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孔明「関羽は扱いづらいし、張飛はアホだし、馬超は生意気だし、黄忠は年寄り。やっぱ趙雲だよ。」法正「それな」趙雲「・・・」
益々、趙雲の事が好きになった動画です。ありがとうございます🐈🐈⬛
趙雲と幸村がなんとなく重なって見える
馬超は劉備配下になってからの貢献度はゼロ。言ってみればFA で高額契約で迎えられてろくに活躍せずに引退した野球選手みたいなもんで、そこからすれば、趙雲は不遇。
趙雲は魏書で言う典韋 許緒の存在は昔から有名です 正しく言うと強さは呂布 典韋 趙雲 関羽か馬超ぐらいで中国では 当たり前のような感じらしいです後彼は欲も無かったらしいから 出世よりも 縁の下の力持ちで欠かせない重要な人物だったと私は思います
わかりやすい
趙雲はクソザコSRだったのか...
正史だとここを突破されるとヤバい!という状況で起用され、活躍してるイメージ
趙雲は劉備や関羽そして張飛亡き後蜀の屋台骨を支えた功労者であることに間違いないよ。
オイラの中では、五虎大将軍でダントツの1位ですネ、関羽や張飛寄り上だと思ってる。
控えめな性格だから自分売り込まなかった
横山光輝三国志では、五虎大将を決める際に義兄弟の関羽張飛は当然、趙雲も長年の功労から見て当然、なぜこの3人と並ぶのが、新参で若輩の馬超と高齢の黄忠なのか?という描写があったのを記憶しています。もしかしたら作者(横山光輝先生)の意図だったのかもしれませんね(笑)。
確か趙雲が亡くなった時、孔明に両手両足を無くした的な事を言われてた様な。
趙雲はよく言わなかったんだと思う荊州を趙雲が守れば蜀が勝ったんやないかな
確かにそうですよね。近衛兵が手柄立てまくる状況がそんなに有る訳ないですよー!
そして、劉備一家が本当にヤバい時はしっかり手柄を立ててる当たり、優秀な武人だったのは確かですね。
さらに趙雲が好きになりましたw
趙雲の護衛に徹したことによって手柄を立てられない立場に居たからこそ、昇進出来なかった説はかなり胸熱…趙雲ファンにとっては逆に忠誠を尽くしてたからこそなのか…って思ったら納得が行く分、逆に尚更評価は高くなった!!
無能かどうかは分かりませんが、歴戦の勇者である事は確かですね。許緒が引き合いに出されていて、分かりやすかったです。
趙雲は最近、ゲーム、ドラマでは主人公級の待遇になってる趙雲を演じる俳優、声優はイケメンが多い
蜀の陳寿が、4人と並べたなら評判はとてもよかったんじゃないかと
本当の英雄は、生きてる間に評価されないもんさ
趙雲の親衛隊説は納得いくなあ、しかも許褚も言われてみれば曹操の親衛隊みたいなもんだし 役割的には確かに同じ立ち位置だね。
同じように親衛隊の許チョと比較したらどうなんでしょうか?
実直なんだよ
近衛に任じられるということは、一番信頼されてたってことでしょう。趙雲なら寝首をかくとこはない、裏切ることはないって信じられていた証。
趙雲が阿斗(劉禅)を救えなかったら、劉封が跡をついで、違う三国志があったのかもしれない
琉球古武術の棒術の型に「趙雲の棍」があるけど、やっぱりこの趙雲のことなんだろうか?
成程。主君の側に侍るべき親衛隊長が方面軍司令官になったら、親衛隊のお役が務まらないからなぁ。。。そう考えれば趙子龍の評価はいささかも揺るぎませぬ
出世したのが晩年だからか、中国人にとって三国志の老将といえば趙雲らしいですな。日本人にとって三国志の老将といえば黄忠だけど。
イメージとしては、関羽や張飛の後から入ってきてるので二人と同格とは恐れおおいと辞退し、戦に負けた時は、責任をとって自ら降格を申し出て、「私は地位や名誉が欲しいわけではありません、劉備様にお仕えすることが生きがいなのです!」とか言ってそう。
わかりやすい動画のタメだと言うことはわかる。だとしても趙雲を「無能」と呼ぶのは共感できない。確かにくらいが高ければ偉い。しかし、武人の良し悪しを一概に位で見るのはどうだろうか。逸話だろうが、生涯一度も傷を負わなかった。と言う話が残っているほどの腕だ。猛将だったに違いない。武将として位が低くても武人として武勇、武勲が高ければ「無能」ではないはずだ。また、阿斗を守りながら戦った趙雲の腕は並では無い。
人柄が清廉だと言われていたので、関羽のように他の同僚に対する対抗心や見栄のようなものとは無縁だったのかもしれません。
関羽殿は同僚に厳しかったから・・・。特に古参の武将と名声の高い武将は。それでも趙雲のことを悪く言ってないあたり腕は認められてそうです。(演義だと兄弟同然とも言ってたような・・・)最近はもしかしたら関羽は魏、曹操への対抗意識がどの武将よりも強かったのではないかと推測(妄想ですな)してます。
関羽は5虎将任命時に黄忠と同列になるのを嫌がったんでしたね。
@@島悟-o3u さん。関羽は、曹操の下にいた時期でも、曹操配下の同僚たちに対抗心があったのかもしれませんね。その中で同じ降将という立場であり、かつ三國無双流で言うならば求道者という気質から張遼&徐晃とお互いの理解者として親交が深まったのかもしれません。
@@tanakaakira2001 さん。そうでしたね。加えて面識のない馬超にも対抗心を燃やして、スパーリングしてみたいような事言って、孔明の使いとして費詩になだめられたような記憶があります。そして孔明からの手紙を誇らしげに、部下に見せたとかではなかったでしたっけ。
@@saburiryu28go さん返信ありがとうございます。すいません、下のコメントも勝手に見てしまったのですが、黄忠は同列扱いは嫌がったのに対し、馬超は何故か興味を持ってます。やはり馬援の子孫だから(春秋読んでたら気になるかも)とも思えるのですが、もしかしたら曹操をあと一歩まで追い詰めたということも聞いていたのではないかとも思えるのです。孫権に対しては二度にわたる合肥の敗戦が(しかも相手は山田さんと少ない兵力)関羽を幻滅、侮らせるきっかけだったのではとも思えるのです。憶測というか妄想の域にも出ませんが。
撤退戦で損害を出さない方が難しいとおもうけどなぁ
つまり趙雲は・・・縁の下の力持ちだったという事でしょうか。
そもそも五虎大将軍なんて地位が史実では存在しないからな
趙雲は 常に劉備の側に居てたし諸葛亮は 関羽や張飛より趙雲を起用してたので、定軍山の戦いで 黄忠をサポートしてたし、周瑜が劉備暗殺の際に 劉備のボディーガードしてた!劉備が亡くなる前に趙雲に謝罪してたので、重要な人物ですね!
関羽たちと同じくらいの地位にいったのは晩年くらいからですね活躍は地味でも確実に戦果をあげ他の武将たちからも慕われ絵にかいたような堅実で真面目な性格70過ぎまで最前線で戦った武勇人気が出るのは必然ですね
今も入手できるかわからないけど、田中芳樹先生の著書『中国名将百選』にも「入れたかった五人」の内の一人に入ってた気がする(昔の記憶で自信はないが・・)その識見と戦術指揮能力は、いわゆる五虎将軍中でも随一・・だったかな。ファンとしては凄く嬉しかった記憶がある。
銀英伝だと、ミュラーやメックリンガーのイメージ
趙雲って蜀の中でも一番の忠臣のイメージしかない
演義では孔明からの評価はめちゃくちゃ高く、孔明や劉備としては常に側に置いて置きたかったんだと思います。
演義の作者の羅貫中と趙雲が同郷なんで、演義で大幅に活躍を盛られた説とかも聞いたな実態はまぁ、劉備の優秀な親衛隊長なんだろう。関羽らがある意味独立勢力みたいな動きしてるのとは違う
趙雲親衛隊説はあり得るでしょう。呉に劉備と一緒に行っているところからも考えられるし、親衛隊なら相当信頼が厚くないと務められないと思う。
史実での趙雲は、実際には悪来典韋や許褚のような役回りだったという事なのですかね。
@@saburiryu28go さん。あるいは黒田如水や竹中半兵衛みたいに実は知謀がメインの武将だったかもしれません(笑)。長坂では一応単騎で駆けた話はありませんし(夫人とご子息を助けたのは事実なら何か策を講じたのかも)、空城の計も最初趙雲提案ならばあり得る!?・・・・でもそれなら献策してますよね・・・・失礼しました。ただ、趙雲は劉備が呉から戻ってきたときに孫夫人のお世話役という名目の監視を行っていると聞いたことがあります。その時、諸葛亮も趙雲が孫夫人を抑えているから安心できるみたいなことも言ってたような気がするんです。これは関羽、張飛では出来ず趙雲にしか任せられない任務だったことを鑑みても親衛隊でも脳筋ではなかったのではないでしょうか?
