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1973生まれです。小学生の高学年の時、親に頼み込んで青春18切符で山陰を旅したのを思い出します。博多行きまつかぜや、浜田行き普通列車など、懐かしくてたまりません。
山陰本線ってみな、それぞれ思い出があるみたいですね。走っていた列車の車輛。日本海の風景。旅を楽しむ路線の一つなのかもしれませんね。
私も博多行きまつかぜに乗って京都から終着駅博多まで乗りました。早朝三田駅から一旦京都駅へ行って京都駅のホームで当時の長崎行きかもめと博多行きまつかぜが並んで出発時刻を待っていた。今では懐かしい風景です。山陽本線かもめと山陰本線まつかぜが京都駅で並んでいた。五十年前の事です。
1973年、まだ2歳の頃の映像、ありがとうございます。鉄道のての字も知らない頃ですが、保育園児の頃から好きになりはじめて、いまだに好きです。
みんな同じですね。私も幼い頃、家の近くでSLが走るのを見て、鉄道が好きになりました。
貴重な映像ありがとうございます。国鉄型気動車やDD51を求めて2000年前後に山陰線に何度も足を運びました。風光明媚で魅力的な路線ですね。車輌は変わってしまったけれどまた行きたくなりました。
山陰って好きな人が多いですね。昔は電化されてなかったのですが、次第に電化され、今、浜坂と鳥取間が超ローカル本線になってしまっていますね。去年の7月に余部に行ってそう感じました。
時間はかかっても機関車と客車の列車は大好きです😊
メッセージありがとうございます。昔は、これが速かったのですよね。今は、そう言ってくれる人は、鉄道好きな人くらいしかいないのではないでしょうか。
13両編成のまつかぜ‥食堂車が連結されてるのが最高ですね子供の頃乗るのが夢やったけど実現出来なかったな〜旧客車は、固定式の扉もう一度乗りたいですね
このまつかぜが、山陰本線で初めて走った特急だったのです。この時同時に全国各地で非電化路線に特急が走り始めたのではなかったでしょうか。特急と言えば、全車指定、食堂車が連結と言うのが、当時の当たり前と言うか基本だったようです。 でも、この動画を撮影した頃は既に、あさしおには、食堂車が連結されておらず、次第に時代も移り変わって行く時期だったようです。
子供の頃なんで2両編成の列車しか来ないのにホームがこんなに長いんだろうかと思っていたがこの映像見れば納得出来る。
昔は、客車と荷物車や郵便車などを連結した列車があったからね。
懐かしい山陰本線の普通列車にはいっぱい思い出があります。何度も乗りました。私はいつも福知山線三田駅(さんだ)から乗りました。
なつかしい写真と動画をありがとうございます。私が一番好きな時代の国鉄車両たちと、素朴な自然風景です。
同じですね。私もこの当時の国鉄車両が大好きです。
ああ懐かしい!夏の海水浴シーズンは客車が満員で、家族一同荷物車に乗せて貰いました。カマはD51、山陰線下関発。昭和47年の思い出です。
D51牽引ですか。かなり昔ですね。確か、昔SLは、米子位からDLに変わっていたのではないかと思います。私の子どもの頃の記憶なので・・・・不確かかも。
アップロードありがとうございます。自分が生まれるずっと前の故郷の鉄道を見て、私は当時を知らないのになぜか懐かしくなります。それにしても今と比べたら特急も普通列車も両数が長いですね。人口は今よりは多かったとはいえ、乗車率がどのくらいだったのか気になります。
今は、マイカー移動で、高速並みの無料道路が出来、鉄道を利用する人は少ないようです。当時は、普通の道路しかなく、乗車率も多かったように思います。特に特急、急行は。でも、この当時も急行よりも特急使用者の方が増えてきたようで、急行も編成は短めになっていました。普通列車は区間によっては、多かったが、ガラガラの区間がほとんどだったみたいです。
貴重な動画ありがとうございます。1981年にビデオ撮影とはすごいですね。カメラも重く、画質は当時はこんなものだと思います。私は1984年に祖母が買ったベータカム(BMC-100)を借りてビデオ撮影を始めました。山陰本線は1985年から行きはじめ、博多「まつかぜ」にも乗って食堂車で「出雲そば」を食べた思い出があります。1973年当時のSL列車のお話ですが、確か当時弘済出版社の時刻表には客車列車でSL牽引列車にはグリーンマークや指定席のマークが入るスペースにSLのイラストが描かれていたと思います。
まつかぜ で「出雲そば」ってあったのですか?どんな「そば」なのかな?私は、大阪から城崎まで自由席にしか乗った事がありません。本当は、全区間乗らなくても撮影はしたかったのですが、それもかなわぬ夢に終わってしまいました。時刻表にSLのイラストが描かれていたのですか?それは知りませんでした。
@@HobbyVideos 様、さっそくのご返信ありがとうございます。出雲そばですが、確かわんこそばみたく小盛りのそばが3段か5段重ねで、薬味が皆異なりました。その時は出雲市辺りで乗車したのでこのそばを頼んだかもしれません。「まつかぜ」乗車は1985年か1986年の元日でした。混雑期ですから指定ではなく自由席だったかもしれません。あと車内オルゴールが「乙女の祈り」だったのを覚えています。
いゃあ懐かしいですね あたくし高校生ん時にも まだ中央線にEF64(たぶん?0番台)牽引の普通列車長野行きなんて走ってました更に中央西線には重油併燃 長野式集煙装置の重装備D51が貨物列車牽引してましたねぇ電化直前位な頃でしたあの頃中央線には気動車急行や客車列車が走ってましたねまだED61重連な貨物列車もね八王子機関区にそんなカマ達がたむろしてました山の手貨物線にはEF13やEF15 東北本線にはEF56 EF57牽引 急行津軽や八甲田が真冬には雪をまとって走ってるのも見ましたねぇなにもかも懐かしい
中央線って東線のほうかな、私は昔は関西に住んでいたので、中央西線によく乗りました。やはりEF64の客車列車がありました。EF15って、私は上越線で写真を撮影した事があります。
当時は私は小学生だったので、この様な映像が残せるのが、憧れでした。
小学生でも、写真は写されてたのでは?
まつかぜ、懐かしいです。食堂車が連結されていましたよね。
はい、この当時は特急列車は食堂車が連結されている時代でした。でも、だんだん食堂車の無い特急も出現してきました。
すばらしい映像ありがとうございます。撮影が拙いと仰っていますが、こうして遺してくださり、今の時代に見れることにはただただ感謝です。客車の普通列車にはただただ感動です。客車列車は昔乗ったトワイライトエクスプレスとか団臨の12系といった特殊な列車ばかり(幼少期に他に乗ったかもしれませんが記憶が無い)で、普通の客車列車にいざ乗ろうと思ったら、台湾まで行くしかなかった・・・
そうですか、私は子どもの頃は普通は、この内装が木の白熱電球の客車ばかり、蛍光灯の付いた内装が金属で出来た急行列車などに憧れていました。 そして、特急なんて一度も乗ったことが無かったのです。そんな子どもの頃に乗った客車が懐かしくて、やがて消えゆく車輛を何とか残したいと思い撮影しました。
凄い貴重な動画です!まつかぜの編成凄いです!
昔は、これが当たり前だったのですけどね。
時刻表を見てSL(客車列車)かわからない人でも撮影に来ていたんですね。たまに聞く当時の「SLブーム」が鉄ちゃん以外にも広がっていたことを実感できる「思い出話」ありがとうございます。
鉄ちゃんでも、知らない人も居ると思うし、SLと聞いたら鉄ちゃん以外の人も一杯くるみたいですね。でも、当時は本当に多くの人が来ていました。多分、愛称名が「梅小路SL観光号」とか言う愛称名だったので、列車番号は、確認する事も無く、SL牽引の列車だと早がってんしたのではないでしょうか?私は、まさか!と思い、列車番号を見たら、なんだ気動車か!と納得しました。とにかく、臨時列車より、DF50とキハ82を撮影したくて、馬堀まで行ったのです。
古き良き時代…いいなぁ
メッセージありがとうございます関東も、昔は上野駅からはつかり、やまびこ、やまばと、あいづ、つばさ、ひばり等の昼行列車が一杯。夜になると、旧型客車の八甲田、津軽、十和田などが、東北、北海道へ行く青森行で発車していましたね。あの頃が、良い時代だったのかな?急ぐ人は飛行機と言う交通手段があったんだし。
いつも貴重な映像をありがとうございます。DD54って懐かしい機関車ですね。ドイツのシステムを取り入れた当時最新式でしたね。形は格好良くて好きだったんですが欠陥機関車になってしまいました。車軸が折れて脱線事故を起こしてしまって使用停止になりました。まあ、当時の国鉄が使いこなせなかったのもあると思います。前期型は正面窓が金属おさえで後期型はHゴムおさえになっていました。廃車にする時は年数が浅かったの157と同じく問題になりました。国鉄で54と付く機関車は悲運の機関車って言われています。C54、EF54と同機です。何も欠陥機関車となってしまいました。DF50も各地にありましたね。最初は四国の土讃線か予讃線だったと思います。紀勢本線にもあったのでよく見ました。DD54、DD51、DF50は寝台特急「出雲」を牽引しています。大社線は出雲大社の最寄り駅だったので皇族の利用があったので車両は当時の新車を使っていたというのを聞いた事がありました。「白兎」は東海道本線や東海道新幹線から京都接続の列車でしたから。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。DD54の事故って、鉄道ファンか何かで読んだのですが、同じ日の夜に2台が事故を起こしたのですね。 その時の、国鉄の事故対応していた人たちは、パニックだったのでは無いでしょうか?初期型も、後期型も動画はありませんが、写真は、撮影したことがあります。DF50は、電気機関車みたいなもので、モーターで走るけど、DD54は、エンジンで走る機関車なんですね。でも、DD13に始まり、エンジンで走る機関車ってなぜか、凸型をしているのですが、DD54は、箱型でしたね。わたしも、このスタイルが好きでした。DF50が特急富士を牽引している写真が、あります。
+国鉄時代の鉄道ファン さん お返事ありがとうございます。DD54の前期型は本当に格好良くて好きでした。本当に不運な機関車でした。福知山線の旧線を通る旧客列車に乗った事があります。DF50は九州の日豊本線のブルトレでおっしゃる、富士、彗星、山陰本線は出雲、いなば、紀勢本線は紀伊等がありました。DD51に変わってからはイマイチになってしまいました。凸形のルーツはDD12というと戦後のアメリカ製の機関車です。それを元にDD13が作られました。でもDD12の性能はイマイチだったので日本のSLに置き換えられた様です。でも最終廃車は昭和49でした。本当に良い時代でしたね。80系のあさしお、はまかぜって貴重な映像ですね。くろしおが昭和53年に381系に置き換えされてますから確か増発があったと思います。高校の頃に友人がHOゲージで80系を電車化したの作っていたのを思い出しました。結構良かったですよ。クーラーもキノコ形のAU12を付けたり、屋根は151系の部品使っていました。車体は80系の車体でした。話しそれてすいません。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。私も、この時は、ビデオを買って間もない頃で、山陰に行ったら、ほとんどがキハ80系だったのです。そして、この年の夏、キハ181系も撮影したくて、山口線の方まで行きました。その3年後、再び山陰を撮影に行った時は、80系は、博多までのまつかぜ1往復になってしまい、逆に、80系の方が貴重な存在になってしまいました。そして、1984年頃は、頻繁に山陰に足を運ぶようになったのです。私も、キハ80は、好きなので、80分の1の模型を作っています。
貴重な動画ありがとうございます
どういたしまして。この時代の映像は画質が悪くて残念ですがね。
いろんな所行ってるんだな、凄いな
主に、地元から行ける範囲で行っています。
懐かしい映像です。
そうですね。
その馬堀ですが撮影当時は田舎の小駅とゆう風情の駅だったはずですが今や通勤圏内の都会の駅へと変貌してますね 電化されて完全に一変しましたよね 客車列車がDD54に引っ張られてた頃が懐かしいです 更にはC57に引っぱられたころも思い出されました いや〜懐かしいです!
馬堀駅ですか?私写真しかないのですよね。今はそんなに変貌したのですね。時代の流れですね。私の地元も、新幹線が走るようになりました。昔は旧型客車が走っていたのに。時の流れは速いものです。
@@HobbyVideos 確か客車引っ張ってた頃は各駅停車に止まらない列車もあったような記憶があります 何分幼い頃の記憶なので不確かなんですけど…電化の威力は凄まじいですね!
