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プローテー・ウーシアが世界の根本的な実体であり、他のすべての存在の基盤となるという哲学的概念を理解することができました。これにより、物事の本質や存在の根源について考える新たな視点が得られ、世界や自分自身をより深く理解するための洞察が得られました。
人間は人間が世界の中心に回っていると思い込みそれが当たり前のように感じているが、人間もまた植物や動物と同じく世界の一部であり世界の条件の元に動かされているということを忘れないでいたい
物質は歴史的に蓄積され、我々を条件付け動かすと言う動画終わりの言葉にすごく納得した。人はいつか死んで消えるが、物質は歴史に残ると分かっているからこそ、何かを成し遂げ完成させるべく生きているのかなとも感じた。
プラトンの弟子でありながら、プラトンとは真逆とも取れる物質的な考えを展開しているアリストテレスには驚いた。何でもない存在が形相を取り込んで何かになると言う構造は想像に易いし、人間は世界において何ら特別でないと言うのも納得できる。何でも無いからこそ、何かを取り込めば何にでもなれるというこの世界の構造に乗っ取って生きるのが自然で合理的だと思った。
人間だからこそ人間は人間を中心としてかんがえてしまうが、全ては平等に同じものでしかない。人間は世界の一部に過ぎない。
プロ―テ・ウーシアの、ただ一つのものからどんなものにでもなれるという理論は、人間やその他の多様な物質にも言えそうで興味深い。
人間も様々なことを学習し自分の中に取り込んでいき、練り直すことで自分が目指すイデアにだってなれるのではないかと感じた。諦めずにコツコツと小さなことからはじめていくべきだ。
地上のものが1つの究極体を目指して作られると唱えたプラトンに対し、アリストテレスは地上のあらゆるものを構成するものを遡ると1種類の物質に行き着くと唱えた。それぞれ何を目指して作られたかと何から作られたかで対になっている。
存在そのものがひとつの全体であり、世界として動くことをプローテ・ウーシアとよび、全てのものは一つから始まっているとされていることを理解した。
全ての元はプローテ・ウーシアであるというのと、現代物理の物質の元になるのは分子、さらに細かくみれば共通の素粒子から成るという事実が似通っており、紀元前から科学の基礎に近づいていたというのが面白い。また、人間自身もカテゴリアによってどうにでも変わって行けるということを教訓として覚えておきたい。
私たち人間は自分中心に考えてしまうが、周りのもののことも考える必要がある。
人間は自分たちの偉業ばかりを歴史だと思い込み、それ以外のものは全て死んでいると勘違いしている。しかし、自然こそが変わり続けて命を紡いでいっている歴史だと感じる。自然の階段に人間が溶け込めるように努力する必要があると思う。
全て1つから始まっているからどんな物にでもなれるというプローテウーシアの理論は生物にも適用されると思う。人間も何にでもなれる可能性を持っているだろう
世界が人間を動かしているならば、世界どう動いているかではなく、世界が動く目的について注目する必要がある。
まだ科学的な発想がない中で科学の元になるような発想が出てくるのは凄まじ想像力と知識量だと思った。
地上に存在する全てが、プローテ・ウーシアの変様で出来ていて、全てが1つから始まっているという科学の発想を既にしていたことを知りました。
人間とはなんら特別な存在という訳ではなく、植物や動物と同じ元素からできているという考えは、人間中心に回っている現代において大多数が本心から肯定するとは考えづらく思う。しかし、プローテ・ウーリアの考えを取り入れ新たな視点を持つことは確実に人類に進歩と幸福をもたらすだろう。
存在というものは全て一つのものから始まりさまざまなものを取り込んでいる、そしてそこからどのようなものにでもなる。
地上に存在するすべてがプローテー・ウーシアの変様で、すべてが一つから始まると考えると、確かに人間は特別でもないし他の動物や植物となんら変わらない位置付けにあるんだと実感した。
人間や動物、植物が環境の変化に合わせて生体変化・進化を遂げたのは、それらが元は何にでもなり得るプローテ・ウーシアを元に出来ているからなのだろうか。
張りつけるエイドスという外面によってどんな物にも成り得るプローテー•ウーシアを見れば、確かに全てが1つから始まっている考えられる。
地球上の全ての存在はプローテ・ウーシアからできている。一見複雑に見えることでも一つ一つの積み重ねが大事だ。
