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無骨なタイプが多い三河出身の武将にしては珍しく柔軟な対応ができる人です出奔したのも周囲の家臣とそりが会わなかったのでしょう同じく三河人の中では異質な存在だった本多正信も家臣の中では浮いた存在でしたからね
大河ドラマ「どうする家康」の松重豊さん演じる石川数正が楽しみ初期の苦労を家康と共に生き抜いて来たんですね「どうする数正」風に観ていきたいです
いつもありがとうございます。毎回楽しみに閲覧させていただいています。「覇王の家」では、武働きのみが至高という、脳筋な三河武士の中で、唯一智働きのできた石川数正は、かなり浮いた存在だったとなっていましたね。個人的には、以前聞いた、本多正信に仕事を奪われて、家中で窓際状態だったという説が面白いなと思いました。
三河衆は素朴で真面目、勇気もあったけど非常に頑固かつ閉鎖的。どれだけ忠勤に励んで実績を残しても、集団から外れると疎外されて居たたまれなくなり出奔したんじゃないかな。
石川数正が好きです。🎵いい武将です。🎵
もう徳川が秀吉には絶対に勝てないということを三河武士で唯一冷静に理解して行動した人物。ガチで秀吉と戦って5分の勝ち目があれば、そこの大将が出奔するわけないじゃないですか。秀吉と家康の器の違いもよく理解していたはずです。おそらく、徳川と戦えば勝てるものの大きな痛手を被ることがわかっていて戦いたくなかった秀吉が、数正と謀って、数正が出奔すれば徳川は戦どころではなくなり、天下分け目のおおいくさを回避することで、西日本を速やかに平定し、それによって日本が早く、丸く収まるよう画策したのでしょう。当時、日本はスペイン・ポルトガルによる世界支配の計画に含まれており、秀吉は一刻も早く国内をまとめ上げる必要があることをわかっていたでしょう。この時代に同じ視野でものを考えることができ、国内の天下分け目のおおいくさを回避するための行動が取れる人物は、石川数正以外には誰もいませんでした。数正は当時の名だたる戦国大名や織田の重臣たちなどあらゆる武将を個人的に観察する機会に恵まれ、目が肥え、国の行く末がよく見えていた視野の大きい人であったと思います。
後の片桐且元と重なる物がある小牧長久手で引き分けたとは言え圧倒的な秀吉と上洛養成に応じない家康との板挟みに苦しんだ末の出奔だったと思う
外交をやるとどうしても組織で孤立する 正論言うだけでは外交交渉できないからね。
今日から始まった大河でも、初回から活躍してましたね。どんな風にして家康のもとを離れるのか楽しみです。
松本城は城主がコロコロ代わるので、ジモッティでも、石川数正との関係をほとんど知らない罠。ご子孫が今でも市内でご活躍だなんて、初耳でした。
音伎 石川数正に子孫がいたことが驚き
あちちあちち 嫡男の康長くんは大久保長安事件で粛清されたことが有名ですね。ちなみにこの人、東軍に与して所領は安堵するのですが、真田昌幸に大敗北。悲しい人ですね。ちなみに前述した長安事件で弟(2人)も改易していたはずですが、この後はどうなったんでしょうかね
石川数正の家系は、徳川政権では、外様大名の扱い。松本の地を与えたのは豊臣秀吉だからね。
石川数正が家康公の命令で敢えて出奔したって説もあるけどそれだったら秀吉が死んだ後徳川家に帰参してると思うんだよな、それに敢えてしたのだったら息子が取り潰されたりするはずないから多分ないと思った
家康びいきのご都合主義だよね
monoris2008 そうだね
もしくは関ヶ原の戦い後、譜大名として大出世してないとおかしいですよね
松本城に行ったのに旅で浮かれていたのか石川家ゆかりの城とか説明文をかなーり読んだのにすっかり忘れていました(笑)この動画で数正の最後とか始めて知りました。じっくり動画を見て始めて頭に入るなんて😃
秀吉が死んだ後、まさか家康が天下に、一族は、ビックリしただろう
忠義にはいろいろな形もあると思うでござるからなあ。相手が秀吉ともなれば、己の身で主家存続が保つなら。。。と信じたいとこでござるなあ
山岡荘八(徳川家康26巻の著者)は高く評価していたね。
出奔は、家康より徳川家の内情を調査するために…とか。豊臣家との外交役から頭を下げろと要望する秀吉とそれを拒む家康との軋轢に疲れたか…。
