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なかなか面白い物語が詰まっており、実に興味深い。
物凄く有能方ですよね!
小早川秀包の子孫は長州藩主毛利家の一門、吉敷毛利家の当主となります。
秀秋・広家「やばかったぁ💦秀包殿が生きてたら多分ぶっ殺されてた・・・((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル」
小早川隆景が「兄、元春を超える軍将」と評価した秀包、毛利秀元の立場だったら歴史は変わってたな。
関ヶ原合戦で南宮山の先鋒に毛利秀包、立花宗茂を配置すれば面白い戦いが出来たと思います
ああ、カワカゼの話かな?
毛利氏は、秀吉が小早川に秀秋を押し付けられた時苦渋の選択だったらしい。毛利氏の運命が、こんなにも変わるなんて!
正妻一筋、景様(隆景)も別も付け加えて下さい。衆道好きだし
輝元が…とは言わないで下さいねww😂😂😂吹いたww🤣🤣🤣しかも輝元は別ですww🤣🤣🤣
秀吉の業が、秀頼の運命を決めたんだな。
因果は廻る糸車と言った所でしょうか………
輝元は別(チーン)ってwww笑えるけど、毛利家が現世紀でも存続しているのはこの人のお陰なんですよねぇ。
輝元は関ヶ原の敗戦で覚醒したイメージ
防長2カ国に押し止められてからは間違いなく覚醒していますよね。実高29万石からスタートして亡くなる時には65万石まで伸張させています。勿論、吉川広家や福原広俊等の執政の活躍が大きいですが冒険主義の毛利秀元を藩政から追放するなど長州藩の方向性は過たずに居ました最初から50万石前後の領主なら変な野望を持たず名君として生涯を終えたかもしれませんね
@@toshis3972 民政家としては有能でしょうね。関ヶ原の際も火事場泥棒的に四国や九州に出兵したりと人一倍欲はあるんですけど、家康にびびって直接対峙することを避けたあたりはお坊ちゃんです。
こういう動画を観ると信長の野望がやりたくなる
(吉川)広家が僅か1年程で秀吉の元から追い返されたのは、父親である元春が鳥取城合戦(一族の経家が城兵を助ける為に切腹した)の件や備中高松城合戦の件で秀吉を余り快く思っていなかったからです。とはいえ相手は天下人なので弟である(小早川)隆景が間に入りとりなしていたので一糸触発の事態はならなかったものの、亡くなるまで秀吉とは一線を画していました。結果その後跡を継いだ広家が、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の合戦で(間接的に)勝敗を左右するキーマンとなりました。
備中高松で秀吉を追っかけなかったのは隆景が京から連れてきた軍師に、秀吉には歯向かわない方がいいと事前に情報を得ていたからと言われています。正解だったと言えます。ですが、関ヶ原で輝元が総大将になってしまったのが運の尽きだったのでしょうかね。毛利が改易されなかっただけでも儲けものなのかもしれません。
松永久秀「あれ?東大寺燃えてね?あれ?何故か俺が燃やしたみたいになってるんだけど…」
秀頼が生まれたから、秀秋を毛利宗家に養子に出されそうだったのを、隆景が後継ぎいたのにわざわざ引き受けたんだよな だから秀包は小早川を継げなかった
名将だという意見には同意だけど、筑前移封はなかっただろうし宗茂と義兄弟になる逸話も当然ないだろうからなぁ毛利が大名自身がトップに立つ近世大名になったのは関ヶ原で負けたからだろうし、歴史は難しいですね。
隆元・元清▶かなり有能元春・隆景▶超超有能秀包▶有能ってかんじかな?
