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鎌倉武士にはほんと感謝しかない。ありがとう…ありがとう…
どうせ略奪されるからって九州で略奪しまくってたなんて話あるし正義の味方みたいなイメージはないなぁ昔の武士なんて大概山賊と大差ないとは思うけど
そういうのを無くすために作られた法律が生類憐みの令
実践経験が豊富な戦国時代じゃないのに、鎌倉武士は本当に強かったなー。日々の鍛錬が凄かったのでしょう。
ありがとうございます!
現在ゴーストオブツシマ遊んでますが、元寇に対する詳しい知識が無かったので、非常に勉強になりました。モンゴル軍に対して一致団結するも、恩賞問題が発生し、結局平和にならないのは悲しいことですね。
誉ある戦いに感謝しております。
分かりやすく聞き惚れる
2001年大河ドラマ北条時宗のあのオープニング曲と映像を久々に脳内で無限再生しながら、観させて頂きました!
めちゃわかりやすい聞いてて楽しい 勢いあるからどんどんひきこまれまーす
何故か竹崎季長の名前だけをずっと覚えてる
本当にごねてやった報酬もらえて巻き絵になってるくらいの人なのに竹崎季長だけ何故か覚えてるんよね。
面白すぎる!めちゃくちゃエモいです…
わかりやすい。戦国さんの語りはパワーがある。三谷作品の今年の大河ドラマの解説も楽しみにしています。
登録者順調ですね!頑張って下さいね〜。子供の教育にも使わせてもらいます!
『蒙古襲来絵巻』をみると面白い。特に船戦を仕掛ける日本の武者は和弓を持っているが、郎党(歩兵)は『薙刀』を装備している。竹刀と薙刀の勝負で腕のレベルが同じなら薙刀は圧勝する。つまり、船端で行われる緒戦では、モンゴル兵は日本兵には確実に敗北している。弓で負け、雑兵の薙刀に負け、2万人の捕虜を残し、完全敗北、情報不足、武器で負け、戦闘員の数でも錬度でも負け、いったい彼らは何しに来たのかな。
大河「北条時宗」で泉元彌が時宗やった時、渡部篤郎が時補をやった。生き延びてモンゴルへ行ったようなストーリーだった。
渡部篤郎さんの「相変わらずヌルい奴じゃ。」と時宗を睨みつけるセリフと表情が忘れられん。
1回目は九州武士団1万人で4万人敵兵に押されて下がった。次の日には敵がいなかった。2回目は九州武士団3万人と援軍1万人の計4万人で敵兵14万人と戦ったが長期上陸できなくて台風で退散した。
なるほど❣️わかりやすくて、面白かったです😊
元軍の船に夜襲かけた時の鎌倉武士がエグい。一度船から落ちても鎧着たまま泳いで再び船に乗り込んで戦ったり、牛や馬の死体を投げこんで元軍を病気にしてやったとか。
モンゴル史をかじったことがありますが、「敵役」フビライはなかなか優秀ですよ。騎馬もですが土木技術を駆使した戦いは秀吉を思わせます。平時の内政も。日本史の元寇の構図だと粗暴な侵略者、後の明王朝からも悪く描かれがちなのは残念。「小学生でも~」で掘り下げなくていいが。
多民族をまとめる為に宗教を平等に扱うなど、為政者として優れた一面もありますよね。フビライに関してはまた別の動画でいつか話したいですね
相手によって戦い方を変えるご先祖様、やっぱり賢くて強い。
冬の日本海は荒れますから夏に来たら台風ストライク。騎馬弓兵でユーラシア世界を席巻したにもかかわらず海上輸送では馬をほとんど輸送できず。守るに易く攻めるに難い博多湾の地形を日本側は有効に活用しましたね。あと全然関係ありませんが、15:30からほのかに漂うカーズ様臭…。
ふんどし一丁で簡素な鎧着てモンゴル船に夜襲をかけ、何度叩き落しても、船べりを昇ってくる侍には、さすがの蒙古高麗兵もビビったそうです。なお、やつらは、海に叩き落すだけで簡単に死んだそうです。泳げなかったので。
そもそも当時の武士達の総数は、25万〜35万だから侵略するのが無理な話なんだけどね
いやあー中学校の歴史の授業思い出したわー。先生も全く同じ事言ってました。
誉れは浜で死にました(ゴーストオブツシマ
仁……
文永の役は博多に上陸したのが11月頃なので台風がそもそも来たとは思えない為、単純に鎌倉武士に押し返されて撤退させられたという話もありますね。
名前を時宗としたのは、北条家の嫡男は時が上にくるとか二代執権義時の兄に宗時がいたからじゃないかな?
