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父も陸士50期、徳島県で2人の合格者の一人になり、市ヶ谷で二年弱過ごしましたが、集団生活で結核になり、退学しました。大正5年生まれは大変苦労したようです。父が早死にし、私も大変苦労しましたが、なんとか生きています。日本も道を誤らないことを願っています。
きっと貴方も優秀なんでしょうね。DNAってやつで。
もう日本は80年間、敗戦してから道を間違え続けています。
@@高橋兆治マジレスでごめんけど,勉強の能力は遺伝しないぞ
確実にするよ。割合は40%以上。あんたの年齢は知らんが自分の学生時代を思い出してみたら?いたろ。そういう親ガチャ成功組が😂
@@user-imymemineいや、するって結論出てるんだけど…
昔はいくら頭がよくても親が貧乏だと上の学校へは行けなかったらしい。陸軍士官学校なら行けたので、そのために難関校だった。学士様は金持ちの息子、士官学校卒は本物の秀才。
教員を養成していた師範学校も学費無料で進学できましたね師範学校で優秀な者は同じく学費無料の高等師範学校に進学可能で、高等師範学校まで進学するとそのまま帝国大学に編入も可能だったようですなので戦前は小学校⇒旧制中学⇒師範学校⇒高等師範学校⇒帝国大学編入というルートが学費を支払わずに学士を取得可能な進路だったようです
これを高校1〜2年で受けると考えたらすげーわ予備校的な学校があったとはいえ、
伯父上も陸軍士官学校を出て軍人になった事からも、貴重な配信を拝めた。兵種は歩兵を選んでいたと親父から聞いた事がある。
父親は陸軍士官学校卒、でした。皇居で天皇をお守りしていたと聞きました。戦後は数学で苦戦してると、方程式等教えてくれました。その時は、何で出来るんだろ?と、不思議でしたが、年老いても勉強熱心で本と日記読み書きは生涯の宝物でした。動画を見て、解りました。有り難う御座いました。
いま現代の人が見れば、多少簡単に思えるのは、私達が教育をしっかり学べてるからです。当時の識字率や教育水準は低かったので、そもそもの話になります。先人に感謝ですね。
識字率は幕末で90%行ってなかったっけ?今が99%だからそんなに変わらないと思うけど
@@MarceRonald712 さすがに90%はないと思うよ。
@@せんすいかん 正確な数字を見た訳じゃないけど、以前立ち読みした斉藤孝さんの本に書いてあったんよな日本が近代化できた要因は幕末時点の識字率の高さだ言うて
昭和2年の1円の価値についてお詳しい方がいたらコメントください。その他のご意見やご指摘もお待ちします。ちなみに、本文では近代文語文のことを含めて「古文」と言っていますが、厳密には古文(近世までの文章)と近代文語文は異なりますのでご注意ください。
1927年(昭和2年)の物価指数は1.0992019年(令和元年)の698.8と比べると約636倍なので昭和2年の一円の価値は今の大体698ぐらいですね。動画中の約630という言及で相違ないと思います
物価指数だとイマイチ皮膚感覚的につかめないので、実際の物価例を調べてみた。昭和2年のものがないので、大正14年のものを調べた。(算式:現在値段/大正14年値段=大正14年1円あたりの現在値段)①平均給与年収・・・大正14年741円、令和3年443万円・・・5,978円②大卒初任給・・・大正14年50円、令和4年22万円・・・4,400円③官製はがき・・・大正14年1銭5厘、令和5年63円・・・4,200円④都バス初乗り・・・大正14年7銭、令和5年(都多摩地区)180円・・・2,571円⑤日本そば・・・大正14年10銭、令和5年(富士そば)かけそば390円・・・3,900円⑥カレーライス・・・大正14年15銭、令和5年(ココイチ)ポークカレー591円・・・3,940円⑦米(小売り5kg)・・・大正14年1円60銭、令和5年新米こしひかり3,000円・・・1,875円(①~⑦合計)÷7=平均3,837円たぶん、昭和2年あたりの1円つうのは現在価値で4,000円くらいではないかと思われる。1:23陸軍士官学校の月給4円50銭は、現在の価値で言うと4.5×4,000円=18,000円程度かと思われる。安い感じはするが、寮生活で衣食住すべて支給、その他病院から何から何まで全部支給で税金も免除なら18,000円もらったとしても、ほぼ手つかずで残るんちゃう?笑。使うとしたら酒代かエロ本代くれえだろ笑。
@@コロッセオ友蔵大日本帝国こと明治政府〜今の日本政府に至るまで自国通貨建て国債をずーっと発行し続けてるからそりゃ物価は上がるし国民の賃金も上がる
陸軍士官学校や海軍兵学校の生徒はそれはそれはモテモテだったそう。帝大は勉強だけ出来れば入れるけど上記の学校はそれだけでは入れず運動神経も必要だから。という話をあるおばあさんから昔、聞きました。
対策本はこの当時からあったみたいで、しかも内容が親切。対策本以外では、数研出版の源流の予備校は大正時代末期には設立されていて、チャート式は昭和4年が最初らしい。そのスタイル自体は今とあまり変わらない。(笑い)
問題自体は高く見積もっても現代の大学入試の偏差値だと国立で60.0もあれば余裕で解けそうな感じですが、理系科目も文系科目も全部そのレベルとなると難しそうですね
競争率がえぐいので、ミスはゆるされませんね。
今みたいにノウハウが知れ渡ってる時代じゃないから、効率の悪い読みにくい参考書使ってそのレベルに持っていくハードルは今とは比較にならないと思う。
現代みたいに参考書もないし、そもそも受験業界自体が発達してないから現代の偏差値60って当時の上位0.1%くらいになりそうだがな
@@hulegaut123いや、偏差値はレベルによって50が変わるから60も全然いるよ
現代入試の偏差値に見積もる意味が分からん。
昭和初期の場合、入学難易度は第一高等学校(一高)、海軍兵学校、第三高等学校(三高)が上位3校で、陸軍士官学校はその次に位置するくらいの難易度だったそうです。ただし陸士海兵は身体検査が厳しかったので、学力面以外での難しさはあったと思います。
陸士・陸大、海兵・海大出身でも、一高・東大には一目も二目も置いていたそうです。東条英機が総理大臣として東大で講演したときも、登壇前は緊張で顔が真っ青だったそうです。