よい記録を残されましたね。素晴らしいです。
ありがとうございます。
懐かしい画像ですね。1961年生まれです。丹後から浜坂の居組まで生まれた時から春休み、夏休みと乗ってました。やっと住宅ローンも終わり、懐かしいSLやDD54のNゲージを買って懐かしんでいます。やかましかった思い出を辿るとDD54でした。(≧∀≦)
そうですね。今山陰本線は、本当に変わってしまいましたね。と言っても、私は最近、山陰本線のこの付近には全く撮影に行っていないのですが、まあ昔はこんな感じでした。
懐かしい映像ありがとうございます😊小学生鉄っちゃん時代母の田舎へしんかんせんが有るにも関わらず10系だいせんで三江線を乗り継いでかえってたのを思い出します。ローカリーな福知山線、山陰線が大好きでよくひとりで乗りに行ってました。その頃はDF50といえば異国の機関車だったので米子だったかな?で見かけた時はむちゅうでシャッターを切りました。今は亡き祖父に浜田へ連れて行ってもらいそこでも見かけてましたね!そして一度だけ帰りは82系まつかぜに乗ってかえりましたが汽車旅が好きな私には早すぎましたね~!
まつかぜは、特急ですから、速いのが売りなのですね。もちろんサービスも売りでしょうけど。でも、やっぱりのんびりと鈍行列車に乗るのが良いと言う人もおられますね。私も、特急は、どうも落ち着かないです。というか、座席に座ると、目の前が前の座席の背もたれで、圧迫感が感じます。
13両のまつかぜ、小学生の頃当たり前のように大阪⇔鳥取間を乗車。高学年のころから9両になりましたがまだ食堂車は健在でした。やがて181系の6両になり、今は全く違う形に、、、今求めてもないもの、懐かしいですね。
当たり前のように乗車されてたのですか?羨ましい。私は、昔は鳥取に住んでいて、親戚が大阪。まつかぜに乗りたいと言ったけど、親は、時間が合わないからと、いつも急行でした。
浜田が地元なので懐かしいですね。浜田駅で昼頃に車両の入れ替えで実家の近所で入れ替えしてるのを思い出しました。
なるほど、浜田も当時はこのような列車でしたよね。
国鉄時代の鉄道ファンさん、どうもです。1981年は私は生まれていなかったのですが、1981年当時の山陰本線は、普通列車に関しては長距離の列車が多かったようですネ。それと普通列車は、赤いディーゼル機関車が牽引していたようですネ。あと急行や特急列車などはキハ82などが活躍していたようですネ。
+各停アッキーちゃん さん メッセージありがとうございます。その通り、赤いディーゼル機関車は、DD51と言う形式で、今でのまだ残っています。また、もう少し前は、DF50と言う、ディーゼルエンジンで電気を発電して電気モーターではしる、ディーゼル機関車がありました。急行は、キハ28・58系で特急は、キハ82が走っていました。キハ82の特急まつかぜは、大阪から博多まで山陰本線を走っていた列車で食堂車が連結され13両で走っていた時代がこのビデオの時代なのです。
各停アッキーちゃん急行「丹後」に至りましては運転経路または行き先が複数あり、豊岡または城崎発着でさえ福知山・和田山経由と西舞鶴・天橋立経由の2パターン、しかもそれが宮津線内も網野折り返しのようにそのまま急行運転を続行するのと普通列車として運転するケースの2パターンがありました。また舞鶴線・小浜線経由敦賀発着でさえ西舞鶴で分割した後東舞鶴までそのまま急行扱いとし、小浜線内は普通列車として運転するか、西舞鶴で分割すると同時に普通列車に化けるものもありました。概ねこのビデオの時代とはそういうものだったのです。
まつかぜの王者感は流石ですなぁ。
そうですね、特急が走っていなかった山陰本線に初めて走った特急列車なので。
小3だった77年に、福知山線でしたが、尼崎から武田尾までDD51牽引の普通客車列車に乗りました(そのあとも何度か)。その頃はギリギリDD54も走っていたのかもしれませんが、結局、乗ったのはすべてDD51牽引列車でした。旧型客車列車は、駅で止まると電車や気動車と違って、一切音がしなくて静かになるのが印象的でした。
昔の旧型客車の雰囲気を味わったのですね。私も、この駅に停まると静かな客車が大好きでした。
9:00に13両編成のまつかぜが登場していますね。7両編成と6両編成の特急2編成を1編成に連結していますので、中ほどに先頭車同士が連結されています。食堂車も入っていますから山陰線の特急では最高級の編成になりますね。この豪華特急は浜坂駅には止まらず低速で通過していきますが、”カラカラ”とアイドリングに近い感じで通過していきます。中学生だった私は、見たこともない豪華な編成に圧巻されて土曜日に学校が終わってから浜坂駅に行って通過するこのまつかぜに見とれていました。なつかしい動画をありがとうございました。
どういたしまして。私も、小学校の1年のころ、鳥取駅にまつかぜを見に行ったことがあります。あの当時は、山陰本線には特急が1往復だったので、すごくこのキハ80型が輝いて見えました。
拝見しました。昭和は遠くなりましたね。普通寝台列車の山陰に乗って合宿地までに行きましたね。鉄ちゃんサークルでしたからね。結果として車内で宴会してしまいましたけど、外にお客さんもいなかったのでとがめられたりしませんでしたね。少し酔っぱらいがいたので、デッキに出る時は誰か正気な者が付き添えよと先輩の機転でしたね。😅
なるほど、そんな楽しい旅を楽しんでおられたのですね。私が山陰に乗った時は自由席で満員状態でした。通路にも立ち客が一杯。そんな状態での夜行で一夜を明かすと次の日はくたくたではないかと思いました。
1981年なんてまだ僕が生まれる26年も前の時代、、僕からすると想像もできません💦。26年もあれば相当走っている列車も変わっていることでしょうが、この時代の方がなんだか全ての列車が生き生きとしているように感じれます。
そうですね。まだ高速道路や、車もあまり少なかった時代。鉄道で旅をする人が多かった時代です。でも、この頃、急行列車が一番一杯乗っていたように思います。鈍行は、ガラガラ状態だったのではないかな?
1973年…拙者の生まれた年の鉄道映像、感慨深いです(^^)
これも、もう遠い昔になってしまいましたね。
1692年生まれで1980年の時刻表を横に置きながら懐かしく拝見させていただきました。約40年前ですね。特急は堂々のフル編成で食堂車も連結されてますね。今乗車し風景を撮ったとしてもステンレス車両が主流で、同じ感動は味わえないと思います。撮り鉄のマナーも悪く、人目を気にしながらの撮影。古き良き時代、二度と経験できません。いつまでも残してください。
車窓風景なら、まだステンレスの車輛でも何とかなるかも知れませんね。音が違うか!撮り鉄のマナーもやはり、各自良いマナーでの撮影を心がけてもらいたいですね。マナーの悪さが原因なのか、至る所に、線路に入るな と言う看板があります。そして、良かった撮影ポイントにも入る事が出来なくなっています。鉄道会社は、鉄ちゃんお断りと言わんばかり。だから、私も最近の鉄道は、嫌いです。
なつかしいなぁ835レ京都発浜田行や820レ米子発京都行など夜行の山陰号を含め上下各3本につながれていたスユニ50に乗務して鉄道郵便の仕事してました。青春時代の思い出がよみがえってきました。貴重な映像をありがとうございます。
メッセージありがとうございます。貴重なお仕事されていたのですね。私は、鉄道は、好きですが、鉄道の仕事はしたことが無いのです。あ!そか!アルバイトで車両の掃除のアルバイトをしたくらいですね。高校時代に。
全国津々浦々の貴重映像がありがたく、板谷峠編ではジオラマ製作の参考にさせていただきました。自然調の語りも当時の様子を一層引き立てますね。
ありがとうございます。ジオラマは、Nゲージですか?私は13mmゲージをやっています。まだ、ジオラマを作るまで行きませんが、車輛を作るので精いっぱいですね。
お返事ありがとうございます。狭軌感が出せる13㎜ゲージとは玄人の嗜好ですね。当方はNゲージで小さな作品を作っています。よろしかったら下記リンクでご覧になってみてください。貴殿の貴重映像はどれも素晴らしく且つ懐かしさがいっぱいで、今後も作品づくりの参考にさせていただきたいと思っています。th-cam.com/video/RjpgCBZuG40/w-d-xo.html
キハ82による『あさしお』の映像が懐かしいですね。この頃、時刻表からグラフ用紙に福知山線と山陰本線の一部(鳥取まで)をダイヤグラムにしていました。単線ですのでどこで交換するのか、楽しみでした。
メッセージありがとうございます。同じです。私もよくグラフ用紙にダイヤを書いていました。単線は、交換があるので、書くのに大変ですよね。特急を先に書いても、特急が運転停車したりして、時刻表では分からない事が見えてくるのですよね。でも、信号所や一部複線になっている区間を知らなかったら、悩んでしまうのです。どこで交換するのかな????なんちゃって。
ブルートレインも無くなって旅情あふれる列車が少ないので、平成生まれとしてはこの時代の列車に憧れる。冷房もついて速度も早くてハイテクなのも良いけどこういうのを失ってしまっている。青春18きっぷ買って長距離客車列車乗って旅してみたかったなー
ちょっと愚痴っぽくなるのですが、青春18きっぷで元を取ろうとしても、各駅停車は乗り継ぎの悪いダイヤにされてしまっているので、なかなか元が取れないですね。だから、私は、撮り鉄するにも、ほとんどマイカーを使っています。鉄道に乗る時は、鉄道に乗るのか、目的の時くらいで、移動目的はほとんどマイカーです。まあ、青春18きっぷで元を取るのが目的ではなく、のんびりとした旅をするのが目的なのでしょうけどね。
素晴らしい🥰私は、神戸なんで、はまかぜや但馬号を、愛してやまないんですが、お袋の田舎が香住なんで、和田山からは、山陰本線なんで、まつかぜ1号とかあこがれるました🤗
神戸だと、まつかぜは通らないですね。でも大阪まで行けば乗れますよね。今ではまたいろんな車両が走っているようですね。
1984年当時、滋賀県でオムロンに勤めてた時分、鳥取県倉吉市から出向で来てた人たちが月一回の帰省をする時、京都駅から特急に乗り換えてました。名前が分からなかったのですが、「あさしお」だったんですね?貴重な映像、ありがとうございました。
そういたしまして。京都からの鳥取方面への特急は「あさしお」ですね。
見応えありすぎる
ありがとうございます。画質が悪いのが難点ですけど・・・・
素晴らしいアナウンスです😊子供の頃、弁天町の交通科学館のジオラマ 説明 聞いてるようですまさか ご本人では?😅
ああ!弁天町のジオラマは、私も知っています。当時は、車内は何も出来ていない車両でしたが、室内灯が付いていて、天井の照明が次第に夜になり、夜行列車が走りだし、演出は、とっても感激しました。確かに、列車の説明もしてましたね。 今は、京都の博物館ですが、どうなったのでしょうか?一度行ってみたいですね。
DF 50懐かしいです😊今は津山の扇形庫に、展示されてますので気軽に行けますs😍
メッセージありがとうございます。わ~お!展示と言う事は、一般の人が見る事が出来るのですね。誰か、動画、アップしてないかな?検索 検索!
国鉄時代の山陰本線はずっと憧れの存在でした。当時、国鉄最長距離運行普通列車の門司発福知山行き824列車の乗車レポート等を読んで想いを馳せておりました。やがて大人になり、経済的に余裕が出来たので念願の山陰詣でに出かけたのはJR移行後のキハ58・28が (とっとりライナー) で最後の活躍を見せてる時で、憧れの特急まつかぜや旧客鈍行は既に過去帳入りしておりました(泣)。SL観光号のエピソードは傑作ですね(笑)。情報網が発達した現代ではまず起こらない様な珍事ですし、鉄ちゃんが時刻表の表記を把握していなかったというところも何というか、おおらかな時代だったんですねぇ。
+Akira Endo さん メッセージありがとうございます。824列車ですか?いいですね。山陰は、日本海側に沿って走る昔ながらの線路なんですが、旅を楽しむには、良いですが、旧客も無くなり、スピードアップの時代には、そぐわなくなってしまっているのかもしれませんね。 SL観光号の列車番号は、Dが付いてたので、私はどうでも良かったのです。それよりも、DF50牽引の旧客や、キハ82の特急を目当てに行ったのですが、この快速の気動車をSLだと思い込んで、多くの人が撮影に来るのは、多分、鉄ちゃんではなかったのではないかと思います。 でも、この列車が走るって事は、当時は時刻表でしか、知る事が出来なかったし、鉄ちゃんではない人が、そんな時刻表を見る事もないだろうし・・・・まあ、色んな人がいるので、その辺は分かりませんね。話変わって、この馬堀で撮影して、帰り、福知山線で脱線事故があって、特急まつかぜが、山陰本線経由でこちらへやってきました。
SLのお話、とても楽しく聞かせて頂きました。国鉄時代の鉄道ファンさんもよく言われていますが、携帯電話の普及で情報のやりとりが急速に活発になったことで、お話されたような「事件」は起こりにくくなりましたが、逆に鉄道ファン同士のコミュニケーションも、急速に減ってしまったような気がします。
メッセージありがとうございます。鉄道ファン同士のコミュニケーションですか。オフラインでは、そうかもしれませんね。私も、このYouTubeでは、こうやってコミュニケーションしていますが、撮影に行っても、あまり他の人と話したりはしないものです。まあ、テンションが高かったら、話する時もありますけどね。
国鉄時代の鉄道ファン それこそ、本物のSLが走るときには、同業者の方々もテンションが高めでしょうから、待ち時間が楽しくなりそうですね。
昭和の名列車を見ました。在りし日の鉄路、もう一度見てみたいが無理ですね、目の保養になりました。
昭和の名車と言われる車輛・・・・80系の特急の事かな?