あの赤いマフラーは確かに謎だった。
3〜4万→14万 増やしすぎやろ w
めっちゃ素人意見で申し訳ないのですが 弘安の役の時に 元軍はまたわざわざ博多を落としにやって来たのはなぜなんでしょうか?直接 鳥取 城崎 辺りの本州に強襲しても良かったような……?当時はそこまでの距離の海路を進めるような船は無かったという事でしょうか?
私がフビライなら、鎌倉に直接攻め込みますw
一応、山口らへんに軍を分けて侵攻しましたが、そこにも武士が待ち受けてたため失敗しました。
山口の日本海側にもそのために築いた防塁の石垣がありますよ。
「そんなの関係ねぇ」…おっパッピー 見なくなりましたね。分かりやすかったです。歴史を身近にしてくれてありがと。
小島よしおは、子供の教育でNHK教育番組やUチューブなどで大活躍しています。早稲田大学教育学部で先生の免許を取ったのが、生きています。
フビライも兄を殺しています。侵略が失敗した原因として、多国籍軍だったので統率が取れなかったことがあります。高麗は分裂していました。
高麗の書物によると当時の日本軍はかなり強い…というかだいぶむちゃくちゃだったらしいですねあと高麗と言えばフビライに日本を攻めるよう進言したのは高麗王の忠烈王と言う人
14:05 俺がモンゴル軍だったらヨーロッパの侵略の方を優先するかなぁ
日本が硫黄を輸出していたというが火薬に使っていたならば種子島に銃がもたらされる前に日本でも火薬は使われていたのかな。
Who needs a sleeping bag?Sleep on top of Brown Bear rug? Wolf skin on topper?
長政の長は信長の長なんだ知らんかった
武士道くんの血管切れそうなテンション上がりようがオモロいwこの続きだし、大河でもあり、現在再放送中なので、『太平記』もよろしくです d(^_^o)
後述5:00 時宗が、宗尊親王の諱を下につけた(宗時にしなかった)のは、義時の兄の名前とカブってしまうから、憚ったんだろうと、「鎌倉殿の13人」見たあとに考えました。
神風は2回目の弘安の役の時のもので、1回目の文永の役は内部対立で撤退したと学校でならいました。どうなんでしょう、、、
冬の玄界灘はすごいよ。
集団戦法によって武士が劣勢と教えられたが、源平合戦の時に万単位同士での集団戦を経験している武士が一方的にやられるのは何なんだろうとずっと思っていた。確かに先陣を切っての名乗りを上げる風習はあったと思うが、それだけに固執してはいなかったのが平安時代を含む大河ドラマでもあったのにここだけそれに固執していると教えられるのに違和感があった。今思うとほぼ現地の武士で退けたのを文字をかけた鎌倉や祈祷で退けたとしたい朝廷などが現地の武士の手柄を貶めたかったのでは思ってしまう。
Este e aula em japonês eu nao entendo de japonês nao faco ideia de q ele ensina
元軍「小さな島国に攻め込んでみたら俺ら以上の蛮族がいた件」
首おいてけ
騎馬が生命線の元軍。しかし当時の船では馬をたくさん連れて海を渡る事が出来なかった。しかもモンゴルは海がないから、海戦の知識や航海術も乏しい。そして何より日ノ本の屈強な武士団、日本侵略はフビライの誇大妄想だった訳です。
北条氏はローカル平家一門。足利氏は源氏の名門、源氏の幕府を作ったつもりなのに、何で俺たちが家来であるはずの北条の風下なんだ、と足利尊氏や同じく源氏の新田義貞が思っても不思議ではない。
北条時宗が病死後、将軍の宗尊親王はどうなったん?。