父は陸士55期。希望は第三高等学校だったそうですが、当時陸士の試験日程が早かったとの事。陸士合格後は家が寺だったのでお金の工面を親にさせるのが申し訳ないと陸士に進学したそうです。当時は家庭の負担を考えて陸士や海兵に進んだ秀才が多かったのだと思います。1976年頃、同大経済懇談会なる組織が陸士、陸幼出身者で構成されて居ました。名簿を覗いて驚いたのは、当時の事務次官の6割から7割を占めていたのと、上場企業の社長、役員に名を多く連ねて居た事です。卒業生達は戦後の復興に大きな役割を果たしたのだと思います。
結局その年代の方々が社会の一線から退いた80年代後半から坂道を転がり落ちるように日本は駄目になっていきました
私の亡き父も55期。田舎で家庭に色々課題があり、経済的に厳しかったので親から軍隊の学校行けと言われたとか。幼年学校は当時、軍縮で東京しかなく少数でダメで中学から陸士入った。 中学は2番で入ったが少し気を抜き20番まで下がったが、中学五年になって取り戻した。入試問題の傾向、特に数学を研究して合格したとか言っていました。田舎なのに結構学歴に関心ある土地柄だったらしく旧制高校や旧帝大の話をよくしていました。 入試は中学三年からが勝負、特に数学が大事 などと自分の経験を言っていたもので、私は一流半私立から国立目指し成績伸びたので東大受けたがダメで早稲田。しかし、思うところあって東大再受験し合格しました。大学ではまだ旧制高校での教授がいてある人気教授は、東京では一高、海兵の次が陸士で浦和、静岡、水戸高校だったと言っていました。(その教授は水戸高校から東大経済) 父も海兵は難しかったが、終戦間近は海軍は軍艦沈められて陸戦隊になり海兵は大幅募集。制服も変わり陸士の方が難しくなったと言っていました。 父はあまり勉強しなかったので朝鮮の部隊に行き、その後陸軍が作った潜水艇部隊(まるゆ部隊)の部隊長(艇長)になったとか。広島沖の島にいて原爆救援隊に一番で入り、女学生や中学生の悲惨な状況を見たとか言っていました。(戦後、後遺症ないか心配したらしい。) 大尉でやめて公職追放。郷里に戻っていたが、縁あってとある寺に養子に入り役所勤めしながら住職をしていました。確か端午会?なる55期の同窓会誌がよく送られてきていましたが、戦後はあまり交流を避けていました。ただ時々親しい陸士の友達が訪れたり、どこで聞いたか、陸士から一高、東大で自治省の人が選挙出るので応援頼むと陸士の会の人達が候補者と一緒にきたりしていました。 父の後の人は若いので旧制高校行きなおした人が多かったらしいが、父の同期はもう年行っているので色々な選択があったらしいです。(京大行きなおしたり、自衛隊など) なお、私は某鉄道会社に入ったが、入社時はまだ陸士、海兵、陸大出の幹部(部長や関係会社社長)がいました。聞くところによると、皆公職追放で困って就職したらしいです。会社では身分、資格扱いに困ったものの、結構官僚的な古い会社だったので、社長?の方針で皆、学卒(キャリア)扱いにしたとか聞きました。
元役当時の古い上司に陸軍士官学校在籍者がおられましたが、陸軍幼年学校から進まれた方でした。60期ですが当人曰く、相当難関校で身体検査(性病検査含む)、学科試験、その他(素行調査等)をクリアして合格となったそうです。陸士は二人おられ、海兵75期の方もおられましが、共にお話をさせて頂いた事かあります。現在の旧帝大・国立・有名私大は学力検査だけだが反対検査もあり難易度は、現在より難しいとの評もされておられました。海兵75 期の上司(戦後、国立大へ)は尊敬していました。学科だけではない所が難易度に拍車をかけています。田舎では戦後、結婚相手(奥様)・縁談も釣書(身上申し立て書)に誇りをもって書かれていたようです。昭和50年代までの地方は、お互いの家格・経済力・学歴~~お見合い結婚が多い時代です。今は自由恋愛の自由結婚と良い時代になりましたね。
恋愛結婚が主流となった結果、若者は結婚できなくなりました。結婚するカップルが少ないということは子どもが生まれにくくなります。人口が減れば、モノを作っても買ってくれる人がいないということです。そして不景気になる。不景気になって将来が不安になればますます結婚したいというカップルが減る。この悪循環に陥ってるのが現在の日本ではないでしょうか。
まさに文武両道。どちらかだけでは行けない。これが本当の難関入学試験ですね。
貴重な動画ありがとうございます。父は広島幼年学校から陸軍士官学校へ。市ヶ谷とか言ってかな。57期生で終戦。生前は同窓会誌の星の生徒が届いていました。飲むと、太平洋の波のうえ-のぼる朝日に照らされてと歌っていました😂。後は、当時の校長が、牛島満で九州出身と言うことで、沖縄の司令長官に任命され米軍上陸後、自決した等と言っていました。
貴方様のお父様も士官学校ですか、なんか、親近感、が有ります。きっと、立派な方だったでしよう。コメントありがとう。
1920年代後期の大卒の初任給が50~70円くらいだったから給与ベースでは当時の一円は現在の3000~4000円くらいでは?3:40 漢文の題材が三国志演義か…
前に岐阜県高山市にある資料館(高山陣屋)で大正時代くらいの「数学の教科書」があった。結構難しかった。
海軍関係者は海兵が~、陸軍関係者は陸士が~、戦後も生き残った官僚組織の関係者は一高が~とそれぞれ言いがちです。しかし陸軍は幼年学校で青田刈りしていて、陸幼からの陸士60期だった人から聞いた話では京都大学に半数が進学していた旧制中学から陸幼に3名しか合格しなかったとのこと。その人には海兵も陸士も東大もちょっと見下している雰囲気がありましたね。それでも当時の軍部のステータスからすると、陸士は現代の防衛大学校よりは数ランクは上の難易度だったことでしょう。
難易度以前に国民のほとんどが小卒、中卒とかの時代だからね
叔父から聞いたことですが、昭和10年前後の陸軍士官学校の難易度は一高以上だったそうです(体力テストも含めての話だと思います)。旧制中学の学力トップクラスが陸士に合格したということを聞いた覚えがあるので、この動画のニュアンスと少し違うと思いました。
みんな言いたいことを言ってるだけですよ‼️今も昔も変わりませんね😂
軍学校は戦場の指揮官を養成する場所なので、軍人家系でもなく、経済的に余裕があれば旧制高校に進む人が多いような気もしますけどね。話がずれるのですが、硫黄島守備で有名な栗林中将は、旧制中学を経て、師の薦めで士官学校に進んだそうです。陸大も2位卒業と優秀ですが、陸軍幼年学校出身ではないために傍流という評を見たことがあります。駐米武官であったのも中学出身で英語に堪能なためらしいですが、ならば、陸軍幼年学校出身者の士官学校入試は、また別ということでしょうかね。
良いですね!
