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29:35 関羽の死去が220年、陳祗の死去が258年で、あれから38年も経っているのに、関羽の主簿だった廖化が、いまだに話に出てくるっていうのは、地味にすごいと思う。きっちり、蜀漢滅亡の263年まで見届けてるんだよなぁ。
とても面白かったです。特に劉禅と姜維の立場と行動について蜀漢の国家戦略からの再評価を試みているのは感嘆しました。姜維は北伐に固執して蜀を衰退させたと批判されることも多いですが、時代の移り変わりと魏の強大さを考えると、動画でご指摘のように蜀が守勢に徹してもそれはそれであらゆる面で先がなかったように思えます。諸葛亮時代よりも更に困難な道を歩むしかなかった彼らの世代の苦悩に心引かれる人も多いでしょうね。
劉禅が諸葛亮に国政を任せたってところに注目したのが面白い。暗君って言われる劉禅だけど、有能な人に仕事を任せるってことが出来る分、劉禅はもっと評価出来ると思った
ガチの暗君なら諸葛亮没時にそのまま蜀が滅んでそう
Up主様、お疲れ様です。予備校教師神野氏みたいに「劉禅は何にもできないんだから、人の言うことを聞いてろ」的に見る人が多く、それを覆す見方や論拠が難しい感じがありました。up主さんの丁寧、かつ愛情を持った考察にようやく我が意を得た感じがしました。
そもそも蜀漢という国家の大きさを見れば、滅亡の責任を劉禅に被せるのはあまりにも酷なんですよねぇ('ω')
劉禅は自分の能力を知り、図に乗らず、役割を知ってたその点では名君だ
蜀には劉璋時代からいた益州派と荊州から劉備についてきた荊州派がいて、両派閥をまとめ内紛での空中分解を防ぐにはどうしても共通の敵が必要だったからこそ北伐を行ったと聞きます。事実夷陵の戦いの後には何度も内乱が起きていたし北伐の最中にも何度も派閥争いで諸葛亮の脚が引っ張られてたみたいですし。建国の時点でハードモードだったけど夷陵の敗戦でべーリーハードモードになったって感じですね…
劉禅は「父の残した蜀漢と諸葛亮のやり残した北伐」を守りたかったのかなぁ…と思いますね〜とは言え色々な派閥の意見をバランス良く取らないと蜀漢は即滅ぶくらいの危機感があったのかも…
国内で揉めた瞬間、外敵に食い潰されますからね(゜ω゜)
劉禅は名君か暗君かは未だに決着しない議題ですね。蜀を滅ぼしてしまった、という点だけ見れば暗君と言われても仕方がないけど、劉備が亡くなってから約40年国を守ったのは個人的に凄いと思います。
他の国が、バンバン変わりすぎなんだよなぁ……(笑)
統一した王朝をも半世紀経たずに崩壊させてしまった西晋、数年で国を崩壊させる五胡十六国の皇帝たちに比べたら際立って有能
諸葛亮が亡くなってから29年持たせてるんだし一概に暗君とも呼べないな
劉禅は言うほど暗君ではなかったという久保さんの見解に惚れましたたしかに丞相亡き後よくあそこまで持ち堪えたよなぁ
名君とまではいかずとも、暗君ではないって感じですね。
@@KOUMEI_NO_WANADA なるほど失礼しました💦🙇♂️編集しときます
@@胡蝶しのばない まぁ、僕の個人的な贔屓を含めば、劉禅は名君(ぇ
@@KOUMEI_NO_WANADA いや、私もそう思います。史実をみても、丞相亡き後あそこまで国を存続させていたのは普通に明君と呼んでも良いのでは?とずっと思っておりました。演技の被害者の1人ですよね。ツベで初めてこの考えを形容してくださったのが久保氏です。というか今でも久保氏くらいですよ。目から鱗でした。
@@胡蝶しのばない 自分は自ら統治するタイプではないので、英雄ではないと思いますが、君主としては十分な手腕であったと思います。ただ、やはり国家は滅んでるので「名君」とは呼べないと思います。真に名君ならば、自国の滅びを回避してるでしょうから。個人的な評価は「準名君」といったところです。
40年在位して暗君らしいことをしてないというのは評価できる点だと思う
人事のバランス感覚と「部下に任せる能力」はこの時代ではトップクラスだと思う。平穏な世の中なら名君として名が残っていたかもなぁ
無能な怠け者こそトップに立つと一番有能
@@韓非-h4u ちょっと違う。
お疲れ様です!劉禅は、魏や呉と違い若い頃から着実に成果を出して、皇帝としての尊厳を得て国家の中心へって感じで、強い皇帝だなと。最初から諸葛亮に全権を渡せるくらいの器量を見るに、若いときから皇帝としての器は十分だったんでしょうね。蜀は、防衛が強い分、国家存続のために北伐を反対する勢力が現れるのも仕方ないと思います。攻めなくても目下滅ぶことはないですからね。分岐点は、勝手に呉が沈んでいったことかなと。呉が脅威のままなら蜀討伐に本腰は入れられなかっただろうなぁと。やっぱり、歴史のたらればを妄想するのは楽しいですね。
なぜ、繁栄してゆくのかよりも、なぜ、滅んでゆくのかにロマンを感じる今日この頃!実に面白い動画でした!袁紹亡き後の袁家滅亡とかもできればでいいので見たいです!
最近陳祗の活躍を知りました。投稿主さんがおっしゃるように、費禕亡き後の蜀漢の重要人物ですよね、彼のお陰で姜維は北伐に専念できたわけですし。(その割には演技にも出てこないし、三国志ゲームでも扱いは悪いですが💦)でも考えてみると面白いですよね、諸葛亮が後任を託したのが蒋琬はともかく、その次が北伐反対派の費禕で、その費禕が登用したのが北伐賛成派の陳祗で、そして諸葛亮の息子である、諸葛センが父親の遺志を継ぐ姜維の足を引っ張る…いずれにしても諸葛亮が亡くなった事で、蜀漢には滅亡しか残されていなかったのかも。そう考えると虚しいものもあります。
諸葛センの代にもなってくると、北伐より、荊州派の衰えの方に危機感を持ってたでしょうね。
8:15 臥していた龍ってワードセンス好き
自分のこれまでの劉禅のイメージは軍人将棋のグンキ(軍旗)に近い感じでした。自分から動けない、後ろに置かれたコマの強さと同じになる、後ろにコマが無いと必ず負けるってやつ。でも皇帝の権力を使って色んな派閥を両立して登用することが出来ていたと聞くと、自ら動いて国のバランスを取ろうとする力は持ち合わせており決して只の傀儡だったわけではないと思えてきますね。
在位の長さは皇帝の権力の増強に繋がりますからね
三国志解説動画は多いがここほどに説得力があり知的なうp主は一人もいないまさに天下無双の知恵者だ拝謁をお許しください
最初からほぼ詰んでたから一度のミスが命取りそんな状態でも致命的な破綻を見せず最後までジリ貧を維持してた時点である意味有能だったのかも知れませんね魏が強大すぎて勝てる余地が本当に無かった
逆に曹魏も赤壁の大敗で天下を取れる可能性が1ミリ程度すらなくなったって言われてる
司馬炎以降の八王の乱、五胡十六国時代のハジけっぷりを知ってから、劉禅を名君と思うようになったよ………。
演義はどうあがいても史実を基にしている以上「蜀漢の敗北」という歴史的事実は避けられないわけでそこへきて劉禅は特に良くも悪くも目立たない皇帝だからこそスケープゴートにするには丁度良い存在だったことは確か勝利の英雄よりも敗北の戦犯が求められるなんてことはよくある話です
よく劉禅の降伏批判されてるけど早くに降伏したのは民や臣下のこと考えたら名君の判断だったと思う孫呉滅亡に比べたらかなりマシ
抗ったところで挽回の機会が無いですからねぇ……
@@akio484 劉琮、劉 章
@@akio484 降伏までの過程を批判するならともかくあの状況での降伏を批判するのは完全に間違っていると思います。
分岐点は龐統の戦死ですかね…。諸葛亮がそのまま荊州に居座り続けられれば荊州を失わずに済んでいたかも…。
法正も結構大きいと思うんですよね生きていれば夷陵の戦いも起きないか、起きても大敗まではいかなかった可能性があるように思える
曹操が警戒したのは劉備を法正が支えて諸葛亮が後方支援のパターンだからホウ統はそこまで影響するかは?彼は正直劉備の下より周瑜の下の方が輝いてる気もするし
夷陵の戦いと漢中の戦いは劉備に戦の引き際を諭す人物がいたかどうか。黄権は漢中でも献策をして貢献したが法正ではないんだよね。
光栄の三国志孔明伝のifストーリーでは龐統が戦死しなかった場合益州の統治を龐統に任せて諸葛亮が荊州に戻ることになり関羽も戦死せず夷陵の戦いも起きないので張飛以下有能な将も生き残り南蛮平定後まで劉備生存ってシナリオになりますねこれは上手くいきすぎな気もしますけど。
龐統がいなくても龐統に代わる優れた荊州人材は他にもいくらかはいる。龐統だったから劉備を諫めれたとか夷陵の大敗はなかったという類の問題ではないと思う。というか龐統がそれほど偉大な実績を残したという印象は私の主観では全くない。少なくとも同じくらいの年齢で死んだ周瑜や郭嘉のような国家レベルの損失を示すほどだったとは思えない。
帝にあること40年それまでの漢武帝に次ぐ長さでそれを超えるには梁武帝が出る300年後をまたねばならぬほどの格外の存在劉禅が愚帝なわけではなかろうとは思うのであります
長坂坡で趙雲が拾ったのは間違いじゃなかったんですね…劉禅はようやっとる
逆に厳しく言うなら、問題の先送りしか出来なかった、ということでもあります。まぁ、そこまで求めるのは酷なのでしょうね^^;
@@KOUMEI_NO_WANADA 曹操曹丕曹叡や孫堅孫策孫権は、自ら戦いに出向くといった英雄的な気質を持っていてそれが継承されていますが、劉禅は劉備と違って全くその気質が乏しいんですよね……本当に劉備の息子なんでしょうか?実は趙雲が長坂坡で「劉禅見失ったやべえ」ってなって代わりに近くの子供連れてきた説、だから劉備も投げ捨てたと考えれば辻褄も合いますね🤔
@@mechadebu 劉備は戦場に出ずっぱで、母は頻繁に変わる。しかも国を継いだ途端、滅亡の危機に瀕している。お目付け役は超厳しい董允。人間は全て環境です( ;∀;)
@@KOUMEI_NO_WANADA なるほど……曹操の行軍に付き従い更に後継者闘争で揉まれた曹丕、孫策に従って各地を転戦し何度も命の危機を迎えた孫権、その二人に比べると劉禅は物凄く経験不足だった訳ですね……
@yamada taro 確かに劉諶を見捨てたり、生きるためとはいえ蜀は思い出さないと平然と言ったり、こういったエピソードは後世での評価を下げてしまう原因でもありますね。終わりよければすべてよしと言うように、逆に言えば晩節を汚せばそれまでの功績が全て無に帰す場合もありますからね…
もしかしたら劉禅は人を見て託す目という劉備の特能は受け継いでいたのかもしれませんね。他の面で活躍するには、成長する機会や国力の余裕がなかっただけなのかもしれません。
劉備は基本的に部下を信じず自由は許さず全部自分でやりたい人やでー。
劉禅の暗君エピだと、ことわざにも残った司馬昭との宴席での話が印象的ですね。この話の通りの人物とすると、暗君というよりも世間知らずなお坊ちゃまのまま大人になったのかなって感じがする。
例え関羽があの時点で敗死していなくとも、年齢的に関羽が活躍できるのはその後10年ほどだろうし、その間に劉備の寿命も来るはず。いつまで荊州を維持できていたかは未知数ですが、陸遜の起用が成った場合。劉備と関羽の寿命が来たあと、どのみち荊州は取られていたと思います。ただ、その後の夷陵の戦いは回避できたと思うので、人材不足は解消できたかもしれませんが、今度はそれ故の荊州派閥での内部抗争の可能性も……歴史にIFを持ち出せば、キリがありませんね。
荊州失った時点で投了、呉も終わった瞬間だったが守るには適してたが、攻めるには辛すぎる。補給が続かない、は致命的すぎるそんな詰んでるのに、君主やらされた劉禅は貧乏くじすぎるが何十年も統治したこれは有能やろ、延々北伐するわ大敗するわしても、ギリ持ってたぐらいだし
関羽と荊州の損失というダブルパンチが1番あかんと思う。
関羽の喪失って言うほどか?蕭何とか諸葛亮とか、そういうレベルの怪物が兵站を支えてくれたら有能かもしれないけど、そういうぶっ飛んだ有能がいないとあんまり役に立たないイメージ
馬良辺りを目付け役で置いとくべきだったな。全権関羽に委ねたのが間違い
あと登山家による北伐の失敗も痛かったな
@@takotako6104 関羽が呉に※されたおかげで夷陵の戦い起きて有能な将兵が多数お亡くなりに・・・
龐統に落鳳坡って地名で白馬に乗せる壮大な前フリ
傾いた国をどうにか一人のせいにしてる時点でもはやきついですよね。しかも当初は諸葛亮がいてやっと北伐できるようになったのに亡くなったあとに皇帝の劉禅に負けぬ力量求めなければ滅ぶくらいだからもう運が悪いとしか…むしろ国内は平和だったことを評価してほしいですね。
龐統と法正の早すぎる死 そして荊州を失った事が最大の痛手ですかね関羽は将としては凄いけど人間は三流龐統生存ならば呉と調和を保ち孔明と法正で魏に備えられある程度は戦いは出来たかもしかし曹操が河北 中原 涼州抑えた時点で結果は見えていましたね
まず経済力が圧倒的に劣っているので内政の充実ってのは一番ベストな選択なわけよね。だがジャングルばっかりの益州は地勢的に耕作に向いていない土地であり、当時の主要産業である農業の拡大は限界があった。農業が拡大できないならば人口も増えない。よって動員可能な兵力数も必然的に少なくなってしまう。すなわち蜀漢は、選択肢が最初から限られていたのである。
塩や鉱石がとれても飯が取れぬ……
@@KOUMEI_NO_WANADA まあアダム・スミスも農業できんと他の産業も育たんって言ってますから、じゃあ商業立国しろよっていうんも無理なんですよね…荊州ない時点でもうほぼ無理ゲーですなあ。。。
最近考えるのは漢中王になった後、樊城じゃなくて呉を攻めていたらどうなっていたかですね。馬超・諸葛亮が西側を抑えつつ、劉備・関羽・張飛で東に攻め込んだら呉は耐えしのげただろうかって。ちょっと早い南北朝時代もあったかもなあって思います。
その世界線も面白そうですね。腰を据えてれば魏もやがて曹操が没しますし、大きく動けなくなると見れば、案外うまくいきそうな気もします(*´ω`)
蜀と死闘をした直後ですら魏のオールスターに陸遜すら使わずに朱然無双で凌いでるわけで蜀をフルボッコにした陸遜と魏を抑えれる朱然に加えて呂蒙までいる状態ではハードルがかなり高い
関羽の性格をおそらく把握していた(張飛と馬超の絡みでそんな逸話がありましたよね)であろう諸葛亮が関羽1人に任せて大丈夫、と思っていたのかが疑問。それともそこまで兵を割けなかったのかな?関羽なら魏に対してにらみは効くから孫呉と仲良くしてくれさえいればとりあえず防げると踏んでいたのかも。
というかそもそも、諸葛亮が益州に入らざるを得なくなった時点で、一つの州を任せられるだけの人物が関羽しかいなかったんじゃないかなぁと。不安は大いにあっただろうけど、その無理を通すことしかできないという(*‘ω‘ *)
最後まで戦い続けた姜維は、色々言われるのも理解出来ますが、やはり魅力的に感じる人物ですね、一緒に殺された張翼は賛同していなかったとしたらたまったもんじゃなかったでしょうが
姜維は蜀史の華ですからね
呉に助けを求めたけど蜀滅亡時辺りに羅憲が守る白帝城にどさくさで攻め込まれるという誰も助けに来てくれなかったし、前々から内輪もめで支援もしてくれないというというオチ今までは魏も西涼方面は放棄傾向だったのが隴西方面が固められて二方面に軍を咲かざるを得なくなる+段谷でただでさえ少ない兵力割くって・・・って流れがな
段谷の一戦で全てがおじゃんになってしまうのが、蜀漢の悲しいところ。
黄皓は最後に姜維からの援軍要請を握りつぶした事、諸葛瞻に「黄皓をもっと早く斬っておけば」と言われた事でかなり悪評が強くなってますね。
援軍要請って、そんなに簡単に握りつぶせるものなんですかねぇ……って疑問が自分にはずっとありましたね。姜維が朝廷と意思疎通が図れていなかったこと、後にちゃんと廖化と張翼が援軍に出ていることを見ると、対応が遅れただけのようにも思えます。余力もほとんど無かったでしょうし。
寧ろ魏の侵攻という未曽有の国難に姜維と共闘しようとしない諸葛瞻の人格の方が問題
@@MUSASI40 ただ、諸葛瞻が国政を握ったのは段谷後なので……
信玄、氏康、信長、家康に囲まれた今川氏真と劉禅ともに暗君として批判されるけど「じゃあ、おまえやってみろよ」って言われるとそれ以上に上手くできる人なんてあまりいない無理ゲーだったっていう。
ほんとにそれなんですよね(笑)
勝頼もじゃないかな、と個人的には思う
食糧生産性の低さは益州も駿河も甲斐も共通してまふね…
親父が晩年やらかした負の遺産を背負わされたという点で劉禅と勝頼は実際よく似ている氏真の場合は……まあ、ただ一度の不運が悪かったとしか
三国志と戦国史って似てる箇所があるのが面白いですよねぇ
呉との同盟が決裂せずにずっと連携が取れてたら魏を倒すチャンスもあったのかな?孫権にはあまり天下統一の野望は無さそうで結局は北伐の成功は難しそうですが
孫権は呂蒙の定めた、長江流域の確保をほぼ達成してるので、これ以上の領土拡大にはあまり積極的ではなかったでしょう。残るは合肥のみだったでしょうし。
一番のターニングポイントは荊州喪失、次が夷陵の敗戦、までかなその後は第一次北伐が成ったとしていても長安とれたくらいじゃ正直一瞬で涼州方面が味方になってくれない限り持ちこたえられないと思う荊州からの北伐が成っていれば漢王朝派の人間の合流も見込めたろうけど第一次北伐くらいの時期だとちょっともう時期的に漢王朝派の人間の寝返りって期待できないと思う
第一次北伐は魏の警戒が強くなる前に涼州、雍州を攻略しようとする目論見があったかとおもいます。諸葛亮の北伐で最も意義の高い戦いでありましたが、街亭での大敗によって撤退する事となり、以降の北伐では防備を固めた魏軍との対峙に苦戦する事となります。後任の蔣琬が荊州方面上庸の攻略を計画します。荊州方面から攻めれば成功したとまでは言いませんが、選択肢のひとつとしてあれば諸葛亮にも成し得なかった北進を繰り返すよりは可能性があったと言えるでしょうね。
良くも悪くも諸葛亮死後に、魏延と楊儀という政権にとって有能だが危険な人材を切り捨てた合理性は素晴らしい。
まさに蜀にとっての「鶏肋」だったのでは?