大変貴重な映像を見ることが出来ました。アップに多謝!!個人的にオヤ?と思ったのは10:01からの「あさしお2号」の編成です。というのも上り方からキハ82、キロ80......キハ82という編成を初めて見ました。京都を起点として基本は博多方面(下り方)からキハ82、キロ80、キシ80......キハ82なので少々驚きました。いやぁ、まだまだ知らないことが沢山あるんですね。
メッセージありがとうございます。1981年3月の時刻表を見ると、あさしお1・3・6・8号は、倉吉・城崎寄りにグリーン車が連結されています。あさしお2・4・5・7号は、京都寄りにグリーン車が連結されています。ですから、すべて博多向きにグリーン車とは、決まって無かったようですね。私は、全然気にもしていなかったのですが、編成の向きの違いに気づくなんてすごいですね。
京都から宮津線経由で城崎に向かった車両が、折り返しでは山陰線を福知山経由でまっすぐ京都に戻る列車に充当されるため(逆もあり)、運用の中間では編成が逆転していましたね。平成8年の廃止まで続いた、「あさしお」の伝統ですね。
まつかぜってスケールの大きな列車だ。当時に戻って乗ってみたいわ。
山陰本線に最初に走った特急です。その頃は、普通列車多急行列車が走る中、1日に1往復。山陰本線の中で輝いていました。
貴重な映像ですね。その時代でカメラ、ビデオカメラとはおしゃれですね。カメラのネガの保管も大変だった思います。昔は大阪━博多間のまつかぜや824列車とか今では考えられない区間を走っていましたね。質問ですが、まつかぜが関門トンネル区間でもディーゼル煙モクモクで走ったのでしょうか。知っている人がいたら幸いです。
関門トンネルの事は分かりません。でも、確か、普通列車の気動車に乗った覚えがあり普通に走っていたようにも思います。
@@HobbyVideos 返信ありがとうございます。関門トンネルなら距離も短いですね。戦前は蒸気機関車が走ったわけだから気動車でも大丈夫ということでしょうか。
@@keibakeirin 関門トンネルはSLの営業運転はないよ!開業時は直流電化、昭和36年からは現在と同じ交流電化だよ!
@@psychedelicraspberry517 返信ありがとうございます。昭和36年まで直流電化だったのですか。交流電化というイメージしか浮かびませんでした。気動車は一気に突っ走るいうイメージでしょうか。
まつかぜは全線乗車しました。関門トンネルはそのまま走ってましたよ。出発時エンジンの唸り音はしてました
この時代は自分は高校生ですね。高校1年生の夏休みの臨海学校で東浜駅近くの民宿の窓から見える旧型客車の風景に病みつきになりそれから山陰本線の虜になった。高校生大学生山陰本線旧型客車を最後の最後まで楽しめ良かった。今やおとなび世代になりましたがトワイライトエクスプレス瑞風の停車駅になってしまった東浜駅はもはや私の手の届かない雲の上の存在になってしまったんだな(>__
メッセージありがとうございます。やはり、山陰本線って非電化で旧型客車が走っていた。今思えば信じられないような光景ですね。トワイライトエクスプレス瑞風の事は、興味がないので全く知りませんが、東浜駅に停車するのですか?あそこは、特急列車は止まらない・・・・急行も停まらない駅だったのに。時代も変わりましたね。
すばらしい
どうも!
岡山県の津山線で津山駅から、5分位☺旧津山扇形機関庫にまなびの鉄道館が新しく出来て保存してあります。他に、キハ181.DD51.DE10.DD13.DD15.D51.キハ28.52.58.33などあります❗
メッセージありがとうございます。情報をありがとうございます。また、機会があれば行ってみようと思います。
またまた当時の時刻表片手に時間旅行。当時の820レで福知山まで行ってそこで昼食をとり、次に957Dで一気に敦賀まで行って2時間近い猶予を設けて(あるいはそれに乗らないでもう一本後の959D~4959Dに乗った方が福知山~敦賀間約4時間近くを要したため、キハ20にしがみついたまま贅沢な至福の一時を過ごせた)その日の最終ランナー221レに5時間半近く揺られた末、当日は富山で一泊。なんとも贅沢で至福の一時を過ごせたに違いない。
当時の時刻表があるのですね。私も、いくつか持っているのですが、何分全部買うわけにはいかないので、無い時期は、全くないというような感じです。820列車は米子から乗るのかな?221列車だと、福井は、19:16まあ良い時間ですね。旅の疲れで、寝過して、富山で「お客さん!終点ですよ!」なんて言われないように。
@@HobbyVideos 僕も当時の「国鉄監修 交通公社の時刻表」を全部揃えるわけにはいかないので、1978年10月号・1980年11月号(本来なら「10月1日からのご乗車にお使いください」の添え書きがある1980年10月号が欲しかったのだが、あいにくネットショッピングで品切れだったので11月号にした)・1982年11月号・1984年1月号・1985年3月号・1986年11月号の計6冊を手元に所有しています。820レは始発の米子からのスタートとなります。【補足】浜田発東舞鶴行き544レがあった頃は、その日は無理をせずに東舞鶴まで乗り通してそこで1泊。翌朝07時01分発の921レに乗ると言いたいところですが、その時間帯が運悪く小浜線沿線の高校への通学時間帯と重なってしまうため、今で言う「3密」にもなりかねません。そこでためらわずに東舞鶴で泊まった宿のチェックアウトを少し遅くして、10時11分発の935レで2日目をスタートさせて一路敦賀を目指し、次に第2走者の快速3339Mで福井まで行き、ここで追い付いた523レであとは一気に長岡を目指すだけ。
DD51は名車ですよね。ディーゼル界のデゴイチと呼ばれてた気がする。(まだ現役ですけどね)
そうそう、ディーゼルデゴイチって感じかな?私は、これ以前に走っていたDF50が好きでした。
@@HobbyVideos DF50はデザインがいいですよね。交通系の図鑑にEF58、EF60、DF50の並走の絵があったの覚えてます。実物は山陰線で一・二度見た程度で、自分が撮り鉄してたころにはもう引退してました。
そうですか、DF50ってモーターで走るんですね。だから電気機関車のような形なんです。初期のタイプは、エンジン音が変わるのですが、後期のタイプは、エンジン音は一定のままで、モーター音が鳴るのです。
@@HobbyVideos 確かに最後のカーブは牛ノ谷の駅の福井側カーブの感じですね。今も大聖寺にたまに仕事に行くのでわかりますよw
今はなくなったものが多いですね、長距離鈍行、客車列車、食堂車、郵便・荷物車、車掌車…
そうですね。でも、まだ鉄道だけは、残っている。何とか。
あの時の山陰本線は普通列車もディーゼル機関車牽引で運行されていたのですか!平成生まれの私には分かりません。また、当時まつかぜはディーゼル特急としては一番長い距離を走り、また13両という一番長い編成両数だったのではないでしょうか?
山陰本線の普通列車全部ではないですが、多くはディーゼル機関車牽引の客車列車でした。このビデオの時代は、DD51でしたが、もう少し昔はDD54やDF50、そして、SLも牽引してました。
10:02 特急「あさしお」2号。181系化された後の1985年3月改正で東舞鶴発着と化するが、1981年当時は西舞鶴には姿を見せていたものの、東舞鶴はほぼ急行専従で姿を見せていなかった。
メッセージありがとうございます。1981年頃って、西舞鶴から宮津線経由で城崎くらいまで行ってたのではなかったかな?どっちが前で、後ろか、分からなくなる列車だったとか。
@@HobbyVideos 「あさしお」としては1日1往復だけですが、綾部・西舞鶴・豊岡で3回スイッチバックして城崎を目指すというものでした。
それそれ、しまいにどっちが前なんだ!って言いたくなる列車らしいです。
@@HobbyVideos 一口に言いますと、豊岡は配線上の都合で宮津線から来た列車は和田山・福知山方を向いて止まることになるため、京都出発時点で前を向いていたキハ82or181が和田山・福知山方を向いて止まり、京都出発時点で最後尾を向いていたキハ82or181が城崎・香住方を向いて止まっていたことになります。
平成生まれの僕は昭和に憧れを持っています
メッセージありがとうございます。昭和と言っても、長いですよ。SLがバンバン走っていた時代から昭和ですから。
オッサンです。鉄ヲタ的には最高でしたが、今の方がスマホ📱があって、飛行機✈️で東京~福岡¥10000以下で行けて便利です。
この頃の普通列車は今とスケールが違いすぎますね。18きっぷ旅がより一層充実しそうです。
そうですね。この区間は普通列車の客車の輌数も少ないですが、京都や鳥取より西はもう少し多く連結したりしています。
普通の客車列車いいな
内装が木の客車が良いですね。
13:30 急行「白兎」が現在の特急「スーパーはくと」とは全くの別物であることに違和感を感じる。
メッセージありがとうございます。これは、全くの別物ですね。走るルートが違う。愛称名に「はくと」と言う名前が含まれているけど、別物ですね。
@@HobbyVideos とはいえ1994年12月3日の智頭急行開業を機に産声を上げた特急「スーパーはくと」。国鉄時代の山陰本線経由オンリーとは大きく異なり、東海道本線・山陽本線・智頭急行線・因美線・山陰本線の5つの路線を経由するという、却ってややこしい雑多な経路をたどる列車となってしまいました。
1981年で高校生だったって事は、うp主さんは私と同年代でしょうか?懐かしの動画のアップ、楽しませてもらってます
それでは、たぶん似たような年ではないかな?
今より幾分遅いだろうけど…旅した感覚にはなるだろなぁ
そうですね。でも、今もさほどスピードは変わっていないのではないかと思います。
貴重な映像ありがとうございます😊当時はビデオカメラは高価で、なかなか買えませんでした。なんと言うカメラですか?
この当時のカメラは、ソニーのHVC-80でした。今も家にあります。デッキは、ビクターのHR2200だったと思います。デッキは、捨ててしまいました。
始めの方に出た馬堀の写真、実は自分もこの近くで5年後(1978年)に撮りに行ってます。当時まだキハ17もいましたねw列車番号知らない人も結構いた気がします。1978年中学生でしたが列車番号はさすがに知ってましたw下二桁目が1の急行はあまり早くない急行(旧準急?)という記憶がありますけど(白兎やだいせんは下二桁目が0)どうだったんでしょうね。
列車番号にそんな区分けがあったのですか?それは、知りませんでした。1978年だったら、まだキハ17っていたのかな?いましたね。
@@HobbyVideos 多分北陸のくずりゅうも下二桁が1の急行のはずです。立山やゆのくには0と思います。
かなりかなり長〜い距離を走りますね
+アサロド さん メッセージありがとうございます。普通列車でしょ?当時は、山陰に限らず、全国あちこちでこのような長距離の鈍行があったのではないかと思います。
8分16秒の急行丹波はおそらく上り勾配でスピードが出てなかった感じがします 排気の加減と反対列車の軽やかな走りでそう思いました
そうかも知れませんね。
普通にお宝映像
昔は日本全国で見られた客車列車も、滅多に見かけなくなりましたね。反対に海外では何故か多く見かけますが
そうですか。私は海外は行ったことがないのでわからないですが、客車列車が多く見かけるのですか?