毛利元就の息子といえば隆元、元春、隆景の3人が有名で側室の子の4男以下はあまり知られてあませんが、秀包は隆景が養子にしていたくらいだからなかなか優秀だったようです後に秀秋が隆景の養子になっても秀包には別の所領が与えられるなど秀吉からも優遇されている関ヶ原で西軍について改易されたとはいえ長生きしていたら、秀秋が早死にしてしまった後の小早川家を継げるチャンスがあったかもしれない
あの歌手🎤の吉川晃司さんも毛利家の血を引く人みたいですね、だとしたら毛利元就もイケメンだったかもしれませんね🎵
早瀬義一 吉川家には戦国よりの遺訓として「男は親が死んでも人前で泣くな」が有り、吉川晃司氏が当時「不謹慎だ」と猛バッシングを受けましたが岡田有希子さんの葬儀にサングラス姿で現れた時も「批判は俺が甘んじて受けるからユッコや峰岸徹さんらを叩くのは止めろ!」とコメントし、後年「あの時は一生分泣いた後で目が腫れ、更に葬儀直前も涙が止まらなかったからそれを隠す為批判覚悟でサングラス付けた。あの時は本当の事が言えず辛かった」と後年語ってます。
@@古家武史-f5d そうだったんですね…その辺の事情を知りたかったので嬉しいです。泣かせる話であり吉川晃司らしい筋の通し方……流石は鬼吉川の末裔ですね。
秀包とゆう名前いいな❕秀れるを包むと書く❕正に文字通りの人だったんでしょうね。
先に「秀包」が小早川を次いでいたら、毛利本家に「英俊」が養子入っていたのでは、…
毛利本家に後継者がいないなら輝元に側室はやむなし、小早川家で秀秋を受け取り毛利本家には元就四男の穂井田元清の子秀元を養子に迎え実子秀就の誕生までの繋ぎとし後に別家とした、秀包も小早川別家になったが関ケ原で改易後毛利本家に戻り姓も毛利姓に万石以下だが子孫も続いた
小早川隆景は夫人が小早川出身で実質婿養子で夫婦仲も良く子ができなくて覚悟の上側室を置かなかったのかも沼田と竹原に分かれていた両小早川を統一
毛利勝永が養子になったifと秀包の後継者ifめっちゃわくわくする
吉川広家は3男
初めて聞いた話しでした。ありがとうございます。
毛利本家は確実になくなってた
毛利本家を秀秋がついでたのでは?
もはや、ネタになってしまってる輝元さん……
魂魄妖夢 誰も知らない西軍の総大将
(´・ω・`)そんな流れだったのね。裏切りは最初から腹の中では決めてたのかも?映画「戦国自衛隊」のワンシーンで反町隆史が激オコで「おんのれ~、小早川!」を思い出した。山口市出身だから毛利さんのお話し好きです。
ほんと、エテ公は負の遺産ばっか残しやがったな
毎回思うがナレーションが俊逸で話の流れも上手い。
吉川広家は地元のお城の築城者だし。子供のころに錦帯橋の写真がテレビのあたりにあったし、何となく毛利って近しいね。
マイナーなうちのご祖先を紹介くださりありがとうございます。久留米城跡地に秀包公の小さな社が有り、そこにはキリスト教の十字架が刻まれていました。久留米に残った内のご祖先はその後小早川隆景公と親睦厚かった黒田家にお世話になり現在も私たちが生かされています。秀包公は現在の山口県に戻って亡くなったそうです。内のご祖先がクリスチャンとは、、初めて知った時驚きました。現在は臨済宗(禅宗)です。
これのどこがifなんですか?ただ秀包の生涯を語ってるだけじゃん
大した経歴なのにこの人、全然知らなかった。廃嫡は隆景の珍しい失着でしょう。随所に入る輝元ディスが気になるw
まあ秀秋を小早川家に入れなきゃ主家に入ってしまうので…兄元治も隆景自身もその方法で家乗っ取りをしてるだけにその恐ろしさはわかってたんでしょう秀包を始祖とする吉敷毛利家が残っただけでも儲けもんではある
碧蹄館の戦いで、小早川隆景の指揮下で秀包と立花宗茂の義兄弟が轡を並べて戦ったのでしょうね。父が元就、養父が隆景、かたや父が高橋紹運、義(養)父が立花道雪とか…比類無きサラブレッド感です(*´ω`*)
父 元就は隆元と小早川隆景 吉川元春 以外の子供達を 虫けらと 手紙に書いてあるんですわ……なので毛利秀包も虫けら扱いでした
元就にとってその3人は正室の子で別格ですから・・・能力以前の問題ですね。そもそも秀包がまだ幼年のうちに元就は死去しておりますし。
側室持たない=女性に優しいっておかしくない?当時の大名は家を守る、人材を確保する、という側面で側室を持ってたので、今の感覚で浮気男のような言い方するのは誤りその点では輝元が当時で「常識」、他の方が「特異」歴史を専門に扱うチャンネルなのだから、側室もったから輝元がダメ男のようなレッテル張りは辞めるべき
暇神ひまじん まぁでも実際、明智光秀・直江兼続等は正室の事を大切にし、仲も良く、側室を持たなかったと伝わりますしねぇ〜。(諸説あり)
@@lx1125 様いやそれは良いんですよ。もちろんそう言う武将も居ました。私が言いたいのは「側室居たから正室を蔑ろにしたひどい男」「優しいから正室のみ、冷たいから側室持ってた」みたいな、印象を与えるような演出はおかしくないですか?と言うことです
暇神ひまじん 確かにそうですね!!輝元さんも普通の立派な三世武将ですしね!
