黄昏の国のカフカとリルケ|オーストリア帝国の凋落と解体が天才たちを育てた

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  • เผยแพร่เมื่อ 16 มิ.ย. 2024
  • 動画中のブログ記事です anisaku.hatenablog.com/entry/...
    リルケとカフカは実存主義とも言われます
    二人の表現はこの世的な雑漠たる要素を極限まで濾過していった結果だとの評価もあります
    今回は全く違う視点でなぜリルケとカフカは似ているのか?
    これを考えていきます
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ความคิดเห็น • 7

  • @T_TOYODA
    @T_TOYODA หลายเดือนก่อน +1

    詩人や芸術家がどのような創作を行うか、それがいつどの様に受容されるかは、その時々の時代背景から有形無形に影響を受けますよね。話題にあがったリルケとホフマンスタールの同時代性について、二人には交流があって一冊の本にまとめられるほど手紙のやりとりがあったようです。時代背景の影響が、立場や作品の傾向も異なるこの二人および多くの人々に反射して様々な作品や生き方となって響き合うような光景が想像されます。

    • @user-no8qk4pf4j
      @user-no8qk4pf4j  หลายเดือนก่อน +1

      時間と場所の影響は必ずありますね

  • @user-rs2xy2qv5z
    @user-rs2xy2qv5z หลายเดือนก่อน +1

    斉藤紳士さんとコラボしてください!

    • @user-no8qk4pf4j
      @user-no8qk4pf4j  หลายเดือนก่อน +1

      斎藤紳士さん、ぼくも好きですよ。
      機会があればやってみたいものです。

  • @erikasono565
    @erikasono565 หลายเดือนก่อน +2

    文学を学んで小説家になられた方なのでしょうか? 
    オーストリアにエネルギーがあったのは18世紀まで、とは恐れ入ります。
    つまり、ナポレオン侵攻前、絶対王制華やかなりし時代でオーストリアは終わり、と仰るのでしょうか?
    -
    まず、オーストリア音楽史を語るのに、ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデのミンネザングが栄えた10世紀ころのウィーン宮廷のことは飛ばす、また、ベートーヴェンやブラームスはドイツ出身だから除くとしても、オーストリア生まれのシューベルト、ブルックナー、ヨハン・シュトラウス、それにハプスブルク帝国生まれのマーラーなどを悉く無視。
    文学でも、19世紀初頭にはネストロイもいたし、時代が下るとムージルらもいますよね?
    美術では、シューベルトの友人シュヴィントは後にバイエルン宮廷画家としてホーエンシュヴァンガウ城の壁画や、ウィーン国立歌劇場のシュヴィントホワイエの天井画などを描いている。ミュンヘンのピナコテークにも大作が残っています。
    時代が下ると、世紀末のユーゲントシュティールの時代に、クリムトやシーレの絵画、それに特徴的な建築などが現れ、一時代を画します。
    -
    つまり、19世紀に入って、オーストリアの文化が衰えたように見えるのは、文学だけの話。音楽や美術は、市民社会の興隆に伴い、より盛んになります。
    そしてオーストリア文学が、ネストロイ、シュティフター、リルケやカフカ、ホフマンスタール、ツヴァイク、ムジールなどを生みながらも輝きを失ったかのように見えるのは、メッテルニヒ時代の検閲が厳しかったからでしょう?
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    私の専門は19世紀初頭のウィーン。ドイツの本拠地と往復する形で、足掛け15年のウィーン資料研究滞在経験があります。
    この19世紀初頭のウィーンは、検閲が厳しい中で、個人の生活を大切にするビーダーマイヤー時代で、検閲を逃れた音楽、特に市民の息抜きとして見逃された劇場を中心に市民社会が栄え、独特の文化が花開く。
    フランツ・ヨーゼフ皇帝は電気すら嫌うような人でしたから、意図的に産業革命を避けていたということでしょう。
    でもそのお陰で、ウィーンの19世紀の文化は、たいむかぷセルのように今日まで残っている。
    フランツ・ヨーゼフ皇帝が望んだような形で、帝政を残すことはできませんでしたが、文化的遺産を残すことには、フランツ・ヨーゼフ皇帝は成功したともいえます。