よくぞ記録していただいて、後世にこうして誰もが閲覧できるようにしてもらえるのは本当、ありがたい限りです。1981年当時、私はまだ小学生だったので、大阪や奈良に住んでいたとはいえど、まだ子供の私には遠くに出かけることは叶いませんでした。本当、目の前で直にDD51やDF50を見たかったものです。
まあこの映像を撮影した当時はインターネットもTH-camもなく、ただ自分の楽しみの思い出として撮影していただけの映像なのです。それが、インターネットのお陰で同じ趣味の人に見ていただけるようになり、便利になりましたね。私もDF50は、写真と音でしか残す事が出来ませんでした。
当時のビデオカメラはおいくらなんでしょうか?まだ8mmが当たり前の時代ですからそうとうお高いと思いますが
+巣手間士捻 さん メッセージありがとうございます。当時のビデオカメラは、カメラのみ 23万円VHSポータブルデッキ 16万円バッテリー充電器 2万円バッテリー 7000円/本こんな感じですね。今は、スマホでフルハイビジョンが撮影出来るのだから、すごい時代になりましたよね。
やはり高いですね。今ではHDビデオでも3万円台ですからいい時代ですよねぇ
+巣手間士捻 さん メッセージありがとうございます。その通り。良い時代です。この技術の進歩が逆に、国鉄時代の古い車両を廃止される理由なのかも。・・・・技術の進歩が。
中でも「あさしお」は4往復中1往復だけが綾部で進行方向を逆転させて舞鶴線に入るが、現在の「まいづる」とは異なり東舞鶴へは直通せずに西舞鶴で再度進行方向を逆転させて宮津線に入るというものでした。このため、先行の1号は宮津線を迂回中に、後発の福知山・和田山を経由する3号に抜かれた末、豊岡には後発の3号が先行の1号よりも20分近くも先に着いてしまうという変わった現象が実際にありました(このあと3号は倉吉まで運転を継続し、同駅で京都を朝一番に出発した835列車に運よく追い付くダイヤでした)。それとは対照的に東舞鶴に出入りする特急は1本もなく、京都からの直通優等列車は急行「丹後」のみで占められていました。
私が知っているのは、折り返し運転が何回もあって、しまいにどちらが前なのか分からないようになるって言ってました。昔のダイヤを見ると、色々と複雑な事があったのですね。今はもっと単純になったのかな?やはり無駄な経費節減なのですね。
@@HobbyVideos 本来ですと急行「丹後」5.9号は京都出発の段階ではホロの付いた車両が一番前に立つのですが、綾部と西舞鶴の2駅で進行方向が逆転し、しまいには豊岡駅の構内配線の都合上ホロの付いた車両が城崎・浜坂寄りではなく和田山・福知山寄りを向いて止まるというものでした。
なるほど、幌の向きを見れば、この列車は何処を走って来たかがわかるのですね。しかし、それは知る人ぞ知るって感じですね。
私が中学生頃の列車ですね。休みの日、鳥取方面に行く「汽車」は大阪発。床下に捨ててあった「大スポ」の「大人の読む記事」を見て、何か悪い事している「罪悪感」40年近く経った今でも「少しだけ」残っています。
鳥取へは、普通で行ったのですか?「大スポ」って何だろう。
@@HobbyVideos 大阪発浜田行きの普通だったような気がします。「大スポ」とは「東スポ」の大阪版ですね。
これが一番です 181系 運転手なれました。
山陰本線の運転士ですか?
山陰本線にSLが走っていたのは、区間にもよるでしょうけど71年の4月ぐらいまででしょうか?。私はちょうど71年が私の生まれた年だったので、自身ではもちろん記憶はないのですが、たまに夜中にテレビでNHKアーカイブスの『昭和のSL映像館』を見たりすると、71年頃の山陰本線を走るSLの映像があったりしてたので、「へーーっ。SLが走ってた頃はこんな感じ(の光景)だったんだぁ。」なんて思いながら見てたりしています。DFは、私が小学生くらいの頃はもう関西では紀勢本線ぐらいでしょうか。九州の確か・・・日豊本線やあと四国などに拠点が移っていたように記憶しているので、山陰本線で走っている風景は初めて見ました。その頃はもう山陰本線で見る機関車はDD51が主力になっていましたものね。むかしは大阪から香住へ乗り換えなしで行くのには、福知山線経由では『(後年の)まつかぜ』『だいせん』があり、下夜久野や梁瀬のほうもよく通って行きましたが、今は播但線経由の『はまかぜ』のみとなってしまい、乗り換えなければならない『こうのとり』に乗ることはほぼなく、この辺も通らなくなってしまいましたが・・・。単線は単線なままなんでしょうけど、電化されまた風景もだいぶと変わったのでしょうね。今月末また香住へ行かなきゃならないので、今度は一度、久しぶりに帰りは『こうのとり』で、和田山以東のこの辺の風景、福知山以南の福知山線風景を見つつ帰ってきてみようかと思います。
メッセージありがとうございます。必要に迫られて、山陰方面へ行くと言うのは、ラッキーな事なのでしょうか。鉄道が好きな人なら、目的地での用事を済ませるのが目的でしょうが、その行き帰りの道中の時間も楽しみの一つですね。私も山陰本線にSLが走っていた記憶はないのですが、小学校1年の時に、旧型客車に乗せられて、松江から鳥取まで普通で帰ってきたことがありました。それがSLだったのかは、全然分かりませんでしたが、鳥取で迎えに来てくれた親に「汽車で帰って来たの?」って言われた事を覚えています。その「汽車」と言うのが、SLを意味していたのかは、分かりませんが、当時はDF50が主流でしたから、・・・・それしか無かった。・・・・・たぶん「汽車で帰ってきたの?」とわざわざ言ったと言う事は、SLだったのかなって後で思っています。写真ではDF50は、良く撮影しましたが、ビデオではもうDD51しか撮影出来ませんでした。DF50は、電気機関車のように、電動機で走るため、発車の時は、エンジン音は、鳴っている中、モーター音が「ウィーン」となって発車します。私の好きな機関車の一つでした。では、良いご旅行を!
ご返信いただきありがとうございます。香住の親戚でもそうなのですが、向こうの人はSLでなくても『汽車』って表現したりしますね。今の人は、ディーゼルカーでも『電車』って言ったりするようですが。DFは天王寺駅から紀勢本線を行く鈍行でけん引してたのをうろ覚えに記憶しているのですが、エンジン音までは記憶していないので、どんな音だったのか気になったりしました。
jxfds369 メッセージありがとうございます。まあ、あまり鉄道に興味のない人は、機関車牽引の列車を汽車、気動車や電車は電車って言うのかもしれませんね。私の子どもの頃は、国鉄を汽車、私鉄を電車と呼んでいた風習もありました。子どもながらに、国鉄と私鉄って言えよ!って心の中で思っていました。
昔、兵庫県美方町(今は、香美町)とか豊岡のおばあちゃん👵ちに行くときに、まつかぜ乗ったかもです。
夜、福知山駅に、停まったので、はまかぜ(之は福知山は、通らない)じゃないのは確かだけど、もしかして京都駅から乗ったかもなので、京都駅だと、米子か城崎行きのあさしお、ですね。
特急のこの形の列車に乗られたですね。まつかぜは福知山線経由で、あさしおは京都から山陰本線経由、列車によっては天橋立の方を回る列車もありました。
@@HobbyVideos 汽車に乗って、兵庫県美方町に、行く途中、福知山駅と和田山駅に、停まった事は、覚えてるけど、京都駅から乗ったのか 大阪駅から乗ったのかよく覚えてないけど、大阪駅から乗ってたら、まつかぜですね。
そうですね。福知山線経由ならまつかぜです。
この頃のビデオカメラって、かなりの大きさでしたよね、デッキも別で、テープ自体嵩張るし、大変だったんじゃないですか
+o kz さん メッセージありがとうございます。今の、スマホでハイビジョンの動画が撮影出来る時代から見ると、大変ですね。でも、当時は、これが普通だったので、当時は、大変だとは思いませんでした。デッキとカメラ、バッテリーは、1kgで20分くらいしか持たない。全部でおおよそ、18kgくらいの重さになりました。それを当たり前だと思い、担いで北アルプスの穂高岳に登った事もありました。
DD51は四国は走ってないですね
DD51ですか!四国は私は良く分からないのです。DF50が走っていたのは、鉄道月刊誌などで見て知っていますが、DD51については分からないです。
走ってないよ!DF50の後継はDE10だよ!
この時代は自分は中学生ですね 鉄道雑誌の写真見て働いてお金稼げるようになったら絶対山陰本線の長距離鈍行乗りにいこうって思ってました 働くようになったら旧型客車も淘汰され始めてしまってほとんど乗ることなく終わってしまいましたが 古きよき時代でしたね いまのピカピカの車両はどうしても馴染めないです 移動の手段にしか見えなくて
+ootakas さん メッセージありがとうございます。まあ、鉄道は、もともと移動の手段だったのですが、子どもの頃に乗った列車が、今は無く、そんな列車に出会えた時、なぜか、子どもの頃にタイムスリップしたような、雰囲気を味わう事ができるのですね。その反面、当時はスピードも遅く、田舎は、次第に車の方が早くて便利と言う時代になってしまいました。こんな旧型客車は、スピードの出せる気動車や、電化され電車になったにも関わらす、やっぱり、田舎は車の方が便利と言うような事も感じられます。道路は、どんどん新しくなるが、鉄道はいつまで立っても、単線で、スピードの出せない線路。車両だけを新しくしても、限界がある。そんな、限界を破るために、スピードの出せる線路を新しく作る。それが、新幹線。でも極端なんですよね。在来線をもう少しスピードを出せるようにしてほしいです。
1981年が一番好きだわDD51運転室に乗せてもらったことあるわ、バラスト散布のときに82、181一番好きな車両だわ2番目は500系だわ3番目は無いわ
まあ、昔は良かったですね。今は今で良い事もありますが。
6:08 722レの所要時間が短く感じるくらい時間の感覚が狂う‥‥
まあ、新幹線の時代ですからね。そのうち、新幹線が普通の時間の感覚になるのかもしれません。
上夜久野~下夜久野間の陸橋下の国道は毎日通勤で通ってるぜ😃
この風景も変わってしまったのでしょうね。
到着時刻見て驚きましたね。当時はこれが普通だったんでしょう。1日かけて走るとは…。
そうですね。これが普通。特急も普通車はリクライニングなし。急行と普通は直角の椅子が普通の時代。それで、サービスが悪いとか、誰も言わなかった時代です。
まつかぜは一度だけ博多まで通しで乗った。食堂車もあっていい列車だった。時間は新幹線よりも遥かにかかるが旅情はあったな。当時親もわざわざ特急1日乗って新幹線で行けば何時間かやのにアホちゃうか?言われた。マぁそういう価値観の方が多いから消えちゃったんやろな
そうですね。旅行をする目的はひとそれぞれ、移動時間を無駄な時間と考える人は新幹線。移動時間も旅情を楽しみたいと思う人は、まつかせ 。 これは、人それぞれの考え方なのでしょう。でも、鉄道はやはり移動目的にある乗り物ですから、言われるようにそういう価値観の方が多いから消えたのでしょうね。それに代わって、一般人では乗ることの出来ない高価な値段のジョイフルトレインなんて列車が旅情を楽しむ列車になってしまったのかもしれませんね。
博多「まつかぜ」は大阪~松江とか浜田に行く方々と、松江とか浜田~小倉とか博多に行く方々の乗る列車を1本にしただけだからね。
☆ 54番は悲劇の番号で,播但線の大事故を起こしたC54も終焉の地は山陰本線でした。
そうなんですか?C54が播但線で大事故があったのですか?今は、54と言う番号は使われている車両はないのかな?でも、偶然?不思議な事って一杯ありますね。
@@HobbyVideos ネコ パブリッシングから出ている「RM LIBRARY 54 C54 悲劇のパシフィック」に事故機(5号機)の生々しい写真があります。播但線は古い路線で旧規格の狭い隧道があり、それが悲劇を招きました。C54は個人的に好きなSLですが、残念な機関車でもあります。
旧規格の古い隧道・・・・どんなのかな?友だちが何時も言うのですよ。「最初にイギリスで標準軌の時速130km/hが出る機関車を買って来ておけば、鉄道と言う物はこういうスピードで走る乗り物だ!と言う事で、線路を敷いていれば、今でも、車に負ける事も無く、こんなに廃止になる線路も無かったろうに!もっともっと日本の地図が変わっていただろうに」ってね。
@@HobbyVideos ☆ Wikipediaで播但線の項目を見ていただければお分かりになりますが、この路線の前身である播但鉄道は明治年間に開業しています。1号機関車ほどではありませんが、当時の機関車(播但鉄道の項目参照)は小型タンク機関車で隧道も当然その機関車のサイズに合わせて掘られています。これは明治期に鉄道事業を興すということがいかに資金がかかるかということが背景にあり、結果としてその後運搬能力の拡大のため車輛の大型化を図る際にも無理があった(あるいはそのことが知見として共有されなかった)ことで起きた悲劇ではないかと思います。その後、播但線も無煙化し今は一部区間ながら電化を見ている訳で隔世の感があると思います。コメントありがとうございました。
いいですねっいいですねっいいですねっいいですねっいいですねっいいですねっ(^o^)
JR日本国鉄型時代京都駅キハ82系嵯峨野山陰線特別特急まつかぜ号グリン車2両キシ 80系食堂車編成復活運転京都駅博多行きデイーゼルー特急まつかぜ号復活運転するべきだ
また、そんなに需要が増えているのかな?
