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自分が生まれる遥か前の地元の風景を見れるので嬉しい
そうですか。今は変わってしまいましたね。
国鉄時代の車輌は、色彩共々風格がありましたね!前の余部鉄橋も、駅に登る坂道の途中で見上げると、すごい迫力があました。ほんと懐かしいばかりです。映像ありがとうございます。
風格・・・・ですか!今は、風格が無いのかな?まあ、特急も昔のように長編成でなくなって、長距離でもなくなってその辺も、風格が無くなった1つの要因かも知れませんね。
旧客の無線でのやりとり、荷物車、長大編成、イラストなしの列車愛称表示。昭和の国鉄。脳裏に焼き付いています。
そんな時代を記録したくて、山陰へよく行ったものでした。
当時の 出雲は たしか 紀伊と連結して京都駅で 切り離しを していたような…14系寝台でしたよね?。。だいせんも たしか キハ58と20系ブルートレインの 両方で運転されていたと 思いますけど…いずれも 懐かしさが あります。。
紀伊は、名古屋で切り離しかもしれません。だいせんの20系、私の時代は、旧型客車の時代でした。(私も年撮ったな!ボソ)
No1.No2とも拝聴させて頂きました。素晴らしい動画をありがとうございました。学生だった1980年頃の夏に、餘部ユースホステルに宿泊した思い出があります。汽車賃を惜しんで、浜坂から城崎までバックパックを担いでの徒歩旅でした。途中、柴山か佐津の駅舎の木製ベンチで野宿したのですが、電球に集まってくる蛾の群れに一睡もできずでした。こんな笑い話も30数年前の思い出となりました。城崎からは鈍行で大阪まで帰ったのが、旧型客車に乗った最後だったように思います。
+minori iwata さん メッセージありがとうございます。いや~みんな青春時代を楽しんでいたようで、私はもう社会人でほんのわずかなお休みで、この映像を撮影したくらいなのです。でも、この時、余部ユースホステルに宿泊した時は、鉄ちゃんも一杯で鉄道談議に花が咲きほんとに楽しい一時でした。旧型客車って、なんか年配の人が似あう乗り物のように思いますが、こういう若者が乗っていると言うのも、新鮮でいいですね。
キハ80系の長編成急行に、DD51牽引の旧客。。堪能させて頂きました(^^)山陰線や福知山線旧線で何度か乗れたのは幸いでした。仕事だし、当時は当たり前のように利用してましたが、いま思えばもっと写真に残しておけぱ良かったなあ。。
そうですね。仕事だとスーツ着てたりして、何か鉄ちゃんをやりにくいですね。この時代のビデオは画質も悪いのですが、今の最新の編集ソフトではもう少し画質を改善出来るかも知れないですね。でも、ノイズが増えたり逆効果もありますけど。
DD51の初期車もまだこの頃は健在だったようですね。この数年後にはJRに継承されず、旧型客車と共に各地のヤードの片隅に放置されていたのを痛々しく思いまいた。2006年1月に廃止前の「出雲」に乗り、この餘部鉄橋を渡りました。鉄橋の付け替えの噂が出始めた頃で、その年の3月ダイヤ改正で「出雲」も廃止ということで無理して乗ったのを思い出します。
+matudaira katunari さん メッセージありがとうございます。出雲に乗られたと言う事で、羨ましいです。私は、昔、京都から夜行の旧型客車の普通の出雲市行きに乗ったことがあります。出雲は、早朝に余部を通過するので、あまり撮影していませんでした。通過時間には、余部にたどり着いていたのでしょうけど、車の中でひと眠りしていて、撮影を逃してしまったりしています。まあ、本当に少ししか撮影していないのが悔やまれます。
+国鉄時代の鉄道ファンさん 餘部駅で降りておけばよかったと後悔しています。山陰本線って旧客が似合いますね。良く見ると窓はアルミ改造もしていないし本当に良いと思います。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。私も、そんな後悔をどれだけしたことか、分かりません。今はちょっと先を急いでいるので、今度ゆっくり来よう!と思い、いつしか年月が経ってしまい、もうあの当時の風景や列車は見ることができない。そんな事、いっぱいあります。 そんなわけで余部は、旧型客車が走っていると言う事で、必死になって記録しに行きました。でも、私がこんなに余部を含め、ところどころビデオに撮影したのは、やはり、当時高価だったビデオカメラを買ったから、こんなに撮影に行ったのかも知れませんね。
