ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
この方のゆっくりには品がある
わかります😊
文化を馬鹿にしないって、今でも通じる心構えですね。
さすが当時世界最大の人口を抱えた江戸やな豊かな時代や 7人に一人が旅とか平和すぎるだろ江戸時代ありがとう徳川
家と土地に縛られた江戸時代だからこそ、見たことのない離れた土地に旅する事が魅力的に映っていたのかもしれませんね。
当時の伊勢に5か月で420万人も受け入れられるキャパシティがあったのも凄いよねぇ持ち込みや道中での施しがあったとはいえ、420万人分の飯だけでも賄うのなんて相当無茶だっただろうに
三重県の田舎者ですが、隣町では「おかげ参り」の風習が残っています。
大井川に橋が無いのは防衛の意味もあるのでしょうが、増水時の急流に耐える橋の設置が技術的に困難であったことと、普段は渡し船を航行できる水深が無いといった理由という説もあるそうです。
そういや江戸時代より前の時代の国内旅行の話ってほぼ聞かないですよねやはり平和って大事ですね
江戸より前だとそれこそ他の藩に行くのは文字通り侵犯行為だからねぇ・・・日本は今ほぼ完全に独立した島国で一国を成してるから分かりに行くけど、例えるならEUもECもなかった頃のヨーロッパみたいなモンだよって事だからねぇ
『東海道中膝栗毛』の『膝=足』『栗毛=(栗毛の)馬』つまり「自分の足を馬の代わりにする」平たく言って『徒歩』とかいう回りくどい言い方好き
なるほど、お陰様で頭が良くなりました。
そうだっんですかー。
東海道中膝栗毛は実はBL喜多八は弥次郎兵衛が贔屓にしていた蔭間(ゲイ向け風俗ボーイ)だったりする。
尾瀬の近くにある陸の孤島、檜枝岐村には歌舞伎舞台の文化がある。お伊勢参りで江戸に寄った際に観た歌舞伎を村に持ち帰ったもの。東京から見て田舎である福島から見て奥地である会津若松から見てドン詰まりの最果てである檜枝岐に残ってるのは旅のおかげ。
毎回とても興味深くて面白いですが、今回は掘り下げ具合といい屈指です。伊勢参りと言えば、客が集中する伊勢近辺の宿屋では米を炊くのではなく煮あげて蒸らすとか魚を煮て焼き鏝を当て焼き魚とする独特の大漁調理法が発展しましたね。最近でもわざわざやっている旅館がありました。
平和な時代で、文化が発達したからこその「お伊勢詣り」物流の交流や、農業種の交流も発達させたのも世の中が平和になったおかげだと言えるよね。
「お参りなら仕方ない」本当に、日本はおおらかな国だなぁ。
その辺はイスラム教もあるのよ巡礼(ハッジ)って大義が有るなら邪魔をしちゃダメってね面白い事に貧困な地域からの巡礼者は正に講のシステムそのまんまな方法で地域代表者を立てて行ってもらったりなんてのもあるまぁイスラム教においてハッジは一生に一度はするべしって形になってるから余計その辺は大義の強みが有るんだろうけどねでもどこの国、どこの宗教でも同じようなシステムが出来てるってのがやっぱり面白い所
動画内でも言われてる関所破りだけど、もし見つかっても「道に迷いました」程度で切り抜けられるほどそこまで厳格ではなかったらしい。国定忠治含め磔になったのはそもそもが死刑確定の重罪人だったとか。
まぁ実際土地勘ない所に行くとなると、今みたいに道路標識がきっちりある訳でもないから本当に迷った挙句ってのはそこそこ居ただろうからねぇ
宿に連泊できるのは雨や雪で川、道が通れない時だけで普段は1泊だけで次の宿場に行くという流れ。長期滞在できるのは湯治場で治療目的のみ。各宿ごとにぼったくりとかもあったのかなーと想像を巡らせるのも面白い
伊勢参りだけは、安価に行ける仕組みがありました。伊勢講の世話人は大抵、御師(がしていたんですが、御師は宿屋も兼業していました。御師宿は講の繋がりで安く泊まれましたし、伊勢の名物を振る舞ったり、贅沢な布団に眠らせるなどして歓待。御師は正装で挨拶に出むき、神宮の話を聞かせるのが通例でした。御師宿以外だと、ボッタクリもあったそうです。特に相手をしてくれる女の人のいる宿なんかだと、可愛い子がいますよ。なんて言われて割高を承知で泊まったら、でてきたのがさっきの引込婆だったとかね。(お断りしても、お金は返ってきません)
ちなみに相手の弱みを知って吹っ掛ける様な事を「足元を見る」って言う語源も元は「宿屋が旅人の足を見て汚れ具合で宿代を吊り上げたりした事」が由来足の汚れが酷い=より過酷な旅をして疲れているから早く休みたいであろう事は明白って言う相手の真理を利用して宿代を吹っかけて来たのが始まり
時代劇の宿泊シーンにしても、お約束の「事件の渦中にある家にご厄介」以外では、たとえば「木枯し紋次郎」なら山のお堂や馬小屋で雨露をしのいだり、「水戸黄門」なら夕餉に特産品が味わえる旅籠だったり、「十三人の刺客」なら本陣でバカ殿が狼藉働いたりと、身分や目的に応じたバリエーションが楽しいよね
宿にたどり着く前に日が暮れかかって、慌てて村の寺に一夜の宿を請う。「○○へ行くには途中で日が暮れるから今夜は泊まっていきなせぇ。追い剥ぎがでるから」と地元の人に止められるシーンも、昔は多かったです
ネットで日本国内に限らず海外の情報なども知ることができる現代それでも、実際に現地に行って肌で体験することとは違いますからねさらに交通機関がなく、基本的に徒歩が主な移動手段…当時の人たちにとっては、旅は一生に一度の大冒険だったんでしょうね
武士が面白いのが、民衆を力で押さえてる様で、やっぱり落とし所やグレーゾーン決めて、乱暴に力で押さえ込もうとかはしないのは面白いよねー。当時の世界では以外と民主的。