@@金剛ちゃんねる 鶏肋は意味違うでしょ。
捨てるには惜しいと言う部分は当てはまるけど基本食っても腹の足しにならないと言う意味だから逆に有害な彼らとは全然違う
独裁って悪いイメージがあるけどこの動画を見て独裁はそう悪いものじゃないとわかりました。
公明正大で慈愛に満ち有能な君主の独裁体制の国が民衆の幸福度が一番高い国だと思うジョン・アクトンが言ったように絶対的な権力は絶対的に腐敗するので限界あるけど
国が荒れてるときは一番、独裁が効率が良いって話なので、そこに善し悪しを求めるとまた話は難しい(笑)
共和制ローマは独裁と民主のメリット・デメリットを考えて、いつでもスイッチできるような制度であった。
独裁というと一見有害なイメージを持たれがちですが、昨今の中国を見て分かる通り、政治の機敏性として独裁は他の政治形態よりも優れていて緊急時に力を発揮させやすいのでしょうね。
平常時は民主。戦争起きたら独裁。
独裁政治はそのドラスティックに改革できる反面、個人の英雄的気質にすべてを丸投げするから、そのリスクの大きさとのバランス考えると危険なギャンブル甚だしい。古代のローマ帝国や中国史、ヨーロッパ世界史などを見てもひとりの人間に権力が集中する(特に己の力で建国しての独裁でなく、世襲などの建国の労苦を経験しないケース)と名君よりも暗君、暴君などに変貌する例の方がはるかに多い。
劉禅が投降後、酒宴の席で蜀は懐かしいですか?と聞かれて、蜀なんて懐かしくない、ここが居心地良いというエピソードが本当のものなら、どう立ち回ったら自分の身が危険なのかしっかりと分かっている人物だと言えるので、それなり知恵があり暗君とはいえないと思うかな他の時代の暗君なら懐かしいですと言ってしまい反乱の可能性がありとみて処刑されているだろうと思う
孔明は全権を握って劉禅はどっしり座る関係にちょっと形態が違うが似てるのは主君に害を及ばさないように力を持たずに知恵袋に徹した徳川家康と本多正信とかかな同じく水魚の交わりと呼ばれてる期間は短いものの賈詡と曹丕の関係も同様
まさか、もう一人キーマンがいたとは。陳シ、心に留めておきましょう。何だかんだ言っても、劉禅はよく健闘した方ですね。統一王朝の二代目皇帝だったら、名君として後世に記憶されたでしょう。
諸葛亮が忠義の士扱いされているのは、曹操や司馬懿と違い息子等の一族に権力を継承させなかったのが大きいんですかね?本人がやっている事自体は2人とあんまり変わらない印象です。諸葛瞻自体は台頭してきていたので、もし魏が攻めてこずに諸葛瞻が権力を掌握し本人か息子が簒奪していたら扱いが全く変わったんですかね?
そもそも諸葛瞻が司馬昭なり曹丕なりの国家を統治運営させていく能力そのものがあるとは思えない。
最も損害を小さくして負けるという点においては評価されていいと思う。勝てば官軍の時代でこそ暗君凡君であったが賊軍として処分されることもなかった。内紛もなかったという事実を鑑みればそれなりの信頼も得られていたという表れなのだから思慮もなく暗愚だと怒号を浴びせるのはいささか早計であろう。
というか、皇帝という存在はあまりにも一般とかけ離れてますから、我々が評価するってのもまたおかしな話ではありますね(笑)
西晋時代も曹魏、孫呉の一族よりも劉禅の子孫は長く続いている。
司馬炎以降の司馬一族の暗君暴君のそのしくじりのひどさと量に比べたら十分な名君。
個人的には、蜀漢の末期の劉禅と張紹の関係が気になっています。宦官の登用が外戚の介入を防ぐためのものだとしたら、黄皓の重用の意味は…と考えてみたり。「蜀に帰りたくない(あの頃に戻りたくない、安穏と暮らしたい)」は本音だったのかもしれませんね。蜀漢の分水嶺はやはり荊州失陥でしょう。あそこで国力、戦略的な幅、全てが縮んで、「普通にやったら勝てない」になってしまった。そこから盛り返す諸葛亮はやっぱりすごいのですけどね。(有能な魏の初代、二代目の皇帝を見ながら)まぁ、正直、長生きしている時点で「有能」だと思うんですよね。治世に大きな問題はなかったわけだし。
ただ、劉禅もいい歳なので、外部から強い影響を受ける立場でもなかったかと。劉禅がまだ若ければ、外戚と宦官の確執はあり得たのかも、なんて。
董允が後宮拡大を強く諌めたのは、劉禅が後宮の女性を増やすことにより、外戚も増えることから、外戚を人材の確保の方法にしようとしたのに対して、「振り回されるリスクの方が強いのでダメです」と言う意味があったのではないでしょうか。ただ、言い方でもっと董允が自分の弱さを出せれば、劉禅の心に諫言がしっかり残っただろうに、ただトラウマにしてしまいましたね。
荊州を取られた時点で蜀漢には第三位の勢力の道しか無く第三位の勢力が存続し続けるには成否と損耗率に関わらず筆頭勢力を削り続ける事が最低条件だったんだと思いました。その最低条件が出来なくなったので滅亡迄総力戦をして益州の民草を疲弊させる事はせずに劉禅は降伏をしたんだと思うし、降伏後は漢室の血を絶やさない為には何等かの勢力の旗頭にも成り得ない程の暗君を装う事が必要と自身を戒めたのでは?と思います。
劉禅が暗君扱いで、諸葛瞻が演義で評判を爆上げされてるのは理不尽だよなぁ。国是を理解し長年に渡って国を保った劉禅が暗愚とは思えない。姜維の足を引っ張り、黄崇の助言を聞き入れずに成都防衛に失敗した諸葛瞻の方がよっぽどやらかしてるでしょ。
段谷で負けた時点で、諸葛センがどうこうより、姜維と中央政権の意思疎通がガタガタになってたのが何ともって感じなんですよね。まぁ、諸葛センは武官ではないにもかかわらず、武官顔負けの戦いぶりですから、ドラマになりやすいのも分かる(´-ω-`)
横山三国志とかから入ると姜維って諸葛亮に抜擢されて後事を託されたイメージが強いんですが、実際には抜擢したのは蒋エンさんなのですかね。蜀の滅亡まで奮闘したのが姜維だったから、演義では諸葛亮が姜維に後を託したというストーリーを作った??
まぁ、諸葛亮に高く評価されていたことが国内での立場に繋がり、蒋琬に重用されるようになったみたいな流れですね。諸葛亮に降った姜維は、まだ二十半ばくらいでしたし、大任を担うには若すぎたみたいな面もあるのかもしれません。
劉禅は黄皓を使い穏やかに権力集中していったのかも知れませんね。
【細かい事を抜きにして、諸葛亮が北伐を続ける上で、趙雲が抜けた穴はあまりにも大きかったと想われます。劉禅と諸葛亮の間を取り持つ人でしたから】魏の曹叡即位後の政情不安に付け込んだ初回の北伐が、蜀にとって最大のチャンスでもありました。そこで「己の策謀に自惚れている、大将となって図に乗っている、周りの意見を聞かず独りよがりになっている」馬謖が、最優先事項である街亭を封鎖せず、お山の大将らしく山頂に布陣して、張郃に破られた事が痛手となったのは確かです。荊州の名門馬氏出身で、荊州閥主流派のホープだった馬謖の敗戦は、軍事においてその程度の人材しかいないのか?と信頼を損ねる結果になりました。馬謖は新進気鋭の姜維の出現に焦りを感じ、自ら総大将を買って出て、手柄を立てようと躍起になっていたと推察します。敗れた馬謖は、敵前逃亡し身を隠してやり過ごそうとしましたが、バレて言い訳した挙句に処刑されました。責任逃れの体質は、その後の荊州閥の主流派(蒋琬・費禕ら以降の者共)にも引き継がれているのです。趙雲の方は陽動部隊として、諸葛亮の隴西方面進攻を援け、役目をきっちりと果たしてます。最終的に戦況が変化し、曹叡自身の長安出馬という後詰を得て、勢いに乗った魏軍に敗れたのであって、趙雲の非のある事ではありませんでした。この時の撤退も最善、最小限の犠牲で自軍を引き上げさせているのです。それでも、自ら敗戦の責任を取り、必罰を申し出て官位を下げています。武官達の信頼厚く蜀の要となって趙雲が亡くなると、文官らが何かと軍事に口を出し、結果劉禅と諸葛亮の仲に隙間が生じて、蜀は空中分解していっているのです。実直な趙雲の態度に、馬謖を推挙し総大将として行かせ、敗北して言い訳する馬謖を庇う体たらくを見せた荊州閥の主流派は、さぞ肩身の狭い思いをした事でしょう。それでなくとも、荊州閥の主流派は馬謖程度の人材がホープという位に、書生あがりの実務能力に乏しい者達ばかりでした。特に、人的資源の集中と業務の効率化を図って権限を集約させた丞相府を諸葛亮が開設した事で、仕事を選り好みする体質と骨惜しみにする勤務態度が目に付く様になります。官吏の質・量共に圧倒する強国魏に勝つ為に、小国ならではの小回りの利く組織で、状況を把握しやすい体制を作った諸葛亮が目を光らせている訳です。官吏(属官)らは息つく暇もありません。儒学的教養を強味とする書生の多い荊州閥の主流派にとって、献身に働く事を強いられる丞相府は苦痛でした。だから、諸葛亮の死後、解体されている訳です。自分達の保身の為に、有力者にポストを割り当てて職務権限を分散させた事で、非効率な業務がなされ、官吏の選抜も実務に疎い書生が優先的に登用され、官吏の質も低下しました。魏の体制を模倣しただけの形骸化された組織形態であり、魏には絶対に勝てない国情になっていったのです。それだけでなく、荊州閥の主流派は諸葛亮の死後の混乱に乗じて、反対派を粛清してもいます。北伐を再開した姜維軍の主力は漢中に駐留する将兵であり、姜維を援けた陳祇も漢中軍を活かす体制を整えていました。段谷で鄧艾に敗れたのも、費禕暗殺後も外戚である張飛の一族(張紹ら)と組んで中央政界を支配していた荊州閥の主流派(宗預・董厥・廖化ら)が、成都から援軍を遣さなかった事が要因。それ故に、姜維は漢中で屯田兵を増員を図る事になっているのです。漢中と成都との間に、解離が生まれている事は明らかでした。魏による征蜀軍が発せられると、進んで降伏していったのは、残っていた荊州閥の主流派らです。最後は、宗預が張紹と共に降伏する形で終結しています。諸葛譫が思う様に動けなかった背景には、張飛一族の縁者だった事がありました。張飛の孫で張紹の甥である張遵を、半ば人質にとって出陣している位です。劉永は劉備と呉懿の妹の間に生まれた子で、外戚である張飛の一族にとっては厄介な存在だから、左遷されたのでしょう。羅憲に関しては、中央に召還された宗預の代わりに、外地に出されたという事情もあります。ちなみに、荊州閥でも反主流派の鄧芝は、宗預とは仲が悪く政敵の関係。また呉の朱績は親蜀派の人物であり、反蜀派の歩一族とは政敵です。宗預の外交は、所詮鄧芝の二番煎じ。鄧芝の死後(諸葛恪暗殺も絡んで)呉との外交関係が悪化と一途を辿った事を見れば明らかです。劉禅に処遇に関しては(鄧芝の子である鄧良が間に立ち)降伏を許した鄧艾は劉禅を厚遇しましたが、鄧艾を逮捕し後に殺害した衛瓘は劉禅を冷遇しました。劉禅は戦犯扱いで洛陽に護送されていますが、霍弋の駆け引きもあって許され、劉備の故郷である幽州の安楽公に封じられています。宗預らも戦犯扱いで護送されましたが、釈放された後に生涯を終えました。姜維と鍾会の反乱の話も、衛瓘が己の保身の為にでっち上げた謀略だと想われます。そうなると、蜀の滅亡はかなりしょっぱいものです。
馬謖に関しては、何故か一般的に、馬謖が進んで悪手を選んだという風に見ていますが、当人の立場になって考えると、わざわざ下手をうつわけがありません。この時点での最善手が山頂への布陣であった、と考えるのが普通かなと。例えば、張郃の進軍が思ったより早く、堅固な陣を敷く時間が無かった為に、地の利を活かす形をとった。みたいな。王平の布陣の正しさを例に出されることもありますが、あれは馬謖の本軍あってこその牽制ですし。趙雲の死で文官武将に齟齬が生じたという、確たる話はたぶんないかと。あれは楊儀と魏延の性格によるものですし、そもそも文官と武将はいつの時代もいがみ合う存在です(笑)丞相府の解体は諸葛亮が没したからで、それ以上でもそれ以下でも無いかと。外戚が力を持てるのは、皇帝が幼い間だけです。後漢の梁冀などがその最たる例でしょう。だからこそ、張紹が大きな力を持てたかというと微妙な所です。あくまで主権は劉禅にありますし。劉永が穆皇后の実子であるというのは演義の設定ですね。実母は不明だったはずです。呉との関係悪化は、諸葛亮と諸葛瑾のパイプが無くなったせいでしょう。そもそも孫呉は関羽奇襲で恨みを買ってますし、諸葛亮死後、関係が悪化するのは自然な流れです。
@@KOUMEI_NO_WANADA さん返信ありがとうございます。不躾ながら質しておきますが。関白(天子の政務をあずかりもうす)の語源となった大将軍・録尚書事の象徴的人物は、霍光。武帝末期から宣帝前期まで、実権を持ち続けた権臣。霍光に関しては、天子を蔑ろにして専横していたという批判があります。大将軍は軍事の最高顧問で謂わば元帥、録尚書事は国連で言えば事務総長・国で喩えると大統領。丞相というのは、天子の信任を受けた者が任命される内閣総理大臣。どちらが権限を持っているかは明らかで、蒋琬・費禕らが劉禅を蔑ろにして専横していた事は確かです。諸葛亮が丞相の時、軍事の統帥権は劉禅にあって、近衛(皇帝の親衛隊)参謀総長というべき立場だったのが中護軍の趙雲。つまり劉禅の軍務は、趙雲に委ねられていたという事。だから、劉禅の代理として別働隊を動かせたのです。皇帝の親衛隊だから劉禅が出陣しているも同然で、これ以上ない囮になる事が出来ました。諸葛亮・趙雲の戦略により、曹真達は陽動に引っかかって北伐における主導権を握る事に成功しているのです。天水・南安・安定を抜き、隴西には抑えの将兵を置いて、涼州攻略に乗り出していた諸葛亮と丞相府司馬(先鋒大将)で涼州刺史へ異動になっていた魏延。その戦略を馬謖が街亭を抜かれた事で、御破産にしてしまっています。それだけ、馬謖の罪は重いのです。馬謖が、絶対に勝てなかった理由もあります。まず将兵達は寄せ集めで、大将の馬謖には信頼も人望もなかった事。それでなくとも、馬謖は苦労知らずの良家のボンボン。机上でしか物を考えた事のない、幹部候補生。現場が何たるかを知らないのです。経験値が圧倒的に足りず、臨機応変に欠きます。周りの協力が不可欠なのに、周りの意見を聞かないお山の大将。用兵に関しても、山の麓に本陣を置き、部隊を出丸の様に半円状に配置し、背山の陣を取って魏軍を牽制するならばいざ知らず、魏軍を叩こうとして息巻いて山頂に布陣し、敵状を観て戦術を決めようとした「判断の遅い」かつ『馬鹿は高い所が好き』を象徴する大将です。そもそも、街亭封鎖が間に合わなければ、陣形を整えて道を塞ぐ様に布陣し、余裕があれば障害物などを置くなど、守りに徹すれば済む話。要は、街亭を抜かせなければ良い訳ですから。半ば強行軍の張郃の最優先事項は、魏軍で隴西を死守している游楚の救援。道を塞がれ、守られる方が嫌なのです。山頂にいる馬謖など、無視しても進撃する事は可能。慌てた馬謖が山を降り打って出た処を、心積もりがあれば反転攻勢に転じるのも容易。百戦錬磨で将兵からの信望の厚い張郃は、その辺の臨機応変さには長けています。すぐに撃破されたのでは、馬謖の格好がつかないから、頑張った処を見せたと脚色したのでしょう。