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皆さんのご指摘の通り、五人衆には木村重成は入っていません。秀頼の側近、直臣だったということで、毛利勝永が五人衆の一人です。間違い・勘違いも多くご迷惑をおかけしました。これからもご指摘をいただければと思います。よろしくお願いします。
得意不得意があります。先生の徳川家康愛は傾聴に値します。私も歴史好きを自認してますが、先生ほど徳川家康を愛している人を見たことがありません。
❤😅
26:05
歴史物の中で最も内容が濃く、説明が最高なのが市橋先生のこのチャンネルです。出来れば、回数を多く続けて頂ければ有難いと思っています。どうか、宜しくお願いいたします。
丁寧な解説ありがとうございます。大阪夏の陣こそ淀君の運命の分かれ道、嫌なものは嫌の気持ちはわかります・・・がここに至って豊臣家の存続秀頼公の行く末を考えるべきでしたね。悲しい歴史です
南宗寺の話はロマンですね。私は大坂の谷町六丁目に住んでいます。大坂方の織田頼長という人が冬の陣で陣をひいたらしい場所のようです。北に大阪城、東に真田丸、南に空堀と大坂の陣の話に浸るには良いロケーションだと自負しています。先生のお話を拝聴しながら今回もイメージをふくらませてニタニタと笑っております。いつもありがとうございます。
今は引っ越しましたが、高校まで僕は松屋町に住んでました。ご近所さんですね。空堀商店街とか大阪城の縁のものが身近にあったため、大坂の陣で滅んだのは悲しいですね
@@暇柱 そうですね。秀頼の活躍する話聞きたかったですね。ホントかどうかわかりませんが真田丸近くの公園の周りでは今も白骨が見つかるそうです。それは真田丸からの大虐殺の名残りだとか。その後墓地となった時代を経てもまだ見つかるか…とか、こんなオカルトみたいな話にも思いを馳せます。南宗寺の話は本人か影武者が死んだと思っています。秀忠と家光が参ってるのだから敬意を払う対象なのは間違いない。大坂方優勢の話が好きです。
織田頼長は豊臣を滅亡に追いやった大戦犯w
大河ドラマ真田丸を見ましたが、🤔市橋先生のお陰で🎓🧐真田幸村の考えが詳細に解りました。へー!歴史実はめちゃくちゃ深いですね!😑ありがとうございます。ユリさーん🤗お綺麗ですねー💓💦次も楽しみに待ってます!🎓📲凄く解り易いです。ありがとうございました。🗾🇯🇵
秀頼、急に大勢の人が集まってしまって、統率が難しくなってしまったのでしょう。武士を集めたのは防衛のためなのでしょうが、それが返って禍してしまったのかも。防衛というのは難しい選択の連続なのでしょうね。考えさせられます、また次回が楽しみです。
真田丸の後藤又兵衛は、哀川翔さんでしたね。本多忠勝は、初代仮面ライダーの藤岡弘さんでした。あれから私の仲では、本多さんのイメージは藤岡弘さんで固まっています。😄
こんばんわ(^^)/皆さんがコメントされてましたので…大坂五人衆に毛利勝永でなく、木村重成とされてたので、ちょっと調べてみました。・大坂三人衆:真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親・大坂五人衆:上の3人と後藤基次(又兵衛)、明石全登・大坂七人衆:上の5人と大野治房、木村重成となってましたね。
ありがとうございます。七人衆と五人衆が混ざってしまっていますね。すみませんでした。大坂の陣では重要人物であることにはかわりないです。
@@history-channelさん、いえいえ(*_*;数字の事ですから(笑)人それぞれだと思います。毛利勝永の事も教えてください、よろしくお願いします。
毛利さん、夏の陣で大活躍しますもんね。
市橋さん、お疲れ様ですヨ!冬の陣の始まりですねえ!大坂の陣をまた最初から見直してきましたよ!楽しみ楽しみですヨ!この時の徳川家康の戦略はさすがですよ、圧倒的兵士の数で短期決戦に持ち込めたのにしなかった、それは、精神的ダメージを、与える為にジワジワっと進軍させている、この時の戦略も徳川家康のイメージダウンになっています、ジワジワっと攻めるのですから、精神的ダメージは相当だと思いますよ!www
秀忠と家光が堺に参拝したんですか!ロマンある話ですね!