この時代、寝返りや引き抜き自体はそこまで珍しい話でもないんだろうけど、元々大忠臣だから何か密命でもあったのかと想像したくなる
豊臣方に使えることで豊臣方の内情を徳川方に伝えていたのでは?二重スパイかも
石川数正は徳川家臣、こまきながくて合戦にも参戦した(13個目、8月13日01:15)
司馬遼太郎作"覇王の家"下巻で石川数正について触れてましたけど渡部さんみたいな人だな思いました。
幼少の頃からの付き合いで、改宗してまで従ってきた重臣の中の重臣で実績もある。そんな人が表だった明確な理由も無く豊臣家に行き、その後は目立った業績は出していない。家康から密命を受けて徳川家の為に出て行ったのかもしれませんね。
三河武士忠義の家臣てイメージ
2023年。どうする家康。松重豊氏が演じています。松本城築城に関わったとか。松重氏の父親がNHK関連にて松本に縁があった。とか。石川氏が言ったように。実直なるがゆえに謀叛もあり得る。と言います。鋭い‼️今に通じます。が今の脚本ですからね。
石川数正は徳川家の中の立場とか人間関係とかどうだったのだろうか、出奔したのは色んな理由が重なった結果じゃないかと個人的に思ってる。
お疲れ様でした。私にとって石川数正はどうしても石川五右衛門と被る所があって同姓だから?でもなく家康を裏切ったから?でもなく秀吉の寝首をかく?でもないのですが。こと石川数正について逸話が多すぎて出奔理由についてこれが本命ですと言えない事が一番歯痒いです。於大の方の恨みに苛まれた?例外なく秀吉の人たらしが魅力的だった?各々の小説家や脚本家は自由奔放に物語りますがポワロやホームズがいて欲しいと思う今日この頃ですがこの人達も小説家によって生まれた人物でしたね。石川数正が家康を伴したのは「神君伊賀越え」だけではありません。田楽桶狭間で今川家にいた家康は織田方に追われるのを石川数正が案じて共に逃げています。岡崎との境界でもある矢作川にて三匹の白鹿が渡るのを見て家康を連れて渡った「三鹿の渡し」という場所がありましたがあまりにも荒唐無稽としてか江戸時代になってから幕府が松を堤防に植え「鹿ヶ松」と呼びました。いずれにせよ、石川数正にとって重要な決断があったればこそ出奔したのであってその胸中は計り知れないものがあったと思います。
ぞくがらではないつづきがらと読みますね
ぞくがらでも通じるよ。
大久保×本多のゴタゴタに巻き込まれてたの初めて知りました!ありがとうございます。
数正の真意は家康に通じていただろう。徳川家を愛し家康の為に人身御供となった人物。南州と同じく真意は小人物には理解されない。
安城市(あんじょうし)安祥城(あんしょうじょう)です。
横山光輝の漫画徳川家康では徳川のために泣く泣く出奔て感じやったからどうやろね
家康公からみたら数正は従甥か
諸説ありますが、石川数正祖父石川忠成(清兼)の妻水野忠政娘(石川妙西尼)は忠成の後室と言われており、三男石川家成の母ではありますが、長男石川康正(数正父)の母ではありません。ですから、家康と家成はいとこ同士ではありますが、家康と康正はいとこではありません。従って、数正は家康の「義理の」従甥と言うべきでしょうか。他の婚姻関係は知りませんが。
後の歴史からしたら数正が自分のところにきたところで軍法手に入れて間髪入れず家康を攻め滅ぼしていれば溺愛我が子も滅ばなくて済んだのに
水野信元の暗殺に家康は関与してない。信康の独断でしょう。
謎の人物では、ありますね。城は男の人となりと、思うので、松本城に翳りは、感じません。
続柄→つづきがら です
ぞくがらとも読むんでは?俗な言い方だけど。
かなしいとても 本来はつづきぎらです
ペンシルベニア州
今ではぞくがらで公務通じますよ。
信康君は増長著しく、あくまで主君である父親の権威と指揮権を無視することが多くなり娘を嫁がせた織田信長も憂慮の極みに達して、切腹を命じたそうですがね。後見としての責任を問われたあたりから、家康と距離が離れていってその隙を秀吉に突かれたものと思われます。秀吉は他にも、島津の重臣伊集院を取り込んだり、毛利の家老小早川を本家と同格の豊臣家大老とするなどイヤミなキャスティングを駆使して大大名の力を削ぐことに腐心してます。
俺の先祖石川数正
仲間です。三河あたりですか?