@@lx1125 様他の戦や政治でヤラカシエピソードで「チーン」ならまだ良いんですよ。当時で当たり前のことしてあんな演出はさすがに気の毒です
あなたの言う通り側室持たない=女子ポイント高いは今の価値観であって、戦国時代では正直、異常だと思えるまして輝元を下げる演出はダメでしょう。西軍総大将ぇ日本の夜明けの中心となった長州藩の藩祖だぞ不快
いやいや・・・・・そもそも秀秋は毛利家の養子として送り込まれた人だから、隆景の策略によって秀秋は隆景の養子にして毛利本家には秀元をあてがったわけだから。
人を容姿で評価するのは寧ろ、北政所の方ですね。中身や能力で評価するのが秀吉公ですが、彼は北政所が気に入った人を受け入れるようにはしている傾向がある印象。
今回、結構面白かったです!
現代と全く同じか⁉️ 大企業、政府、国民、同じ事が繰り返し起こる様になっているのでしょうね⁉️悲しい💔ことです。
秀包の肖像画 あったんですね😮
豊臣家の滅亡は秀吉の自業自得と、今更ながらに思います。
安斎徹 まあ、徳川幕府が良かったら結果オーライだろう。
ですね。自分の親類を全く大事にしない割には家康を優遇しすぎるし(笑)尤も徳川家も親類間の揉め事だらけでしたが。
秀次も秀秋も秀吉のボケに付き合わされただけなんだなー……秀秋も精神の不安定はこの秀吉の冷遇で患わったらしいし。
Präsident 0917 子供時代の厚遇接待がきっかけでアル中になったんじゃないの
蜂須賀正成 いや、領地奪われて厚遇とか草。アル中になったのら殺されるという不安からな。東軍に属したのも家康の仲介で。
小早川秀秋のせいで小早川家が滅び、秀包が当主であれば生き残ったのではないかという推測は大きな誤りだと思う。彼の初陣である朝鮮出兵での差配は評価されており、加藤清正をも唸らせたという。また、関ヶ原の戦いを天下分け目の戦いと早期に見定め、筑前一国から単身で1万5000という大軍を用意。また、伏見城攻めの後、石田三成らが早々に美濃に向かう中、戦線を離脱して近江に留まり西軍の進軍を牽制していた。結果として三成らの作戦は狂い、畿内に散った各軍の集結を待たずして関ヶ原に布陣することとなった。秀秋の行動に注視すると、裏切り者の暗君ではなく、元より東軍に味方するつもりで計算づくで行動していた知的な「秀秋」の姿が見えてくるように思う。まあアル中で亡くなって取り潰しになったのは擁護のしょうがないけど…
輝元、、結構悲劇のヒーローで好きなんですけど、、、、
秀包に元清が長命していたなら、その後の毛利家も違った道を歩んだかもしれませんね。毛利なら清水宗治や吉川経家が見たいですね。両人共、例の籠城で知名度で知名度高いですが出自はほとんど知られてませんからね。
いつもと声が違う・・・(T_T)/~~~
そもそも、立花宗茂を西軍に引き入れたのは小早川秀包である立花宗茂は本来なら東軍に付く予定だったのに秀包と同盟を結んだため西軍に付く羽目になった。
豊臣秀頼はいろんな人の人生を不幸にしてしまいました。
養嫡男:秀次は自暴自棄になり自害。養次男:秀康は結城氏に婿がされ、結城秀朝に。養三男:秀俊は小早川氏に嫁がされ、小早川秀俊に。大変ね
なんと言っても酷いのは秀次の側室達の処刑でしょうか❕秀次の首級を前にして次々に処刑して行く……まだ秀次の手がついてない幼い娘まで…日本史上これ程までに残酷な処罰はあっただろうか?いにしえでは藤原経清のノコギリ挽き、安倍貞任・藤原泰衡の斬首後の柱に五寸釘での打ち付け等ありましたが、いみじくも甥である秀次に対してのこの仕置き!これ程までに残虐な盟主は存在しないでしょう。秀吉渡来人説も頷ける展開ですね…
女に優しい!?私情を挟むと歴史が歪む!