@@島悟-o3u さん。そうですね。夫人の世話管理のような事まで引き受けるとなると、余程の器量がなくては勤まりそうもありませんね。やはりそこには、人柄も評価されての事だったと想像します。
現代に例えるなら、趙雲が首相SP長で、ほかが自衛隊トップ4かなと。「将としての大物感」の違いはそういうことじゃないかな。
@@lemonade70755 さん。その割りに空城の計とかやったり退却戦でちゃんと物資は持ち帰ったりただのSP長にしてはいろいろやり過ぎな気が。なんか見落としがあるかもしれませんね。趙雲は昔は真田幸村にも似てるとも思えたのですが冷静に物事を見ているところがあるので誰と例えるべきか良く悩みます。
蜀の中では趙雲と諸葛亮が好きですね。個人的には、この二人が夷陵の戦いで敗れた後に人材不足となり、劉備が死んだ後の蜀を支えたからですね。
趙雲がアイドルみたいに描かれていてかわいい(*≧з≦)🎵
腰が低くて丁寧で言葉使いもちゃんとしているだれにたいしてもわけへでなく優秀すぎたのかもなー
徳川家康に仕える本多忠勝みたいなものか。本多家は大名ではなく旗本だったが、忠勝は家康の一番近くにいて最も信頼されてた武将。位は低くても将軍に意見することが出来たから、権力は絶大だったといえる。
関羽(煽り運転型ドライバー)張飛(飲酒運転型ドライバー)馬超(暴走族)黄忠(免許返納しない老害ドライバー)というイメージの他4人の五虎将に比べ趙雲(ゴールド免許優良ドライバー)って感じかな。
例えが草
近衛が派手に活躍してたら、その国やべーでしょw
劉禅と諸葛亮両方の意志のような気がします。劉禅には長坂での命の恩人ぢあり、孔明には使い勝手のよい歴戦の将軍です。魏延や馬超や李厳は扱いにくいでょう。
馬超なんか、劉備の部下になってから何していたの認知レベルだからな。まあ、地味だけど涼州への影響もあったから記録に残らない活躍あったのだろうけど。
@@ホーエンジョージ馬超が早死にしてその代わりに涼州方面の影響力を背景に出世したのが姜維。
趙雲が好き過ぎて息子に趙雲の名前を付けようとしたら嫁に大反対されたよ
ならば子龍でも良かったのでは?知り合いにいますよ。
そりゃあ、麻生河野太郎みたいな名前つけようとしたらね・・・
愛知県に趙雲という中華料理店あったよ。
それは息子がかわいそう
3人目生まれた時、「一休」にしたいと言ったら、家族全員に反対された。「趙雲」「子龍」ならいいと思うが。
親衛隊長って事か!関羽、張飛死んだから、趙雲までいなくなると痛いもんな
ある程度出尽くしてるかもしれませんが、一点...趙雲は陳寿の評で夏侯嬰にたとえられていますから、やはり君主を護衛する役を務めたのは間違いありません。しかし、趙雲が親衛隊を辞めたのは劉備が死んだときではないですよ?皆様ご存じの通り、劉備が入蜀の時に趙雲は連れて行きませんでした。もっとも嫡子の護衛はしていましたが.... また多くの方の意見と通じますが、出世は能力の高いものよりも虚栄心の強いものからというのは、現代でもあまり変わっていません。
影の右腕じゃんか!
蜀の場合、関羽張飛は別格中の別格(なんといっても演義では義兄弟)で、馬超も運がよければ魏呉蜀を向こうに回して王になれる存在だったので別格として考える方がいいと思います。黄忠はその功と年長を敬ってとして、この4人が上にいる限り、他の国の様な地位ランクとは違う基準だったと思います。何か与えたくても与える物の少なかった蜀という国力の中での功臣達への慰みの様な…また、本朝で見ると徳川家康は、地位が高いほど職権や権能は軽くしています。その方が嫉妬渦巻く政治の世界では人事マネージメントしやすいのが理由だと思われます。その段で見てみると、趙雲の地位の低さは、その能力の有能さ故で、また趙雲が嫉妬深くなかった所為かと思っています。
だから趙雲は主人公
関羽、張飛は義兄弟で別としても、黄忠、馬超に武勲で劣るとは思えないんですのね。劉備への勤労年月も長いですし。出自卑しく身分が低いことや、プライドの高い他の将軍の機嫌を損ねないように配慮した。みたいな記事を読んだ記憶があります。
というより、黄忠、馬超が特別扱いなのは、劉備に使える前の地位が趙雲より遥かに高かったからだけの気が。馬超は君主だから劉備と同格、黄忠は長沙郡の武官筆頭だから基本関羽、張飛と同格以下には落とせない。
五虎大将軍の中では趙雲が一番好きですけどね関羽と張飛は人間的にあくが強すぎるし、黄忠は五虎大将軍になった時はかなり高齢、馬超は趙雲より存在感が薄い
現代社会と同じで人間関係や上司へねたゴマスリが得意ではなかったから出世できなかった。もしくは現場もしくは近いところで働きたいから本人が一定以上の出世を拒んだ可能性とかもありそうですよね。
出世できなかったとしても、まあいいじゃん。1800年後のゲーム世界では顔はイイは、知力・武力・魅力の三能力は高いはで、文句のつけようが無い程、高評価されてるんだから
劉禅が自分の命を救ってくれた趙雲を出世させるのは当然かと
宦官は地位か低いのに権力は絶大
ええやん一番最後まで生きれたし
許褚のそれが低いのは出自によるもの … という点もあるのではないでしょうか? そして他の4人の虎大将軍に比べて趙雲は官位にそれほど執着がなかったように(そういう脚色?)感じられます(勝手なイメージですけれども)そして最大の理解者は諸葛亮孔明だったのでしょうね 現代中国でも本邦でもいい男だったイメージで伝承されていますよね … それでいいんじゃないかな w
品はヒンではなくホンと読んで頂きたい
趙雲はわざわざ高い位与えなくても扱いやすくしっかり働いてくるれるから他に比べて低い位だったのでは?
やっぱり、最高な方ですね(^^)v。
趙雲の結婚に関するエピソードを。趙雲がある地方を攻めたとき、そこの太守から縁談を持ち込まれた。相手は太守の義姉。絶世の美女として趙雲の嫁に相応しいと太守は考えていた。ところが、趙雲は太守の姓が自分と同じ「趙」であることを知ると、こう言い放ちます。「太守殿の姓は私と同じと伺いました。太守殿は我が兄も同然であり、その奥方なら私には義姉上。お断りいたします。」そして、こう言い切ります。「世の中、女は星の数ほど居るゆえ妻などいなくても結構」でも、後にちゃっかり嫁を貰っているんですねぇ。
その太守が信用おけない人物と見越して断った説もありますね。実際、そ奴は後に曹操の元に逃げ込んでるし。まあ、俺なら美女だけ頂いとくけどね。
討ち取られずに亡くなった事が僕は嬉しいです(⌒‐⌒)
日本の戦国でいう高坂弾正と同じで撤退戦で強かった印象。
劉備存命の時代にはたしかに許チョのような役割だったかもしれないが、孔明の時代には兵を率いて戦場に出てます。趙雲は死後に順平侯と諡号されてますが、蜀の臣下で諡号されているのはたったの12人。多くは文官であり、武官で諡号されているのは関張馬黄趙の5人だけです。
もしも魏延が謀反してなければ魏延も関張馬黄趙と同列の扱いを受けていたかもしれませんね。
劉禅を保護したからだろ劉備にとってはその他大勢でしかないが劉禅にとっては命の恩人だから超絶美化したってだけ
@@tggewtg1286 お前は美化される要素すらないみたいねwww
逆に内勤だった趙雲を戦場に出さなきゃいけないほど、蜀の人材が枯渇し始めてたってことだろ。史実としては張苞は父親より先に死んで、次男は武将としての才能はなく文官で出世、関家も関平は父とともに殺され、関興もおそらく北伐前に死んでいる。次世代の武官トップがおらず、先代からの老臣を武官トップにせざるを得なかった。
ゲーム「三国志」趙雲は何が何でも絶対的に手に入れる最重要人物なのに。
趙雲は常に敵前線に配置しておくのがセオリー🎵子竜は一身これ胆なり
人物を見る目に優れた劉備が傍に置いた理由を考えれば関羽張飛みたいに対外戦争に使うには向いてなかったから
人物を見る目に優れた劉備が関羽に荊州まかせてそのあとどうなったか知ってる?