みんな信じてくれないと思うけど、石川数正の子孫です
最近竹千代の人質で新説が出て来た。松平広忠が織田家との戦いで負けたので竹千代を織田家に人質に差し出した?とか。この説はまだ学会では認められていないそうです。「徳川実記」によれば駿府に人質として竹千代に同行したのは28人と雑兵50人とあります。浅間温泉の湯守の件では石川昌光が戦で負傷した事で湯守の役職を任されたとの事、その後、石川家は小口と改名して以後代々湯守を務めた。枇杷の湯では石川数正の裃(かみしも)が残されているとか。
「似たような事例」が他に思いつきません。余程、徳川家に居づらかったんでしょうか。秀吉にヘッドハンティングされた訳ではなさそうだし・・・。
オギマルゼミナール 脳筋ばっかの三河武士の中じゃ外交を受け持っていた数正は嫌われてたのかもしれません、何だか何処となく治部と似てる気がします
@@あちちあちち なるほど、三成ですか。嫌われ役の外交官といえば・・・安国寺恵瓊とかもお仲間に入るでしょうか。
あちちあちち 本多正信殿もそうでしたよね。
遠い未来にタイムマシン出来て、過去に戻る事が出来てこの時代にもし行けたなら、どの位史実なのか確かめたい。多分ガッカリする事ばかりだと思うけど。
中原章智 でもそれが逆で今に伝わってるようなことと大方合ってたらそれもそれで凄いよね
ですね!それはそれで嬉しいですね!今はわからないからロマンがありますが、やっぱり真実が知りたいです!いつの日か!
中原章智 そうですね、自分はその時まで生きていたいです
@@あちちあちち 後、何百年かの辛抱ですね。
覆面しててなぜ、姿見せるの?辻褄のあわないことしてて、歴史の真相とは?
この甲冑姿のオッサン要らんなwww
最近では家康の次男結城秀康が秀吉の猶子入りの際それに随伴する形で秀吉の下に付いただけ、という説が有力でして。
なるほどですねーそうなると謎の出奔ではなくなりますね謎の出奔といえば、あとは伊達成実かなぁ??
そのような説、初耳でした。単に大御所様(家康公)と仲が悪くなり、出奔。秀吉の寝返りの条件に目が眩んだとかなら聞いたことはあります。でも、たしか数正公は出奔後に出雲守吉輝と改名しており、前者の大御所様と不仲説になったというのが定説だと思うんですけどねぇ……
@@Prasident-gm4li 武田信玄との戦い(三方ヶ原でしたッけ)で、家康があまりの恐怖に退却中に漏らしたことがあり、それを数正に咎められたところ、これは味噌じゃ食べてミイと無理やり喰わされたことがきっかけで不仲になったとかいうどこかで見た記憶があります…
だとするとそれがきちんと説明されることもなく「謎の出奔」として扱われていたことが問題と思います。
兜、ダンボール?(笑)
お家断絶されてるね‼
歴史初心者なんですがなぜに豊臣秀吉のことを羽柴秀吉ってわざわざ変えて言うのでしょうか?
女ナレーター時々聞き苦しい時あります...
