「ウン、良かった!所々は…」。皮肉屋の先生でしたが、愛すべき先生でした。享年65歳。今の先生は女性ですが、国立を出たあと、ドイツの音大に4年、院に2年。帰国したときは「職場が無かった!」。現在メジャーではありませんが、プロオケで仕事をしておられます。エチュードはパウル・マイゼンのフルート・エチュード(クロイツェルのフルート版)。この先生で勉強になったのは「次回は3段くらいで良いから、自分でコントロールできるテンポで」「ダブルタンギングで息が出ているようで出ていない」など新しい指摘が色々あります。また、レッスンでエチュードの一部だけを、キチンとさらっていく習慣が身につきました。高音域の出し方を何度も教わりますが、うまくいくと「さっきとは別人!」。「豚もおだてりゃ、木に登る」です。長文、失礼しましたm(__)m
それは素敵な先生方に恵まれましたね。😌良き思い出として覚えていらっしゃるというだけで、良いレッスンだったのだと想像させて頂きました。✨✨
私の先生は、出来ないところがどうすればできるようになるか、その説明の言語化が非常に分かりやすく的確で無駄がありません。先生の「ここをこうしてみて。」の一言で、すぐにできるようになります。なので毎回のレッスンで達成感があります。穏やかな先生ですが、音楽に対しては厳しいです。レッスンは、まずはソノリテからですが、美しい音色を常に追求されているので最初のHの音を何度も出すこともしょっちゅうです。妥協はしません。気付いたら3年が経っていますが、先日は「低音のCをこれほど豊かに倍音を響かせて鳴らせる人はそうはいませんよ。」と褒めてもらえました(^^)
本当にいいレッスンというのは、教わる生徒や学生の側が、教師を啓発し、教師が持つポテンシャルを最大限に引き出し、その化学反応で、互いに思ってもみなかったような世界が拓ける、まさに一期一会のものなのだと思う。逆に言えば、そういう関係でないのなら、習う価値はないと言ってもいいかもしれない。相性が悪いということもあるかもしれないが、たいていの場合には、教師の側もさることながら、教師より教わる生徒の側に、その分野に対する才能がないことが多い。そういう場合には、潔くその道は諦めた方がいいかもしれない。*****私の音大在学中の副科実技レッスンは、ことごとく最悪だった。ことにピアノの先生には言われたものだ。「あんたなんか教えたくないわよ。作曲家の学生なら、こちらが何か言えば打てば響くような反応をして、こちらの方がたくさん学ぶことが多いのに」と。すみません。当時から私は自筆譜の読みは意外に深かったし、今はもっと熟練していますが、なにせ、演奏実技能力というのは、そういう音楽性や音感だけではなくて、運動神経の問題も大きいので。-でも、ドイツに留学してからの指導教授の実習は違ったのだ。この教授、専門分野では世界の第一人者と目される研究者なのだが、ご自分の研究のことしか頭にない。だから私が、実習に伺って何か話し始めると、それを現在彼が研究中の課題に結びつけて、滔々と話し出してしまうのだ。でも私は知っている。彼は、自分の話を相手が理解していないと察すると、静かに微笑んですぐに口を噤んでしまうということを。実習を重ねるうちに、私はいかにして教授のインスピレーションを擽り、教授自身がおそらくは思いも掛けなかったような本質的な発言を引き出すかということのコツを心得た。まず教授の話を即座に理解すること。そして間髪なく、適切な相槌やコメントを挟むこと。すべてドイツ語だから、教授が興に乗って立て板に水で喋り始めると、私はメモを取ることもできない。教授の興を削がないように、鋭いコメントを発するだけで精いっぱいだ。-でもだから私は、ドイツ人研究員たちよりも、はるかに本質的なことをたくさん教授から習った自信はある。惜しむらくは、その成果をことごとく形にしてあまたの論文を書くだけのドイツ語力が私には欠けている。誰か私と教授の実習の成果をドイツ語の論文にまとめるために協力してくれるいいドイツ人の理解者が欲しい。