人間は人間が世界を動かす特別な存在であると思っていることが多いが、いずれ死ぬものであり、世界は人間をも動かし、自ら発展しているものである
プローテー・ウーシアでこの地は火、空気、水、泥の混合物でこの四物質はプローテー・ウーシアの変様にすぎないことから、元ある物事に多様な形相を重層的に取り込むことで新しくなると感じた。
当たり前のように人間がこの世界を動かす貴重な存在であると思っているが、実際には人間が人間の活動によってこの世界を成長させているのではなく、この世界の条件の元に動かされる側の多くの存在の中の一つにすぎないことを感じさせられた。
錬金術の考え方に対し、無理があるだろうと思い続けてきたが、プローテー・ウーシアという純粋存在体がある事を知ってからは見方が変わった。もしも本当にこの考え方が世界の真実であれば不可能では無い気がするし、当時の人達が信じるのも無理は無いだろう。現代の知識から見れば無理だと分かる事も、一度当人達の価値観に寄り添うと自然と考えの筋道が理解出来ることを自身の感覚をもって感じることがこの講義を学び始めてから増えた。自分が生きている現代だってやがては過去になるのだから、現代の知識に囚われず、全てを疑うことが大切だ。
人間という存在は残らないが、人間が生み出した存在は歴史として積み重ねられていくという表現が面白く、人間は決して歴史になることができない、だからこそ芸術家は自分の作品を残していたのだろうかと考えた。
プローテー・ウーシアという1の存在から、世界は変容し動き続けている。人間が世界を動かしているのではなく、世界が人間ごと動かし、変容して発展し続けているのである。この変容の性質があるからこそ、世界の環境の変化に伴ってあらゆる生命体も変化、進化し続けてくることが出来るのである。
アリストテレスが提唱したプローテ・ウーシアは、まだ何も形を成していないものを様々な要素を介して形作るものである。そのため、なんにでもなり得ることからひとつの物事からの選択肢は大いにあると言えるだろう。
ひとつの物から始まった、だからこそ何にでもなることができる。きっと人間も同じで、最後は死んでしまうとしても努力を重ねればなりたいものに近付けるのだから、天界のイデアの模造物だからと諦めずに生きることが大切なのかもしれない。
ただ存在するものに形相をつけ変化させてもそれはもとと同じもの。固まらない粘土のようだ。同時気がつかないほどにカテゴリアを重要にしていることは利用できるかもしれない。
プローテ・ウーシアの理論では、すべてのものは1つから始まっているとされている。科学的な発想の元になる考えがあったと知った。
人間というのがただの形相で、いつかなくなってしまう幻のようなものだから、魂だけでも形が残ってこの世界に長く存在できるように、人は「魂を込めて」創作をすると言うのだと思う。
人間、動物、植物、鉱物などの地上の存在は、日、空気、水、泥の混合物であり、存在そのものが一つの全体としてあり、世界としてそれ自身を動かしているとアリストテレスは言った。
どんなに考えても動物や植物の考えを読み取ることができないため、人間は動物や植物のエイドスしか捉えられず、あくまで人間の世界でしか物事を考えられないのだろう。しかし、プローテー・ウーシアの考え方を取り入れることで、人間と動物や植物が同じであることを感じやすくすることができる。この地球は我々人間だけでなく、生息するありとあらゆる生物と星を共有しているからこそ成り立っているため、プローテー・ウーシアを意識しながら、動物や植物に関心を持って生活することで、世界の発展をより高め、平和に繋がっていくのだろう。
錬金術への疑念がプローテー・ウーシアの存在を知ることで変わった。アリストテレスの形而上学が示すように、当時の価値観に寄り添えば理解が深まる。現代の知識に囚われず、全てを疑う姿勢が重要である。
人間は人間を特別な生き物だと思いがちだ。この時代に、人間が動物や鉱物と同じ4つの元素から出来ているという考えは、多くの人々が衝撃を受けたことだろう。こういったアリストテレスの先入観に囚われない考えは、とても興味深い。
プローテー・ウーシアの考え方で行くと死んでしまうことはただ形相が1つ失われたと捉えるのか、「存在」が消えたのかどちらなのだろう
存在していたという記録を残すために人間は名前を付ける。死後形がなくなり世界の変化の中で、忘れ去られるものに抗う行いが植物でも動物でもない人間らしい。
石を金に変えるために錬金術が生まれ化学が生まれた、みたいな話を聞いたことがあり、その根底にはプローテー・ウーシアの概念があったのだと知って驚くと共に納得した。