この人が出奔したせいでとんでもないぐらい巻き添え喰らった小笠原氏、後に当主秀政、長男秀脩大坂の陣で討ち死
逆ですよ。元々、小笠原氏は、信濃領主。岡崎から来た、石川数正など、あくまでも赴任して来た上司にしか見てないでしょ。確かに当主、秀政は大阪の陣で討死にしたが、九州で大名になれた訳であり、数正が、出奔しなければ石川家の家老程度で終わっていた
司tukasa 逆?数正が出奔して巻き添え喰らったのに逆とは?それと出奔しなければ数正家老程度だったとか笑わせないでください、数正よりも所領あるし、それに家康公の家臣というのじゃ同じ立場ですし
あちちあちち 数正って10万石(深志)だったような。秀政は1613年に転封され、8万石(松本)でなかったでしょうか。まぁ石川家の家老ってのは理解できませんが。
うーん残念。
ほ
7
無骨なタイプが多い三河出身の武将にしては珍しく柔軟な対応ができる人です
出奔したのも周囲の家臣とそりが会わなかったのでしょう
同じく三河人の中では異質な存在だった本多正信も家臣の中では浮いた存在でしたからね
大河ドラマ「どうする家康」の松重豊さん演じる石川数正が楽しみ
初期の苦労を家康と共に生き抜いて来たんですね
「どうする数正」風に観ていきたいです
いつもありがとうございます。毎回楽しみに閲覧させていただいています。
「覇王の家」では、武働きのみが至高という、脳筋な三河武士の中で、唯一智働きのできた石川数正は、かなり浮いた存在だったとなっていましたね。
個人的には、以前聞いた、本多正信に仕事を奪われて、家中で窓際状態だったという説が面白いなと思いました。
三河衆は素朴で真面目、勇気もあったけど非常に頑固かつ閉鎖的。どれだけ忠勤に励んで実績を残しても、集団から外れると疎外されて居たたまれなくなり出奔したんじゃないかな。
石川数正が好きです。🎵
いい武将です。🎵
もう徳川が秀吉には絶対に勝てないということを三河武士で唯一冷静に理解して行動した人物。ガチで秀吉と戦って5分の勝ち目があれば、そこの大将が出奔するわけないじゃないですか。秀吉と家康の器の違いもよく理解していたはずです。
おそらく、徳川と戦えば勝てるものの大きな痛手を被ることがわかっていて戦いたくなかった秀吉が、数正と謀って、数正が出奔すれば徳川は戦どころではなくなり、天下分け目のおおいくさを回避することで、西日本を速やかに平定し、それによって日本が早く、丸く収まるよう画策したのでしょう。
当時、日本はスペイン・ポルトガルによる世界支配の計画に含まれており、秀吉は一刻も早く国内をまとめ上げる必要があることをわかっていたでしょう。この時代に同じ視野でものを考えることができ、国内の天下分け目のおおいくさを回避するための行動が取れる人物は、石川数正以外には誰もいませんでした。
数正は当時の名だたる戦国大名や織田の重臣たちなどあらゆる武将を個人的に観察する機会に恵まれ、目が肥え、国の行く末がよく見えていた視野の大きい人であったと思います。
後の片桐且元と重なる物がある
小牧長久手で引き分けたとは言え圧倒的な秀吉と上洛養成に応じない家康との板挟みに苦しんだ末の出奔だったと思う
外交をやるとどうしても組織で孤立する 正論言うだけでは外交交渉できないからね。
今日から始まった大河でも、初回から活躍してましたね。どんな風にして家康のもとを離れるのか楽しみです。
松本城は城主がコロコロ代わるので、
ジモッティでも、石川数正との関係を
ほとんど知らない罠。
ご子孫が今でも市内でご活躍だなんて、初耳でした。
音伎 石川数正に子孫がいたことが驚き
あちちあちち
嫡男の康長くんは大久保長安事件で粛清されたことが有名ですね。
ちなみにこの人、東軍に与して所領は安堵するのですが、真田昌幸に大敗北。
悲しい人ですね。ちなみに前述した長安事件で弟(2人)も改易していたはずですが、この後はどうなったんでしょうかね
石川数正の家系は、徳川政権では、外様大名の扱い。
松本の地を与えたのは豊臣秀吉だからね。
石川数正が家康公の命令で敢えて出奔したって説もあるけどそれだったら秀吉が死んだ後徳川家に帰参してると思うんだよな、それに敢えてしたのだったら息子が取り潰されたりするはずないから多分ないと思った
家康びいきのご都合主義だよね
monoris2008 そうだね
もしくは関ヶ原の戦い後、譜大名として大出世してないとおかしいですよね
松本城に行ったのに旅で浮かれていたのか石川家ゆかりの城とか説明文をかなーり読んだのにすっかり忘れていました(笑)
この動画で数正の最後とか始めて知りました。
じっくり動画を見て始めて頭に入るなんて😃
秀吉が死んだ後、まさか家康が天下に、
一族は、ビックリしただろう
忠義にはいろいろな形もあると思うでござるからなあ。
相手が秀吉ともなれば、己の身で主家存続が保つなら。。。と信じたいとこでござるなあ
山岡荘八(徳川家康26巻の著者)は高く評価していたね。
出奔は、家康より徳川家の内情を調査するために…とか。豊臣家との外交役から
頭を下げろと要望する秀吉とそれを拒む家康との軋轢に疲れたか…。
この時代、寝返りや引き抜き自体はそこまで珍しい話でもないんだろうけど、元々大忠臣だから何か密命でもあったのかと想像したくなる
豊臣方に使えることで豊臣方の内情を徳川方に伝えていたのでは?
