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家康が秀忠に怒ってたのは、関ヶ原に遅参したことではなく、大軍を率いながらもこのままでは間に合わないと、1騎駆けのような形で駆けつけようとした短慮さにあるようですね。幸いにも家康は勝利したが、もし負けていたらどうするつもりだったのかということで、弔い合戦で西上するならいいが、てんでバラバラに行軍していては話にならんではないかということですね。
真田丸での草刈正雄さんの真田昌幸、好きでした。真田好きが講じて、上田と九度山にも行きました。
葵徳川三代は史上最高の大河ドラマです。
太平記よりも?
私的には頼りなかった秀忠が家康が亡くなる頃には貫禄が出てくる所がいい。
家臣たちが秀忠遅参を詫びてかばうシーンは見もの
先生のお話をうかがいながら、どうしても 西田敏行さんの秀忠を思い出してしまいます。半泣きで関ヶ原目指して行軍しているシーンが今でも頭に残ってます。😅
同じく
ドラマで血尿が出ていたけど、記録にあったのか。
私も秀忠は西田敏行です(笑)
@@jis2632 わわを
うちは徳川の譜代大名だったです。何故か大河ドラマじゃうちの家紋の立葵が出てくる事は無いのですが、葵三代の時はでっかく出てたので嬉しかった。
名前は出なくて家紋だけ出たの?
後世の我々はどうしても9月15日に関ヶ原で合戦が行われたという結果を知っている前提で物を考えてしまいます。当時は9月15日に関ヶ原で決戦を行う予定はありませんからね。9月15日未明に三成隊が大垣を出て関ヶ原に移動したからあの日にあそこで開戦した訳で。しかも、家康が上杉征伐に出てからここまで2ヶ月ほど経っているように、今後もまだ当面は、東西両陣営の対立が続く可能性もありました。ですので秀忠遅参も予定されていた合戦に遅れるなんて無能と考えるのはちょっと違いますよね。
関ヶ原の戦いは長期戦になると、みんな思ってたそうですね。黒田官兵衛さえも。
関ヶ原に遅参して怒られ大坂の陣では早く着きすぎて怒られるwwだから秀忠はどこか憎めないのよ
今回もなるほどですね!江戸時代に書かれた古文書から人々は何を学んで来たのか?と言う見方も大事なんだって本当に腹落ち致しました😭だから歴史って楽しいし、魅力的なんですね🤔
歴史の事実と通説と、両方とも面白いですよね。その差に気が付くことも重要ですね。本当の歴史の勉強の仕方ですね。真実の探求ですかね。今回も楽しかったです。また、来週が楽しみです。
😮
何だかんだで秀忠が後継者に選ばれているあたり、関ヶ原の件はそこまで気にして無さそうですね。
秀忠の遅延は計算内だったのかもと思ったりします。私は軍事行動を考えるとき、地図を見ます。「関ヶ原合戦 勢力図」と検索して地図を見てみました。日本を二分するというイメージがありますが、実際には東軍、西軍→東軍の勢力が明らかに大きいと思わされます。ここから単純に小早川の行動や毛利の判断が分かるような気がします。真田昌幸は孤立していますが、真田信幸の領地が事実上味方であると仮定すれば、上杉領に接します。ここに牽制のため徳川本軍を差し向けたというのが家康の目的ではなかったのでしょうか?ですから真剣に戦う必要はなく、周辺諸国の寝返りを阻止できれば良しという判断があったのではないかと思っています。遅延を叱責されたのかも本当かどうか分かりませんし歴史は後から改竄されるのが常ですから実際のところは不明です。戦いでは動かないことも評価の対象になったりします。動かずに加増される者もいれば、逆に取り潰される者もいるのは、そういう状況があったからということです。秀忠はどちらかと言えば評価されていたのだろうと、私は思います。
そもそも戦上手の真田に若年の秀忠がすんなり勝てるとは思わないよね…
まぁ勝手に秀忠が中山道を進んで遅れたならともかく中山道を進んで西軍が東進してきたら食い止めろと言ったのは家康ですからね自分で行かせておいて失敗したら処分てのはさすがに周りも納得しないだろうし
色々新説出て来て、面白いですね。しかし現実は論功行賞で分かると思います。兎ちゃんが遅刻したせいで多くの徳川家臣が加増されなかった。兎組の忠隣、康政とかは加増なしとか辞退とかで、増えたのは外様と虎組の次男、四男、直政、忠勝親子。伏見城戦、大津城戦のメンバーはその場では負けても加増。ちゃんと結果見て決めた禄高が全てだと思います。
実際は「真田を上田に留め置いて上杉との連携を断つ」というのが徳川サイドの戦略なので、上田城攻略自体における成功の可否はそれほど気にしていなかったと思われます。(秀忠本人の感情としては「何もできずに終わった」という点で忸怩たるものもあるとは思いますが)
真田と上杉の連携を断つという説があったんですね?