人間も動物も食べ物も、宝石も金も、元は全て同じ物質だというのなら尚更、それの形相を決めるのは他の存在との関係性にほかならない。鉱物を鉱物としているのは様々な元素の関係性によるものであり、それに値段などの価値がつくのは人間との関係性によるものである。
人間が世界の中心だと思いがちだが、動植物と同じように死すべきもので幻に過ぎないという考え方は現代の私達が心に留めておくべきものだと思った。
プローテ・ウーシアが元にあると考えると錬金術は世界のどこかで実際に起こっているのではないかと想像してしまう。
人間が一番賢い。と思いがちだが同じ動物で、人類がこのように成長し歴史を刻むのはプローテ・ウーシア の考えがあったからなのか。
プラトンの弟子だが、プラトンのコピーでは無いのだからプラトンと真逆の考えを展開するアリストテレスがいるのは当然だ。森羅万象のものは全て1から始まり、どんどん枝分かれしていくものであることを学んだ
人間中心ではなく自然界にある物質に目を向け、プローテウーシアを生み出したアリストテレスだが、その哲学を普及することはできたのだろうか
錬金術を空想の話と考える思考プロセスは、科学技術が発達した現代の我々ならではの考えだろう。しかしそれに固執していては、なぜ錬金術というものが存在し得たかということが、わからなくなってしまう。それは今後の発展の妨げにもなるだろう。将来を見据え常に未来から自分を見るという視野を持つことが大切だ。
存在は全てひとつからつまれすなわちそれはアルケーであり何かが加わることで何にでもなり得る可能性がある
プローテー・ウーシアが形相によって何にでもなりうるというのは人間を素材としても同じことが言える。またそんな人間は物質によって動かされているというのは無力さを感じた。
アリストテレスはプラトンのイデア論を否定し、地上に存在する全てがプローテ・ウーシアの変様であるとした。これは、錬金術や化学の根底に通ずる考え方だろう。
プローテ、ウーシアの考えはあまり理解ができなかった、流石に無機物と有機物の素が同じは無理があるのではないだろうか?人と、それに近い動物(猿など)がもとは同じと言うおkとは理解がすぐにできたが、逆にそれを理解した後のプロ-テ、ウーシアの解説は意味がわからなかった。
プローテー・ウーシアが世界の根本的な実体であり、他のすべての存在の基盤となるという哲学的概念を理解することができました。これにより、物事の本質や存在の根源について考える新たな視点が得られ、世界や自分自身をより深く理解するための洞察が得られました。
人間は人間が世界の中心に回っていると思い込みそれが当たり前のように感じているが、人間もまた植物や動物と同じく世界の一部であり世界の条件の元に動かされているということを忘れないでいたい
物質は歴史的に蓄積され、我々を条件付け動かすと言う動画終わりの言葉にすごく納得した。人はいつか死んで消えるが、物質は歴史に残ると分かっているからこそ、何かを成し遂げ完成させるべく生きているのかなとも感じた。
プラトンの弟子でありながら、プラトンとは真逆とも取れる物質的な考えを展開しているアリストテレスには驚いた。何でもない存在が形相を取り込んで何かになると言う構造は想像に易いし、人間は世界において何ら特別でないと言うのも納得できる。何でも無いからこそ、何かを取り込めば何にでもなれるというこの世界の構造に乗っ取って生きるのが自然で合理的だと思った。
人間だからこそ人間は人間を中心としてかんがえてしまうが、全ては平等に同じものでしかない。人間は世界の一部に過ぎない。
プロ―テ・ウーシアの、ただ一つのものからどんなものにでもなれるという理論は、人間やその他の多様な物質にも言えそうで興味深い。
人間も様々なことを学習し自分の中に取り込んでいき、練り直すことで自分が目指すイデアにだってなれるのではないかと感じた。諦めずにコツコツと小さなことからはじめていくべきだ。
地上のものが1つの究極体を目指して作られると唱えたプラトンに対し、アリストテレスは地上のあらゆるものを構成するものを遡ると1種類の物質に行き着くと唱えた。それぞれ何を目指して作られたかと何から作られたかで対になっている。
存在そのものがひとつの全体であり、世界として動くことをプローテ・ウーシアとよび、全てのものは一つから始まっているとされていることを理解した。