二重スパイかも
石川数正は徳川家臣、こまきながくて合戦にも参戦した(13個目、8月13日01:15)
司馬遼太郎作"覇王の家"下巻で
石川数正について触れてましたけど
渡部さんみたいな人だな思いました。
幼少の頃からの付き合いで、改宗してまで従ってきた重臣の中の重臣で実績もある。
そんな人が表だった明確な理由も無く豊臣家に行き、その後は目立った業績は出していない。
家康から密命を受けて徳川家の為に出て行ったのかもしれませんね。
三河武士忠義の家臣てイメージ
2023年。
どうする家康。
松重豊氏が演じています。
松本城築城に関わったとか。
松重氏の父親がNHK関連にて松本に縁があった。とか。
石川氏が言ったように。
実直なるがゆえに謀叛もあり得る。と言います。
鋭い‼️
今に通じます。が
今の脚本ですからね。
石川数正は徳川家の中の立場とか人間関係とかどうだったのだろうか、出奔したのは色んな理由が重なった結果じゃないかと個人的に思ってる。
お疲れ様でした。私にとって石川数正はどうしても石川五右衛門と被る所があって同姓だから?でもなく家康を裏切ったから?でもなく秀吉の寝首をかく?でもないのですが。
こと石川数正について逸話が多すぎて出奔理由についてこれが本命ですと言えない事が一番歯痒いです。於大の方の恨みに苛まれた?例外なく秀吉の人たらしが魅力的だった?
各々の小説家や脚本家は自由奔放に物語りますがポワロやホームズがいて欲しいと思う今日この頃ですがこの人達も小説家によって生まれた人物でしたね。
石川数正が家康を伴したのは「神君伊賀越え」だけではありません。田楽桶狭間で今川家にいた家康は織田方に追われるのを石川数正が案じて共に逃げています。
岡崎との境界でもある矢作川にて三匹の白鹿が渡るのを見て家康を連れて渡った「三鹿の渡し」という場所がありましたがあまりにも荒唐無稽としてか江戸時代になってから
幕府が松を堤防に植え「鹿ヶ松」と呼びました。いずれにせよ、石川数正にとって重要な決断があったればこそ出奔したのであってその胸中は計り知れないものがあったと思います。
ぞくがらではないつづきがらと読みますね
ぞくがらでも通じるよ。
大久保×本多のゴタゴタに巻き込まれてたの初めて知りました!
ありがとうございます。
数正の真意は家康に通じていただろう。
徳川家を愛し家康の為に人身御供となった人物。
南州と同じく真意は小人物には理解されない。
安城市(あんじょうし)安祥城(あんしょうじょう)です。
横山光輝の漫画徳川家康では徳川のために泣く泣く出奔て感じやったからどうやろね
家康公からみたら数正は従甥か
諸説ありますが、石川数正祖父石川忠成(清兼)の妻水野忠政娘(石川妙西尼)は忠成の後室と言われており、三男石川家成の母ではありますが、長男石川康正(数正父)の母ではありません。ですから、家康と家成はいとこ同士ではありますが、家康と康正はいとこではありません。従って、数正は家康の「義理の」従甥と言うべきでしょうか。他の婚姻関係は知りませんが。
後の歴史からしたら数正が自分のところにきたところで軍法手に入れて間髪入れず家康を攻め滅ぼしていれば溺愛我が子も滅ばなくて済んだのに
水野信元の暗殺に家康は関与してない。信康の独断でしょう。
謎の人物では、ありますね。
城は男の人となりと、思うので、松本城に翳りは、感じません。
続柄→つづきがら です
ぞくがらとも読むんでは?俗な言い方だけど。
かなしいとても 本来はつづきぎらです
ペンシルベニア州
今ではぞくがらで公務通じますよ。
信康君は増長著しく、あくまで主君である父親の権威と指揮権を無視することが多くなり
娘を嫁がせた織田信長も憂慮の極みに達して、切腹を命じたそうですがね。
後見としての責任を問われたあたりから、家康と距離が離れていって
その隙を秀吉に突かれたものと思われます。
秀吉は他にも、島津の重臣伊集院を取り込んだり、毛利の家老小早川を本家と同格の豊臣家大老とするなど
イヤミなキャスティングを駆使して大大名の力を削ぐことに腐心してます。
俺の先祖石川数正
仲間です。三河あたりですか?