歌丸さんの落語のCDを聞いてて、「いが栗」だったか、蛇は藍を嫌うから旅の途中の蛇避けで藍染めの足袋や脚絆を使っていたとかいう語り部分があったなあ。実際アメリカのゴールドラッシュ時にインディゴは虫除け蛇避けで使われてたし、そういった知恵も旅で使われたんだろうね。
今のようにテレビやネットで映像が見られる時代でも旅番組や旅ブログは一定の人気があるし、お伊勢まいりのような有名な旅の題材は大人気となったのもうなずけます。しかし、娯楽の度は楽しいですが菅江真澄の紀行文(享保の飢饉の東北地方とか)は読んでてなかなか気が滅入るものです。
今回も面白く、為になる動画UPありがとうございます。いつも楽しみにしています。
なんかのマンガで、死期を悟った身寄りの無い老人が家財道具を売り払って伊勢に行くっていうある種の自発的姨捨山な話があったな。
正規の関所のある道と言うのは、ある程度安全を保証されたものなんでしょうね。抜け道は、案内がい泣ける場ならないほど危険だったと。ワンコが飼い主に代わってお参りにいくのを、道中の人達は優しく見守ってくれたそうですが、何だかちゃんとお参りに行って帰るワンコも凄いけど、見守った人達も凄いです。これもお伊勢さまへの信仰のなせる業ですかね。
実際に伊勢まで行った犬は少なかったそうです。大抵は、途中の御師宿で餌を与えられて、願文とお札代を回収。お札を結わえて餌を与えられて放された。という。江戸から伊勢ま15日。往復で最低一月はかかる旅程ですが、20日程でお札を持って帰ってきた犬がいた。地元の御師がホンモノ。と鑑定して、「これも日頃の信心に感じ入った天照大神と豊受大神が加護を下さったからだ」と説明。一同深く感じ入った。と言う話が残っています。
@@colocalo100 まぁ正直持久力に関しても犬より人間の方が高いから犬がそんな長距離の移動を簡単に出来るとも思えないですからねぇ
温泉旅行も同じ場所で1週間~2週間も滞在して温泉と近くの寺社にも参詣したらしい。現代だと2泊くらいで帰ってしまうけど。
まあ、今の温泉旅行は簡単に行けるしね。
同感です。私も2日が限界。いつでも行けると思っているとすぐ帰ってしまうw地元名物を地元の人があまり食べないようなもの。
これを見ると蒸気機関車から始まる鉄道の整備が一大事だったことがわかるような…。
とっても勉強になりました。ゆっくり聞いてるだけで知識が増しましたゼ。
帽子変わる魔理沙好き
結局、参勤交代が無くなったら一気に中山道とかが廃れて、当時の建物が観光名所に成った、まさに夢の跡の様な時代ですね。
実家の地域一体がまさにそんな感じ中山道って訳じゃないけど、当時は大名行列が通る主要な宿場町だったけど明治以降どんどん廃れて、今じゃその道が国道から県道へ格下げでもはや見る影もない
おかげ参りってバッタがバッタの群衆に会うと自分も群衆に混じるのと似てるな。人間にも何か生物的に群衆に混じりたくなる何かがあるのかも知れない。
江戸時代の伊勢参りと言えば、犬の伊勢参りが有名。にわかに信じられないけど記録が一杯あるから本当だったんだろうな。
本当なのですが、アレは少々仕掛けがあります。伊勢参り様に伊勢講。と言うのがあるのですが、途中の道中の宿の手配などは、講の世話人がしてくれます。(手紙でやり取りして依頼)。なので、講によって泊まる宿屋、道筋が決まっていました。世話人は仕事柄、途中の講宿や神宮とも連絡を取り合っていまして、お札も何枚も預けられています。(旅行に行った人が貰ってきた土産用お札の包みは、世話人が改めてから配る習わしで、破損してたり数が足りない場合は、世話人が足しておく)で、犬の伊勢参りを見つけた場合、各地の伊勢講の世話人が餌を与えて、堤の中の手紙と金を回収。代わりにお札を納めて犬を放す。(手紙と金は、世話人が出す手紙に同封して神宮に送る)と言うシステムができあがっていました。
そもそも、犬が伊勢神宮の方に向かって歩き出すとは思えません。隣の村の人がこちらの村の人が行く代わりに連れていったというのであればまだわかりますが。村人に言い聞かされて、伊勢神宮に向かったとなれば、チンパンジー以上の知能ですね。(*´ー`*)
この逸話を元にしたゆるキャラ『いせわんこ』は、元々、香川県の生まれ育ち住まいなのに、しれっと三重県のキャラクターになっている。
犬が伝書鳩のように、手紙と金を目的地に届けた?仮にそれが可能だったとして、システムとして確立していたなら当然その犬を殺して金なり札なりを盗む輩が出てくるはず。釣りなのかもしれないが、あまりにも荒唐無稽な話。
流石に手紙での依頼はちょっと怪しいけど、人懐っこい野良犬が人の流れに犬が付いていった結果、伊勢までたどり着いちゃったって事は普通にありそうですね実際最近犬じゃないけど猫で登山者について行っちゃってその都度登山者からご飯もらったりして3000m級の過酷な山を3回も連続登頂しちゃったって話がありましたし
日本人の旅好きはこの時代から始まったようですね。参宮鉄道、琴電、南海高野線、阪急宝塚線、東武日光線なんかそのまんまですね。
木賃宿は現代で言うところのライダーハウス寝袋持って雑魚寝するスタイル
そういうので寝泊まりして一人旅するのも一生に一度くらいはやってみるのもいいよね
弥次喜多で便所の下駄で五右衛門風呂に入る件が好き。
で、底を踏み抜いて怒られるんですよね('ω')
お伊勢参り一回やったことありますが楽しかったです。
天照大御神に浄化されなかったんですか?
@@to2593 食べたので浄化されなかったです。
もちろん徒歩で?