No.1の動画に続きコメントをさせていただきました。ここ2年ほど、香住のほうの親戚(うちの祖母の妹=大叔母夫婦)も大叔母のほうが80過ぎ、義大叔父が大方100歳近くになり、またうちの祖母のほうも先日90歳になったので、なるべく頻繁にうちの祖母を連れ、香住のほうへ行くようにしているのですが、香住に来たついで、浜坂へ行くついでにこの餘部のほうを通ると・・・コンクリート橋に改修されて以来、だいぶん駅のほうも、また集落のほうも変わりましたねぇ。地元の方々のことを思うと、あの事故以来、コンクリート橋にせざるを得なかったのは仕方がないとも思うのですが、私のようなただただ郷愁と子どもの頃を懐かしむよそ者からすると、やっぱり鉄橋がなくなったのは非常に残念で。。。道路事情のほうも、佐津~香住~餘部へ抜ける高規格道路もできてますし、今度はそれが餘部~浜坂~鳥取へ抜ける道路へと工事されていますし、便利は便利になるんでしょうけど、そのぶん、それに取り残された集落ではいっそ過疎化してしまうところもあるんじゃないかなと思ってもみたりしています。餘部駅のほうも、今じゃその価値すらなくなったコンクリート橋の下に鉄橋のきれっぱし(!?)が置かれていますし、道の駅ができたりしてシーズン中は賑やかだったりしますが、もはや餘部が餘部たる価値がなくなったような・・・通り一辺倒のごくごくありふれた集落にすぎなくなりましたね。厳しい言い方ですが、この餘部鉄橋に魅力を感じ、『まつかぜ』や『出雲』、『急行』や『旧客』が走っていた最高の時代を見てた私たちにとっては、今の餘部は・・・あまりに切なく残念な風景としか言いようがないですねぇ。。。
メッセージありがとうございます。道路は、どんどん良くなっていき、鉄道はさびれていく。そんな感じですか?いや、コンクリート橋になって鉄道もそれなりに良くなっていく反面、旅情が失われて行くって言う感じかな?私の友達で大阪の人なんですが、近鉄沿線で生まれ育って近鉄の線路しか見ていなかった人が、大人になって国鉄の線路を見て「何これ!」「こんなん危ないやん!」と言う疑問を抱き、なんで国鉄は狭軌なのかと言う事に色々と調べた友達がいるのです。昔、大隈重信がイギリスに鉄道を買いに行った時に標準軌の鉄道は高価で買えなくて、狭軌の鉄道を買って帰ったと言うそうなんです。この当時、イギリスには標準軌の鉄道で130km/hの出せるSLが有ったそうで、もし、それを買って帰って帰っていたなら、明治時代の鉄道が開業した当時から130km/hで走る線路を敷き、それを全国に広げて行ったなら、技術も進歩するにしたがって、在来線でも200km/hを出せる鉄道が全国に広がっていたのではないかと言うのです。そうしたら、もっと日本の鉄道事情はもっともっと変わっていたと思うし、一般道を走る車より鉄道の方が遅いなんてありえなかったのではないかと思います。中途半端にあちこちリニューアルして余部鉄橋をコンクリート橋にするだけでなく、根本的な所から奥羽本線のように標準軌にして、車に負けない鉄道にしないと、やがては、旅情もなく、便利さも無く、廃線に追い込まれてしまうのではないでしょうか。北海道の鉄道網の廃止が、それを物語っているのではないかと思います。
ご返信いただきありがとうございます。(餘部の)集落のど真ん中を高速道のような高規格道路が横切っているわけではないので、集落そのものが大きく変貌したって感じはないのですが、仰る通りの感じですねー。道路はどんどん良くなっていきつつ、鉄道はさびれていく、本当にそんな感じです。それでもまだ『鉄橋』であれば雰囲気のある町を保つことはできたんでしょうけど、あの風景にコンクリート橋は。。。実際に見ると、寂しく感じられると思います。追伸)どうしてなのかわからないんですが、改行ができなくて・・・スミマセン
メッセージありがとうございます。私も、TH-camでしか、見た事がないのですが、トンネルにSカーブをして入っているのですが、あれは、後々横に新しいトンネルを作る予定みたいですね。鉄道も、線路を新しくするだけでなく、もっと高速運転できる線路にして、やっぱり鉄道の方が良いな!って言う乗って価値ある鉄道にならないとだめですね。
貴重な動画拝見させて頂きました。私自身95年の生まれなのでこの時代の鉄道を見たこともありませんが、気動車の長大編成や客レには心惹かれるものがあります。最新鋭のキハ189もいいですが国鉄車の貫禄があるキハ181もかっこいいですね!客レは模型で再現しようかなぁ
+Okazawa Syota さん メッセージありがとうございます。お若い事っていいですね。なんだか、もう世代交代って言う時代で、私も最近の車両は、良く分からないのです。また、模型もされるのですね。模型の世界では、もう走っていない時代をいくらでも再現できますから、良いですね。私も、80分の1の13mmゲージの模型を作っています。今の車両は、中々模型で作るのが面倒で、やっぱり国鉄時代の車両が良いですね。
この頃は、採算度外視のカッコいい長編成の車両が多かった。JR後は、特急すら、短編成になり、みすぼらしい。