シマオはsimaoこれはポルトガル語だとシモン。
この場合吉川家に押し付けるか、秀秋を分家に入れて秀包に本家を継がせていれば勝てましたね。いくら秀秋でも立花宗茂には逆らえませんからね。
やっぱ輝元はイマイチだわw
秀吉は才気溢れる若者が大好きなので余程、優秀な若者だったのでしょう!
せっかく秀包を取り上げるなら、ゆかりの地の動画を入れて解説して欲しい。動画というよりパワポに解説入れてるだけ
でも個人的には小早川秀秋の判断は、良かったと思うよ。豊臣政権が続いていても長続きしなかったから江戸幕府に政権交代していたら平和な260年間を遅れたんだから。
池の恋と沼の恋の違いを述べよ ごめん間違えた。遅れたじゃなくて送れたの間違いだった。
小早川秀包はもったいないね。ホントに輝元は・・・・関ヶ原前後から大坂の陣までの間に、何人か若死にの元就の子供たちがいるはず。元康なんてのもいる。一番逝けばいい奴が逝かない。。。
元康は朝鮮の役でも輝元が病で指揮が出来ず代わって 毛利の大軍を見事に指揮したからね (  ̄ー ̄)ノ
秀吉の元にいったゆうしだった結城秀康を取り上げろよ!
岡秀夫 ゆうし、て何?
@@jefkeaton 「猶子(なお この ごとし)」のことでは?
もう結城秀康の動画あるよ
Malte阿企羅 その字で調べて意味も理解しました、ありがとうございます😊
なかなか面白い物語が詰まっており、実に興味深い。
物凄く有能方ですよね!
小早川秀包の子孫は長州藩主毛利家の一門、吉敷毛利家の当主となります。
秀秋・広家「やばかったぁ💦
秀包殿が生きてたら多分ぶっ殺されてた・・・((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル」
小早川隆景が「兄、元春を超える軍将」と評価した秀包、毛利秀元の立場だったら歴史は変わってたな。
関ヶ原合戦で南宮山の先鋒に毛利秀包、立花宗茂を配置すれば面白い戦いが出来たと思います
ああ、カワカゼの話かな?
毛利氏は、秀吉が小早川に秀秋を押し付けられた時苦渋の選択だったらしい。
毛利氏の運命が、こんなにも変わるなんて!
正妻一筋、景様(隆景)も別も付け加えて下さい。
衆道好きだし
輝元が…とは言わないで下さいねww😂😂😂
吹いたww🤣🤣🤣
しかも輝元は別ですww🤣🤣🤣
秀吉の業が、秀頼の運命を決めたんだな。
因果は廻る糸車と言った所でしょうか………
輝元は別(チーン)ってwww
笑えるけど、毛利家が現世紀でも存続しているのはこの人のお陰なんですよねぇ。
輝元は関ヶ原の敗戦で
覚醒したイメージ
防長2カ国に押し止められてからは間違いなく覚醒していますよね。実高29万石からスタートして亡くなる時には65万石まで伸張させています。勿論、吉川広家や福原広俊等の執政の活躍が大きいですが冒険主義の毛利秀元を藩政から追放するなど長州藩の方向性は過たずに居ました
最初から50万石前後の領主なら変な野望を持たず名君として生涯を終えたかもしれませんね
@@toshis3972 民政家としては有能でしょうね。関ヶ原の際も火事場泥棒的に四国や九州に出兵したりと人一倍欲はあるんですけど、家康にびびって直接対峙することを避けたあたりはお坊ちゃんです。
こういう動画を観ると信長の野望がやりたくなる
(吉川)広家が僅か1年程で秀吉の元から追い返されたのは、父親である元春が鳥取城合戦(一族の経家が城兵を助ける為に切腹した)の件や備中高松城合戦の件で秀吉を余り快く思っていなかったからです。とはいえ相手は天下人なので弟である(小早川)隆景が間に入りとりなしていたので一糸触発の事態はならなかったものの、亡くなるまで秀吉とは一線を画していました。結果その後跡を継いだ広家が、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の合戦で(間接的に)勝敗を左右するキーマンとなりました。