自分の先祖もお伊勢参りは行ってたのかな?甲州街道だと日野あたりで山賊が出ていたそうな
平和で豊かに成ったからこそ、出来たんだし、寺社仏閣や湯治目的でやらしてたんですね。
農民の場合は旅に託けて逐電するのを防止するため、「自分の村の庄屋に家族を人質として預けなければならない」とされていたらしい。
そうだったんですか!てっきり農民は、絶対に旅に出られないものと思ってました。
それは藩にもよるかと。岩手からだと片道100日。往復200日(順調にいった場合)ですから、お参りに行く人は「生きて帰れるか判らない」のが大きかったそうです。伊勢参りに行く時も、年貢の免除はありませんから、「田畑と妻子を庄屋に預け」「年貢や妻子の生活を見て貰う」という互助体勢を「伊勢講」では設けていました伊勢の御師は外宮の豊受大神を農村部に宣伝していましたから、農民の伊勢参りは盛んだったそうです
大昔に実家が庄屋だったらしいけど、そんな感じで預かった妻を孕ませてたり預かった男子を養子縁組したり生んだ後の妻はそのままポイーってのをやってたらしく、お墓改装時に調べた際に出てきたお寺に残ってた家系図?がとんでもない事なってた思い出
自分の領国域が嫌になって、他の領国が気にいったのなら、隙あらば、亡命したいですよね。
みんなで伊勢参りか・・・つまりいっせいに行くんだな!? (`・ω・´)キリッ
今日は何だか冷えますねぇ…
そーだったのか!といろいろ面白く拝聴させていただきました。歴史はある意味専門なのですが、いつも面白く拝見しています。
関東在住ですが、今の時代、東京駅から東海道新幹線、名古屋で近鉄に乗り換えて、お伊勢参り。自分は名古屋から特急料金を払っても、近鉄特急に乗る。急行だと、運賃だけですが、ケツが痛くなった。
当時一人で旅する時の護身用に、二尺五寸の道中差。倒れて死んでも葬って貰うため、小判を襟に縫い込んであったとか。山間部での盗賊やクモスケ、色々と危険はあったみたいです。そんなに気楽で安全なモノではなく、一種、命懸けの所も多かった様です。それでも他国と比べれば、格段の治安の良さと、行動範囲の広さ。今でも湯治とお詣りは、旅の動機の筆頭。日本に帰って来れて良かったです。
楽しかったです。登録しました。
いつも楽しく拝見しています。街道の地図の東海道の「小田原」の位置が違います。そのままだと「藤沢」あたりになります。「箱根」あたりが「小田原」になります。神奈川県民の老婆心より
アップロードありがとうなかなか渋くてよかったな。現代でも伊勢神宮まで旅行すると言ったらそれなりにお金と時間とかかるしね、奥の細道の道中記を見てるとあんな貧弱な装備でよくやったなと驚きます。今みたいな靴下とかスニーカーとかダウンジャケットとか全くないもんね、それは命がけだったろうなぁ昔の人は丈夫だったのかな。奥の細道でもあるよね馬小屋で一緒に寝るとか昔に生まれなくてよかった… (笑)
必殺仕事人最終回に、秀さんが旅に出たけど、多くは描かれてなかったが、多分安い宿に泊まったんだろうなと、何となく想像した。
24:53 旅をする時は持っていく荷物を減らすのは重要。必要だろうと思って持っていったものが、意外と必要なかったことがある。
今の時代なら一番いいのは現地調達ですかねぇお金さえあれば衣食住に困らないから、極論クレジットカード一枚だけでなんとかなるそして不要ならそのまま現地で捨てればいいで済みますもんね
@@Falken0014 楽だけど、それは楽しくない😒旅の時に使いたいマイグッズを使いたい
わが家の蔵が文政12年にぶっ建てられたのも実はそ伊勢参りの旅行者の実入りが有ったからなのかと思ってみたり・・
「本陣」というホテルがあってですね…お伊勢さんには、一度「鉄の馬w」に乗って、日帰りで経験あるンゴ。
箱根越え、大変だったろうな。 🐶ワンコ🐕も越えたんだね。いろんな旅人がバックアップしてくれたらしいね。感動🎊
12:27みやげとして新品種の種東京の巣鴨の先の中山道沿いには種物屋が何軒もあったが、そのような歴史的背景があるのか。
昨日本屋さんでたまたま浮世絵集見つけて見ましたよ!面白浮世絵屁こいて臭そうにしてる顔のやつとか(笑)色鮮やかで驚きましたね
勝海舟の父親は破天荒な人で抜け参りをした事が有る。
人気目的地 山で高野山 富士山 鳥海山に混じって天保山がある(笑)
当時の天保山は、大阪でも有数の行楽地として整備されていました。高さ20mの築山には松や桜が植えられて、茶店多数。海辺には灯台。川遊び用の舟もあり、安治川に入港してくる廻船や各藩の御用船も多数で、船改めの様子も拝める。出港や入港の見送りを、女子供の観光がてらに行なう人もいたそうです。その後、幕末に外国船が訪れるようになると警備のために築山は削られ、砲台が作られました。
「姫街道」って呼ばれる抜け道がある。静岡の西側や東三河地方は今でも「あの辺だな」という感じで通じる。
江戸幕府が中央集権化してインフラを反乱防止よりも使いやすさに重点を置いて整備してたら今の日本の交通事情はかなり良かっただろうな馬車の交通が発達したりしてれば現代のくそ狭い国道の元になったような道路もかなり広くなってただろうし街中の道もすっきりしてたと思うそしたら自動車の普及ももっと早くなって車の税金とか高速料金もはるかに安かったはず
60年周期は干支、十干と十二支を組み合わせた年の数え方、有名どころだと「戊辰戦争」「甲子革命」など歴史の出来事などに付けられますお蔭参りで1771年と1830年頃のものは庚寅の時期、「庚」は結実・形成・陰化「寅」は春の芽吹きと萌える草木、縁起がよさそうな年ですね
車があり電車があり飛行機があり、何より移動の自由がある現代に生まれたことを幸せに思います。
同時期の欧州は、ベッド付き部屋何て日本でいう本陣脇本陣しか無く、其どころか旅籠すら無く、どう成ってたかといえば大部屋で客は横棒に垂れ下がったロープに掴まりながら寝て、朝宿のオヤジが横棒引っこ抜いて一斉に客が倒れて其が起床の合図だったとさ。だから幕末に来た欧米人は宿場町見て驚いたみたい。
時間とお金があれば東京まで 新幹線 ではなく 普通列車 でのんびり風景等満喫して移動したいな。
はじめまして。面白い動画ありがとうございます。BGMが好きになっちゃいました。何という曲名でしょうか?
四国歩き遍路が江戸時代の旅に近い経験ができる。宿につくと杖と足を洗う所もあるよ!