いつも楽しみに待ってます。家康公は自分が言った事だからキツく言えなかったのかな。いつか今度、東京近郊で講演などありましたらTH-camで発表して下さい。家康公は何故こんな時間が経ってから西上し秀忠公にも指示したのですか?
本多正純は、家康に「関ヶ原の戦いに間に合わなかった責任は軍監やってた父の正信の責任だから処罰すべき。」と親不孝な事を言ったらしいですね。
これは秀忠を守るために責任を父親に負わせようとした発言だとも言われてますね
@@user-co4uy9zu1s 他の重臣達には「あの様な親不孝者にはそのうちばちが当る」と言われてたそうで。
ふじむらとうそん、藤村藤村。自分も良く間違います(笑)先生でも間違われるんですね、親近感です!
上田合戦のミステリーとても興味深いです。真田軍のお話の所で、堺雅人さん、大泉洋さん、草刈正雄さんの顔が目に浮かびました…
配信ありがとうございます。図表が分かりやすく勉強になりました。
囲碁の例えのところで「石だにとり得ば」は「石田にとりえば」に掛けたのでは?
関ヶ原に徳川本隊が間に合わなかった事が後の明治維新に繋がったと思う。
真田攻めは家康の命令だって事を取り上げてもらえて嬉しいです!信濃平定を任せて、小諸にいる秀忠に10日には赤坂に来いって言うのはなかなか急に感じますね。やはり思った以上に東海道が順調に進み岐阜城陥落も早く、決戦の日が早くなってしまったのが原因なのかなと思いました。
家康が秀忠を態と遅参させたって説もありますよね 真田との戦いで主力部隊が本戦に間に合わなかったのなら、真田昌幸の処分が蟄居だけってのは甘すぎるような気がする。
@@user-js3kd7fe4h あ、そうなんですね!でも蟄居処分は信之、本多忠勝の取りなしで無事だったからでは?
蟄居処分のみで済ましたのは、地方の各家へのメッセージだと思いますよ。早く徳川幕府確立させると言う戦略の一石であり、またこれにはよく真田家は使われるんですよね、徳川吉宗の祖母は真田です。ここで外様から親藩になるんですよね
@@shuzaburoiwashita3052 家康の処分は全体的に甘めだと思う。上杉討伐で会津に向かったのに処罰は減封だけ。真田も因縁の相手なのに蟄居で終わり。西軍総大将の毛利ですら減封だけ。島津に至ってはほぼ処分無しみたいな感じ。首謀者説もある宇喜田秀家ですら島流し。三成と小西行長は、家康と云うより加藤清正や福島正則からの恨みを買ってたように思える。
ひたすら聞き手にまわります
敬称から人間関係が読み取れるところがすごいですわ〜
家康が中山道を進んで、秀忠が東海道を進むという方法もあったのではないか秀忠では老獪な昌幸に対抗するのは器量不足
秀忠軍の先鋒は美濃攻略戦しっかりやっているんですが、陰が薄いです。
アシスタントの方が、あえてボケているのか、本当に知らないのか、聞き上手と言えば聞き上手ですね。
11:36 笑たっ!
甘利信恒が籠で丸腰で戦場に。保科秀忠が信濃奪回です。ここが天下です。いよいよ江戸幕府用意。輪王寺ですね。
秀忠が率いる徳川本体を温存するためにわざと遅れた。関ヶ原で東軍が負けても本隊を温存しておけばもう一戦できる。
アシスタントの女性がセクシー
秀忠へ朝廷から将軍。甘利信恒三日天下が400年。これは京都と甲斐の一体となり我ら本尊の成せる。清州城の大崎は武田勝頼だった。すべては甘利信恒が井上秀忠に天下を渡す算段です。信玄の娘たちも活躍しての大狂言で400年の徳川幕府を江戸城で留守したメンバーが画策です。無茶苦茶なストリーに見事に勝ったのが甘利信恒扮する徳川家康。結城の世良田得川家康が失敗して殺されたのにすごいね。英国プロビデンスの鎧をエリザベスから受けての出陣でした。
秀吉vs家康の小牧長久手の戦いでは大兵力同士がにらみ合い長期戦となった。天下二分、東軍vs西軍の戦いがまさか半日で終わるとは誰も思っていなかったのではないか。秀忠は結果遅参してしまったが家康からして、まだ決戦は先だと考えていたのではないか。
徳川秀忠は干支が「己卯」だから🐇ウサギなのかな?