    • @user-no8qk4pf4j
      @user-no8qk4pf4j  หลายเดือนก่อน

      そうですか お話を伺うとますます明らかに同時代のパリやロンドンやベルリンとは様相が違うようにみえますね

    • @erikasono565
      @erikasono565 หลายเดือนก่อน +1

      @@user-no8qk4pf4j
      違うのは当然です。
      そもそも、欧州をひとくくりにする方がおかしいでしょう? 拡大EUが成立した今の時代とは異なるのです。
      産業革命が成功したロンドン。フランス革命後王制や帝政と共和政が交代しながら模索していたパリ。フランス革命の影響を受けた市民革命が各地で勃発していたドイツ。
      ドイツの中でも、カトリックで保守的なバイエルンに比べて、新興のプロイセンは急進的で、軍備を拡張しながら領土拡大を目指し、やがてオーストリアに代わって、ドイツ連邦、ドイツ帝国の盟主になっていきます。
      ウィーンでは、1838年の三月革命前はメッテルニヒの厳しい検閲の時代、三月革命後に即位したフランツ・ヨーゼフ皇帝は保守主義者でしたから。
      -
      それに、遠隔地に広大な植民地を持つ英国やフランス、植民地をほとんど持たず、領土を拡大しようとするプロイセンを中心とするドイツと、隣接するバルカン半島やボヘミアに帝国を築いていたオーストリアは根本的に異なります。
      というより、ハプスブルク帝国の場合には、海外領土を有していたスペイン・ハプスブルク帝国が、近親結婚の果てに滅亡してしまったので。
      オーストリアの場合にも、皇后エリーザベートはいとこのバイエルン王ルートヴィヒ二世と似て自由で急進的。皇太子ルドルフに至っては、EUの先駆けとも思えるじなうなどなぅ連邦を構想していたほど。
      でも、ルートヴィヒ二世も、皇太子ルドルフも、結局は失脚させられ、自殺、ないしは自殺同様に亡くなります。続いて皇后エリーザベートも暗殺される。
      これで改革の芽が完全に潰されたから、オーストリア帝国は、第一次世界大戦を経て完全に崩壊するしかなかった。
      -
      でもだからこそ、文化、特に音楽や美術は例を見ないほど爛熟する。
      その爛熟ぶりは、美術ではパリに匹敵し、音楽ではバリを超えています。
      そして、ハプスブルク帝国領であるボヘミアの貴族に嫁いだ日本人妻ミツコの生んだ息子はウィーン留学を経て、今のEUの基礎を構想していますよね。
      *****
      だから19世紀ウィーンが、ただ停滞していたというのは少し違うと思います。
      そもそもドイツやイタリアは諸侯林立で統一されていないかった。
      強国はそれぞれに異なる近代化の道を辿り、フランスはフランス革命で共和国に、ロシアはロシア革命で共産国ソ連になり、絵国は最大の植民地であるアメリカに独立され、二度の大戦を経て海外植民地のすべてが独立してしまう。
      オーストリアの場合、ナポレオンがフランス革命後に整えたような学校制度は、マリア・テレジアがすでに整えています。
      更には病院や救貧院なども。マリア・テレジアが建てた学校であるテレジアーヌムや、病院の AKH Allgemeine Krankenhaus は今でも健在なのですから、凄いものです。
      -
      ナポレオン政権下のパリ同様、ウィーンでは上下水道も整備されましたし、ナポレオン三世のバリ市街地整備や万博開催と、フランツ・ヨーゼフ皇帝時代に城壁が取り壊され、リンク通りになったり、万博が開催されたのとはリンクしています。
      ですから、欧州の大国同士で、似た面は当然たくさんあるわけです。
      -
      それにも拘らず、ウィーンで帝国崩壊の機運が高かったのは、フランスや英国とは異なり、遠隔地に植民地があるのではなく、隣接して民族の異なる国家を帝国内に抱えていたからだろうと私は思います。
      フランス革命後のウィーン会議で、民族自決主義はハプスブルク帝国内の人にも刷り込まれてしまいましたからね。
      でもそのお陰で、ハプスブルク帝国領の大部分の地域が独立した現在も、ウィーンにはかつての多民族国家の首都らしい、独特の国際性がある。
      -
      住んでみればわかりますが、ロンドンやパリ、ベルリンはそうではないのです。