全ての元はプローテ・ウーシアであるというのと、現代物理の物質の元になるのは分子、さらに細かくみれば共通の素粒子から成るという事実が似通っており、紀元前から科学の基礎に近づいていたというのが面白い。また、人間自身もカテゴリアによってどうにでも変わって行けるということを教訓として覚えておきたい。
私たち人間は自分中心に考えてしまうが、周りのもののことも考える必要がある。
人間は自分たちの偉業ばかりを歴史だと思い込み、それ以外のものは全て死んでいると勘違いしている。しかし、自然こそが変わり続けて命を紡いでいっている歴史だと感じる。自然の階段に人間が溶け込めるように努力する必要があると思う。
全て1つから始まっているからどんな物にでもなれるというプローテウーシアの理論は生物にも適用されると思う。人間も何にでもなれる可能性を持っているだろう
世界が人間を動かしているならば、世界どう動いているかではなく、世界が動く目的について注目する必要がある。
まだ科学的な発想がない中で科学の元になるような発想が出てくるのは凄まじ想像力と知識量だと思った。
地上に存在する全てが、プローテ・ウーシアの変様で出来ていて、全てが1つから始まっているという科学の発想を既にしていたことを知りました。
人間とはなんら特別な存在という訳ではなく、植物や動物と同じ元素からできているという考えは、人間中心に回っている現代において大多数が本心から肯定するとは考えづらく思う。しかし、プローテ・ウーリアの考えを取り入れ新たな視点を持つことは確実に人類に進歩と幸福をもたらすだろう。
存在というものは全て一つのものから始まりさまざまなものを取り込んでいる、そしてそこからどのようなものにでもなる。
地上に存在するすべてがプローテー・ウーシアの変様で、すべてが一つから始まると考えると、確かに人間は特別でもないし他の動物や植物となんら変わらない位置付けにあるんだと実感した。
人間や動物、植物が環境の変化に合わせて生体変化・進化を遂げたのは、それらが元は何にでもなり得るプローテ・ウーシアを元に出来ているからなのだろうか。
張りつけるエイドスという外面によってどんな物にも成り得るプローテー•ウーシアを見れば、確かに全てが1つから始まっている考えられる。
地球上の全ての存在はプローテ・ウーシアからできている。一見複雑に見えることでも一つ一つの積み重ねが大事だ。
人間は人間が世界を動かす特別な存在であると思っていることが多いが、いずれ死ぬものであり、世界は人間をも動かし、自ら発展しているものである
プローテー・ウーシアでこの地は火、空気、水、泥の混合物でこの四物質はプローテー・ウーシアの変様にすぎないことから、元ある物事に多様な形相を重層的に取り込むことで新しくなると感じた。
当たり前のように人間がこの世界を動かす貴重な存在であると思っているが、実際には人間が人間の活動によってこの世界を成長させているのではなく、この世界の条件の元に動かされる側の多くの存在の中の一つにすぎないことを感じさせられた。
錬金術の考え方に対し、無理があるだろうと思い続けてきたが、プローテー・ウーシアという純粋存在体がある事を知ってからは見方が変わった。もしも本当にこの考え方が世界の真実であれば不可能では無い気がするし、当時の人達が信じるのも無理は無いだろう。現代の知識から見れば無理だと分かる事も、一度当人達の価値観に寄り添うと自然と考えの筋道が理解出来ることを自身の感覚をもって感じることがこの講義を学び始めてから増えた。自分が生きている現代だってやがては過去になるのだから、現代の知識に囚われず、全てを疑うことが大切だ。
人間という存在は残らないが、人間が生み出した存在は歴史として積み重ねられていくという表現が面白く、人間は決して歴史になることができない、だからこそ芸術家は自分の作品を残していたのだろうかと考えた。
プローテー・ウーシアという1の存在から、世界は変容し動き続けている。人間が世界を動かしているのではなく、世界が人間ごと動かし、変容して発展し続けているのである。この変容の性質があるからこそ、世界の環境の変化に伴ってあらゆる生命体も変化、進化し続けてくることが出来るのである。
アリストテレスが提唱したプローテ・ウーシアは、まだ何も形を成していないものを様々な要素を介して形作るものである。
そのため、なんにでもなり得ることからひとつの物事からの選択肢は大いにあると言えるだろう。
ひとつの物から始まった、だからこそ何にでもなることができる。きっと人間も同じで、最後は死んでしまうとしても努力を重ねればなりたいものに近付けるのだから、天界のイデアの模造物だからと諦めずに生きることが大切なのかもしれない。