でしょうね。葵徳川三代見てた人ならピント来るとこですね。
真田末裔です。ありがとうございます
真田幸忠が信濃小県、岩下郷を知行した折 姓を岩下と変えそれ以降は真田の家老職を務めました
真田末裔、、、宮城ですか?
@@peyfuru110 今は神戸市に在住してます。曾祖父さん岩下清周(Wiki参照)時代から関西です。
@@shuzaburoiwashita3052 徳川の血入ってる方?
@@user-bn7vl6bb3n さん そうですね
戸石(砥石)城は武田信玄が「砥石崩れ」と言われる、大敗北をした城。当時、砥石城には真田幸隆の実弟矢沢頼綱が敵方の将として籠城、真田幸隆が矢沢頼綱を調略して、落城させた。
結果的に、関ヶ原で勝利したから良かったものの、もし西軍が勝利ないし善戦して戦線が膠着したら秀忠軍の失態は致命的だよ。小競り合いなら牽制程度の軍を残しておけば良いだけの事。
わざと遅参させ、西軍に秀忠到着がタイムリミットだと印象付け、野戦に誘い込んで一気に叩き、主導権を握ることも想定してたんじゃないんかな?戦後に疲弊してない大軍が到着することは、豊臣家での主導権争いでも意味があったんじゃないかな?知らんけど。
貴方、鋭いですねー。確かにそう言う考えも出来ますね。シーザーがポンペイウスを決戦に引きずり込む為にわざと自軍を弱く見せてたのと同じって事ですね。決戦が長引けば遠征してる徳川に不利。
秀忠は遅れた訳ではない!家康の命令で待機していた。徳川軍不利と見たら家康の命令でいっきに関ヶ原に参戦した。その数38000人。これを知っていた、毛利、島津、小早川は金縛り状態!家康勝べきして勝った。
32:27 面白いけど、この表現(囲ったところ)話を盛ってる感じがする。「樞用の石だに」このセリフ、どうみても石田三成に掛けてるよね
家康は秀忠に真田領平定の命令を出して4万位の兵隊を預けた。ようは父さんは関ケ原で戦うから、息子は真田領平定頑張れって作戦
天元実記とはタイトルが洒落ている。内容も囲碁を扱ってるし。
日付すら間違えてる資料を最後に持ち出すのどうなんだろう。そこに信憑性が高いなら、その説明も欲しかったかな。フィクションだからと片付けたら、このチャンネルを観る価値を失いかねないかなぁ。
秀忠と武田残党譜代旗本大名の決定を伝えて上田を去ったというところ。真田お家安泰。甘利に逆らえばそこで全てが断絶するように決まっていました。
ところが甘利の神奈川の身内たち、やるなら松平か徳川でやってくれと。もう西軍に追われて身内が殺されるのは容易できませんと言われてだね。秀忠の親たちは甲府で義直を人質に徳川御三家作戦を敢行だよ。槍の権左衛門だよ。
だけどもう井伊や酒井、三河まとめて清和源氏大名に決定。あっというまに松平にかわっていく。土豪になったものも武家の名から百姓に。3ちょうぶから10ちょうぶの土地もらって強硬。やったのは阿部の守。
23:08~ 秀忠さん、かわいそすぎる😭今なら、メールで一瞬なのに。
でも、ちゃんと将軍になれたのでよかったと思います!☺️
阿部の殿様はこのあと上杉まで成敗して屈服させ景勝に入れ替えて奥州をあげる。南朝長尾謙信系統の全滅
直江氏が最上の倒さなければ少し時代は変わった。
何故、家康が秀忠を待たなかったのかが理解できないです。家康隊と秀忠隊を合わせれば2倍の兵力になるので、どうとでも勝てるのですが、、、また、秀忠の遅参を怒る割りには、命令の出し方や作戦が杜撰に見えます。各3万の大軍を別々に動かして連携させるのは実は凄く難しいのですが、家康もそれを解っていなければ合戦に勝ち続ける事なんて出来ない筈なのですが、、、どうもそこの辺りの辻褄が合わないです。(家康隊は後詰のつもりだったのか?)
