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孫権の人を見る目は天才的だったけど、だからこそ人間不信になったのかもしれませんね〜「自分は担がれるだけの神輿で、形だけの敬意を払うだけで臣下の内心は派閥の拡大しか考えていない。」と感じたら疑心暗鬼になるだろうし…
兄弟揃ってそれぞれ国家の柱石になってる諸葛さんとこの兄弟ホント凄いな
「晩年に暴君化した」と言ってしまえば説明としては楽なんだけど、暴君なら暴君なりに何かの判断材料とかがあって選択しているわけで、そういうところを掘り下げた考察動画を見ることができて楽しかったです。
誰かの受け売りではありますが、この言葉を捧げてみます。「周囲に少し惜しんで貰えている内に、天寿を全う出来るのが幸せだ」
若い時は、人材コレクターの曹操が褒めるほどだったのに…。
こうして見ると豊臣秀吉の晩年にも通じるところがあるんですね。後継者問題諫臣の先没事業の頓挫そこに加齢による身心の負担が加わってなお善政を行えってのが無理な話なのか…代わって欲しくても後継者いないし…まさしく悲惨ですね…勉強させていただきました!
しっかり孫権の立場から物事を考えられてて好感が持てる内容でした皇帝が疑心暗鬼になるのもある程度やむを得ないところがありますね
様々な角度から考察されていて非常に興味深かったです。とりわけ寒門を登用する理由にはなるほどと感心させられました。
物腰柔らかく諫言できる、諸葛瑾の存在は大きかったのですね。本人は地元出身でなく、孔明の実兄で蜀との内通を疑う輩もいる中で孫呉の中核を担い続けた政治力と人間力は素晴らしいものだったのでしょう。
父から見れば長く、兄から見れば短期間とはいえ強烈なリーダーシップで纏まってた集団を引き継ぎ拡大したのはホントにスゴい
やはり張昭や諸葛瑾がいなくなってしまったのが大きかったのかな...。口煩いけどなんだかんだで頼りになるお父さんみたいな人と色々なことを相談出来たお兄さんみたいな人を亡くしてしまった所に期待してた息子まで亡くしてしまったらね...。
特に諸葛瑾の存在は大きかったと思いますね
陸遜との関係は孫氏が陸氏に比べ格下だった事も大きな要因だったのでしょうね張昭や諸葛瑾といった徐州出身者が家臣団のトップである事は孫権の精神安定上も重要だったのかもしれません
張昭と諸葛瑾が孫権暴走の名ストッパーだったね確かに諸葛瑾が亡くなった(241年)あたりから危うくなってくる
長生きでしかも劣化しなかった司馬懿は偉人だわ。
よくできた息子もいましたしね
曹氏も孫まで、司馬氏も孫まででしたね。遺伝子も劣化するのか?
司馬懿本人はあくまで臣下であったのもありそう…
年を重ねる事に冴えわたる智謀の恐ろしさよ
孫の司馬炎は天下取ったら一気に劣化したし、皇帝菩薩・符堅・玄宗は晩年やらかしたし、乾隆帝も晩年は耄碌してしまったし、日本史でも大友宗麟は晩年やらかして滅亡寸前まで追い詰められたから生涯名君で居続けるって大変だなあ
孫権が晩年に暴君化したという事象だけでなく、そうなってしまった背景まで説明していただき大変興味深い内容でした。「誰が言うかが大事」というのはどの時代にも当てはまる言葉ですね。
朱然ではなく陸遜を選択したのは確かに素晴らしい判断です。結果として、陸氏以下名門の権力強化に繋がったのでしょうが。
日本史に当てはめると、重盛に先立たれた平清盛秀長に先立たれた豊臣秀吉みたいな晩年かな?あと、諫言や苦言を呈する人がいなかったとありますが虞翻の末路を見てその二の舞いは御免だと周囲は考えていたりして?
【何を云うかデはなく誰が云うか…人間はそれで他者の話を聴く】ってのが突き刺さりました!
論破自慢なんてのが、なんと見当違いなことかと思ったりしちゃったり……(笑)
現代の企業でも、創業した初代は思い切ったことを出来るけど二代目以降となると「代表であっても組織の歯車の一部」という感じになり独断専行は憚られる。孫権は呉の初代皇帝になった事もあり、張昭、諸葛瑾の没後は「自分が初代。だから自分が君主権力を確立しなければならない」と考えていたのかもしれない。
うぽつです。久しぶりの呉特集うれしいです!最近は孫権の晩年や呉末期についてゲーム等で取り上げられる事も増えてきましたが、その背景について深く分かりやすく考察した動画は貴重だと思います。 二宮の変〜その後の呉を見ていると孫権の一番の失敗は、・孫静の息子の孫暠を処刑しなかったこと・孫和を立太子した後、その母である王夫人を皇后に格上げせず全公主(孫魯班)が後宮に介入する隙を作ったことこれら二点だと思いますね。
孫呉の危機では毎度傍系皇族が結構危ない動きしてますもんね…
@@matukawatositane そうなんですよね。孫暠助命も叔父の孫静の嘆願による所が大きいですし、孫権は臣下だけでなく、同じ孫氏相手にも気を遣わざるを得ない立場だったのかなと思います。そうした『甘さ』が後に傍系皇族による介入と暴走を生み、孫和の不幸や孫皓の皇族に対する徹底した排斥に繋がったのでは…と思うと皮肉ですね。
@@ななしのよっすん つくづく孫家の正当性無さが辛いですねえ…
豬武者だった呂蒙の才能を見抜いて学問を薦め、結果呂蒙は関羽に勝つ程の知勇兼備の名将になった話なんかは三國志一の名君なんじゃないかと思うレベルなんですけどね、やはり呂壱事件は専制君主を目指して失敗した事件だったのかな?とも思いますね
晩節を汚すという言葉がありますが人間は老いると頑固になったり思考が固まったりして冷静な判断が出来なくなるのかも
張昭は、孫権を軽んじる傾向があっても、孫権を裏切らないという点ではとことん信用できた。剛直すぎるほど誠実な人格で、流寓の名士だから地縁に縛られず基盤もない。対土着豪族という点では孫権と張昭は同じ側にいた。孫権末期の重臣は、基本的に揚州の名族で地縁に縛られてて基盤持ってるんで……
少し長い動画…?気が付いたら終わってた、ってくらい引き込まれました。いつも興味深い考察をありがとうございます。
うーむ難しいものですなあ、猜疑心の塊になって長年の功臣を疑うようになった劉邦でも、張良や曹参の言葉は聞いたというし。孫権に足りなかったものを指して、「天命」、「天運」というのかもしれませんね。
おお、すごく面白い見方だ。しかもしっかりまとまっている。素晴らしい。陸遜は軍才・家格・人格あったが政治には手を出さなかった。政治まで得てしまうと君主を上回りかねないので、呉を割る羽目になると見たからではないか。(その配慮も二宮の変で意味無くなってしまったけど…)孫権は若くして君主となり師を得たが、なまじ長くその座にあったから師を持てなくなったのだろうか。まあ自分や孫家に対する忠誠の根拠は、と疑うといくらでも疑えてしまう地盤だしな…
