正信偈 大谷派(東本願寺)勤行集 『原文・現代語訳付き』
ฝัง
- เผยแพร่เมื่อ 8 ต.ค. 2023
- 浄土真宗の方であれば、日頃のお勤めで馴染みのある正信偈。
浄土真宗には沢山の宗派があり、その中でも代表的なものに、西本願寺を本山とする本願寺派と、東本願寺を本山とする大谷派があります。
正信偈は宗派によって、お勤めの仕方(音程や節回し)が異なります。
しかし大切なことは、お勤めの作法ではなく、正信偈を通して親鸞聖人(浄土真宗の開祖・正信偈の著者)が伝えようとしたことは何なのか、その教えに触れることだと思います。
今回は、大谷派(東本願寺)のお勤めを、原文・現代語訳付きで紹介します。
日頃のお勤めの一助になれば幸いです。
《過去動画はこちらにまとめてあります》
再生リスト①: • 正信偈
再生リスト②: • 教行信証
再生リスト③: • 仏教ラジオ
再生リスト④: • 経典を読む
再生リスト⑤: • 1分仏教
再生リスト⑥: • 眠れない夜に聞く仏教
再生リスト⑦: • 浄土真宗のお勤め
#正信偈 #仏教 #浄土真宗 - แนวปฏิบัติและการใช้ชีวิต
4日前に母を亡くし昨日葬儀でした。
通夜では正信偈の現代語訳を、葬儀では原文の正信偈を一緒に読ませていただきました。
ずっと病気で苦しんできた母がこれからは苦痛もなく幸せに過ごせるように、心を込めて読みました。
定期的に読んであげたいし、その為にきちんと意味を理解したいなと思っていたので、とても分かりやすい訳で助かりました。
ありがとうございます。
コメント頂いたように仏の教えが伝わっている事を、大変嬉しく思います。
お母様が亡くなる前も、今も、ご家族としては大変辛い思いをされている事と思います。
仏教とは、私達から苦しみを取り除き、安楽を与える教えです。ですから、受ける苦しみが大きい人ほど、仏教に救いを求める気持ちも大きくなるのだと思います。
今は苦しみの方が大きくても、その苦しみが縁となって、やがては必ず安楽な世界へ辿り着く。それを説いているのが、仏教だと思います。
コメント頂き、ありがとうございました。
私が小さい頃、祖父が既に亡くなっていた祖母の月命日に読んでました。
その祖父も最近亡くなり、もう一度聞きたくて調べた結果この動画に辿りつきました。
祖父の面影を感じることができて、とても懐かしい気持ちになれました。ありがとうございます。
大切な人との別れは、いつでも辛いものです。
しかし、その別れが仏教に触れる機会となるのであれば、それは大切な人が生きている私達に残してくれた、大切な仏縁と言えるのかもしれません。
この動画がお役に立てたのであれば、何よりです。
コメント頂き、ありがとうございました。
今日はお彼岸の日でした。
ご先祖さまに喜んで頂けたら
幸せです。ありがとうございます🙏
お彼岸のお勤めに、この動画が役に立てたのであれば何よりです。
コメント頂き、ありがとうございました。
お早う御座います主人が亡くなり先日百日にち過ぎたはわかりで…最初は一人で南無阿弥陀仏だけ唱える事しか出来ませんてわしたが動画で見付け住職に聞いてこんなのがあるんですが流して良いですか?と一応聞きました所良いですよ…と。早速2ヶ月間位成りますね流させて頂いて居ります主人を迷わず成仏出来ます様に宜しくお願い致しますが
ごめんなさいアチコチ間違えて押してる所が有りますが申し訳有りません
大切な人を亡くすことは、いつでも悲しいものです。
けれど日々のお勤めを通して、仏の教えに触れる機会が出来たのであれば、それもまた大切な仏縁と言えるのかもしれません。
南無阿弥陀仏の念仏は、全ての人を等しく極楽浄土へ救うための教えですから、少しずつ無理のない範囲で、お勤めを続けてみて下さい。
大変な時にコメント頂き、ありがとうございました。