まあね!国鉄は親方日の丸と言われてて、採算なんかどうでも良かったので、累積赤字がたまって、分割民営化になったのです。さすがに、私鉄になるとそうは言ってられないですね。この当時、近鉄などの名阪ノンストップ特急は2両でしたからね。
ご無沙汰しております。まだまだ未公開の貴重な映像をお持ちのようですね。懐かしく拝見しました。諸寄ユースに宿泊されたとのことですが、確か諸寄ユースのご主人は当時国鉄職員の方ではなかったかと記憶していますが記憶違いだったかな?すぐ隣に浜坂ユースもあり、こちらは地元の熱意で出来上がったユースと聞きます。どちらも素晴らしいユースでした。実に懐かしい。今は無き余部ユースにも泊まられたようですね。この辺りの海岸線の景色は、早春には自生の水仙が咲き乱れ、春は桜、海は(東京近辺とは違い)澄んでいて綺麗な青色。どのアングルで切り取るべきか実に迷うところではなかったかともお察しします。拝見していてまったく飽きないです(笑)
+大塚克己 さん メッセージありがとうございます。ご無沙汰していましたね。諸寄ユースホステルは、高校のユース活動の団体で行ったので、あまり鉄ちゃんをしていませんでしたので、ご主人の方の事は良くわかりませんが、春でも早春だったので、旅行中雪になりました。そんな懐かしい思いがあって、この諸寄に行ってみたのです。高校当時はDF50牽引の客車だったのです。また、未公開の映像があるのですが、いったいいつ写したのか、列車番号がさっぱり分からなかったりと、苦戦しています。出来るだけ、詳しい情報を公開しようと心掛けているのですが、どうしようもないですね。でも、全部私がすぬまでに、公開できるか心配になってきました。(笑)この前、初めて かがやき に乗りました。私の別のチャンネルで「Japanese rail sound」と言うチャンネルに車窓風景や、前面展望や、音のみをアップしていますが、そこにかがやきの車窓風景をアップしました。座席に座っていたら、防音壁でほとんど見えないので、富山から大宮くらいまで、ずっとデッキに立って撮影していました。指定かったのに(笑)こちらにも、少しアップしたりしていますので、よろしくお願いします。
この頃、ローカル線や旧型客車の廃止が本格化していきました、せめて数年早く生まれていれば・・・と思ったものです
+o kz さん メッセージありがとうございます。みんな、同じことを思っているのでしょうね。でも、もう一つ、ビデオカメラが普及し、今のようなハイビジョンが普及するのが、もっと早ければ、蒸気機関車も撮影出来たのにって思うのですが、ビデオカメラが普及する技術が進歩する時代には、並行して鉄道も進歩してしまい、やっぱ、撮影出来ないで終わってしまうのかもしれませんね。
5:05この時代にこのモードラ音はなかなかですね。機材代かかります
モードラ音?
久しぶりにコメントします。1984年だと国鉄時代ですが、接近放送も、国鉄時代って感じがしますネ。それとDD51牽引の旧型客車の普通列車や、キハ80系の気動車とか色々ありますネ。旧型客車は、ドアがない車両もあったんですネ。
メッセージありがとうございます。ドアーがない・・・・のではなく、開いたままなので、ドアーが見えないのです。旧型客車は、手動ドアーなので、当時は、お客がドアーを閉めるなんて事は、あまりと言うより、全くしなかったのです。当時は、大まかに言うと普通列車は旧型客車(一部気動車もあった)急行は、キハ28・58系特急は、キハ82型もしくは181系でした。
この時代の映像が1番良いですね。国鉄の匂いがしますね(笑)
この時代・・・今のようなスマートフォンで4k動画が撮れる時代と違って、VHSのテープと、肩乗せタイプのカメラを使っての撮影でした。それで、この画質の悪さ!今は凄い時代になりましたね。このような車輛と引き換えに。
この鉄橋の下に喫茶店あったな🤭諸寄は居組の隣でよく釣りしてました🎵
喫茶店が有ったのですか?私は、列車ばかりを撮影してて、全然気が付きませんでした。
@@HobbyVideos 確かドライブイン的な☕名前も「鉄橋」か「余部」だったような🎵81系がめちゃくちゃ好きではまかぜにはよく乗りました🚞
そう言えば昔餘部の旧鉄橋の頃に行った時に駅と反対側の山の中に桜の木があったんだけど、まだ花咲かせているのかな?
私も、最近の餘部駅には行ってませんが、桜の木が残っているかどうかと言う事ですね。
@@HobbyVideos ええそうです。鉄橋の駅と逆側のトンネルの少し南側(海とは逆側)に桜の木があったのですが、ふとそれを思い出しました。鉄橋の真下の食堂といい、ここは結構思い出があったりします。
08:39、出発時の汽笛、最後尾付近、又は車掌に対して動き出す合図のように感じるのは私だけでしょうか?
