ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
魏が青 蜀が緑のイメージが強い
三国無双でもそのカラーよね
良し悪しを云っているわけでない。何を根拠にかな?と思うんだけどな···。
無知にも程がある
コーエーの三国志でもそんな感じですもんね😊
呉が赤か黄色
コーエー三国志でもそうだが金や兵糧以上に人材の確保がなあ。過去にどんだけ足利義昭並にお手紙作戦(偽書索敵)を仕掛けた事かw
wまずはそこからよなw馬騰のとこの龐徳がまずは狙い目w
孫呉は家柄が低いから呉の四姓等々の豪族を無視できなかったですねぇ。陸氏の陸遜は実質的に呉の半分位の実権を握ってましたし。一方、後ろ盾が孫権しかいない呂蒙、潘璋、甘寧等の成り上がり者を愛した。なんかわかる気がします。ちなみに蜀は、文官しかいないイメージだけど、実は10人に1人が軍人っていう超軍事国家。ギリギリで頑張ってたんだけどね・・・
三国志地図は捏造だそうです。
蜀は人材が揃い国も取ったと思ったら、関羽と人材の宝庫と言われた荊州を失いますし、肝心な時に張飛がやられ馬超黄忠も消えるは、夷陵の戦いで馬良や黄権といった人材も失いますし、陸遜に匹敵する才能の持ち主として期待をかけた李厳が足を引っ張って解雇するハメになるし、期待の後継者馬謖は功を焦って大敗して処刑するハメになるはと、どんどん状況が悪化してますからね(´∀`; )
1:3:6 長年戦力差を考えて導き出した値と同じだった
ドラマではよく議事場の大きさで国力を表現している魏「国会議事堂」呉「デザイナーズオフィス」蜀「中小零細の休憩室兼会議室」例えるとこんな感じ
6倍どころじゃなくて草
@@天涯孤独となった僕の目に入 実際に6倍どころではなかったとも言われているからね。長江や震嶺山脈という天然の要塞があったからこそ、蜀と呉は魏と対等に遣り合えていたのであって、もしそれらが無かったら曹操が存命中に天下統一を成し遂げられていた可能性が高かったとも考えられている。
3人で始めた椅子取りゲームが三者誰も座ることなく終わるってのが面白いよね!結果その椅子に座ったのは三英雄いずれでもないし
もっと大勢で始まりましたよ。3人に収斂されただけです。
魏は守るべき国境線が長いし、寒冷化で華北の農業がやられて、国力差ほど圧倒的できなかったのが実態。
とはいっても南部は南部で人口が北部とはかなり差があったからなぁ情勢が落ち着き始めた240〜60年代になると南部に避難してた元北部の人達が故郷に戻り始めて更に人口が減ってたし
関羽が治めていた荊州があって何とか魏呉蜀の均衡がどうにか保てていたので、関羽のしくじりで荊州を失った時点で、孔明の天下三分の計は破綻していたと何かのテレビ番組で聞いた覚えがあります。
だから関羽はあまり好きではない。蜀の国力を落とした戦犯だからな。
@@真田安房守-r4p史実は分からないけど赤壁の戦いで曹操を見逃した事を考えると大戦犯だよね
@@さてつさてつ-r9l 史実ではその話はなく、演技だけの作り話ですね。そもそも、劉備軍は戦闘に参加せず独自の勢力圏もなかったが、荊州に自前の勢力を築いて一番得した賢い立ち振る舞いでした。
三国志演義を史実と間違える人たちは、いつまでたってもいなくなりませんよね😅
三国志演義がかなりフィクションで盛られているのは、確かにその通りです。ですが、劉備も赤壁の戦いには参加していたようです。三国志』蜀書先主(劉備)伝には、「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」と書かれている。 『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利」としか書かれていない。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した」と書かれている。長文ですみません。
イメージだけど第二次世界大戦の日本とアメリカの差が魏と蜀のイメージあるw
いや、日米もっと格差あった。
トータルの日米の国力差は、概ね10倍と言われています。個々の兵器生産能力とかだと、それ以上の差もありますね。
普通に国力差はあったと思いますよ。屯田民は各郡県に渡って典農官によって管理されており、彼らの権限は郡太守や県令に匹敵するものでした。そして屯田民は晋の時代になって一般戸籍に編入された、と言う記録が残っています。晋の時代に人口が倍増しているカラクリはこれだと思われます。つまり一般戸籍の人口に匹敵するぐらいの屯田民を魏は抱えていた可能性がありますね。ただ、対異民族などがバカにできないのも確かで、劉馥の息子の劉静等が対応マニュアルを作り上げています。それぐらい異民族への対応は難しく、魏が呉蜀方面に兵力を集中できなかった要因でしょうね。