軍事面の実権を陸遜という揚州豪族に抑えられてしまった、というのも意外と大きいような気がします。陸遜の前任をみると魯粛、呂蒙は非揚州系、周瑜は一応揚州系ですが孫策の盟友という色の方が強くあまり豪族代表という感じではない。ただでさえ内政面で主導権を取られているような状態で軍事面まで揚州豪族に主導権を取られたとなれば・・・いかに陸遜を信頼しているとはいえなかなか心穏やかとはいかないでしょう。それになによりもお飾り感が増してしまう。それでも張昭や諸葛瑾がいた間はまだバランスが保たれていたが、両者がいなくなってからはバランスがうまく取れなくなってしまった。そしてなんとかトップとしての権限を確保しようと孫権が躍起になった結果がこれ、と。孫瑜、孫皎、孫桓・・・この辺の一門衆が生きていれば多少は緩和されていたのかな。あと、孫登が早逝してしまったのは確かに悔やまれますが・・・孫呉という国家の形が変わらない以上孫権と同じような壁にぶつかっていた可能性が大きいような気もします。あるいは魏と同じように豪族に飲み込まれたか。
陸遜ひとりに権力が集中しすぎたというのも呉の歪さだったのかもしれませんね。同時代に諸葛亮がいるので感覚が麻痺しがちですが、国のナンバー2に主導権を握られている状態というのはリーダーからすれば危ういものです。孫権=守成の君主・天下への野心が無い君主という印象が長年三国志ファンの間に定着していますが、はたしてそれは本当なのかと最近では思いますね。
孫瑜は曹操の意向で後漢から正式に官位受けてるのが若干危ない感じはするかな
張昭や諸葛瑾のような北来の名士は、土着の勢力を持つ江東名士と違い孫呉の本拠地である江東で自立する経済的基盤がなく、常に孫呉政権へ寄りかかる必要があり、孫権の君主権力がある程度強くないと生きていけないからこそ孫権も信頼できたのかなぁと思いますねそしてそんな彼らの勢力が弱まったあとに、二宮事件………
地元の人間より他所から来た人間の方が孫権にとって頼れる存在だったのかもしれないですね。太子孫登が死に、その後任が呉の名士豪族との縁戚関係が濃い孫和になったことが孫権の迷いを生んだのかも?孫和の子で後の皇帝である孫皓も、陸氏を立場上は優遇しつつ身分の低い者や呉との地縁が薄い人物を重用していたり、孫権と似たような事をしているように見えますね。
@@ななしのよっすん 後は、孫呉の正当性の弱さっていうのもあるのかなと思いますね。漢から禅譲を受けた魏、漢の正当後継を主張する蜀に対して呉はその国家の正当性を主張するものが曖昧だから、是が非でも君主権力を確立しないといけない名士に取り込まれると、赤壁において魯粛が主張したとおり(有力な名士は地元に勢力があるので降伏しても官職に就けるが、孫家はそうではない)になり、国家の存続に関わってきますからね……
「敗けてはいけない局面で敗けない」日本だと信長にも同じ事が言えますね。
諫言出来る信頼できる人物が居る間に次の後継者を発掘、育成するしか無いのか。
孫権の晩節を見ていると、歳の取り方は大事だなぁとヒシヒシ。誰もが皆、いずれは師を失っていくわけだから…。
長宗我部元親も似てますね。こちらはまず、有望だった息子が亡くなり、弟の親泰までもが死んでからは完全に歯止めが利かなくなった…。
豪族の寄り合い所帯の脆弱な政権だった孫権政権がいかにあそこまでの強権を得ることが出来たかも不思議ですよね
嫌っていても信頼出来る人物と息子が死去したのが孫権のメンタルを壊したかとここで名士豪族の問題が解決していれば、孫権が道を外すことがなかったかも
それもあるかもだけど練師が死んだのもその一つかも…
期待していた跡継ぎの長男が死んでしまって老け込んでしまったのかな?と思いました。やっぱり、在位が長すぎて緊張を保てなくなったんでしょうな。そう考えると死ぬ間際まで冷徹だった曹操って凄いですな。
まぁ曹操は曹操で…という感も
なるほどなぁ。納得しちゃった。個人的考察とおっしゃいますが僕はそれを重要視してこのチャンネルを観てます!!だって客観的事実だけならwikiでも良い訳ですしね仮に自分とは違う意見でもそれはそれで新鮮ですし毎回とても楽しんでいますし今後も楽しみにしています!
陸遜を憤死させたのは最大の落ち度
中心派閥が弱いと大派閥同士の内乱がいずれ起こる結局、どうやっても孫呉は崩壊する運命だったとしか言えない
結局根本的な理由は「皇帝になってしまったから、ならざるを得なくなったから」という身も蓋もない話なのかもしれない?
ローマのネロも同じ感じかな。
鎌倉時代から32代にわたって薩摩を支配し「島津に暗君なし」と呼ばれた島津家は本当にすごいと思いました。
かつて曹操が自分の息子や後継者にするのは誰が良いかと訪ねらた時に孫権と答えた事がある。曹操も孫権の政治家としての能力を評価していた事がある。
解説ありがとうございます。琅琊諸葛氏のことがもっと知りたいですね
周瑜が大都督時には越権行為を見逃したり我慢強い君主だったのにな。
28:12 酒宴で諸葛瑾相手に悪ふざけ(顔に諸葛子瑜と書いた驢馬を持ってこさせた)して諸葛瑾の息子・諸葛恪にやり返された(諸葛子瑜の下に「之驢」と書いた)話は有名。
能力を見極める力もだけど、人心てのを掴む技術がすごいですね人の心理を理解して、それを上手く利用できてたんだろうな
曹魏は名士に飲み込まれたが、孫呉は名士に抗って潰れた。
父と兄を早くに失って君主に就けば降伏か抗戦かの決断を迫られ。周瑜や魯粛、呂蒙もこの世を去り、その上に可愛いがっていた皇太子にまで先立たれたのは不憫でならない。
周瑜や魯粛が長生きしていたら少しは違っていたかも....。呉は豪族の集合体って印象があるから遅からず分裂していたかも....。
魏晋南北朝時代でも似た人物がいました。蕭衍です。やり方は違うど、晩年は耄碌して仏教に走ったり、侯景を引き入れて国を滅ぼす原因を作ったりと色々やらかしています。
若いころから片鱗はあったからなー、年を取って理性が衰えたのといさめてくれる人が没していったのが大きいかと。
さすがの切り口、考察ですね。皇帝としての在位期間が長かったことが、晩年の臣下たちとの信頼関係に影響したんでしょうかね。仮にすぎるけど、孫策がもう少し長生きして、かつ有力な子供がおらず、孫権が30代後半や40代で引き継いでいれば、という年齢に対する仮説。
とても分かりやすくて勉強になりました。石亭の戦い以降、呉の存在感が空気になったのは、孫権の暴君化が始まったことが理由かもしれませんね。
最近、孫権晩年についてはずっと考えてたが最終的には皇帝権威の確立が最大の問題だったんだろうなぁと…豪族連中からしたら別に孫家でなくてはならないかというとそうでもないからね結局呂壱事件も二宮の変もそこが根底かな
長宗我部元親と信親 孫権と孫登後継者が死ぬと心にくるのかな?