馬謖の実力は、烏巢を失陥し現場放棄して楽進に斬られた淳于瓊と同レベル。馬謖の現場放棄とその敗戦の言い訳は、取り繕う事はできません。馬謖の街亭に派遣する大将として推挙したのは、この時丞相府の参軍の一人だった費禕でしょう。だから、与党である馬謖擁護が入っています。軍事に精通していたら、信賞必罰の観点から、そんな事は言えません。呉懿も歴戦の武将として、涼州攻略に参加していました。涼州の攻略が遅れても、諸葛亮の支持母体である荊州閥の主流派のゴリ押しを却下しても、呉懿を派遣すべきだったと思います。人事は国の内情を知る貴重な事実であり、就任した人物がその地位でどんな結果を出したのかで評価は決まるものです。趙雲亡き後に中護軍に任じられたのは、文官の高位である侍中から丞相府の参軍の一人に転じていた費禕。中護軍では何の業績も上げられなかったのは確かで(むしろ李厳の足を引っ張っている)前線勤務である司馬に降格人事で異動になっています。つまり費禕は、前軍師・征西大将軍に昇進した魏延よりも格下になっている訳です。軍務に携わる官吏は、数字一つ間違うだけで死に直結する責任を負います。現場の将軍として当然の事を主張する魏延に、覚悟の足りない楊儀が泣かされたのはそれ故。諸葛亮の仕事ぶりを引き合いに出されたら、楊儀は文句も言えないでしょう。それでも、軍事用兵に無知な書生あがりの陳寿主観の史料は楊儀びいき。呆れて物が言えません。政治は文官の専売特許とでも思っていたのでしょうか?。陳寿の様な人物が登用される蜀末期の官吏の質など、たかが知れたものです。夏侯惇や程昱など、武官出身の政治家が多かった魏に勝てなかったのも頷けます。征蜀における司令官の鄧艾・鍾会にしても、政務(尚書畑)の官吏出身者。荀彧から始まり、陳羣によって魏朝に引き継がれ官吏の質・量を駆使した尚書中心の政治体制に対抗するには、官吏業務の効率化を図って権限を集約させた丞相府以外にはありませんでした。皇帝の公的秘書官である尚書政治を熟成させた魏の政治体制を真似た処で、勝てる訳がないのです。蜀の軍務は魏延を中心に、副将の呉懿・(馬謖がポンコツだという事を証明して以後)蜀軍に欠かせない先鋒大将となった王平・第一次北伐以降漢中の留守を預かっていた参軍格の鄧芝・姜維なども加えて十分機能してましたし、南中(南蛮)には馬忠・張嶷も控えていました。魏延が大将軍として漢中に駐留し、軍事外交に精通し治政能力もある鄧芝が丞相となって成都で政務を執れば、蜀は滅亡を回避出来たかも知れません。そうならなかったのは、蒋琬・費禕・宗預らがいたからに他なりません。特に宗預は、張飛が厳顔を降らせた時に従軍していた人物で、外戚の張一族とは縁があるのです。張一族は張飛が殺されて首が呉に持ち去られ経緯から、一貫して反呉勢力でした。諸葛亮の北伐にも、反対の立場で、呉蜀同盟の足を引っ張った存在でもあります。費禕が殺された時、外様である姜維達に実権を握られる事を恐れた宗預・董厥・廖化らは、張一族を抱き込んで日本でいう自・社・さ政権みたいな体制を構築しているのです。張飛一族の同族的立場で、益州出身の張翼も参加していました。だから、張紹らは力を持っていたのです。姜維や夏侯覇でも、張紹達には逆らえないでしょう。張紹達の生母は、魏の夏侯一族の娘。征蜀の鍾会軍には、夏侯一族に関わる人物(夏侯和や夏侯覇の縁者である羊祜)加わっています。既に夏侯覇は亡くなっていますし、戦意喪失するのは当然。張紹の与党は戦わずして降っていきます。最後は売国奴的に張紹と宗預が降伏した、それが蜀滅亡の真相だと想われます。
史料に無い話が多い気が……(笑)街亭の道に簡易的な防陣を敷いたところで、兵力で劣っていれば力負けします。山頂の布陣を無視する事もできないでしょう。脇腹をつかれますし。将兵が寄せ集めだったという話もみたことがない気がします。馬謖は南中平定の戦略の中核を諸葛亮と練っていた人物なので、功績が皆無というわけでもありません。それと宗預は親呉の動きが多く、北伐に反対したとか徒党を組んだという話も無く、むしろ徒党を組むのを拒んでるくらいです。張紹が強権を振るっていたという話もありませんね。あくまで主権は劉禅にありますので。
|ω・)んー・・・?論点のすり替えされている?めっちゃ長文で書いてあるけれど全然関係ない内容やどっからそんなソースの情報が出てるのかさえ分からない・・・('A`)演義の見すぎでごっちゃ混ぜかしら?
@@KOUMEI_NO_WANADA さん史料にない処は、状況証拠で補なっていますので、その点はご容赦を…(苦笑)道を塞ぐ様に布陣する事は、たとえ寡兵で簡易な防陣を強いたとしても、密集体形で盾を壁に将兵を壁として幾重にも連ねれば、そう簡単に突破されず、力負けする事もありません。張郃軍の強味は、張郃自身が陣頭指揮を執り、率先垂範で将兵達を教化し、統率していた事。騎兵主体の編成で、機能力と攻撃力(突破力)に優れていた事。救援に向かわざる得ない張郃軍の行動範囲(機動力)を限定し突破しなければ先へ進めない状況に出来る上、その進軍の勢い(攻撃力)を削ぎ、密集体形で統率は取れてなくとも指揮命令系統は機能し、張郃の(統率力を基にした)臨機応変の用兵に対抗し得るのです。書生に過ぎない馬謖は、自前で将兵を集める人望はなく、兵奴が主力の部曲に戦力を依存していました。馬謖と共に処断された将校の張休・李盛・黄襲という連中が、該当します。それ故、大将に対する信望は皆無で、指揮命令も行き届かず、統率も取れていない弱兵。だから、王平が与力として付けられました。これが、寄せ集めの馬謖軍の実体。王平がいない馬謖軍は、烏合の衆。命令を発してから山を下るのに、どれ位の時間がかかるのでしょうか。ましてや脇腹を突く事なんて、出来る訳がありません。それこそ、机上の空論。判断も遅く、動きも愚鈍な馬謖軍を、機敏な張郃軍が急襲して包囲出来たのも、当然の成り行きだと言えます。山頂に布陣するデメリットはまだあって、お山の大将の上から目線は、相手が小さく見える故に過小評価し、寡兵で戦っても勝てると錯覚させます。打って出て面食らうのは、必定。「生兵法は怪我のもと、生物食うは下痢の因」現場で実地経験を積んでいない馬謖は、疾風怒濤の張郃襲来で臆病風に吹かれ、帷幕で指揮を執っても将兵は動いてくれません。取り敢えず人心地つける山頂に布陣したのが実情だと想います。だから、勝てないとわかると将兵を置き去りにし、現場放棄して逃げたのでしょう。馬謖は、越巂太守を務めていたといわれます。南蛮の異民族に高圧的に接して統治に失敗したから、雍闓らに反乱を起こされたのでしょう。この反乱を現地に入って鎮撫したのは、李恢と馬忠です。諸葛亮は指示しただけ、馬謖に至っては、文言によって功績を掠め取っているに過ぎません。馬謖が優遇されたのは、夷陵の戦いで死んだ馬良の弟だという事に尽きるでしょう。魏からすれば『どこの馬の骨だ』という程度の人物。外交は、宗預の様に財貨を使ったご機嫌取りでやるものではありません(返礼として、玉が贈られているとの事)→下手の外交で、主導権は呉にあり、蜀にとっては屈辱的なもの。鄧芝の様に状況を観て、駆け引きでやるものです。軍事力の行使は駆け引きの一環、外交の一手段に過ぎません。鄧芝が外交を成功させ、呉蜀同盟を復活させる事が出来た背景には、魏が呉に軍事力を行使し、呉が危険な状況に置かれていたからです。蜀が魏を牽制してくれれば、呉は窮地を脱する事が出来ます。蜀としても、国賊である雍闓への呉の支援を断絶させるのに有効な手段、張裔の解放交渉もありました。蜀が終始主導権を握ったまま、孫権とも対等の外交をやってます。「外交は、相手の欲しいものを目の前にぶら下げる事。自分が欲しい欲しいでは、話も聴いてくれない」ギブアンドテイク・どちらかもメリットがあるウィンウィンの関係。鄧芝は、諸葛亮とは別の外交チャンネルの構築に成功しているのです。そんな鄧芝を晩年、くだらない事で批判したのが宗預。第一次北伐以降、長年軍事に携わってきた鄧芝に対して、暗に引退を勧めています。そもそも、今まで殆ど軍務の経験のない宗預が60を過ぎて武官になるのが問題なのであって、70を過ぎたとはいえ健在な鄧芝に言えた義理ではないのです。史料を見る限り、鄧芝を非難しているのは、宗預だけ。対立関係にあった事は明白なのです。鄧芝は姜維の事を高い評価していました。諸葛亮・諸葛瑾亡き後、呉との外交の窓口に、諸葛恪を使っていた事でしょう。だから、姜維と諸葛恪は共闘関係でいられたのだと想われます。鄧芝亡き後は、宗預は好き勝手に振る舞えた事でしょう。諸葛恪が暗殺された後は、雍闓の事で遺恨のある反蜀勢力の歩一族と関わりを持つ全一族や孫峻が実権を握りましたから、断交するのも容易でした。その時に、反呉の張一族と手を組んでも、不思議ではないでしょう。それに、蜀滅亡の混乱に乗じ永安に攻め込んだ主力は、歩一族でしたし。鄧芝の息子鄧良が、降伏の使者に立ち、鄧艾と交渉して、劉禅が武人の作法に則り降伏しているのは、直前まで外戚である尚書の張紹・宗預らに実権を握られていて、自由が動けなかったからではないですか。劉禅に実権があったという話には、無理があります。
主題ではありませんしさらっと流した程度でも同じ北伐を扱った某投稿者の作品より精彩に富んでいると思いました。リクエストになるかも知れませんが北伐で諸葛亮が何故反対を押し退けてゴリ押ししてまで馬謖を起用し水と油の王平を副将に据えたかを解き明かしてくれる事を希望します。
馬謖が街亭で馬鹿をしなければ、関中を制圧して100年は続いた気がしますな。
でも、相手があの張郃なんだよなぁ……(笑)
山登りしなきゃ良かったとかいろいろ言われるけど普通に無茶振りなんだよなあ…街亭勝っときゃどうのこうのとか言われるけど焼け石に鼻水で、孔明がビーム出せるくらいしなきゃ北伐成功は無理
別に街亭で負けても大丈夫じゃ無いですか?遅滞戦闘さえ継続出来れば本隊と合流出来る可能性が高く周辺地域が蜀に好意的である以上もし戦術的敗北をしても張ごう(変換できなかった)軍の補給は厳しいと思われます。北方の異民族を巻き込めばまだ第一次北伐の時点では戦略的勝利が出来ると思われます。
一説では、例の登山家は最初は登山する気が無かったのに緒戦で張郃に粉砕されて、やむなく山上に避難するしか無かったとか。魏の精鋭たる歩騎5万と、ベテラン戦士を夷陵の戦いで失い経験不足の歩兵ばかり1万弱とでは、まるで戦いにならないでしょうから。
樊城、夷陵、街亭、段谷、局地戦でのいくつかの勝利も重要な戦いに結局負けてしまうのが蜀の悪しき伝統。逆に言えば魏にとってはこの重要拠点での戦いにふさわしい人材をいつでも整える決断ができるからこそ蜀は付け入るスキがなかった。司馬懿や鄧艾だけじゃなくて満寵、張郃、曹真、郭淮など局地で失敗があっても重要なところをしっかり防衛する本当の名将が常に控えている。夷陵の場合は呉の陸遜だけどさ。
吉川では夷陵の戦いでふうしゅうの他にも張南、傅トウ、黄権、黄忠、程祭主などもなくなってますよね...惜しい損失です。
夷陵の戦いでは馬良が戦死、黄権は退路を断たれ魏へ投降。劉備が白帝城へ逃げている事から馬良ほどの重臣であれば劉備と共に白帝城に入っていてもおかしくはないのですが、劉備を逃がし呉軍の追撃を遅らせるために兵を率いて留まった可能性もありますね。黄権は蜀に居れば大きく名を残した可能性もありますが、魏に降ってからは単に死を逸れただけとして、曹丕に厚遇され司馬懿からも高く評価されていましたが才能を発揮しようとはしませんでした。黄忠は夷陵の戦いより前に亡くなって居ます。吉川三国志は三国志正史をもとにした小説三国志演義をさらにアレンジした小説になりますね。
劉備が漢室の復興掲げて皇帝になるも初手で呉と戦という謎ムーブ。そのせいで地盤がゆるゆるな玉座が誕生したけどそれをキープできたのは評価できる
劉禅は諸葛亮に政治や軍事の一切を一任していた。これはよっぽど信頼していないと出来ない行為で諸葛亮も劉禅に取って代わる事ができるから。
う〜んなんというか蜀って本当に負けられない戦に限って負ける、大事な時に限って重要人物が何かしらで没する…みたいなジンクスを感じますね…
入蜀の時に荊州せめて4群くらい返還しとけば孫呉とまだ協力する未来があったと思うんだよなぁ
孔明が夷陵の戦いで国力回復の為南方平定してますが、益州平定後魏との国力差を埋めるため、北伐の前に南方平定する意見があったのか気になりました。
益州平定後はとくに南中は暴動を起こしておらず、表面上は大人しくしていたので平定するまでもなかったのかなと思いますね。
もし、鄧艾の軍勢が迫った時、劉禅が徹底抗戦を選んでいたら益州人士の離反を招いて国がさらに乱れたかもしれない。益州人士は「自分たちの権益を保護してくれるなら統治者は誰でも良い」と考えていたようで、劉備の入蜀時にあっさり劉璋を見限った。同じことが起きなかったとは言えない。
モッチー2643様正史で劉禅も南中の霍弋らを頼って粘ることを考えていましたが、しょう周がモッチーさんの言っていたことを挙げて説得したからですね。そう考えると劉禅はバランス感覚はしっかりしていた、と言えますね。
国家の中枢が倒れた時や政権交代があった時に、まず内部の不穏分子を取り除いて勢力を一丸にするってのが最適なんですね諸葛亮の南中征伐豊臣秀吉の清須会議から賤ヶ岳ひいては頼朝亡き後の北条氏の粛清祭り…wいろんな政権で内部統制が行われていますが、以降はスムーズに組織が運営されていくイメージですね
龐統の死が一番大きい彼が生きてれば法正と2人で長安も選挙もできたかもしれないし荊州も失わずに済んだかもしれない
龐統はいなくても麋竺・孫乾・移籍・法正・郭攸之が存命ならば蜀は魏より長らく国家を維持出来たはずいや、街亭の戦いで王平の言うことを馬謖がすんなり受け入れていたら、夷陵の戦いがなければ蜀は変わってた
ターニングポイント...関羽が于禁軍の兵士の扱いを持て余したこと、その次に馬謖が逃げたことでしょうか。
関羽の動画の時も言ったんですけど隣が同盟国とはいえ荊州の防衛が手薄すぎる気がするんですよね。姜維は荊州をとり(または、援軍の見返りで荊州を得て)二方面から北伐したいと言っても反対したの気になりますね。短期的には遠回りに思えても荊州を得ていればいくらかましになったと個人的には思うんですよね。内政の法正、軍事の龐統、カリスマ型の指導者の劉備といった地位を一人で担った諸葛亮は優秀だとは思いますが、同時に人材不足の現れとも言えますね。あと、姜維は軍事の才覚においては諸葛亮を上回るという意見もありますが派手な大敗をしないという点においては諸葛亮のほうが蜀の国力では良かったのかもしれないですね。
一応、諸葛亮の死後には荊州方面の防備は厚くなってますね。蒋琬は東進を主眼に置いてましたし、その流れでしょう。姜維は涼州出身なので、知らない土地である荊州への侵攻作戦は、立てるのが難しかったと思います。廖化なんかが軍部筆頭になってれば、東進に傾くこともあり得たかも……なんて