親戚の家に伝わる幕末のお伊勢参り(+関西旅行)の道中帳に記録されたルートで旅をしてみたい。
江戸時代の参勤交代は、名目上は江戸城の将軍の招集により、諸侯が軍隊を率いて江戸に参陣する行軍(演習)だった。それ故に諸侯毎に行軍する「軍隊」の規模や陣容が規定されていました。
街道筋には、コンビニ代わりの果樹もあるから時期を間違わなければ、お伊勢参りも出来たかも知れないな。また、旅人を狙う山賊も居たから大変だな。
お伊勢参りで全国から客が来て宿屋は食事の準備が大変だから魚を大量に茹でた後に魚に焦げ目を付けて焼き魚として出したのが有る。
実は調理法としてはかなり理に適ってたりすまぁ流石に本当に焼いたのと比べたら味はかなり落ちちゃううだろうけどねぇとは言え以外にも当時は江戸を中心に脂を忌避する様な文化が有ったから意外とウケてそうではある
いつも楽しく視聴させております。オープニングが変わりましたね。ちょっとビックリしました(^^ゞいまでも60年周期で「干支」が重んじられている所もありますし、江戸時代なら尚更感があります。ありがとうございました。
飼犬・飼猫の御伊勢参りは有名www(御伊勢参りの為の往復旅賃と御伊勢参りする為の御朱印代を飼犬・飼猫の首に掲げさせて、飼い主は動向せずに飼犬・飼猫だけで旅に出す程だったからなw)
鬼滅の刃以上のベストセラー、東海道中膝栗毛!! 江戸が震撼した物語、、、comming soon
大学のレポート書く時に助かる 卒論も伊勢参りについてにしようかな
お伊勢参りの話を聞いてると、イスラムのメッカ巡礼を連想する。あれも経済効果高いらしいし。5:00 会社の海外研修を思い出しました、、、会社のお金で海外へ研修という名の海外旅行、、、お土産と報告書は必須、、、
いいchだわぁ~
温泉の和歌山率凄いですね…
庶民でも道中差という脇差刀を差して行かなければいけなかったのがそれを物語っている。
人気スポットに和歌山県はいっぱい入ってる1996年の元旦に伊勢神宮に行ってるが60年周期に一致
帰る場所があるからこそ旅になる。
箱根の旧道沿いのお玉ヶ池の名前の由来は仁jinの漫画読んで知ったわ。
金比羅さんや四国八十八ヶ所についての解説とかもして欲しいな、なんて思ったりどーでしょう?
そっちの方だと坊さんと同じで行く先々で「ご奉謝・お布施」を乞うていた。普通に旅するのと比べれば金銭的不安は低かっただろう。
伊勢参りは関西に入ると、伊勢参りと言えば飯や泊まる場所を地元民が安くあるいは無償提供してくれたからたった3両でもこんな旅できたんだろうなー
江戸時代の日光例幣使をよろしくお願いします。
大井川に橋が架からなかったのは、宿場の既得権保護もあったでしょうね。
犬の伊勢参りも解説して欲しかったな〜これは日本だけの文化だなぁ!
人類、旅行大好き種族。私はあまり好きではありませんが。
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川
この時代の人からしたら、故郷以外は異世界みたいな感覚だっんだろうか
俺の地元よそものの出入りに厳しいのに番付で山がスポットになってて草
teraちゃんオープニングのterasenロゴ格好いいね、前からあんなにモダンな雰囲気だったっけ?
最近変わったと思いますよ。
関所は通行手形が不備でもたいてい通していたらしいね。書類作るのも面倒、電話で問い合わせもできないし、牢に入れるのも負担。下手すりゃ役人の方が処罰される。というわけで他所見てるうちに通してしまっていたとか。
お陰参りがタダでできたのは、八十八ヶ所巡りでお遍路さんにお接待するのを全国でやってたと考えると判る気がする。いろんな事情でお伊勢参りに行けない人が願いを託したのかなと。
伊勢参りや金比羅参りの人に施しをすると、御利益がある。と言われていました。治安維持も兼ねて、武芸の道場などが施しもしました。道場の門人が施しを手伝い、乱暴者を注意し、道場の後援者や付近の物持ちが寄付して費用を補いました食い詰めて乱暴が行われるより、ある程度コントロールした方がいい。という合理的な判断もあったようです。各藩でも内々に、施しをした者を報奨したそうです
旅行したいなー( *´艸`)
江戸時代からクラウドファンディングあった。(*^。^*)
伊勢講のようなお参り特化系に限らず無尽・頼母子という同様の仕組みの相互会がありましたよ
関所破りってイメージでは武装したならず物が「ヒャッハー関所破りじゃ〜!!」てやるのかと思ってた
関所破りにも色々方法があったそうですよ。・身分を偽り関所を通る →旅の侍(主人持ち)に金を渡し、臨時の荷担ぎとして雇って貰う。 伝手を頼り、偽の身分証を発行して貰う・地元の人に間道を案内して貰う →小遣い稼ぎの猟師や農民、木樵から893まで色々・予め調べたり知っている、関所を通らない道を通る →尾根伝いに村々を繋ぐローカルな街道や修験道等。牛若丸やアシタカ(もののけ姫)が使ったのが、最後の方法です
そんな事したら幕府を敵に回すことになるから一瞬で滅ぼされるw
今回ゆっくりさん達は実際に旅に出なかったのね。。。
トラベルの語源がトラブルと同じという外国(英語圏だけ?!)と違うね!伊勢参り、成田詣で、、旅はいいよね!
狂ったように旅行行きたい😂
「木賃宿」は現代でも「簡易宿所」の呼称で存在しますよ、「湯治、簡易宿所」で検索できます。
17:11 ひしゃくって、旅費が亡くなったときに、施しをもらうための道具という事じゃなかったっけ?
元は金比羅さんに抜参りをするときの用意ですね。何かの理由で村や町におれなくなり出奔するときに『金比羅詣でに行く』といって柄杓を持って出ていく。借金がある場合は『餞別代りに棒引き』される。柄杓1つ持って出ていく者を止めてはいけない。という不文律があるので、恨まれている者も無事に抜け出ることができる。参拝が住んだら、おれいとして、持って来た柄杓を納めるのが慣わし
関所が割とガラガラで驚き 江戸時代の役人賄賂しか聞かないんだけど
21:56 「摂津」有馬の湯は、大阪ではなく摂津国の兵庫県側(神戸市有馬)じゃないかな?
「摂津国」の西側が、兵庫県。有馬温泉は古くは有馬(間)国(郡)。現在の神戸市北区~西宮の北側/宝塚の手前迄
天領の農民の生活とかどうゆう感じだったのかな?徳川家の直轄地だからやっぱり年貢は緩かったのかな?