関羽に荊州を任せたのは孔明です。劉備はむしろ趙雲か張飛に任せたかった様ですしね。
@@トムリドル-e1w 関羽伝に「先主(=劉備)は西の益州を定めると、(関)羽に荊州の事を董督させた(「先主西定益州、拜羽董督荊州事)」と記載があるのですが。
劉備は結構指揮者先頭タイプなんで、その親衛隊長に当たる趙雲はかなり対外戦争でも強くなきゃ起用できなくね?
ヒーローだよな
演義だと最強クラスだよね何度も一騎討ちをやって殆ど負けなし
趙雲ってもともと劉備の親衛隊隊長だから地位以前の信頼度は別だと思う。むしろ、武勲の割には出世しただと思う。
何にせよ個人名での伝があったり最後のような話もある以上、決して無能って訳では無いような気もする。
近衛隊長
趙雲はけっこうじじいだったと中国人から昔聞いたな。
劉備との関係は?家臣の中では古い・劉備が一番信頼してるから・一番大切な者託した長坂橋の折り?救われた息子の事よりも趙雲の身を案じた事からも・出世や名誉で繋がる関係よりも?もっと深い信頼関係なのかと?孔明ともにして見ても?孔明が趙雲のしを一番悲しんだ位だから・・趙雲さえ居れば・・趙雲までもが・・と・・
パチンコの一騎当千では趙雲子龍は1番強く激熱キャラです
外したら本当にツイてないレベル
一説では趙雲は戦術・戦略にも長けて諸葛亮にも信頼が厚い人物、とのこと。有能すぎて劉備の親衛隊を任されたのでは、と思います。個人的には荊州を関羽ではなく、趙雲が守っていたら荊州防衛は成っていたかも、と思ってしまいます。
その通りだろうね。結果論だろうけど。
諸葛亮が関羽を疎んじて、荊州に残してきたという説もあります。張飛は名士や知識人に対しては態度が卑屈だったらしいから諸葛亮には普段はへりくだっていたので、関係は良かったと思われます。
それ思いました
関羽みたく曹操を恐怖せしめることはできなかっただろうけど、趙雲なら守りという点ではしっかりこなせたと思う。
見聞きしていた前情報でも動画中の解説を聞いても、許褚に立場等通じるのがあるなと思っていたら言及があってなんだか安心した。長坂もあり劉禅が位を与えるのも頷ける。劉備死後、蜀中の信頼と期待は厚かっただろうな。もし魏の陣営に居たなら張遼のような活躍をしていたかもしれない。ロマンあふれる人物。
大国魏の四品官だった許褚の方が、小国蜀の二品官だった趙雲よりも収入は上だったかもしれませんね。
GDPが3倍くらい違ったのかな❓️
ソフトバンクとロッテぐらいの年俸の開きがありそう
サムネが面白すぎる問題は誰もコメントしないのか🤣🤣
趙雲伝 雲漢遥かにだと冷静で自分や家族を護れるのは趙雲しかいないなので近くにいてほしいと素直にたのんでたなぁ。
劉備がなくなった時には関羽と張飛もなくなってる
蜀の趙雲と陳到は正史でもう少し触れて欲しかったなとは思います。陳寿の意図があったのかもしれませんが。
賛成です。陳到は趙雲と遜色ない名声と実力を備えているはずですが、活躍の描写がないので歴史ゲームでも評価が低いですね。
@@ふものふ 趙雲は今回のテーマになっている通り、伝えられている活躍に反して実にあっさりとした扱いであり、陳到に至っては、北伐の時には趙雲に次ぐ重要な役割を与えられていたという説が有力です。つまり彼の力量は、間違いなく趙雲魏延に匹敵する程の実力があった事は推察できます。にも関わらず演義では全く登場しません。この2人の実像が今後更なる研究で見えてくる事を期待してます。
陳到、光栄も万能っぽいけど微妙な能力値ですよね・・・。
孔明は重要でしくじりが許されない、任務ほどチョウウンを起用してるはずです。チョウウンは、忠実に任務をこなす人物だったらしいです。張飛や関羽は、プライドが高く任務でアドリブをしてしまうことが多々あったらしいです。あと、特に張飛、関羽に遠慮していた所も位が低い理由らしいです。本当かは不明ですけど(笑)
趙雲は今でいうSPみたいな役割という説面白いです。劉備は自分の近くに置いておく為にわざと出世させなかった可能性もあるのかな?と動画見てて思いました。演義では奥方を守れず阿斗だけを抱きかかえた趙雲に対して劉備は「趙雲が生き残ってくれた事が1番。趙雲のいのちを危険に晒した事は我が子と言えゆるさん!」 と地面に投げつけた描写がある作品もあります。実際どうかは分かりませんがSPも文武両道でなければなれないので趙雲が個人的なスペックが高かった事は間違い無いのかなと思います。
・・・・・・・・・・・・演義と正史を混同して解説すべきではないと思います。五虎将軍の名称自体が演義の創作をご存じでしょう。劉備は漢中王に就任した際に関羽は前将軍・張飛は右将軍・馬超は左将軍・黄忠は後将軍と漢にまつわる歴史ある将軍位に就任させます。盤石な基盤を内外にアピールする狙いがあり、関羽・張飛は旗揚げ時期からの古参の将。黄忠は長沙の太守劉盤(劉表の血縁者)に仕え太史慈を撃退し、夏侯淵を倒した「荊州人代表として」馬超は反曹操を旗印にし、涼州の自治権を確保し続けようとした「涼州人代表として」の位置づけであり、残念ながらボディガードの趙雲が就任する事が出来なかったのが実情でしょう。漢中王に就任した劉備が、今後曹操に対抗するための大きな構想力を持った軍編成だった事が伺えますおそらくご存じと思われますが・・・・・残念です。
漢帝国の前後左右将軍は大司馬や諸侯王の属官ではないはずなので、関張馬黄は二千石の漢帝国の前後左右将軍ではなく、漢中王国の前後左右将軍でしょう。
むしろ有能すぎるが故に,あえて位を上げずに目立たないようにして,重要な使命をまかせたのでは?服部半蔵のようなポジションだったのではないでしょうか.