曹操目線の物語なら、官渡の戦いまでの方が絶体絶命が多すぎて面白そう暗殺失敗とか、徐州のくだりとか、張粛の所とかもそうだし
これ見るとチンギス・ハーンは、凄いよな。圧倒的に国力も技術力も知力も上の相手を武力で吸収合併して行ったんだもの。
漫画、三国志から大ファンになった為蜀に気持ちが入ってしまいがちですが各国各々の努力や結果からドラマがあるのだなぁと思いました。
三国志正史を書いたのが魏に降った元の蜀の人らしいですね。さらに明の時代に三国志演義は劉備を主人公に書かれてるらしいですから
本州(魏)VS九州(呉)VS北海道(蜀)プラスαで四国(荊州)って感じですかね。
魏緑蜀青な辺りに固定観に念対する仄かな抵抗の気配を感じるのは気のせいか?(´・ω・`)
魏が圧倒しながらも、呉蜀は天然の要害に守られていたのでそれが絶妙なバランスになって面白い結果になったんだよな。
魏も北の方から蛮族とか騎馬民族が攻めてくるから北にも兵力を分散配置しないといけなくてあまり余裕が無かったとも聞くし
そもそも江南を華北が支配するのはかなり難しいこの後にも何個もの国がそれで失敗して滅亡すらしてる
守るには向いているがその分攻めるに不向きな地形だから孔明の北伐は失敗し続けたと言える。だから荊州は絶対失っては駄目だったし、それを取り返そうとした劉備の東征もあながち無謀な戦いとまでは言えない。
実際国力って人口の多寡だからね、人口が集中する中原を押さえてる魏が圧倒的に有利なんだよね
これは面白かったです。魏は中央集権体制、呉は封建体制、蜀は・・・
後漢書によると益州の人口は全土最大の700万ですし、戸籍把握能力を失っただけで実人口を反映していないと思いますよ中央から人口が流入する前の華北人口ですら華南に対して圧倒的ではなくさらに華北の方が華南より戦乱の数、規模ともに比べものにならないほど大きいです益州の人口減少率が華北全体のそれより大きいはずもないですし圧倒的な国力ってのが本来まやかしで、だから西晋ではすぐに益州で反乱が起こり統一から20年で益州に独立国家が誕生東晋、後趙、成漢と分裂して後趙の石勒、前秦の苻健は何度も華南に進攻したけど統一どころか大敗すらしてます長い南北朝時代が始まって隋が300年ぶりに統一するまで分裂状態が続きます本当に華北政権が圧倒的な国力があったらこんな自体になるはずがないです
益州の人口が多いのは単純にデカいというのもありそう北の方の州は、今でいう河南省の半分とか、河北省の半分、みたいな感じで小さいのに、益州は今の四川省と重慶市、貴州省と雲南省を合わせたくらいのデカさそれで七百万なら密度で見ればスカスカかもしれん
まるでドリフターズのギャラ配分だな
北伐を批判する人は数多いが当時の国力と蜀の地理的条件を考えると戦力があるうちに出ておく必要があった。蜀は守るに容易く攻めるのは難しい地。だから夷陵で全軍壊滅していなければ、孔明の計画も全然変わっていただろう。恐らく孔明は荊州を維持して呉と和睦して、互いに国力を上げて50(魏):50(蜀+呉)にする計画だったに違いない。せめて荊州守護に龐統が生きていればね・・・
確か書籍では魏蜀呉の勢力比は9:1:3だったな!!ヽ(゚д゚ヽ)(ノ゚д゚)ノ!!
ただ、凄い話なのはこれより約1400年後の話になりますが魏と蜀以上に国力の差がある後金が明を滅ぼしてしまうんですよね。諸葛亮とヌルハチ。彼の明暗は何処にあるのか不思議です。
ヌルハチは幸運に恵まれていたのが1番の要因っぽいですね!日本の侵攻により明の監視の目が緩み、明の国力低下や将の消失。明との戦では、勝機を待つ為に守戦防衛に徹しようとした明の大将がやる気なしとして解任され、後任は積極攻勢にでるも諸将が功を競って連携が取れず各個撃破される。など、運に恵まれていますね!逆に孔明は、夷陵の戦いにて将が消失(馬良・黄権など)。ともに、歴戦の兵も減少。陸遜に匹敵する人材として期待していた李厳が足を引っ張り撤退する事になり、李厳を解雇するはめに。期待をかけていた馬謖が功を焦り大敗。敵は名将司馬懿。しかも司馬懿は蜀に完勝してしまうと用無しとして処刑されかねないので守戦防衛に徹する。名将が守戦防衛に徹するので、勝つのが至難。呉は川で防衛出来るので守りやすく、蜀よりも土地が豊かなので魏への侵攻に消極的だったとも言われ、魏は蜀方面への援軍を送りやすかったとも言われてます。これらが北伐の失敗ではなかろうかと思います。
明を滅ぼしたのは、順であり、金は明の将軍に招かれたに過ぎません
蜀というけど荊州はほぼ関羽の独立国家みたいになってましたね晩年君臣間に隙間風でもできてたのか全然本国と連携してない呉は人口流出がひどくて兵力の維持に苦しむし、司令官級の相次ぐ早世で諸葛瑾とかがやってましたもんな
劉備とかいうゲームの中のヒーロー、なお現実は畜生な模様