この二人は有能だったからなおさら…。
暴君になれるのは能力のある証なんてことを言う人もいますよね
人間の能力は限界があり、一つに秀でると、他は劣る。あとは、人は言うほど変わらなくとも、回りが変わってしまう。
孫権が耄碌したのはストッパーの張昭や諸葛謹が死んでから呂壱事件や二宮の変を起こした。呉は豪族の連合政権の側面が強かったからその辺の気苦労が絶えなかったかも。
そもそも長期にわたって君臨して最後まで名君だったほうが少ないのでは?
締め付ければ恨まれる、緩めれば舐められる。それが連合政権の長。
呉が裏切って荊州を攻めたのは、パッと見たら完全に悪手だと思うんですけど、どうなんですかね?これが結局均衡を崩して、蜀が滅亡し結果的に呉の滅亡に繋がったと個人的に思ってるんですけど。蜀を攻めるなら魏の国力が弱まってからの方がよかった気がしてしまう。
周瑜死後に計画を引き継いだ孫瑜が益州に軍を率いようとしたら「自分の同族を攻め込むなら背後から襲ってやるからな」と言って脅し、「益州を平定したら借りていた荊州は返す(^^)」と言っておいて平定後に返還要望の使者を送ったら「やっぱ涼州とったら返す(^^;」なんて言われたら力づくでも取り返してやるってなるよ裏切ってるのは劉備が先
いつも楽しく拝見しています^ ^「暗君」が何故生まれるのかを深く考えたことなかったので、とても面白かったです(*´∀`*)
張昭との中の悪さや、諸葛瑾を重用しつつも「諸葛子瑜」などと馬に書いたり、片鱗は色々と…老境で自己を抑えられなくなり、孫権を上手くあしらえる手綱取りが居なくなっただけ、かも。
孫登が死んだのが一番痛手だったように見えてくるな。もちろんこれだけが原因じゃないだろうけれど
「晩年に暴君化した」孫権その暴君ぶりは孫の孫晧の時に決定的になる
呂壱の官職は非常に珍しい「中書典校郎」である。この職務は後の南北朝時代には皇帝の秘書だったが、三国時代の曹魏、孫呉政権では「校事官」とも呼ばれた。清代の《癸巳存稿》は、この官職の性質をこう説明している:“魏呉有校事官,似北魏之侯官,明之廠衛“。明代の錦衣衛と東廠のように、中央と地方の各州郡の文書を監視する特務機関である。
彼のした行為:建安太守鄭胄を誹謗し、江夏太守刁嘉を中傷した、左将軍である朱據が軍資金を横領したと告発、朱據の財務官を拷問して死亡させた。そして最も代表的な行為:丞相顧雍を誹謗中傷する。呂壱が勢力を得ることができたこと自体が、晩年の孫権が特務統治に依存して政権に脅威があるとされている士人を陥れ迫害したことを示している。
同じように、曹魏政権の校事官も三国志ゲームに登場したことのない人物だ,。趙達と盧洪だ。二人の主な役割は軍人を監視し、朝廷の大臣たちの過失を検挙することだ。この官職の俸給は「秩比二千石」,すでに太守級に近く、君主のそばで密告したり検挙したりしている。最も有名な行為は曹操に尚書郎徐邈の「私酒」を告発することだ,徐邈が密謀していることを中傷しているのと同じだ。曹操が晩年に魏王と呼ばれた時、大漢の朝廷には「不畏曹公,但畏盧洪;盧洪尚可,趙達殺我」と伝えられた。これはすでに校事官が君主の黙認の下で私刑を執行することを暗示している,同時に大臣と武将の日常を盗聴したり、文書を直接遮断したり審査したりすることもできます。
豪族にとって呂壱は目の上のたんこぶそのもので、呂壱に臣下の監視・管理を任せていたつもりの孫権にとっては、陸遜らを始めとする重臣たちが呂壱を強引に排除した様は、「俺たちの好きにさせろ!」という意思表示に見えたのかもしれないですね。
確か曹操につけられたのは治世の能臣、乱世の奸雄じゃなかったか?
逆に父親の「孫堅」や兄の「孫策」が長生きしていたら、どうなっていたか?(まあ、歴史にイフは無い、とは言いますが………)
孫堅が生きてれば、孫家は江東ではなく荊州を基盤とした中央集権化に成功していたかなぁと。いや、それより袁術の強大化があるか(´ . .̫ . `)孫策であれば江東での中央集権体制を確立できそうですね。うまく行けば、天下を狙えるだけの勢いはあったと思います。
まあ孫邵は孔融もその才を認めていた人物なので、この辺りはまだ純粋に能力を評価しての丞相就任だったと思いますね。彼の記録が残っていないのは『呉志』の元となる『呉書』を記録した韋昭が、孫邵と仲の悪かった張温に属する一派だったことが大きいと思います。孫邵の場合実績がないのではなく、記録が抹消された、と見るべきでしょうね。
接続詞や漢字の読み方をちょいちょい直してないの気になる
曹操は「治世の能臣、乱世の奸雄」では?汗
たしか後漢書では逆になってます
@@フレアトマス え、そうなんですか!?それは知らなかったです😅
漫画だがキングダムの政がどう暴君始皇帝になるのか気になる
陸遜の抜擢はすばらしい、現代でも人間を使うのが一番難しいね。でも陸遜の抜擢(孫策が亡ぼしてから衰退した陸家)から既に能力ではなく非主流派を用いて主流派の抑えにするという内部政治的要素だったみたい(呂壱事件も非主流派の孫覇推しも)仁義なき戦いの山守親分みたい
人は60歳を過ぎたら、身を引くのが賢明な身の遇し方だと思う。例外も極稀に存在するが、大体の場合、我が強くなっていて、思考の柔軟性が失われ、自己の成功体験を過信して、部下の忠告を聞かなくなるし、反対意見を言う者を忌避するか下手すると敵視するから・・・
張昭と諸葛瑾が死んでから本格的に暴君化してるような。若い頃から片鱗はあったがこのふたりが上手くやってくれてたか何とかなってたのかな?