堺は地元ですが、南宗寺に行くと意外とこの話は真実味がありますよ。あと、大阪に柏市はないので、柏原市でしょうね。
大阪城に入った浪人衆達は、現代では金銭で雇われた烏合の衆のイメージですが、当時もそうだったのでしょうか?又は、豊富家が公式に雇用した家来という位置づけだったのでしょうか?浪人の集まりと思うのと、豊臣の家臣と思うのと、また違った見方ができると思い質問させていただきます。
毛利勝永のことも取り上げてください、豊臣家への忠節では1番の武将です。冬の陣での働きぶりも凄まじいものがあった。
1回1回詳しく掘り下げてくれるのでとても楽しいです。ありがとうございます。私は豊臣派ですが今度三河の方に行くので岡崎城の方に行っていろいろ見てみます。あとサムネイル画像を赤枠にすると再生済みのように見えるのでしない方が良いかと思いました。
赤枠はよくないんですね😃次回から、変更してみます。
大阪側は大軍を集めると、結局は極論になっちゃうんでしょうね。纏まってない軍団では強力なリーダーシップでもない限りは折衷策なんて採れなかったのでしょうね。
千葉県に柏市はあるが、大阪府に柏市はない。柏原(かしわら)市でしょうか?
大阪府柏市というのは、おそらく柏原市のことでしょうか。
淀君、淀君ってなんども呼んでますが、この呼称は学問的ではないのだと認識していましたが、どうなんでしょうか。どちらかというと、三文小説の呼称ではないですか。
市橋先生に質問があります。ズバリ秀頼は大野治長の子でしょうか?
え、毛利勝永は?
かつらさんに同感毛利勝永は???木村重成は豊臣直心では?
五人衆の1人は毛利勝永だったはず!
素敵なコンクールですね。たくさんの応募があることを願っています。これから楽しみですね。
後藤基次が黒田家家臣時代に朝鮮の役(どちらか分かりませんが)へ参陣。当主長政が敵武将と一騎打ち?になっていたところを基次は助太刀せず見物していた。このような内容の話を何処かで聞きました。長政の力量を信頼していたからなのか?それとも既に不仲だったから助太刀しなかったのか?あれこれ考えを膨らませるのが歴史の醍醐味だと思います。
おお、作文コンクールでは、諱を使用してもOKということでしたか。死後だし、「公」もついているし。
大阪の陣では浪人衆ばかり取り上げられていますが。直臣衆は何人くらいいたのですか?65万石ということは約2万ですか?それとも財力にモノを言わせて、もっと抱えていたとかはありですか?その辺りおねがいします。七手組、木村重成、大野治長、治房、道犬。このあたりしか。全部で10万とか。そのうち強兵のみで5万5千ですか?その辺りもお願いします。
毛利勝永だとばかり思っていました
後藤、淀→鳩派、冬の陣で優位後即講話へ真田、明石→中道、徹底的に優位になるまで徳川を叩いてから一方的優位な講話条件にもっていく毛利、長曽我部、大野(弟)→鷹派、講話は許さない、徹底交戦大野治長、秀頼→できる限り有利に徳川に従属だったはず
毛利勝永は大阪五人衆では?