当時の街道、盗賊や追い剥ぎはどれくらい出たんだろう。道中最も気をつけないとならない存在の一つだったのではないかと。
各地の名所図絵にも「おいはぎ」と書かれたものがありますよ。田畑がある場所なら、開けていますし地元の人が農作業しているので昼間は安全。旅人は暗くなる前に宿場に入る。山間部を行くときは、誰か前後に来るのを待つ。お役の旅をしている侍が通れば、、後についていく人が多かったそうです。
この方のゆっくりには品がある
わかります😊
文化を馬鹿にしないって、今でも通じる心構えですね。
さすが当時世界最大の人口を抱えた江戸やな豊かな時代や 7人に一人が旅とか平和すぎるだろ江戸時代ありがとう徳川
家と土地に縛られた江戸時代だからこそ、見たことのない離れた土地に旅する事が魅力的に映っていたのかもしれませんね。
当時の伊勢に5か月で420万人も受け入れられるキャパシティがあったのも凄いよねぇ
持ち込みや道中での施しがあったとはいえ、420万人分の飯だけでも賄うのなんて相当無茶だっただろうに
三重県の田舎者ですが、隣町では「おかげ参り」の風習が残っています。
大井川に橋が無いのは防衛の意味もあるのでしょうが、増水時の急流に耐える橋の設置が技術的に困難であったことと、普段は渡し船を航行できる水深が無いといった理由という説もあるそうです。
そういや江戸時代より前の時代の国内旅行の話ってほぼ聞かないですよね
やはり平和って大事ですね
江戸より前だとそれこそ他の藩に行くのは文字通り侵犯行為だからねぇ・・・
日本は今ほぼ完全に独立した島国で一国を成してるから分かりに行くけど、例えるならEUもECもなかった頃のヨーロッパみたいなモンだよって事だからねぇ
『東海道中膝栗毛』の『膝=足』『栗毛=(栗毛の)馬』つまり「自分の足を馬の代わりにする」平たく言って『徒歩』とかいう回りくどい言い方好き
なるほど、お陰様で頭が良くなりました。
そうだっんですかー。
東海道中膝栗毛は実はBL
喜多八は弥次郎兵衛が贔屓にしていた蔭間(ゲイ向け風俗ボーイ)だったりする。
尾瀬の近くにある陸の孤島、檜枝岐村には歌舞伎舞台の文化がある。お伊勢参りで江戸に寄った際に観た歌舞伎を村に持ち帰ったもの。
東京から見て田舎である福島から見て奥地である会津若松から見てドン詰まりの最果てである檜枝岐に残ってるのは旅のおかげ。
毎回とても興味深くて面白いですが、今回は掘り下げ具合といい屈指です。伊勢参りと言えば、客が集中する伊勢近辺の宿屋では米を炊くのではなく煮あげて蒸らすとか魚を煮て焼き鏝を当て焼き魚とする独特の大漁調理法が発展しましたね。最近でもわざわざやっている旅館がありました。
平和な時代で、文化が発達したからこその「お伊勢詣り」
物流の交流や、農業種の交流も発達させたのも世の中が平和になったおかげだと言えるよね。
「お参りなら仕方ない」本当に、日本はおおらかな国だなぁ。
その辺はイスラム教もあるのよ
巡礼(ハッジ)って大義が有るなら邪魔をしちゃダメってね
面白い事に貧困な地域からの巡礼者は正に講のシステムそのまんまな方法で地域代表者を立てて行ってもらったりなんてのもある
まぁイスラム教においてハッジは一生に一度はするべしって形になってるから余計その辺は大義の強みが有るんだろうけどね
でもどこの国、どこの宗教でも同じようなシステムが出来てるってのがやっぱり面白い所
動画内でも言われてる関所破りだけど、もし見つかっても「道に迷いました」程度で切り抜けられるほどそこまで厳格ではなかったらしい。国定忠治含め磔になったのはそもそもが死刑確定の重罪人だったとか。
まぁ実際土地勘ない所に行くとなると、今みたいに道路標識がきっちりある訳でもないから本当に迷った挙句ってのはそこそこ居ただろうからねぇ
宿に連泊できるのは雨や雪で川、道が通れない時だけで普段は1泊だけで次の宿場に行くという流れ。長期滞在できるのは湯治場で治療目的のみ。各宿ごとにぼったくりとかもあったのかなーと想像を巡らせるのも面白い
伊勢参りだけは、安価に行ける仕組みがありました。
伊勢講の世話人は大抵、御師(がしていたんですが、御師は宿屋も兼業していました。御師宿は講の繋がりで安く泊まれましたし、伊勢の名物を振る舞ったり、贅沢な布団に眠らせるなどして歓待。
御師は正装で挨拶に出むき、神宮の話を聞かせるのが通例でした。
御師宿以外だと、ボッタクリもあったそうです。
特に相手をしてくれる女の人のいる宿なんかだと、可愛い子がいますよ。なんて言われて割高を承知で泊まったら、でてきたのがさっきの引込婆だったとかね。(お断りしても、お金は返ってきません)
ちなみに相手の弱みを知って吹っ掛ける様な事を「足元を見る」って言う語源も元は「宿屋が旅人の足を見て汚れ具合で宿代を吊り上げたりした事」が由来
足の汚れが酷い=より過酷な旅をして疲れているから早く休みたいであろう事は明白
って言う相手の真理を利用して宿代を吹っかけて来たのが始まり
時代劇の宿泊シーンにしても、お約束の「事件の渦中にある家にご厄介」以外では、たとえば「木枯し紋次郎」なら山のお堂や馬小屋で雨露をしのいだり、「水戸黄門」なら夕餉に特産品が味わえる旅籠だったり、「十三人の刺客」なら本陣でバカ殿が狼藉働いたりと、身分や目的に応じたバリエーションが楽しいよね
宿にたどり着く前に日が暮れかかって、慌てて村の寺に一夜の宿を請う。
「○○へ行くには途中で日が暮れるから今夜は泊まっていきなせぇ。追い剥ぎがでるから」と地元の人に止められるシーンも、昔は多かったです
ネットで日本国内に限らず海外の情報なども知ることができる現代
それでも、実際に現地に行って肌で体験することとは違いますからね
さらに交通機関がなく、基本的に徒歩が主な移動手段…
当時の人たちにとっては、旅は一生に一度の大冒険だったんでしょうね