ただ、事そこに至って私は、日本の音大在学中、副科ピアノの先生が、私は教えたくないけれど、作曲科の学生を教えるのは楽しい、と言っていたことの意味を本当によく理解できるようになった。-アメリカの音楽院で教えてもいたマリア・カラスは、「もっとも出来の悪い学生からでも、学ぶことはたくさんある」と述懐している。それはマリア・カラスならでは、なのかもしれない。教えながら学ぶことができるくらいでなければ、教える資格はない。だがそれにしても、レッスンを受けながら、教師にどのくらいインパクトを与えることができるか、教師の側に、レッスン料度外視でもこの人は教えたいと思わせるか否か(ちなみに私の指導教授は、学生を教える義務はないし、ドイツの大学には授業料はない)で、学生の方も、その道を続けるだけの素質が自分にあるかどうか、自分でわかるはずだと思っている。*****音楽は関係ないけれど、地方の私立大学大学院専任教授だった父は、「本当に学問のセンスがない学生をてとりあしとり教える辛さがお前に分かるか」とよく言っていた。父は、毎学期、最新の情報を盛り込み、ワープロ原稿を自宅で簡易製本した手作りの教科書を学生たちに配布し、試験ができない学生には答案を添削して指導した上で再試。夏休みには自宅に学生たちを招いてゼミも行っていた。一人ならぬ学生が「始めて先生らしい先生に出会った」と感激してくれたそうだ。だが、大学、大学院になって、そこまで手取り足取りして教えなければついてこられない学生に大学卒業資格を与える意味があるのか、疑問に思うことはある。-ドイツの大学なら、単位を取り落とせば即、退学処分になる。日本の大学は、早稲田大学レヴェルですら、小保方さんの件で、代返、モカイ、代筆が横行していることがばれてしまったではないか。芸大は、代返(出席票の代筆)は横行していたが、試験でカンニングをして停学処分になった学生が我々の時代にはいたくらい、意外に厳しい。モカイも横行していなかったように思うけれど?尤も、男子学生や外国人学生が卒論、修論を書くときには、女子学生100人くらいが手伝うという悪習はあったし、実技専攻の学生のレポートがあまりにも起承転結がまとまってよく書けていると、楽理科学生の代筆を疑う、とは言われていましたけれどもね。演奏実技の試験は代替えが効かないのだから、そのくらいはご愛敬。-そんなことより、専門実技だけでいいから、教えている教授を唸らせるくらい、レッスンで刺激的な演奏をし、一言言えば十を知るくらい、まさに打てば響くように感性の鋭い学生を育てたいものだ。それは、厳しいレッスンというのとは、少し違うと思うのだけれど。
先生って例えば生徒の音を否定してくる場合もあるのでしょうか?「音楽的にそのシーンに適切な音が出せていない」とかではなくその人の出す音そのものを「あなたの音はダメ」と否定してくる場合ってあるのでしょうか?
色んな先生が居ますからね。。😌言い方も含めて人間力が問われる場面です。
私の二人目の先生は否定ばかりしていました。で当人の持論は「ランパルは生徒を肯定することで伸ばし、すばらしい先生だった」です。
この対談は、音大生やプロを目指す方方が大前提だと理解していますが、、、。私は親の方針で音大付属の幼稚園に入り、三歳からヴァイオリンのレッスンに通いました。構えが悪いとか言うような理由で、叩かれたり怒鳴られたりしました。楽譜を投げ捨てられたり。プロを養成する有名な先生/教室だったらしいのですが。幼稚園児がお稽古に通って、怒鳴られたり叩かれたりしたら、、、。大げさで無く、人生のトラウマになります。幼稚園や小学校の音楽の授業も、怖い先生ばかりでした。少しでもミスしたら、怒鳴られました。トラウマから解放されたような感じになって、高校生からフルートを始めましたが、その先生も、ヒステリーというのかすぐ激高する先生で、音楽家ってそういう人種なんだと思い込んでしまいました。色々な経験も含めて、厳しいのと、言葉遣いが粗野になったり怒鳴る/殴るのとは違うということです。短い間でしたが、社会人になってから師事したフルートの先生は、マンツーマンでとても柔らかい空気感の中、音楽に素人もプロも無いと言う風で、自然と導いてくださいました。今でも、こころから尊敬しています。その短い期間に、それまでの長い間の苦手や疑問が克服されましたし、少し上手くなったように思います。その先生と一緒に選んだ、パールの総銀製のマエスタ(インライン/リングキー)一生ものの楽器だと感じています。そして、音楽に限らず、大学という高等教育機関は、自分が学ぶためのヒントを吸収する場であり、手取り足取り教えを請う場では無いと言うことです。