ふむふむ、今年だと源氏将軍三代のパラレルで捉えられる。
一番乗り。戦巧者ではなかったにせよ、周瑜・魯粛・陸遜を巧みに用いたところは張良、蕭何、韓信を用いた劉邦に通ずるように見える(張良は酈食其の策の欠陥を見抜いて劉邦を制止しているので諫臣でもある)。ただ、劉邦と異なり名士たちに気を使わなければならなかったことは大きなストレスであっただろう。「二宮の変」での粛清はこれも原因の一つであっただろうし、魏と蜀もそうだが、こういうところに名士を無視できない時代であったことが伺える。呉は孫権の代で最盛期と衰亡期を迎えた。後の皇帝は、言って悪いがオマケも同然と言えよう。
孫権の晩年は日本でいえば秀吉の晩年に似ている。秀吉も諫臣秀長のシから狂っていったし秀次を◯ガイされているし、その一族を◯ガイしている。思えば劉禅も諫臣トウインが亡くなった後国をだめにしていったしやはり諫臣という役割を持つ人の役目と責任は重いことがわかるなぁ。ちなみに秀吉には諫臣居たのだが遠ざけた。
乱世の名君の条件が勝利ってのはその通りだけど、孫権であるなら外交も上げてほしいところ。
秀吉と孫権はなんか似たような暴走をしてしまった感じがするね
学校で習う世界史の授業では黄巾の乱と赤壁の戦いがあって魏蜀呉の三国時代になった、くらいのものだから、三國志におけるそれ以外の部分は全部創作だと思えばよいのだ孫権が暴君と化した、それも創作、本当のところを気にする必要なし、どちらにしろ孫権というキャラクターの人気には関係ないそも名君というが、それもまた、群雄割拠にあって他勢力と渡り合って決して譲らなかった、という点で名君なのであり、リアルな統治の話をしようとすれば、結局よく分からないという結論になっちゃう
直系長子を後継に選ばないと後々の禍根残すのは古今東西証明してますよね
司馬衷「……」
@@KOUMEI_NO_WANADA さまおっしゃる通り、直系長子が全て正しい訳では無いです。が、後継選択を先君贔屓でしくじった史実の方が多いと思います
地域の有力者による民政に近い形態で、時が流れるににつれ名家が力を失っていき、相対的に孫権が暴君となっていった、と習った。
蜀の劉禅の方が、まだ環境としてはマシだったのかなぁ?
ていうか諸葛亮がある意味変わり者というか異常なんですよね。普通あれほどリーダーに信任されて政府のシステム作りからその管理や軍事までほぼ全て自分でやっていれば、何処かで多少なりとも野心や驕り、自分の利益への誘惑や利己心が生まれるものなのに全くそうじゃないので。
@@ななしのよっすん 李厳「解るわ〜」
俺の貴重な約43分間を…素晴らしいものにしてくれてありがとうございます。孫権に対して人間として寄り添ってあげるようなスタンスでのお話、本当に面白かったです。
嬉しい( ;∀;)
間違いなく英雄なんですけどね人間らしい面も多い名君でしたね
歳をとると自分の存在感を誇示するためだけにおかしな行動をする人をたくさん見てきた。たぶん古今東西そうなんだろう。
企業や店舗など城を建てて従業員を雇い様々な取引を行う主体者だと分かるんだけどどんなに正しい選択肢が目の前にあっても外的要因の積み重ねでそれが選べない事ってままあるんだよね大国を率いた孫権についてもそう。優秀な部下が仲介してる間は良かったけど、自身が晩節に入り、忠臣が去り、嫡男が早世し、押したくても正解を押せなかったんだろう多分孫権自身も口惜しかったんだと思います
人間誰だって歳をとれば気も短くなるし、判断力も鈍くなるよ。
正直いって部下が優秀だっただけで問題児の影が薄かったから上手くいってただけだと思う。
「いろんな意味で」後進が育成できていなかったということかな?
曹操も曹丕と曹植のいずれかを後継とするか迷っていたが、最終的に賈詡の皮肉「袁紹と劉表の事を考えておりました」で曹丕を後継者にしたと言われていますよね。その意味で、孫権は曹操に及ばない、「名君」というには微妙な存在と思います。
曹丕を公私両面で後継者に位置付けながら、魏国成立後に「嫡嗣未だ定まらず」と魏国の重臣に曹植と曹丕の優劣を内密に下問した件(崔琰伝・楊俊伝)は曹操も曹操な気はする…
曹操は儒家である名士の力を削ぎ落したかったから彼らの力に対抗する為、詩の才能に長けた曹植に後を継がせたかったただ曹植がアホなこと(司馬門を不許可で通過)やったせいで失脚して曹丕に継がせざるをえなくなってしまったのかと
やっぱ酒かな
若輩の孫権を支えた周瑜や魯粛の存在は大きい。
実を言うと有能な人間ほど奢りやすく暴君になりやすい。夏王朝の紂王、殷王朝の紂王も最初は名君だが、能力に驕り、賢臣の忠告を聞くどころか処罰して暴政したので暴君になった
若い時、有能だった孫権がナゼ暴君化したのか?不思議でしたがそんな悲劇?があったとは、まあ曹丕も九品なんちゃらとかやったのは部下の気を引く必要があったのだろうし皇帝も孤独なので大変ですね。そう思うと変な事にならなっかた劉禅は意外と名君説は案外、本当かも。しかし、まあ歴史とは英雄の、人の運命なんだなあと本当、思います。
劉禅を名君扱いはさすがに……名君らしい功績何もないし
前漢の武帝、明のコウブテイ、清の乾隆帝、秦の始皇帝。
生まれつきの性分だったんじゃないですかね?有力家臣が生きてた間は猫を被ってただけで。実際、呉の後継者達は軒並み暗君・暴君になり、見事に遺伝してますし。
斉の恒公みたいな人
暴君と凡君。どっちが迷惑、主君として仕えたく無いやろ?