武士が面白いのが、民衆を力で押さえてる様で、やっぱり落とし所やグレーゾーン決めて、乱暴に力で押さえ込もうとかはしないのは面白いよねー。
当時の世界では以外と民主的。
歌丸さんの落語のCDを聞いてて、「いが栗」だったか、
蛇は藍を嫌うから旅の途中の蛇避けで藍染めの足袋や脚絆を使っていたとかいう語り部分があったなあ。
実際アメリカのゴールドラッシュ時にインディゴは虫除け蛇避けで使われてたし、そういった知恵も旅で使われたんだろうね。
今のようにテレビやネットで映像が見られる時代でも旅番組や旅ブログは一定の人気があるし、お伊勢まいりのような有名な旅の題材は大人気となったのもうなずけます。しかし、娯楽の度は楽しいですが菅江真澄の紀行文(享保の飢饉の東北地方とか)は読んでてなかなか気が滅入るものです。
今回も面白く、為になる動画UPありがとうございます。いつも楽しみにしています。
なんかのマンガで、死期を悟った身寄りの無い老人が家財道具を売り払って伊勢に行くっていうある種の自発的姨捨山な話があったな。
正規の関所のある道と言うのは、ある程度安全を保証されたものなんでしょうね。抜け道は、案内がい泣ける場ならないほど危険だったと。
ワンコが飼い主に代わってお参りにいくのを、道中の人達は優しく見守ってくれたそうですが、何だかちゃんとお参りに行って帰るワンコも凄いけど、見守った人達も凄いです。これもお伊勢さまへの信仰のなせる業ですかね。
実際に伊勢まで行った犬は少なかったそうです。大抵は、途中の御師宿で餌を与えられて、願文とお札代を回収。お札を結わえて餌を与えられて放された。という。
江戸から伊勢ま15日。往復で最低一月はかかる旅程ですが、20日程でお札を持って帰ってきた犬がいた。
地元の御師がホンモノ。と鑑定して、「これも日頃の信心に感じ入った天照大神と豊受大神が加護を下さったからだ」と説明。一同深く感じ入った。と言う話が残っています。
@@colocalo100
まぁ正直持久力に関しても犬より人間の方が高いから犬がそんな長距離の移動を簡単に出来るとも思えないですからねぇ
温泉旅行も同じ場所で1週間~2週間も滞在して温泉と近くの寺社にも参詣したらしい。
現代だと2泊くらいで帰ってしまうけど。
まあ、今の温泉旅行は簡単に行けるしね。
同感です。私も2日が限界。いつでも行けると思っているとすぐ帰ってしまうw
地元名物を地元の人があまり食べないようなもの。
これを見ると蒸気機関車から始まる鉄道の整備が一大事だったことがわかるような…。
とっても勉強になりました。ゆっくり聞いてるだけで知識が増しましたゼ。
帽子変わる魔理沙好き
結局、参勤交代が無くなったら一気に中山道とかが廃れて、当時の建物が観光名所に成った、まさに夢の跡の様な時代ですね。
実家の地域一体がまさにそんな感じ
中山道って訳じゃないけど、当時は大名行列が通る主要な宿場町だったけど明治以降どんどん廃れて、今じゃその道が国道から県道へ格下げでもはや見る影もない
おかげ参りってバッタがバッタの群衆に会うと自分も群衆に混じるのと似てるな。
人間にも何か生物的に群衆に混じりたくなる何かがあるのかも知れない。
江戸時代の伊勢参りと言えば、犬の伊勢参りが有名。にわかに信じられないけど記録が一杯あるから本当だったんだろうな。
本当なのですが、アレは少々仕掛けがあります。
伊勢参り様に伊勢講。と言うのがあるのですが、途中の道中の宿の手配などは、講の世話人がしてくれます。
(手紙でやり取りして依頼)。なので、講によって泊まる宿屋、道筋が決まっていました。
世話人は仕事柄、途中の講宿や神宮とも連絡を取り合っていまして、お札も何枚も預けられています。
(旅行に行った人が貰ってきた土産用お札の包みは、世話人が改めてから配る習わしで、破損してたり数が足りない場合は、世話人が足しておく)
で、犬の伊勢参りを見つけた場合、各地の伊勢講の世話人が餌を与えて、堤の中の手紙と金を回収。代わりにお札を納めて犬を放す。(手紙と金は、世話人が出す手紙に同封して神宮に送る)
と言うシステムができあがっていました。
そもそも、犬が伊勢神宮の方に向かって歩き出すとは思えません。隣の村の人がこちらの村の人が行く代わりに連れていったというのであればまだわかりますが。村人に言い聞かされて、伊勢神宮に向かったとなれば、チンパンジー以上の知能ですね。(*´ー`*)
この逸話を元にしたゆるキャラ『いせわんこ』は、元々、香川県の生まれ育ち住まいなのに、しれっと三重県のキャラクターになっている。
犬が伝書鳩のように、手紙と金を目的地に届けた?仮にそれが可能だったとして、システムとして確立していたなら当然その犬を殺して金なり札なりを盗む輩が出てくるはず。釣りなのかもしれないが、あまりにも荒唐無稽な話。
流石に手紙での依頼はちょっと怪しいけど、人懐っこい野良犬が人の流れに犬が付いていった結果、伊勢までたどり着いちゃったって事は普通にありそうですね
実際最近犬じゃないけど猫で登山者について行っちゃってその都度登山者からご飯もらったりして3000m級の過酷な山を3回も連続登頂しちゃったって話がありましたし
日本人の旅好きはこの時代から始まったようですね。
参宮鉄道、琴電、南海高野線、阪急宝塚線、東武日光線なんか
そのまんまですね。
木賃宿は現代で言うところのライダーハウス
寝袋持って雑魚寝するスタイル
そういうので寝泊まりして一人旅するのも一生に一度くらいはやってみるのもいいよね
弥次喜多で便所の下駄で五右衛門風呂に入る件が好き。
で、底を踏み抜いて怒られるんですよね('ω')
お伊勢参り一回やったことありますが楽しかったです。
天照大御神に浄化されなかったんですか?
@@to2593 食べたので浄化されなかったです。
もちろん徒歩で?
自分の先祖もお伊勢参りは行ってたのかな?