結局、その三国を統一した晋も長くは続かなかったし。魏呉蜀は遅かれ早かれ滅亡の道は免れなかったと見る。
劉禅の蜀を滅ぼしたあとの発言も、自分やその側近を守るために愚者を演じたと考えられる。反乱が続く時代に見を守ることは難しいミッションだから。
魏(晋)の政治家にすれば早く出世するには蜀の出身の大物を反逆罪の証拠を掴むことでしょう。ほぼ毎日様に誘導尋問が合ったと思う。
元々劉焉勢力が根付く国に後から劉備がやってみて内輪揉めと力で乗っ取って、荊州やら魏の逃亡者やらでごちゃごちゃの状態だし、劉備も諸葛亮も結局、継続的な国家運用、後継者の環境構築って話になるとあまりできていない状況で、血統でトップになりましたって人間にどれほどの発言力やら影響力があったって話だと思う。
うぼつです。姜維の一計、三賢を殺すが、決め手になってしまいました。。。。。蜀漢の分岐点は、一番勝率の高いと思われた第一次北伐に敗北したことだと、個人的には思う。
魯粛が長生きしてくれれば呉とも連携とれたんでしょうけどねぇ
この時代は魏=本州、呉=四国・九州、蜀=北海道国力が全然違うからね~むしろ劉禅は名君でよくやったんじゃないの
蜀を元手に天下取り!それこそ主君が光武帝とか李世民の様な人物でも無い限り、いや、彼等でも難しいかと……………(地図だと三分割してる感しますが、魏一国で実質大半をせしめてますし………)
関羽の戦死というよりは同盟国から攻められるだけの隙を見せた事なのかな。蜀を滅ぼして魏とタイマンするより両国で魏を滅ぼした方が有意義だという未来を提示出来なかった時点で時間の問題だったと思うよ。
関羽自身が孫権を呉王のアホ犬呼ばわりしてるくらいだからなあ。呉としても荊州の所有権は呉にあると思ってるわけだし、それこそ同盟関係なしにサッサと荊州返せって言いたくなるわけだよ。結果的に諸葛亮の戦略自体が無理要素が多すぎる。せめて荊州を統治するのが諸葛亮自身だったら関羽よりはうまくやれてただろうけど。
雍州・涼州を取れば北斉に近くなるから可能性が出てくると思う
交易路も抑えられますしね
北周じゃなくて?
国が小さい割に派閥が多いのよね
魏や呉に比べれば1つにまとまってたかと。まぁ、大きな敵が居ると国内はまとまりますよね(笑)
漢中王宣言をした時点で劉備三兄弟からしたら偉業なんだろうけど、孔明からしたら通過点なわけで。劉備と関羽を抑える人がいなかった。これが歪みの原点で孔明のプランを狂わせた。かな?
三兄弟は一緒じゃないと駄目なのかもですね
偉大な信玄亡き跡の武田勝頼が織田信長から家督を継いだ信忠による、甲州征伐を受けて、もし真田昌幸の提案上野岩櫃城への本拠移転を受け入れていたら、を彷彿させるif。武田の血筋を甲斐武田家から上野武田家に転換してでも、僅かな賭けにでてたら、武田本家の直系は残っていたかという。それでも上野ですり潰されなら、小さく消える滅亡を甘んじるくらいなら、どうせ滅亡が避けられないなら織田軍の前に玉砕滅亡させた方が最後の歴史を飾れると考えていたのかもと
正直劉禅ってなんかタイプ的に劉章といったところか。人間的にはくせもなく現代日本にいたら普通の中堅企業の会社員でごく普通の家庭を築いてそうなタイプ。劉備は「無責任シリーズ」の主人公みたいな人生歩みそう。曹操は若くして相当な地位にいそうな感じ。
考えれば考えるほど結局悪いのは夷陵に侵攻した劉備なのではとなるような…
侵攻自体は別に理に適ってはいます。ただ、関羽も張飛もない劉備になってしまっていたのがほんとに。
劉備が荊州に侵攻したのは蜀軍にいる荊州出身者の為の戦だったのかと。
やっぱり、私は皇帝が李傕から洛陽に逃げてきたとき、曹操が出迎えに上がってしまったことに端を発してると思います😃だって、そのときに劉備が丞相の位を持てば、徐州に一時的にでも皇帝を起き、袁紹に曹操討伐命令を下せてたはず。そうやって各諸侯に命令して漁夫の利を得ながら地盤を固めれば、苦戦しつつも漢を再興出来たはずです。実際に漢の建国者の劉邦が皇帝になれたのは、当時の権力者から認められたことで権力の足固めが出来たからです。曹操は初期の頃、結果的に劉邦と同じことをして、勢力を拡大できました。しかし、劉備は徐州がどうのとか、小さいことにこだわったために千載一遇のチャンスを逃してしまいました。結局、曹操にチャンスを与え、魏を建国するきっかけを与えたのです。これが長い目で見ると、裸一貫で建国した劉備の蜀漢と権力者のリソースを上手く活用した曹操の魏と国力の上で決定的な差に繋がってしまいました。当然の結果、国力の差は日増しに両国の相続において重大な問題をもたらしました。蜀漢の滅亡は、運命だったとしか言えません。
関羽や張飛は武人としては最高級だったが部下を軽んじたり名士を軽んじたりと人物としては最高級ではなかった。荊州を趙雲に任せてたら状況は変わったかもしれないですね
確かに趙雲にませていたら呉との対応は変わったでしょうただ諸葛亮死後、董允・蔣琬・費禕に任せるしかなったのも蜀の人材不足ですね、孫乾・移籍・法正・郭攸之・龐統らが存命なら魏より滅亡は遅かったはず
呉と蜀の国内が万全で同盟を組んだ場合どうだったんだろう? それでも大国魏には敵わなさそうな… 魏の状況にもよりけりか
唯一蜀だけが海に面していないんだよな…中国は岩塩が取れるからそれで賄っていたのか、南蛮から輸入していたのか…しかし近年様々な人物の評価が変わってきてるけど、日本国内での評価?中国における評価なのか疑問が残る。
しかし、益州は温泉みたいに塩水が湧き出る地が多く、塩の産出量は他に引けを取らなかったとかも聞きますね。むしろ一番豊かだったとも。ただ、鉱石や塩は出るが、食料面が中々厳しかったとか。
やっぱり蝙蝠の考え方を崩さないで偽りの大義名分でから蜀が収めるべき天下の要所である地"荊州"の地を上手く活用しなかった孫呉の浅はかな真似が蜀漢を滅した最大の原因だと思う(勿論孫権にそう動く様曹操に進言して奴を唆した司馬懿の智謀もあるけど)
馬超が早死にしたのがかなりキツいと思うんだよな。涼州に人脈と土地勘があり名前も知れ渡っている彼が一次北伐に参加出来てれば違ったと思う
郭淮の胃に穴が空きそう(笑)
龐統がラクホウハで戦死せず、諸葛亮が荊州に残っていたらどうなったかな
演義で趙雲が劉禅を劉備に届けた時、地面に投げ落として「劉禅のせいで趙雲を失うところだった」と叫ぶシーンがあったが地面に投げて頭を打ったせいで頭が悪くなったというのをネタにした4コマ漫画あった。 劉禅、今川氏真、織田信雄はボンクラトリオで父親の威を取り戻せなかったが真のボンクラだったお陰で脅威に思われなかったから天寿を全うできたとも言える
スリキンでも、死ぬだろそれって勢いで投げつけてますからね(笑)
ep-05.8蜀軍にとっては決して無駄な時間だったわけではなく、孔明が十連弩や木牛流馬を思いつくヒントにはなっていたのかも知れない。ただ、徐元直は最後まで義を貫いた。だからこそ、孔明の嘆息になるのだ。これほど義に厚い漢(おとこ)であるのに、こんな辺境の軍司令官とは、魏にはよほど人材が豊かなのだろうか、と。治安の回復した長安の地で鍾元常の子の鍾士季(225年生まれ)が5才くらいの時、招かれた徐元直が真顔で尋ねられたから答えたのは、蜀を討つのなら西方境界の山を踏み越えて南下し、成都(せいと)の西で山を降りればすぐです、という言葉を、まさか子供が本気で覚えているとは思わなかったからだろう。あいつは孔明よりほんの2、3年、先に逝ってしまったらしい。
孔明亡き後のエピローグとしての三国志の主役?姜維について、名将だったのか単なる戦バカだったのかどう思われますか?個人的には彼が魏の武将だったらトップクラスの名将として普通に名を残したでしょうけど、三国最弱の蜀の将だったハンディ・キャップは余りにも大きく、戦バカみたいな評価があるとしたらちょっと可愛そうな気がしますが・・・。
確かに姜維は無理の大きい戦を繰り返していますが、蜀漢が漢王朝の後継を名乗ってる以上、魏の討伐は避けることが出来ない国是です。小国が大国に挑む以上、どうしたって無理はしないといけませんし、魏将の徐質を討ち、王経を大破した軍才は当世きってのものだったと思います。それほどの勝利を重ねながらも、涼州を切り崩すことが出来ないのが蜀漢の小ささを示しており、逆に魏の大きさも示しているのかなぁと。単純な北伐の軍事的功績で言えば、諸葛亮を上回っている名将だと自分は思ってます。
@@KOUMEI_NO_WANADA やっっぱり姜維は孔明が見込んだだけの逸材ではあったんですね!ありがとうございました。
黄皓を悪くないとか説明してる時点で三国志ファンを逆撫でする有り得ない説明だ。
いつもタメになります。ありがとうございます。コメントで取り上げて欲しい人を書いてと言うてはりますので、「沙摩柯」を解説して欲しいです。ホンマに甘寧を撃ったのは沙摩柯なのか!?反乱の多い南蛮地区でなぜ彼は蜀漢に付き従ったのか!?めっちゃ知りたいです。一考して頂けると幸甚です。
申し訳ありません、動画の最後にも述べていますが、リクエストはFANBOXでのみ受け付けております。もしよろしければFANBOXの方ものぞいていただけますと嬉しいです。
@@KOUMEI_NO_WANADA 大変失礼しました
諸葛亮 全部一人で政治してたんかwwwwww
三國志の内容自体が世界最大の講談話だから何ともだよね・・・
蜀の劉禅は暗君って言われているけど、曹操の子孫や孫権の方がよっぽどやらかして草。事実だけを言うと、魏は確かに蜀を滅ぼしたけど、249年にすでに、権力が司馬懿に、263年に蜀滅亡、もうそのころには呉が孫権が暗君になっていて、そのあとみんな殺されるところをみると、劉禅が一番良かったような。
この動画で劉禅や黄コウのイメージが変わった(^^ )
蜀漢臣下の画像がただの組員wまあ、劉備は元々任侠の親分みたいなものだから合ってるっちゃ合ってるんだけど。
まあ『兄弟』なんてヤクザの始まりだからな
滅亡云々を言うのはともかく、蜀は第二世代が出なさすぎる。立伝クラスが董允と向寵、霍弋くらい。魏は敢えて挙げる必要も無いが、呉と比べても少なすぎる。陸抗や朱然、諸葛恪だけではない孫静や張昭、顧雍の子達、その他も付伝される人物は多い。突出した人物に対抗できる人士が二代目三代目にいなかったから、諸葛死後も姜維が大敗するまで成り上がった初代に対抗できなかった。その姜維に対してでさえ、漢中と成都という歪な形で、姜維の忠誠心があって初めて成立する派閥争いだったわけで、費禕のように実力で北伐を棚上げに出来る人物はいない。悲しいなぁ
正直蜀が魏に勝つにはハンニバルレベルの大英雄いないと無理な気がする…
北方系騎馬民族がヒャッハーして魏に民族移動して大混乱しないと無理ゲーだが
どう見ても荊州を失った関羽が戦犯だと思う
29:35 関羽の死去が220年、陳祗の死去が258年で、あれから38年も経っているのに、
関羽の主簿だった廖化が、いまだに話に出てくるっていうのは、地味にすごいと思う。
きっちり、蜀漢滅亡の263年まで見届けてるんだよなぁ。
とても面白かったです。特に劉禅と姜維の立場と行動について蜀漢の国家戦略からの再評価を試みているのは感嘆しました。姜維は北伐に固執して蜀を衰退させたと批判されることも多いですが、時代の移り変わりと魏の強大さを考えると、動画でご指摘のように蜀が守勢に徹してもそれはそれであらゆる面で先がなかったように思えます。諸葛亮時代よりも更に困難な道を歩むしかなかった彼らの世代の苦悩に心引かれる人も多いでしょうね。
劉禅が諸葛亮に国政を任せたってところに注目したのが面白い。
暗君って言われる劉禅だけど、有能な人に仕事を任せるってことが出来る分、劉禅はもっと評価出来ると思った
ガチの暗君なら諸葛亮没時にそのまま蜀が滅んでそう
Up主様、お疲れ様です。
予備校教師神野氏みたいに「劉禅は何にもできないんだから、人の言うことを聞いてろ」的に見る人が多く、それを覆す見方や論拠が難しい感じがありました。
up主さんの丁寧、かつ愛情を持った考察にようやく我が意を得た感じがしました。
そもそも蜀漢という国家の大きさを見れば、滅亡の責任を劉禅に被せるのはあまりにも酷なんですよねぇ('ω')
劉禅は自分の能力を知り、図に乗らず、役割を知ってた
その点では名君だ
蜀には劉璋時代からいた益州派と荊州から劉備についてきた荊州派がいて、両派閥をまとめ内紛での空中分解を防ぐにはどうしても共通の敵が必要だったからこそ北伐を行ったと聞きます。事実夷陵の戦いの後には何度も内乱が起きていたし北伐の最中にも何度も派閥争いで諸葛亮の脚が引っ張られてたみたいですし。建国の時点でハードモードだったけど夷陵の敗戦でべーリーハードモードになったって感じですね…
劉禅は「父の残した蜀漢と諸葛亮のやり残した北伐」を守りたかったのかなぁ…と思いますね〜
とは言え色々な派閥の意見をバランス良く取らないと蜀漢は即滅ぶくらいの危機感があったのかも…
国内で揉めた瞬間、外敵に食い潰されますからね(゜ω゜)
劉禅は名君か暗君かは未だに決着しない議題ですね。
蜀を滅ぼしてしまった、という点だけ見れば暗君と言われても仕方がないけど、劉備が亡くなってから約40年国を守ったのは個人的に凄いと思います。
他の国が、バンバン変わりすぎなんだよなぁ……(笑)
統一した王朝をも半世紀経たずに崩壊させてしまった西晋、数年で国を崩壊させる五胡十六国の皇帝たちに比べたら際立って有能
諸葛亮が亡くなってから29年持たせてるんだし一概に暗君とも呼べないな
劉禅は言うほど暗君ではなかったという久保さんの見解に惚れました
たしかに丞相亡き後よくあそこまで持ち堪えたよなぁ
名君とまではいかずとも、暗君ではないって感じですね。
@@KOUMEI_NO_WANADA なるほど
失礼しました💦🙇♂️
編集しときます
@@胡蝶しのばない まぁ、僕の個人的な贔屓を含めば、劉禅は名君(ぇ
@@KOUMEI_NO_WANADA いや、私もそう思います。
史実をみても、丞相亡き後あそこまで国を存続させていたのは普通に明君と呼んでも良いのでは?とずっと思っておりました。演技の被害者の1人ですよね。ツベで初めてこの考えを形容してくださったのが久保氏です。というか今でも久保氏くらいですよ。目から鱗でした。
@@胡蝶しのばない
自分は自ら統治するタイプではないので、英雄ではないと思いますが、君主としては十分な手腕であったと思います。
ただ、やはり国家は滅んでるので「名君」とは呼べないと思います。真に名君ならば、自国の滅びを回避してるでしょうから。
個人的な評価は「準名君」といったところです。
40年在位して暗君らしいことをしてないというのは評価できる点だと思う
人事のバランス感覚と「部下に任せる能力」はこの時代ではトップクラスだと思う。
平穏な世の中なら名君として名が残っていたかもなぁ
無能な怠け者こそトップに立つと一番有能
@@韓非-h4u ちょっと違う。
お疲れ様です!