五人衆は木村重成ではなく毛利勝永ですよ。
後藤又兵衛は 夏の陣の前哨戦で討死していますよね
03:28本編
元々今川に人質として召し出されたのが、家康と同じ日に産まれた側室の子らしいですね。本当の家康は寺に隠され、後藤又兵衛に討たれたのは側室の子家康(影武者)、その後家康討死後、密かに家康として本家を継いでるそうですが真実はどうなんでしょうね?本来今までの血縁関係が無いながらも本家血筋、入れ替わった後には実子とも面会していないところを観ると、入れ替わっているのが露呈しない為と取れますね。
本多忠勝もぜひお願いいたします
一つ疑問だが、豊臣家は何故大勢の浪人しか組織編成出来なかったのか。豊臣家は約60万石の大名であるから浪人に加え2〜3万の軍勢を領国から動員出来たはず。
その浪人が率いてた軍勢は約5万だぞ?その5万は当然領国から動員してる
淀君に言いたい、豊臣は元々織田の家臣でしたよ。と。家康は同盟者、格が違いますね元々。
明石全登は浮田秀家の家臣です。大阪城に入城し豊臣家に付く条件はキリスト教を認める事しかなかった。
茶々はなんで素直に降伏して隠居するなり石田三成とか真田幸村と距離を置かなかったんだろうか?、負けるの確定なのに
そんな、限られた案内されても、、、
家康が夏の陣で命を落としていたとは考えにくいですが、では何故、何のために南宗寺に家康の墓を建て、秀忠や家光がお参りしたのか?家康が食あたりで亡くなったとされる天ぷらを出した茶谷四郎が何のお咎めも無かった事と合わせて、とても疑問です。ミステリーはいつまでもミステリーで良いのかもしれませんが‥
そのミステリーはある程度解明されてるけど、ミステリーで良いと思う
つまり、関ケ原後に領地没収して明や南蛮諸国の影響が無い地域の切り取り次第をやり、架空戦記やパラドゲー名物の樺太藩、羽合藩、小笠原藩どころか、濠太剌利藩やアラスカ藩をやってれれば大阪の役は起きなかった可能性もあるのかな?
質問なんですが家康は豊臣を滅ぼすつもりはなかったと豊臣の人達は知っていたんですか??どの条件呑んでもそのあとイチャモンつけられたら対処できなくなると思うのですが…
後で論じられたことでしょう。ただ、夏の陣の際は、秀頼も淀殿も徳川の条件をのみ、滅亡への道を選ばなかったとが明らかになっています。残念です。
@@市橋章男 個人的な意見なのですが、町民達の柿の童謡からも家康が死ねば次は秀頼の時代だと町民たちですら思い、また後継者の秀忠では、秀頼には勝てないだろうと言う宣教師の記述もあったとかそのような豊臣徳川外の人達ですらそう思うのに、なぜ家康は豊臣家を生かそうとしたのですか?豊臣家を滅ぼした方が今後の憂いは無くなると思うのですが?何度も質問してしまいごめんなさい🙇♂️
萩藩閥閲録遺漏(この史料が正しいなら)徳川家康の考えは夏の陣の総大将は息子だから息子に決定権がある。徳川秀忠冬の陣後に一度は和睦したにもかかわらず再度合戦を選んだのは豊臣家だから徹底的にやるというスタンス合戦が始まってから和睦するなら豊臣秀頼の切腹が最低条件になるけど、淀殿は条件を飲まないだろうから和睦は無理でしょう
秀頼が公家になってたらさすがに家康も滅ぼせない公家は朝廷の人だからそこに手出ししたら逆賊だからね
幕府は京都所司代使って不貞働く公家を取り締まり、何人か死罪においこんでいる。
真田は九度山では無く遠島なら大坂の陣には参加できず長生きした。宇喜多秀家は遠島でも84歳まで生きた。
美男子と言えば、長宗我部盛親の父親元親は見目麗しい若武者で「姫若子」と呼ばれたと伝わってますが本当なんですかねえ?
真田言われて、毛利言われず
真田信之の正妻小松姫の動画があります。流石、本多忠勝の娘。th-cam.com/video/0YOzBgD_9Hw/w-d-xo.html
この人と、よつばさんの歴史系ゆっくり動画、大好きです🥰
淀殿
大坂夏の陣の翌年(元和2、1616)に駿府城で死去したのは、家康の影武者にして双子の兄弟だった(?)樵暗恵最ではないか?とする俗説もあるそうです。
官兵衛のお前の左手は何をしていたがまた重く感じました
毛利勝永の説明がなーい💦真田が有名ですが勝永の活躍があればこそ!しかもしったり退却して大阪城で切腹勝永の評価が低すぎます
後藤又兵衛は哀川翔です滑舌が絶妙に悪くて笑えます
本多忠勝が真田親子の助命嘆願の際に、助命が叶わないならば家康に1戦仕るってやつちゃんとした歴史的資料ありましたか?後世の創作では
真田家文書に所収される「真田家武功口上之覚」に、真田父子の助命を本多中書(中務大夫)と井伊兵部がともに行ったと記されています。言葉のやり取りについては創作でしょうが、そういう事実はあったようです。
大活躍の毛利勝永がいないのは何で?