母校が今は中高一貫な進学校ですが、昔は海軍兵学校の予備校的な位置付けの学校でした会議室には卒業生である強面の旧海軍の将軍達の白黒写真が並んでいました似たような旧軍の士官学校に入るための学校なんてものが他にもあったため、意外と今の受験と共通点があったようですよ
海城でしょうか?海城は戦艦の美名と聞き及んでおりますが🤔
海軍兵学校の入試問題もお願いします。
よろしくお願いしますth-cam.com/video/K11EhisD1kI/w-d-xo.html
渡辺錠太郎教育総監は高小卒でしたが以後独力で勉強して陸士入学組でした。一次大戦後の欧州視察後彼の信条は軍隊は強くないといかんが戦争はしてはいけないでした。
片手落ちは差別用語じゃないよ。片手が落ちてんじゃなくて、手落ち(不完全)にさらに強調の片が付いてる言葉。
教育勅語の「一旦緩急あれば・・・」の「緩」に相当する語ですね。
旧日本軍が合理的に賢く戦争を遂行したようには思えず、適材を選抜する入試が適切でなかったのか、その後の育成方法がおかしかったのか、あるいはちゃんとした人材はいることはいたけれど組織として機能不全をおこしてうまく機能しなかったかのどれかか、あるいはその複合ということになるでしょう。
数学のレベルが高く、英語のレベルが低いですね。数学は昭和36年生まれまでの人たちですと回答可能かと思います。
男子の進むべき道3つあり。一高、陸士、海兵なりと言われた難関でした。
陸軍士官学校出身者は超エリート。そして彼らは大日本帝国を滅ぼしました😢
当たり前のことかもしれないけど、この時代の受験生も連立方程式とかやってたんだな
貧乏暇なしの時代に学校に行きながら給料がもらえる、今以上に理にかなったこと学校より働くことが優先(ズバ抜けた能力があってもカネがなくて学校に行けなかった人は数知れず)先生によって教える質と能力の差があったことは事実で試験に出る内容を教えれた先生と、教えられなかった先生が存在してた。
陸軍予科士官学校の間違いじゃない?旧制中学卒業→予科士官学校(2年)→上等兵として兵営に入営→陸軍士官学校入学(階級は軍曹)→見習い士官(階級は曹長)を経て少尉任官だったような気がする。ポイントは短期間でも兵隊生活を経験するところ
私の祖父も陸士出の歩兵大尉で、連隊長副官をしていました。現在の防衛大学校の前身ですね。祖父は男1女4の兄弟で「女の子でも高等女学校以上の教育を目指すべき」との親の方針から、「じゃ男の自分はお金のかからない学校に行く」との理由で受験したそうです。なお参考までに、旧学校制度と現学校制度の対応表をまとめておきます。 尋常小学校(4年間) 今の小学校 高等小学校(2年間) 今の中学校 中 学 校(5年間) 今の高 校⇒以後、横並びで 高等学校・大学予科・師範学校・専門学校 があります。⇒高等学校は帝国大学に進むための存在で、現在の大学と同等です。大学予科は卒業すると大学本科に進みます。師範学校は、現在の大学教育学部。専門学校には医学専門学校・薬学専門学校・高等農林学校・高等工業高校などがあり、それぞれ、現在の大学で医学部・薬学部・農学部・工学部に該当します。⇒補足すると、高等学校から帝国大学に進んだ人は、現在では、2つの大学において卒業者に認定されています。たとえば国語学者の金田一春彦さんは浦和高等学校から東京帝国大学に進んだが、浦和高等学校は現在の埼玉大学。したがって金田一さんは、現在では埼玉大学と東京大学双方のOB名簿に載っていたりします。⇒また高等学校自体も戦後は国立大学に移行しましたが、共通一次より前の大学受験制度~一期・二期といわれた時代~では、やはり「旧高等学校」ということで、旧帝国大学につぐ「準・旧帝国大学」的な格式があります。個人的には金沢大学が思い浮かびます。金沢大学は旧制の第四高等学校なので、たとえば金沢大学の医学部でも卒業していれば、系列として関連病院や傘下大学医学部への出向などに困らないということで、帝国大学医学部卒に準じた道が歩める可能性がありますね。近所でクリニックが開業したときも、出身大学は確認しますしね。
原作漫画ののらくろも、曹長時代士官学校試験を突破して入学したので(猛犬士官学校ですが)このレベルを合格したのでかなり勉強した設定ですね。
曹長といえば中隊では最先任の下士官。連隊でも数人しかいない。サーベルも支給されるし個人の曹長室が与えられる。まさに兵下士官の親方。そこから現役下士官で士官学校に入り、戦勲で早期卒業しました。ある意味、恩賜の銀時計組のエリート。同期のハンブル軍曹も、のらくろには一目も二目も置いていましたね。大字章、日字章、本字章と、多分金鵄勲章、旭日章、瑞宝章にあたる勲章を総なめにして大尉にまで昇進しました。田川水泡さんは少佐まで昇進させたかったようですが、佐官になると現場に出る機会が少なくなるし、時局柄、軍部から野良犬が上長官たる佐官になるのはけしからん、と横やりが入ったとか。
英語くらいしか歯が立たないけど、その英語も現代の大学入試より難しいな。
漢文の三顧の礼の箇所だけ全部わかった、漢文の読解力じゃなくストーリーを知ってるからだから意味ないけど😅
陸軍士官学校卒業成績順で配属出世コースが決まる。どんなに実戦で失敗無能でも配置換え程度で責任を取らされる事もない。参謀本部の連中は前線も実戦も知らず市ヶ谷で地図を広げて部隊を動かした。負けたら,責任を追及されぬよう進駐軍が来る前に本部にあった軍事資料を全て燃やして,口をつぐんで知らんぷり。陸軍士官学校出の連中の殆んどは「責任」という言葉の欠片もない連中である。その代表が辻,牟田口,服部らである。彼が立案した幾多の無謀な作戦で兵士が無駄死にしたか,大平洋各地に派兵された兵士の亡くなった7割は戦闘ではなく、餓死及びマラリア等の伝染病である。重ねて言う陸軍士官学校出の連中の罪は重い
いやその上に陸大あるから陸士卒じゃ中級が限界でそれ以上になるには陸大出ないと無理だぞ。
所詮ケンカひとつしたことない奴らじやないの…。
師範学校のもお願い致します。
五高から九州帝国大学文学部に進んだ自慢のじいちゃん
調べたらすぐわかるようなものを出すのが日本の試験問題。それを追求すると最後はカルト問題に行き着く。欧米のエリート校は調べてもわからない問題を出してくる。
試験期間4日…なにその天下一武道会
現在の国立2次試験でも最長2日…
陸士や海兵の受験に失敗して 浪人して翌年再受験なんていう人もいたのですかねそもそも現役しか受験許されてないのかな?