そうですね、この出発時の汽笛、騒音問題で鳴らさずに発車するようになったとか聞きました。でも、それを言うならイベントのSLの列車なんか、うるさいくらい汽笛ならして、それこそ騒音問題だと思います。
余部制限速度無かったんですか!?
メッセージありがとうございます。通常時は、無かったのではないかと思います。風が強くなると、徐行運転をしていました。
余部鉄橋を渡る出雲乗りたかったです。
メッセージありがとうございます。私は、寝台特急はほとんど乗ったことが無いのですが、旧型客車では、余部鉄橋を渡ったことがあります。
寝台特急 出雲が毎日2往復していた時代。。1、3号に乗車する度、東京から餘部橋梁まで頑張って起きていましたねぇ。。強風の夜は餘部橋梁の上で徐行、停車してしまう事もありました。眼下には民家の光が観え怖かった。。山陰本線は現在でも一番好きな路線です。全線電化して欲しい一方して欲しくない様な気も。。笑
メッセージありがとうございます。鉄橋で停車してしまうこともあったのですか?でも、起きているなんて根性ですね。今は、道路が発達して、昔の山陰本線の時代は終わったような気がします。このまま電化しても、しょせんスピードは遅いままだし、いっそ新幹線とまでは行かなくても、新しい高速で走れる鉄道を敷きなおさないと、鉄道よりも速くて便利なバスなどに、観光客は取られてしまうのではないかと思います。せめて、鉄道は、自動車で移動する時間の半分以下で移動できないと誰も利用しない時代が来るような気がします。
国鉄時代の鉄道ファン 返信ありがとうございます。列車落下事故の後から強風時の余部橋梁上の運行は大変慎重になりました。。先日は山陽貨物山陰本線迂回ルートの撮影に赴きました。山陰本線は昔の情緒を遺して現在の鉄道にない古き良き趣を保っている方が良いとさえ想う程に美しい撮影ポイントが少なくないですね。。
山陰本線のどの辺に行かれたのか分かりませんが、海沿いを走る所などは、良い撮影ポイントですね。私も、旧型客車や、80系のまつかぜが走っていた当時は、良く行きましたが、それ以来もう全く行っていません。また、いつか行きたいと思います。新しい餘部橋梁も見てみたいしね。
国鉄時代の鉄道ファン 返信ありがとうございます。山陰本線で一番好きなのは島根県内の羽根ー久手間の海岸線をバックにした山側からの撮影ポイントですね。生まれ故郷です。。はまかぜ、いそかぜ、まつかぜ、おき。。ディーゼル車も懐かしいですねぇ。。昭和時代の山陰本線沿線の情景は心の宝です。UPありがとうございます。。
メッセージありがとうございます。島根県は、私はあまり行った事がないのですが、海沿いを走る線路がありましたね。学生時代ににユースホステルを使って旅行をした時に、その辺を通りました。DF50牽引の旧型客車で。
1910-15年ごろの33万円は現在の感覚で(換算方法によって差が出るが)40億円-60億円といったところでしょうか。
メッセージありがとうございます。いや~~~~~かいもく検討も付きません。だいたい、それ位になるのでしょうかね。新しい余部橋梁がいくらで作られたのかな?ってとこですね。まあ、作り方も違うけど。
昼行でも大阪発出雲市行なんて長距離列車があったんですか…
メッセージありがとうございます。もちろん。京都発でもありましたよ。それも旧型客車でね。
険しい地形を縫って頑張りますね
日本の地形は山岳地帯が多いので、このようになるのでしょうね。
餘部去年行きました。新しい駅ホ-ムですけど、やっぱ昔の餘部駅のほうが情緒あふれてていいですね 山陰線もキハ181や58系復活してほしいですね。いまの山陰線の車両魅力ない 後旧型客車とDD51復活
メッセージありがとうございます去年行かれたのですね。まあ、国鉄から民間企業になると、やはり利益を出さないといけないので、そうも言っておられないのでしょうね。キハ181やキハ58は、国鉄時代の車両で、燃費とか、経費がどれだけかかるとか、あまり気にしないで作られたのではないかと思います。それに対して、今のJRの車両はそれなりに、経費節減の設計になっているのではないかと思います。鉄ちゃんとしては、魅力なくなってしまったのかもしれませんが、普通の旅行者は、これでも良いのかもしれませんね。
旧客の乗降扉は、手動でしたね。今では、考えられない!
メッセージありがとうございますそうなんです。それが、当時は当たり前だったのです。
日本国有鉄道山陰本線
でした。
自分が生まれる遥か前の地元の風景を見れるので嬉しい
そうですか。今は変わってしまいましたね。
国鉄時代の車輌は、色彩共々風格がありましたね!