レッスン教える側の押し付けはいけませんね。私も昔ピアノを教えていたことあったけどちゃんとその生徒がピアノを上手に導けていたのか自信がないです。実際、同時期に2人の先生に習っていた事があったのですがそれぞれ先生の意見もあってそれはそれで勉強になりましたが大変でした。また「教える」という機会が得られれば伸ばせられるレッスンを心がけたいですね
まさにそうですね。。😌教える側が勉強させて貰ってるんですね。笑
単に厳しいといっても、叱りつけるのと高いレベルを要求するのは違うし、フルートの力量・音楽性=人間的価値 みたいに考える先生もいますからねえ。厳しいのと性格悪いのは別です。 ピアノですが、友人の先生は「どこが間違っているか、わかる人は言わなくてもわかるし、わからない人は言ってもわからない。だから僕は何も言わないんだ。」と。そこの音大で一番の教授ですが。 私の先生は優しいですがガッツのある人で、先生の先生は、かの林リリ子さんです。直接聞いたことありませんが、門下生はみな「レッスンは恐怖だった」といいます。私の先生は、これが普通と臨んだものと想像しています。
実際に本番で吹く時に、研究発表にならないようなレッスンがいいですね。勉強は勉強として。
ありがとうございます😊教わった事を糧にどう音楽を作るかは、その人次第ですね。
私が考える良いレッスンは目標とすべきことを生徒に分かるように伝えられるレッスンだと思います。生徒が何を目指して練習すべきなのかが伝われば厳しい優しいはあまり大した問題ではないような気がします。
なるほど勉強になります。😌キチンと目標を伝えて生徒さんと歩む必要がありますね。✨✨
大昔、小中高時代フルートを習ってました。
3人先生がいて、その中のお一人が吉田雅夫先生に師事されてたと仰り、小学生目線ではとても厳しいレッスンでした。
兎に角、基礎が重要で楽器の持ち方が悪いと指を引っ張られたり、呼吸法など細かく指導されました。
その先生のレッスンは小学生の頃は嫌で仕方なかったのですが、中学生になると上達していることに気が付きます。
優しい先生のレッスンは自分のどこがダメなのか分かりにくい。
そこに気が付くと、厳しい先生のレッスンを望むようになりました。
神田氏の仰る通り、上手くなるためには厳しさは必要だと思いますし、現役の人たちも分かっているのではないでしょうか。
ありがとうございます。😁生徒みんなを練習に打ち込む気分にさせるレッスンが良いですね。
N響神田先生インタビューシリーズ興味深く拝見しました。物がとぶとか恫喝とかは論外だけどたまに人格否定する人先生もいてそれは厳しさとは違うと思います。それがコンプライアンス的に問題なのかと思います。知り合いの先生は大学から注意されて「下手だから下手と言って何が悪い」とプンプンしてました。
話は違いますが神田寛明先生の芸大の先輩の方に習っていたことがありよく神田先生の話をしていていつも「神田君、神田君」と仰っていたので私の中で寛明先生は「神田君」です。
結局自分が受けたレッスンしか提供出来ませんからねぇ😅
とはいえ生徒は手下ではありませんので、人としておもんぱかる姿勢が大事ですね。
こんばんは。レッスンお話、面白いですね。
私は、定年退職と同時に久しぶりにレッスンを受けることにしました。
Y先生と言いますが、メールでやり取りする中で「僕、ガンだから永くはレッスンできないよ…」といわれました。
3年半のレッスンでした。主にアンデルセンのエチュードで、最後のエチュードはアンデルセンのop.15でした(難しい!)