浪人生専用の予備校もあったみたいですよ。今の海城高校は元々海軍兵学校の受験予備校でした
海軍兵学校の場合は旧制中学4年生から受験可能だったようです。ただ、専検という旧制中学卒業資格試験合格者や旧制中学校卒業後、海軍水兵として4年間勤務後、受験して合格した猛者もいたそうです。
確か成城学園だか成蹊学園も陸軍士官学校の予備校だったはず
@@繁也-h6o 成城・・・陸軍士官学校予備校成蹊・・・三菱財閥と懇意らしい
@@繁也-h6o安倍晋三の母校やんけ
代数幾何は文系でもやるんだからもっと触れて……
学科は出来て当たり前。結核じゃないこと、走れること、健康なこと。早飯早くそ早駆けが軍隊の日常だそうです。
旧開成中学(現在の開成高校)は、元々は陸軍士官学校の予備校みたいな学校だった
違います。共立学校(開成の前身)で検索しましょう。おおむね陸士は成城、海兵は海城、攻玉社、東京高商は高商予備門→商工中学→赤坂中学(現・日大三)が各学校への予備校的存在でした。
東条さんは努力家だったんだ。
数学や理化学の試験はなかったんですかね。いまの防大は大半が理工学系なので時代を感じる。
当然数学、物理、化学の試験は有ったそうです。文系理系の区分けは無かったそうですが、今で言う所の理工学部に近い学問を勉強していた様です。私の父も陸士55期ですが、私の大学受験時期にエンタルピー、エントロピーの概念を確り覚えて居たので驚きました。
貴重な資料を手軽にTH-camで見られるのはありがたい。でもねっ………。陸軍士官学校を紹介する動画で海軍の軍歌「海ゆかば」を流すのはどうかとおもふ
コメ欄にも勘違いしてる人が多いけどここで触れられてる陸士は陸軍高官じゃ高校レベルで、今世間で良くも悪くも個人名が知られてる様な高位軍人はこの上の陸軍大学校(名前どおり大学相当)出てるのが一般的だからな。これ見て大した事無いなって思っていても陸軍高官からすれば高校入学レベルの問題だったりする、因みに陸大出て無い陸士卒の将校の場合そもそも中級程度の身分なので定年後人力車夫になる人まで居るくらい割りと厳しい世界だったりする。
数学に関しても頑張って解説しなよー良い動画なのに勿体無い😂
字幕 入試に日本酒の問題かぁ陸軍なら有りそうやなぁ
難しく無いって言ってる人居るが、今みたいに赤本も無いし一杯参考書もないんだよ。
戦前の日本は学業にも厳しかった…現代の学校はぬるま湯…てのが判る
倍率34倍と書いてるけど、受験しなかったり事前の身体検査で落ちたりしてるから筆記試験の倍率は16.6倍ってところか。
今の入試と比べるのはナンセンスだが理科系だと偏差値50付近(日東駒専や防衛大)辺りの難易度だね当時の人からすれば難問かつ合格点も高かったんだろうけどね...某TH-camrが紹介していた東北帝国大学の積分は激ムズだった帝大理学部は当時から別次元だと感じられるよ...
帝国大は入試の無い学部学科もあるらしいが理学部、工学部は別
旧制中学卒業時の満15歳で受験する学校なので、今の大学入試の問題と難易度を比較するのは・・
戦前の学制だと旧制中学は13歳〜17歳まで通うので、今で言うと高校2年生の年齢で受験するのではないでしょうか?
祖父は近衛兵でした。
ドイツ語フランス語の入試問題を無視するな!!
「片手落ち」は差別用語じゃないよ。配慮が足らず 物事が上手く出来ない事だから 両手でちゃんとやらなきゃいけない作業を 横着して片手でやって失敗しちゃうって例え。
東條英機閣下の出身校、素晴らしい。
英語も難しくない?!解けるかこれ
こんな難関でも牟田口みたいな無能を出してしまうんだから、頭の良さは別なんでしょうね。
牟田口は頭が悪い無能というよりも、責任感と悪いめぐり合わせが合致してしまった結果じゃないかな。盧溝橋の一件なんかそれが理由の独断専行だし。銃撃を受け続けていたのは事実だから、適切な判断であったとも判断できるが。そして今言われている愚将「伝説」は、第15軍の高級将校全体の問題をなぜか牟田口一人に押し付けているのと、ノンフィクション(ノンフィクションとは言っていない)の通称インパール5部作で、筆者の高木が必要以上に誇大に妄言をさらしたのが原因。まあこれらの問題は牟田口本人よりも、戦功を立てれば必要な選択であったとして独断専行は見逃すという帝国陸軍の悪癖が原因。この段階で更迭する自浄作用が帝国陸軍になかったのが大問題。それはともかくとして精神面での観点から見れば、連隊長として適格、師団長が能力の限界、軍団長はキャパを超えていたと評せざるを得ない。やはり陸軍の人事システムが問題で、必要以上に昇格させてしまったといわざるを得ない。
牟田口中将もインパール作戦までは有能だったんだけどね
@@trasersystem インパールは上層部の無茶ぶりと牟田口の経験からくる責任感が悪魔合体しちゃった結果だからねえ…
インパールはインド独立を支援したとも言われていますので、もっと情報が出てこなくては正しい判断ができないと思います。
数学と英語は簡単そうやな
くだらない派閥争いが現代にも受け継がれますわ
なんでカタカナなの?
もん、じゃない 「とい」!
なに?ヨンカカンって。読み方大丈夫?
普通に数学むずそう!
カタカナで読みにくい。ひらがなにしろ
台数と帰化
一高では海兵三校・陸士に落ちたものが帝大に行くとも言われていた。頭脳明晰かつ屈強な身体が求められたから視力が悪いものは海兵には行けなかった。
行け行け軍国日本の尖兵養成所でしかない。
特别厉害的学校❤,家里是满洲人,曾祖父当时去公费留学结果没上成,去了千叶医科大预科...