甲州街道だと日野あたりで山賊が出ていたそうな
平和で豊かに成ったからこそ、出来たんだし、寺社仏閣や湯治目的でやらしてたんですね。
農民の場合は旅に託けて逐電するのを防止するため、「自分の村の庄屋に家族を人質として預けなければならない」とされていたらしい。
そうだったんですか!てっきり農民は、絶対に旅に出られないものと思ってました。
それは藩にもよるかと。岩手からだと片道100日。往復200日(順調にいった場合)ですから、お参りに行く人は「生きて帰れるか判らない」のが大きかったそうです。伊勢参りに行く時も、年貢の免除はありませんから、
「田畑と妻子を庄屋に預け」「年貢や妻子の生活を見て貰う」という互助体勢を「伊勢講」では設けていました
伊勢の御師は外宮の豊受大神を農村部に宣伝していましたから、農民の伊勢参りは盛んだったそうです
大昔に実家が庄屋だったらしいけど、そんな感じで預かった妻を孕ませてたり預かった男子を養子縁組したり生んだ後の妻はそのままポイーってのをやってたらしく、お墓改装時に調べた際に出てきたお寺に残ってた家系図?がとんでもない事なってた思い出
自分の領国域が嫌になって、他の領国が気にいったのなら、隙あらば、亡命したいですよね。
みんなで伊勢参りか・・・
つまり
いっせいに行くんだな!? (`・ω・´)キリッ
今日は何だか冷えますねぇ…
そーだったのか!といろいろ面白く拝聴させていただきました。歴史はある意味専門なのですが、いつも面白く拝見しています。
関東在住ですが、今の時代、東京駅から東海道新幹線、名古屋で近鉄に乗り換えて、お伊勢参り。
自分は名古屋から特急料金を払っても、近鉄特急に乗る。急行だと、運賃だけですが、ケツが痛くなった。
当時一人で旅する時の護身用に、二尺五寸の道中差。倒れて死んでも葬って貰うため、小判を襟に縫い込んであったとか。山間部での盗賊やクモスケ、色々と危険はあったみたいです。そんなに気楽で安全なモノではなく、一種、命懸けの所も多かった様です。
それでも他国と比べれば、格段の治安の良さと、行動範囲の広さ。今でも湯治とお詣りは、旅の動機の筆頭。日本に帰って来れて良かったです。
楽しかったです。登録しました。
いつも楽しく拝見しています。
街道の地図の東海道の「小田原」の位置が違います。そのままだと「藤沢」あたりになります。「箱根」あたりが「小田原」になります。
神奈川県民の老婆心より
アップロードありがとうなかなか渋くてよかったな。現代でも伊勢神宮まで旅行すると言ったらそれなりにお金と時間とかかるしね、奥の細道の道中記を見てるとあんな貧弱な装備でよくやったなと驚きます。今みたいな靴下とかスニーカーとかダウンジャケットとか全くないもんね、それは命がけだったろうなぁ昔の人は丈夫だったのかな。奥の細道でもあるよね馬小屋で一緒に寝るとか昔に生まれなくてよかった… (笑)
必殺仕事人最終回に、秀さんが旅に出たけど、多くは描かれてなかったが、多分安い宿に泊まったんだろうなと、何となく想像した。
24:53 旅をする時は持っていく荷物を減らすのは重要。必要だろうと思って持っていったものが、意外と必要なかったことがある。
今の時代なら一番いいのは現地調達ですかねぇ
お金さえあれば衣食住に困らないから、極論クレジットカード一枚だけでなんとかなる
そして不要ならそのまま現地で捨てればいいで済みますもんね
@@Falken0014 楽だけど、それは楽しくない😒
旅の時に使いたいマイグッズを使いたい
わが家の蔵が文政12年にぶっ建てられたのも実はそ伊勢参りの旅行者の実入りが有ったからなのかと思ってみたり・・
「本陣」というホテルがあってですね…
お伊勢さんには、一度「鉄の馬w」に乗って、日帰りで経験あるンゴ。
箱根越え、大変だったろうな。
🐶ワンコ🐕も越えたんだね。
いろんな旅人がバックアップしてくれたらしいね。感動🎊
12:27
みやげとして新品種の種
東京の巣鴨の先の中山道沿いには種物屋が何軒もあったが、そのような歴史的背景があるのか。
昨日本屋さんでたまたま浮世絵集見つけて見ましたよ!面白浮世絵
屁こいて臭そうにしてる顔のやつとか(笑)色鮮やかで驚きましたね
勝海舟の父親は破天荒な人で抜け参りをした事が有る。
人気目的地 山で高野山 富士山 鳥海山に混じって天保山がある(笑)
当時の天保山は、大阪でも有数の行楽地として整備されていました。
高さ20mの築山には松や桜が植えられて、茶店多数。海辺には灯台。川遊び用の舟もあり、安治川に入港してくる廻船や各藩の御用船も多数で、船改めの様子も拝める。出港や入港の見送りを、女子供の観光がてらに行なう人もいたそうです。その後、幕末に外国船が訪れるようになると警備のために築山は削られ、砲台が作られました。
「姫街道」って呼ばれる抜け道がある。静岡の西側や東三河地方は今でも「あの辺だな」という感じで通じる。
江戸幕府が中央集権化してインフラを反乱防止よりも使いやすさに重点を置いて整備してたら今の日本の交通事情はかなり良かっただろうな
馬車の交通が発達したりしてれば現代のくそ狭い国道の元になったような道路もかなり広くなってただろうし街中の道もすっきりしてたと思う
そしたら自動車の普及ももっと早くなって車の税金とか高速料金もはるかに安かったはず
60年周期は干支、十干と十二支を組み合わせた年の数え方、有名どころだと「戊辰戦争」「甲子革命」など歴史の出来事などに付けられます
お蔭参りで1771年と1830年頃のものは庚寅の時期、「庚」は結実・形成・陰化「寅」は春の芽吹きと萌える草木、縁起がよさそうな年ですね
車があり電車があり飛行機があり、何より移動の自由がある現代に生まれたことを幸せに思います。
同時期の欧州は、ベッド付き部屋何て日本でいう本陣脇本陣しか無く、其どころか旅籠すら無く、どう成ってたかといえば大部屋で客は横棒に垂れ下がったロープに掴まりながら寝て、朝宿のオヤジが横棒引っこ抜いて一斉に客が倒れて其が起床の合図だったとさ。
だから幕末に来た欧米人は宿場町見て驚いたみたい。
時間とお金があれば東京まで 新幹線 ではなく 普通列車 でのんびり風景等満喫して移動したいな。
はじめまして。
面白い動画ありがとうございます。
BGMが好きになっちゃいました。
何という曲名でしょうか?
四国歩き遍路が江戸時代の旅に近い経験ができる。宿につくと杖と足を洗う所もあるよ!
