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素晴らしい言語化、ありがとうございます。「すべての道は同じ場所に通ずる」まさにその通りですね。
たすかる
そういえば、ベルクソンの研究者の前田英樹さんが「剣の法」って本書いてたきがします。剣は身体論と深く結びついてるんですね。
よかったです〜
こんにちは。いつも楽しませてもらっています。画面の作成は何のソフトを使っているのでしょうか?
プレミアプロでなんとかやってます!
彼の時代背景が、戦国→江戸だったので、導入が剣に限ったのかもしれませんが、個人の自由、最小限の生への探求に近しい感じもします。そうすると、いろんな方々の顔ぶれが思い出されますねいつもありがとうございますまた、買っちゃいました
買って損はない!!
デュルケームの自殺論をお願いしたいです。哲学という学問ではないのですが教えていただけたら幸いです
強い相手と勝負しないのが、全戦全勝の秘訣と聞いたことがあります。葉隠的な武士道とは、一線を画すようです。
いや、葉隠でも犬死するなってかいてるわ。ちゃんと読め
もし、現代の我々が『五輪書』を読んでいる姿を宮本武蔵が見たなら、一体何を思うのか…😊
ビジネス書としても魅力的ですね
若き日の関ケ原、晩年の島原の乱のどちらでも武勲を立てられなかったという事実が宮本武蔵の実像を知る手掛かりの様な気がします。
『五輪書』というと坂口安吾の『堕落論』のイメージしかなかったので、かなり曲解していたかもしれません。今回、青空文庫で調べてみて、安吾の『五輪書』評はそれほどネガティブなものでないことに気づきました。(まず『堕落論』でなく『青春論』でしたし)むしろ、合理精神、実力主義、リアリズムには肯定的だが、晩年の道教の仙人のような、ある種の権威になってしまったところが気に入らなかっただけらしい。老人が青春を回顧するようなものだみたいな。たしかに終戦直後の状況から考えて、戦前戦中の権威主義を批判して、戦後的合理主義、実力主義を主張するスタンスからすれば当然ではありました。『五輪書』には儒教道徳のようなものは書かれていないのが、50年ほど後の『葉隠』と違うところかもしれません。まだ戦国の残り香があった江戸初期の時点では、荒くれ者にも居場所があったんでしょうが、しだいに儒教精神に重きをおく武士道に移り変わりつつあるなか、晩年の武蔵は肩身の狭い思いをしていたのかもしれませんね。日本の戦国時代は、西欧の近代と軌を一にする近代化の時代にも見えます。織田信長などはいかにも近代的人物というかんじですし。しかし、なぜか日本の江戸時代は近代化とは逆行して封建的な社会の道を歩んだ。逆行というより特殊な近代化かもしれませんが。それで、武蔵は不遇をかこつとまではいわずとも、かなり苦労することにはなったのでは。幕府が採用した朱子学などはかなり合理的な思想だったと思いますが、江戸が進むにつれて訓詁学など古き儒教に戻れみたいなことになっていったのもなにか関係があるのか。おそらく明治維新の後に宮本武蔵の株はかなり上がったんじゃないでしょうか。権威主義ではあっても実力主義の世の中にはなったでしょうから。昭和の戦後民主主義の高度成長期には、実力主義に合理主義も加わって、武蔵人気は続きますが、高度成長が終焉し成熟した社会になった平成ではその人気にも若干陰りがみえるかんじもありました。しかし、今は新自由主義の時代でもあり、新たなスタートアップが切望される時代でもあり、実際に漫画などでは依然として宮本武蔵が人気のようでもあり、『五輪書』が読まれるべき時代なのかもしれませんね。
真空無相 真空妙有
みんちのが読んでたやつか
素晴らしい言語化、ありがとうございます。「すべての道は同じ場所に通ずる」まさにその通りですね。
たすかる
そういえば、ベルクソンの研究者の前田英樹さんが「剣の法」って本書いてたきがします。剣は身体論と深く結びついてるんですね。
よかったです〜
こんにちは。
いつも楽しませてもらっています。
画面の作成は何のソフトを使っているのでしょうか?
プレミアプロでなんとかやってます!
彼の時代背景が、戦国→江戸だったので、導入が剣に限ったのかもしれませんが、
個人の自由、最小限の生への探求に近しい感じもします。
そうすると、いろんな方々の顔ぶれが思い出されますね
いつもありがとうございます
また、買っちゃいました
買って損はない!!
デュルケームの自殺論をお願いしたいです。哲学という学問ではないのですが教えていただけたら幸いです
強い相手と勝負しないのが、全戦全勝の秘訣と聞いたことがあります。葉隠的な武士道とは、一線を画すようです。
いや、葉隠でも犬死するなってかいてるわ。ちゃんと読め
もし、現代の我々が『五輪書』を読んでいる姿を宮本武蔵が見たなら、一体何を思うのか…😊
ビジネス書としても魅力的ですね
若き日の関ケ原、晩年の島原の乱のどちらでも武勲を立てられなかったという事実が宮本武蔵の実像を知る手掛かりの様な気がします。
『五輪書』というと坂口安吾の『堕落論』のイメージしかなかったので、かなり曲解していたかもしれません。今回、青空文庫で調べてみて、安吾の『五輪書』評はそれほどネガティブなものでないことに気づきました。(まず『堕落論』でなく『青春論』でしたし)
むしろ、合理精神、実力主義、リアリズムには肯定的だが、晩年の道教の仙人のような、ある種の権威になってしまったところが気に入らなかっただけらしい。老人が青春を回顧するようなものだみたいな。たしかに終戦直後の状況から考えて、戦前戦中の権威主義を批判して、戦後的合理主義、実力主義を主張するスタンスからすれば当然ではありました。
『五輪書』には儒教道徳のようなものは書かれていないのが、50年ほど後の『葉隠』と違うところかもしれません。まだ戦国の残り香があった江戸初期の時点では、荒くれ者にも居場所があったんでしょうが、しだいに儒教精神に重きをおく武士道に移り変わりつつあるなか、晩年の武蔵は肩身の狭い思いをしていたのかもしれませんね。
日本の戦国時代は、西欧の近代と軌を一にする近代化の時代にも見えます。織田信長などはいかにも近代的人物というかんじですし。しかし、なぜか日本の江戸時代は近代化とは逆行して封建的な社会の道を歩んだ。逆行というより特殊な近代化かもしれませんが。それで、武蔵は不遇をかこつとまではいわずとも、かなり苦労することにはなったのでは。
幕府が採用した朱子学などはかなり合理的な思想だったと思いますが、江戸が進むにつれて訓詁学など古き儒教に戻れみたいなことになっていったのもなにか関係があるのか。
おそらく明治維新の後に宮本武蔵の株はかなり上がったんじゃないでしょうか。権威主義ではあっても実力主義の世の中にはなったでしょうから。
昭和の戦後民主主義の高度成長期には、実力主義に合理主義も加わって、武蔵人気は続きますが、高度成長が終焉し成熟した社会になった平成ではその人気にも若干陰りがみえるかんじもありました。
しかし、今は新自由主義の時代でもあり、新たなスタートアップが切望される時代でもあり、実際に漫画などでは依然として宮本武蔵が人気のようでもあり、『五輪書』が読まれるべき時代なのかもしれませんね。
真空無相 真空妙有
みんちのが読んでたやつか