前の余部鉄橋も、駅に登る坂道の途中で見上げると、すごい迫力があました。
ほんと懐かしいばかりです。
映像ありがとうございます。
風格・・・・ですか!
今は、風格が無いのかな?まあ、特急も昔のように長編成でなくなって、長距離でもなくなってその辺も、風格が無くなった1つの要因かも知れませんね。
旧客の無線でのやりとり、荷物車、長大編成、イラストなしの列車愛称表示。昭和の国鉄。脳裏に焼き付いています。
そんな時代を記録したくて、山陰へよく行ったものでした。
当時の 出雲は たしか 紀伊と連結して
京都駅で 切り離しを していたような…
14系寝台でしたよね?。。
だいせんも たしか キハ58と
20系ブルートレインの 両方で
運転されていたと 思いますけど…
いずれも 懐かしさが あります。。
紀伊は、名古屋で切り離しかもしれません。
だいせんの20系、私の時代は、旧型客車の時代でした。(私も年撮ったな!ボソ)
No1.No2とも拝聴させて頂きました。素晴らしい動画をありがとうございました。学生だった1980年頃の夏に、餘部ユースホステルに宿泊した思い出があります。汽車賃を惜しんで、浜坂から城崎までバックパックを担いでの徒歩旅でした。途中、柴山か佐津の駅舎の木製ベンチで野宿したのですが、電球に集まってくる蛾の群れに一睡もできずでした。こんな笑い話も30数年前の思い出となりました。城崎からは鈍行で大阪まで帰ったのが、旧型客車に乗った最後だったように思います。
+minori iwata さん メッセージありがとうございます。
いや~みんな青春時代を楽しんでいたようで、私はもう社会人でほんのわずかなお休みで、この映像を撮影したくらいなのです。
でも、この時、余部ユースホステルに宿泊した時は、鉄ちゃんも一杯で鉄道談議に花が咲きほんとに楽しい一時でした。旧型客車って、なんか年配の人が似あう乗り物のように思いますが、こういう若者が乗っていると言うのも、新鮮でいいですね。
キハ80系の長編成急行に、DD51牽引の旧客。。堪能させて頂きました(^^)
山陰線や福知山線旧線で何度か乗れたのは幸いでした。
仕事だし、当時は当たり前のように利用してましたが、
いま思えばもっと写真に残しておけぱ良かったなあ。。
そうですね。仕事だとスーツ着てたりして、何か鉄ちゃんをやりにくいですね。
この時代のビデオは画質も悪いのですが、今の最新の編集ソフトではもう少し画質を改善出来るかも知れないですね。
でも、ノイズが増えたり逆効果もありますけど。
DD51の初期車もまだこの頃は健在だったようですね。この数年後にはJRに継承されず、旧型客車と共に各地のヤードの片隅に放置されていたのを痛々しく思いまいた。2006年1月に廃止前の「出雲」に乗り、この餘部鉄橋を渡りました。鉄橋の付け替えの噂が出始めた頃で、その年の3月ダイヤ改正で「出雲」も廃止ということで無理して乗ったのを思い出します。
+matudaira katunari さん メッセージありがとうございます。
出雲に乗られたと言う事で、羨ましいです。
私は、昔、京都から夜行の旧型客車の普通の出雲市行きに乗ったことがあります。出雲は、早朝に余部を通過するので、あまり撮影していませんでした。
通過時間には、余部にたどり着いていたのでしょうけど、車の中でひと眠りしていて、撮影を逃してしまったりしています。
まあ、本当に少ししか撮影していないのが悔やまれます。
+国鉄時代の鉄道ファンさん 餘部駅で降りておけばよかったと後悔しています。山陰本線って旧客が似合いますね。良く見ると窓はアルミ改造もしていないし本当に良いと思います。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。
私も、そんな後悔をどれだけしたことか、分かりません。
今はちょっと先を急いでいるので、今度ゆっくり来よう!と思い、いつしか年月が経ってしまい、もうあの当時の風景や列車は見ることができない。
そんな事、いっぱいあります。
そんなわけで余部は、旧型客車が走っていると言う事で、必死になって記録しに行きました。でも、私がこんなに余部を含め、ところどころビデオに撮影したのは、やはり、当時高価だったビデオカメラを買ったから、こんなに撮影に行ったのかも知れませんね。