最后的日本精神大和魂❤,只属于那个年代的回忆
基本記憶力テスト合格者が……士官候補生とは先ずは実際の現場での判断すべきの軍人選抜だと思っている。実戦経験皆無の机の上作戦が勝てたら何処の軍も苦労しない戦前の頭でっかちの日本軍。
父も陸士50期、徳島県で2人の合格者の一人になり、市ヶ谷で二年弱過ごしましたが、集団生活で結核になり、退学しました。大正5年生まれは大変苦労したようです。父が早死にし、私も大変苦労しましたが、なんとか生きています。日本も道を誤らないことを願っています。
きっと貴方も優秀なんでしょうね。
DNAってやつで。
もう日本は80年間、敗戦してから道を間違え続けています。
@@高橋兆治マジレスでごめんけど,勉強の能力は遺伝しないぞ
確実にするよ。割合は40%以上。
あんたの年齢は知らんが自分の学生時代を思い出してみたら?
いたろ。そういう親ガチャ成功組が😂
@@user-imymemineいや、するって結論出てるんだけど…
昔はいくら頭がよくても親が貧乏だと上の学校へは行けなかったらしい。
陸軍士官学校なら行けたので、そのために難関校だった。学士様は金持ちの息子、士官学校卒は本物の秀才。
教員を養成していた師範学校も学費無料で進学できましたね
師範学校で優秀な者は同じく学費無料の高等師範学校に進学可能で、高等師範学校まで進学するとそのまま帝国大学に編入も可能だったようです
なので戦前は
小学校⇒旧制中学⇒師範学校⇒高等師範学校⇒帝国大学編入
というルートが学費を支払わずに学士を取得可能な進路だったようです
これを高校1〜2年で受けると考えたらすげーわ
予備校的な学校があったとはいえ、
伯父上も陸軍士官学校を出て軍人になった事からも、貴重な配信を拝めた。兵種は歩兵を選んでいたと親父から聞いた事がある。
父親は陸軍士官学校卒、でした。皇居で天皇をお守りしていたと聞きました。戦後は数学で苦戦してると、方程式等教えてくれました。その時は、何で出来るんだろ?と、不思議でしたが、年老いても勉強熱心で本と日記読み書きは生涯の宝物でした。動画を見て、解りました。
有り難う御座いました。
いま現代の人が見れば、多少簡単に思えるのは、私達が教育をしっかり学べてるからです。当時の識字率や教育水準は低かったので、そもそもの話になります。先人に感謝ですね。
識字率は幕末で90%行ってなかったっけ?今が99%だからそんなに変わらないと思うけど
@@MarceRonald712 さすがに90%はないと思うよ。
@@せんすいかん 正確な数字を見た訳じゃないけど、以前立ち読みした斉藤孝さんの本に書いてあったんよな
日本が近代化できた要因は幕末時点の識字率の高さだ言うて
昭和2年の1円の価値についてお詳しい方がいたらコメントください。その他のご意見やご指摘もお待ちします。
ちなみに、本文では近代文語文のことを含めて「古文」と言っていますが、厳密には古文(近世までの文章)と近代文語文は異なりますのでご注意ください。
1927年(昭和2年)の物価指数は1.099
2019年(令和元年)の698.8と比べると約636倍なので昭和2年の一円の価値は今の大体698ぐらいですね。動画中の約630という言及で相違ないと思います
物価指数だとイマイチ皮膚感覚的につかめないので、実際の物価例を調べてみた。
昭和2年のものがないので、大正14年のものを調べた。
(算式:現在値段/大正14年値段=大正14年1円あたりの現在値段)
①平均給与年収・・・大正14年741円、令和3年443万円・・・5,978円
②大卒初任給・・・大正14年50円、令和4年22万円・・・4,400円
③官製はがき・・・大正14年1銭5厘、令和5年63円・・・4,200円
④都バス初乗り・・・大正14年7銭、令和5年(都多摩地区)180円・・・2,571円
⑤日本そば・・・大正14年10銭、令和5年(富士そば)かけそば390円・・・3,900円
⑥カレーライス・・・大正14年15銭、令和5年(ココイチ)ポークカレー591円・・・3,940円
⑦米(小売り5kg)・・・大正14年1円60銭、令和5年新米こしひかり3,000円・・・1,875円
(①~⑦合計)÷7=平均3,837円
たぶん、昭和2年あたりの1円つうのは現在価値で4,000円くらいではないかと思われる。
1:23陸軍士官学校の月給4円50銭は、現在の価値で言うと
4.5×4,000円=18,000円程度かと思われる。
安い感じはするが、寮生活で衣食住すべて支給、その他病院から何から何まで全部支給で税金も免除なら
18,000円もらったとしても、ほぼ手つかずで残るんちゃう?笑。使うとしたら酒代かエロ本代くれえだろ笑。
@@コロッセオ友蔵大日本帝国こと明治政府〜今の日本政府に至るまで自国通貨建て国債をずーっと発行し続けてるからそりゃ物価は上がるし国民の賃金も上がる
陸軍士官学校や海軍兵学校の生徒はそれはそれはモテモテだったそう。
帝大は勉強だけ出来れば入れるけど上記の学校はそれだけでは入れず運動神経も必要だから。
という話をあるおばあさんから昔、聞きました。
対策本はこの当時からあったみたいで、しかも内容が親切。対策本以外では、数研出版の源流の予備校は大正時代末期には設立されていて、チャート式は昭和4年が最初らしい。そのスタイル自体は今とあまり変わらない。(笑い)
問題自体は高く見積もっても現代の大学入試の偏差値だと国立で60.0もあれば余裕で解けそうな感じですが、理系科目も文系科目も全部そのレベルとなると難しそうですね
競争率がえぐいので、ミスはゆるされませんね。
今みたいにノウハウが知れ渡ってる時代じゃないから、効率の悪い読みにくい参考書使ってそのレベルに持っていくハードルは今とは比較にならないと思う。
現代みたいに参考書もないし、そもそも受験業界自体が発達してないから現代の偏差値60って当時の上位0.1%くらいになりそうだがな
@@hulegaut123いや、偏差値はレベルによって50が変わるから60も全然いるよ
現代入試の偏差値に見積もる意味が分からん。
昭和初期の場合、入学難易度は第一高等学校(一高)、海軍兵学校、第三高等学校(三高)が上位3校で、陸軍士官学校はその次に位置するくらいの難易度だったそうです。ただし陸士海兵は身体検査が厳しかったので、学力面以外での難しさはあったと思います。
陸士・陸大、海兵・海大出身でも、一高・東大には一目も二目も置いていたそうです。
東条英機が総理大臣として東大で講演したときも、登壇前は緊張で顔が真っ青だったそうです。
父は陸士55期。希望は第三高等学校だったそうですが、当時陸士の試験日程が早かったとの事。