チャンネル登録しましたので ヨロシク
は~いよろしくお願いします。
まつかぜはまぼろしだわ
1973生まれです。
小学生の高学年の時、親に頼み込んで青春18切符で山陰を旅したのを思い出します。
博多行きまつかぜや、浜田行き普通列車など、懐かしくてたまりません。
山陰本線ってみな、それぞれ思い出があるみたいですね。
走っていた列車の車輛。日本海の風景。旅を楽しむ路線の一つなのかもしれませんね。
私も博多行きまつかぜに乗って京都から終着駅博多まで乗りました。早朝三田駅から一旦京都駅へ行って京都駅のホームで当時の長崎行きかもめと博多行きまつかぜが並んで出発時刻を待っていた。今では懐かしい風景です。山陽本線かもめと山陰本線まつかぜが京都駅で並んでいた。五十年前の事です。
1973年、まだ2歳の頃の映像、ありがとうございます。鉄道のての字も知らない頃ですが、保育園児の頃から好きになりはじめて、いまだに好きです。
みんな同じですね。私も幼い頃、家の近くでSLが走るのを見て、鉄道が好きになりました。
貴重な映像ありがとうございます。国鉄型気動車やDD51を求めて2000年前後に山陰線に何度も足を運びました。風光明媚で魅力的な路線ですね。車輌は変わってしまったけれどまた行きたくなりました。
山陰って好きな人が多いですね。昔は電化されてなかったのですが、次第に電化され、今、浜坂と鳥取間が超ローカル本線になってしまっていますね。
去年の7月に余部に行ってそう感じました。
時間はかかっても機関車と客車の列車は大好きです😊
メッセージありがとうございます。
昔は、これが速かったのですよね。
今は、そう言ってくれる人は、鉄道好きな人くらいしかいないのではないでしょうか。
13両編成のまつかぜ‥食堂車が連結されてるのが最高ですね
子供の頃乗るのが夢やったけど実現出来なかったな〜
旧客車は、固定式の扉
もう一度乗りたいですね
このまつかぜが、山陰本線で初めて走った特急だったのです。
この時同時に全国各地で非電化路線に特急が走り始めたのではなかったでしょうか。
特急と言えば、全車指定、食堂車が連結と言うのが、当時の当たり前と言うか基本だったようです。
でも、この動画を撮影した頃は既に、あさしおには、食堂車が連結されておらず、次第に時代も移り変わって行く時期だったようです。
子供の頃なんで2両編成の列車しか来ないのにホームがこんなに長いんだろうかと思っていたがこの映像見れば納得出来る。
昔は、客車と荷物車や郵便車などを連結した列車があったからね。
懐かしい山陰本線の普通列車にはいっぱい思い出があります。何度も乗りました。私はいつも福知山線三田駅(さんだ)から乗りました。
なつかしい写真と動画をありがとうございます。
私が一番好きな時代の国鉄車両たちと、素朴な自然風景です。
同じですね。私もこの当時の国鉄車両が大好きです。
ああ懐かしい!夏の海水浴シーズンは客車が満員で、家族一同荷物車に乗せて貰いました。カマはD51、山陰線下関発。昭和47年の思い出です。
D51牽引ですか。かなり昔ですね。確か、昔SLは、米子位からDLに変わっていたのではないかと思います。
私の子どもの頃の記憶なので・・・・不確かかも。
アップロードありがとうございます。自分が生まれるずっと前の故郷の鉄道を見て、私は当時を知らないのになぜか懐かしくなります。それにしても今と比べたら特急も普通列車も両数が長いですね。人口は今よりは多かったとはいえ、乗車率がどのくらいだったのか気になります。
今は、マイカー移動で、高速並みの無料道路が出来、鉄道を利用する人は少ないようです。
当時は、普通の道路しかなく、乗車率も多かったように思います。特に特急、急行は。
でも、この当時も急行よりも特急使用者の方が増えてきたようで、急行も編成は短めになっていました。
普通列車は区間によっては、多かったが、ガラガラの区間がほとんどだったみたいです。
貴重な動画ありがとうございます。1981年にビデオ撮影とはすごいですね。カメラも重く、画質は当時はこんなものだと思います。私は1984年に祖母が買ったベータカム(BMC-100)を借りてビデオ撮影を始めました。山陰本線は1985年から行きはじめ、博多「まつかぜ」にも乗って食堂車で「出雲そば」を食べた思い出があります。1973年当時のSL列車のお話ですが、確か当時弘済出版社の時刻表には客車列車でSL牽引列車にはグリーンマークや指定席のマークが入るスペースにSLのイラストが描かれていたと思います。
まつかぜ で「出雲そば」ってあったのですか?
どんな「そば」なのかな?
私は、大阪から城崎まで自由席にしか乗った事がありません。本当は、全区間乗らなくても撮影はしたかったのですが、それもかなわぬ夢に終わってしまいました。
時刻表にSLのイラストが描かれていたのですか?それは知りませんでした。
@@HobbyVideos 様、さっそくのご返信ありがとうございます。出雲そばですが、確かわんこそばみたく小盛りのそばが3段か5段重ねで、薬味が皆異なりました。その時は出雲市辺りで乗車したのでこのそばを頼んだかもしれません。「まつかぜ」乗車は1985年か1986年の元日でした。混雑期ですから指定ではなく自由席だったかもしれません。あと車内オルゴールが「乙女の祈り」だったのを覚えています。
いゃあ懐かしいですね あたくし高校生ん時にも まだ中央線にEF64(たぶん?0番台)牽引の普通列車長野行きなんて走ってました
更に中央西線には重油併燃 長野式集煙装置の重装備D51が貨物列車牽引してましたねぇ
電化直前位な頃でした
あの頃中央線には気動車急行や客車列車が走ってましたね
まだED61重連な貨物列車もね
八王子機関区にそんなカマ達がたむろしてました
山の手貨物線にはEF13やEF15 東北本線にはEF56 EF57牽引 急行津軽や八甲田が真冬には雪をまとって走ってるのも見ましたねぇ
なにもかも懐かしい
中央線って東線のほうかな、私は昔は関西に住んでいたので、中央西線によく乗りました。
やはりEF64の客車列車がありました。
EF15って、私は上越線で写真を撮影した事があります。
当時は私は小学生だったので、この様な映像が残せるのが、憧れでした。
小学生でも、写真は写されてたのでは?
まつかぜ、懐かしいです。食堂車が連結されていましたよね。
はい、この当時は特急列車は食堂車が連結されている時代でした。でも、だんだん食堂車の無い特急も出現してきました。
すばらしい映像ありがとうございます。撮影が拙いと仰っていますが、こうして遺してくださり、今の時代に見れることにはただただ感謝です。客車の普通列車にはただただ感動です。
客車列車は昔乗ったトワイライトエクスプレスとか団臨の12系といった特殊な列車ばかり(幼少期に他に乗ったかもしれませんが記憶が無い)で、普通の客車列車にいざ乗ろうと思ったら、台湾まで行くしかなかった・・・
そうですか、私は子どもの頃は普通は、この内装が木の白熱電球の客車ばかり、蛍光灯の付いた内装が金属で出来た急行列車などに憧れていました。
そして、特急なんて一度も乗ったことが無かったのです。そんな子どもの頃に乗った客車が懐かしくて、やがて消えゆく車輛を何とか残したいと思い撮影しました。
凄い貴重な動画です!まつかぜの編成凄いです!
昔は、これが当たり前だったのですけどね。
時刻表を見てSL(客車列車)かわからない人でも撮影に来ていたんですね。
たまに聞く当時の「SLブーム」が鉄ちゃん以外にも広がっていたことを実感できる「思い出話」ありがとうございます。
鉄ちゃんでも、知らない人も居ると思うし、SLと聞いたら鉄ちゃん以外の人も一杯くるみたいですね。
でも、当時は本当に多くの人が来ていました。
多分、愛称名が「梅小路SL観光号」とか言う愛称名だったので、列車番号は、確認する事も無く、SL牽引の列車だと早がってんしたのではないでしょうか?
私は、まさか!
と思い、列車番号を見たら、なんだ気動車か!と納得しました。
とにかく、臨時列車より、DF50とキハ82を撮影したくて、馬堀まで行ったのです。
古き良き時代…いいなぁ
メッセージありがとうございます
関東も、昔は上野駅からはつかり、やまびこ、やまばと、あいづ、つばさ、ひばり等の昼行列車が一杯。
夜になると、旧型客車の八甲田、津軽、十和田などが、東北、北海道へ行く青森行で発車していましたね。
あの頃が、良い時代だったのかな?
急ぐ人は飛行機と言う交通手段があったんだし。
いつも貴重な映像をありがとうございます。DD54って懐かしい機関車ですね。ドイツのシステムを取り入れた当時最新式でしたね。形は格好良くて好きだったんですが欠陥機関車になってしまいました。車軸が折れて脱線事故を起こしてしまって使用停止になりました。まあ、当時の国鉄が使いこなせなかったのもあると思います。前期型は正面窓が金属おさえで後期型はHゴムおさえになっていました。廃車にする時は年数が浅かったの157と同じく問題になりました。国鉄で54と付く機関車は悲運の機関車って言われています。C54、EF54と同機です。何も欠陥機関車となってしまいました。DF50も各地にありましたね。最初は四国の土讃線か予讃線だったと思います。紀勢本線にもあったのでよく見ました。DD54、DD51、DF50は寝台特急「出雲」を牽引しています。大社線は出雲大社の最寄り駅だったので皇族の利用があったので車両は当時の新車を使っていたというのを聞いた事がありました。「白兎」は東海道本線や東海道新幹線から京都接続の列車でしたから。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。
DD54の事故って、鉄道ファンか何かで読んだのですが、同じ日の夜に2台が事故を起こしたのですね。
その時の、国鉄の事故対応していた人たちは、パニックだったのでは無いでしょうか?
初期型も、後期型も動画はありませんが、写真は、撮影したことがあります。
DF50は、電気機関車みたいなもので、モーターで走るけど、DD54は、エンジンで走る機関車なんですね。でも、DD13に始まり、エンジンで走る機関車ってなぜか、凸型をしているのですが、DD54は、箱型でしたね。わたしも、このスタイルが好きでした。
DF50が特急富士を牽引している写真が、あります。
+国鉄時代の鉄道ファン さん お返事ありがとうございます。DD54の前期型は本当に格好良くて好きでした。本当に不運な機関車でした。福知山線の旧線を通る旧客列車に乗った事があります。DF50は九州の日豊本線のブルトレでおっしゃる、富士、彗星、山陰本線は出雲、いなば、紀勢本線は紀伊等がありました。DD51に変わってからはイマイチになってしまいました。凸形のルーツはDD12というと戦後のアメリカ製の機関車です。それを元にDD13が作られました。でもDD12の性能はイマイチだったので日本のSLに置き換えられた様です。でも最終廃車は昭和49でした。本当に良い時代でしたね。80系のあさしお、はまかぜって貴重な映像ですね。くろしおが昭和53年に381系に置き換えされてますから確か増発があったと思います。高校の頃に友人がHOゲージで80系を電車化したの作っていたのを思い出しました。結構良かったですよ。クーラーもキノコ形のAU12を付けたり、屋根は151系の部品使っていました。車体は80系の車体でした。話しそれてすいません。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。
私も、この時は、ビデオを買って間もない頃で、山陰に行ったら、ほとんどがキハ80系だったのです。そして、この年の夏、キハ181系も撮影したくて、山口線の方まで行きました。その3年後、再び山陰を撮影に行った時は、80系は、博多までのまつかぜ1往復になってしまい、逆に、80系の方が貴重な存在になってしまいました。
そして、1984年頃は、頻繁に山陰に足を運ぶようになったのです。
私も、キハ80は、好きなので、80分の1の模型を作っています。
貴重な動画ありがとうございます
どういたしまして。この時代の映像は画質が悪くて残念ですがね。
いろんな所行ってるんだな、凄いな
主に、地元から行ける範囲で行っています。
懐かしい映像です。
そうですね。
その馬堀ですが撮影当時は田舎の小駅とゆう風情の駅だったはずですが今や通勤圏内の都会の駅へと変貌してますね 電化されて完全に一変しましたよね 客車列車がDD54に引っ張られてた頃が懐かしいです 更にはC57に引っぱられたころも思い出されました
いや〜懐かしいです!
馬堀駅ですか?
私写真しかないのですよね。
今はそんなに変貌したのですね。
時代の流れですね。
私の地元も、新幹線が走るようになりました。
昔は旧型客車が走っていたのに。
時の流れは速いものです。
@@HobbyVideos 確か客車引っ張ってた頃は各駅停車に止まらない列車もあったような記憶があります 何分幼い頃の記憶なので不確かなんですけど…電化の威力は凄まじいですね!