備中高松で秀吉を追っかけなかったのは隆景が京から連れてきた軍師に、秀吉には歯向かわない方がいいと事前に情報を得ていたからと言われています。正解だったと言えます。ですが、関ヶ原で輝元が総大将になってしまったのが運の尽きだったのでしょうかね。毛利が改易されなかっただけでも儲けものなのかもしれません。
松永久秀「あれ?東大寺燃えてね?あれ?何故か俺が燃やしたみたいになってるんだけど…」
秀頼が生まれたから、秀秋を毛利宗家に養子に出されそうだったのを、隆景が後継ぎいたのにわざわざ引き受けたんだよな だから秀包は小早川を継げなかった
名将だという意見には同意だけど、筑前移封はなかっただろうし宗茂と義兄弟になる逸話も当然ないだろうからなぁ
毛利が大名自身がトップに立つ近世大名になったのは関ヶ原で負けたからだろうし、歴史は難しいですね。
隆元・元清▶かなり有能
元春・隆景▶超超有能
秀包▶有能
ってかんじかな?
毛利元就の息子といえば隆元、元春、隆景の3人が有名で側室の子の4男以下はあまり知られてあませんが、秀包は隆景が養子にしていたくらいだからなかなか優秀だったようです
後に秀秋が隆景の養子になっても秀包には別の所領が与えられるなど秀吉からも優遇されている
関ヶ原で西軍について改易されたとはいえ長生きしていたら、秀秋が早死にしてしまった後の小早川家を継げるチャンスがあったかもしれない
あの歌手🎤の吉川晃司さんも毛利家の血を引く人みたいですね、だとしたら毛利元就もイケメンだったかもしれませんね🎵
早瀬義一 吉川家には戦国よりの遺訓として「男は親が死んでも人前で泣くな」が有り、
吉川晃司氏が当時「不謹慎だ」と猛バッシングを受けましたが
岡田有希子さんの葬儀にサングラス姿で現れた時も「批判は俺が甘んじて受けるからユッコや峰岸徹さんらを叩くのは止めろ!」とコメントし、後年「あの時は一生分泣いた後で目が腫れ、更に葬儀直前も涙が止まらなかったからそれを隠す為批判覚悟でサングラス付けた。あの時は本当の事が言えず辛かった」と後年語ってます。
@@古家武史-f5d そうだったんですね…その辺の事情を知りたかったので嬉しいです。泣かせる話であり吉川晃司らしい筋の通し方……流石は鬼吉川の末裔ですね。
秀包とゆう名前いいな❕秀れるを包むと書く❕正に文字通りの人だったんでしょうね。
先に「秀包」が小早川を次いでいたら、毛利本家に「英俊」が養子入っていたのでは、…
毛利本家に後継者がいないなら輝元に側室はやむなし、小早川家で秀秋を受け取り毛利本家には元就四男の穂井田元清の子秀元を養子に迎え実子秀就の誕生までの繋ぎとし後に別家とした、秀包も小早川別家になったが関ケ原で改易後毛利本家に戻り姓も毛利姓に万石以下だが子孫も続いた
小早川隆景は夫人が小早川出身で実質婿養子で夫婦仲も良く子ができなくて覚悟の上側室を置かなかったのかも沼田と竹原に分かれていた両小早川を統一
毛利勝永が養子になったifと秀包の後継者ifめっちゃわくわくする
吉川広家は3男
初めて聞いた話しでした。
ありがとうございます。
毛利本家は確実になくなってた
毛利本家を秀秋がついでたのでは?
もはや、ネタになってしまってる輝元さん……
魂魄妖夢 誰も知らない西軍の総大将
(´・ω・`)そんな流れだったのね。
裏切りは最初から腹の中では決めてたのかも?