趙雲は地位は低かったが、長坂撤退戦や漢中攻略戦での活躍は紛れもない事実で有り、魏にも武名は轟いていた。でなければ、諸葛孔明の第一北伐で、趙雲が寡兵で先鋒を装い斜谷道から郿、長安を突く振りをして魏軍を牽制してる間に、孔明率いる本隊が魏延を先鋒に祁山から天水、南安、安定の三郡を落とす離れ業は不可能である。趙雲が死んで二方面作戦が使えなくなったのが、以後の北伐失敗の最大の原因だ。
実際には諸葛亮は北伐で趙雲の他に陳式、魏延、呉懿を別動隊の長として用いているが。李厳も節を仮されてるから多分使える。
北伐の時点で、曹操劉備の死からわずか数年しか経っておらず、将兵ともに世代交代してないそこで趙雲が死ぬと、魏延以外の面子がとにかくショボい呉懿は劉備の姻戚、李厳は諸葛亮と同じ荊州閥だから、地位が高いだけで、戦場での実績など何も無い能力が高く感じるのは、某ゲームの影響に過ぎないこんなのを指揮官にしたら、敵味方の兵士から完全に舐められる陳到は、曹真、張こう、郭淮、そして司馬懿らとは比較にならない。兵士の動向に影響するのは地位ではない、過去の戦場での名声だ。中国人の兵士は自分さえ生き残れば良いから、将軍の名前と実績の名声で、露骨に従ったり逃げたりするこれは、名士の名声以上に戦場で直接反映するから厄介諸葛亮が軍規を極端に厳しくしたのも、将軍の名声で劣っていると自覚してたから
武勲では張関をも凌ぐ驍将。普通に出世すれば、張関よりも優秀なので嫉妬その他で和が乱れると思い、自ら官位を辞退したものと思われる。男の中の男ですよ。
もしも趙雲が単騎駆けしたならば関羽、張飛みたいに万人に匹敵する(程イク伝で記載があったような)という記載があってもおかしくないはず。趙雲は多分、武芸以外の何かが優れていてそれで諸葛亮や劉備に信頼されていたはず。間違いなく関羽、張飛並み(それ以上もあり得るか?)に信頼されているとは思います。
単騎駆けは戦闘を避けて駆け抜けただけでしょう。捕まった終わりの状況で怯まなかったので子龍は一身これ胆なりと劉備が評したものと思われます。世継ぎを救出するというのは武功として是非を問わずして最上のもので、これ以上のものは考えられないと思います。それを素直に褒められてしまっては偉くなりすぎて、周りのみなさんが遠慮してしまうと、そういう気配りのできる人物で、かつ無私無欲で武将として戦果に貢献できればそれで満足という人であったのだろうと思います。実際にそういう人は居ます。陰徳を積むを至上の喜びとして、それを他人に知られることを恥だと思う、墨家のような価値観の持ち主とかは、そうですね。味方は最初、趙雲が勢いよく走り去るのを見て逃亡したと思って、劉備にそう報告したが、劉備は子龍が逃げるわけ無いだろたわけ者と言って、報告した者をすぐさま殴り倒したそうです。趙雲に絶対の信頼を寄せていたことが伺われます。派手な武勇伝だけでなく、予定された戦果を確実にもたらし、それを常に期待できる人は何よりもありがたい物です。トップからすれば絶対に手放したくない人材でしょう。伝に載らぬような地味な戦闘でも確実に仕事をしていたものと思われます。本当に信頼されるのはそういう普通のことを絶対に誤らない人間で、張飛や関羽のような、一騎打ちは馬鹿強いが、戦略行動では埋没してしまうでは余りあてにならない。特に関羽は、武将として素直に軍命に従う従順さを持ち合わせていたかどうかも疑わしい人物で、組織の歯車としてははっきり言って欠陥品だったのではないかと思っています。劉備のSPを任されていて、蔡瑁による暗殺の陰謀もくぐり抜けたほどなので、武芸も達者ではあったに違いない。ただその腕前を他人と競ってひけらかすような性格ではなかったと思います。関羽や張飛のような戦闘狂とは精神的に根本から違うのでしょう。
@@setsussai さん。決して趙雲の武はないとは言ってません。(やべぇヤツさん、ちと言い過ぎだよ。)長男のとき劉禅はそうだったでしょうが問題は甘夫人はどうやって助けたってことになりませんか?馬で二人乗りはちょっと無理があるのでは?何か策があった。兵をうまく使ったのではとも思えます。当時の中国は子供とか女は地位が低い話を良く聞きますのでそれがどこまで武勲になってたかわからないですよね・・・・(趙雲を失うのがとか趙雲が裏切るはずがないという話も演義のなかの話だったと思いますが言われている可能性は存分あります)。ただ、趙雲の戦果を見ると関羽、張飛のようにオラオラ押しきるタイプではなくて直江兼続とか真田幸村とかなんか策を練っているような気がします。じゃないと晩年の大敗をしなかったという記述にならないと思います。要するに、戦争において殿(しんがり)がうまい。退却戦がうまい。一番死亡率が高い任務から帰還できる。これが趙雲の強さだったのではないでしょうか?もう少し調べてみます。
@@相当やべぇヤツ さん。趙雲に関しては記述も少なく、中国での人気の高さから伝説、逸話が後を絶ちませんのである程度はやむを得ないと思います(最近ですら関平と趙雲の娘が結婚して子孫が生き残っている話がwikiで載ってましたから。いくらなんでも・・・)。それにしてもよく長坂のときでは劉備ピンチのときに夫人とご子息助けられましたよね。そんな余裕どこに!?とすら思えます。趙雲の性格からしての行動だったとも思えるのですが、劉備を守りながらとなるとやはり策や兵を駆使して不可能を可能にしたと考えてしまいます。(とすれば趙雲一人の功績ではなかったために出世が遅れたとも考えれる。諸葛亮は趙雲のその能力を高く評価していたのでは?)
策士だと何で評価が下がるのかはよくわからないが、趙雲は生涯現役で北伐にも部将として参加してます。どのように戦おうが勝てばよいのでは?武人としての実力は、劇の演出としての誇張があることを差し引いても疑う余地はないでしょう。国家への功績では皇帝の命の恩人ですから、別格、絶対不動のナンバーワンでしょう。そこに疑問を持つというのが自分としてはわけがわからない。自明のことと思われるからです。そもそもに戻れば、趙雲は実績と位の釣り合いが取れていないのでは?という議題ですよね。これは劉備や孔明、陳寿に至ってすら全く言及がないですので、推測するしかない。史実としては1次的には資料がなく謎としか言いようがないので、どのように空想しようが楽しくそれぞれの考えを披露すればいいんじゃないですかね。今では正解は誰もわからないです。あなたは実力に比して評価が高すぎる、という考えのようですが、私は逆です。評価が低すぎます。趙雲はどのように厚遇しても足りないぐらいの功臣でありながら、格別の待遇も受けず、目立った振る舞いもない。よほどの人格者でなければそうはならないと思いますね。陳寿が位に言及してないのは、おそらく、当時将軍位に格別の意味がなかったのではないでしょうか。実際に何をしてるかのほうが重要で、位は勲章みたいな飾りだったのではないでしょうかね。現代ほど軍が組織化されていたわけでもなく、劉備はゴロツキ上がりですし、制度と機能が不可分であるほどに洗練されてはいなかったと思います。もしそこまで軍が機能的であるなら、武芸だよりの将軍など何の価値もないですからね。
水戸黄門も子龍の名ですよね
五人の中で一番長生きしたから、実際よりも評価が高かったからかも。本人が酒の席とかで話を盛ったりとか。
趙雲も許褚も大好き
少なくとも趙雲は撤退戦で活躍してる以上、並みの将軍以上に有能なのは明らか。むしろ敗戦の責任を取らされて地位を据え置かれてる可能性も否定はできない。もしくは自ら打診を断っていたとか?
階級てあったの知らなかった趙雲はやっぱり長坂の戦いが有名だよねあと様を守って劉備のとこまで送ったからいい褒美が貰えても良いじゃないの?
趙雲が武勇に非常に優れていたことは正史にも記述されていますが箕谷での敗退と撤退戦での奮闘を例に上げても少数精鋭の隊長としては重宝しても万単位の兵を率いる将軍としては心許なかったという話を耳にします
自分もその考えに同意です。軍の指揮官というより、小隊長としてのほうが向いていたんかなと。もちろん個人の武勇には優れていたのだろうとは推測できますが。
趙雲の活躍は、三国演義の作者が同郷だったよしみで加筆された部分が多くあります。劉備の人事で、関羽や張飛を抑えて名門の馬超が上だったのも、当時の中国人の気質的に血統を重んじる風潮があって、平民に過ぎなかった趙雲の位は妥当だと思います。
黄忠が五虎大将軍&地位が高いのが疑問です。家来になったのも4番目で、元々の地位もそんなに高くない。入蜀と漢中攻めで活躍したくらい(凄いですけど)。魏延や厳顔と同等ならうなずけますが…(黄忠は好きですけどね(笑))
入蜀と漢中攻めは、劉備にとって唯一独力で勝ったまともな勝ち戦です。その2つしかない勝ち戦でどちらも一番手柄を挙げているのですから評価が高いのはむしろ当然だと思います。正史において夏侯淵を斬ったというのは関羽が顔良を斬った手柄に匹敵しますが、顔良を斬ったのは曹操配下時代のもので蜀への貢献にはなってませんからね。
読売の声 さんありがとうございます。そうすると、関羽・張飛:歴戦の功黄忠:入蜀、漢中攻めの功馬超:入蜀の功+家柄で評価され高い位をもらえた感じですね。
話は変わりますが、武田信玄配下の内藤昌豊が、「お前はそれくらいの活躍して当然だ」と信玄から感謝状の一枚も貰わなかった逸話がありますが、趙雲も同じだったのかも知れませんね。
@@弘前力学 関羽張飛は義兄弟。現代日本人の感覚では単に「固い絆」程度に捉えがちだけど、時代背景を考えればそれは「一門・一族待遇」がなされて当然という意味すらあったのではないかと思っている。
趙雲は蜀軍の中では古参で活躍も当たり前のいわばジョーカーに近い一軍だろうからね、黄忠や魏延、馬超等は蜀軍としては中堅でも一軍に近い。関羽、張飛はレギュラーだから外したくても外せない。結局人事って愛着だけでは務まらないんだよね
孔明「関羽は扱いづらいし、張飛はアホだし、馬超は生意気だし、黄忠は年寄り。やっぱ趙雲だよ。」
法正「それな」
趙雲「・・・」
益々、趙雲の事が好きになった動画です。ありがとうございます🐈🐈⬛
趙雲と幸村がなんとなく重なって見える
馬超は劉備配下になってからの貢献度はゼロ。
言ってみればFA で高額契約で迎えられてろくに活躍せずに引退した野球選手みたいなもんで、そこからすれば、趙雲は不遇。
趙雲は魏書で言う典韋 許緒の存在は昔から有名です 正しく言うと強さは呂布 典韋 趙雲 関羽か馬超ぐらいで中国では 当たり前のような感じらしいです
後彼は欲も無かったらしいから 出世よりも 縁の下の力持ちで欠かせない重要な人物だったと私は思います
わかりやすい
趙雲はクソザコSRだったのか...