弘安の役が良く分かる動画 参考 th-cam.com/video/zOsE_I7sUAg/w-d-xo.html
元寇の約100年前に鎌倉幕府軍(28万4千騎)と奥州藤原氏軍(約17万騎)が激突している。つまり、この戦いに参加しただけで50万人弱の兵員動員能力があったのだが、実はこの鎌倉幕府軍は東日本の軍勢で、西日本はあまり参加していない。そんな軍事大国の日本に、僅か3万人~4万人(1回目の急襲)や僅か14万人(2回目で完全防御体勢を取っている)で攻め寄せても、モンゴル軍は『絶対勝てない』。騎馬の数も多く最初から集団戦法を取っているし、船戦でも日本は強いし、日本刀は、高麗人・女真・モンゴル人の刀より高性能。弓も和弓の殺傷力は強く敵の司令官を射抜いている、対する朝鮮弓は毒を塗らないと役に立たないほど弱かった(モンゴル弓は最強だが、モンゴル人は少なかった。主力は朝鮮人)。朝鮮人は『可哀相』とか何度も言っているが、参加する人数によって、捕獲した奴隷や財宝の配分が決まるので、志願してやってきたのだよ・・・それが証拠に奴隷にした100人の女・子供を『高麗王』に送っている・・・朝鮮(高麗)人は・・・ね。防備を調えている相手には『3倍の兵力が必要だから、モンゴル軍は150万人で襲来しないとダメ』だが、モンゴル全軍でも120万人しかいなかったのだから、端から無理だったのだよ、人数も足らない、武器の刀も弓も弱い、何しに来たのかなぁ、情報不足だよ。
鎌倉時代の人口は680万人。近畿以西を除いて360万人。半分女性で180万人。子供、老人を除いたら50万人は動員できないと思います
@@くれがし様コメントありがとうございます。まあ、鎌倉時代の歴史書吾妻鏡の記述には、確かに『大本営発表のような』数字があります。まあ、それを言いますと鎌倉時代の『奥州合戦』の頃の日本の人口が『680万人』ということも無いと思いますが・・・この当時の人口は急増していて、元寇の頃には1000万人近かったと聞きます。
武士道さん 今日もありがとうございます_(._.)_台風の季節を避けたらモンゴルが勝ったのかな?神風が日本を守ってくれたのと 坂東武士の勇ましさが モンゴルを撃退したのですね。
鎌倉武士で好きなの足利尊氏です
よくもたかを!!
文永の役で台風は無いんだけどね
え?文永の役で台風が来て大変だったの?10月~12月の戦いで?台風が?へ~!地球環境ってそんなに変わるもんなんだね!
火蓋が切って落とされるは誤用警察が来ましたぞ~、20分くらいの。「幕が切って落とされる」と混ざってしまったやつですね
昭和33年でしたか、「日蓮上人と蒙古大襲来」がありました。映画では、日蓮が願をかけたので神風が吹いたと言うような筋書きだったような気がします。ちがうかな
間違った❗50年ですね。
今も同じく中国からせめられてるから守りを固めないといけないのにバカな政治家が多くて困る。歴史から学んでほしい😢
5Gの世の中なんだから、ちゃんと勉強しようね。
台風は来た説は違うんじゃないのかな?旧暦で見ても、違うという説。
「芦屋道満と同居中」出版。三重県立、国会図書館検索
いや節制しろよ
もう少し落ち着いて話して欲しい。ガミガミと聞こえるから内容が入って来ない😢
鎌倉武士にはほんと感謝しかない。
ありがとう…ありがとう…
どうせ略奪されるからって九州で略奪しまくってたなんて話あるし正義の味方みたいなイメージはないなぁ
昔の武士なんて大概山賊と大差ないとは思うけど
そういうのを無くすために作られた法律が生類憐みの令
実践経験が豊富な戦国時代じゃないのに、鎌倉武士は本当に強かったなー。日々の鍛錬が凄かったのでしょう。
ありがとうございます!
