雪山玲子氏 歎異抄朗読
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- เผยแพร่เมื่อ 11 ก.ย. 2024
- 1993年(平成5年)、当時ご縁をいただいていた富山県善巧寺前坊守様 雪山玲子先生に耳で聞く『歎異抄』として朗読していただきカセットテープに録音・頒布したものを今回、デジタル化して再編集したものです。
編集にあたり、お聖教を読み間違わないように朗読するということの大変さを痛感させられました。その意味で雪山先生にはあらためて感謝・御礼申し上げます。
なお編集責任は千福寺にあります。お気づきの点などありましたら、コメント欄等を通してご指摘帰いただければありがたく存じます。
是非折に触れて、繰り返しお聞きください。
淡々と諭されるような朗読 心地よく拝聴させて頂きます 有難し 南無阿弥陀仏
素晴らしい。歎異抄を知って30年以上経つが、やはり心強く有難い言葉だと強く思う。
歎異抄の素晴らしさと同時に朗読そのものも
得も言われぬ感動です。
大変心地よいです。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
有り難うございます。なまんだぶ、なまんだぶ。
「歎異抄朗読/49分50秒」
『歎異抄』「後序」のテーマ:「異なる『信心』とは、という問いについての大前提は如何なるものか、について」述べられます。結論は「信心はただ一つのみ」と言われている言葉として、『歎異抄』「後序」の中で、「源空(法然上人)が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房(親鸞聖人)の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。」(『真宗聖典』六三九頁)とある通りです。
では、なぜ超秀才なる法然上人のお弟子らが異なる信心を表現してしまうのか。「後序」の中で書かれている事例の通り、我われは善悪生死(迷いの存在)を免れない凡夫であり、常に誤り(正義感)とともに存在している、また、こういう人間の業を自覚させるために、『歎異抄』「後序」は示唆されているのだと考えることができます。
人間は善悪の区別なくしては、生活もできない、それが人間の限界、悲しむべしことですが、これ以上でも以下でもありませんよ。しかし、弥陀の本願は「老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。」(『歎異抄』第一章)といった「真実」の「真如」。こういうことから、「後序」も同じように書かれ、弥陀からたまわるご信心のみ、まことの救いというということを述べられているのだと考えてよいですよね。
音声によって『歎異抄』を聞いていくと耳に余韻として残るので、いいなと思います。
ありがとうございます。