No.1の動画に続きコメントをさせていただきました。ここ2年ほど、香住のほうの親戚(うちの祖母の妹=大叔母夫婦)も大叔母のほうが80過ぎ、義大叔父が大方100歳近くになり、またうちの祖母のほうも先日90歳になったので、なるべく頻繁にうちの祖母を連れ、香住のほうへ行くようにしているのですが、香住に来たついで、浜坂へ行くついでにこの餘部のほうを通ると・・・コンクリート橋に改修されて以来、だいぶん駅のほうも、また集落のほうも変わりましたねぇ。地元の方々のことを思うと、あの事故以来、コンクリート橋にせざるを得なかったのは仕方がないとも思うのですが、私のようなただただ郷愁と子どもの頃を懐かしむよそ者からすると、やっぱり鉄橋がなくなったのは非常に残念で。。。道路事情のほうも、佐津~香住~餘部へ抜ける高規格道路もできてますし、今度はそれが餘部~浜坂~鳥取へ抜ける道路へと工事されていますし、便利は便利になるんでしょうけど、そのぶん、それに取り残された集落ではいっそ過疎化してしまうところもあるんじゃないかなと思ってもみたりしています。餘部駅のほうも、今じゃその価値すらなくなったコンクリート橋の下に鉄橋のきれっぱし(!?)が置かれていますし、道の駅ができたりしてシーズン中は賑やかだったりしますが、もはや餘部が餘部たる価値がなくなったような・・・通り一辺倒のごくごくありふれた集落にすぎなくなりましたね。厳しい言い方ですが、この餘部鉄橋に魅力を感じ、『まつかぜ』や『出雲』、『急行』や『旧客』が走っていた最高の時代を見てた私たちにとっては、今の餘部は・・・あまりに切なく残念な風景としか言いようがないですねぇ。。。
メッセージありがとうございます。
道路は、どんどん良くなっていき、鉄道はさびれていく。
そんな感じですか?
いや、コンクリート橋になって鉄道もそれなりに良くなっていく反面、旅情が失われて行くって言う感じかな?
私の友達で大阪の人なんですが、近鉄沿線で生まれ育って近鉄の線路しか見ていなかった人が、大人になって国鉄の線路を見て
「何これ!」
「こんなん危ないやん!」
と言う疑問を抱き、なんで国鉄は狭軌なのかと言う事に色々と調べた友達がいるのです。昔、大隈重信がイギリスに鉄道を買いに行った時に標準軌の鉄道は高価で買えなくて、狭軌の鉄道を買って帰ったと言うそうなんです。
この当時、イギリスには標準軌の鉄道で130km/hの出せるSLが有ったそうで、もし、それを買って帰って帰っていたなら、明治時代の鉄道が開業した当時から130km/hで走る線路を敷き、それを全国に広げて行ったなら、技術も進歩するにしたがって、在来線でも200km/hを出せる鉄道が全国に広がっていたのではないかと言うのです。
そうしたら、もっと日本の鉄道事情はもっともっと変わっていたと思うし、一般道を走る車より鉄道の方が遅いなんてありえなかったのではないかと思います。
中途半端にあちこちリニューアルして余部鉄橋をコンクリート橋にするだけでなく、根本的な所から奥羽本線のように標準軌にして、車に負けない鉄道にしないと、やがては、旅情もなく、便利さも無く、廃線に追い込まれてしまうのではないでしょうか。
北海道の鉄道網の廃止が、それを物語っているのではないかと思います。
ご返信いただきありがとうございます。(餘部の)集落のど真ん中を高速道のような高規格道路が横切っているわけではないので、集落そのものが大きく変貌したって感じはないのですが、仰る通りの感じですねー。道路はどんどん良くなっていきつつ、鉄道はさびれていく、本当にそんな感じです。それでもまだ『鉄橋』であれば雰囲気のある町を保つことはできたんでしょうけど、あの風景にコンクリート橋は。。。実際に見ると、寂しく感じられると思います。追伸)どうしてなのかわからないんですが、改行ができなくて・・・スミマセン
メッセージありがとうございます。
私も、TH-camでしか、見た事がないのですが、トンネルにSカーブをして入っているのですが、あれは、後々横に新しいトンネルを作る予定みたいですね。鉄道も、線路を新しくするだけでなく、もっと高速運転できる線路にして、やっぱり鉄道の方が良いな!って言う乗って価値ある鉄道にならないとだめですね。
貴重な動画拝見させて頂きました。私自身95年の生まれなのでこの時代の鉄道を見たこともありませんが、気動車の長大編成や客レには心惹かれるものがあります。最新鋭のキハ189もいいですが国鉄車の貫禄があるキハ181もかっこいいですね!