現在ゴーストオブツシマ遊んでますが、元寇に対する詳しい知識が無かったので、非常に勉強になりました。
モンゴル軍に対して一致団結するも、恩賞問題が発生し、結局平和にならないのは悲しいことですね。
誉ある戦いに感謝しております。
分かりやすく聞き惚れる
2001年大河ドラマ北条時宗のあのオープニング曲と映像を久々に脳内で無限再生しながら、観させて頂きました!
めちゃわかりやすい
聞いてて楽しい 勢いあるからどんどんひきこまれまーす
何故か竹崎季長の名前だけをずっと覚えてる
本当にごねてやった報酬もらえて巻き絵になってるくらいの人なのに竹崎季長だけ何故か覚えてるんよね。
面白すぎる!めちゃくちゃエモいです…
わかりやすい。
戦国さんの語りはパワーがある。
三谷作品の今年の大河ドラマの解説も楽しみにしています。
登録者順調ですね!頑張って下さいね〜。子供の教育にも使わせてもらいます!
『蒙古襲来絵巻』をみると面白い。特に船戦を仕掛ける日本の武者は和弓を持っているが、郎党(歩兵)は『薙刀』を装備している。竹刀と薙刀の勝負で腕のレベルが同じなら薙刀は圧勝する。つまり、船端で行われる緒戦では、モンゴル兵は日本兵には確実に敗北している。弓で負け、雑兵の薙刀に負け、2万人の捕虜を残し、完全敗北、情報不足、武器で負け、戦闘員の数でも錬度でも負け、いったい彼らは何しに来たのかな。
大河「北条時宗」で泉元彌が時宗やった時、渡部篤郎が時補をやった。生き延びてモンゴルへ行ったようなストーリーだった。
渡部篤郎さんの「相変わらずヌルい奴じゃ。」と時宗を睨みつけるセリフと表情が忘れられん。
1回目は九州武士団1万人で4万人敵兵に押されて下がった。
次の日には敵がいなかった。
2回目は九州武士団3万人と援軍1万人の計4万人で敵兵14万人と戦ったが長期上陸できなくて
台風で退散した。
なるほど❣️わかりやすくて、面白かったです😊
元軍の船に夜襲かけた時の鎌倉武士がエグい。一度船から落ちても鎧着たまま泳いで再び船に乗り込んで戦ったり、牛や馬の死体を投げこんで元軍を病気にしてやったとか。
モンゴル史をかじったことがありますが、「敵役」フビライはなかなか優秀ですよ。騎馬もですが土木技術を駆使した戦いは秀吉を思わせます。平時の内政も。日本史の元寇の構図だと粗暴な侵略者、後の明王朝からも悪く描かれがちなのは残念。「小学生でも~」で掘り下げなくていいが。
多民族をまとめる為に宗教を平等に扱うなど、為政者として優れた一面もありますよね。フビライに関してはまた別の動画でいつか話したいですね
相手によって戦い方を変えるご先祖様、やっぱり賢くて強い。
冬の日本海は荒れますから夏に来たら台風ストライク。
騎馬弓兵でユーラシア世界を席巻したにもかかわらず海上輸送では馬をほとんど輸送できず。
守るに易く攻めるに難い博多湾の地形を日本側は有効に活用しましたね。
あと全然関係ありませんが、15:30からほのかに漂うカーズ様臭…。
ふんどし一丁で簡素な鎧着てモンゴル船に夜襲をかけ、何度叩き落しても、船べりを昇ってくる侍には、さすがの蒙古高麗兵もビビったそうです。なお、やつらは、海に叩き落すだけで簡単に死んだそうです。泳げなかったので。
そもそも当時の武士達の総数は、25万〜35万だから侵略するのが無理な話なんだけどね
いやあー中学校の歴史の授業思い出したわー。先生も全く同じ事言ってました。
誉れは浜で死にました(ゴーストオブツシマ
仁……
文永の役は博多に上陸したのが11月頃なので台風がそもそも来たとは思えない為、単純に鎌倉武士に押し返されて撤退させられたという話もありますね。
名前を時宗としたのは、北条家の嫡男は時が上にくるとか
二代執権義時の兄に宗時がいたからじゃないかな?