三国志にしろ、水滸伝にしろ、任侠劇ですから。…人形劇ではなく。
蜀と呉の差は荊州の差って感じかな?でも演武では呉が1番弱いイメージあるだよな
なんとなくでしか知らなかったことを深く知ることができて勉強になりますね
袁紹が家柄的にも、勢力的にも統一の一番手だったのに乱世の時代はわからないものですね…個人的には曹操と織田信長が被ります
三国の国力を日本の領土で例えると魏:本州、呉:九州、蜀:四国といった感じで考えています。
四国に勝ち目あるわけねえな
まあ例えとして当たっているかもな。四国(長曽我部)は秀長、秀次のみであっさり降伏したが、九州(島津)は仙石がフルボッコにされて長曽我部の息子が戦死、結局秀吉が親征せざるを得なくなったからね。呉と蜀の間でも島津と長曽我部くらいの兵力差はある。夷稜の戦いも馬良が一生懸命武陵蛮を調略してようやく互角の兵力だった状態だし。
蜀が全身でぶつかってくるのを、魏は呉の方を見ながら片手で受け止めていたようなもんだよな。
薩長同盟で日本変えたじゃん
この時代は黄河流域が文明の中心であり農業の中心でもあった。長江流域の開発が進み農業の中心になるのはもっと後の時代。華北を異民族に奪われ、相次ぐ戦乱で農民が流民と化して農業基盤が破壊されて南遷せざるを得ない状況になった。他の大河のほとりで生まれた古代文明発祥地域と中華文明が異なるのは、戦乱や気候変動で古代文明が崩壊しても受け皿になる別の大河が近傍に存在し、その流域は湿潤な気候であり気候変動に対しても強く文明が途切れる事なく継承される事になった。
呉がまさかの民主主義だったとは
民主主義じゃなくて分権制じゃないの。
選挙で選んでいないので、民主主義と言うより封建主義に近いと思います。平安中期以降の日本の政治体制に近い印象です。主君と臣下、御恩と奉公の法に基づく契約社会って感じかな。そういった土壌があったから、後の時代の南宋で貨幣経済が発達したと思います。そして宋銭が日本に流れ込み日本も貨幣経済に移行しました。
合議制ですよね。鎌倉幕府なども評定衆による合議制ですし、徳川幕府も実態としては合議制ですよね。
魏は中央集権制 呉は分封制 地方の豪族 貴族が王権に影響力がある
@@silversurfer512 あれは完全にそうですね、参勤交代なんてよく成り立ってたなってのと、日本人っぽい思考だなって
他の統一王朝はこんなちんたら小競り合いして無駄に時間かけてないから言うほど御大層な差は無いし魏には信者が言うほど突出した有能な人物なんて殆どいないからどんぐりの背比べみたいな争いに終始してるだけ
途中から三国志演義は、秘術があるために消されているのだけれどその原理自体が恐らく天下三分の計に関係しているのではないのかな、、、
三国の統一もそうなんだが、ゴ↑とかゴ↓とか、ギ↑とかギ↓とかさ、イントネーション統一してほしい。
可笑しいのは、話反れるけど横山光輝の三国志 曹操vs袁紹官渡の戦い 曹操vs孫権の合肥の戦い ジュシュコウの戦い書かれてないのが 納得出来ない劉備ビイキの物語やもん
あれ三国志演義の漫画だけど、三国志演義は主人公劉備として書かれてる物語なんだから当たり前じゃない
劉備というか蜀贔屓だな
内容のわかりやすさもですが、曹操と曹否との会話口調が、父から国の治め方を学んでるようで聞き入ってしまいました。
呉の面積広すぎるような気がする
日本の車メーカーで例えればトヨタ、日産、ホンダなんでしょうね。そして曹操が凄い偉大だったかもわかります。悪人みたく書かれますがそれだけの国力等出来るってことは事実は違うカリスマを持っていたんでしょう。むしろ劉備よりカリスマがあったと思います。
ちょっとでも三国志のことを知っていれば魏呉蜀の国力が均等なんて思わないだろ。
私は以前に魏呉蜀の国力差は27:5:2ときいたことがあります。あまり認識されていないかもしれませんが、曹操や劉備に比べてディスられてる袁紹ですが、その最大版図の河北四州は蜀よりもずっと大きいです。
兵力で見るか、人口で見るか、経済規模で見るか、単純面積で見るか、作付面積で見るか、で、比率は違うでしょうしね。蜀の微妙な国力は『三大勢力の一角』と捉える下限、『広域占拠の叛徒』と捉える上限といった所か。荊州さえ抑えられていれば、2国は対等に近かった。孔明「我ら漢(蜀)の国力は魏の30分の1に過ぎない。にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か? 諸君! 我らが漢帝国の戦争目的が正義だからだ!!」
実際のところ曹操が絶望的な戦力差の戦いを強いられたのも袁紹くらいのもんですよね。そういう意味では曹操最大の敵は袁紹だったはずです。正直言って後は消化試合に近いものですよね。河北をいち早く統一した袁紹が無能な訳がないんですよね。その手腕は戦と調略のどちらも優れてました。異例の速さで成し遂げたことからも明らかです。それでもイマイチな印象はゲームや漫画のせいですよね。