皆さんのご指摘の通り、五人衆には木村重成は入っていません。秀頼の側近、直臣だったということで、毛利勝永が五人衆の一人です。
間違い・勘違いも多くご迷惑をおかけしました。これからもご指摘をいただければと思います。よろしくお願いします。
得意不得意があります。先生の徳川家康愛は傾聴に値します。私も歴史好きを自認してますが、先生ほど徳川家康を愛している人を見たことがありません。
❤😅
26:05
歴史物の中で最も内容が濃く、説明が最高なのが市橋先生のこのチャンネルです。
出来れば、回数を多く続けて頂ければ有難いと思っています。
どうか、宜しくお願いいたします。
丁寧な解説ありがとうございます。大阪夏の陣こそ淀君の運命の分かれ道、嫌なものは嫌の気持ちはわかります・・・がここに至って豊臣家の存続秀頼公の行く末を考えるべきでしたね。悲しい歴史です
南宗寺の話はロマンですね。私は大坂の谷町六丁目に住んでいます。大坂方の織田頼長という人が冬の陣で陣をひいたらしい場所のようです。北に大阪城、東に真田丸、南に空堀と大坂の陣の話に浸るには良いロケーションだと自負しています。先生のお話を拝聴しながら今回もイメージをふくらませてニタニタと笑っております。いつもありがとうございます。
今は引っ越しましたが、高校まで僕は松屋町に住んでました。ご近所さんですね。空堀商店街とか大阪城の縁のものが身近にあったため、大坂の陣で滅んだのは悲しいですね
@@暇柱 そうですね。秀頼の活躍する話聞きたかったですね。ホントかどうかわかりませんが真田丸近くの公園の周りでは今も白骨が見つかるそうです。それは真田丸からの大虐殺の名残りだとか。その後墓地となった時代を経てもまだ見つかるか…とか、
こんなオカルトみたいな話にも思いを馳せます。
南宗寺の話は本人か影武者が死んだと思っています。
秀忠と家光が参ってるのだから敬意を払う対象なのは間違いない。
大坂方優勢の話が好きです。
織田頼長は豊臣を滅亡に追いやった大戦犯w
大河ドラマ真田丸を見ましたが、🤔市橋先生のお陰で🎓🧐真田幸村の考えが詳細に解りました。へー!歴史実はめちゃくちゃ深いですね!😑ありがとうございます。ユリさーん🤗お綺麗ですねー💓💦次も楽しみに待ってます!🎓📲凄く解り易いです。ありがとうございました。🗾🇯🇵
秀頼、急に大勢の人が集まってしまって、統率が難しくなってしまったのでしょう。武士を集めたのは防衛のためなのでしょうが、それが返って禍してしまったのかも。防衛というのは難しい選択の連続なのでしょうね。考えさせられます、また次回が楽しみです。
真田丸の後藤又兵衛は、哀川翔さんでしたね。
本多忠勝は、初代仮面ライダーの藤岡弘さんでした。
あれから私の仲では、本多さんのイメージは藤岡弘さんで固まっています。😄
こんばんわ(^^)/皆さんがコメントされてましたので…
大坂五人衆に毛利勝永でなく、木村重成とされてたので、ちょっと調べてみました。
・大坂三人衆:真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親
・大坂五人衆:上の3人と後藤基次(又兵衛)、明石全登
・大坂七人衆:上の5人と大野治房、木村重成となってましたね。
ありがとうございます。七人衆と五人衆が混ざってしまっていますね。すみませんでした。大坂の陣では重要人物であることにはかわりないです。
@@history-channelさん、いえいえ(*_*;数字の事ですから(笑)人それぞれだと思います。毛利勝永の事も教えてください、よろしくお願いします。
毛利さん、夏の陣で大活躍しますもんね。
市橋さん、お疲れ様ですヨ!冬の陣の始まりですねえ!大坂の陣をまた最初から見直してきましたよ!楽しみ楽しみですヨ!この時の徳川家康の戦略はさすがですよ、圧倒的兵士の数で短期決戦に持ち込めたのにしなかった、それは、精神的ダメージを、与える為にジワジワっと進軍させている、この時の戦略も徳川家康のイメージダウンになっています、ジワジワっと攻めるのですから、精神的ダメージは相当だと思いますよ!www
秀忠と家光が堺に参拝したんですか!ロマンある話ですね!