正史だとここを突破されるとヤバい!という状況で起用され、活躍してるイメージ
趙雲は劉備や関羽そして張飛亡き後蜀の屋台骨を支えた功労者であることに間違いないよ。
オイラの中では、五虎大将軍でダントツの1位ですネ、関羽や張飛寄り上だと思ってる。
控えめな性格だから自分売り込まなかった
横山光輝三国志では、五虎大将を決める際に
義兄弟の関羽張飛は当然、
趙雲も長年の功労から見て当然、
なぜこの3人と並ぶのが、新参で若輩の馬超と高齢の黄忠なのか?
という描写があったのを記憶しています。
もしかしたら作者(横山光輝先生)の意図だったのかもしれませんね(笑)。
確か趙雲が亡くなった時、孔明に両手両足を無くした的な事を言われてた様な。
趙雲はよく言わなかったんだと思う
荊州を趙雲が守れば蜀が勝ったんやないかな
確かにそうですよね。
近衛兵が手柄立てまくる状況がそんなに有る訳ないですよー!
そして、劉備一家が本当にヤバい時はしっかり手柄を立ててる当たり、優秀な武人だったのは確かですね。
さらに趙雲が好きになりましたw
趙雲の護衛に徹したことによって手柄を立てられない立場に居たからこそ、昇進出来なかった説はかなり胸熱…
趙雲ファンにとっては逆に忠誠を尽くしてたからこそなのか…って思ったら納得が行く分、逆に尚更評価は高くなった!!
無能かどうかは分かりませんが、歴戦の勇者である事は確かですね。許緒が引き合いに出されていて、分かりやすかったです。
趙雲は最近、ゲーム、ドラマでは主人公級の待遇になってる
趙雲を演じる俳優、声優はイケメンが多い
蜀の陳寿が、4人と並べたなら評判はとてもよかったんじゃないかと
本当の英雄は、生きてる間に評価されないもんさ
趙雲の親衛隊説は納得いくなあ、
しかも許褚も言われてみれば曹操の親衛隊みたいなもんだし 役割的には確かに同じ立ち位置だね。
同じように親衛隊の許チョと比較したらどうなんでしょうか?
実直なんだよ
近衛に任じられるということは、一番信頼されてたってことでしょう。
趙雲なら寝首をかくとこはない、裏切ることはないって信じられていた証。
趙雲が阿斗(劉禅)を救えなかったら、劉封が跡をついで、違う三国志があったのかもしれない
琉球古武術の棒術の型に「趙雲の棍」があるけど、やっぱりこの趙雲のことなんだろうか?
成程。主君の側に侍るべき親衛隊長が方面軍司令官になったら、親衛隊のお役が務まらないからなぁ。。。
そう考えれば趙子龍の評価はいささかも揺るぎませぬ
出世したのが晩年だからか、中国人にとって三国志の老将といえば趙雲らしいですな。
日本人にとって三国志の老将といえば黄忠だけど。
イメージとしては、関羽や張飛の後から入ってきてるので二人と同格とは恐れおおいと辞退し、戦に負けた時は、責任をとって自ら降格を申し出て、「私は地位や名誉が欲しいわけではありません、劉備様にお仕えすることが生きがいなのです!」とか言ってそう。
わかりやすい動画のタメだと言うことはわかる。だとしても趙雲を「無能」と呼ぶのは
共感できない。確かにくらいが高ければ偉い。しかし、武人の良し悪しを一概に位で見るのはどうだろうか。逸話だろうが、生涯一度も傷を負わなかった。と言う話が残っているほどの腕だ。猛将だったに違いない。武将として位が低くても武人として武勇、武勲が高ければ「無能」ではないはずだ。また、阿斗を守りながら戦った趙雲の腕は並では無い。
人柄が清廉だと言われていたので、関羽のように他の同僚に対する対抗心や見栄のようなものとは無縁だったのかもしれません。
関羽殿は同僚に厳しかったから・・・。特に古参の武将と名声の高い武将は。
それでも趙雲のことを悪く言ってないあたり腕は認められてそうです。(演義だと兄弟同然とも言ってたような・・・)
最近はもしかしたら関羽は魏、曹操への対抗意識がどの武将よりも強かったのではないかと推測(妄想ですな)してます。
関羽は5虎将任命時に黄忠と同列になるのを嫌がったんでしたね。
@@島悟-o3u さん。関羽は、曹操の下にいた時期でも、曹操配下の同僚たちに対抗心があったのかもしれませんね。その中で同じ降将という立場であり、かつ三國無双流で言うならば求道者という気質から張遼&徐晃とお互いの理解者として親交が深まったのかもしれません。
@@tanakaakira2001 さん。そうでしたね。加えて面識のない馬超にも対抗心を燃やして、スパーリングしてみたいような事言って、孔明の使いとして費詩になだめられたような記憶があります。そして孔明からの手紙を誇らしげに、部下に見せたとかではなかったでしたっけ。
@@saburiryu28go さん返信ありがとうございます。すいません、下のコメントも勝手に見てしまったのですが、黄忠は同列扱いは嫌がったのに対し、馬超は何故か興味を持ってます。やはり馬援の子孫だから(春秋読んでたら気になるかも)とも思えるのですが、もしかしたら曹操をあと一歩まで追い詰めたということも聞いていたのではないかとも思えるのです。
孫権に対しては二度にわたる合肥の敗戦が(しかも相手は山田さんと少ない兵力)関羽を幻滅、侮らせるきっかけだったのではとも思えるのです。憶測というか妄想の域にも出ませんが。
撤退戦で損害を出さない方が難しいとおもうけどなぁ
つまり趙雲は・・・縁の下の力持ちだったという事でしょうか。
そもそも五虎大将軍なんて地位が史実では存在しないからな
趙雲は 常に劉備の側に居てたし
諸葛亮は 関羽や張飛より趙雲を起用してたので、定軍山の戦いで 黄忠をサポートしてたし、周瑜が劉備暗殺の際に 劉備のボディーガードしてた!劉備が亡くなる前に趙雲に謝罪してたので、重要な人物ですね!
関羽たちと同じくらいの地位にいったのは
晩年くらいからですね
活躍は地味でも確実に戦果をあげ
他の武将たちからも慕われ
絵にかいたような堅実で真面目な性格
70過ぎまで最前線で戦った武勇
人気が出るのは必然ですね
今も入手できるかわからないけど、田中芳樹先生の著書『中国名将百選』にも
「入れたかった五人」の内の一人に入ってた気がする(昔の記憶で自信はないが・・)
その識見と戦術指揮能力は、いわゆる五虎将軍中でも随一・・だったかな。
ファンとしては凄く嬉しかった記憶がある。
銀英伝だと、ミュラーやメックリンガーのイメージ
趙雲って蜀の中でも一番の忠臣のイメージしかない
演義では孔明からの評価はめちゃくちゃ高く、孔明や劉備としては常に側に置いて置きたかったんだと思います。
演義の作者の羅貫中と趙雲が同郷なんで、演義で大幅に活躍を盛られた説とかも聞いたな
実態はまぁ、劉備の優秀な親衛隊長なんだろう。関羽らがある意味独立勢力みたいな動きしてるのとは違う
趙雲親衛隊説はあり得るでしょう。呉に劉備と一緒に行っているところからも考えられるし、親衛隊なら相当信頼が厚くないと務められないと思う。
史実での趙雲は、実際には悪来典韋や許褚のような役回りだったという事なのですかね。
@@saburiryu28go さん。あるいは黒田如水や竹中半兵衛みたいに実は知謀がメインの武将だったかもしれません(笑)。長坂では一応単騎で駆けた話はありませんし(夫人とご子息を助けたのは事実なら何か策を講じたのかも)、空城の計も最初趙雲提案ならばあり得る!?