@@Nanashi774Mumeiその消化試合で油断して大敗したから曹操は統一できず、三國時代になったんだがね。息子の曹否の方がもっと間抜けだがね。弱っている蜀でなく呉を攻めて返り討ち。しばらく動けなくなった間に孔明が蜀を立て直しちゃったからな。
呉の大都督特集してくださいよ。
秦は蜀より狭いけど統一したはず
蜀がこんなに弱小スタートになったのは、関羽の責任が大きいけどな。関羽の戦死→劉備の憤死→諸葛亮の過労死と全てつながる。でもま、蜀については「天然の要害」をそもそも利点として狙っていたから、防御スタートが基本ラインだったし、予定通りじゃない?ほんと
面積の割に人口が少ない…しかも総人口から見ても兵数が多すぎる。それだから屯田制なのか
浅いわ
現実としては、異民族対策の必要性から動員兵力と国力格差はあっても、振り向けられる兵力に関しては圧倒的格差はないんだけどね三国志好きの人って中国史における異民族要素についてガン無視評価しているケースが多くて視野狭窄だな、とは思うそもそも、屯田そのものは、前漢武帝時代に生まれた制度であり、漢王朝でも軍屯は細々と展開されていたし、民屯は同時代の陶謙にも出現している屯田の本当の意義は、人々を豊かにする、のではなく、公共事業として新田開発を精力的に行い国力を増強するものであって、屯田への労役賦役の重さは豊かさとは無縁な話動画で展開される兵制も一長一短で特段優秀な制度運用まで至れていないいわゆる華北の国力的優位性が形成されるのは異民族問題が解消しえる時期だけであって、それ以外ではずっと華北は異民族問題で拡張主義の限界を迎えていた要は華北の優位性は統一王朝の出現という「異民族問題が中華に存在しない時期」でしか現出してないのが実際の史実だろう実際に戦国時代の覇者たる秦は華北とは言い難い地域であり、華北地域の地方政権が中華王朝になる事例は極めて稀有とも言えるなお、三国時代の人口統計の信用度はまずもって政治的恣意性を回避できない話。兵力に関しては兵制制度によって有効な兵力になりない”駄卒”の数も問題になってしまうちなみに、後漢末期の華北の混乱騒乱に比べて華南・巴蜀の統制は別次元だったとされていることからも国力格差については相当に差異が広がっていない、という見解もある
ただ…魏も異民族と本当に「戦ってばかり」だったんですかね?万里の長城だって戦時は防衛線だったが、普段は騎馬民族と農耕民が特産品持ち寄って「交易」し、平和裏に帰ってもらう「市」みたいなもんだったらしいですし、融和外交して騎馬軍団(傭兵?)として活用する手もあった様な…三國志が実際には異民族抜きには語れない、とはよく聞きますが、呉だって東シナ海の漁民や海賊を水軍に動員とか、蜀だって山岳民族の人らまで動員して戦力に加える、ぐらいの事はやってそうな…。
@@てっちゃん-t1k だから、「異民族要素」という概念で問題にした異民族とは合従連衡を殷周の時代から清王朝までずっと積み重ねてきた歴史があって、文献としての中華史はとかく異民族を軽視しがちだが、史実として中華王朝の多くは異民族と適切に外交して強盛に至り得る三国志もこの傾向は顕著で、アグレッシブな前漢から軟化傾向だった後漢では華北の情勢も大きく変化したことは言うまでもない話実際に後漢末期は蝗害・水害が頻発し、華北域内の農産力の低下から、周辺異民族への食糧提供が停滞していたことは史料に見られている。一方、華南・巴蜀についてはそのような文献が特段見当たらないことも留意点だろう。中華王朝にとっては異民族とは敵である以前に、儒教文化的に下賤と認識するが故に「メンツ」として強さを誇示し続ける必要性があったことは言うまでもない
誰が守っても同じですよ😂ほぼ孫家が赤壁で撃退したのに 隙を見て荊州を掠め取ったのですから 恨まれて当然😅
三国の命運を分けたのは樊城と夷陵の戦いだろうなぁ。あの戦いで蜀の勢力がほぼ壊滅したからなぁ。劉備も世を去ったあとアホな劉禅がリーダーじゃ厳しい。呉軍も孫権が途中からアホになったからそりゃ魏には勝てん。
魏は戦乱の影響で伸びしろが有ったのに比べて蜀と呉は伸びしろが成った。
素晴らしい動画です。一番わかりやすい。
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします🙇♂️
長江や蜀の険しい地形が天然の要塞として機能したからこその三国時代なんだろうね、普通に戦えば魏の圧勝なんだろうけども
劉禅を愚息言ってるけれど、劉禅の頃より国力が高かったときに荊州を失った関羽とその後大敗を喫した劉備がねぇ劉備から後を継いで劉禅は約40年(223-263)蜀を治めてるだよなぁ孔明が居たから~って言うけれど234年に没していて約30年不在という。