客レは模型で再現しようかなぁ
+Okazawa Syota さん メッセージありがとうございます。
お若い事っていいですね。
なんだか、もう世代交代って言う時代で、私も最近の車両は、良く分からないのです。
また、模型もされるのですね。
模型の世界では、もう走っていない時代をいくらでも再現できますから、良いですね。
私も、80分の1の13mmゲージの模型を作っています。
今の車両は、中々模型で作るのが面倒で、やっぱり国鉄時代の車両が良いですね。
この頃は、採算度外視のカッコいい長編成の車両が多かった。JR後は、特急すら、短編成になり、みすぼらしい。
まあね!国鉄は親方日の丸と言われてて、採算なんかどうでも良かったので、累積赤字がたまって、分割民営化になったのです。さすがに、私鉄になるとそうは言ってられないですね。
この当時、近鉄などの名阪ノンストップ特急は2両でしたからね。
ご無沙汰しております。
まだまだ未公開の貴重な映像をお持ちのようですね。懐かしく拝見しました。
諸寄ユースに宿泊されたとのことですが、確か諸寄ユースのご主人は当時国鉄職員の方ではなかったかと記憶していますが記憶違いだったかな?すぐ隣に浜坂ユースもあり、こちらは地元の熱意で出来上がったユースと聞きます。どちらも素晴らしいユースでした。実に懐かしい。今は無き余部ユースにも泊まられたようですね。
この辺りの海岸線の景色は、早春には自生の水仙が咲き乱れ、春は桜、海は(東京近辺とは違い)澄んでいて綺麗な青色。どのアングルで切り取るべきか実に迷うところではなかったかともお察しします。拝見していてまったく飽きないです(笑)
+大塚克己 さん メッセージありがとうございます。ご無沙汰していましたね。
諸寄ユースホステルは、高校のユース活動の団体で行ったので、あまり鉄ちゃんをしていませんでしたので、ご主人の方の事は良くわかりませんが、春でも早春だったので、旅行中雪になりました。そんな懐かしい思いがあって、この諸寄に行ってみたのです。高校当時はDF50牽引の客車だったのです。
また、未公開の映像があるのですが、いったいいつ写したのか、列車番号がさっぱり分からなかったりと、苦戦しています。出来るだけ、詳しい情報を公開しようと心掛けているのですが、どうしようもないですね。でも、全部私がすぬまでに、公開できるか心配になってきました。(笑)
この前、初めて かがやき に乗りました。私の別のチャンネルで「Japanese rail sound」と言うチャンネルに車窓風景や、前面展望や、音のみをアップしていますが、そこにかがやきの車窓風景をアップしました。座席に座っていたら、防音壁でほとんど見えないので、富山から大宮くらいまで、ずっとデッキに立って撮影していました。指定かったのに(笑)こちらにも、少しアップしたりしていますので、よろしくお願いします。
この頃、ローカル線や旧型客車の廃止が本格化していきました、せめて数年早く生まれていれば・・・と思ったものです
+o kz さん メッセージありがとうございます。
みんな、同じことを思っているのでしょうね。
でも、もう一つ、ビデオカメラが普及し、今のようなハイビジョンが普及するのが、もっと早ければ、蒸気機関車も撮影出来たのにって思うのですが、ビデオカメラが普及する技術が進歩する時代には、並行して鉄道も進歩してしまい、やっぱ、撮影出来ないで終わってしまうのかもしれませんね。
5:05この時代にこのモードラ音はなかなかですね。機材代かかります
モードラ音?
久しぶりにコメントします。1984年だと国鉄時代ですが、接近放送も、国鉄時代って感じがしますネ。
それとDD51牽引の旧型客車の普通列車や、キハ80系の気動車とか色々ありますネ。旧型客車は、ドアがない車両もあったんですネ。
メッセージありがとうございます。
ドアーがない・・・・のではなく、開いたままなので、ドアーが見えないのです。
旧型客車は、手動ドアーなので、当時は、お客がドアーを閉めるなんて事は、あまりと言うより、全くしなかったのです。
当時は、大まかに言うと
普通列車は旧型客車(一部気動車もあった)
急行は、キハ28・58系
特急は、キハ82型もしくは181系でした。
この時代の映像が1番良いですね。国鉄の匂いがしますね(笑)
この時代・・・今のようなスマートフォンで4k動画が撮れる時代と違って、VHSのテープと、肩乗せタイプのカメラを使っての撮影でした。
それで、この画質の悪さ!
今は凄い時代になりましたね。
このような車輛と引き換えに。
この鉄橋の下に喫茶店あったな🤭諸寄は居組の隣でよく釣りしてました🎵
喫茶店が有ったのですか?
私は、列車ばかりを撮影してて、全然気が付きませんでした。
@@HobbyVideos 確かドライブイン的な☕名前も「鉄橋」か「余部」だったような🎵81系がめちゃくちゃ好きではまかぜにはよく乗りました🚞
そう言えば昔餘部の旧鉄橋の頃に行った時に駅と反対側の山の中に桜の木があったんだけど、まだ花咲かせているのかな?
私も、最近の餘部駅には行ってませんが、桜の木が残っているかどうかと言う事ですね。
@@HobbyVideos
ええそうです。
鉄橋の駅と逆側のトンネルの少し南側(海とは逆側)に桜の木があったのですが、ふとそれを思い出しました。
鉄橋の真下の食堂といい、ここは結構思い出があったりします。
08:39、出発時の汽笛、最後尾付近、又は車掌に対して動き出す合図のように感じるのは私だけでしょうか?