あの赤いマフラーは確かに謎だった。
3〜4万→14万 増やしすぎやろ w
めっちゃ素人意見で申し訳ないのですが 弘安の役の時に 元軍はまたわざわざ博多を落としにやって来たのはなぜなんでしょうか?直接 鳥取 城崎 辺りの本州に強襲しても良かったような……?当時はそこまでの距離の海路を進めるような船は無かったという事でしょうか?
私がフビライなら、鎌倉に直接攻め込みますw
一応、山口らへんに軍を分けて侵攻しましたが、そこにも武士が待ち受けてたため失敗しました。
山口の日本海側にもそのために築いた防塁の石垣がありますよ。
「そんなの関係ねぇ」…おっパッピー 見なくなりましたね。
分かりやすかったです。
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ありがと。
小島よしおは、子供の教育でNHK教育番組やUチューブなどで大活躍しています。早稲田大学教育学部で先生の免許を取ったのが、生きています。
フビライも兄を殺しています。侵略が失敗した原因として、多国籍軍だったので統率が取れなかったことがあります。高麗は分裂していました。
高麗の書物によると当時の日本軍はかなり強い…
というかだいぶむちゃくちゃだったらしいですね
あと高麗と言えばフビライに日本を攻めるよう進言したのは高麗王の忠烈王と言う人
14:05 俺がモンゴル軍だったらヨーロッパの侵略の方を優先するかなぁ
日本が硫黄を輸出していたというが火薬に使っていたならば種子島に銃がもたらされる前に日本でも火薬は使われていたのかな。
Who needs a sleeping bag?
Sleep on top of Brown Bear rug? Wolf skin on topper?
長政の長は信長の長なんだ知らんかった
武士道くんの血管切れそうなテンション上がりようがオモロいw
この続きだし、大河でもあり、現在再放送中なので、『太平記』もよろしくです d(^_^o)
後述
5:00 時宗が、宗尊親王の諱を下につけた(宗時にしなかった)のは、
義時の兄の名前とカブってしまうから、憚ったんだろうと、「鎌倉殿の13人」見たあとに考えました。
神風は2回目の弘安の役の時のもので、1回目の文永の役は内部対立で撤退したと学校でならいました。どうなんでしょう、、、
冬の玄界灘はすごいよ。
集団戦法によって武士が劣勢と教えられたが、源平合戦の時に万単位同士での集団戦を経験している武士が一方的にやられるのは何なんだろうとずっと思っていた。
確かに先陣を切っての名乗りを上げる風習はあったと思うが、それだけに固執してはいなかったのが平安時代を含む大河ドラマでもあったのにここだけそれに固執していると教えられるのに違和感があった。今思うとほぼ現地の武士で退けたのを文字をかけた鎌倉や祈祷で退けたとしたい朝廷などが現地の武士の手柄を貶めたかったのでは思ってしまう。
Este e aula em japonês eu nao entendo de japonês nao faco ideia de q ele ensina
元軍「小さな島国に攻め込んでみたら俺ら以上の蛮族がいた件」
首おいてけ
騎馬が生命線の元軍。しかし当時の船では馬をたくさん連れて海を渡る事が出来なかった。しかもモンゴルは海がないから、海戦の知識や航海術も乏しい。そして何より日ノ本の屈強な武士団、日本侵略はフビライの誇大妄想だった訳です。