「難しいけど、僕が大事にしているエチュード。死ぬまでに伝えたいことをできるだけ言っておきたいので」と言われました。
たくさんのメモ書きがありますが、ほんの一部しか身についていませんね。「ウン、良かった!所々は…」。皮肉屋の先生でしたが、愛すべき先生でした。享年65歳。
今の先生は女性ですが、国立を出たあと、ドイツの音大に4年、院に2年。帰国したときは「職場が無かった!」。
現在メジャーではありませんが、プロオケで仕事をしておられます。
エチュードはパウル・マイゼンのフルート・エチュード(クロイツェルのフルート版)。
この先生で勉強になったのは「次回は3段くらいで良いから、自分でコントロールできるテンポで」「ダブルタンギングで息が出ているようで出ていない」など新しい指摘が色々あります。また、レッスンでエチュードの一部だけを、キチンとさらっていく習慣が身につきました。
高音域の出し方を何度も教わりますが、うまくいくと「さっきとは別人!」。「豚もおだてりゃ、木に登る」です。
長文、失礼しましたm(__)m
それは素敵な先生方に恵まれましたね。😌良き思い出として覚えていらっしゃるというだけで、良いレッスンだったのだと想像させて頂きました。✨✨
私の先生は、出来ないところがどうすればできるようになるか、その説明の言語化が非常に分かりやすく的確で無駄がありません。先生の「ここをこうしてみて。」の一言で、すぐにできるようになります。なので毎回のレッスンで達成感があります。
穏やかな先生ですが、音楽に対しては厳しいです。レッスンは、まずはソノリテからですが、美しい音色を常に追求されているので最初のHの音を何度も出すこともしょっちゅうです。妥協はしません。
気付いたら3年が経っていますが、先日は「低音のCをこれほど豊かに倍音を響かせて鳴らせる人はそうはいませんよ。」と褒めてもらえました(^^)
本当にいいレッスンというのは、教わる生徒や学生の側が、教師を啓発し、教師が持つポテンシャルを最大限に引き出し、その化学反応で、互いに思ってもみなかったような世界が拓ける、まさに一期一会のものなのだと思う。
逆に言えば、そういう関係でないのなら、習う価値はないと言ってもいいかもしれない。
相性が悪いということもあるかもしれないが、たいていの場合には、教師の側もさることながら、教師より教わる生徒の側に、その分野に対する才能がないことが多い。
そういう場合には、潔くその道は諦めた方がいいかもしれない。
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私の音大在学中の副科実技レッスンは、ことごとく最悪だった。
ことにピアノの先生には言われたものだ。「あんたなんか教えたくないわよ。作曲家の学生なら、こちらが何か言えば打てば響くような反応をして、こちらの方がたくさん学ぶことが多いのに」と。
すみません。当時から私は自筆譜の読みは意外に深かったし、今はもっと熟練していますが、なにせ、演奏実技能力というのは、そういう音楽性や音感だけではなくて、運動神経の問題も大きいので。
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でも、ドイツに留学してからの指導教授の実習は違ったのだ。
この教授、専門分野では世界の第一人者と目される研究者なのだが、ご自分の研究のことしか頭にない。
だから私が、実習に伺って何か話し始めると、それを現在彼が研究中の課題に結びつけて、滔々と話し出してしまうのだ。
でも私は知っている。彼は、自分の話を相手が理解していないと察すると、静かに微笑んですぐに口を噤んでしまうということを。
実習を重ねるうちに、私はいかにして教授のインスピレーションを擽り、教授自身がおそらくは思いも掛けなかったような本質的な発言を引き出すかということのコツを心得た。
まず教授の話を即座に理解すること。そして間髪なく、適切な相槌やコメントを挟むこと。
すべてドイツ語だから、教授が興に乗って立て板に水で喋り始めると、私はメモを取ることもできない。教授の興を削がないように、鋭いコメントを発するだけで精いっぱいだ。
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でもだから私は、ドイツ人研究員たちよりも、はるかに本質的なことをたくさん教授から習った自信はある。惜しむらくは、その成果をことごとく形にしてあまたの論文を書くだけのドイツ語力が私には欠けている。
誰か私と教授の実習の成果をドイツ語の論文にまとめるために協力してくれるいいドイツ人の理解者が欲しい。
ただ、事そこに至って私は、日本の音大在学中、副科ピアノの先生が、私は教えたくないけれど、作曲科の学生を教えるのは楽しい、と言っていたことの意味を本当によく理解できるようになった。
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アメリカの音楽院で教えてもいたマリア・カラスは、「もっとも出来の悪い学生からでも、学ぶことはたくさんある」と述懐している。
それはマリア・カラスならでは、なのかもしれない。教えながら学ぶことができるくらいでなければ、教える資格はない。
だがそれにしても、レッスンを受けながら、教師にどのくらいインパクトを与えることができるか、教師の側に、レッスン料度外視でもこの人は教えたいと思わせるか否か(ちなみに私の指導教授は、学生を教える義務はないし、ドイツの大学には授業料はない)で、学生の方も、その道を続けるだけの素質が自分にあるかどうか、自分でわかるはずだと思っている。
*****
音楽は関係ないけれど、地方の私立大学大学院専任教授だった父は、「本当に学問のセンスがない学生をてとりあしとり教える辛さがお前に分かるか」とよく言っていた。
父は、毎学期、最新の情報を盛り込み、ワープロ原稿を自宅で簡易製本した手作りの教科書を学生たちに配布し、試験ができない学生には答案を添削して指導した上で再試。夏休みには自宅に学生たちを招いてゼミも行っていた。
一人ならぬ学生が「始めて先生らしい先生に出会った」と感激してくれたそうだ。
だが、大学、大学院になって、そこまで手取り足取りして教えなければついてこられない学生に大学卒業資格を与える意味があるのか、疑問に思うことはある。
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ドイツの大学なら、単位を取り落とせば即、退学処分になる。
日本の大学は、早稲田大学レヴェルですら、小保方さんの件で、代返、モカイ、代筆が横行していることがばれてしまったではないか。
芸大は、代返(出席票の代筆)は横行していたが、試験でカンニングをして停学処分になった学生が我々の時代にはいたくらい、意外に厳しい。モカイも横行していなかったように思うけれど?