私には謎で、なぜ豊臣が石田三成を支持しなかったのかがわかりません。三成や毛利が豊臣の為というのであれば、豊臣が三成を支持して、豊臣の旗が石田の陣地に掲げられたものと思います。私自身は、旗が掲げられていない以上、豊臣は中立であって、関ヶ原の戦いにおいて、つまりは豊臣家臣団内の紛争であるという扱いであったのだと思っています。つまりは家康や毛利は外部の人間で関係が無いということになりますよね。だから、別に家忠の本隊が来なくても、家康最初っから戦う気はなかった。もしくは毛利が出てきたから家康は出てきた程度なのか。もう一つの疑問として、本能寺以降、織田家内の内乱に徳川は出兵をしなかったのを、なぜ関ケ原では徳川は出兵したのか。家康は他家のできごとに関しては内政不干渉ではなかったのか。つまりは関ケ原の戦いは豊臣をなおざりにして、すでに実権を喪失していた豊臣が、家臣の内乱でさえ押さえ込むことができず、関ケ原以降、更に政治力を失った豊臣が家康に取って代わられる。そんな筋書きなのではと心の中では思っても、関ケ原の戦いが「天下分け目の合戦」という看板の下、我々は目くらましにあっているようなものなのでしょうか。どうも腑に落ちない点が多くあり、疑念が解けません。関ヶ原の合戦動画、いつも配信楽しみにしております。
豊臣家が三成に味方しなかったのはあくまでも家臣同士の対決という構造にしたかったからですよ。もし負けた時豊臣家に害が及ぶからです。なぜ織田家内乱の時出兵しなかったのかこれは甲斐信濃を平定するため侵攻して北条と争ってたからです。あと関ヶ原時点では徳川家康は豊臣家家臣で、織田家内乱時は独立大名という立場の違いですね。ちなみに関ヶ原以降は豊臣家は政治力が落ちたと思われがちですが、詳しく調べるとそうでもない事が分かりますよ。
2016年にNHKで放送された「真田丸」にもありましたが、当時は、徳川家も石田家も毛利家、上杉家、前田家、全ての大名が豊臣家家臣であり、家臣同士の争いですから、豊臣秀頼が出る幕はない状況を作り出す事が上手いのが狸の家康。そして、仮に豊臣秀頼が総大将で徳川家康とそれに組する大名達が戦って、秀頼側が徳川家に敗戦したことになるし豊臣秀頼が総大将となってしまったら、徳川家康も、戦う意味が無くなる。(大義名分が無い。)
@@user-dg5kx3gd5p 豊臣と徳川は主従関係なのでしょうか。そうでしょうが、例えば徳川幕府と他大名は主君というよりは、盟主と言ったような意味あいのような。。。すみません、私も知識不足でよくその辺はわかりません。織田家内乱に関しては承知しました。>>関ヶ原以降は豊臣家は政治力が落ちたと思われがちそうなんですね!初めて知りました。勉強になりました。ありがとうございます。
@@ken9513 毛利や徳川が、豊臣と主従というのと、石田や前田などの直属家臣というのが、徳川でいいますと、酒井や本多忠勝のようになるのかと。。。なんだかその区別が良くわからなくて。。。じゃあ、もし豊臣が徳川のことが疎くて、滅ぼしたいなら豊臣が出陣したはずだし。つまりは、私は関ケ原が豊臣の直属の家臣同士の戦いであって、毛利や徳川といった外部の大名は関係しなかった前提があるんじゃないかとも思っていまして。すみません、私自身知識不足のため、そういった区別がよくできておらず。
秀忠軍 身内温存 しんがり役 家康本陣の予定どうりでは?と思ってしまいます。
《天下分け目の戦い》と言われる割に斬首されたのが石田三成と小西行長って甘々の処罰に思える。宇喜田秀家・毛利秀元・島津の処分も甘いように思えるけど、上杉景勝・真田昌幸の処罰も甘々な気がする。宇喜田秀家・毛利秀元・島津義弘への処分は政治的配慮なのか、それ以上厳しい処分は逆効果と考えたのか?
言い方悪いですけど主犯格は他にも処刑されてますよ。あとは一度たてついてお家取り潰しになったら今後ミスの許されない公儀になってしまう。また大名の縁戚関係は複雑ですから東軍に着いた人たちによる助命嘆願やとりなしあとは島津などは場所的関係や時間かけると反徳川が立ち上がる場合もあるあとは浪人が大量発生してしまうこれらですかね
秀忠の連れて居たのは、徳川本軍で、無傷で残すのが、徳川家康の権某術策で、その為に秀忠軍の徳川直参達の家臣が多い。
作り話ばかり…。「雨で利根川が増水して使者が渡れないでいた」という真実だけで十分面白いのに…。「真実をねじ伏せて創作の方が生き残る」というのも歴史の真実か…
先生、鼻すすって顔触るのちょっと嫌です笑
また、今日も徳川贔屓ですか?(笑)
家康が秀忠に怒ってたのは、関ヶ原に遅参したことではなく、大軍を率いながらもこのままでは間に合わないと、1騎駆けのような形で駆けつけようとした短慮さにあるようですね。幸いにも家康は勝利したが、もし負けていたらどうするつもりだったのかということで、弔い合戦で西上するならいいが、てんでバラバラに行軍していては話にならんではないかということですね。
真田丸での草刈正雄さんの真田昌幸、好きでした。
真田好きが講じて、上田と九度山にも行きました。
葵徳川三代は史上最高の大河ドラマです。
太平記よりも?