殺されない方を…(笑)
晩年の孫権はあの劉禅よりもひどい孫権ファンは信じられないけど事実
劉禅は時代背景と資質がマッチしなかったな。今川氏真と似たタイプの評価で乱世でなければ、引っ張る人を補佐する立場だったらって思う人。
劉禅の場合はそもそも置かれた状況下が無理ゲーだった
呉は豪族の集まりなので孫家は外から来て大将気取りの家としか認識されてないんだよね……そもそも呉の土着民にしてみれば中原とかまるで興味がないから……例え孫権が名君だとしても年々豪族が派閥を大きくしてく仕組みなので晩年に頭おかしくなってもしかたないんだよね。
孫権の人を見る目は天才的だったけど、だからこそ人間不信になったのかもしれませんね〜
「自分は担がれるだけの神輿で、形だけの敬意を払うだけで臣下の内心は派閥の拡大しか考えていない。」と感じたら疑心暗鬼になるだろうし…
兄弟揃ってそれぞれ国家の柱石になってる諸葛さんとこの兄弟ホント凄いな
「晩年に暴君化した」と言ってしまえば説明としては楽なんだけど、暴君なら暴君なりに何かの判断材料とかがあって選択しているわけで、そういうところを掘り下げた考察動画を見ることができて楽しかったです。
誰かの受け売りではありますが、この言葉を捧げてみます。
「周囲に少し惜しんで貰えている内に、天寿を全う出来るのが幸せだ」
若い時は、人材コレクターの曹操が褒めるほどだったのに…。
こうして見ると豊臣秀吉の晩年にも通じるところがあるんですね。
後継者問題
諫臣の先没
事業の頓挫
そこに加齢による身心の負担が加わってなお善政を行えってのが無理な話なのか…
代わって欲しくても後継者いないし…まさしく悲惨ですね…
勉強させていただきました!
しっかり孫権の立場から物事を考えられてて好感が持てる内容でした
皇帝が疑心暗鬼になるのもある程度やむを得ないところがありますね
様々な角度から考察されていて非常に興味深かったです。
とりわけ寒門を登用する理由にはなるほどと感心させられました。
物腰柔らかく諫言できる、諸葛瑾の存在は大きかったのですね。
本人は地元出身でなく、孔明の実兄で蜀との内通を疑う輩もいる中で
孫呉の中核を担い続けた政治力と人間力は素晴らしいものだったのでしょう。
父から見れば長く、兄から見れば短期間とはいえ強烈なリーダーシップで纏まってた集団を引き継ぎ拡大したのはホントにスゴい
やはり張昭や諸葛瑾がいなくなってしまったのが大きかったのかな...。
口煩いけどなんだかんだで頼りになるお父さんみたいな人と色々なことを相談出来たお兄さんみたいな人を亡くしてしまった所に期待してた息子まで亡くしてしまったらね...。
特に諸葛瑾の存在は大きかったと思いますね
陸遜との関係は孫氏が陸氏に比べ格下だった事も大きな要因だったのでしょうね
張昭や諸葛瑾といった徐州出身者が家臣団のトップである事は孫権の精神安定上も重要だったのかもしれません
張昭と諸葛瑾が孫権暴走の名ストッパーだったね
確かに諸葛瑾が亡くなった(241年)あたりから危うくなってくる
長生きでしかも劣化しなかった司馬懿は偉人だわ。
よくできた息子もいましたしね
曹氏も孫まで、司馬氏も孫まででしたね。
遺伝子も劣化するのか?
司馬懿本人はあくまで臣下であったのもありそう…
年を重ねる事に冴えわたる智謀の恐ろしさよ
孫の司馬炎は天下取ったら一気に劣化したし、皇帝菩薩・符堅・玄宗は晩年やらかしたし、乾隆帝も晩年は耄碌してしまったし、日本史でも大友宗麟は晩年やらかして滅亡寸前まで追い詰められたから生涯名君で居続けるって大変だなあ
孫権が晩年に暴君化したという事象だけでなく、そうなってしまった背景まで説明していただき大変興味深い内容でした。
「誰が言うかが大事」というのはどの時代にも当てはまる言葉ですね。
朱然ではなく陸遜を選択したのは確かに素晴らしい判断です。
結果として、陸氏以下名門の権力強化に繋がったのでしょうが。
日本史に当てはめると、
重盛に先立たれた平清盛
秀長に先立たれた豊臣秀吉
みたいな晩年かな?
あと、諫言や苦言を呈する人がいなかったとありますが虞翻の末路を見てその二の舞いは御免だと周囲は考えていたりして?
【何を云うかデはなく誰が云うか…人間はそれで他者の話を聴く】ってのが突き刺さりました!
論破自慢なんてのが、なんと見当違いなことかと思ったりしちゃったり……(笑)
現代の企業でも、創業した初代は思い切ったことを出来るけど二代目以降となると「代表であっても組織の歯車の一部」という感じになり独断専行は憚られる。孫権は呉の初代皇帝になった事もあり、張昭、諸葛瑾の没後は「自分が初代。だから自分が君主権力を確立しなければならない」と考えていたのかもしれない。
うぽつです。久しぶりの呉特集うれしいです!
最近は孫権の晩年や呉末期についてゲーム等で取り上げられる事も増えてきましたが、その背景について深く分かりやすく考察した動画は貴重だと思います。
二宮の変〜その後の呉を見ていると孫権の一番の失敗は、
・孫静の息子の孫暠を処刑しなかったこと
・孫和を立太子した後、その母である王夫人を皇后に格上げせず全公主(孫魯班)が後宮に介入する隙を作ったこと
これら二点だと思いますね。
孫呉の危機では毎度傍系皇族が結構危ない動きしてますもんね…
@@matukawatositane
そうなんですよね。
孫暠助命も叔父の孫静の嘆願による所が大きいですし、孫権は臣下だけでなく、同じ孫氏相手にも気を遣わざるを得ない立場だったのかなと思います。
そうした『甘さ』が後に傍系皇族による介入と暴走を生み、孫和の不幸や孫皓の皇族に対する徹底した排斥に繋がったのでは…と思うと皮肉ですね。
@@ななしのよっすん つくづく孫家の正当性無さが辛いですねえ…
豬武者だった呂蒙の才能を見抜いて学問を薦め、結果呂蒙は関羽に勝つ程の知勇兼備の名将になった話なんかは三國志一の名君なんじゃないかと思うレベルなんですけどね、やはり呂壱事件は専制君主を目指して失敗した事件だったのかな?とも思いますね
晩節を汚すという言葉がありますが人間は老いると頑固になったり思考が固まったりして冷静な判断が出来なくなるのかも
張昭は、孫権を軽んじる傾向があっても、孫権を裏切らないという点ではとことん信用できた。剛直すぎるほど誠実な人格で、流寓の名士だから地縁に縛られず基盤もない。対土着豪族という点では孫権と張昭は同じ側にいた。孫権末期の重臣は、基本的に揚州の名族で地縁に縛られてて基盤持ってるんで……
少し長い動画…?気が付いたら終わってた、ってくらい引き込まれました。いつも興味深い考察をありがとうございます。
うーむ難しいものですなあ、猜疑心の塊になって長年の功臣を疑うようになった劉邦でも、張良や曹参の言葉は聞いたというし。孫権に足りなかったものを指して、「天命」、「天運」というのかもしれませんね。
おお、すごく面白い見方だ。しかもしっかりまとまっている。素晴らしい。
陸遜は軍才・家格・人格あったが政治には手を出さなかった。政治まで得てしまうと君主を上回りかねないので、呉を割る羽目になると見たからではないか。(その配慮も二宮の変で意味無くなってしまったけど…)