尤も、男子学生や外国人学生が卒論、修論を書くときには、女子学生100人くらいが手伝うという悪習はあったし、実技専攻の学生のレポートがあまりにも起承転結がまとまってよく書けていると、楽理科学生の代筆を疑う、とは言われていましたけれどもね。
演奏実技の試験は代替えが効かないのだから、そのくらいはご愛敬。
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そんなことより、専門実技だけでいいから、教えている教授を唸らせるくらい、レッスンで刺激的な演奏をし、一言言えば十を知るくらい、まさに打てば響くように感性の鋭い学生を育てたいものだ。
それは、厳しいレッスンというのとは、少し違うと思うのだけれど。
先生って例えば生徒の音を否定してくる場合もあるのでしょうか?「音楽的にそのシーンに適切な音が出せていない」とかではなくその人の出す音そのものを「あなたの音はダメ」と否定してくる場合ってあるのでしょうか?
色んな先生が居ますからね。。😌言い方も含めて人間力が問われる場面です。
私の二人目の先生は否定ばかりしていました。で当人の持論は「ランパルは生徒を肯定することで伸ばし、すばらしい先生だった」です。
この対談は、音大生やプロを目指す方方が大前提だと理解していますが、、、。
私は親の方針で音大付属の幼稚園に入り、三歳からヴァイオリンのレッスンに通いました。
構えが悪いとか言うような理由で、叩かれたり怒鳴られたりしました。楽譜を投げ捨てられたり。
プロを養成する有名な先生/教室だったらしいのですが。
幼稚園児がお稽古に通って、怒鳴られたり叩かれたりしたら、、、。
大げさで無く、人生のトラウマになります。
幼稚園や小学校の音楽の授業も、怖い先生ばかりでした。
少しでもミスしたら、怒鳴られました。
トラウマから解放されたような感じになって、高校生からフルートを始めましたが、
その先生も、ヒステリーというのかすぐ激高する先生で、音楽家ってそういう人種なんだと思い込んでしまいました。
色々な経験も含めて、厳しいのと、言葉遣いが粗野になったり怒鳴る/殴るのとは違うということです。
短い間でしたが、社会人になってから師事したフルートの先生は、マンツーマンでとても柔らかい空気感の中、音楽に素人もプロも無いと言う風で、自然と導いてくださいました。今でも、こころから尊敬しています。
その短い期間に、それまでの長い間の苦手や疑問が克服されましたし、少し上手くなったように思います。
その先生と一緒に選んだ、パールの総銀製のマエスタ(インライン/リングキー)一生ものの楽器だと感じています。
そして、音楽に限らず、大学という高等教育機関は、自分が学ぶためのヒントを吸収する場であり、手取り足取り教えを請う場では無いと言うことです。
レッスン教える側の押し付けはいけませんね。
私も昔ピアノを教えていたことあったけどちゃんとその生徒がピアノを上手に導けていたのか自信がないです。
実際、同時期に2人の先生に習っていた事があったのですがそれぞれ先生の意見もあってそれはそれで勉強になりましたが大変でした。
また「教える」という機会が得られれば伸ばせられるレッスンを心がけたいですね
まさにそうですね。。😌教える側が勉強させて貰ってるんですね。笑
単に厳しいといっても、叱りつけるのと高いレベルを要求するのは違うし、フルートの力量・音楽性=人間的価値 みたいに考える先生もいますからねえ。厳しいのと性格悪いのは別です。
ピアノですが、友人の先生は「どこが間違っているか、わかる人は言わなくてもわかるし、わからない人は言ってもわからない。だから僕は何も言わないんだ。」と。そこの音大で一番の教授ですが。
私の先生は優しいですがガッツのある人で、先生の先生は、かの林リリ子さんです。直接聞いたことありませんが、門下生はみな「レッスンは恐怖だった」といいます。私の先生は、これが普通と臨んだものと想像しています。