私的には頼りなかった秀忠が家康が亡くなる頃には貫禄が出てくる所がいい。
家臣たちが秀忠遅参を詫びてかばうシーンは見もの
先生のお話をうかがいながら、どうしても 西田敏行さんの秀忠を思い出してしまいます。半泣きで関ヶ原目指して行軍しているシーンが今でも頭に残ってます。😅
同じく
ドラマで血尿が出ていたけど、記録にあったのか。
私も秀忠は西田敏行です(笑)
@@jis2632 わわを
うちは徳川の譜代大名だったです。何故か大河ドラマじゃうちの家紋の立葵が出てくる事は無いのですが、葵三代の時はでっかく出てたので嬉しかった。
名前は出なくて家紋だけ出たの?
後世の我々はどうしても9月15日に関ヶ原で合戦が行われたという結果を知っている前提で物を考えてしまいます。当時は9月15日に関ヶ原で決戦を行う予定はありませんからね。9月15日未明に三成隊が大垣を出て関ヶ原に移動したからあの日にあそこで開戦した訳で。しかも、家康が上杉征伐に出てからここまで2ヶ月ほど経っているように、今後もまだ当面は、東西両陣営の対立が続く可能性もありました。ですので秀忠遅参も予定されていた合戦に遅れるなんて無能と考えるのはちょっと違いますよね。
関ヶ原の戦いは長期戦になると、みんな思ってたそうですね。
黒田官兵衛さえも。
関ヶ原に遅参して怒られ
大坂の陣では早く着きすぎて怒られるww
だから秀忠はどこか憎めないのよ
今回もなるほどですね!
江戸時代に書かれた古文書から人々は何を学んで来たのか?と言う見方も大事なんだって本当に腹落ち致しました😭
だから歴史って楽しいし、魅力的なんですね🤔
歴史の事実と通説と、両方とも面白いですよね。その差に気が付くことも重要ですね。本当の歴史の勉強の仕方ですね。真実の探求ですかね。今回も楽しかったです。また、来週が楽しみです。
😮
何だかんだで秀忠が後継者に選ばれているあたり、関ヶ原の件はそこまで気にして無さそうですね。
秀忠の遅延は計算内だったのかもと思ったりします。
私は軍事行動を考えるとき、地図を見ます。
「関ヶ原合戦 勢力図」と検索して地図を見てみました。
日本を二分するというイメージがありますが、実際には東軍、西軍→東軍の勢力が明らかに大きいと思わされます。
ここから単純に小早川の行動や毛利の判断が分かるような気がします。
真田昌幸は孤立していますが、真田信幸の領地が事実上味方であると仮定すれば、上杉領に接します。
ここに牽制のため徳川本軍を差し向けたというのが家康の目的ではなかったのでしょうか?
ですから真剣に戦う必要はなく、周辺諸国の寝返りを阻止できれば良しという判断があったのではないかと思っています。
遅延を叱責されたのかも本当かどうか分かりませんし歴史は後から改竄されるのが常ですから実際のところは不明です。
戦いでは動かないことも評価の対象になったりします。
動かずに加増される者もいれば、逆に取り潰される者もいるのは、そういう状況があったからということです。
秀忠はどちらかと言えば評価されていたのだろうと、私は思います。
そもそも戦上手の真田に若年の秀忠がすんなり勝てるとは思わないよね…
まぁ勝手に秀忠が中山道を進んで遅れたならともかく
中山道を進んで西軍が東進してきたら食い止めろ
と言ったのは家康ですからね
自分で行かせておいて失敗したら処分てのはさすがに周りも納得しないだろうし
色々新説出て来て、面白いですね。しかし現実は論功行賞で分かると思います。兎ちゃんが遅刻したせいで多くの徳川家臣が加増されなかった。兎組の忠隣、康政とかは加増なしとか辞退とかで、増えたのは外様と虎組の次男、四男、直政、忠勝親子。伏見城戦、大津城戦のメンバーはその場では負けても加増。ちゃんと結果見て決めた禄高が全てだと思います。
実際は「真田を上田に留め置いて上杉との連携を断つ」というのが徳川サイドの戦略なので、上田城攻略自体における成功の可否はそれほど気にしていなかったと思われます。(秀忠本人の感情としては「何もできずに終わった」という点で忸怩たるものもあるとは思いますが)
真田と上杉の連携を断つという説があったんですね?