劉禅は、魏や呉と違い若い頃から着実に成果を出して、皇帝としての尊厳を得て国家の中心へって感じで、強い皇帝だなと。最初から諸葛亮に全権を渡せるくらいの器量を見るに、若いときから皇帝としての器は十分だったんでしょうね。
蜀は、防衛が強い分、国家存続のために北伐を反対する勢力が現れるのも仕方ないと思います。攻めなくても目下滅ぶことはないですからね。
分岐点は、勝手に呉が沈んでいったことかなと。呉が脅威のままなら蜀討伐に本腰は入れられなかっただろうなぁと。
やっぱり、歴史のたらればを妄想するのは楽しいですね。
なぜ、繁栄してゆくのかよりも、なぜ、滅んでゆくのかにロマンを感じる今日この頃!実に面白い動画でした!
袁紹亡き後の袁家滅亡とかもできればでいいので見たいです!
最近陳祗の活躍を知りました。
投稿主さんがおっしゃるように、費禕亡き後の蜀漢の重要人物ですよね、彼のお陰で姜維は北伐に専念できたわけですし。(その割には演技にも出てこないし、三国志ゲームでも扱いは悪いですが💦)
でも考えてみると面白いですよね、諸葛亮が後任を託したのが蒋琬はともかく、その次が北伐反対派の費禕で、その費禕が登用したのが北伐賛成派の陳祗で、そして諸葛亮の息子である、諸葛センが父親の遺志を継ぐ姜維の足を引っ張る…
いずれにしても諸葛亮が亡くなった事で、蜀漢には滅亡しか残されていなかったのかも。そう考えると虚しいものもあります。
諸葛センの代にもなってくると、北伐より、荊州派の衰えの方に危機感を持ってたでしょうね。
8:15 臥していた龍ってワードセンス好き
自分のこれまでの劉禅のイメージは軍人将棋のグンキ(軍旗)に近い感じでした。
自分から動けない、後ろに置かれたコマの強さと同じになる、後ろにコマが無いと必ず負けるってやつ。
でも皇帝の権力を使って色んな派閥を両立して登用することが出来ていたと聞くと、自ら動いて国のバランスを取ろうとする力は持ち合わせており決して只の傀儡だったわけではないと思えてきますね。
在位の長さは皇帝の権力の増強に繋がりますからね
三国志解説動画は多いが
ここほどに説得力があり知的なうp主は一人もいない
まさに天下無双の知恵者だ
拝謁をお許しください
最初からほぼ詰んでたから一度のミスが命取り
そんな状態でも致命的な破綻を見せず最後までジリ貧を維持してた時点である意味有能だったのかも知れませんね
魏が強大すぎて勝てる余地が本当に無かった
逆に曹魏も赤壁の大敗で天下を取れる可能性が1ミリ程度すらなくなったって言われてる
司馬炎以降の八王の乱、五胡十六国時代のハジけっぷりを知ってから、劉禅を名君と思うようになったよ………。
演義はどうあがいても史実を基にしている以上「蜀漢の敗北」という歴史的事実は避けられないわけで
そこへきて劉禅は特に良くも悪くも目立たない皇帝だからこそスケープゴートにするには丁度良い存在だったことは確か
勝利の英雄よりも敗北の戦犯が求められるなんてことはよくある話です
よく劉禅の降伏批判されてるけど
早くに降伏したのは民や臣下のこと考えたら名君の判断だったと思う
孫呉滅亡に比べたらかなりマシ
抗ったところで挽回の機会が無いですからねぇ……
@@akio484
劉琮、劉 章
@@akio484 降伏までの過程を批判するならともかくあの状況での降伏を批判するのは完全に間違っていると思います。
分岐点は龐統の戦死ですかね…。諸葛亮がそのまま荊州に居座り続けられれば荊州を失わずに済んでいたかも…。
法正も結構大きいと思うんですよね
生きていれば夷陵の戦いも起きないか、起きても大敗まではいかなかった可能性があるように思える
曹操が警戒したのは劉備を法正が支えて諸葛亮が後方支援のパターンだからホウ統はそこまで影響するかは?
彼は正直劉備の下より周瑜の下の方が輝いてる気もするし
夷陵の戦いと漢中の戦いは劉備に戦の引き際を諭す人物がいたかどうか。黄権は漢中でも献策をして貢献したが法正ではないんだよね。
光栄の三国志孔明伝のifストーリーでは龐統が戦死しなかった場合
益州の統治を龐統に任せて諸葛亮が荊州に戻ることになり関羽も戦死せず
夷陵の戦いも起きないので張飛以下有能な将も生き残り南蛮平定後まで劉備生存ってシナリオになりますね
これは上手くいきすぎな気もしますけど。
龐統がいなくても龐統に代わる優れた荊州人材は他にもいくらかはいる。龐統だったから劉備を諫めれたとか夷陵の大敗はなかったという類の問題ではないと思う。というか龐統がそれほど偉大な実績を残したという印象は私の主観では全くない。少なくとも同じくらいの年齢で死んだ周瑜や郭嘉のような国家レベルの損失を示すほどだったとは思えない。
帝にあること40年それまでの漢武帝に次ぐ長さでそれを超えるには梁武帝が出る300年後をまたねばならぬほどの格外の存在劉禅が愚帝なわけではなかろうとは思うのであります
長坂坡で趙雲が拾ったのは間違いじゃなかったんですね…
劉禅はようやっとる
逆に厳しく言うなら、問題の先送りしか出来なかった、ということでもあります。
まぁ、そこまで求めるのは酷なのでしょうね^^;
@@KOUMEI_NO_WANADA 曹操曹丕曹叡や孫堅孫策孫権は、自ら戦いに出向くといった英雄的な気質を持っていてそれが継承されていますが、劉禅は劉備と違って全くその気質が乏しいんですよね……本当に劉備の息子なんでしょうか?実は趙雲が長坂坡で「劉禅見失ったやべえ」ってなって代わりに近くの子供連れてきた説、だから劉備も投げ捨てたと考えれば辻褄も合いますね🤔
@@mechadebu 劉備は戦場に出ずっぱで、母は頻繁に変わる。しかも国を継いだ途端、滅亡の危機に瀕している。お目付け役は超厳しい董允。人間は全て環境です( ;∀;)
@@KOUMEI_NO_WANADA なるほど……曹操の行軍に付き従い更に後継者闘争で揉まれた曹丕、孫策に従って各地を転戦し何度も命の危機を迎えた孫権、その二人に比べると劉禅は物凄く経験不足だった訳ですね……
@yamada taro 確かに劉諶を見捨てたり、生きるためとはいえ蜀は思い出さないと平然と言ったり、こういったエピソードは後世での評価を下げてしまう原因でもありますね。終わりよければすべてよしと言うように、逆に言えば晩節を汚せばそれまでの功績が全て無に帰す場合もありますからね…
もしかしたら劉禅は人を見て託す目という劉備の特能は受け継いでいたのかもしれませんね。他の面で活躍するには、成長する機会や国力の余裕がなかっただけなのかもしれません。
劉備は基本的に部下を信じず自由は許さず全部自分でやりたい人やでー。
劉禅の暗君エピだと、ことわざにも残った司馬昭との宴席での話が印象的ですね。
この話の通りの人物とすると、暗君というよりも世間知らずなお坊ちゃまのまま大人になったのかなって感じがする。
例え関羽があの時点で敗死していなくとも、年齢的に関羽が活躍できるのはその後10年ほどだろうし、その間に劉備の寿命も来るはず。
いつまで荊州を維持できていたかは未知数ですが、陸遜の起用が成った場合。劉備と関羽の寿命が来たあと、どのみち荊州は取られていたと思います。
ただ、その後の夷陵の戦いは回避できたと思うので、人材不足は解消できたかもしれませんが、今度はそれ故の荊州派閥での内部抗争の可能性も……
歴史にIFを持ち出せば、キリがありませんね。
荊州失った時点で投了、呉も終わった瞬間だったが
守るには適してたが、攻めるには辛すぎる。補給が続かない、は致命的すぎる
そんな詰んでるのに、君主やらされた劉禅は貧乏くじすぎるが何十年も統治した
これは有能やろ、延々北伐するわ大敗するわしても、ギリ持ってたぐらいだし
関羽と荊州の損失というダブルパンチが1番あかんと思う。
関羽の喪失って言うほどか?
蕭何とか諸葛亮とか、そういうレベルの怪物が兵站を支えてくれたら有能かもしれないけど、そういうぶっ飛んだ有能がいないとあんまり役に立たないイメージ
馬良辺りを目付け役で置いとくべきだったな。全権関羽に委ねたのが間違い
あと登山家による北伐の失敗も痛かったな
@@takotako6104
関羽が呉に※されたおかげで夷陵の戦い起きて有能な将兵が多数お亡くなりに・・・
龐統に落鳳坡って地名で白馬に乗せる壮大な前フリ
傾いた国をどうにか一人のせいにしてる時点でもはやきついですよね。
しかも当初は諸葛亮がいてやっと北伐できるようになったのに亡くなったあとに皇帝の劉禅に負けぬ力量求めなければ滅ぶくらいだからもう運が悪いとしか…
むしろ国内は平和だったことを評価してほしいですね。
龐統と法正の早すぎる死 そして荊州を失った事が最大の痛手ですかね
関羽は将としては凄いけど人間は三流
龐統生存ならば呉と調和を保ち孔明と法正で魏に備えられある程度は戦いは出来たかも
しかし曹操が河北 中原 涼州抑えた時点で結果は見えていましたね
まず経済力が圧倒的に劣っているので内政の充実ってのは一番ベストな選択なわけよね。
だがジャングルばっかりの益州は地勢的に耕作に向いていない土地であり、当時の主要産業である農業の拡大は限界があった。
農業が拡大できないならば人口も増えない。よって動員可能な兵力数も必然的に少なくなってしまう。
すなわち蜀漢は、選択肢が最初から限られていたのである。
塩や鉱石がとれても飯が取れぬ……
@@KOUMEI_NO_WANADA まあアダム・スミスも農業できんと他の産業も育たんって言ってますから、じゃあ商業立国しろよっていうんも無理なんですよね…荊州ない時点でもうほぼ無理ゲーですなあ。。。
最近考えるのは漢中王になった後、樊城じゃなくて呉を攻めていたらどうなっていたかですね。
馬超・諸葛亮が西側を抑えつつ、劉備・関羽・張飛で東に攻め込んだら呉は耐えしのげただろうかって。
ちょっと早い南北朝時代もあったかもなあって思います。
その世界線も面白そうですね。腰を据えてれば魏もやがて曹操が没しますし、大きく動けなくなると見れば、案外うまくいきそうな気もします(*´ω`)
蜀と死闘をした直後ですら魏のオールスターに陸遜すら使わずに朱然無双で凌いでるわけで
蜀をフルボッコにした陸遜と魏を抑えれる朱然に加えて呂蒙までいる状態ではハードルがかなり高い
関羽の性格をおそらく把握していた(張飛と馬超の絡みでそんな逸話がありましたよね)であろう諸葛亮が関羽1人に任せて大丈夫、と思っていたのかが疑問。それともそこまで兵を割けなかったのかな?関羽なら魏に対してにらみは効くから孫呉と仲良くしてくれさえいればとりあえず防げると踏んでいたのかも。
というかそもそも、諸葛亮が益州に入らざるを得なくなった時点で、一つの州を任せられるだけの人物が関羽しかいなかったんじゃないかなぁと。不安は大いにあっただろうけど、その無理を通すことしかできないという(*‘ω‘ *)
最後まで戦い続けた姜維は、色々言われるのも理解出来ますが、やはり魅力的に感じる人物ですね、一緒に殺された張翼は賛同していなかったとしたらたまったもんじゃなかったでしょうが
姜維は蜀史の華ですからね
呉に助けを求めたけど蜀滅亡時辺りに羅憲が守る白帝城にどさくさで攻め込まれるという誰も助けに来てくれなかったし、前々から内輪もめで支援もしてくれないというというオチ
今までは魏も西涼方面は放棄傾向だったのが隴西方面が固められて二方面に軍を咲かざるを得なくなる+段谷でただでさえ少ない兵力割くって・・・って流れがな
段谷の一戦で全てがおじゃんになってしまうのが、蜀漢の悲しいところ。
黄皓は最後に姜維からの援軍要請を握りつぶした事、諸葛瞻に「黄皓をもっと早く斬っておけば」と言われた事でかなり悪評が強くなってますね。
援軍要請って、そんなに簡単に握りつぶせるものなんですかねぇ……って疑問が自分にはずっとありましたね。
姜維が朝廷と意思疎通が図れていなかったこと、後にちゃんと廖化と張翼が援軍に出ていることを見ると、対応が遅れただけのようにも思えます。
余力もほとんど無かったでしょうし。
寧ろ魏の侵攻という未曽有の国難に姜維と共闘しようとしない諸葛瞻の人格の方が問題
@@MUSASI40 ただ、諸葛瞻が国政を握ったのは段谷後なので……
信玄、氏康、信長、家康に囲まれた今川氏真と劉禅ともに暗君として批判されるけど「じゃあ、おまえやってみろよ」って言われるとそれ以上に上手くできる人なんてあまりいない無理ゲーだったっていう。
ほんとにそれなんですよね(笑)
勝頼もじゃないかな、と個人的には思う
食糧生産性の低さは益州も駿河も甲斐も共通してまふね…
親父が晩年やらかした負の遺産を背負わされたという点で劉禅と勝頼は実際よく似ている
氏真の場合は……まあ、ただ一度の不運が悪かったとしか
三国志と戦国史って似てる箇所があるのが面白いですよねぇ
呉との同盟が決裂せずにずっと連携が取れてたら魏を倒すチャンスもあったのかな?