中原を制覇した時点で魏の天下取りは完了してる。蜀や呉は取るに足らない蛮地に近い。コスパ的にも無理に取る必要はなく物語として三国志になってるだけやで。
張遼にトラウマがある孫権草W
張遼は呂布も認める猛将だから孫権じゃ分が悪すぎたよな。それだけに張遼を討って周瑜達に威厳を示したかったのか。
宋代の教科書である『蒙求』にも、「張遼止啼」って載るくらいですから、相当だったのかとw
正直、諸葛亮が言ってた戦い方が上手く行けば蜀の天下も狙えた。だけど荊州を呉に取られた事や不仲になったら事や荊州守備が問題だった事がそのチャンスを逃してしまった
魏→本州(東京、大阪、名古屋など)呉→九州 蜀→四国くらいのバランスと聞いたことがある。
まあ、桶狭間の戦い然り、長篠の戦い然り、ガウガメラの戦い然り、圧倒的な兵力差を覆して、小国が強大国に勝ったという史実は、古今東西、枚挙にいとまがないですからね。
今から30年以上前、当時のパソコンはNECの98シリーズ、88シリーズ、SHARPのX-1turbo、X-1Gなんかがあって、X-1Gを持っていた。光栄から信長の野望、三國志が出ていて、三國志にはまっていた。初代三國志なので、今と比べたらはるかに薄い内容なんだが、当時は良かったのかな。パターンが決まっていたので、董卓や呂布でも全国統一できた。(優秀な軍師は必要だが)
カントの戦いって兵力差が10対1と言われるが、実際のところはどうだったのかな?勢力図を見ると五分位?しかも曹操の方が大都市を抑えている様な気がする。
曹操軍3~5万、袁紹軍は30万弱で一説には袁紹側もっと多かったという話もあります。また、実数は曹操軍1万程度で袁紹軍10万弱が正確な数字という説もあります。1万は(袁紹軍7、8万を生き埋めにしたので少なすぎるということで)曹操が直接率いていた数でもっといたなんて説もあります。要はかなりの兵力差はあったが正確には分からないということですね。
官渡で負けてなお、まだ袁紹が有利とも言われてましたし中央が荒れ果てている間に鄴にはたくさんの人材が流れて来ました
実際袁一族を滅ぼすのに、官渡の戦いから5年くらいかかったらしい。
三国志の人物の喋り方三国無双を意識してるでしょww曹操と曹丕の言葉遣い性格まんまん無双です😂
やはり魏志倭人伝ですから魏なんですね。
正確には三國志魏書東夷伝。通称魏志倭人伝なだけで実際には魏志という書物は存在しない。
孔明が魏について戦乱を早く終わらせる方が良かったんじゃないと、昔思ったがそれでは歴史好きとしては面白くないもんな。
樊城の戦いで呉蜀が衝突しなければまだ魏打倒の可能性はあったのかな?なんかこの国力差を見ると三国対等というより禅譲された正統中華魏と強めの地方反乱軍呉蜀って構図に見えてくる。
蜀と呉は豪族の力が強すぎて人口の把握能力が魏と違い過ぎるから実際の人口差はわからんけどな。清代に人頭税が廃止された途端に人口が1億も増えるようなお国柄なので歴代王朝の人口統計もぜーんぶ税金をまじめにはらっている人の数でしかない
官渡以降は消化試合やったんやなって魏と結んで荊州を攻める発想に至った呉、普通にボケカスなきがする
天下三分の計は、本当は諸葛亮じゃなく、魯粛(子敬)だけどなwww
まぁ、当時の勢力からすれば、セオリー通りの戦略でしかないとは思いますけどね。流石に、あの時点で直で魏に挑んでも無理筋なので、・空き地(失礼)を盗って国力増強して、・相手の隙を待つ…これしか選びようが無かった。
では魏呉蜀の内、最終的な勝者は誰でしょうか?答え:どれでもない草😅😆🤣
確かに魏の国力が1番高いのは事実ですが、6:4の国力差はデカい敗戦して土地や兵力を失えばひっくり返りかねない数字ですし、呉には強力な水軍、蜀には天然の要害、更には敵味方の将兵の能力など兵の数だけでははかれない要素もあります。赤壁や漢中を巡る戦いで魏はその事を嫌というほど思い知ったはずなので、曹操も曹丕もそこまで楽観的ではなかったと思いますよ。
三カ国とも仲良かったため三国時代って古代にしては珍しく戦争のない平和な時代だった
北方謙三だったかな?孔明がタイムリープして戦う反三国志は面白かったなぁ。
そもそもユーラシアの北方騎馬民族の方が強いだろ
私・世・屯田と三者三葉って感じでよくわかった
やっぱ中原を独占した曹操の優勢は変わらなったな。呉と蜀は連携しながら魏の領土を削っていくしかなかったんだけどな。
官渡の戦いで、もう天下は決まってしまいましたねー。
@@一竿風月-t4b というより、本来なら決まりの天下の行方を曹操、曹丕の親子がポカでふいにした。結果、劉備、孔明の悪あがきを許したと言った方がいい。秀吉が小田原攻めしくじって天下統一出来なかったに等しい状況なので、曹操もかなりのポンコツ。
魏の国力が圧倒的なのは悪政では無かったのかな?