堺は地元ですが、南宗寺に行くと意外とこの話は真実味がありますよ。
あと、大阪に柏市はないので、柏原市でしょうね。
大阪城に入った浪人衆達は、現代では金銭で雇われた烏合の衆のイメージですが、当時もそうだったのでしょうか?又は、豊富家が公式に雇用した家来という位置づけだったのでしょうか?浪人の集まりと思うのと、豊臣の家臣と思うのと、また違った見方ができると思い質問させていただきます。
毛利勝永のことも取り上げてください、豊臣家への忠節では1番の武将です。冬の陣での働きぶりも凄まじいものがあった。
1回1回詳しく掘り下げてくれるのでとても楽しいです。ありがとうございます。
私は豊臣派ですが今度三河の方に行くので岡崎城の方に行っていろいろ見てみます。
あとサムネイル画像を赤枠にすると再生済みのように見えるのでしない方が良いかと思いました。
赤枠はよくないんですね😃次回から、変更してみます。
大阪側は大軍を集めると、結局は極論になっちゃうんでしょうね。
纏まってない軍団では強力なリーダーシップでもない限りは折衷策なんて採れなかったのでしょうね。
千葉県に柏市はあるが、大阪府に柏市はない。柏原(かしわら)市でしょうか?
大阪府柏市というのは、おそらく柏原市のことでしょうか。
淀君、淀君ってなんども呼んでますが、この呼称は学問的ではないのだと認識していましたが、どうなんでしょうか。どちらかというと、三文小説の呼称ではないですか。
市橋先生に質問があります。
ズバリ秀頼は大野治長の子でしょうか?
え、毛利勝永は?
かつらさんに同感
毛利勝永は???
木村重成は豊臣直心では?
五人衆の1人は毛利勝永だったはず!
素敵なコンクールですね。
たくさんの応募があることを願っています。
これから楽しみですね。
後藤基次が黒田家家臣時代に朝鮮の役(どちらか分かりませんが)へ参陣。当主長政が敵武将と一騎打ち?になっていたところを基次は助太刀せず見物していた。このような内容の話を何処かで聞きました。
長政の力量を信頼していたからなのか?それとも既に不仲だったから助太刀しなかったのか?
あれこれ考えを膨らませるのが歴史の醍醐味だと思います。
おお、作文コンクールでは、諱を使用してもOKということでしたか。死後だし、「公」もついているし。
大阪の陣では浪人衆ばかり取り上げられていますが。
直臣衆は何人くらいいたのですか?
65万石ということは約2万ですか?
それとも財力にモノを言わせて、
もっと抱えていたとかはありですか?
その辺りおねがいします。
七手組、木村重成、大野治長、治房、道犬。
このあたりしか。
全部で10万とか。
そのうち強兵のみで5万5千ですか?
その辺りもお願いします。
毛利勝永だとばかり思っていました
後藤、淀→鳩派、冬の陣で優位後即講話へ
真田、明石→中道、徹底的に優位になるまで徳川を叩いてから一方的優位な講話条件にもっていく
毛利、長曽我部、大野(弟)→鷹派、講話は許さない、徹底交戦
大野治長、秀頼→できる限り有利に徳川に従属
だったはず
毛利勝永は大阪五人衆では?
五人衆は木村重成ではなく毛利勝永ですよ。
後藤又兵衛は 夏の陣の前哨戦で討死していますよね
03:28
本編
元々今川に人質として召し出されたのが、家康と同じ日に産まれた側室の子らしいですね。本当の家康は寺に隠され、後藤又兵衛に討たれたのは側室の子家康(影武者)、その後家康討死後、密かに家康として本家を継いでるそうですが真実はどうなんでしょうね?本来今までの血縁関係が無いながらも本家血筋、入れ替わった後には実子とも面会していないところを観ると、入れ替わっているのが露呈しない為と取れますね。
本多忠勝もぜひお願いいたします
一つ疑問だが、豊臣家は何故大勢の浪人しか組織編成出来なかったのか。豊臣家は約60万石の大名であるから浪人に加え2〜3万の軍勢を領国から動員出来たはず。
その浪人が率いてた軍勢は約5万だぞ?