孫権は若くして君主となり師を得たが、なまじ長くその座にあったから師を持てなくなったのだろうか。
まあ自分や孫家に対する忠誠の根拠は、と疑うといくらでも疑えてしまう地盤だしな…
軍事面の実権を陸遜という揚州豪族に抑えられてしまった、というのも意外と大きいような気がします。
陸遜の前任をみると魯粛、呂蒙は非揚州系、周瑜は一応揚州系ですが孫策の盟友という色の方が強くあまり豪族代表という感じではない。
ただでさえ内政面で主導権を取られているような状態で軍事面まで揚州豪族に主導権を取られたとなれば・・・
いかに陸遜を信頼しているとはいえなかなか心穏やかとはいかないでしょう。それになによりもお飾り感が増してしまう。
それでも張昭や諸葛瑾がいた間はまだバランスが保たれていたが、両者がいなくなってからはバランスがうまく取れなくなってしまった。
そしてなんとかトップとしての権限を確保しようと孫権が躍起になった結果がこれ、と。
孫瑜、孫皎、孫桓・・・この辺の一門衆が生きていれば多少は緩和されていたのかな。
あと、孫登が早逝してしまったのは確かに悔やまれますが・・・孫呉という国家の形が変わらない以上孫権と同じような壁にぶつかっていた可能性が大きいような気もします。
あるいは魏と同じように豪族に飲み込まれたか。
陸遜ひとりに権力が集中しすぎたというのも呉の歪さだったのかもしれませんね。
同時代に諸葛亮がいるので感覚が麻痺しがちですが、国のナンバー2に主導権を握られている状態というのはリーダーからすれば危ういものです。
孫権=守成の君主・天下への野心が無い君主という印象が長年三国志ファンの間に定着していますが、はたしてそれは本当なのかと最近では思いますね。
孫瑜は曹操の意向で後漢から正式に官位受けてるのが若干危ない感じはするかな
張昭や諸葛瑾のような北来の名士は、土着の勢力を持つ江東名士と違い孫呉の本拠地である江東で自立する経済的基盤がなく、常に孫呉政権へ寄りかかる必要があり、孫権の君主権力がある程度強くないと生きていけないからこそ孫権も信頼できたのかなぁと思いますね
そしてそんな彼らの勢力が弱まったあとに、二宮事件………
地元の人間より他所から来た人間の方が孫権にとって頼れる存在だったのかもしれないですね。
太子孫登が死に、その後任が呉の名士豪族との縁戚関係が濃い孫和になったことが孫権の迷いを生んだのかも?
孫和の子で後の皇帝である孫皓も、陸氏を立場上は優遇しつつ身分の低い者や呉との地縁が薄い人物を重用していたり、
孫権と似たような事をしているように見えますね。
@@ななしのよっすん 後は、孫呉の正当性の弱さっていうのもあるのかなと思いますね。漢から禅譲を受けた魏、漢の正当後継を主張する蜀に対して呉はその国家の正当性を主張するものが曖昧だから、是が非でも君主権力を確立しないといけない
名士に取り込まれると、赤壁において魯粛が主張したとおり(有力な名士は地元に勢力があるので降伏しても官職に就けるが、孫家はそうではない)になり、国家の存続に関わってきますからね……
「敗けてはいけない局面で敗けない」日本だと信長にも同じ事が言えますね。
諫言出来る信頼できる人物が居る間に次の後継者を発掘、育成するしか無いのか。
孫権の晩節を見ていると、歳の取り方は大事だなぁとヒシヒシ。誰もが皆、いずれは師を失っていくわけだから…。
長宗我部元親も似てますね。こちらはまず、有望だった息子が亡くなり、弟の親泰までもが死んでからは完全に歯止めが利かなくなった…。
豪族の寄り合い所帯の脆弱な政権だった孫権政権が
いかにあそこまでの強権を得ることが出来たかも不思議ですよね
嫌っていても信頼出来る人物と息子が死去したのが孫権のメンタルを壊したかと
ここで名士豪族の問題が解決していれば、孫権が道を外すことがなかったかも
それもあるかもだけど練師が死んだのもその一つかも…
期待していた跡継ぎの長男が死んでしまって老け込んでしまったのかな?と思いました。やっぱり、在位が長すぎて緊張を保てなくなったんでしょうな。そう考えると死ぬ間際まで冷徹だった曹操って凄いですな。
まぁ曹操は曹操で…という感も
なるほどなぁ。納得しちゃった。個人的考察とおっしゃいますが僕はそれを重要視してこのチャンネルを観てます!!だって客観的事実だけならwikiでも良い訳ですしね
仮に自分とは違う意見でもそれはそれで新鮮ですし
毎回とても楽しんでいますし今後も楽しみにしています!
陸遜を憤死させたのは最大の落ち度
中心派閥が弱いと大派閥同士の内乱がいずれ起こる
結局、どうやっても孫呉は崩壊する運命だったとしか言えない
結局根本的な理由は「皇帝になってしまったから、ならざるを得なくなったから」という身も蓋もない話なのかもしれない?
ローマのネロも同じ感じかな。
鎌倉時代から32代にわたって薩摩を支配し「島津に暗君なし」と呼ばれた島津家は本当にすごいと思いました。
かつて曹操が自分の息子や後継者にするのは誰が良いかと訪ねらた時に孫権と答えた事がある。曹操も孫権の政治家としての能力を評価していた事がある。
解説ありがとうございます。
琅琊諸葛氏のことがもっと知りたいですね
周瑜が大都督時には越権行為を見逃したり我慢強い君主だったのにな。
28:12 酒宴で諸葛瑾相手に悪ふざけ(顔に諸葛子瑜と書いた驢馬を持ってこさせた)して諸葛瑾の息子・諸葛恪にやり返された(諸葛子瑜の下に「之驢」と書いた)話は有名。
能力を見極める力もだけど、人心てのを掴む技術がすごいですね
人の心理を理解して、それを上手く利用できてたんだろうな
曹魏は名士に飲み込まれたが、孫呉は名士に抗って潰れた。
父と兄を早くに失って君主に就けば降伏か抗戦かの決断を迫られ。周瑜や魯粛、呂蒙もこの世を去り、その上に可愛いがっていた皇太子にまで先立たれたのは不憫でならない。
周瑜や魯粛が長生きしていたら少しは違っていたかも....。呉は豪族の集合体って印象があるから遅からず分裂していたかも....。
魏晋南北朝時代でも似た人物がいました。蕭衍です。やり方は違うど、晩年は耄碌して仏教に走ったり、侯景を引き入れて国を滅ぼす原因を作ったりと色々やらかしています。
若いころから片鱗はあったからなー、年を取って理性が衰えたのといさめてくれる人が没していったのが大きいかと。
さすがの切り口、考察ですね。
皇帝としての在位期間が長かったことが、晩年の臣下たちとの信頼関係に影響したんでしょうかね。仮にすぎるけど、孫策がもう少し長生きして、かつ有力な子供がおらず、孫権が30代後半や40代で引き継いでいれば、という年齢に対する仮説。
とても分かりやすくて勉強になりました。石亭の戦い以降、呉の存在感が空気になったのは、孫権の暴君化が始まったことが理由かもしれませんね。
最近、孫権晩年についてはずっと考えてたが最終的には皇帝権威の確立が最大の問題だったんだろうなぁと…豪族連中からしたら別に孫家でなくてはならないかというとそうでもないからね
結局呂壱事件も二宮の変もそこが根底かな
長宗我部元親と信親 孫権と孫登後継者が死ぬと心にくるのかな?