1:05 なんで勝ってる魏が落ち込んでんねん😂
楽しい ありがとうございます❤
蜀が全身でぶつかってくるのを、呉の方を見ながら片手で受け止めていたくらいの国力差があった。
地図上の面積では推し量れない程の、平地面積の差・収穫量の差・都会(経済・人材)の差・人口の差。
日本でも地図だけじゃ分からない要素が多いですよね!金山銀山の有無に採掘技術による収穫量の差、土地による農民や将の気質(生活しやすい土地生まれゆえに兵に向かない傾向の尾張方面の住民、過酷な環境ゆえに兵士適正が高い傾向の三河方面の住民など)、港の保有と交易量の差による税収の差など!
孫権は晩年のぼけた状態で話をしてもらいたかったぜ。
群像劇
古い歴史。。。全て忘れました
魏、呉のイントネーションが気になる
三国は、三国同士で争っていたように思えますが、蜀は西側(インド方面)に勢力を拡大しようということはなかったのでしょうか?
山があるから難しいんじゃない?
16:52 しかし、孫権は孫権で攻めるときに勝ちきれてない^^;
第二次世界大戦に例えるならば・・・魏は アメリカ・・・呉は ナチスドイツ・・・蜀は 日本・・・やな。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
日本の相手しつつドイツとも戦ってたからな🇺🇸はヤバいよあそこは
近代以前は軍事力が強ければ経済・人口の差を逆転できたモンゴルみたいに、だから単純にでかいから強いというのは間違い。蜀や呉は特別軍事力も高くなかったから順当に押し切られたということ。
こういう事実もいいけど、「蜀軍、チート武将ばかりなのに何で天下とれないの?」っていう矛盾がもたらすもどかしさが、三国志の原体験でした。
三国志演技では蜀が正義なのでチートの集まりですが、史実では魏の方が人材豊富だと思う。洛陽長安という2大都市を押さえているうえに曹操が人材コレクターだから
魏軍の方がチート武将多いんだよなぁ
機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズのラスト2話まとめて見るとその違和感スッキリ解決しますよ
あのぉ~、コメ主ですけど、私がそういう風に思ってたのは、「原体験」と言いましたとおり、小学校低学年頃の感想ですからね。皆さん、あまりマジにならないでくださいね。
天下三分の計は民衆にとっては迷惑以外の何物でも無いですね。😂高度の政治判断が公明や孫権ができたと云っても所詮この程度だったのでしょう。
余り詳しくないのですが華北なんですか?河北だと思っていました。
三国志演義も 面白いけど魏の兵士100万は盛り過ぎやな!兵站 兵糧 馬の数 遠征費バカにならないし 史実は 大軍で 攻めてもせいぜい20万位かな!?
今のチュンコウもまた三国時代になるかもな。
劉備達が、袁紹を手伝わなければまだ、わからなかった
人口6対3対1位って聞いたあ、いきなり説明されてたw蜀が魏に勝つとか無理やろ
赤壁の戦いで曹操を仕留めれなかったのがな
演義はともかく正史の赤壁ってちょっとした小競り合いなイメージ
孫権のような人物が現代社会で上に立ってくれたらいい世の中になるだろな
都道府県がクソ力持って、国が都道府県の言いなりになるのか
孫権は秀吉よろしく、晩年が……
孫権…二宮の乱で、豪族の権限を弱めて中央集権にしたかったのかね?致命的に遅かったけど…劉備なんて、傭兵隊長のようなもので、劉表や劉璋から地位を簒奪したに過ぎない。劉禅は、元々国力に劣る蜀を平和裏に治め、国境を破られたら無駄な抵抗をせずに的に首を差し出すようなことをしているから、かなりの名君と言える。馬鹿君主と言われるけど、国を巻き込んでの絶滅戦争をしなかっただけ、まともな君主と言える。
蜀に関しては、関羽が江陵絶対死守で絶対に荊州を失陥する事は無い、というIFを想像せずにはいられないですね…まあ、だからこそ関羽に惹き付けられるんだと思いますが
史実の序列的にはありえんのだけれども、趙雲の方が守りには向いていたよな。まあ、孔明は趙雲を信用していたから蜀に連れていきたかったんだろうけど。
@@真田安房守-r4p そもそも、蜀は派閥があってバラバラだったし、当時の孔明にそんな人事権はないのよ。
荊州を任せるのは 関羽でなく趙雲に任せた方が 孫権軍らと上手くいってたと思ってしまう!関羽はプライド高過ぎて同盟の孫権軍と喧嘩したし関羽と プロレスラー ブルーザーブロディ 性格似てるし無惨な最期を送ってしまった
日本では趙雲子龍が過大評価されている様に思います。この人は劉備の親衛隊長的な人で確かに特別な地位ではあるんですが、将軍になったのは蜀の建国後。荊州に行ったら関羽の副官~配下的な立場になったのでは。