そうですね、この出発時の汽笛、騒音問題で鳴らさずに発車するようになったとか聞きました。
でも、それを言うならイベントのSLの列車なんか、うるさいくらい汽笛ならして、それこそ騒音問題だと思います。
余部制限速度無かったんですか!?
メッセージありがとうございます。
通常時は、無かったのではないかと思います。
風が強くなると、徐行運転をしていました。
余部鉄橋を渡る出雲乗りたかったです。
メッセージありがとうございます。
私は、寝台特急はほとんど乗ったことが無いのですが、旧型客車では、余部鉄橋を渡ったことがあります。
寝台特急 出雲が毎日2往復していた時代。。1、3号に乗車する度、東京から餘部橋梁まで頑張って起きていましたねぇ。。強風の夜は餘部橋梁の上で徐行、停車してしまう事もありました。眼下には民家の光が観え怖かった。。山陰本線は現在でも一番好きな路線です。全線電化して欲しい一方して欲しくない様な気も。。笑
メッセージありがとうございます。
鉄橋で停車してしまうこともあったのですか?
でも、起きているなんて根性ですね。
今は、道路が発達して、昔の山陰本線の時代は終わったような気がします。
このまま電化しても、しょせんスピードは遅いままだし、いっそ新幹線とまでは行かなくても、新しい高速で走れる鉄道を敷きなおさないと、鉄道よりも速くて便利なバスなどに、観光客は取られてしまうのではないかと思います。
せめて、鉄道は、自動車で移動する時間の半分以下で移動できないと誰も利用しない時代が来るような気がします。
国鉄時代の鉄道ファン 返信ありがとうございます。列車落下事故の後から強風時の余部橋梁上の運行は大変慎重になりました。。先日は山陽貨物山陰本線迂回ルートの撮影に赴きました。山陰本線は昔の情緒を遺して現在の鉄道にない古き良き趣を保っている方が良いとさえ想う程に美しい撮影ポイントが少なくないですね。。
山陰本線のどの辺に行かれたのか分かりませんが、海沿いを走る所などは、良い撮影ポイントですね。
私も、旧型客車や、80系のまつかぜが走っていた当時は、良く行きましたが、それ以来もう全く行っていません。
また、いつか行きたいと思います。新しい餘部橋梁も見てみたいしね。
国鉄時代の鉄道ファン 返信ありがとうございます。山陰本線で一番好きなのは島根県内の羽根ー久手間の海岸線をバックにした山側からの撮影ポイントですね。生まれ故郷です。。はまかぜ、いそかぜ、まつかぜ、おき。。ディーゼル車も懐かしいですねぇ。。昭和時代の山陰本線沿線の情景は心の宝です。UPありがとうございます。。
メッセージありがとうございます。
島根県は、私はあまり行った事がないのですが、海沿いを走る線路がありましたね。
学生時代ににユースホステルを使って旅行をした時に、その辺を通りました。DF50牽引の旧型客車で。
1910-15年ごろの33万円は現在の感覚で(換算方法によって差が出るが)40億円-60億円といったところでしょうか。
メッセージありがとうございます。
いや~~~~~かいもく検討も付きません。だいたい、それ位になるのでしょうかね。
新しい余部橋梁がいくらで作られたのかな?ってとこですね。まあ、作り方も違うけど。
昼行でも大阪発出雲市行なんて長距離列車があったんですか…
メッセージありがとうございます。
もちろん。京都発でもありましたよ。それも旧型客車でね。
険しい地形を縫って頑張りますね
日本の地形は山岳地帯が多いので、このようになるのでしょうね。
餘部去年行きました。新しい駅ホ-ムですけど、やっぱ昔の餘部駅のほうが情緒あふれてていいですね 山陰線もキハ181や58系復活してほしいですね。いまの山陰線の車両魅力ない 後旧型客車とDD51復活
メッセージありがとうございます
去年行かれたのですね。
まあ、国鉄から民間企業になると、やはり利益を出さないといけないので、そうも言っておられないのでしょうね。
キハ181やキハ58は、国鉄時代の車両で、燃費とか、経費がどれだけかかるとか、あまり気にしないで作られたのではないかと思います。
それに対して、今のJRの車両はそれなりに、経費節減の設計になっているのではないかと思います。
鉄ちゃんとしては、魅力なくなってしまったのかもしれませんが、普通の旅行者は、これでも良いのかもしれませんね。
旧客の乗降扉は、手動でしたね。
今では、考えられない!
メッセージありがとうございます
そうなんです。
それが、当時は当たり前だったのです。
日本国有鉄道山陰本線
でした。