いつも楽しみに待ってます。家康公は自分が言った事だからキツく言えなかったのかな。
いつか今度、東京近郊で講演などありましたらTH-camで発表して下さい。
家康公は何故こんな時間が経ってから西上し秀忠公にも指示したのですか?
本多正純は、家康に「関ヶ原の戦いに間に合わなかった責任は軍監やってた父の正信の責任だから処罰すべき。」と親不孝な事を言ったらしいですね。
これは秀忠を守るために
責任を父親に負わせようとした発言だとも言われてますね
@@user-co4uy9zu1s
他の重臣達には「あの様な親不孝者にはそのうちばちが当る」と言われてたそうで。
ふじむらとうそん、藤村藤村。自分も良く間違います(笑)先生でも間違われるんですね、親近感です!
上田合戦のミステリーとても興味深いです。真田軍のお話の所で、堺雅人さん、大泉洋さん、草刈正雄さんの顔が目に浮かびました…
配信ありがとうございます。
図表が分かりやすく勉強になりました。
囲碁の例えのところで「石だにとり得ば」は「石田にとりえば」に掛けたのでは?
関ヶ原に徳川本隊が間に合わなかった事が後の明治維新に繋がったと思う。
真田攻めは家康の命令だって事を取り上げてもらえて嬉しいです!
信濃平定を任せて、小諸にいる秀忠に
10日には赤坂に来いって言うのはなかなか急に感じますね。
やはり思った以上に東海道が順調に進み岐阜城陥落も早く、決戦の日が早くなってしまったのが原因なのかなと思いました。
家康が秀忠を態と遅参させたって説もありますよね 真田との戦いで主力部隊が本戦に間に合わなかったのなら、真田昌幸の処分が蟄居だけってのは甘すぎるような気がする。
@@user-js3kd7fe4h あ、そうなんですね!
でも蟄居処分は信之、本多忠勝の取りなしで無事だったからでは?
蟄居処分のみで済ましたのは、地方の各家へのメッセージだと思いますよ。早く徳川幕府確立させると言う戦略の一石であり、またこれにはよく真田家は使われるんですよね、
徳川吉宗の祖母は真田です。ここで外様から親藩になるんですよね
@@shuzaburoiwashita3052 家康の処分は全体的に甘めだと思う。
上杉討伐で会津に向かったのに処罰は減封だけ。真田も因縁の相手なのに蟄居で終わり。
西軍総大将の毛利ですら減封だけ。島津に至ってはほぼ処分無しみたいな感じ。首謀者説もある宇喜田秀家ですら島流し。
三成と小西行長は、家康と云うより加藤清正や福島正則からの恨みを買ってたように思える。
ひたすら聞き手にまわります
敬称から人間関係が読み取れるところがすごいですわ〜
家康が中山道を進んで、秀忠が東海道を進むという方法もあったのではないか
秀忠では老獪な昌幸に対抗するのは器量不足
秀忠軍の先鋒は美濃攻略戦しっかりやっているんですが、陰が薄いです。
アシスタントの方が、あえてボケているのか、本当に知らないのか、聞き上手と言えば聞き上手ですね。
11:36 笑たっ!
甘利信恒が籠で丸腰で戦場に。保科秀忠が信濃奪回です。ここが天下です。いよいよ江戸幕府用意。輪王寺ですね。
秀忠が率いる徳川本体を温存するためにわざと遅れた。関ヶ原で東軍が負けても本隊を温存しておけばもう一戦できる。
アシスタントの女性がセクシー
秀忠へ朝廷から将軍。甘利信恒三日天下が400年。これは京都と甲斐の一体となり我ら本尊の成せる。清州城の大崎は武田勝頼だった。すべては甘利信恒が井上秀忠に天下を渡す算段です。信玄の娘たちも活躍しての大狂言で400年の徳川幕府を江戸城で留守したメンバーが画策です。無茶苦茶なストリーに見事に勝ったのが甘利信恒扮する徳川家康。結城の世良田得川家康が失敗して殺されたのにすごいね。英国プロビデンスの鎧をエリザベスから受けての出陣でした。
秀吉vs家康の小牧長久手の戦いでは大兵力同士がにらみ合い長期戦となった。天下二分、東軍vs西軍の戦いがまさか半日で終わるとは誰も思っていなかったのではないか。秀忠は結果遅参してしまったが家康からして、まだ決戦は先だと考えていたのではないか。
徳川秀忠は干支が「己卯」だから🐇ウサギなのかな?