@@minmin-bj3qf 趙雲は軍の指揮・任務遂行においては優秀ですが、戦略や統治についてはあまり聞きませんね。関羽に欠点は有っても、主君たり得る資質が有ったのも確か。
関羽は将軍、趙雲はほぼ一兵卒。位が違い過ぎる龐統の戦死が痛すぎましたね。それがなかったら、諸葛亮が荊州に残れたんだけど
@@kenn3420 その話も演義の創作で、史実としては孔明率いる援軍は龐統が生きてるうちに出発しており、劉備に孔明を荊州に残すという選択肢ははじめからない。関羽の補佐役として残したのは馬良で能力的には充分だが、関羽は馬良を格下とみて軽んじていたと思われるので、あまり役に立たなかった。
三国志地図は捏造だそうです。因みに僕は三国志否定派です。
意味が分からん。否定派とは?三国時代そのものが存在しなかったと?笑
魏が青 蜀が緑のイメージが強い
三国無双でもそのカラーよね
良し悪しを云っているわけでない。何を根拠にかな?と思うんだけどな···。
無知にも程がある
コーエーの三国志でもそんな感じですもんね😊
呉が赤か黄色
コーエー三国志でもそうだが金や兵糧以上に人材の確保がなあ。過去にどんだけ足利義昭並にお手紙作戦(偽書索敵)を仕掛けた事かw
w
まずはそこからよなw
馬騰のとこの龐徳がまずは狙い目w
孫呉は家柄が低いから呉の四姓等々の豪族を無視できなかったですねぇ。陸氏の陸遜は実質的に呉の半分位の実権を握ってましたし。一方、後ろ盾が孫権しかいない呂蒙、潘璋、甘寧等の成り上がり者を愛した。なんかわかる気がします。
ちなみに蜀は、文官しかいないイメージだけど、実は10人に1人が軍人っていう超軍事国家。ギリギリで頑張ってたんだけどね・・・
三国志地図は捏造だそうです。
蜀は人材が揃い国も取ったと思ったら、関羽と人材の宝庫と言われた荊州を失いますし、肝心な時に張飛がやられ馬超黄忠も消えるは、夷陵の戦いで馬良や黄権といった人材も失いますし、陸遜に匹敵する才能の持ち主として期待をかけた李厳が足を引っ張って解雇するハメになるし、期待の後継者馬謖は功を焦って大敗して処刑するハメになるはと、どんどん状況が悪化してますからね(´∀`; )
1:3:6 長年戦力差を考えて導き出した値と同じだった
ドラマではよく議事場の大きさで国力を表現している
魏「国会議事堂」呉「デザイナーズオフィス」蜀「中小零細の休憩室兼会議室」
例えるとこんな感じ
6倍どころじゃなくて草
@@天涯孤独となった僕の目に入 実際に6倍どころではなかったとも言われているからね。
長江や震嶺山脈という天然の要塞があったからこそ、蜀と呉は魏と対等に遣り合えていたのであって、
もしそれらが無かったら曹操が存命中に天下統一を成し遂げられていた可能性が高かったとも考えられている。
3人で始めた椅子取りゲームが三者誰も座ることなく終わるってのが面白いよね!
結果その椅子に座ったのは三英雄いずれでもないし
もっと大勢で始まりましたよ。
3人に収斂されただけです。
魏は守るべき国境線が長いし、寒冷化で華北の農業がやられて、国力差ほど圧倒的できなかったのが実態。
とはいっても南部は南部で人口が北部とはかなり差があったからなぁ
情勢が落ち着き始めた240〜60年代になると南部に避難してた元北部の人達が故郷に戻り始めて更に人口が減ってたし
関羽が治めていた荊州があって何とか魏呉蜀の均衡がどうにか保てていたので、関羽のしくじりで
荊州を失った時点で、孔明の天下三分の計は破綻していたと何かのテレビ番組で聞いた覚えがあります。
だから関羽はあまり好きではない。
蜀の国力を落とした戦犯だからな。
@@真田安房守-r4p
史実は分からないけど
赤壁の戦いで曹操を見逃した事を考えると大戦犯だよね
@@さてつさてつ-r9l 史実ではその話はなく、演技だけの作り話ですね。
そもそも、劉備軍は戦闘に参加せず独自の勢力圏もなかったが、荊州に自前の勢力を築いて一番得した賢い立ち振る舞いでした。
三国志演義を史実と間違える人たちは、いつまでたってもいなくなりませんよね😅
三国志演義がかなりフィクションで盛られているのは、確かにその通りです。
ですが、劉備も赤壁の戦いには参加していたようです。
三国志』蜀書先主(劉備)伝には、「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」と書かれている。
『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利」としか書かれていない。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した」と書かれている。
長文ですみません。
イメージだけど
第二次世界大戦の日本とアメリカの差が
魏と蜀のイメージあるw
いや、日米もっと格差あった。