よい記録を残されましたね。素晴らしいです。
ありがとうございます。
懐かしい画像ですね。1961年生まれです。丹後から浜坂の居組まで生まれた時から春休み、夏休みと乗ってました。やっと住宅ローンも終わり、懐かしいSLやDD54のNゲージを買って懐かしんでいます。やかましかった思い出を辿るとDD54でした。(≧∀≦)
そうですね。今山陰本線は、本当に変わってしまいましたね。
と言っても、私は最近、山陰本線のこの付近には全く撮影に行っていないのですが、まあ昔はこんな感じでした。
懐かしい映像ありがとうございます😊小学生鉄っちゃん時代母の田舎へしんかんせんが有るにも関わらず10系だいせんで三江線を乗り継いでかえってたのを思い出します。ローカリーな福知山線、山陰線が大好きでよくひとりで乗りに行ってました。その頃はDF50といえば異国の機関車だったので米子だったかな?で見かけた時はむちゅうでシャッターを切りました。今は亡き祖父に浜田へ連れて行ってもらいそこでも見かけてましたね!そして一度だけ帰りは82系まつかぜに乗ってかえりましたが汽車旅が好きな私には早すぎましたね~!
まつかぜは、特急ですから、速いのが売りなのですね。もちろんサービスも売りでしょうけど。
でも、やっぱりのんびりと鈍行列車に乗るのが良いと言う人もおられますね。
私も、特急は、どうも落ち着かないです。というか、座席に座ると、目の前が前の座席の背もたれで、圧迫感が感じます。
13両のまつかぜ、小学生の頃当たり前のように大阪⇔鳥取間を乗車。
高学年のころから9両になりましたがまだ食堂車は健在でした。
やがて181系の6両になり、今は全く違う形に、、、
今求めてもないもの、懐かしいですね。
当たり前のように乗車されてたのですか?
羨ましい。
私は、昔は鳥取に住んでいて、親戚が大阪。
まつかぜに乗りたいと言ったけど、親は、時間が合わないからと、いつも急行でした。
浜田が地元なので懐かしいですね。浜田駅で昼頃に車両の入れ替えで実家の近所で入れ替えしてるのを思い出しました。
なるほど、浜田も当時はこのような列車でしたよね。
国鉄時代の鉄道ファンさん、どうもです。
1981年は私は生まれていなかったのですが、1981年当時の山陰本線は、普通列車に関しては長距離の列車が多かったようですネ。
それと普通列車は、赤いディーゼル機関車が牽引していたようですネ。
あと急行や特急列車などはキハ82などが活躍していたようですネ。
+各停アッキーちゃん さん メッセージありがとうございます。
その通り、赤いディーゼル機関車は、DD51と言う形式で、今でのまだ残っています。また、もう少し前は、DF50と言う、ディーゼルエンジンで電気を発電して電気モーターではしる、ディーゼル機関車がありました。
急行は、キハ28・58系で特急は、キハ82が走っていました。キハ82の特急まつかぜは、大阪から博多まで山陰本線を走っていた列車で食堂車が連結され13両で走っていた時代がこのビデオの時代なのです。
各停アッキーちゃん
急行「丹後」に至りましては運転経路または行き先が複数あり、豊岡または城崎発着でさえ福知山・和田山経由と西舞鶴・天橋立経由の2パターン、しかもそれが宮津線内も網野折り返しのようにそのまま急行運転を続行するのと普通列車として運転するケースの2パターンがありました。
また舞鶴線・小浜線経由敦賀発着でさえ西舞鶴で分割した後東舞鶴までそのまま急行扱いとし、小浜線内は普通列車として運転するか、西舞鶴で分割すると同時に普通列車に化けるものもありました。
概ねこのビデオの時代とはそういうものだったのです。
まつかぜの王者感は流石ですなぁ。
そうですね、特急が走っていなかった山陰本線に初めて走った特急列車なので。
小3だった77年に、福知山線でしたが、尼崎から武田尾までDD51牽引の普通客車列車に乗りました(そのあとも何度か)。その頃はギリギリDD54も走っていたのかもしれませんが、結局、乗ったのはすべてDD51牽引列車でした。旧型客車列車は、駅で止まると電車や気動車と違って、一切音がしなくて静かになるのが印象的でした。
昔の旧型客車の雰囲気を味わったのですね。
私も、この駅に停まると静かな客車が大好きでした。
9:00に13両編成のまつかぜが登場していますね。7両編成と6両編成の特急2編成を1編成に連結していますので、中ほどに先頭車同士が連結されています。食堂車も入っていますから山陰線の特急では最高級の編成になりますね。
この豪華特急は浜坂駅には止まらず低速で通過していきますが、”カラカラ”とアイドリングに近い感じで通過していきます。
中学生だった私は、見たこともない豪華な編成に圧巻されて土曜日に学校が終わってから浜坂駅に行って通過するこのまつかぜに見とれていました。
なつかしい動画をありがとうございました。
どういたしまして。
私も、小学校の1年のころ、鳥取駅にまつかぜを見に行ったことがあります。
あの当時は、山陰本線には特急が1往復だったので、すごくこのキハ80型が輝いて見えました。
拝見しました。昭和は遠くなりましたね。普通寝台列車の山陰に乗って合宿地までに行きましたね。鉄ちゃんサークルでしたからね。結果として車内で宴会してしまいましたけど、外にお客さんもいなかったのでとがめられたりしませんでしたね。少し酔っぱらいがいたので、デッキに出る時は誰か正気な者が付き添えよと先輩の機転でしたね。😅
なるほど、そんな楽しい旅を楽しんでおられたのですね。私が山陰に乗った時は自由席で満員状態でした。通路にも立ち客が一杯。そんな状態での夜行で一夜を明かすと次の日はくたくたではないかと思いました。
1981年なんてまだ僕が生まれる26年も前の時代、、僕からすると想像もできません💦。26年もあれば相当走っている列車も変わっていることでしょうが、この時代の方がなんだか全ての列車が生き生きとしているように感じれます。
そうですね。まだ高速道路や、車もあまり少なかった時代。
鉄道で旅をする人が多かった時代です。
でも、この頃、急行列車が一番一杯乗っていたように思います。
鈍行は、ガラガラ状態だったのではないかな?
1973年…拙者の生まれた年の鉄道映像、感慨深いです(^^)
これも、もう遠い昔になってしまいましたね。
1692年生まれで1980年の時刻表を横に置きながら懐かしく拝見させていただきました。
約40年前ですね。特急は堂々のフル編成で食堂車も連結されてますね。
今乗車し風景を撮ったとしてもステンレス車両が主流で、同じ感動は味わえないと思います。
撮り鉄のマナーも悪く、人目を気にしながらの撮影。
古き良き時代、二度と経験できません。
いつまでも残してください。
車窓風景なら、まだステンレスの車輛でも何とかなるかも知れませんね。音が違うか!
撮り鉄のマナーもやはり、各自良いマナーでの撮影を心がけてもらいたいですね。
マナーの悪さが原因なのか、至る所に、線路に入るな と言う看板があります。そして、良かった撮影ポイントにも入る事が出来なくなっています。
鉄道会社は、鉄ちゃんお断りと言わんばかり。
だから、私も最近の鉄道は、嫌いです。
なつかしいなぁ835レ京都発浜田行や820レ米子発京都行など夜行の山陰号を含め上下各3本につながれていたスユニ50に乗務して鉄道郵便の仕事してました。青春時代の思い出がよみがえってきました。貴重な映像をありがとうございます。
メッセージありがとうございます。
貴重なお仕事されていたのですね。私は、鉄道は、好きですが、鉄道の仕事はしたことが無いのです。
あ!そか!アルバイトで車両の掃除のアルバイトをしたくらいですね。高校時代に。
全国津々浦々の貴重映像がありがたく、板谷峠編ではジオラマ製作の参考にさせていただきました。自然調の語りも当時の様子を一層引き立てますね。
ありがとうございます。
ジオラマは、Nゲージですか?
私は13mmゲージをやっています。
まだ、ジオラマを作るまで行きませんが、車輛を作るので精いっぱいですね。
お返事ありがとうございます。狭軌感が出せる13㎜ゲージとは玄人の嗜好ですね。当方はNゲージで小さな作品を作っています。よろしかったら下記リンクでご覧になってみてください。貴殿の貴重映像はどれも素晴らしく且つ懐かしさがいっぱいで、今後も作品づくりの参考にさせていただきたいと思っています。th-cam.com/video/RjpgCBZuG40/w-d-xo.html
キハ82による『あさしお』の映像が懐かしいですね。
この頃、時刻表からグラフ用紙に福知山線と山陰本線の一部(鳥取まで)をダイヤグラムにしていました。
単線ですのでどこで交換するのか、楽しみでした。
メッセージありがとうございます。
同じです。
私もよくグラフ用紙にダイヤを書いていました。
単線は、交換があるので、書くのに大変ですよね。
特急を先に書いても、特急が運転停車したりして、時刻表では分からない事が見えてくるのですよね。でも、信号所や一部複線になっている区間を知らなかったら、悩んでしまうのです。どこで交換するのかな????なんちゃって。
ブルートレインも無くなって旅情あふれる列車が少ないので、平成生まれとしてはこの時代の列車に憧れる。冷房もついて速度も早くてハイテクなのも良いけどこういうのを失ってしまっている。青春18きっぷ買って長距離客車列車乗って旅してみたかったなー
ちょっと愚痴っぽくなるのですが、青春18きっぷで元を取ろうとしても、各駅停車は乗り継ぎの悪いダイヤにされてしまっているので、なかなか元が取れないですね。
だから、私は、撮り鉄するにも、ほとんどマイカーを使っています。
鉄道に乗る時は、鉄道に乗るのか、目的の時くらいで、移動目的はほとんどマイカーです。
まあ、青春18きっぷで元を取るのが目的ではなく、のんびりとした旅をするのが目的なのでしょうけどね。
素晴らしい🥰私は、神戸なんで、はまかぜや但馬号を、愛してやまないんですが、お袋の田舎が香住なんで、和田山からは、山陰本線なんで、まつかぜ1号とかあこがれるました🤗
神戸だと、まつかぜは通らないですね。でも大阪まで行けば乗れますよね。
今ではまたいろんな車両が走っているようですね。
1984年当時、滋賀県でオムロンに勤めてた時分、鳥取県倉吉市から出向で来てた人たちが月一回の帰省をする時、京都駅から特急に乗り換えてました。名前が分からなかったのですが、「あさしお」だったんですね?貴重な映像、ありがとうございました。
そういたしまして。京都からの鳥取方面への特急は「あさしお」ですね。
見応えありすぎる
ありがとうございます。画質が悪いのが難点ですけど・・・・
素晴らしいアナウンスです😊
子供の頃、弁天町の
交通科学館のジオラマ 説明 聞いてるようです
まさか ご本人では?😅
ああ!弁天町のジオラマは、私も知っています。
当時は、車内は何も出来ていない車両でしたが、室内灯が付いていて、天井の照明が次第に夜になり、夜行列車が走りだし、演出は、とっても感激しました。確かに、列車の説明もしてましたね。
今は、京都の博物館ですが、どうなったのでしょうか?一度行ってみたいですね。
DF 50懐かしいです😊今は津山の扇形庫に、展示されてますので気軽に行けますs😍
メッセージありがとうございます。
わ~お!
展示と言う事は、一般の人が見る事が出来るのですね。
誰か、動画、アップしてないかな?検索 検索!
国鉄時代の山陰本線はずっと憧れの存在でした。当時、国鉄最長距離運行普通列車の門司発福知山行き824列車の乗車レポート等を読んで想いを馳せておりました。やがて大人になり、経済的に余裕が出来たので念願の山陰詣でに出かけたのはJR移行後のキハ58・28が
(とっとりライナー) で最後の活躍を見せてる時で、憧れの特急まつかぜや旧客鈍行は既に過去帳入りしておりました(泣)。
SL観光号のエピソードは傑作ですね(笑)。情報網が発達した現代ではまず起こらない様な珍事ですし、鉄ちゃんが時刻表の表記を把握していなかったというところも何というか、おおらかな時代だったんですねぇ。
+Akira Endo さん メッセージありがとうございます。
824列車ですか?いいですね。山陰は、日本海側に沿って走る昔ながらの線路なんですが、旅を楽しむには、良いですが、旧客も無くなり、スピードアップの時代には、そぐわなくなってしまっているのかもしれませんね。
SL観光号の列車番号は、Dが付いてたので、私はどうでも良かったのです。それよりも、DF50牽引の旧客や、キハ82の特急を目当てに行ったのですが、この快速の気動車をSLだと思い込んで、多くの人が撮影に来るのは、多分、鉄ちゃんではなかったのではないかと思います。
でも、この列車が走るって事は、当時は時刻表でしか、知る事が出来なかったし、鉄ちゃんではない人が、そんな時刻表を見る事もないだろうし・・・・
まあ、色んな人がいるので、その辺は分かりませんね。
話変わって、この馬堀で撮影して、帰り、福知山線で脱線事故があって、特急まつかぜが、山陰本線経由でこちらへやってきました。
SLのお話、
とても楽しく聞かせて頂きました。
国鉄時代の鉄道ファンさんもよく
言われていますが、携帯電話の
普及で情報のやりとりが急速に
活発になったことで、お話された
ような「事件」は
起こりにくくなりましたが、
逆に鉄道ファン同士の
コミュニケーションも、
急速に減ってしまったような気がします。
メッセージありがとうございます。
鉄道ファン同士のコミュニケーションですか。
オフラインでは、そうかもしれませんね。
私も、このYouTubeでは、こうやってコミュニケーションしていますが、撮影に行っても、あまり他の人と話したりはしないものです。まあ、テンションが高かったら、話する時もありますけどね。
国鉄時代の鉄道ファン それこそ、
本物のSLが走るときには、
同業者の方々もテンションが
高めでしょうから、待ち時間が
楽しくなりそうですね。
昭和の名列車を見ました。在りし日の鉄路、もう一度見てみたいが無理ですね、目の保養になりました。
昭和の名車と言われる車輛・・・・80系の特急の事かな?