その5万は当然領国から動員してる
淀君に言いたい、豊臣は元々織田の家臣でしたよ。と。
家康は同盟者、格が違いますね元々。
明石全登は浮田秀家の家臣です。大阪城に入城し豊臣家に付く条件はキリスト教を認める事しかなかった。
茶々はなんで素直に降伏して隠居するなり石田三成とか真田幸村と距離を置かなかったんだろうか?、負けるの確定なのに
そんな、限られた案内されても、、、
家康が夏の陣で命を落としていたとは考えにくいですが、では何故、何のために南宗寺に家康の墓を建て、秀忠や家光がお参りしたのか?家康が食あたりで亡くなったとされる天ぷらを出した茶谷四郎が何のお咎めも無かった事と合わせて、とても疑問です。
ミステリーはいつまでもミステリーで良いのかもしれませんが‥
そのミステリーはある程度解明されてるけど、ミステリーで良いと思う
つまり、関ケ原後に領地没収して明や南蛮諸国の影響が無い地域の切り取り次第をやり、架空戦記やパラドゲー名物の樺太藩、羽合藩、小笠原藩どころか、濠太剌利藩やアラスカ藩をやってれれば大阪の役は起きなかった可能性もあるのかな?
質問なんですが
家康は豊臣を滅ぼすつもりはなかったと豊臣の人達は知っていたんですか??
どの条件呑んでもそのあとイチャモンつけられたら対処できなくなると思うのですが…
後で論じられたことでしょう。ただ、夏の陣の際は、秀頼も淀殿も徳川の条件をのみ、滅亡への道を選ばなかったとが明らかになっています。残念です。
@@市橋章男 個人的な意見なのですが、町民達の柿の童謡からも家康が死ねば次は秀頼の時代だと町民たちですら思い、また後継者の秀忠では、秀頼には勝てないだろうと言う宣教師の記述もあったとか
そのような豊臣徳川外の人達ですらそう思うのに、なぜ家康は豊臣家を生かそうとしたのですか?豊臣家を滅ぼした方が今後の憂いは無くなると思うのですが?
何度も質問してしまいごめんなさい🙇♂️
萩藩閥閲録遺漏
(この史料が正しいなら)
徳川家康の考えは夏の陣の総大将は息子だから息子に決定権がある。
徳川秀忠
冬の陣後に一度は和睦したにもかかわらず再度合戦を選んだのは豊臣家だから徹底的にやるというスタンス
合戦が始まってから和睦するなら豊臣秀頼の切腹が最低条件になるけど、淀殿は条件を飲まないだろうから和睦は無理でしょう
秀頼が公家になってたら
さすがに家康も滅ぼせない
公家は朝廷の人だからそこに手出ししたら逆賊だからね
幕府は京都所司代使って不貞働く公家を取り締まり、何人か死罪においこんでいる。
真田は九度山では無く遠島なら大坂の陣には参加できず長生きした。宇喜多秀家は遠島でも84歳まで生きた。
美男子と言えば、長宗我部盛親の父親元親は見目麗しい若武者で「姫若子」と呼ばれたと伝わってますが本当なんですかねえ?
真田言われて、毛利言われず
真田信之の正妻小松姫の動画があります。流石、本多忠勝の娘。
th-cam.com/video/0YOzBgD_9Hw/w-d-xo.html
この人と、よつばさんの歴史系ゆっくり動画、大好きです🥰
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淀殿
大坂夏の陣の翌年(元和2、1616)に駿府城で死去したのは、家康の影武者にして双子の兄弟だった(?)樵暗恵最ではないか?とする俗説もあるそうです。
官兵衛のお前の左手は何をしていたがまた重く感じました
毛利勝永の説明がなーい💦
真田が有名ですが勝永の活躍があればこそ!
しかもしったり退却して大阪城で切腹
勝永の評価が低すぎます
後藤又兵衛は哀川翔です
滑舌が絶妙に悪くて笑えます
本多忠勝が真田親子の助命嘆願の際に、助命が叶わないならば家康に1戦仕るってやつ
ちゃんとした歴史的資料ありましたか?
後世の創作では
真田家文書に所収される「真田家武功口上之覚」に、真田父子の助命を本多中書(中務大夫)と井伊兵部がともに行ったと記されています。言葉のやり取りについては創作でしょうが、そういう事実はあったようです。
大活躍の毛利勝永がいないのは何で?