ただ存在するものに形相をつけ変化させてもそれはもとと同じもの。固まらない粘土のようだ。同時気がつかないほどにカテゴリアを重要にしていることは利用できるかもしれない。
プローテ・ウーシアの理論では、すべてのものは1つから始まっているとされている。科学的な発想の元になる考えがあったと知った。
人間というのがただの形相で、いつかなくなってしまう幻のようなものだから、魂だけでも形が残ってこの世界に長く存在できるように、人は「魂を込めて」創作をすると言うのだと思う。
人間、動物、植物、鉱物などの地上の存在は、日、空気、水、泥の混合物であり、存在そのものが一つの全体としてあり、世界としてそれ自身を動かしているとアリストテレスは言った。
どんなに考えても動物や植物の考えを読み取ることができないため、人間は動物や植物のエイドスしか捉えられず、あくまで人間の世界でしか物事を考えられないのだろう。しかし、プローテー・ウーシアの考え方を取り入れることで、人間と動物や植物が同じであることを感じやすくすることができる。この地球は我々人間だけでなく、生息するありとあらゆる生物と星を共有しているからこそ成り立っているため、プローテー・ウーシアを意識しながら、動物や植物に関心を持って生活することで、世界の発展をより高め、平和に繋がっていくのだろう。
錬金術への疑念がプローテー・ウーシアの存在を知ることで変わった。アリストテレスの形而上学が示すように、当時の価値観に寄り添えば理解が深まる。現代の知識に囚われず、全てを疑う姿勢が重要である。
人間は人間を特別な生き物だと思いがちだ。この時代に、人間が動物や鉱物と同じ4つの元素から出来ているという考えは、多くの人々が衝撃を受けたことだろう。こういったアリストテレスの先入観に囚われない考えは、とても興味深い。
プローテー・ウーシアの考え方で行くと死んでしまうことはただ形相が1つ失われたと捉えるのか、「存在」が消えたのかどちらなのだろう
存在していたという記録を残すために人間は名前を付ける。死後形がなくなり世界の変化の中で、忘れ去られるものに抗う行いが植物でも動物でもない人間らしい。
石を金に変えるために錬金術が生まれ化学が生まれた、みたいな話を聞いたことがあり、その根底にはプローテー・ウーシアの概念があったのだと知って驚くと共に納得した。
人間も動物も食べ物も、宝石も金も、元は全て同じ物質だというのなら尚更、それの形相を決めるのは他の存在との関係性にほかならない。鉱物を鉱物としているのは様々な元素の関係性によるものであり、それに値段などの価値がつくのは人間との関係性によるものである。
人間が世界の中心だと思いがちだが、動植物と同じように死すべきもので幻に過ぎないという考え方は現代の私達が心に留めておくべきものだと思った。
プローテ・ウーシアが元にあると考えると錬金術は世界のどこかで実際に起こっているのではないかと想像してしまう。
人間が一番賢い。と思いがちだが同じ動物で、人類がこのように成長し歴史を刻むのはプローテ・ウーシア の考えがあったからなのか。
プラトンの弟子だが、プラトンのコピーでは無いのだからプラトンと真逆の考えを展開するアリストテレスがいるのは当然だ。
森羅万象のものは全て1から始まり、どんどん枝分かれしていくものであることを学んだ
人間中心ではなく自然界にある物質に目を向け、プローテウーシアを生み出したアリストテレスだが、その哲学を普及することはできたのだろうか
錬金術を空想の話と考える思考プロセスは、科学技術が発達した現代の我々ならではの考えだろう。しかしそれに固執していては、なぜ錬金術というものが存在し得たかということが、わからなくなってしまう。それは今後の発展の妨げにもなるだろう。将来を見据え常に未来から自分を見るという視野を持つことが大切だ。
存在は全てひとつからつまれすなわちそれはアルケーであり何かが加わることで
何にでもなり得る可能性がある
プローテー・ウーシアが形相によって何にでもなりうるというのは人間を素材としても同じことが言える。またそんな人間は物質によって動かされているというのは無力さを感じた。
アリストテレスはプラトンのイデア論を否定し、地上に存在する全てがプローテ・ウーシアの変様であるとした。これは、錬金術や化学の根底に通ずる考え方だろう。
プローテ、ウーシアの考えはあまり理解ができなかった、流石に無機物と有機物の素が同じは無理があるのではないだろうか?人と、それに近い動物(猿など)がもとは同じと言うおkとは理解がすぐにできたが、逆にそれを理解した後のプロ-テ、ウーシアの解説は意味がわからなかった。