この二人は有能だったからなおさら…。
暴君になれるのは能力のある証なんてことを言う人もいますよね
人間の能力は限界があり、一つに秀でると、他は劣る。
あとは、人は言うほど変わらなくとも、回りが変わってしまう。
孫権が耄碌したのはストッパーの張昭や諸葛謹が死んでから呂壱事件や二宮の変を起こした。呉は豪族の連合政権の側面が強かったからその辺の気苦労が絶えなかったかも。
そもそも長期にわたって君臨して最後まで名君だったほうが少ないのでは?
締め付ければ恨まれる、緩めれば舐められる。それが連合政権の長。
呉が裏切って荊州を攻めたのは、パッと見たら完全に悪手だと思うんですけど、どうなんですかね?
これが結局均衡を崩して、蜀が滅亡し結果的に呉の滅亡に繋がったと個人的に思ってるんですけど。
蜀を攻めるなら魏の国力が弱まってからの方がよかった気がしてしまう。
周瑜死後に計画を引き継いだ孫瑜が益州に軍を率いようとしたら「自分の同族を攻め込むなら背後から襲ってやるからな」と言って脅し、「益州を平定したら借りていた荊州は返す(^^)」と言っておいて平定後に返還要望の使者を送ったら「やっぱ涼州とったら返す(^^;」なんて言われたら力づくでも取り返してやるってなるよ
裏切ってるのは劉備が先
いつも楽しく拝見しています^ ^
「暗君」が何故生まれるのかを深く考えたことなかったので、とても面白かったです(*´∀`*)
張昭との中の悪さや、諸葛瑾を重用しつつも「諸葛子瑜」などと馬に書いたり、片鱗は色々と…
老境で自己を抑えられなくなり、孫権を上手くあしらえる手綱取りが居なくなっただけ、かも。
孫登が死んだのが一番痛手だったように見えてくるな。もちろんこれだけが原因じゃないだろうけれど
「晩年に暴君化した」孫権
その暴君ぶりは孫の孫晧の時に決定的になる
呂壱の官職は非常に珍しい「中書典校郎」である。この職務は後の南北朝時代には皇帝の秘書だったが、三国時代の曹魏、孫呉政権では「校事官」とも呼ばれた。清代の《癸巳存稿》は、この官職の性質をこう説明している:“魏呉有校事官,似北魏之侯官,明之廠衛“。明代の錦衣衛と東廠のように、中央と地方の各州郡の文書を監視する特務機関である。
彼のした行為:建安太守鄭胄を誹謗し、江夏太守刁嘉を中傷した、左将軍である朱據が軍資金を横領したと告発、朱據の財務官を拷問して死亡させた。そして最も代表的な行為:丞相顧雍を誹謗中傷する。呂壱が勢力を得ることができたこと自体が、晩年の孫権が特務統治に依存して政権に脅威があるとされている士人を陥れ迫害したことを示している。
同じように、曹魏政権の校事官も三国志ゲームに登場したことのない人物だ,。趙達と盧洪だ。二人の主な役割は軍人を監視し、朝廷の大臣たちの過失を検挙することだ。この官職の俸給は「秩比二千石」,すでに太守級に近く、君主のそばで密告したり検挙したりしている。最も有名な行為は曹操に尚書郎徐邈の「私酒」を告発することだ,徐邈が密謀していることを中傷しているのと同じだ。曹操が晩年に魏王と呼ばれた時、大漢の朝廷には「不畏曹公,但畏盧洪;盧洪尚可,趙達殺我」と伝えられた。これはすでに校事官が君主の黙認の下で私刑を執行することを暗示している,同時に大臣と武将の日常を盗聴したり、文書を直接遮断したり審査したりすることもできます。
豪族にとって呂壱は目の上のたんこぶそのもので、
呂壱に臣下の監視・管理を任せていたつもりの孫権にとっては、
陸遜らを始めとする重臣たちが呂壱を強引に排除した様は、
「俺たちの好きにさせろ!」という意思表示に見えたのかもしれないですね。
確か曹操につけられたのは治世の能臣、乱世の奸雄じゃなかったか?
逆に父親の「孫堅」や兄の「孫策」が長生きしていたら、どうなっていたか?(まあ、歴史にイフは無い、とは言いますが………)
孫堅が生きてれば、孫家は江東ではなく荊州を基盤とした中央集権化に成功していたかなぁと。いや、それより袁術の強大化があるか(´ . .̫ . `)
孫策であれば江東での中央集権体制を確立できそうですね。うまく行けば、天下を狙えるだけの勢いはあったと思います。
まあ孫邵は孔融もその才を認めていた人物なので、この辺りはまだ純粋に能力を評価しての丞相就任だったと思いますね。
彼の記録が残っていないのは『呉志』の元となる『呉書』を記録した韋昭が、孫邵と仲の悪かった張温に属する一派だったことが大きいと思います。
孫邵の場合実績がないのではなく、記録が抹消された、と見るべきでしょうね。
接続詞や漢字の読み方をちょいちょい直してないの気になる
曹操は「治世の能臣、乱世の奸雄」では?汗
たしか後漢書では逆になってます
@@フレアトマス
え、そうなんですか!?それは知らなかったです😅
漫画だがキングダムの政がどう暴君始皇帝になるのか気になる
陸遜の抜擢はすばらしい、現代でも人間を使うのが一番難しいね。でも
陸遜の抜擢(孫策が亡ぼしてから衰退した陸家)から既に能力ではなく非主流派を用いて主流派の抑えにするという内部政治的要素だったみたい(呂壱事件も非主流派の孫覇推しも)
仁義なき戦いの山守親分みたい
人は60歳を過ぎたら、身を引くのが賢明な身の遇し方だと思う。例外も極稀に存在するが、大体の場合、我が強くなっていて、思考の柔軟性が失われ、自己の成功体験を過信して、部下の忠告を聞かなくなるし、反対意見を言う者を忌避するか下手すると敵視するから・・・
張昭と諸葛瑾が死んでから本格的に暴君化してるような。若い頃から片鱗はあったがこのふたりが上手くやってくれてたか何とかなってたのかな?