有り難う御座いますワザワザとお返事頂いて。秋には一緒に息子達家族の元へ引っ越しする予定でしたが…しかし残念ながら悲しい事に一人で行く事に…でも主人が見守ってくれてると思いますので頑張ります。有り難う御座いました
感謝感恩🙏
我帰依三宝三世恒久
南無阿弥陀仏
南無観世音菩薩
🙏😊
こちらこそ、コメント頂きありがとうございました。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
家の仏様の命日なので
有難く聞かせて頂いております。
大切な方の命日が、仏の教えに触れる縁となっているのは、大変に尊いことだと思います。
コメント頂き、ありがとうございました。
ありがたい ありがたい 子供の頃から家で朝晩親お経思いだします。
子供の頃から仏教に触れる機会があるというのは、とても仏縁の深い方なのだと思います。
同じ時代に、同じ念仏をいただく方がいる事を、とても嬉しく思います。
コメントいただき、ありがとうございました。
2年前に主人を亡くしてから、月命日には動画を聞かせていただいていました
3月で削除と表示してありびっくりしましたが 新しい動画がupされていて安心しました
これからも宜しくお願いいたします ありがとうございました
こちらの都合で驚かせてしまい、申し訳ありません。
大切な方を亡くすことは大変に悲しいことですが、月命日が仏の教えに触れる機会になっているのであれば、それもまたご主人が残した大切な仏縁なのかもしれません。
こちらこそ、引き続きよろしくお願い致します。
コメント頂き、ありがとうございました。
信仰心があるわけではないけれど年を取るにつれお経を聞くと心が平穏になるような気がします
実家が大谷派の檀家で正信偈は葬式とかでなじみがあるし意味を紐解くと時代は変われど普遍的に良いこと言ってると思うわけで
親鸞聖人は、(正信偈が収録されている)教行信証の中で、「信心とは、もう後がないという心によって定まるものであり、まだ後があると思う心には、必ず雑念が混ざり、そのために信心が定まらない」という一文を残しています。
年齢を重ねる毎に仏教に心の平穏を感じるのは、そのようなところに理由があるのかもしれません。
コメント頂き、ありがとうございました。
@@SUMITATOMOYUKI
返信頂き、ありがとうございます
不惑の歳は超えましたが、まだまだ煩悩、雑念ばかりです
中学高校時代、冬になると各家々を周り正信偈の練習をすることが地域の伝統でした。懐かしく思い出されます。今は少子化の影響でそんな伝統も途絶えてしまった様で残念です。
仏教が根付いた地域に生まれたということは、とても仏縁の深い方なのだと思います。
仏教に限らず、古き良き伝統を継続していくのは、現代の日本では難しいことなのでしょうね。
コメント頂き、ありがとうございました。
父が、命日の時によんでるのが懐かしくて流しました!
父のは歌みたいに唱えるので少し違ってましたが、あ、こういうのだったなって懐かしく思いました!
浄土真宗には沢山の宗派があり、宗派によって正信偈の節回しが異なるので、少し違うように感じられたのだと思います。
けれど大事なのは、節回しの違いよりも、仏の教えに触れる事だと思います。
ご家族の縁で、正信偈を懐かしく聞いて頂けたなら、それが何よりも尊い事だと思います。
コメント頂き、ありがとうございました。
私は曹洞宗ですが 宗派は違えどお経とはいいものですね。
そうですね。仏の教えを聞く心が同じなら、宗派の違いなど大した問題ではないと思います。
コメント頂き、ありがとうございました。
一向専念無量寿仏🙏
なかなかお経を覚えるのができなくて
浄土の教えは、「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えるだけで充分に尊いものです。
ですから、全部を覚える必要はありません。
ご自身の無理のない範囲で、お勤めをしてみて下さい。
コメント頂き、ありがとうございました。
同じ東でも地域で差があるんかな?