みんな信じてくれないと思うけど、石川数正の子孫です
最近竹千代の人質で新説が出て来た。松平広忠が織田家との戦いで負けたので竹千代を織田家に人質に差し出した?とか。
この説はまだ学会では認められていないそうです。
「徳川実記」によれば駿府に人質として竹千代に同行したのは28人と雑兵50人とあります。
浅間温泉の湯守の件では石川昌光が戦で負傷した事で湯守の役職を任されたとの事、その後、石川家は小口と改名して以後代々
湯守を務めた。枇杷の湯では石川数正の裃(かみしも)が残されているとか。
「似たような事例」が他に思いつきません。余程、徳川家に居づらかったんでしょうか。秀吉にヘッドハンティングされた訳ではなさそうだし・・・。
オギマルゼミナール 脳筋ばっかの三河武士の中じゃ外交を受け持っていた数正は嫌われてたのかもしれません、何だか何処となく治部と似てる気がします
@@あちちあちち なるほど、三成ですか。嫌われ役の外交官といえば・・・安国寺恵瓊とかもお仲間に入るでしょうか。
あちちあちち
本多正信殿もそうでしたよね。
遠い未来にタイムマシン出来て、過去に戻る事が出来てこの時代にもし行けたなら、どの位史実なのか確かめたい。多分ガッカリする事ばかりだと思うけど。
中原章智 でもそれが逆で今に伝わってるようなことと大方合ってたらそれもそれで凄いよね
ですね!それはそれで嬉しいですね!今はわからないからロマンがありますが、やっぱり真実が知りたいです!いつの日か!
中原章智 そうですね、自分はその時まで生きていたいです
@@あちちあちち 後、何百年かの辛抱ですね。
覆面しててなぜ、
姿見せるの?
辻褄のあわないことしてて、
歴史の真相とは?
この甲冑姿のオッサン要らんなwww
最近では家康の次男結城秀康が秀吉の猶子入りの際それに随伴する形で秀吉の下に付いただけ、という説が有力でして。
なるほどですねー
そうなると謎の出奔ではなくなりますね
謎の出奔といえば、あとは伊達成実かなぁ??
そのような説、初耳でした。
単に大御所様(家康公)と仲が悪くなり、出奔。秀吉の寝返りの条件に目が眩んだとかなら聞いたことはあります。
でも、たしか数正公は出奔後に出雲守吉輝と改名しており、前者の大御所様と不仲説になったというのが定説だと思うんですけどねぇ……
@@Prasident-gm4li 武田信玄との戦い(三方ヶ原でしたッけ)で、家康があまりの恐怖に退却中に漏らしたことがあり、それを数正に咎められたところ、これは味噌じゃ食べてミイと無理やり喰わされたことがきっかけで不仲になったとかいうどこかで見た記憶があります…
だとするとそれがきちんと説明されることもなく
「謎の出奔」として扱われていたことが問題と思います。
兜、ダンボール?(笑)
お家断絶されてるね‼
歴史初心者なんですがなぜに豊臣秀吉のことを羽柴秀吉ってわざわざ変えて言うのでしょうか?
女ナレーター時々聞き苦しい時あります...
この人が出奔したせいでとんでもないぐらい巻き添え喰らった小笠原氏、後に当主秀政、長男秀脩大坂の陣で討ち死
逆ですよ。
元々、小笠原氏は、信濃領主。
岡崎から来た、石川数正など、あくまでも赴任して来た上司にしか見てないでしょ。
確かに当主、秀政は大阪の陣で討死にしたが、九州で大名になれた訳であり、
数正が、出奔しなければ石川家の家老程度で終わっていた
司tukasa 逆?数正が出奔して巻き添え喰らったのに逆とは?それと出奔しなければ数正家老程度だったとか笑わせないでください、数正よりも所領あるし、それに家康公の家臣というのじゃ同じ立場ですし
あちちあちち
数正って10万石(深志)だったような。
秀政は1613年に転封され、8万石(松本)でなかったでしょうか。
まぁ石川家の家老ってのは理解できませんが。
うーん残念。
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