・・・・でもそれなら献策してますよね・・・・失礼しました。
ただ、趙雲は劉備が呉から戻ってきたときに孫夫人のお世話役という名目の監視を行っていると聞いたことがあります。その時、諸葛亮も趙雲が孫夫人を抑えているから安心できるみたいなことも言ってたような気がするんです。これは関羽、張飛では出来ず趙雲にしか任せられない任務だったことを鑑みても親衛隊でも脳筋ではなかったのではないでしょうか?
@@島悟-o3u さん。そうですね。夫人の世話管理のような事まで引き受けるとなると、余程の器量がなくては勤まりそうもありませんね。やはりそこには、人柄も評価されての事だったと想像します。
現代に例えるなら、趙雲が首相SP長で、ほかが自衛隊トップ4かなと。「将としての大物感」の違いはそういうことじゃないかな。
@@lemonade70755 さん。その割りに空城の計とかやったり退却戦でちゃんと物資は持ち帰ったりただのSP長にしてはいろいろやり過ぎな気が。なんか見落としがあるかもしれませんね。趙雲は昔は真田幸村にも似てるとも思えたのですが冷静に物事を見ているところがあるので誰と例えるべきか良く悩みます。
蜀の中では趙雲と諸葛亮が好きですね。個人的には、この二人が夷陵の戦いで敗れた後に人材不足となり、劉備が死んだ後の蜀を支えたからですね。
趙雲がアイドルみたいに描かれていてかわいい(*≧з≦)🎵
腰が低くて丁寧で言葉使いもちゃんとしているだれにたいしてもわけへでなく優秀すぎたのかもなー
徳川家康に仕える本多忠勝みたいなものか。本多家は大名ではなく旗本だったが、忠勝は家康の一番近くにいて最も信頼されてた武将。位は低くても将軍に意見することが出来たから、権力は絶大だったといえる。
関羽(煽り運転型ドライバー)
張飛(飲酒運転型ドライバー)
馬超(暴走族)
黄忠(免許返納しない老害ドライバー)
というイメージの他4人の五虎将に比べ
趙雲(ゴールド免許優良ドライバー)
って感じかな。
例えが草
近衛が派手に活躍してたら、その国やべーでしょw
劉禅と諸葛亮両方の意志のような気がします。劉禅には長坂での命の恩人ぢあり、孔明には使い勝手のよい歴戦の将軍です。魏延や馬超や李厳は扱いにくいでょう。
馬超なんか、劉備の部下になってから何していたの認知レベルだからな。
まあ、地味だけど涼州への影響もあったから記録に残らない活躍あったのだろうけど。
@@ホーエンジョージ
馬超が早死にしてその代わりに涼州方面の影響力を背景に出世したのが姜維。
趙雲が好き過ぎて息子に趙雲の名前を付けようとしたら嫁に大反対されたよ
ならば子龍でも良かったのでは?知り合いにいますよ。
そりゃあ、麻生河野太郎みたいな名前つけようとしたらね・・・
愛知県に趙雲という中華料理店あったよ。
それは息子がかわいそう
3人目生まれた時、「一休」にしたいと言ったら、家族全員に反対された。「趙雲」「子龍」ならいいと思うが。
親衛隊長って事か!関羽、張飛死んだから、趙雲までいなくなると痛いもんな
ある程度出尽くしてるかもしれませんが、一点...趙雲は陳寿の評で夏侯嬰にたとえられていますから、やはり君主を護衛する役を務めたのは間違いありません。しかし、趙雲が親衛隊を辞めたのは劉備が死んだときではないですよ?皆様ご存じの通り、劉備が入蜀の時に趙雲は連れて行きませんでした。もっとも嫡子の護衛はしていましたが.... また多くの方の意見と通じますが、出世は能力の高いものよりも虚栄心の強いものからというのは、現代でもあまり変わっていません。
影の右腕じゃんか!
蜀の場合、関羽張飛は別格中の別格(なんといっても演義では義兄弟)で、馬超も運がよければ魏呉蜀を向こうに回して王になれる存在だったので別格として考える方がいいと思います。黄忠はその功と年長を敬ってとして、この4人が上にいる限り、他の国の様な地位ランクとは違う基準だったと思います。何か与えたくても与える物の少なかった蜀という国力の中での功臣達への慰みの様な…
また、本朝で見ると徳川家康は、地位が高いほど職権や権能は軽くしています。その方が嫉妬渦巻く政治の世界では人事マネージメントしやすいのが理由だと思われます。
その段で見てみると、趙雲の地位の低さは、その能力の有能さ故で、また趙雲が嫉妬深くなかった所為かと思っています。
だから趙雲は主人公
関羽、張飛は義兄弟で別としても、黄忠、馬超に武勲で劣るとは思えないんですのね。劉備への勤労年月も長いですし。出自卑しく身分が低いことや、プライドの高い他の将軍の機嫌を損ねないように配慮した。みたいな記事を読んだ記憶があります。
というより、黄忠、馬超が特別扱いなのは、劉備に使える前の地位が趙雲より遥かに高かったからだけの気が。
馬超は君主だから劉備と同格、黄忠は長沙郡の武官筆頭だから基本関羽、張飛と同格以下には落とせない。
五虎大将軍の中では趙雲が一番好きですけどね
関羽と張飛は人間的にあくが強すぎるし、黄忠は五虎大将軍になった時はかなり高齢、馬超は趙雲より存在感が薄い
現代社会と同じで人間関係や上司へねたゴマスリが得意ではなかったから出世できなかった。
もしくは現場もしくは近いところで働きたいから本人が一定以上の出世を拒んだ可能性とかもありそうですよね。
出世できなかったとしても、まあいいじゃん。
1800年後のゲーム世界では
顔はイイは、知力・武力・魅力の三能力は高いはで、
文句のつけようが無い程、高評価されてるんだから
劉禅が自分の命を救ってくれた趙雲を出世させるのは当然かと
宦官は地位か低いのに権力は絶大
ええやん一番最後まで生きれたし
許褚のそれが低いのは出自によるもの … という点もあるのではないでしょうか? そして他の4人の虎大将軍に比べて趙雲は官位にそれほど執着がなかったように(そういう脚色?)感じられます(勝手なイメージですけれども)そして最大の理解者は諸葛亮孔明だったのでしょうね 現代中国でも本邦でもいい男だったイメージで伝承されていますよね … それでいいんじゃないかな w
品はヒンではなくホンと読んで頂きたい
趙雲はわざわざ高い位与えなくても扱いやすくしっかり働いてくるれるから他に比べて低い位だったのでは?
やっぱり、最高な方ですね(^^)v。
趙雲の結婚に関するエピソードを。
趙雲がある地方を攻めたとき、そこの太守から縁談を持ち込まれた。相手は太守の義姉。絶世の美女として趙雲の嫁に相応しいと太守は考えていた。ところが、趙雲は太守の姓が自分と同じ「趙」であることを知ると、こう言い放ちます。「太守殿の姓は私と同じと伺いました。太守殿は我が兄も同然であり、その奥方なら私には義姉上。お断りいたします。」
そして、こう言い切ります。
「世の中、女は星の数ほど居るゆえ妻などいなくても結構」
でも、後にちゃっかり嫁を貰っているんですねぇ。
その太守が信用おけない人物と見越して断った説もありますね。実際、そ奴は後に曹操の元に逃げ込んでるし。まあ、俺なら美女だけ頂いとくけどね。
討ち取られずに亡くなった事が僕は嬉しいです(⌒‐⌒)
日本の戦国でいう高坂弾正と同じで撤退戦で強かった印象。
劉備存命の時代にはたしかに許チョのような役割だったかもしれないが、孔明の時代には兵を率いて戦場に出てます。趙雲は死後に順平侯と諡号されてますが、蜀の臣下で諡号されているのはたったの12人。多くは文官であり、武官で諡号されているのは関張馬黄趙の5人だけです。
もしも魏延が謀反してなければ魏延も関張馬黄趙と同列の扱いを受けていたかもしれませんね。
劉禅を保護したからだろ
劉備にとってはその他大勢でしかないが
劉禅にとっては命の恩人
だから超絶美化したってだけ
@@tggewtg1286 お前は美化される要素すらないみたいねwww
逆に内勤だった趙雲を戦場に出さなきゃいけないほど、蜀の人材が枯渇し始めてたってことだろ。
史実としては張苞は父親より先に死んで、次男は武将としての才能はなく文官で出世、関家も関平は父とともに殺され、関興もおそらく北伐前に死んでいる。
次世代の武官トップがおらず、先代からの老臣を武官トップにせざるを得なかった。
ゲーム「三国志」趙雲は何が何でも絶対的に手に入れる最重要人物なのに。
趙雲は常に敵前線に配置しておくのがセオリー🎵
子竜は一身これ胆なり
人物を見る目に優れた劉備が傍に置いた理由を考えれば
関羽張飛みたいに対外戦争に使うには向いてなかったから
人物を見る目に優れた劉備が関羽に荊州まかせて
そのあとどうなったか知ってる?