うちの御庵さんとだいぶ違う・・・
詳しくは分かりませんが、私なりの推測を以下に記載させて頂きます(何かの参考になれば幸いです)。
正信偈がお勤めとして広まったのは、八代宗主 蓮如上人 (1415-1499)の時代です。そこから、現在の真宗十派と呼ばれるように、浄土真宗は枝分かれをしていきます。
親鸞聖人もそうであったように、浄土真宗は元々僧侶の結婚を認めていますので、血縁関係による宗派の分流が起こりやすいという特徴を持っています。
その中で、口伝えによって広がっていったお勤めの節回しが、どこかで西や他の十派のものと混在していても不思議ではないと思います。
ただ大切な事は、宗派による節回しの違いではなく、日々のお勤めを通して仏の教えに触れ、その教えによって一人でも多くの人が救われる事ではないかと思います。
コメント頂き、ありがとうございました。
@@SUMITATOMOYUKI ご返信ありがとうございました!
宗教の教えなら解りますが、亡くなった方にこれはどうなのですか?理由教えて欲しいのですが大丈夫ですか?
コメント頂き、ありがとうございます。
以下に私の見解を書かせて頂きます(何かの参考になれば幸いです)。
お勤めとは、亡くなった方を縁として、生きている側の人々が仏の教えに触れる為のものだと思います。
そのため正信偈にも、生きている人々に向けた教えが書かれています。
元々、お経や念仏に亡くなった方を成仏させるはたらきはありません。
仏教とは、あくまでも生きている人が、さとりをひらいて仏に成る(これを成仏すると言います)ための教えです。
しかし正信偈の中にも、自身が極楽浄土で仏に成った後、再びこの世に戻り人々を救う事ができる(これを還相と言います)と書かれています。
その人々の中には、既に亡くなった大切な人の命も、きっと含まれていると思います。
日々のお勤めを通して仏の教えに触れ、まずは自身の成仏を願う。それが大切な事ではないかと思います。
※仏教ではさとりをひらかない限り、全ての命は、迷いと苦しみの世界であるこの世で、生まれ変わり死に変わりを繰り返す(これを輪廻因果の道理と言います)とされています。
ありがとうございます、理解出来ました!良き歌をありがとうございましたm(_ _)m父にも聞かせますね
意訳が過ぎると
思う。
帰命→帰依 (服従) します。 南無→信じます。 「阿弥陀如来 に 帰依し、信じること」を理解すれば好い、旨 の 解説 が ありましたが、それで宜しいか?
コメント頂き、ありがとうございます。
ご質問頂いた件について、以下に私の見解を書かせて頂きます(少し込み入った内容になりますが、何かの参考になれば幸いです)。
「阿弥陀如来に帰依し信じる」という心が、どのようにして定まるものなのか。それが浄土の教えにおいて重要な点であり、かつ誤解を生みやすい難しい点だと思います。
信心というものは阿弥陀如来の教えを聞いて、それを理解したから定まるものではありません。そのような信心は、どこまでも自分の力(自分の信じる力、理解する力)を頼みとする心ですから、些細なことであっけなく崩れてしまいます。
そうではなく如来の知恵や慈悲は、私達凡夫には到底思い計ることが出来ないものだと思い知り、そのような広大な功徳を備えた如来が「念仏する人を必ず救う」と誓った本願を、疑う事なくそっくりそのまま聞けた時に、身の内から自然と念仏する心が起こってくる。
そのようにして私達の心に信心を芽生えさせ、極楽浄土へ救おうとする「はたらき」を、「他力」と呼びます。
他力を頼みとして他力によって定まる信心を、他力の信心と言います。
そのような信心は、阿弥陀如来の力を頼みとする心ですから、命を終えるまで崩れることなく、私達を極楽浄土まで導いてくれるのだと思います。
ありがとう ございます。何回も読み返します。