孫権にはあまり天下統一の野望は無さそうで結局は北伐の成功は難しそうですが
孫権は呂蒙の定めた、長江流域の確保をほぼ達成してるので、これ以上の領土拡大にはあまり積極的ではなかったでしょう。残るは合肥のみだったでしょうし。
一番のターニングポイントは荊州喪失、次が夷陵の敗戦、までかな
その後は第一次北伐が成ったとしていても長安とれたくらいじゃ正直一瞬で涼州方面が味方になってくれない限り持ちこたえられないと思う
荊州からの北伐が成っていれば漢王朝派の人間の合流も見込めたろうけど第一次北伐くらいの時期だとちょっともう時期的に漢王朝派の人間の寝返りって期待できないと思う
第一次北伐は魏の警戒が強くなる前に涼州、雍州を攻略しようとする目論見があったかとおもいます。
諸葛亮の北伐で最も意義の高い戦いでありましたが、街亭での大敗によって撤退する事となり、以降の北伐では防備を固めた魏軍との対峙に苦戦する事となります。
後任の蔣琬が荊州方面上庸の攻略を計画します。荊州方面から攻めれば成功したとまでは言いませんが、選択肢のひとつとしてあれば諸葛亮にも成し得なかった北進を繰り返すよりは可能性があったと言えるでしょうね。
良くも悪くも諸葛亮死後に、魏延と楊儀という政権にとって有能だが危険な人材を切り捨てた合理性は素晴らしい。
まさに蜀にとっての
「鶏肋」
だったのでは?
@@金剛ちゃんねる 鶏肋は意味違うでしょ。
捨てるには惜しいと言う部分は当てはまるけど基本食っても腹の足しにならないと言う意味だから逆に有害な彼らとは全然違う
独裁って悪いイメージがあるけどこの動画を見て独裁はそう悪いものじゃないとわかりました。
公明正大で慈愛に満ち有能な君主の独裁体制の国が民衆の幸福度が一番高い国だと思う
ジョン・アクトンが言ったように絶対的な権力は絶対的に腐敗するので限界あるけど
国が荒れてるときは一番、独裁が効率が良いって話なので、そこに善し悪しを求めるとまた話は難しい(笑)
共和制ローマは独裁と民主のメリット・デメリットを考えて、いつでもスイッチできるような制度であった。
独裁というと一見有害なイメージを持たれがちですが、昨今の中国を見て分かる通り、政治の機敏性として独裁は他の政治形態よりも優れていて緊急時に力を発揮させやすいのでしょうね。
平常時は民主。戦争起きたら独裁。
独裁政治はそのドラスティックに改革できる反面、個人の英雄的気質にすべてを丸投げするから、そのリスクの大きさとのバランス考えると危険なギャンブル甚だしい。古代のローマ帝国や中国史、ヨーロッパ世界史などを見てもひとりの人間に権力が集中する(特に己の力で建国しての独裁でなく、世襲などの建国の労苦を経験しないケース)と名君よりも暗君、暴君などに変貌する例の方がはるかに多い。
劉禅が投降後、酒宴の席で
蜀は懐かしいですか?と聞かれて、蜀なんて懐かしくない、ここが居心地良いというエピソードが本当のものなら、どう立ち回ったら自分の身が危険なのかしっかりと分かっている人物だと言えるので、それなり知恵があり暗君とはいえないと思うかな
他の時代の暗君なら懐かしいですと言ってしまい反乱の可能性がありとみて処刑されているだろうと思う
孔明は全権を握って劉禅はどっしり座る関係にちょっと形態が違うが似てるのは主君に害を及ばさないように力を持たずに知恵袋に徹した徳川家康と本多正信とかかな同じく水魚の交わりと呼ばれてる
期間は短いものの賈詡と曹丕の関係も同様
まさか、もう一人キーマンがいたとは。陳シ、心に留めておきましょう。
何だかんだ言っても、劉禅はよく健闘した方ですね。統一王朝の二代目皇帝だったら、名君として後世に記憶されたでしょう。
諸葛亮が忠義の士扱いされているのは、曹操や司馬懿と違い息子等の一族に権力を継承させなかったのが大きいんですかね?
本人がやっている事自体は2人とあんまり変わらない印象です。
諸葛瞻自体は台頭してきていたので、もし魏が攻めてこずに諸葛瞻が権力を掌握し本人か息子が簒奪していたら扱いが全く変わったんですかね?
そもそも諸葛瞻が司馬昭なり曹丕なりの国家を統治運営させていく能力そのものがあるとは思えない。
最も損害を小さくして負けるという点においては評価されていいと思う。勝てば官軍の時代でこそ暗君凡君であったが賊軍として処分されることもなかった。内紛もなかったという事実を鑑みればそれなりの信頼も得られていたという表れなのだから思慮もなく暗愚だと怒号を浴びせるのはいささか早計であろう。
というか、皇帝という存在はあまりにも一般とかけ離れてますから、我々が評価するってのもまたおかしな話ではありますね(笑)
西晋時代も曹魏、孫呉の一族よりも劉禅の子孫は長く続いている。
司馬炎以降の司馬一族の暗君暴君のそのしくじりのひどさと量に比べたら十分な名君。
個人的には、蜀漢の末期の劉禅と張紹の関係が気になっています。
宦官の登用が外戚の介入を防ぐためのものだとしたら、黄皓の重用の意味は…と考えてみたり。「蜀に帰りたくない(あの頃に戻りたくない、安穏と暮らしたい)」は本音だったのかもしれませんね。
蜀漢の分水嶺はやはり荊州失陥でしょう。あそこで国力、戦略的な幅、全てが縮んで、「普通にやったら勝てない」になってしまった。そこから盛り返す諸葛亮はやっぱりすごいのですけどね。
(有能な魏の初代、二代目の皇帝を見ながら)まぁ、正直、長生きしている時点で「有能」だと思うんですよね。治世に大きな問題はなかったわけだし。
ただ、劉禅もいい歳なので、外部から強い影響を受ける立場でもなかったかと。劉禅がまだ若ければ、外戚と宦官の確執はあり得たのかも、なんて。
董允が後宮拡大を強く諌めたのは、劉禅が後宮の女性を増やすことにより、外戚も増えることから、外戚を人材の確保の方法にしようとしたのに対して、「振り回されるリスクの方が強いのでダメです」と言う意味があったのではないでしょうか。
ただ、言い方でもっと董允が自分の弱さを出せれば、劉禅の心に諫言がしっかり残っただろうに、ただトラウマにしてしまいましたね。
荊州を取られた時点で蜀漢には第三位の勢力の道しか無く
第三位の勢力が存続し続けるには成否と損耗率に関わらず筆頭勢力を削り続ける事が最低条件だったんだと思いました。
その最低条件が出来なくなったので滅亡迄総力戦をして益州の民草を疲弊させる事はせずに劉禅は降伏をしたんだと思うし、
降伏後は漢室の血を絶やさない為には何等かの勢力の旗頭にも成り得ない程の暗君を装う事が必要と自身を戒めたのでは?と思います。
劉禅が暗君扱いで、諸葛瞻が演義で評判を爆上げされてるのは理不尽だよなぁ。
国是を理解し長年に渡って国を保った劉禅が暗愚とは思えない。
姜維の足を引っ張り、黄崇の助言を聞き入れずに成都防衛に失敗した諸葛瞻の方がよっぽどやらかしてるでしょ。
段谷で負けた時点で、諸葛センがどうこうより、姜維と中央政権の意思疎通がガタガタになってたのが何ともって感じなんですよね。まぁ、諸葛センは武官ではないにもかかわらず、武官顔負けの戦いぶりですから、ドラマになりやすいのも分かる(´-ω-`)
横山三国志とかから入ると姜維って諸葛亮に抜擢されて後事を託されたイメージが強いんですが、実際には抜擢したのは蒋エンさんなのですかね。蜀の滅亡まで奮闘したのが姜維だったから、演義では諸葛亮が姜維に後を託したというストーリーを作った??
まぁ、諸葛亮に高く評価されていたことが国内での立場に繋がり、蒋琬に重用されるようになったみたいな流れですね。諸葛亮に降った姜維は、まだ二十半ばくらいでしたし、大任を担うには若すぎたみたいな面もあるのかもしれません。
劉禅は黄皓を使い穏やかに権力集中していったのかも知れませんね。
【細かい事を抜きにして、諸葛亮が北伐を続ける上で、趙雲が抜けた穴はあまりにも大きかったと想われます。劉禅と諸葛亮の間を取り持つ人でしたから】
魏の曹叡即位後の政情不安に付け込んだ初回の北伐が、蜀にとって最大のチャンスでもありました。そこで「己の策謀に自惚れている、大将となって図に乗っている、周りの意見を聞かず独りよがりになっている」馬謖が、最優先事項である街亭を封鎖せず、お山の大将らしく山頂に布陣して、張郃に破られた事が痛手となったのは確かです。
荊州の名門馬氏出身で、荊州閥主流派のホープだった馬謖の敗戦は、軍事においてその程度の人材しかいないのか?と信頼を損ねる結果になりました。馬謖は新進気鋭の姜維の出現に焦りを感じ、自ら総大将を買って出て、手柄を立てようと躍起になっていたと推察します。敗れた馬謖は、敵前逃亡し身を隠してやり過ごそうとしましたが、バレて言い訳した挙句に処刑されました。責任逃れの体質は、その後の荊州閥の主流派(蒋琬・費禕ら以降の者共)にも引き継がれているのです。
趙雲の方は陽動部隊として、諸葛亮の隴西方面進攻を援け、役目をきっちりと果たしてます。最終的に戦況が変化し、曹叡自身の長安出馬という後詰を得て、勢いに乗った魏軍に敗れたのであって、趙雲の非のある事ではありませんでした。この時の撤退も最善、最小限の犠牲で自軍を引き上げさせているのです。それでも、自ら敗戦の責任を取り、必罰を申し出て官位を下げています。武官達の信頼厚く蜀の要となって趙雲が亡くなると、文官らが何かと軍事に口を出し、結果劉禅と諸葛亮の仲に隙間が生じて、蜀は空中分解していっているのです。
実直な趙雲の態度に、馬謖を推挙し総大将として行かせ、敗北して言い訳する馬謖を庇う体たらくを見せた荊州閥の主流派は、さぞ肩身の狭い思いをした事でしょう。
それでなくとも、荊州閥の主流派は馬謖程度の人材がホープという位に、書生あがりの実務能力に乏しい者達ばかりでした。特に、人的資源の集中と業務の効率化を図って権限を集約させた丞相府を諸葛亮が開設した事で、仕事を選り好みする体質と骨惜しみにする勤務態度が目に付く様になります。
官吏の質・量共に圧倒する強国魏に勝つ為に、小国ならではの小回りの利く組織で、状況を把握しやすい体制を作った諸葛亮が目を光らせている訳です。官吏(属官)らは息つく暇もありません。儒学的教養を強味とする書生の多い荊州閥の主流派にとって、献身に働く事を強いられる丞相府は苦痛でした。だから、諸葛亮の死後、解体されている訳です。
自分達の保身の為に、有力者にポストを割り当てて職務権限を分散させた事で、非効率な業務がなされ、官吏の選抜も実務に疎い書生が優先的に登用され、官吏の質も低下しました。魏の体制を模倣しただけの形骸化された組織形態であり、魏には絶対に勝てない国情になっていったのです。それだけでなく、荊州閥の主流派は諸葛亮の死後の混乱に乗じて、反対派を粛清してもいます。
北伐を再開した姜維軍の主力は漢中に駐留する将兵であり、姜維を援けた陳祇も漢中軍を活かす体制を整えていました。段谷で鄧艾に敗れたのも、費禕暗殺後も外戚である張飛の一族(張紹ら)と組んで中央政界を支配していた荊州閥の主流派(宗預・董厥・廖化ら)が、成都から援軍を遣さなかった事が要因。それ故に、姜維は漢中で屯田兵を増員を図る事になっているのです。漢中と成都との間に、解離が生まれている事は明らかでした。
魏による征蜀軍が発せられると、進んで降伏していったのは、残っていた荊州閥の主流派らです。最後は、宗預が張紹と共に降伏する形で終結しています。諸葛譫が思う様に動けなかった背景には、張飛一族の縁者だった事がありました。張飛の孫で張紹の甥である張遵を、半ば人質にとって出陣している位です。
劉永は劉備と呉懿の妹の間に生まれた子で、外戚である張飛の一族にとっては厄介な存在だから、左遷されたのでしょう。羅憲に関しては、中央に召還された宗預の代わりに、外地に出されたという事情もあります。ちなみに、荊州閥でも反主流派の鄧芝は、宗預とは仲が悪く政敵の関係。また呉の朱績は親蜀派の人物であり、反蜀派の歩一族とは政敵です。宗預の外交は、所詮鄧芝の二番煎じ。鄧芝の死後(諸葛恪暗殺も絡んで)呉との外交関係が悪化と一途を辿った事を見れば明らかです。
劉禅に処遇に関しては(鄧芝の子である鄧良が間に立ち)降伏を許した鄧艾は劉禅を厚遇しましたが、鄧艾を逮捕し後に殺害した衛瓘は劉禅を冷遇しました。劉禅は戦犯扱いで洛陽に護送されていますが、霍弋の駆け引きもあって許され、劉備の故郷である幽州の安楽公に封じられています。宗預らも戦犯扱いで護送されましたが、釈放された後に生涯を終えました。
姜維と鍾会の反乱の話も、衛瓘が己の保身の為にでっち上げた謀略だと想われます。そうなると、蜀の滅亡はかなりしょっぱいものです。
馬謖に関しては、何故か一般的に、馬謖が進んで悪手を選んだという風に見ていますが、当人の立場になって考えると、わざわざ下手をうつわけがありません。
この時点での最善手が山頂への布陣であった、と考えるのが普通かなと。例えば、張郃の進軍が思ったより早く、堅固な陣を敷く時間が無かった為に、地の利を活かす形をとった。みたいな。
王平の布陣の正しさを例に出されることもありますが、あれは馬謖の本軍あってこその牽制ですし。
趙雲の死で文官武将に齟齬が生じたという、確たる話はたぶんないかと。あれは楊儀と魏延の性格によるものですし、そもそも文官と武将はいつの時代もいがみ合う存在です(笑)
丞相府の解体は諸葛亮が没したからで、それ以上でもそれ以下でも無いかと。
外戚が力を持てるのは、皇帝が幼い間だけです。後漢の梁冀などがその最たる例でしょう。だからこそ、張紹が大きな力を持てたかというと微妙な所です。あくまで主権は劉禅にありますし。
劉永が穆皇后の実子であるというのは演義の設定ですね。実母は不明だったはずです。
呉との関係悪化は、諸葛亮と諸葛瑾のパイプが無くなったせいでしょう。そもそも孫呉は関羽奇襲で恨みを買ってますし、諸葛亮死後、関係が悪化するのは自然な流れです。
@@KOUMEI_NO_WANADA さん
返信ありがとうございます。不躾ながら質しておきますが。
関白(天子の政務をあずかりもうす)の語源となった大将軍・録尚書事の象徴的人物は、霍光。
武帝末期から宣帝前期まで、実権を持ち続けた権臣。霍光に関しては、天子を蔑ろにして専横していたという批判があります。