関羽に荊州を任せたのは孔明です。劉備はむしろ趙雲か張飛に任せたかった様ですしね。
@@トムリドル-e1w
関羽伝に
「先主(=劉備)は西の益州を定めると、(関)羽に荊州の事を董督させた(「先主西定益州、拜羽董督荊州事)」
と記載があるのですが。
劉備は結構指揮者先頭タイプなんで、その親衛隊長に当たる趙雲はかなり対外戦争でも強くなきゃ起用できなくね?
ヒーローだよな
演義だと最強クラスだよね
何度も一騎討ちをやって殆ど負けなし
趙雲ってもともと劉備の親衛隊隊長だから地位以前の信頼度は別だと思う。
むしろ、武勲の割には出世しただと思う。
何にせよ個人名での伝があったり最後のような話もある以上、決して無能って訳では無いような気もする。
近衛隊長
趙雲はけっこうじじいだったと中国人から昔聞いたな。
劉備との関係は?家臣の中では古い・劉備が一番信頼してるから・一番大切な者託した
長坂橋の折り?救われた息子の事よりも趙雲の身を案じた事からも・出世や名誉で繋がる関係よりも?もっと深い信頼関係なのかと?孔明ともにして見ても?
孔明が趙雲のしを一番悲しんだ位だから・・趙雲さえ居れば・・趙雲までもが・・と・・
パチンコの一騎当千では趙雲子龍は1番強く激熱キャラです
外したら本当にツイてないレベル
一説では趙雲は戦術・戦略にも長けて諸葛亮にも信頼が厚い人物、とのこと。
有能すぎて劉備の親衛隊を任されたのでは、と思います。
個人的には荊州を関羽ではなく、趙雲が守っていたら荊州防衛は成っていたかも、と思ってしまいます。
その通りだろうね。
結果論だろうけど。
諸葛亮が関羽を疎んじて、荊州に残してきたという説もあります。張飛は名士や知識人に対しては態度が卑屈だったらしいから諸葛亮には普段はへりくだっていたので、関係は良かったと思われます。
それ思いました
関羽みたく曹操を恐怖せしめることはできなかっただろうけど、趙雲なら守りという点ではしっかりこなせたと思う。
見聞きしていた前情報でも動画中の解説を聞いても、許褚に立場等通じるのがあるなと思っていたら言及があってなんだか安心した。
長坂もあり劉禅が位を与えるのも頷ける。劉備死後、蜀中の信頼と期待は厚かっただろうな。
もし魏の陣営に居たなら張遼のような活躍をしていたかもしれない。ロマンあふれる人物。
大国魏の四品官だった許褚の方が、小国蜀の二品官だった趙雲よりも収入は上だったかもしれませんね。
GDPが3倍くらい違ったのかな❓️
ソフトバンクとロッテぐらいの年俸の開きがありそう
サムネが面白すぎる問題は誰もコメントしないのか🤣🤣
趙雲伝 雲漢遥かにだと
冷静で自分や家族を護れるのは趙雲しかいない
なので近くにいてほしいと素直にたのんでたなぁ。
劉備がなくなった時には関羽と張飛もなくなってる
蜀の趙雲と陳到は正史でもう少し触れて欲しかったなとは思います。陳寿の意図があったのかもしれませんが。
賛成です。陳到は趙雲と遜色ない名声と実力を備えているはずですが、活躍の描写がないので歴史ゲームでも評価が低いですね。
@@ふものふ 趙雲は今回のテーマになっている通り、伝えられている活躍に反して実にあっさりとした扱いであり、
陳到に至っては、北伐の時には趙雲に次ぐ重要な役割を与えられていたという説が有力です。
つまり彼の力量は、間違いなく趙雲魏延に匹敵する程の実力があった事は推察できます。
にも関わらず演義では全く登場しません。
この2人の実像が今後更なる研究で見えてくる事を期待してます。
陳到、光栄も万能っぽいけど微妙な能力値ですよね・・・。
孔明は重要でしくじりが許されない、任務ほどチョウウンを起用してるはずです。チョウウンは、忠実に任務をこなす人物だったらしいです。張飛や関羽は、プライドが高く任務でアドリブをしてしまうことが多々あったらしいです。あと、特に張飛、関羽に遠慮していた所も位が低い理由らしいです。本当かは不明ですけど(笑)
趙雲は今でいうSPみたいな役割という説面白いです。
劉備は自分の近くに置いておく為にわざと出世させなかった可能性もあるのかな?と動画見てて思いました。
演義では奥方を守れず阿斗だけを抱きかかえた趙雲に対して劉備は「趙雲が生き残ってくれた事が1番。趙雲のいのちを危険に晒した事は我が子と言えゆるさん!」 と地面に投げつけた描写がある作品もあります。
実際どうかは分かりませんがSPも文武両道でなければなれないので趙雲が個人的なスペックが高かった事は間違い無いのかなと思います。
・・・・・・・・・・・・
演義と正史を混同して解説すべきではないと思います。五虎将軍の名称自体が演義の創作をご存じでしょう。
劉備は漢中王に就任した際に関羽は前将軍・張飛は右将軍・馬超は左将軍・黄忠は後将軍と漢にまつわる歴史ある将軍位に就任させます。
盤石な基盤を内外にアピールする狙いがあり、関羽・張飛は旗揚げ時期からの古参の将。
黄忠は長沙の太守劉盤(劉表の血縁者)に仕え太史慈を撃退し、夏侯淵を倒した「荊州人代表として」
馬超は反曹操を旗印にし、涼州の自治権を確保し続けようとした「涼州人代表として」の位置づけであり、
残念ながらボディガードの趙雲が就任する事が出来なかったのが実情でしょう。
漢中王に就任した劉備が、今後曹操に対抗するための大きな構想力を持った軍編成だった事が伺えます
おそらくご存じと思われますが・・・・・
残念です。
漢帝国の前後左右将軍は大司馬や諸侯王の属官ではないはずなので、関張馬黄は二千石の漢帝国の前後左右将軍ではなく、漢中王国の前後左右将軍でしょう。
むしろ有能すぎるが故に,あえて位を上げずに目立たないようにして,重要な使命をまかせたのでは?
服部半蔵のようなポジションだったのではないでしょうか.