陸士合格後は家が寺だったのでお金の工面を親にさせるのが申し訳ないと陸士に進学したそうです。
当時は家庭の負担を考えて陸士や海兵に進んだ秀才が多かったのだと思います。
1976年頃、同大経済懇談会なる組織が陸士、陸幼出身者で構成されて居ました。
名簿を覗いて驚いたのは、当時の事務次官の6割から7割を占めていたのと、上場企業の社長、
役員に名を多く連ねて居た事です。卒業生達は戦後の復興に大きな役割を果たしたのだと思います。
結局その年代の方々が社会の一線から退いた80年代後半から坂道を転がり落ちるように日本は駄目になっていきました
私の亡き父も55期。田舎で家庭に色々課題があり、経済的に厳しかったので親から軍隊の学校行けと言われたとか。幼年学校は当時、軍縮で東京しかなく少数でダメで中学から陸士入った。
中学は2番で入ったが少し気を抜き20番まで下がったが、中学五年になって取り戻した。入試問題の傾向、特に数学を研究して合格したとか言っていました。田舎なのに結構学歴に関心ある土地柄だったらしく旧制高校や旧帝大の話をよくしていました。
入試は中学三年からが勝負、特に数学が大事 などと自分の経験を言っていたもので、私は一流半私立から国立目指し成績伸びたので東大受けたがダメで早稲田。しかし、思うところあって東大再受験し合格しました。大学ではまだ旧制高校での教授がいてある人気教授は、東京では一高、海兵の次が陸士で浦和、静岡、水戸高校だったと言っていました。(その教授は水戸高校から東大経済)
父も海兵は難しかったが、終戦間近は海軍は軍艦沈められて陸戦隊になり海兵は大幅募集。制服も変わり陸士の方が難しくなったと言っていました。
父はあまり勉強しなかったので朝鮮の部隊に行き、その後陸軍が作った潜水艇部隊(まるゆ部隊)の部隊長(艇長)になったとか。広島沖の島にいて原爆救援隊に一番で入り、女学生や中学生の悲惨な状況を見たとか言っていました。(戦後、後遺症ないか心配したらしい。)
大尉でやめて公職追放。郷里に戻っていたが、縁あってとある寺に養子に入り役所勤めしながら住職をしていました。確か端午会?なる55期の同窓会誌がよく送られてきていましたが、戦後はあまり交流を避けていました。ただ時々親しい陸士の友達が訪れたり、どこで聞いたか、陸士から一高、東大で自治省の人が選挙出るので応援頼むと陸士の会の人達が候補者と一緒にきたりしていました。
父の後の人は若いので旧制高校行きなおした人が多かったらしいが、父の同期はもう年行っているので色々な選択があったらしいです。(京大行きなおしたり、自衛隊など)
なお、私は某鉄道会社に入ったが、入社時はまだ陸士、海兵、陸大出の幹部(部長や関係会社社長)がいました。聞くところによると、皆公職追放で困って就職したらしいです。会社では身分、資格扱いに困ったものの、結構官僚的な古い会社だったので、社長?の方針で皆、学卒(キャリア)扱いにしたとか聞きました。
元役当時の古い上司に陸軍士官学校在籍者がおられましたが、陸軍幼年学校から進まれた方でした。60期ですが当人曰く、相当難関校で身体検査(性病検査含む)、学科試験、その他(素行調査等)をクリアして合格となったそうです。陸士は二人おられ、海兵75期の方もおられましが、共にお話をさせて頂いた事かあります。現在の旧帝大・国立・有名私大は学力検査だけだが反対検査もあり難易度は、現在より難しいとの評もされておられました。海兵75 期の上司(戦後、国立大へ)は尊敬していました。学科だけではない所が難易度に拍車をかけています。田舎では戦後、結婚相手(奥様)・縁談も釣書(身上申し立て書)に誇りをもって書かれていたようです。昭和50年代までの地方は、お互いの家格・経済力・学歴~~お見合い結婚が多い時代です。今は自由恋愛の自由結婚と良い時代になりましたね。
恋愛結婚が主流となった結果、若者は結婚できなくなりました。結婚するカップルが少ないということは子どもが生まれにくくなります。人口が減れば、モノを作っても買ってくれる人がいないということです。そして不景気になる。不景気になって将来が不安になればますます結婚したいというカップルが減る。この悪循環に陥ってるのが現在の日本ではないでしょうか。
まさに文武両道。どちらかだけでは行けない。これが本当の難関入学試験ですね。
貴重な動画ありがとうございます。父は広島幼年学校から陸軍士官学校へ。市ヶ谷とか言ってかな。57期生で終戦。生前は同窓会誌の星の生徒が届いていました。飲むと、太平洋の波のうえ-のぼる朝日に照らされてと歌っていました😂。後は、当時の校長が、牛島満で九州出身と言うことで、沖縄の司令長官に任命され米軍上陸後、自決した等と言っていました。
貴方様のお父様も士官学校ですか、なんか、親近感、が有ります。きっと、立派な方だったでしよう。コメントありがとう。
1920年代後期の大卒の初任給が50~70円くらいだったから給与ベースでは当時の一円は現在の3000~4000円くらいでは?
3:40 漢文の題材が三国志演義か…
前に岐阜県高山市にある資料館(高山陣屋)で大正時代くらいの「数学の教科書」があった。
結構難しかった。
海軍関係者は海兵が~、陸軍関係者は陸士が~、戦後も生き残った官僚組織の関係者は一高が~とそれぞれ言いがちです。しかし陸軍は幼年学校で青田刈りしていて、陸幼からの陸士60期だった人から聞いた話では京都大学に半数が進学していた旧制中学から陸幼に3名しか合格しなかったとのこと。その人には海兵も陸士も東大もちょっと見下している雰囲気がありましたね。それでも当時の軍部のステータスからすると、陸士は現代の防衛大学校よりは数ランクは上の難易度だったことでしょう。
難易度以前に国民のほとんどが小卒、中卒とかの時代だからね
叔父から聞いたことですが、昭和10年前後の陸軍士官学校の難易度は一高以上だったそうです(体力テストも含めての話だと思います)。旧制中学の学力トップクラスが陸士に合格したということを聞いた覚えがあるので、この動画のニュアンスと少し違うと思いました。
みんな言いたいことを言ってるだけですよ‼️
今も昔も変わりませんね😂
軍学校は戦場の指揮官を養成する場所なので、
軍人家系でもなく、経済的に余裕があれば旧制高校に進む人が多いような気もしますけどね。
話がずれるのですが、
硫黄島守備で有名な栗林中将は、旧制中学を経て、師の薦めで士官学校に進んだそうです。
陸大も2位卒業と優秀ですが、陸軍幼年学校出身ではないために傍流という評を見たことがあります。
駐米武官であったのも中学出身で英語に堪能なためらしいですが、
ならば、陸軍幼年学校出身者の士官学校入試は、また別ということでしょうかね。
良いですね!