大将軍は軍事の最高顧問で謂わば元帥、録尚書事は国連で言えば事務総長・国で喩えると大統領。丞相というのは、天子の信任を受けた者が任命される内閣総理大臣。どちらが権限を持っているかは明らかで、蒋琬・費禕らが劉禅を蔑ろにして専横していた事は確かです。
諸葛亮が丞相の時、軍事の統帥権は劉禅にあって、近衛(皇帝の親衛隊)参謀総長というべき立場だったのが中護軍の趙雲。つまり劉禅の軍務は、趙雲に委ねられていたという事。だから、劉禅の代理として別働隊を動かせたのです。皇帝の親衛隊だから劉禅が出陣しているも同然で、これ以上ない囮になる事が出来ました。諸葛亮・趙雲の戦略により、曹真達は陽動に引っかかって北伐における主導権を握る事に成功しているのです。
天水・南安・安定を抜き、隴西には抑えの将兵を置いて、涼州攻略に乗り出していた諸葛亮と丞相府司馬(先鋒大将)で涼州刺史へ異動になっていた魏延。その戦略を馬謖が街亭を抜かれた事で、御破産にしてしまっています。それだけ、馬謖の罪は重いのです。
馬謖が、絶対に勝てなかった理由もあります。まず将兵達は寄せ集めで、大将の馬謖には信頼も人望もなかった事。それでなくとも、馬謖は苦労知らずの良家のボンボン。机上でしか物を考えた事のない、幹部候補生。現場が何たるかを知らないのです。経験値が圧倒的に足りず、臨機応変に欠きます。周りの協力が不可欠なのに、周りの意見を聞かないお山の大将。
用兵に関しても、山の麓に本陣を置き、部隊を出丸の様に半円状に配置し、背山の陣を取って魏軍を牽制するならばいざ知らず、魏軍を叩こうとして息巻いて山頂に布陣し、敵状を観て戦術を決めようとした「判断の遅い」かつ『馬鹿は高い所が好き』を象徴する大将です。
そもそも、街亭封鎖が間に合わなければ、陣形を整えて道を塞ぐ様に布陣し、余裕があれば障害物などを置くなど、守りに徹すれば済む話。要は、街亭を抜かせなければ良い訳ですから。半ば強行軍の張郃の最優先事項は、魏軍で隴西を死守している游楚の救援。道を塞がれ、守られる方が嫌なのです。
山頂にいる馬謖など、無視しても進撃する事は可能。慌てた馬謖が山を降り打って出た処を、心積もりがあれば反転攻勢に転じるのも容易。百戦錬磨で将兵からの信望の厚い張郃は、その辺の臨機応変さには長けています。すぐに撃破されたのでは、馬謖の格好がつかないから、頑張った処を見せたと脚色したのでしょう。
馬謖の実力は、烏巢を失陥し現場放棄して楽進に斬られた淳于瓊と同レベル。
馬謖の現場放棄とその敗戦の言い訳は、取り繕う事はできません。馬謖の街亭に派遣する大将として推挙したのは、この時丞相府の参軍の一人だった費禕でしょう。だから、与党である馬謖擁護が入っています。軍事に精通していたら、信賞必罰の観点から、そんな事は言えません。
呉懿も歴戦の武将として、涼州攻略に参加していました。涼州の攻略が遅れても、諸葛亮の支持母体である荊州閥の主流派のゴリ押しを却下しても、呉懿を派遣すべきだったと思います。
人事は国の内情を知る貴重な事実であり、就任した人物がその地位でどんな結果を出したのかで評価は決まるものです。趙雲亡き後に中護軍に任じられたのは、文官の高位である侍中から丞相府の参軍の一人に転じていた費禕。中護軍では何の業績も上げられなかったのは確かで(むしろ李厳の足を引っ張っている)前線勤務である司馬に降格人事で異動になっています。つまり費禕は、前軍師・征西大将軍に昇進した魏延よりも格下になっている訳です。
軍務に携わる官吏は、数字一つ間違うだけで死に直結する責任を負います。現場の将軍として当然の事を主張する魏延に、覚悟の足りない楊儀が泣かされたのはそれ故。諸葛亮の仕事ぶりを引き合いに出されたら、楊儀は文句も言えないでしょう。それでも、軍事用兵に無知な書生あがりの陳寿主観の史料は楊儀びいき。呆れて物が言えません。
政治は文官の専売特許とでも思っていたのでしょうか?。陳寿の様な人物が登用される蜀末期の官吏の質など、たかが知れたものです。夏侯惇や程昱など、武官出身の政治家が多かった魏に勝てなかったのも頷けます。
征蜀における司令官の鄧艾・鍾会にしても、政務(尚書畑)の官吏出身者。荀彧から始まり、陳羣によって魏朝に引き継がれ官吏の質・量を駆使した尚書中心の政治体制に対抗するには、官吏業務の効率化を図って権限を集約させた丞相府以外にはありませんでした。皇帝の公的秘書官である尚書政治を熟成させた魏の政治体制を真似た処で、勝てる訳がないのです。
蜀の軍務は魏延を中心に、副将の呉懿・(馬謖がポンコツだという事を証明して以後)蜀軍に欠かせない先鋒大将となった王平・第一次北伐以降漢中の留守を預かっていた参軍格の鄧芝・姜維なども加えて十分機能してましたし、南中(南蛮)には馬忠・張嶷も控えていました。
魏延が大将軍として漢中に駐留し、軍事外交に精通し治政能力もある鄧芝が丞相となって成都で政務を執れば、蜀は滅亡を回避出来たかも知れません。そうならなかったのは、蒋琬・費禕・宗預らがいたからに他なりません。
特に宗預は、張飛が厳顔を降らせた時に従軍していた人物で、外戚の張一族とは縁があるのです。張一族は張飛が殺されて首が呉に持ち去られ経緯から、一貫して反呉勢力でした。諸葛亮の北伐にも、反対の立場で、呉蜀同盟の足を引っ張った存在でもあります。費禕が殺された時、外様である姜維達に実権を握られる事を恐れた宗預・董厥・廖化らは、張一族を抱き込んで日本でいう自・社・さ政権みたいな体制を構築しているのです。張飛一族の同族的立場で、益州出身の張翼も参加していました。だから、張紹らは力を持っていたのです。姜維や夏侯覇でも、張紹達には逆らえないでしょう。
張紹達の生母は、魏の夏侯一族の娘。征蜀の鍾会軍には、夏侯一族に関わる人物(夏侯和や夏侯覇の縁者である羊祜)加わっています。既に夏侯覇は亡くなっていますし、戦意喪失するのは当然。張紹の与党は戦わずして降っていきます。最後は売国奴的に張紹と宗預が降伏した、それが蜀滅亡の真相だと想われます。
史料に無い話が多い気が……(笑)
街亭の道に簡易的な防陣を敷いたところで、兵力で劣っていれば力負けします。山頂の布陣を無視する事もできないでしょう。脇腹をつかれますし。
将兵が寄せ集めだったという話もみたことがない気がします。馬謖は南中平定の戦略の中核を諸葛亮と練っていた人物なので、功績が皆無というわけでもありません。
それと宗預は親呉の動きが多く、北伐に反対したとか徒党を組んだという話も無く、むしろ徒党を組むのを拒んでるくらいです。張紹が強権を振るっていたという話もありませんね。あくまで主権は劉禅にありますので。
|ω・)んー・・・?論点のすり替えされている?
めっちゃ長文で書いてあるけれど全然関係ない内容やどっからそんなソースの情報が出てるのかさえ分からない・・・('A`)
演義の見すぎでごっちゃ混ぜかしら?
@@KOUMEI_NO_WANADA さん
史料にない処は、状況証拠で補なっていますので、その点はご容赦を…(苦笑)
道を塞ぐ様に布陣する事は、たとえ寡兵で簡易な防陣を強いたとしても、密集体形で盾を壁に将兵を壁として幾重にも連ねれば、そう簡単に突破されず、力負けする事もありません。
張郃軍の強味は、張郃自身が陣頭指揮を執り、率先垂範で将兵達を教化し、統率していた事。騎兵主体の編成で、機能力と攻撃力(突破力)に優れていた事。
救援に向かわざる得ない張郃軍の行動範囲(機動力)を限定し突破しなければ先へ進めない状況に出来る上、その進軍の勢い(攻撃力)を削ぎ、密集体形で統率は取れてなくとも指揮命令系統は機能し、張郃の(統率力を基にした)臨機応変の用兵に対抗し得るのです。
書生に過ぎない馬謖は、自前で将兵を集める人望はなく、兵奴が主力の部曲に戦力を依存していました。馬謖と共に処断された将校の張休・李盛・黄襲という連中が、該当します。それ故、大将に対する信望は皆無で、指揮命令も行き届かず、統率も取れていない弱兵。だから、王平が与力として付けられました。これが、寄せ集めの馬謖軍の実体。
王平がいない馬謖軍は、烏合の衆。命令を発してから山を下るのに、どれ位の時間がかかるのでしょうか。ましてや脇腹を突く事なんて、出来る訳がありません。それこそ、机上の空論。
判断も遅く、動きも愚鈍な馬謖軍を、機敏な張郃軍が急襲して包囲出来たのも、当然の成り行きだと言えます。
山頂に布陣するデメリットはまだあって、お山の大将の上から目線は、相手が小さく見える故に過小評価し、寡兵で戦っても勝てると錯覚させます。打って出て面食らうのは、必定。
「生兵法は怪我のもと、生物食うは下痢の因」
現場で実地経験を積んでいない馬謖は、疾風怒濤の張郃襲来で臆病風に吹かれ、帷幕で指揮を執っても将兵は動いてくれません。取り敢えず人心地つける山頂に布陣したのが実情だと想います。だから、勝てないとわかると将兵を置き去りにし、現場放棄して逃げたのでしょう。
馬謖は、越巂太守を務めていたといわれます。南蛮の異民族に高圧的に接して統治に失敗したから、雍闓らに反乱を起こされたのでしょう。この反乱を現地に入って鎮撫したのは、李恢と馬忠です。諸葛亮は指示しただけ、馬謖に至っては、文言によって功績を掠め取っているに過ぎません。
馬謖が優遇されたのは、夷陵の戦いで死んだ馬良の弟だという事に尽きるでしょう。魏からすれば『どこの馬の骨だ』という程度の人物。
外交は、宗預の様に財貨を使ったご機嫌取りでやるものではありません(返礼として、玉が贈られているとの事)→下手の外交で、主導権は呉にあり、蜀にとっては屈辱的なもの。
鄧芝の様に状況を観て、駆け引きでやるものです。軍事力の行使は駆け引きの一環、外交の一手段に過ぎません。
鄧芝が外交を成功させ、呉蜀同盟を復活させる事が出来た背景には、魏が呉に軍事力を行使し、呉が危険な状況に置かれていたからです。蜀が魏を牽制してくれれば、呉は窮地を脱する事が出来ます。蜀としても、国賊である雍闓への呉の支援を断絶させるのに有効な手段、張裔の解放交渉もありました。蜀が終始主導権を握ったまま、孫権とも対等の外交をやってます。
「外交は、相手の欲しいものを目の前にぶら下げる事。自分が欲しい欲しいでは、話も聴いてくれない」
ギブアンドテイク・どちらかもメリットがあるウィンウィンの関係。鄧芝は、諸葛亮とは別の外交チャンネルの構築に成功しているのです。
そんな鄧芝を晩年、くだらない事で批判したのが宗預。第一次北伐以降、長年軍事に携わってきた鄧芝に対して、暗に引退を勧めています。そもそも、今まで殆ど軍務の経験のない宗預が60を過ぎて武官になるのが問題なのであって、70を過ぎたとはいえ健在な鄧芝に言えた義理ではないのです。史料を見る限り、鄧芝を非難しているのは、宗預だけ。対立関係にあった事は明白なのです。
鄧芝は姜維の事を高い評価していました。諸葛亮・諸葛瑾亡き後、呉との外交の窓口に、諸葛恪を使っていた事でしょう。だから、姜維と諸葛恪は共闘関係でいられたのだと想われます。
鄧芝亡き後は、宗預は好き勝手に振る舞えた事でしょう。諸葛恪が暗殺された後は、雍闓の事で遺恨のある反蜀勢力の歩一族と関わりを持つ全一族や孫峻が実権を握りましたから、断交するのも容易でした。その時に、反呉の張一族と手を組んでも、不思議ではないでしょう。それに、蜀滅亡の混乱に乗じ永安に攻め込んだ主力は、歩一族でしたし。
鄧芝の息子鄧良が、降伏の使者に立ち、鄧艾と交渉して、劉禅が武人の作法に則り降伏しているのは、直前まで外戚である尚書の張紹・宗預らに実権を握られていて、自由が動けなかったからではないですか。劉禅に実権があったという話には、無理があります。
主題ではありませんしさらっと流した程度でも同じ北伐を扱った某投稿者の作品より精彩に富んでいると思いました。
リクエストになるかも知れませんが北伐で諸葛亮が何故反対を押し退けてゴリ押ししてまで馬謖を起用し水と油の王平を副将に据えたかを解き明かしてくれる事を希望します。
馬謖が街亭で馬鹿をしなければ、関中を制圧して100年は続いた気がしますな。
でも、相手があの張郃なんだよなぁ……(笑)
山登りしなきゃ良かったとかいろいろ言われるけど普通に無茶振りなんだよなあ…街亭勝っときゃどうのこうのとか言われるけど焼け石に鼻水で、孔明がビーム出せるくらいしなきゃ北伐成功は無理
別に街亭で負けても大丈夫じゃ無いですか?遅滞戦闘さえ継続出来れば本隊と合流出来る可能性が高く周辺地域が蜀に好意的である以上もし戦術的敗北をしても張ごう(変換できなかった)軍の補給は厳しいと思われます。北方の異民族を巻き込めばまだ第一次北伐の時点では戦略的勝利が出来ると思われます。
一説では、例の登山家は最初は登山する気が無かったのに緒戦で張郃に粉砕されて、やむなく山上に避難するしか無かったとか。
魏の精鋭たる歩騎5万と、ベテラン戦士を夷陵の戦いで失い経験不足の歩兵ばかり1万弱とでは、まるで戦いにならないでしょうから。
樊城、夷陵、街亭、段谷、局地戦でのいくつかの勝利も重要な戦いに結局負けてしまうのが蜀の悪しき伝統。逆に言えば魏にとってはこの重要拠点での戦いにふさわしい人材をいつでも整える決断ができるからこそ蜀は付け入るスキがなかった。司馬懿や鄧艾だけじゃなくて満寵、張郃、曹真、郭淮など局地で失敗があっても重要なところをしっかり防衛する本当の名将が常に控えている。夷陵の場合は呉の陸遜だけどさ。
吉川では夷陵の戦いでふうしゅうの他にも張南、傅トウ、黄権、黄忠、程祭主などもなくなってますよね...惜しい損失です。
夷陵の戦いでは馬良が戦死、黄権は退路を断たれ魏へ投降。
劉備が白帝城へ逃げている事から馬良ほどの重臣であれば劉備と共に白帝城に入っていてもおかしくはないのですが、劉備を逃がし呉軍の追撃を遅らせるために兵を率いて留まった可能性もありますね。
黄権は蜀に居れば大きく名を残した可能性もありますが、魏に降ってからは単に死を逸れただけとして、曹丕に厚遇され司馬懿からも高く評価されていましたが才能を発揮しようとはしませんでした。
黄忠は夷陵の戦いより前に亡くなって居ます。
吉川三国志は三国志正史をもとにした小説三国志演義をさらにアレンジした小説になりますね。
劉備が漢室の復興掲げて皇帝になるも初手で呉と戦という謎ムーブ。そのせいで地盤がゆるゆるな玉座が誕生したけどそれをキープできたのは評価できる