大変貴重な映像を見ることが出来ました。アップに多謝!!
個人的にオヤ?と思ったのは10:01からの「あさしお2号」の編成です。
というのも上り方からキハ82、キロ80......キハ82という編成を初めて見ました。
京都を起点として基本は博多方面(下り方)からキハ82、キロ80、キシ80......キハ82なので少々驚きました。
いやぁ、まだまだ知らないことが沢山あるんですね。
メッセージありがとうございます。
1981年3月の時刻表を見ると、
あさしお1・3・6・8号は、倉吉・城崎寄りにグリーン車が連結されています。
あさしお2・4・5・7号は、京都寄りにグリーン車が連結されています。
ですから、すべて博多向きにグリーン車とは、決まって無かったようですね。
私は、全然気にもしていなかったのですが、編成の向きの違いに気づくなんてすごいですね。
京都から宮津線経由で城崎に向かった車両が、折り返しでは山陰線を福知山経由でまっすぐ京都に戻る列車に充当されるため(逆もあり)、運用の中間では編成が逆転していましたね。平成8年の廃止まで続いた、「あさしお」の伝統ですね。
まつかぜってスケールの大きな列車だ。当時に戻って乗ってみたいわ。
山陰本線に最初に走った特急です。
その頃は、普通列車多急行列車が走る中、1日に1往復。
山陰本線の中で輝いていました。
貴重な映像ですね。その時代でカメラ、ビデオカメラとはおしゃれですね。カメラのネガの保管も大変だった思います。昔は大阪━博多間のまつかぜや824列車とか今では考えられない区間を走っていましたね。質問ですが、まつかぜが関門トンネル区間でもディーゼル煙モクモクで走ったのでしょうか。知っている人がいたら幸いです。
関門トンネルの事は分かりません。
でも、確か、普通列車の気動車に乗った覚えがあり普通に走っていたようにも思います。
@@HobbyVideos
返信ありがとうございます。関門トンネルなら距離も短いですね。戦前は蒸気機関車が走ったわけだから気動車でも大丈夫ということでしょうか。
@@keibakeirin 関門トンネルはSLの営業運転はないよ!開業時は直流電化、昭和36年からは現在と同じ交流電化だよ!
@@psychedelicraspberry517
返信ありがとうございます。昭和36年まで直流電化だったのですか。交流電化というイメージしか浮かびませんでした。気動車は一気に突っ走るいうイメージでしょうか。
まつかぜは全線乗車しました。関門トンネルはそのまま走ってましたよ。出発時エンジンの唸り音はしてました
この時代は自分は高校生ですね。高校1年生の夏休みの臨海学校で東浜駅近くの民宿の窓から見える旧型客車の風景に病みつきになりそれから山陰本線の虜になった。高校生大学生山陰本線旧型客車を最後の最後まで楽しめ良かった。
今やおとなび世代になりましたがトワイライトエクスプレス瑞風の停車駅になってしまった東浜駅はもはや私の手の届かない雲の上の存在になってしまったんだな(>__
メッセージありがとうございます。
やはり、山陰本線って非電化で旧型客車が走っていた。今思えば信じられないような光景ですね。
トワイライトエクスプレス瑞風の事は、興味がないので全く知りませんが、東浜駅に停車するのですか?
あそこは、特急列車は止まらない・・・・急行も停まらない駅だったのに。時代も変わりましたね。
すばらしい
どうも!
岡山県の津山線で津山駅から、5分位☺旧津山扇形機関庫にまなびの鉄道館が新しく出来て保存してあります。他に、キハ181.DD51.DE10.DD13.DD15.D51.キハ28.52.58.33などあります❗
メッセージありがとうございます。
情報をありがとうございます。
また、機会があれば行ってみようと思います。
またまた当時の時刻表片手に時間旅行。
当時の820レで福知山まで行ってそこで昼食をとり、次に957Dで一気に敦賀まで行って2時間近い猶予を設けて(あるいはそれに乗らないでもう一本後の959D~4959Dに乗った方が福知山~敦賀間約4時間近くを要したため、キハ20にしがみついたまま贅沢な至福の一時を過ごせた)その日の最終ランナー221レに5時間半近く揺られた末、当日は富山で一泊。なんとも贅沢で至福の一時を過ごせたに違いない。
当時の時刻表があるのですね。
私も、いくつか持っているのですが、何分全部買うわけにはいかないので、無い時期は、全くないというような感じです。
820列車は米子から乗るのかな?
221列車だと、福井は、19:16まあ良い時間ですね。旅の疲れで、寝過して、富山で
「お客さん!終点ですよ!」
なんて言われないように。
@@HobbyVideos 僕も当時の「国鉄監修 交通公社の時刻表」を全部揃えるわけにはいかないので、1978年10月号・1980年11月号(本来なら「10月1日からのご乗車にお使いください」の添え書きがある1980年10月号が欲しかったのだが、あいにくネットショッピングで品切れだったので11月号にした)・1982年11月号・1984年1月号・1985年3月号・1986年11月号の計6冊を手元に所有しています。
820レは始発の米子からのスタートとなります。
【補足】
浜田発東舞鶴行き544レがあった頃は、その日は無理をせずに東舞鶴まで乗り通してそこで1泊。翌朝07時01分発の921レに乗ると言いたいところですが、その時間帯が運悪く小浜線沿線の高校への通学時間帯と重なってしまうため、今で言う「3密」にもなりかねません。
そこでためらわずに東舞鶴で泊まった宿のチェックアウトを少し遅くして、10時11分発の935レで2日目をスタートさせて一路敦賀を目指し、次に第2走者の快速3339Mで福井まで行き、ここで追い付いた523レであとは一気に長岡を目指すだけ。
DD51は名車ですよね。ディーゼル界のデゴイチと呼ばれてた気がする。(まだ現役ですけどね)
そうそう、ディーゼルデゴイチって感じかな?
私は、これ以前に走っていたDF50が好きでした。
@@HobbyVideos
DF50はデザインがいいですよね。
交通系の図鑑にEF58、EF60、DF50の並走の絵があったの覚えてます。
実物は山陰線で一・二度見た程度で、自分が撮り鉄してたころにはもう引退してました。
そうですか、DF50ってモーターで走るんですね。だから電気機関車のような形なんです。
初期のタイプは、エンジン音が変わるのですが、後期のタイプは、エンジン音は一定のままで、モーター音が鳴るのです。
@@HobbyVideos
確かに最後のカーブは牛ノ谷の駅の福井側カーブの感じですね。
今も大聖寺にたまに仕事に行くのでわかりますよw
今はなくなったものが多いですね、長距離鈍行、客車列車、食堂車、郵便・荷物車、車掌車…
そうですね。でも、まだ鉄道だけは、残っている。何とか。
あの時の山陰本線は普通列車もディーゼル機関車牽引で運行されていたのですか!平成生まれの私には分かりません。また、当時まつかぜはディーゼル特急としては一番長い距離を走り、また13両という一番長い編成両数だったのではないでしょうか?
山陰本線の普通列車全部ではないですが、多くはディーゼル機関車牽引の客車列車でした。このビデオの時代は、DD51でしたが、もう少し昔はDD54やDF50、そして、SLも牽引してました。
10:02 特急「あさしお」2号。181系化された後の1985年3月改正で東舞鶴発着と化するが、1981年当時は西舞鶴には姿を見せていたものの、東舞鶴はほぼ急行専従で姿を見せていなかった。
メッセージありがとうございます。
1981年頃って、西舞鶴から宮津線経由で城崎くらいまで行ってたのではなかったかな?
どっちが前で、後ろか、分からなくなる列車だったとか。
@@HobbyVideos 「あさしお」としては1日1往復だけですが、綾部・西舞鶴・豊岡で3回スイッチバックして城崎を目指すというものでした。
それそれ、しまいにどっちが前なんだ!って言いたくなる列車らしいです。
@@HobbyVideos 一口に言いますと、豊岡は配線上の都合で宮津線から来た列車は和田山・福知山方を向いて止まることになるため、京都出発時点で前を向いていたキハ82or181が和田山・福知山方を向いて止まり、京都出発時点で最後尾を向いていたキハ82or181が城崎・香住方を向いて止まっていたことになります。
平成生まれの僕は昭和に憧れを持っています
メッセージありがとうございます。
昭和と言っても、長いですよ。
SLがバンバン走っていた時代から昭和ですから。
オッサンです。鉄ヲタ的には最高でしたが、今の方がスマホ📱があって、飛行機✈️で東京~福岡¥10000以下で行けて便利です。
この頃の普通列車は今とスケールが違いすぎますね。
18きっぷ旅がより一層充実しそうです。
そうですね。この区間は普通列車の客車の輌数も少ないですが、京都や鳥取より西はもう少し多く連結したりしています。
普通の客車列車いいな
内装が木の客車が良いですね。
13:30 急行「白兎」が現在の特急「スーパーはくと」とは全くの別物であることに違和感を感じる。
メッセージありがとうございます。
これは、全くの別物ですね。
走るルートが違う。
愛称名に「はくと」と言う名前が含まれているけど、別物ですね。
@@HobbyVideos とはいえ1994年12月3日の智頭急行開業を機に産声を上げた特急「スーパーはくと」。国鉄時代の山陰本線経由オンリーとは大きく異なり、東海道本線・山陽本線・智頭急行線・因美線・山陰本線の5つの路線を経由するという、却ってややこしい雑多な経路をたどる列車となってしまいました。
1981年で高校生だったって事は、うp主さんは私と同年代でしょうか?
懐かしの動画のアップ、楽しませてもらってます
それでは、たぶん似たような年ではないかな?
今より幾分遅いだろうけど…旅した感覚にはなるだろなぁ
そうですね。でも、今もさほどスピードは変わっていないのではないかと思います。
貴重な映像ありがとうございます😊
当時はビデオカメラは高価で、なかなか買えませんでした。
なんと言うカメラですか?
この当時のカメラは、ソニーのHVC-80でした。
今も家にあります。
デッキは、ビクターのHR2200だったと思います。
デッキは、捨ててしまいました。
始めの方に出た馬堀の写真、実は自分もこの近くで5年後(1978年)に撮りに行ってます。当時まだキハ17もいましたねw
列車番号知らない人も結構いた気がします。1978年中学生でしたが列車番号はさすがに知ってましたw
下二桁目が1の急行はあまり早くない急行(旧準急?)という記憶がありますけど(白兎やだいせんは下二桁目が0)どうだったんでしょうね。
列車番号にそんな区分けがあったのですか?それは、知りませんでした。1978年だったら、まだキハ17っていたのかな?いましたね。
@@HobbyVideos 多分北陸のくずりゅうも下二桁が1の急行のはずです。立山やゆのくには0と思います。
かなりかなり長〜い距離を走りますね
+アサロド さん メッセージありがとうございます。
普通列車でしょ?
当時は、山陰に限らず、全国あちこちでこのような長距離の鈍行があったのではないかと思います。
8分16秒の急行丹波はおそらく上り勾配でスピードが出てなかった感じがします 排気の加減と反対列車の軽やかな走りでそう思いました
そうかも知れませんね。
普通にお宝映像
ありがとうございます。
昔は日本全国で見られた客車列車も、滅多に見かけなくなりましたね。反対に海外では何故か多く見かけますが
そうですか。私は海外は行ったことがないのでわからないですが、客車列車が多く見かけるのですか?