母校が今は中高一貫な進学校ですが、昔は海軍兵学校の予備校的な位置付けの学校でした
会議室には卒業生である強面の旧海軍の将軍達の白黒写真が並んでいました
似たような旧軍の士官学校に入るための学校なんてものが他にもあったため、意外と今の受験と共通点があったようですよ
海城でしょうか?
海城は戦艦の美名
と聞き及んでおりますが🤔
海軍兵学校の入試問題もお願いします。
よろしくお願いします
th-cam.com/video/K11EhisD1kI/w-d-xo.html
渡辺錠太郎教育総監は高小卒でしたが以後独力で勉強して陸士入学組でした。
一次大戦後の欧州視察後彼の信条は軍隊は強くないといかんが戦争はしてはいけないでした。
片手落ちは差別用語じゃないよ。片手が落ちてんじゃなくて、手落ち(不完全)にさらに強調の片が付いてる言葉。
教育勅語の「一旦緩急あれば・・・」の「緩」に相当する語ですね。
旧日本軍が合理的に賢く戦争を遂行したようには思えず、適材を選抜する入試が適切でなかったのか、その後の育成方法がおかしかったのか、あるいはちゃんとした人材はいることはいたけれど組織として機能不全をおこしてうまく機能しなかったかのどれかか、あるいはその複合ということになるでしょう。
数学のレベルが高く、英語のレベルが低いですね。数学は昭和36年生まれまでの人たちですと回答可能かと思います。
男子の進むべき道
3つあり。
一高、陸士、海兵なり
と言われた難関でした。
陸軍士官学校出身者は超エリート。そして彼らは大日本帝国を滅ぼしました😢
当たり前のことかもしれないけど、この時代の受験生も連立方程式とかやってたんだな
貧乏暇なしの時代に学校に行きながら給料がもらえる、今以上に理にかなったこと学校より働くことが優先(ズバ抜けた能力があってもカネがなくて学校に行けなかった人は数知れず)先生によって教える質と能力の差があったことは事実で試験に出る内容を教えれた先生と、教えられなかった先生が存在してた。
陸軍予科士官学校の間違いじゃない?
旧制中学卒業→予科士官学校(2年)→上等兵として兵営に入営→陸軍士官学校入学(階級は軍曹)→見習い士官(階級は曹長)を経て少尉任官だったような気がする。ポイントは短期間でも兵隊生活を経験するところ
私の祖父も陸士出の歩兵大尉で、連隊長副官をしていました。現在の防衛大学校の前身ですね。祖父は男1女4の兄弟で「女の子でも高等女学校以上の教育を目指すべき」との親の方針から、「じゃ男の自分はお金のかからない学校に行く」との理由で受験したそうです。
なお参考までに、旧学校制度と現学校制度の対応表をまとめておきます。
尋常小学校(4年間) 今の小学校
高等小学校(2年間) 今の中学校
中 学 校(5年間) 今の高 校
⇒以後、横並びで 高等学校・大学予科・師範学校・専門学校 があります。
⇒高等学校は帝国大学に進むための存在で、現在の大学と同等です。大学予科は卒業すると大学本科に進みます。師範学校は、現在の大学教育学部。専門学校には医学専門学校・薬学専門学校・高等農林学校・高等工業高校などがあり、それぞれ、現在の大学で医学部・薬学部・農学部・工学部に該当します。
⇒補足すると、高等学校から帝国大学に進んだ人は、現在では、2つの大学において卒業者に認定されています。たとえば国語学者の金田一春彦さんは浦和高等学校から東京帝国大学に進んだが、浦和高等学校は現在の埼玉大学。したがって金田一さんは、現在では埼玉大学と東京大学双方のOB名簿に載っていたりします。
⇒また高等学校自体も戦後は国立大学に移行しましたが、共通一次より前の大学受験制度~一期・二期といわれた時代~では、やはり「旧高等学校」ということで、旧帝国大学につぐ「準・旧帝国大学」的な格式があります。個人的には金沢大学が思い浮かびます。金沢大学は旧制の第四高等学校なので、たとえば金沢大学の医学部でも卒業していれば、系列として関連病院や傘下大学医学部への出向などに困らないということで、帝国大学医学部卒に準じた道が歩める可能性がありますね。近所でクリニックが開業したときも、出身大学は確認しますしね。
原作漫画ののらくろも、曹長時代士官学校試験を突破して入学したので(猛犬士官学校ですが)このレベルを合格したのでかなり勉強した設定ですね。
曹長といえば中隊では最先任の下士官。連隊でも数人しかいない。サーベルも支給されるし個人の曹長室が与えられる。まさに兵下士官の親方。
そこから現役下士官で士官学校に入り、戦勲で早期卒業しました。ある意味、恩賜の銀時計組のエリート。同期のハンブル軍曹も、のらくろには一目も二目も置いていましたね。大字章、日字章、本字章と、多分金鵄勲章、旭日章、瑞宝章にあたる勲章を総なめにして大尉にまで昇進しました。
田川水泡さんは少佐まで昇進させたかったようですが、佐官になると現場に出る機会が少なくなるし、時局柄、軍部から野良犬が上長官たる佐官になるのはけしからん、と横やりが入ったとか。
英語くらいしか歯が立たないけど、その英語も現代の大学入試より難しいな。
漢文の三顧の礼の箇所だけ全部わかった、漢文の読解力じゃなくストーリーを知ってるからだから意味ないけど😅
陸軍士官学校卒業成績順で配属出世コースが決まる。どんなに実戦で失敗無能でも配置換え程度で責任を取らされる事もない。参謀本部の連中は前線も実戦も知らず市ヶ谷で地図を広げて部隊を動かした。負けたら,責任を追及されぬよう進駐軍が来る前に本部にあった軍事資料を全て燃やして,口をつぐんで知らんぷり。陸軍士官学校出の連中の殆んどは「責任」という言葉の欠片もない連中である。その代表が辻,牟田口,服部らである。彼が立案した幾多の無謀な作戦で兵士が無駄死にしたか,大平洋各地に派兵された兵士の亡くなった7割は戦闘ではなく、餓死及びマラリア等の伝染病である。重ねて言う陸軍士官学校出の連中の罪は重い
いやその上に陸大あるから陸士卒じゃ中級が限界でそれ以上になるには陸大出ないと無理だぞ。
所詮ケンカひとつしたことない奴らじやないの…。
師範学校のもお願い致します。
五高から九州帝国大学文学部に進んだ自慢のじいちゃん
調べたらすぐわかるようなものを出すのが日本の試験問題。
それを追求すると最後はカルト問題に行き着く。
欧米のエリート校は調べてもわからない問題を出してくる。
試験期間4日…
なにその天下一武道会
現在の国立2次試験でも最長2日…
陸士や海兵の受験に失敗して 浪人して翌年再受験なんていう人もいたのですかね
そもそも現役しか受験許されてないのかな?