ふむふむ、今年だと源氏将軍三代のパラレルで捉えられる。
一番乗り。戦巧者ではなかったにせよ、周瑜・魯粛・陸遜を巧みに用いたところは張良、蕭何、韓信を用いた劉邦に通ずるように見える(張良は酈食其の策の欠陥を見抜いて劉邦を制止しているので諫臣でもある)。ただ、劉邦と異なり名士たちに気を使わなければならなかったことは大きなストレスであっただろう。「二宮の変」での粛清はこれも原因の一つであっただろうし、魏と蜀もそうだが、こういうところに名士を無視できない時代であったことが伺える。呉は孫権の代で最盛期と衰亡期を迎えた。後の皇帝は、言って悪いがオマケも同然と言えよう。
孫権の晩年は日本でいえば秀吉の晩年に似ている。秀吉も諫臣秀長のシから狂っていったし秀次を◯ガイされているし、その一族を◯ガイしている。思えば劉禅も諫臣トウインが亡くなった後国をだめにしていったしやはり諫臣という役割を持つ人の役目と責任は重いことがわかるなぁ。ちなみに秀吉には諫臣居たのだが遠ざけた。
乱世の名君の条件が勝利ってのはその通りだけど、孫権であるなら外交も上げてほしいところ。
秀吉と孫権はなんか似たような暴走をしてしまった感じがするね
学校で習う世界史の授業では黄巾の乱と赤壁の戦いがあって魏蜀呉の三国時代になった、くらいのものだから、三國志におけるそれ以外の部分は全部創作だと思えばよいのだ
孫権が暴君と化した、それも創作、本当のところを気にする必要なし、どちらにしろ孫権というキャラクターの人気には関係ない
そも名君というが、それもまた、群雄割拠にあって他勢力と渡り合って決して譲らなかった、という点で名君なのであり、リアルな統治の話をしようとすれば、結局よく分からないという結論になっちゃう
直系長子を後継に選ばないと
後々の禍根残すのは
古今東西証明してますよね
司馬衷「……」
@@KOUMEI_NO_WANADA さま
おっしゃる通り、直系長子が全て正しい訳では無いです。
が、後継選択を先君贔屓で
しくじった史実の方が多いと思います
地域の有力者による民政に近い形態で、時が流れるににつれ名家が力を失っていき、相対的に孫権が暴君となっていった、と習った。
蜀の劉禅の方が、まだ環境としてはマシだったのかなぁ?
ていうか諸葛亮がある意味変わり者というか異常なんですよね。
普通あれほどリーダーに信任されて政府のシステム作りからその管理や軍事までほぼ全て自分でやっていれば、
何処かで多少なりとも野心や驕り、自分の利益への誘惑や利己心が生まれるものなのに全くそうじゃないので。
@@ななしのよっすん
李厳「解るわ〜」
俺の貴重な約43分間を…素晴らしいものにしてくれてありがとうございます。孫権に対して人間として寄り添ってあげるようなスタンスでのお話、本当に面白かったです。
嬉しい( ;∀;)
間違いなく英雄なんですけどね
人間らしい面も多い名君でしたね
歳をとると自分の存在感を誇示するためだけにおかしな行動をする人をたくさん見てきた。たぶん古今東西そうなんだろう。
企業や店舗など城を建てて従業員を雇い
様々な取引を行う主体者だと分かるんだけど
どんなに正しい選択肢が目の前にあっても
外的要因の積み重ねでそれが選べない事って
ままあるんだよね
大国を率いた孫権についてもそう。
優秀な部下が仲介してる間は良かったけど、
自身が晩節に入り、忠臣が去り、嫡男が早世し、
押したくても正解を押せなかったんだろう
多分孫権自身も口惜しかったんだと思います
人間誰だって歳をとれば気も短くなるし、判断力も鈍くなるよ。
正直いって部下が優秀だっただけで問題児の影が薄かったから上手くいってただけだと思う。
「いろんな意味で」後進が育成できていなかったということかな?
曹操も曹丕と曹植のいずれかを後継とするか迷っていたが、最終的に賈詡の皮肉「袁紹と劉表の事を考えておりました」で曹丕を後継者にしたと言われていますよね。その意味で、孫権は曹操に及ばない、「名君」というには微妙な存在と思います。
曹丕を公私両面で後継者に位置付けながら、魏国成立後に「嫡嗣未だ定まらず」と魏国の重臣に曹植と曹丕の優劣を内密に下問した件(崔琰伝・楊俊伝)は曹操も曹操な気はする…
曹操は儒家である名士の力を削ぎ落したかったから彼らの力に対抗する為、詩の才能に長けた曹植に後を継がせたかった
ただ曹植がアホなこと(司馬門を不許可で通過)やったせいで失脚して曹丕に継がせざるをえなくなってしまったのかと
やっぱ酒かな
若輩の孫権を支えた周瑜や魯粛の存在は大きい。
実を言うと有能な人間ほど奢りやすく暴君になりやすい。夏王朝の紂王、殷王朝の紂王も最初は名君だが、能力に驕り、賢臣の忠告を聞くどころか処罰して暴政したので暴君になった
若い時、有能だった孫権がナゼ暴君化したのか?不思議でしたがそんな悲劇?があったとは、まあ曹丕も九品なんちゃらとかやったのは部下の気を引く必要があったのだろうし皇帝も孤独なので大変ですね。そう思うと変な事にならなっかた劉禅は意外と名君説は案外、本当かも。しかし、まあ歴史とは英雄の、人の運命なんだなあと本当、思います。
劉禅を名君扱いはさすがに……
名君らしい功績何もないし
前漢の武帝、明のコウブテイ、清の乾隆帝、秦の始皇帝。
生まれつきの性分だったんじゃないですかね?有力家臣が生きてた間は猫を被ってただけで。
実際、呉の後継者達は軒並み暗君・暴君になり、見事に遺伝してますし。
斉の恒公みたいな人
暴君と凡君。
どっちが迷惑、主君として仕えたく無いやろ?
殺されない方を…(笑)
晩年の孫権はあの劉禅よりもひどい
孫権ファンは信じられないけど事実
劉禅は時代背景と資質がマッチしなかったな。
今川氏真と似たタイプの評価で乱世でなければ、引っ張る人を補佐する立場だったらって思う人。
劉禅の場合はそもそも置かれた状況下が無理ゲーだった
呉は豪族の集まりなので孫家は外から来て大将気取りの家としか認識されてないんだよね……そもそも呉の土着民にしてみれば中原とかまるで興味がないから……例え孫権が名君だとしても年々豪族が派閥を大きくしてく仕組みなので晩年に頭おかしくなってもしかたないんだよね。