映画「戦国自衛隊」のワンシーンで反町隆史が激オコで「おんのれ~、小早川!」を思い出した。山口市出身だから毛利さんのお話し好きです。
ほんと、エテ公は負の遺産ばっか残しやがったな
毎回思うがナレーションが俊逸で話の流れも上手い。
吉川広家は地元のお城の築城者だし。子供のころに錦帯橋の写真がテレビのあたりにあったし、何となく毛利って近しいね。
マイナーなうちのご祖先を紹介くださりありがとうございます。
久留米城跡地に秀包公の小さな社が有り、そこにはキリスト教の十字架が刻まれていました。
久留米に残った内のご祖先はその後小早川隆景公と親睦厚かった黒田家にお世話になり現在も私たちが生かされています。
秀包公は現在の山口県に戻って亡くなったそうです。
内のご祖先がクリスチャンとは、、初めて知った時驚きました。
現在は臨済宗(禅宗)です。
これのどこがifなんですか?
ただ秀包の生涯を語ってるだけじゃん
大した経歴なのにこの人、全然知らなかった。廃嫡は隆景の珍しい失着でしょう。随所に入る輝元ディスが気になるw
まあ秀秋を小早川家に入れなきゃ主家に入ってしまうので…
兄元治も隆景自身もその方法で家乗っ取りをしてるだけにその恐ろしさはわかってたんでしょう
秀包を始祖とする吉敷毛利家が残っただけでも儲けもんではある
碧蹄館の戦いで、小早川隆景の指揮下で秀包と立花宗茂の義兄弟が轡を並べて戦ったのでしょうね。
父が元就、養父が隆景、かたや父が高橋紹運、義(養)父が立花道雪とか…
比類無きサラブレッド感です(*´ω`*)
父 元就は隆元と小早川隆景 吉川元春 以外の子供達を 虫けらと 手紙に書いてあるんですわ……
なので毛利秀包も虫けら扱いでした
元就にとってその3人は正室の子で別格ですから・・・能力以前の問題ですね。
そもそも秀包がまだ幼年のうちに元就は死去しておりますし。
側室持たない=女性に優しい
っておかしくない?
当時の大名は家を守る、人材を確保する、という側面で側室を持ってたので、今の感覚で浮気男のような言い方するのは誤り
その点では輝元が当時で「常識」、他の方が「特異」
歴史を専門に扱うチャンネルなのだから、側室もったから輝元がダメ男のようなレッテル張りは辞めるべき
暇神ひまじん まぁでも実際、明智光秀・直江兼続等は正室の事を大切にし、仲も良く、側室を持たなかったと伝わりますしねぇ〜。(諸説あり)
@@lx1125 様
いやそれは良いんですよ。
もちろんそう言う武将も居ました。
私が言いたいのは「側室居たから正室を蔑ろにしたひどい男」「優しいから正室のみ、冷たいから側室持ってた」みたいな、印象を与えるような演出はおかしくないですか?と言うことです
暇神ひまじん 確かにそうですね!!
輝元さんも普通の立派な三世武将ですしね!
@@lx1125 様
他の戦や政治でヤラカシエピソードで「チーン」ならまだ良いんですよ。
当時で当たり前のことしてあんな演出はさすがに気の毒です
あなたの言う通り
側室持たない=女子ポイント高い
は今の価値観であって、戦国時代では正直、異常だと思える
まして輝元を下げる演出はダメでしょう。
西軍総大将ぇ日本の夜明けの中心となった長州藩の藩祖だぞ
不快
いやいや・・・・・そもそも秀秋は毛利家の養子として送り込まれた人だから、隆景の策略によって秀秋は隆景の養子にして毛利本家には秀元をあてがったわけだから。
人を容姿で評価するのは寧ろ、北政所の方ですね。
中身や能力で評価するのが秀吉公ですが、彼は北政所が気に入った人を受け入れるようにはしている傾向がある印象。
今回、結構面白かったです!