浪人生専用の予備校もあったみたいですよ。
今の海城高校は元々海軍兵学校の受験予備校でした
海軍兵学校の場合は旧制中学4年生から受験可能だったようです。ただ、専検という旧制中学卒業資格試験合格者や旧制中学校卒業後、海軍水兵として4年間勤務後、受験して合格した猛者もいたそうです。
確か成城学園だか成蹊学園も陸軍士官学校の予備校だったはず
@@繁也-h6o
成城・・・陸軍士官学校予備校
成蹊・・・三菱財閥と懇意らしい
@@繁也-h6o安倍晋三の母校やんけ
代数幾何は文系でもやるんだからもっと触れて……
学科は出来て当たり前。結核じゃないこと、走れること、健康なこと。早飯早くそ早駆けが軍隊の日常だそうです。
旧開成中学(現在の開成高校)は、元々は陸軍士官学校の予備校みたいな学校だった
違います。共立学校(開成の前身)で検索しましょう。おおむね陸士は成城、海兵は海城、攻玉社、東京高商は高商予備門→商工中学→赤坂中学(現・日大三)が各学校への予備校的存在でした。
東条さんは努力家だったんだ。
数学や理化学の試験はなかったんですかね。いまの防大は大半が理工学系なので時代を感じる。
当然数学、物理、化学の試験は有ったそうです。文系理系の区分けは無かったそうですが、今で言う所の
理工学部に近い学問を勉強していた様です。私の父も陸士55期ですが、私の大学受験時期にエンタルピー、
エントロピーの概念を確り覚えて居たので驚きました。
貴重な資料を手軽にTH-camで見られるのはありがたい。
でもねっ………。陸軍士官学校を紹介する動画で海軍の軍歌「海ゆかば」を流すのはどうかとおもふ
コメ欄にも勘違いしてる人が多いけどここで触れられてる陸士は陸軍高官じゃ高校レベルで、今世間で良くも悪くも個人名が知られてる様な高位軍人はこの上の陸軍大学校(名前どおり大学相当)出てるのが一般的だからな。
これ見て大した事無いなって思っていても陸軍高官からすれば高校入学レベルの問題だったりする、因みに陸大出て無い陸士卒の将校の場合そもそも中級程度の身分なので定年後人力車夫になる人まで居るくらい割りと厳しい世界だったりする。
数学に関しても頑張って解説しなよー
良い動画なのに勿体無い😂
字幕 入試に日本酒の問題かぁ陸軍なら有りそうやなぁ
難しく無いって言ってる人居るが、今みたいに赤本も無いし一杯参考書もないんだよ。
戦前の日本は学業にも厳しかった…現代の学校はぬるま湯…てのが判る
倍率34倍と書いてるけど、受験しなかったり事前の身体検査で落ちたりしてるから筆記試験の倍率は16.6倍ってところか。
今の入試と比べるのはナンセンスだが
理科系だと偏差値50付近(日東駒専や防衛大)辺りの難易度だね
当時の人からすれば難問かつ合格点も高かったんだろうけどね...
某TH-camrが紹介していた東北帝国大学の積分は激ムズだった
帝大理学部は当時から別次元だと感じられるよ...
帝国大は入試の無い学部学科もあるらしいが理学部、工学部は別
旧制中学卒業時の満15歳で受験する学校なので、今の大学入試の問題と難易度を比較するのは・・
戦前の学制だと旧制中学は13歳〜17歳まで通うので、今で言うと高校2年生の年齢で受験するのではないでしょうか?
祖父は近衛兵でした。
ドイツ語フランス語の入試問題を無視するな!!
「片手落ち」は差別用語じゃないよ。
配慮が足らず 物事が上手く出来ない事だから 両手でちゃんとやらなきゃいけない作業を 横着して片手でやって失敗しちゃうって例え。
東條英機閣下の出身校、素晴らしい。
英語も難しくない?!
解けるかこれ
こんな難関でも牟田口みたいな無能を出してしまうんだから、頭の良さは別なんでしょうね。
牟田口は頭が悪い無能というよりも、責任感と悪いめぐり合わせが合致してしまった結果じゃないかな。盧溝橋の一件なんかそれが理由の独断専行だし。銃撃を受け続けていたのは事実だから、適切な判断であったとも判断できるが。そして今言われている愚将「伝説」は、第15軍の高級将校全体の問題をなぜか牟田口一人に押し付けているのと、ノンフィクション(ノンフィクションとは言っていない)の通称インパール5部作で、筆者の高木が必要以上に誇大に妄言をさらしたのが原因。
まあこれらの問題は牟田口本人よりも、戦功を立てれば必要な選択であったとして独断専行は見逃すという帝国陸軍の悪癖が原因。この段階で更迭する自浄作用が帝国陸軍になかったのが大問題。
それはともかくとして精神面での観点から見れば、連隊長として適格、師団長が能力の限界、軍団長はキャパを超えていたと評せざるを得ない。やはり陸軍の人事システムが問題で、必要以上に昇格させてしまったといわざるを得ない。
牟田口中将もインパール作戦までは有能だったんだけどね
@@trasersystem インパールは上層部の無茶ぶりと牟田口の経験からくる責任感が悪魔合体しちゃった結果だからねえ…
インパールはインド独立を支援したとも言われていますので、もっと情報が出てこなくては正しい判断ができないと思います。
数学と英語は簡単そうやな
くだらない派閥争いが現代にも受け継がれますわ
なんでカタカナなの?
もん、じゃない 「とい」!
なに?ヨンカカンって。読み方大丈夫?
普通に数学むずそう!
カタカナで読みにくい。ひらがなにしろ
台数と帰化
一高では海兵三校・陸士に落ちたものが帝大に行くとも言われていた。頭脳明晰かつ屈強な身体が求められたから視力が悪いものは海兵には行けなかった。
行け行け軍国日本の尖兵養成所でしかない。
特别厉害的学校❤,家里是满洲人,曾祖父当时去公费留学结果没上成,去了千叶医科大预科...
最后的日本精神大和魂❤,只属于那个年代的回忆
基本記憶力テスト合格者が……士官候補生とは先ずは実際の現場での判断すべきの軍人選抜だと思っている。実戦経験皆無の机の上作戦が勝てたら何処の軍も苦労しない戦前の頭でっかちの日本軍。