でしょうね。葵徳川三代見てた人ならピント来るとこですね。
真田末裔です。ありがとうございます
真田幸忠が信濃小県、岩下郷を知行した折 姓を岩下と変えそれ以降は真田の家老職を務めました
真田末裔、、、
宮城ですか?
@@peyfuru110 今は神戸市に在住してます。曾祖父さん岩下清周(Wiki参照)時代から関西です。
@@shuzaburoiwashita3052
徳川の血入ってる方?
@@user-bn7vl6bb3n さん そうですね
戸石(砥石)城は武田信玄が「砥石崩れ」と言われる、大敗北をした城。
当時、砥石城には真田幸隆の実弟矢沢頼綱が敵方の将として籠城、真田幸隆が矢沢頼綱を調略して、落城させた。
結果的に、関ヶ原で勝利したから良かったものの、もし西軍が勝利ないし善戦して戦線が膠着したら秀忠軍の失態は致命的だよ。小競り合いなら牽制程度の軍を残しておけば良いだけの事。
わざと遅参させ、西軍に秀忠到着がタイムリミットだと印象付け、
野戦に誘い込んで一気に叩き、主導権を握ることも想定してたんじゃないんかな?
戦後に疲弊してない大軍が到着することは、豊臣家での主導権争いでも意味があったんじゃないかな?知らんけど。
貴方、鋭いですねー。
確かにそう言う考えも出来ますね。
シーザーがポンペイウスを決戦に引きずり込む為にわざと自軍を弱く見せてたのと同じって事ですね。
決戦が長引けば遠征してる徳川に不利。
秀忠は遅れた訳ではない!家康の命令で待機していた。徳川軍不利と見たら家康の命令でいっきに関ヶ原に参戦した。その数38000人。これを知っていた、毛利、島津、小早川は金縛り状態!家康勝べきして勝った。
32:27 面白いけど、この表現(囲ったところ)話を盛ってる感じがする。
「樞用の石だに」このセリフ、どうみても石田三成に掛けてるよね
家康は秀忠に真田領平定の命令を出して4万位の兵隊を預けた。
ようは
父さんは関ケ原で戦うから、息子は真田領平定頑張れって作戦
天元実記とはタイトルが洒落ている。内容も囲碁を扱ってるし。
日付すら間違えてる資料を最後に持ち出すのどうなんだろう。
そこに信憑性が高いなら、その説明も欲しかったかな。
フィクションだからと片付けたら、このチャンネルを観る価値を失いかねないかなぁ。
秀忠と武田残党譜代旗本大名の決定を伝えて上田を去ったというところ。真田お家安泰。甘利に逆らえばそこで全てが断絶するように決まっていました。
ところが甘利の神奈川の身内たち、やるなら松平か徳川でやってくれと。もう西軍に追われて身内が殺されるのは容易できませんと言われてだね。秀忠の親たちは甲府で義直を人質に徳川御三家作戦を敢行だよ。槍の権左衛門だよ。
だけどもう井伊や酒井、三河まとめて清和源氏大名に決定。あっというまに松平にかわっていく。土豪になったものも武家の名から百姓に。3ちょうぶから10ちょうぶの土地もらって強硬。やったのは阿部の守。
23:08~
秀忠さん、かわいそすぎる😭
今なら、メールで一瞬なのに。
でも、ちゃんと将軍になれたのでよかったと思います!☺️
阿部の殿様はこのあと上杉まで成敗して屈服させ景勝に入れ替えて奥州をあげる。南朝長尾謙信系統の全滅
直江氏が最上の倒さなければ少し時代は変わった。
何故、家康が秀忠を待たなかったのかが理解できないです。
家康隊と秀忠隊を合わせれば2倍の兵力になるので、どうとでも勝てるのですが、、、
また、秀忠の遅参を怒る割りには、命令の出し方や作戦が杜撰に見えます。
各3万の大軍を別々に動かして連携させるのは実は凄く難しいのですが、家康もそれを解っていなければ合戦に勝ち続ける事なんて出来ない筈なのですが、、、
どうもそこの辺りの辻褄が合わないです。(家康隊は後詰のつもりだったのか?)