現代と全く同じか⁉️ 大企業、政府、国民、同じ事が繰り返し起こる様になっているのでしょうね⁉️悲しい💔ことです。
秀包の肖像画 あったんですね😮
豊臣家の滅亡は秀吉の自業自得と、今更ながらに思います。
安斎徹 まあ、徳川幕府が良かったら結果オーライだろう。
ですね。自分の親類を全く大事にしない割には家康を優遇しすぎるし(笑)尤も徳川家も親類間の揉め事だらけでしたが。
秀次も秀秋も秀吉のボケに付き合わされただけなんだなー……
秀秋も精神の不安定はこの秀吉の冷遇で患わったらしいし。
Präsident 0917
子供時代の厚遇接待がきっかけでアル中になったんじゃないの
蜂須賀正成 いや、領地奪われて厚遇とか草。
アル中になったのら殺されるという不安からな。東軍に属したのも家康の仲介で。
小早川秀秋のせいで小早川家が滅び、秀包が当主であれば生き残ったのではないかという推測は大きな誤りだと思う。彼の初陣である朝鮮出兵での差配は評価されており、加藤清正をも唸らせたという。また、関ヶ原の戦いを天下分け目の戦いと早期に見定め、筑前一国から単身で1万5000という大軍を用意。また、伏見城攻めの後、石田三成らが早々に美濃に向かう中、戦線を離脱して近江に留まり西軍の進軍を牽制していた。結果として三成らの作戦は狂い、畿内に散った各軍の集結を待たずして関ヶ原に布陣することとなった。
秀秋の行動に注視すると、裏切り者の暗君ではなく、元より東軍に味方するつもりで計算づくで行動していた知的な「秀秋」の姿が見えてくるように思う。
まあアル中で亡くなって取り潰しになったのは擁護のしょうがないけど…
輝元、、結構悲劇のヒーローで好きなんですけど、、、、
秀包に元清が長命していたなら、その後の毛利家も違った道を歩んだかもしれませんね。
毛利なら清水宗治や吉川経家が見たいですね。両人共、例の籠城で知名度で知名度高いですが出自はほとんど知られてませんからね。
いつもと声が違う・・・(T_T)/~~~
そもそも、立花宗茂を西軍に引き入れたのは小早川秀包である
立花宗茂は本来なら東軍に付く予定だったのに秀包と同盟を結んだため
西軍に付く羽目になった。
豊臣秀頼はいろんな人の人生を不幸にしてしまいました。
養嫡男:秀次は自暴自棄になり自害。
養次男:秀康は結城氏に婿がされ、結城秀朝に。
養三男:秀俊は小早川氏に嫁がされ、小早川秀俊に。
大変ね
なんと言っても酷いのは秀次の側室達の処刑でしょうか❕秀次の首級を前にして次々に処刑して行く……まだ秀次の手がついてない幼い娘まで…日本史上これ程までに残酷な処罰はあっただろうか?いにしえでは藤原経清のノコギリ挽き、安倍貞任・藤原泰衡の斬首後の柱に五寸釘での打ち付け等ありましたが、いみじくも甥である秀次に対してのこの仕置き!これ程までに残虐な盟主は存在しないでしょう。秀吉渡来人説も頷ける展開ですね…
女に優しい!?
私情を挟むと歴史が歪む!
シマオはsimaoこれはポルトガル語だとシモン。
この場合吉川家に押し付けるか、秀秋を分家に入れて秀包に本家を継がせていれば勝てましたね。
いくら秀秋でも立花宗茂には逆らえませんからね。
やっぱ輝元はイマイチだわw
秀吉は才気溢れる若者が大好きなので余程、優秀な若者だったのでしょう!
せっかく秀包を取り上げるなら、ゆかりの地の動画を入れて解説して欲しい。動画というよりパワポに解説入れてるだけ
でも個人的には小早川秀秋の判断は、良かったと思うよ。
豊臣政権が続いていても長続きしなかったから江戸幕府に政権交代していたら平和な260年間を遅れたんだから。
池の恋と沼の恋の違いを述べよ
ごめん間違えた。
遅れたじゃなくて送れたの間違いだった。
小早川秀包はもったいないね。
ホントに輝元は・・・・
関ヶ原前後から大坂の陣までの間に、何人か若死にの元就の子供たちがいるはず。
元康なんてのもいる。一番逝けばいい奴が逝かない。。。
元康は朝鮮の役でも輝元が病で指揮が出来ず
代わって 毛利の大軍を見事に指揮したからね (  ̄ー ̄)ノ
秀吉の元にいったゆうしだった結城秀康を取り上げろよ!
岡秀夫 ゆうし、て何?
@@jefkeaton
「猶子(なお この ごとし)」のことでは?
もう結城秀康の動画あるよ
Malte阿企羅 その字で調べて意味も理解しました、ありがとうございます😊