      今はオーストリアにも極右政党ができて、外国人排斥が強まったらしいのですが、住んでみると、外国人が多い割には、移民が増えたから移民を排斥しなければという雰囲気はさほどない。
      もともと多民族国家である帝国の内外から様々な才能が集まっていた街であり、東洋人ミツコの息子が提唱したことから発展したEUの本部が似つかわしい街。
      帝国という形態が崩壊しても消えない確かな伝統があるというのは、凄いことです。
      *****
      余談ですが、今でもウィーンの人はかつてのハプスブルク帝国に憧れと誇り、郷愁を抱いています。
      オーストリア国立文書館で研究するのに、希望の資料と引き換えにパスポートを預けるのです。
      私の日本のパスポートの菊の紋章を見たご高齢の受付係の夫人が「日本は今でも天皇が統べる帝国なのよね。今のオーストリアに皇帝はいない。私たちは大戦ですべてを失ったの」といったのです。
      だから私は、日本の天皇は象徴で、日本も大日本帝国ではない、といったのですが。
      -
      また、ボヘミアの辺境、ズデーテン地方から第二次世界大戦後にドイツに送還されてきた知人は、「あの土地には、ナチスのボヘミア侵攻前からドイツ人が住んでいた。あの土地はそもそもドイツではなくハプスブルク帝国の一部。だから送還するのなら、オーストリアに送還してほしかった」と。
      だから、旧ハプスブルク帝国領のバルカン諸国やボヘミアも、民族自決で独立したいとか言いながら、その一方では宗主国オーストリアに強いあこがれを抱いている。
      -
      そもそもナチスの侵攻前から、ドイツ人と他の民族が共存していた地域は他にも多い。
      バルト三国、例えばリガなどもそうですね。
      だからナチスの中欧思想、つまりドイツを中心に欧州に大帝国を形成し、国境をなくして行き来できるようにしようという思想も、あながち間違っているとは言えないわけ。
      但しその過程で、ドイツ人、ゲルマン民族優先で、ユダヤ人を抹殺し、ポーランド人らを抑圧してよいということにはなりませんが。
      -
      そういう様々な思想や思いがあったから、今のいーやーが成立している。
      もちろん、シェンゲン協定域内での移動と就労の自由が保障されたから、発展した国に貧しい国から移民がなだれ込み、様々な問題は生じています。
      でもそこで生じる文化の融合を力に変えることのできる伝統が、例えばウィーンにはある。
      ロンドンやパリ、ベルリンにはそれがないから、ブレグジットを起こしてEUから離反したり、パリでは旧植民地のアフリカ系移民が暴動を起こしたり。
      ウィーンではそれは起きないわけでしょう?
      なぜなら、「オーストリア人」イコール支配者階級のドイツ人ではないから。
      これは法律にも反映していて、外国人留学生でも週に20時間は働けるし、尚且つ、2年間働けば、後は大学とは関係なく、オーストリア国なしどこでも働けるそうです。
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      つまり、今でもオーストリアはある意味、移民に対して開かれているわけ。
      アメリカやオランダ、カナダなどの研究者が、オーストリア人と結婚するのならまだともかく、そうでなくても、リタイア後にウィーンに定住している例も多い。
      参政党の松田学氏のピアニストである夫人と、オペラ歌手であるお嬢様もウィーン在住ですからね。
      デュッセルドルフの国際シューマン研究所所長である前田昭雄氏も、ご本人は専任教授を務める大阪と、所長職のデュッセルドルフ、講師を務めるハイデルベルクやウィーンを行き来しているのに、夫人とお嬢様はウィーン在住。
      お金がある人には定住権を認める国は多いですが、それがこんなに自然に行われて、今でも文化活動も根幹をなしている国はオーストリアくらいでは?
      その国際的なウィーンらしさが形成されたのは、絶対王制が崩壊し、市民社会が発達したまさに19世紀だったと私は思うのです。
      -
      ウィーン、いいですよ。
      帝国の崩壊は、新たな国際都市ウィーン誕生の胎動でもある。
      マイペースで続けられるいいポストがあったら、またウィーンに住みたいです。