私には謎で、なぜ豊臣が石田三成を支持しなかったのかがわかりません。
三成や毛利が豊臣の為というのであれば、豊臣が三成を支持して、豊臣の旗が石田の陣地に掲げられたものと思います。
私自身は、旗が掲げられていない以上、豊臣は中立であって、関ヶ原の戦いにおいて、つまりは豊臣家臣団内の紛争であるという扱いであったのだと思っています。
つまりは家康や毛利は外部の人間で関係が無いということになりますよね。
だから、別に家忠の本隊が来なくても、家康最初っから戦う気はなかった。もしくは毛利が出てきたから家康は出てきた程度なのか。
もう一つの疑問として、本能寺以降、織田家内の内乱に徳川は出兵をしなかったのを、なぜ関ケ原では徳川は出兵したのか。家康は他家のできごとに関しては内政不干渉ではなかったのか。
つまりは関ケ原の戦いは豊臣をなおざりにして、すでに実権を喪失していた豊臣が、家臣の内乱でさえ押さえ込むことができず、関ケ原以降、更に政治力を失った豊臣が家康に取って代わられる。そんな筋書きなのではと心の中では思っても、関ケ原の戦いが「天下分け目の合戦」という看板の下、我々は目くらましにあっているようなものなのでしょうか。どうも腑に落ちない点が多くあり、疑念が解けません。
関ヶ原の合戦動画、いつも配信楽しみにしております。
豊臣家が三成に味方しなかったのは
あくまでも家臣同士の対決という構造にしたかったからですよ。もし負けた時豊臣家に害が及ぶからです。
なぜ織田家内乱の時出兵しなかったのか
これは甲斐信濃を平定するため侵攻して北条と争ってたからです。あと関ヶ原時点では徳川家康は豊臣家家臣で、織田家内乱時は独立大名という立場の違いですね。
ちなみに関ヶ原以降は豊臣家は政治力が落ちたと思われがちですが、詳しく調べるとそうでもない事が分かりますよ。
2016年にNHKで放送された「真田丸」にもありましたが、当時は、徳川家も石田家も毛利家、上杉家、前田家、全ての大名が豊臣家家臣であり、家臣同士の争いですから、豊臣秀頼が出る幕はない状況を作り出す事が上手いのが狸の家康。そして、仮に豊臣秀頼が総大将で徳川家康とそれに組する大名達が戦って、秀頼側が徳川家に敗戦したことになるし豊臣秀頼が総大将となってしまったら、徳川家康も、戦う意味が無くなる。(大義名分が無い。)
@@user-dg5kx3gd5p
豊臣と徳川は主従関係なのでしょうか。
そうでしょうが、例えば徳川幕府と他大名は主君というよりは、盟主と言ったような意味あいのような。。。
すみません、私も知識不足でよくその辺はわかりません。
織田家内乱に関しては承知しました。
>>関ヶ原以降は豊臣家は政治力が落ちたと思われがち
そうなんですね!初めて知りました。勉強になりました。ありがとうございます。
@@ken9513
毛利や徳川が、豊臣と主従というのと、
石田や前田などの直属家臣というのが、
徳川でいいますと、酒井や本多忠勝のようになるのかと。。。
なんだかその区別が良くわからなくて。。。
じゃあ、もし豊臣が徳川のことが疎くて、滅ぼしたいなら豊臣が出陣したはずだし。
つまりは、私は関ケ原が豊臣の直属の家臣同士の戦いであって、毛利や徳川といった外部の大名は関係しなかった前提があるんじゃないかとも思っていまして。
すみません、私自身知識不足のため、そういった区別がよくできておらず。
秀忠軍 身内温存 しんがり役 家康本陣の予定どうりでは?と思ってしまいます。
《天下分け目の戦い》と言われる割に斬首されたのが石田三成と小西行長って甘々の処罰に思える。
宇喜田秀家・毛利秀元・島津の処分も甘いように思えるけど、上杉景勝・真田昌幸の処罰も甘々な気がする。
宇喜田秀家・毛利秀元・島津義弘への処分は政治的配慮なのか、それ以上厳しい処分は逆効果と考えたのか?
言い方悪いですけど主犯格は他にも処刑されてますよ。
あとは一度たてついてお家取り潰しになったら今後ミスの許されない公儀になってしまう。
また大名の縁戚関係は複雑ですから東軍に着いた人たちによる助命嘆願やとりなし
あとは島津などは場所的関係や時間かけると反徳川が立ち上がる場合もある
あとは浪人が大量発生してしまう
これらですかね
秀忠の連れて居たのは、徳川本軍で、無傷で残すのが、徳川家康の権某術策で、その為に秀忠軍の徳川直参達の家臣が多い。
作り話ばかり…。
「雨で利根川が増水して使者が渡れないでいた」という真実だけで十分面白いのに…。
「真実をねじ伏せて創作の方が生き残る」というのも歴史の真実か…
先生、鼻すすって顔触るのちょっと嫌です笑
また、今日も徳川贔屓ですか?(笑)