北条氏はローカル平家一門。足利氏は源氏の名門、源氏の幕府を作ったつもりなのに、何で俺たちが家来であるはずの北条の風下なんだ、と足利尊氏や同じく源氏の新田義貞が思っても不思議ではない。
北条時宗が病死後、将軍の宗尊親王はどうなったん?。
弘安の役が良く分かる動画 参考 th-cam.com/video/zOsE_I7sUAg/w-d-xo.html
元寇の約100年前に鎌倉幕府軍(28万4千騎)と奥州藤原氏軍(約17万騎)が激突している。つまり、この戦いに参加しただけで50万人弱の兵員動員能力があったのだが、実はこの鎌倉幕府軍は東日本の軍勢で、西日本はあまり参加していない。そんな軍事大国の日本に、僅か3万人~4万人(1回目の急襲)や僅か14万人(2回目で完全防御体勢を取っている)で攻め寄せても、モンゴル軍は『絶対勝てない』。騎馬の数も多く最初から集団戦法を取っているし、船戦でも日本は強いし、日本刀は、高麗人・女真・モンゴル人の刀より高性能。弓も和弓の殺傷力は強く敵の司令官を射抜いている、対する朝鮮弓は毒を塗らないと役に立たないほど弱かった(モンゴル弓は最強だが、モンゴル人は少なかった。主力は朝鮮人)。朝鮮人は『可哀相』とか何度も言っているが、参加する人数によって、捕獲した奴隷や財宝の配分が決まるので、志願してやってきたのだよ・・・それが証拠に奴隷にした100人の女・子供を『高麗王』に送っている・・・朝鮮(高麗)人は・・・ね。防備を調えている相手には『3倍の兵力が必要だから、モンゴル軍は150万人で襲来しないとダメ』だが、モンゴル全軍でも120万人しかいなかったのだから、端から無理だったのだよ、人数も足らない、武器の刀も弓も弱い、何しに来たのかなぁ、情報不足だよ。
鎌倉時代の人口は680万人。近畿以西を除いて360万人。半分女性で180万人。子供、老人を除いたら50万人は動員できないと思います
@@くれがし様
コメントありがとうございます。まあ、鎌倉時代の歴史書吾妻鏡の記述には、確かに『大本営発表のような』数字があります。まあ、それを言いますと鎌倉時代の『奥州合戦』の頃の日本の人口が『680万人』ということも無いと思いますが・・・この当時の人口は急増していて、元寇の頃には1000万人近かったと聞きます。
武士道さん 今日もありがとうございます_(._.)_
台風の季節を避けたらモンゴルが勝ったのかな?
神風が日本を守ってくれたのと 坂東武士の勇ましさが モンゴルを撃退したのですね。
鎌倉武士で好きなの足利尊氏です
よくもたかを!!
文永の役で台風は無いんだけどね
え?文永の役で台風が来て大変だったの?
10月~12月の戦いで?台風が?
へ~!地球環境ってそんなに変わるもんなんだね!
火蓋が切って落とされるは誤用警察が来ましたぞ~、20分くらいの。
「幕が切って落とされる」と混ざってしまったやつですね
昭和33年でしたか、「日蓮上人と蒙古大襲来」がありました。映画では、日蓮が願をかけたので神風が吹いたと言うような筋書きだったような気がします。ちがうかな
間違った❗50年ですね。
今も同じく中国からせめられてるから守りを固めないといけないのにバカな政治家が多くて困る。
歴史から学んでほしい😢
5Gの世の中なんだから、ちゃんと勉強しようね。
台風は来た説は違うんじゃないのかな?旧暦で見ても、違うという説。
「芦屋道満と同居中」出版。三重県立、国会図書館検索
いや節制しろよ
もう少し落ち着いて話して欲しい。ガミガミと聞こえるから内容が入って来ない😢
「芦屋道満と同居中」出版。三重県立、国会図書館検索
「芦屋道満と同居中」出版。三重県立、国会図書館検索