親戚の家に伝わる幕末のお伊勢参り(+関西旅行)の道中帳に記録されたルートで旅をしてみたい。
江戸時代の参勤交代は、名目上は江戸城の将軍の招集により、
諸侯が軍隊を率いて江戸に参陣する行軍(演習)だった。
それ故に諸侯毎に行軍する「軍隊」の規模や陣容が規定されていました。
街道筋には、コンビニ代わりの果樹もあるから時期を間違わなければ、お伊勢参りも出来たかも知れないな。
また、旅人を狙う山賊も居たから大変だな。
お伊勢参りで全国から客が来て宿屋は食事の準備が大変だから魚を大量に茹でた後に魚に焦げ目を付けて焼き魚として出したのが有る。
実は調理法としてはかなり理に適ってたりす
まぁ流石に本当に焼いたのと比べたら味はかなり落ちちゃううだろうけどねぇ
とは言え以外にも当時は江戸を中心に脂を忌避する様な文化が有ったから意外とウケてそうではある
いつも楽しく視聴させております。
オープニングが変わりましたね。
ちょっとビックリしました(^^ゞ
いまでも60年周期で「干支」が重んじられている所もありますし、江戸時代なら尚更感があります。
ありがとうございました。
飼犬・飼猫の御伊勢参りは有名www
(御伊勢参りの為の往復旅賃と御伊勢参りする為の御朱印代を飼犬・飼猫の首に掲げさせて、飼い主は動向せずに飼犬・飼猫だけで旅に出す程だったからなw)
鬼滅の刃以上のベストセラー、東海道中膝栗毛!! 江戸が震撼した物語、、、comming soon
大学のレポート書く時に助かる 卒論も伊勢参りについてにしようかな
お伊勢参りの話を聞いてると、イスラムのメッカ巡礼を連想する。
あれも経済効果高いらしいし。
5:00 会社の海外研修を思い出しました、、、会社のお金で海外へ研修という名の海外旅行、、、お土産と報告書は必須、、、
いいchだわぁ~
温泉の和歌山率凄いですね…
庶民でも道中差という脇差刀を差して行かなければいけなかったのがそれを物語っている。
人気スポットに和歌山県はいっぱい入ってる
1996年の元旦に伊勢神宮に行ってるが60年周期に一致
帰る場所があるからこそ旅になる。
箱根の旧道沿いのお玉ヶ池の名前の由来は仁jinの漫画読んで知ったわ。
金比羅さんや四国八十八ヶ所についての解説とかもして欲しいな、なんて思ったり
どーでしょう?
そっちの方だと坊さんと同じで行く先々で「ご奉謝・お布施」を乞うていた。普通に旅するのと比べれば金銭的不安は低かっただろう。
伊勢参りは関西に入ると、伊勢参りと言えば飯や泊まる場所を地元民が安くあるいは無償提供してくれたからたった3両でもこんな旅できたんだろうなー
江戸時代の日光例幣使をよろしくお願いします。
大井川に橋が架からなかったのは、宿場の既得権保護もあったでしょうね。
犬の伊勢参りも解説して欲しかったな〜これは日本だけの文化だなぁ!
人類、旅行大好き種族。私はあまり好きではありませんが。
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川
この時代の人からしたら、故郷以外は異世界みたいな感覚だっんだろうか
俺の地元よそものの出入りに厳しいのに番付で山がスポットになってて草
teraちゃんオープニングのterasenロゴ格好いいね、前からあんなにモダンな雰囲気だったっけ?
最近変わったと思いますよ。
関所は通行手形が不備でもたいてい通していたらしいね。
書類作るのも面倒、電話で問い合わせもできないし、牢に入れるのも負担。
下手すりゃ役人の方が処罰される。
というわけで他所見てるうちに通してしまっていたとか。
お陰参りがタダでできたのは、八十八ヶ所巡りでお遍路さんにお接待するのを全国でやってたと考えると判る気がする。いろんな事情でお伊勢参りに行けない人が願いを託したのかなと。
伊勢参りや金比羅参りの人に施しをすると、御利益がある。と言われていました。
治安維持も兼ねて、武芸の道場などが施しもしました。
道場の門人が施しを手伝い、乱暴者を注意し、道場の後援者や付近の物持ちが寄付して費用を補いました
食い詰めて乱暴が行われるより、ある程度コントロールした方がいい。という合理的な判断もあったようです。各藩でも内々に、施しをした者を報奨したそうです
旅行したいなー( *´艸`)
江戸時代からクラウドファンディングあった。(*^。^*)
伊勢講のようなお参り特化系に限らず無尽・頼母子という同様の仕組みの相互会がありましたよ
関所破りってイメージでは武装したならず物が「ヒャッハー関所破りじゃ〜!!」てやるのかと思ってた
関所破りにも色々方法があったそうですよ。
・身分を偽り関所を通る
→旅の侍(主人持ち)に金を渡し、臨時の荷担ぎとして雇って貰う。
伝手を頼り、偽の身分証を発行して貰う
・地元の人に間道を案内して貰う
→小遣い稼ぎの猟師や農民、木樵から893まで色々
・予め調べたり知っている、関所を通らない道を通る
→尾根伝いに村々を繋ぐローカルな街道や修験道等。
牛若丸やアシタカ(もののけ姫)が使ったのが、最後の方法です
そんな事したら幕府を敵に回すことになるから一瞬で滅ぼされるw
今回ゆっくりさん達は実際に旅に出なかったのね。。。
トラベルの語源がトラブルと同じという外国(英語圏だけ?!)と違うね!伊勢参り、成田詣で、、旅はいいよね!
狂ったように旅行行きたい😂
「木賃宿」は現代でも「簡易宿所」の呼称で存在しますよ、「湯治、簡易宿所」で検索できます。
17:11 ひしゃくって、旅費が亡くなったときに、施しをもらうための道具という事じゃなかったっけ?
元は金比羅さんに抜参りをするときの用意ですね。
何かの理由で村や町におれなくなり出奔するときに『金比羅詣でに行く』といって柄杓を持って出ていく。
借金がある場合は『餞別代りに棒引き』される。柄杓1つ持って出ていく者を止めてはいけない。という不文律があるので、恨まれている者も無事に抜け出ることができる。
参拝が住んだら、おれいとして、持って来た柄杓を納めるのが慣わし
関所が割とガラガラで驚き 江戸時代の役人賄賂しか聞かないんだけど
21:56 「摂津」有馬の湯は、大阪ではなく摂津国の兵庫県側(神戸市有馬)じゃないかな?
「摂津国」の西側が、兵庫県。
有馬温泉は古くは有馬(間)国(郡)。現在の神戸市北区~西宮の北側/宝塚の手前迄
天領の農民の生活とかどうゆう感じだったのかな?
徳川家の直轄地だからやっぱり年貢は緩かったのかな?
当時の街道、盗賊や追い剥ぎはどれくらい出たんだろう。
道中最も気をつけないとならない存在の一つだったのではないかと。
各地の名所図絵にも「おいはぎ」と書かれたものがありますよ。田畑がある場所なら、開けていますし地元の人が農作業しているので昼間は安全。
旅人は暗くなる前に宿場に入る。山間部を行くときは、誰か前後に来るのを待つ。
お役の旅をしている侍が通れば、、後についていく人が多かったそうです。