よくぞ記録していただいて、後世にこうして誰もが閲覧できるようにしてもらえるのは本当、ありがたい限りです。
1981年当時、私はまだ小学生だったので、大阪や奈良に住んでいたとはいえど、まだ子供の私には遠くに出かけることは叶いませんでした。
本当、目の前で直にDD51やDF50を見たかったものです。
まあこの映像を撮影した当時はインターネットもTH-camもなく、ただ自分の楽しみの思い出として撮影していただけの映像なのです。それが、インターネットのお陰で同じ趣味の人に見ていただけるようになり、便利になりましたね。私もDF50は、写真と音でしか残す事が出来ませんでした。
当時のビデオカメラはおいくらなんでしょうか?まだ8mmが当たり前の時代ですから
そうとうお高いと思いますが
+巣手間士捻 さん メッセージありがとうございます。
当時のビデオカメラは、
カメラのみ 23万円
VHSポータブルデッキ 16万円
バッテリー充電器 2万円
バッテリー 7000円/本
こんな感じですね。
今は、スマホでフルハイビジョンが撮影出来るのだから、すごい時代になりましたよね。
やはり高いですね。
今ではHDビデオでも3万円台ですから
いい時代ですよねぇ
+巣手間士捻 さん メッセージありがとうございます。
その通り。
良い時代です。
この技術の進歩が逆に、国鉄時代の古い車両を廃止される理由なのかも。
・・・・技術の進歩が。
中でも「あさしお」は4往復中1往復だけが綾部で進行方向を逆転させて舞鶴線に入るが、現在の「まいづる」とは異なり東舞鶴へは直通せずに西舞鶴で再度進行方向を逆転させて宮津線に入るというものでした。このため、先行の1号は宮津線を迂回中に、後発の福知山・和田山を経由する3号に抜かれた末、豊岡には後発の3号が先行の1号よりも20分近くも先に着いてしまうという変わった現象が実際にありました(このあと3号は倉吉まで運転を継続し、同駅で京都を朝一番に出発した835列車に運よく追い付くダイヤでした)。
それとは対照的に東舞鶴に出入りする特急は1本もなく、京都からの直通優等列車は急行「丹後」のみで占められていました。
私が知っているのは、折り返し運転が何回もあって、しまいにどちらが前なのか分からないようになるって言ってました。昔のダイヤを見ると、色々と複雑な事があったのですね。
今はもっと単純になったのかな?やはり無駄な経費節減なのですね。
@@HobbyVideos
本来ですと急行「丹後」5.9号は京都出発の段階ではホロの付いた車両が一番前に立つのですが、綾部と西舞鶴の2駅で進行方向が逆転し、しまいには豊岡駅の構内配線の都合上ホロの付いた車両が城崎・浜坂寄りではなく和田山・福知山寄りを向いて止まるというものでした。
なるほど、幌の向きを見れば、この列車は何処を走って来たかがわかるのですね。
しかし、それは知る人ぞ知るって感じですね。
私が中学生頃の列車ですね。休みの日、鳥取方面に行く「汽車」は大阪発。
床下に捨ててあった「大スポ」の「大人の読む記事」を見て、何か悪い事している「罪悪感」
40年近く経った今でも「少しだけ」残っています。
鳥取へは、普通で行ったのですか?
「大スポ」って何だろう。
@@HobbyVideos
大阪発浜田行きの普通だったような気がします。
「大スポ」とは「東スポ」の大阪版ですね。
これが一番です 181系 運転手なれました。
山陰本線の運転士ですか?
山陰本線にSLが走っていたのは、区間にもよるでしょうけど71年の4月ぐらいまででしょうか?。私はちょうど71年が私の生まれた年だったので、自身ではもちろん記憶はないのですが、たまに夜中にテレビでNHKアーカイブスの『昭和のSL映像館』を見たりすると、71年頃の山陰本線を走るSLの映像があったりしてたので、「へーーっ。SLが走ってた頃はこんな感じ(の光景)だったんだぁ。」なんて思いながら見てたりしています。DFは、私が小学生くらいの頃はもう関西では紀勢本線ぐらいでしょうか。九州の確か・・・日豊本線やあと四国などに拠点が移っていたように記憶しているので、山陰本線で走っている風景は初めて見ました。その頃はもう山陰本線で見る機関車はDD51が主力になっていましたものね。むかしは大阪から香住へ乗り換えなしで行くのには、福知山線経由では『(後年の)まつかぜ』『だいせん』があり、下夜久野や梁瀬のほうもよく通って行きましたが、今は播但線経由の『はまかぜ』のみとなってしまい、乗り換えなければならない『こうのとり』に乗ることはほぼなく、この辺も通らなくなってしまいましたが・・・。単線は単線なままなんでしょうけど、電化されまた風景もだいぶと変わったのでしょうね。今月末また香住へ行かなきゃならないので、今度は一度、久しぶりに帰りは『こうのとり』で、和田山以東のこの辺の風景、福知山以南の福知山線風景を見つつ帰ってきてみようかと思います。
メッセージありがとうございます。
必要に迫られて、山陰方面へ行くと言うのは、ラッキーな事なのでしょうか。
鉄道が好きな人なら、目的地での用事を済ませるのが目的でしょうが、その行き帰りの道中の時間も楽しみの一つですね。
私も山陰本線にSLが走っていた記憶はないのですが、小学校1年の時に、旧型客車に乗せられて、松江から鳥取まで普通で帰ってきたことがありました。それがSLだったのかは、全然分かりませんでしたが、鳥取で迎えに来てくれた親に
「汽車で帰って来たの?」
って言われた事を覚えています。
その「汽車」と言うのが、SLを意味していたのかは、分かりませんが、当時はDF50が主流でしたから、・・・・それしか無かった。・・・・・たぶん「汽車で帰ってきたの?」
とわざわざ言ったと言う事は、SLだったのかなって後で思っています。
写真ではDF50は、良く撮影しましたが、ビデオではもうDD51しか撮影出来ませんでした。
DF50は、電気機関車のように、電動機で走るため、発車の時は、エンジン音は、鳴っている中、モーター音が「ウィーン」となって発車します。私の好きな機関車の一つでした。
では、良いご旅行を!
ご返信いただきありがとうございます。香住の親戚でもそうなのですが、向こうの人はSLでなくても『汽車』って表現したりしますね。今の人は、ディーゼルカーでも『電車』って言ったりするようですが。DFは天王寺駅から紀勢本線を行く鈍行でけん引してたのをうろ覚えに記憶しているのですが、エンジン音までは記憶していないので、どんな音だったのか気になったりしました。
jxfds369
メッセージありがとうございます。
まあ、あまり鉄道に興味のない人は、機関車牽引の列車を汽車、気動車や電車は電車って言うのかもしれませんね。
私の子どもの頃は、国鉄を汽車、私鉄を電車と呼んでいた風習もありました。子どもながらに、国鉄と私鉄って言えよ!って心の中で思っていました。
昔、兵庫県美方町(今は、香美町)とか豊岡のおばあちゃん👵ちに行くときに、まつかぜ乗ったかもです。
夜、福知山駅に、停まったので、はまかぜ(之は福知山は、通らない)じゃないのは確かだけど、もしかして京都駅から乗ったかもなので、京都駅だと、米子か城崎行きのあさしお、ですね。
特急のこの形の列車に乗られたですね。まつかぜは福知山線経由で、あさしおは京都から山陰本線経由、列車によっては天橋立の方を回る列車もありました。
@@HobbyVideos 汽車に乗って、兵庫県美方町に、行く途中、福知山駅と和田山駅に、停まった事は、覚えてるけど、京都駅から乗ったのか 大阪駅から乗ったのかよく覚えてないけど、大阪駅から乗ってたら、まつかぜですね。
そうですね。福知山線経由ならまつかぜです。
この頃のビデオカメラって、かなりの大きさでしたよね、デッキも別で、テープ自体嵩張るし、大変だったんじゃないですか
+o kz さん メッセージありがとうございます。
今の、スマホでハイビジョンの動画が撮影出来る時代から見ると、大変ですね。
でも、当時は、これが普通だったので、当時は、大変だとは思いませんでした。デッキとカメラ、バッテリーは、1kgで20分くらいしか持たない。全部でおおよそ、18kgくらいの重さになりました。
それを当たり前だと思い、担いで北アルプスの穂高岳に登った事もありました。
DD51は四国は走ってないですね
DD51ですか!
四国は私は良く分からないのです。DF50が走っていたのは、鉄道月刊誌などで見て知っていますが、DD51については分からないです。
走ってないよ!DF50の後継はDE10だよ!
この時代は自分は中学生ですね 鉄道雑誌の写真見て働いてお金稼げるようになったら絶対山陰本線の長距離鈍行乗りにいこうって思ってました 働くようになったら旧型客車も淘汰され始めてしまってほとんど乗ることなく終わってしまいましたが 古きよき時代でしたね いまのピカピカの車両はどうしても馴染めないです 移動の手段にしか見えなくて
+ootakas さん メッセージありがとうございます。
まあ、鉄道は、もともと移動の手段だったのですが、子どもの頃に乗った列車が、今は無く、そんな列車に出会えた時、なぜか、子どもの頃にタイムスリップしたような、雰囲気を味わう事ができるのですね。その反面、当時はスピードも遅く、田舎は、次第に車の方が早くて便利と言う時代になってしまいました。こんな旧型客車は、スピードの出せる気動車や、電化され電車になったにも関わらす、やっぱり、田舎は車の方が便利と言うような事も感じられます。道路は、どんどん新しくなるが、鉄道はいつまで立っても、単線で、スピードの出せない線路。車両だけを新しくしても、限界がある。そんな、限界を破るために、スピードの出せる線路を新しく作る。それが、新幹線。でも極端なんですよね。在来線をもう少しスピードを出せるようにしてほしいです。
1981年が一番好きだわ
DD51運転室に乗せてもらったことあるわ、バラスト散布のときに
82、181一番好きな車両だわ
2番目は500系だわ
3番目は無いわ
まあ、昔は良かったですね。今は今で良い事もありますが。
6:08 722レの所要時間が短く感じるくらい時間の感覚が狂う‥‥
まあ、新幹線の時代ですからね。そのうち、新幹線が普通の時間の感覚になるのかもしれません。
上夜久野~下夜久野間の陸橋下の国道は毎日通勤で通ってるぜ😃
この風景も変わってしまったのでしょうね。
到着時刻見て驚きましたね。当時はこれが普通だったんでしょう。1日かけて走るとは…。
そうですね。これが普通。特急も普通車はリクライニングなし。急行と普通は直角の椅子が普通の時代。
それで、サービスが悪いとか、誰も言わなかった時代です。
まつかぜは一度だけ博多まで通しで乗った。食堂車もあっていい列車だった。時間は新幹線よりも遥かにかかるが旅情はあったな。当時親もわざわざ特急1日乗って新幹線で行けば何時間かやのにアホちゃうか?言われた。マぁそういう価値観の方が多いから消えちゃったんやろな
そうですね。旅行をする目的はひとそれぞれ、移動時間を無駄な時間と考える人は新幹線。移動時間も旅情を楽しみたいと思う人は、まつかせ 。 これは、人それぞれの考え方なのでしょう。
でも、鉄道はやはり移動目的にある乗り物ですから、言われるようにそういう価値観の方が多いから消えたのでしょうね。
それに代わって、一般人では乗ることの出来ない高価な値段のジョイフルトレインなんて列車が旅情を楽しむ列車になってしまったのかもしれませんね。
博多「まつかぜ」は大阪~松江とか浜田に行く方々と、松江とか浜田~小倉とか博多に行く方々の乗る列車を1本にしただけだからね。
☆ 54番は悲劇の番号で,播但線の大事故を起こしたC54も終焉の地は山陰本線でした。
そうなんですか?
C54が播但線で大事故があったのですか?
今は、54と言う番号は使われている車両はないのかな?
でも、偶然?
不思議な事って一杯ありますね。
@@HobbyVideos
ネコ パブリッシングから出ている「RM LIBRARY 54 C54 悲劇のパシフィック」に事故機(5号機)の生々しい写真があります。播但線は古い路線で旧規格の狭い隧道があり、それが悲劇を招きました。C54は個人的に好きなSLですが、残念な機関車でもあります。
旧規格の古い隧道・・・・どんなのかな?
友だちが何時も言うのですよ。
「最初にイギリスで標準軌の時速130km/hが出る機関車を買って来ておけば、
鉄道と言う物はこういうスピードで走る乗り物だ!
と言う事で、線路を敷いていれば、今でも、車に負ける事も無く、こんなに廃止になる線路も無かったろうに!
もっともっと日本の地図が変わっていただろうに」
ってね。
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☆ Wikipediaで播但線の項目を見ていただければお分かりになりますが、この路線の前身である播但鉄道は明治年間に開業しています。1号機関車ほどではありませんが、当時の機関車(播但鉄道の項目参照)は小型タンク機関車で隧道も当然その機関車のサイズに合わせて掘られています。これは明治期に鉄道事業を興すということがいかに資金がかかるかということが背景にあり、結果としてその後運搬能力の拡大のため車輛の大型化を図る際にも無理があった(あるいはそのことが知見として共有されなかった)ことで起きた悲劇ではないかと思います。その後、播但線も無煙化し今は一部区間ながら電化を見ている訳で隔世の感があると思います。コメントありがとうございました。
いいですねっいいですねっいいですねっいいですねっいいですねっいいですねっ(^o^)
JR日本国鉄型時代京都駅キハ82系嵯峨野山陰線特別特急まつかぜ号グリン車2両キシ 80系食堂車編成復活運転京都駅博多行きデイーゼルー特急まつかぜ号復活運転するべきだ
また、そんなに需要が増えているのかな?
チャンネル登録しましたので ヨロシク
は~い
よろしくお願いします。
まつかぜはまぼろしだわ