趙雲は地位は低かったが、長坂撤退戦や漢中攻略戦での活躍は紛れもない事実で有り、魏にも武名は轟いていた。
でなければ、諸葛孔明の第一北伐で、趙雲が寡兵で先鋒を装い斜谷道から郿、長安を突く振りをして魏軍を牽制してる間に、孔明率いる本隊が魏延を先鋒に祁山から天水、南安、安定の三郡を落とす離れ業は不可能である。
趙雲が死んで二方面作戦が使えなくなったのが、以後の北伐失敗の最大の原因だ。
実際には諸葛亮は北伐で趙雲の他に陳式、魏延、呉懿を別動隊の長として用いているが。
李厳も節を仮されてるから多分使える。
北伐の時点で、曹操劉備の死からわずか数年しか経っておらず、将兵ともに世代交代してない
そこで趙雲が死ぬと、魏延以外の面子がとにかくショボい
呉懿は劉備の姻戚、李厳は諸葛亮と同じ荊州閥だから、地位が高いだけで、戦場での実績など何も無い
能力が高く感じるのは、某ゲームの影響に過ぎない
こんなのを指揮官にしたら、敵味方の兵士から完全に舐められる
陳到は、曹真、張こう、郭淮、そして司馬懿らとは比較にならない。
兵士の動向に影響するのは地位ではない、過去の戦場での名声だ。
中国人の兵士は自分さえ生き残れば良いから、将軍の名前と実績の名声で、露骨に従ったり逃げたりする
これは、名士の名声以上に戦場で直接反映するから厄介
諸葛亮が軍規を極端に厳しくしたのも、将軍の名声で劣っていると自覚してたから
武勲では張関をも凌ぐ驍将。普通に出世すれば、張関よりも優秀なので嫉妬その他で和が乱れると思い、自ら官位を辞退したものと思われる。男の中の男ですよ。
もしも趙雲が単騎駆けしたならば関羽、張飛みたいに万人に匹敵する(程イク伝で記載があったような)という記載があってもおかしくないはず。趙雲は多分、武芸以外の何かが優れていてそれで諸葛亮や劉備に信頼されていたはず。
間違いなく関羽、張飛並み(それ以上もあり得るか?)に信頼されているとは思います。
単騎駆けは戦闘を避けて駆け抜けただけでしょう。捕まった終わりの状況で怯まなかったので子龍は一身これ胆なりと劉備が評したものと思われます。
世継ぎを救出するというのは武功として是非を問わずして最上のもので、これ以上のものは考えられないと思います。それを素直に褒められてしまっては偉くなりすぎて、周りのみなさんが遠慮してしまうと、そういう気配りのできる人物で、かつ無私無欲で武将として戦果に貢献できればそれで満足という人であったのだろうと思います。
実際にそういう人は居ます。陰徳を積むを
至上の喜びとして、それを他人に知られることを恥だと思う、墨家のような価値観の持ち主とかは、そうですね。
味方は最初、趙雲が勢いよく走り去るのを見て逃亡したと思って、劉備にそう報告したが、劉備は子龍が逃げるわけ無いだろたわけ者と言って、報告した者をすぐさま殴り倒したそうです。趙雲に絶対の信頼を寄せていたことが伺われます。
派手な武勇伝だけでなく、予定された戦果を確実にもたらし、それを常に期待できる人は何よりもありがたい物です。トップからすれば絶対に手放したくない人材でしょう。伝に載らぬような地味な戦闘でも確実に仕事をしていたものと思われます。
本当に信頼されるのはそういう普通のことを絶対に誤らない人間で、張飛や関羽のような、一騎打ちは馬鹿強いが、戦略行動では埋没してしまうでは余りあてにならない。特に関羽は、武将として素直に軍命に従う従順さを持ち合わせていたかどうかも疑わしい人物で、組織の歯車としてははっきり言って欠陥品だったのではないかと思っています。
劉備のSPを任されていて、蔡瑁による暗殺の陰謀もくぐり抜けたほどなので、武芸も達者ではあったに違いない。ただその腕前を他人と競ってひけらかすような性格ではなかったと思います。関羽や張飛のような戦闘狂とは精神的に根本から違うのでしょう。
@@setsussai さん。決して趙雲の武はないとは言ってません。(やべぇヤツさん、ちと言い過ぎだよ。)
長男のとき劉禅はそうだったでしょうが問題は甘夫人はどうやって助けたってことになりませんか?馬で二人乗りはちょっと無理があるのでは?何か策があった。兵をうまく使ったのではとも思えます。
当時の中国は子供とか女は地位が低い話を良く聞きますのでそれがどこまで武勲になってたかわからないですよね・・・・(趙雲を失うのがとか趙雲が裏切るはずがないという話も演義のなかの話だったと思いますが言われている可能性は存分あります)。
ただ、趙雲の戦果を見ると関羽、張飛のようにオラオラ押しきるタイプではなくて直江兼続とか真田幸村とかなんか策を練っているような気がします。じゃないと晩年の大敗をしなかったという記述にならないと思います。
要するに、戦争において殿(しんがり)がうまい。退却戦がうまい。一番死亡率が高い任務から帰還できる。これが趙雲の強さだったのではないでしょうか?もう少し調べてみます。
@@相当やべぇヤツ さん。趙雲に関しては記述も少なく、中国での人気の高さから伝説、逸話が後を絶ちませんのである程度はやむを得ないと思います(最近ですら関平と趙雲の娘が結婚して子孫が生き残っている話がwikiで載ってましたから。いくらなんでも・・・)。
それにしてもよく長坂のときでは劉備ピンチのときに夫人とご子息助けられましたよね。そんな余裕どこに!?とすら思えます。趙雲の性格からしての行動だったとも思えるのですが、劉備を守りながらとなるとやはり策や兵を駆使して不可能を可能にしたと考えてしまいます。(とすれば趙雲一人の功績ではなかったために出世が遅れたとも考えれる。諸葛亮は趙雲のその能力を高く評価していたのでは?)
策士だと何で評価が下がるのかはよくわからないが、趙雲は生涯現役で北伐にも部将として参加してます。どのように戦おうが勝てばよいのでは?武人としての実力は、劇の演出としての誇張があることを差し引いても疑う余地はないでしょう。
国家への功績では皇帝の命の恩人ですから、別格、絶対不動のナンバーワンでしょう。そこに疑問を持つというのが自分としてはわけがわからない。自明のことと思われるからです。
そもそもに戻れば、趙雲は実績と位の釣り合いが取れていないのでは?という議題ですよね。これは劉備や孔明、陳寿に至ってすら全く言及がないですので、推測するしかない。史実としては1次的には資料がなく謎としか言いようがないので、どのように空想しようが楽しくそれぞれの考えを披露すればいいんじゃないですかね。今では正解は誰もわからないです。
あなたは実力に比して評価が高すぎる、という考えのようですが、私は逆です。評価が低すぎます。趙雲はどのように厚遇しても足りないぐらいの功臣でありながら、格別の待遇も受けず、目立った振る舞いもない。よほどの人格者でなければそうはならないと思いますね。
陳寿が位に言及してないのは、おそらく、当時将軍位に格別の意味がなかったのではないでしょうか。実際に何をしてるかのほうが重要で、位は勲章みたいな飾りだったのではないでしょうかね。
現代ほど軍が組織化されていたわけでもなく、劉備はゴロツキ上がりですし、制度と機能が不可分であるほどに洗練されてはいなかったと思います。もしそこまで軍が機能的であるなら、武芸だよりの将軍など何の価値もないですからね。
水戸黄門も子龍の名ですよね
五人の中で一番長生きしたから、実際よりも評価が高かったからかも。本人が酒の席とかで話を盛ったりとか。
趙雲も許褚も大好き
少なくとも趙雲は撤退戦で活躍してる以上、並みの将軍以上に有能なのは明らか。むしろ敗戦の責任を取らされて地位を据え置かれてる可能性も否定はできない。もしくは自ら打診を断っていたとか?
階級てあったの知らなかった趙雲はやっぱり長坂の戦いが有名だよねあと様を守って劉備のとこまで送ったからいい褒美が貰えても良いじゃないの?
趙雲が武勇に非常に優れていたことは正史にも記述されていますが
箕谷での敗退と撤退戦での奮闘を例に上げても
少数精鋭の隊長としては重宝しても万単位の兵を率いる将軍としては心許なかったという話を耳にします
自分もその考えに同意です。軍の指揮官というより、小隊長としてのほうが向いていたんかなと。もちろん個人の武勇には優れていたのだろうとは推測できますが。
趙雲の活躍は、三国演義の作者が同郷だったよしみで加筆された部分が多くあります。劉備の人事で、関羽や張飛を抑えて名門の馬超が上だったのも、当時の中国人の気質的に血統を重んじる風潮があって、平民に過ぎなかった趙雲の位は妥当だと思います。
黄忠が五虎大将軍&地位が高いのが疑問です。
家来になったのも4番目で、元々の地位もそんなに高くない。
入蜀と漢中攻めで活躍したくらい(凄いですけど)。
魏延や厳顔と同等ならうなずけますが…
(黄忠は好きですけどね(笑))
入蜀と漢中攻めは、劉備にとって唯一独力で勝ったまともな勝ち戦です。その2つしかない勝ち戦でどちらも一番手柄を挙げているのですから評価が高いのはむしろ当然だと思います。正史において夏侯淵を斬ったというのは関羽が顔良を斬った手柄に匹敵しますが、顔良を斬ったのは曹操配下時代のもので蜀への貢献にはなってませんからね。
読売の声 さん
ありがとうございます。
そうすると、
関羽・張飛:歴戦の功
黄忠:入蜀、漢中攻めの功
馬超:入蜀の功+家柄
で評価され高い位をもらえた感じですね。
話は変わりますが、武田信玄配下の内藤昌豊が、「お前はそれくらいの活躍して当然だ」と信玄から感謝状の一枚も貰わなかった逸話がありますが、趙雲も同じだったのかも知れませんね。
@@弘前力学 関羽張飛は義兄弟。現代日本人の感覚では単に「固い絆」程度に捉えがちだけど、時代背景を考えればそれは「一門・一族待遇」がなされて当然という意味すらあったのではないかと思っている。
趙雲は蜀軍の中では古参で活躍も当たり前のいわばジョーカーに近い一軍だろうからね、黄忠や魏延、馬超等は蜀軍としては中堅でも一軍に近い。関羽、張飛はレギュラーだから外したくても外せない。結局人事って愛着だけでは務まらないんだよね