劉禅は諸葛亮に政治や軍事の一切を一任していた。これはよっぽど信頼していないと出来ない行為で諸葛亮も劉禅に取って代わる事ができるから。
う〜んなんというか蜀って本当に負けられない戦に限って負ける、大事な時に限って重要人物が何かしらで没する…みたいなジンクスを感じますね…
入蜀の時に
荊州せめて4群くらい返還しとけば
孫呉とまだ協力する未来があったと思うんだよなぁ
孔明が夷陵の戦いで国力回復の為南方平定してますが、益州平定後魏との国力差を埋めるため、北伐の前に南方平定する意見があったのか気になりました。
益州平定後はとくに南中は暴動を起こしておらず、表面上は大人しくしていたので平定するまでもなかったのかなと思いますね。
もし、鄧艾の軍勢が迫った時、劉禅が徹底抗戦を選んでいたら益州人士の離反を招いて国がさらに乱れたかもしれない。益州人士は「自分たちの権益を保護してくれるなら統治者は誰でも良い」と考えていたようで、劉備の入蜀時にあっさり劉璋を見限った。同じことが起きなかったとは言えない。
モッチー2643様
正史で劉禅も南中の霍弋らを頼って粘ることを考えていましたが、しょう周がモッチーさんの言っていたことを挙げて説得したからですね。
そう考えると劉禅はバランス感覚はしっかりしていた、と言えますね。
国家の中枢が倒れた時や政権交代があった時に、まず内部の不穏分子を取り除いて勢力を一丸にするってのが最適なんですね
諸葛亮の南中征伐
豊臣秀吉の清須会議から賤ヶ岳
ひいては頼朝亡き後の北条氏の粛清祭り…w
いろんな政権で内部統制が行われていますが、以降はスムーズに組織が運営されていくイメージですね
龐統の死が一番大きい
彼が生きてれば法正と2人で長安も選挙もできたかもしれないし
荊州も失わずに済んだかもしれない
龐統はいなくても麋竺・孫乾・移籍・法正・郭攸之が
存命ならば蜀は魏より長らく国家を維持出来たはず
いや、街亭の戦いで王平の言うことを馬謖がすんなり
受け入れていたら、夷陵の戦いがなければ蜀は変わってた
ターニングポイント...関羽が于禁軍の兵士の扱いを持て余したこと、その次に馬謖が逃げたことでしょうか。
関羽の動画の時も言ったんですけど隣が同盟国とはいえ荊州の防衛が手薄すぎる気がするんですよね。
姜維は荊州をとり(または、援軍の見返りで荊州を得て)二方面から北伐したいと言っても反対したの気になりますね。短期的には遠回りに思えても荊州を得ていればいくらかましになったと個人的には思うんですよね。
内政の法正、軍事の龐統、カリスマ型の指導者の劉備といった地位を一人で担った諸葛亮は優秀だとは思いますが、同時に人材不足の現れとも言えますね。
あと、姜維は軍事の才覚においては諸葛亮を上回るという意見もありますが派手な大敗をしないという点においては諸葛亮のほうが蜀の国力では良かったのかもしれないですね。
一応、諸葛亮の死後には荊州方面の防備は厚くなってますね。蒋琬は東進を主眼に置いてましたし、その流れでしょう。
姜維は涼州出身なので、知らない土地である荊州への侵攻作戦は、立てるのが難しかったと思います。廖化なんかが軍部筆頭になってれば、東進に傾くこともあり得たかも……なんて
結局、その三国を統一した晋も長くは続かなかったし。
魏呉蜀は遅かれ早かれ滅亡の道は免れなかったと見る。
劉禅の蜀を滅ぼしたあとの発言も、自分やその側近を守るために愚者を演じたと考えられる。反乱が続く時代に見を守ることは難しいミッションだから。
魏(晋)の政治家にすれば早く出世するには蜀の出身の大物を反逆罪の証拠を掴むことでしょう。ほぼ毎日様に誘導尋問が合ったと思う。
元々劉焉勢力が根付く国に後から劉備がやってみて内輪揉めと力で乗っ取って、
荊州やら魏の逃亡者やらでごちゃごちゃの状態だし、劉備も諸葛亮も結局、継続的な国家運用、後継者の環境構築って話になるとあまりできていない状況で、
血統でトップになりましたって人間にどれほどの発言力やら影響力があったって話だと思う。
うぼつです。
姜維の一計、三賢を殺すが、決め手になってしまいました。。。。。
蜀漢の分岐点は、一番勝率の高いと思われた第一次北伐に敗北したことだと、個人的には思う。
魯粛が長生きしてくれれば呉とも連携とれたんでしょうけどねぇ
この時代は魏=本州、呉=四国・九州、蜀=北海道
国力が全然違うからね~
むしろ劉禅は名君でよくやったんじゃないの
蜀を元手に天下取り!それこそ主君が光武帝とか李世民の様な人物でも無い限り、いや、彼等でも難しいかと……………(地図だと三分割してる感しますが、魏一国で実質大半をせしめてますし………)
関羽の戦死というよりは同盟国から攻められるだけの隙を見せた事なのかな。蜀を滅ぼして魏とタイマンするより両国で魏を滅ぼした方が有意義だという未来を提示出来なかった時点で時間の問題だったと思うよ。
関羽自身が孫権を呉王のアホ犬呼ばわりしてるくらいだからなあ。呉としても荊州の所有権は呉にあると思ってるわけだし、それこそ同盟関係なしにサッサと荊州返せって言いたくなるわけだよ。結果的に諸葛亮の戦略自体が無理要素が多すぎる。せめて荊州を統治するのが諸葛亮自身だったら関羽よりはうまくやれてただろうけど。
雍州・涼州を取れば北斉に近くなるから可能性が出てくると思う
交易路も抑えられますしね
北周じゃなくて?
国が小さい割に派閥が多いのよね
魏や呉に比べれば1つにまとまってたかと。まぁ、大きな敵が居ると国内はまとまりますよね(笑)
漢中王宣言をした時点で劉備三兄弟からしたら偉業なんだろうけど、孔明からしたら通過点なわけで。
劉備と関羽を抑える人がいなかった。これが歪みの原点で孔明のプランを狂わせた。かな?
三兄弟は一緒じゃないと駄目なのかもですね
偉大な信玄亡き跡の武田勝頼が織田信長から家督を継いだ信忠による、甲州征伐を受けて、もし真田昌幸の提案上野岩櫃城への本拠移転を受け入れていたら、を彷彿させるif。武田の血筋を甲斐武田家から上野武田家に転換してでも、僅かな賭けにでてたら、武田本家の直系は残っていたかという。それでも上野ですり潰されなら、小さく消える滅亡を甘んじるくらいなら、どうせ滅亡が避けられないなら織田軍の前に玉砕滅亡させた方が最後の歴史を飾れると考えていたのかもと
正直劉禅ってなんかタイプ的に劉章といったところか。
人間的にはくせもなく現代日本にいたら普通の中堅企業の会社員でごく普通の家庭を築いてそうなタイプ。
劉備は「無責任シリーズ」の主人公みたいな人生歩みそう。
曹操は若くして相当な地位にいそうな感じ。
考えれば考えるほど結局悪いのは夷陵に侵攻した劉備なのではとなるような…
侵攻自体は別に理に適ってはいます。ただ、関羽も張飛もない劉備になってしまっていたのがほんとに。
劉備が荊州に侵攻したのは蜀軍にいる荊州出身者の為の戦だったのかと。
やっぱり、私は皇帝が李傕から洛陽に逃げてきたとき、曹操が出迎えに上がってしまったことに端を発してると思います😃
だって、そのときに劉備が丞相の位を持てば、徐州に一時的にでも皇帝を起き、袁紹に曹操討伐命令を下せてたはず。
そうやって各諸侯に命令して漁夫の利を得ながら地盤を固めれば、苦戦しつつも漢を再興出来たはずです。
実際に漢の建国者の劉邦が皇帝になれたのは、当時の権力者から認められたことで権力の足固めが出来たからです。
曹操は初期の頃、結果的に劉邦と同じことをして、勢力を拡大できました。
しかし、劉備は徐州がどうのとか、小さいことにこだわったために千載一遇のチャンスを逃してしまいました。結局、曹操にチャンスを与え、魏を建国するきっかけを与えたのです。
これが長い目で見ると、裸一貫で建国した劉備の蜀漢と権力者のリソースを上手く活用した曹操の魏と国力の上で決定的な差に繋がってしまいました。
当然の結果、国力の差は日増しに両国の相続において重大な問題をもたらしました。
蜀漢の滅亡は、運命だったとしか言えません。
関羽や張飛は武人としては最高級だったが部下を軽んじたり名士を軽んじたりと人物としては最高級ではなかった。荊州を趙雲に任せてたら状況は変わったかもしれないですね
確かに趙雲にませていたら呉との対応は変わったでしょう
ただ諸葛亮死後、董允・蔣琬・費禕に任せるしかなったのも
蜀の人材不足ですね、孫乾・移籍・法正・郭攸之・龐統らが存命なら
魏より滅亡は遅かったはず
呉と蜀の国内が万全で同盟を組んだ場合どうだったんだろう? それでも大国魏には敵わなさそうな… 魏の状況にもよりけりか
唯一蜀だけが海に面していないんだよな…中国は岩塩が取れるからそれで賄っていたのか、南蛮から輸入していたのか…
しかし近年様々な人物の評価が変わってきてるけど、日本国内での評価?中国における評価なのか疑問が残る。
しかし、益州は温泉みたいに塩水が湧き出る地が多く、塩の産出量は他に引けを取らなかったとかも聞きますね。むしろ一番豊かだったとも。
ただ、鉱石や塩は出るが、食料面が中々厳しかったとか。
やっぱり蝙蝠の考え方を崩さないで偽りの大義名分でから蜀が収めるべき天下の要所である地"荊州"の地を上手く活用しなかった孫呉の浅はかな真似が蜀漢を滅した最大の原因だと思う(勿論孫権にそう動く様曹操に進言して奴を唆した司馬懿の智謀もあるけど)
馬超が早死にしたのがかなりキツいと思うんだよな。涼州に人脈と土地勘があり名前も知れ渡っている彼が一次北伐に参加出来てれば違ったと思う
郭淮の胃に穴が空きそう(笑)
龐統がラクホウハで戦死せず、諸葛亮が荊州に残っていたらどうなったかな
演義で趙雲が劉禅を劉備に届けた時、地面に投げ落として「劉禅のせいで趙雲を失うところだった」と叫ぶシーンがあったが地面に投げて頭を打ったせいで頭が悪くなったというのをネタにした4コマ漫画あった。 劉禅、今川氏真、織田信雄はボンクラトリオで父親の威を取り戻せなかったが真のボンクラだったお陰で脅威に思われなかったから天寿を全うできたとも言える
スリキンでも、死ぬだろそれって勢いで投げつけてますからね(笑)
ep-05.8
蜀軍にとっては決して無駄な時間だったわけではなく、孔明が十連弩や木牛流馬を思いつくヒントにはなっていたのかも知れない。ただ、徐元直は最後まで義を貫いた。だからこそ、孔明の嘆息になるのだ。これほど義に厚い漢(おとこ)であるのに、こんな辺境の軍司令官とは、魏にはよほど人材が豊かなのだろうか、と。治安の回復した長安の地で鍾元常の子の鍾士季(225年生まれ)が5才くらいの時、招かれた徐元直が真顔で尋ねられたから答えたのは、蜀を討つのなら西方境界の山を踏み越えて南下し、成都(せいと)の西で山を降りればすぐです、という言葉を、まさか子供が本気で覚えているとは思わなかったからだろう。あいつは孔明よりほんの2、3年、先に逝ってしまったらしい。
孔明亡き後のエピローグとしての三国志の主役?姜維について、名将だったのか単なる戦バカだったのかどう思われますか?個人的には彼が魏の武将だったらトップクラスの名将として普通に名を残したでしょうけど、三国最弱の蜀の将だったハンディ・キャップは余りにも大きく、戦バカみたいな評価があるとしたらちょっと可愛そうな気がしますが・・・。
確かに姜維は無理の大きい戦を繰り返していますが、蜀漢が漢王朝の後継を名乗ってる以上、魏の討伐は避けることが出来ない国是です。
小国が大国に挑む以上、どうしたって無理はしないといけませんし、魏将の徐質を討ち、王経を大破した軍才は当世きってのものだったと思います。
それほどの勝利を重ねながらも、涼州を切り崩すことが出来ないのが蜀漢の小ささを示しており、逆に魏の大きさも示しているのかなぁと。
単純な北伐の軍事的功績で言えば、諸葛亮を上回っている名将だと自分は思ってます。
@@KOUMEI_NO_WANADA やっっぱり姜維は孔明が見込んだだけの逸材ではあったんですね!ありがとうございました。
黄皓を悪くないとか説明してる時点で三国志ファンを逆撫でする有り得ない説明だ。
いつもタメになります。ありがとうございます。
コメントで取り上げて欲しい人を書いてと言うてはりますので、「沙摩柯」を解説して欲しいです。
ホンマに甘寧を撃ったのは沙摩柯なのか!?反乱の多い南蛮地区でなぜ彼は蜀漢に付き従ったのか!?
めっちゃ知りたいです。一考して頂けると幸甚です。
申し訳ありません、動画の最後にも述べていますが、リクエストはFANBOXでのみ受け付けております。
もしよろしければFANBOXの方ものぞいていただけますと嬉しいです。
@@KOUMEI_NO_WANADA 大変失礼しました
諸葛亮 全部一人で政治してたんかwwwwww
三國志の内容自体が世界最大の講談話だから何ともだよね・・・
蜀の劉禅は暗君って言われているけど、曹操の子孫や孫権の方がよっぽどやらかして草。事実だけを言うと、魏は確かに蜀を滅ぼしたけど、249年にすでに、権力が司馬懿に、263年に蜀滅亡、もうそのころには呉が孫権が暗君になっていて、そのあとみんな殺されるところをみると、劉禅が一番良かったような。
この動画で劉禅や黄コウのイメージが変わった(^^ )
蜀漢臣下の画像がただの組員w
まあ、劉備は元々任侠の親分みたいなものだから合ってるっちゃ合ってるんだけど。
まあ『兄弟』なんてヤクザの始まりだからな
滅亡云々を言うのはともかく、蜀は第二世代が出なさすぎる。
立伝クラスが董允と向寵、霍弋くらい。
魏は敢えて挙げる必要も無いが、呉と比べても少なすぎる。
陸抗や朱然、諸葛恪だけではない孫静や張昭、顧雍の子達、その他も付伝される人物は多い。
突出した人物に対抗できる人士が二代目三代目にいなかったから、諸葛死後も姜維が大敗するまで成り上がった初代に対抗できなかった。その姜維に対してでさえ、漢中と成都という歪な形で、姜維の忠誠心があって初めて成立する派閥争いだったわけで、費禕のように実力で北伐を棚上げに出来る人物はいない。悲しいなぁ
正直蜀が魏に勝つにはハンニバルレベルの大英雄いないと無理な気がする…
北方系騎馬民族がヒャッハーして魏に民族移動して大混乱しないと無理ゲーだが
どう見ても荊州を失った関羽が戦犯だと思う