トータルの日米の国力差は、概ね10倍と言われています。
個々の兵器生産能力とかだと、それ以上の差もありますね。
普通に国力差はあったと思いますよ。屯田民は各郡県に渡って典農官によって管理されており、彼らの権限は郡太守や県令に匹敵するものでした。
そして屯田民は晋の時代になって一般戸籍に編入された、と言う記録が残っています。晋の時代に人口が倍増しているカラクリはこれだと思われます。
つまり一般戸籍の人口に匹敵するぐらいの屯田民を魏は抱えていた可能性がありますね。
ただ、対異民族などがバカにできないのも確かで、劉馥の息子の劉静等が対応マニュアルを作り上げています。
それぐらい異民族への対応は難しく、魏が呉蜀方面に兵力を集中できなかった要因でしょうね。
曹操目線の物語なら、官渡の戦いまでの方が絶体絶命が多すぎて面白そう
暗殺失敗とか、徐州のくだりとか、張粛の所とかもそうだし
これ見るとチンギス・ハーンは、凄いよな。圧倒的に国力も技術力も知力も上の相手を武力で吸収合併して行ったんだもの。
漫画、三国志から大ファンになった為蜀に気持ちが入ってしまいがちですが各国各々の努力や結果からドラマがあるのだなぁと思いました。
三国志地図は捏造だそうです。
三国志正史を書いたのが魏に降った元の蜀の人らしいですね。さらに明の時代に三国志演義は劉備を主人公に書かれてるらしいですから
本州(魏)VS九州(呉)VS北海道(蜀)プラスαで四国(荊州)って感じですかね。
魏緑蜀青な辺りに固定観に念対する仄かな抵抗の気配を感じるのは気のせいか?(´・ω・`)
魏が圧倒しながらも、呉蜀は天然の要害に守られていたのでそれが絶妙なバランスになって面白い結果になったんだよな。
魏も北の方から蛮族とか騎馬民族が攻めてくるから北にも兵力を分散配置しないといけなくてあまり余裕が無かったとも聞くし
そもそも江南を華北が支配するのはかなり難しい
この後にも何個もの国がそれで失敗して滅亡すらしてる
守るには向いているがその分攻めるに不向きな地形だから孔明の北伐は失敗し続けたと言える。
だから荊州は絶対失っては駄目だったし、それを取り返そうとした劉備の東征もあながち無謀な戦いとまでは言えない。
実際国力って人口の多寡だからね、人口が集中する中原を押さえてる魏が圧倒的に有利なんだよね
これは面白かったです。魏は中央集権体制、呉は封建体制、蜀は・・・
後漢書によると益州の人口は全土最大の700万ですし、戸籍把握能力を失っただけで実人口を反映していないと思いますよ
中央から人口が流入する前の華北人口ですら華南に対して圧倒的ではなく
さらに華北の方が華南より戦乱の数、規模ともに比べものにならないほど大きいです
益州の人口減少率が華北全体のそれより大きいはずもないですし
圧倒的な国力ってのが本来まやかしで、だから西晋ではすぐに益州で反乱が起こり統一から20年で益州に独立国家が誕生
東晋、後趙、成漢と分裂して後趙の石勒、前秦の苻健は何度も華南に進攻したけど統一どころか大敗すらしてます
長い南北朝時代が始まって隋が300年ぶりに統一するまで分裂状態が続きます
本当に華北政権が圧倒的な国力があったらこんな自体になるはずがないです
益州の人口が多いのは単純にデカいというのもありそう
北の方の州は、今でいう河南省の半分とか、河北省の半分、みたいな感じで小さいのに、益州は今の四川省と重慶市、貴州省と雲南省を合わせたくらいのデカさ
それで七百万なら密度で見ればスカスカかもしれん
まるでドリフターズのギャラ配分だな
北伐を批判する人は数多いが当時の国力と蜀の地理的条件を考えると戦力があるうちに出ておく必要があった。蜀は守るに容易く攻めるのは難しい地。だから夷陵で全軍壊滅していなければ、孔明の計画も全然変わっていただろう。恐らく孔明は荊州を維持して呉と和睦して、互いに国力を上げて50(魏):50(蜀+呉)にする計画だったに違いない。せめて荊州守護に龐統が生きていればね・・・
確か書籍では魏蜀呉の勢力比は9:1:3だったな!!ヽ(゚д゚ヽ)(ノ゚д゚)ノ!!
ただ、凄い話なのはこれより約1400年後の話になりますが
魏と蜀以上に国力の差がある後金が明を滅ぼしてしまうんですよね。
諸葛亮とヌルハチ。彼の明暗は何処にあるのか不思議です。
ヌルハチは幸運に恵まれていたのが1番の要因っぽいですね!
日本の侵攻により明の監視の目が緩み、明の国力低下や将の消失。
明との戦では、勝機を待つ為に守戦防衛に徹しようとした明の大将がやる気なしとして解任され、後任は積極攻勢にでるも諸将が功を競って連携が取れず各個撃破される。
など、運に恵まれていますね!
逆に孔明は、夷陵の戦いにて将が消失(馬良・黄権など)。ともに、歴戦の兵も減少。
陸遜に匹敵する人材として期待していた李厳が足を引っ張り撤退する事になり、李厳を解雇するはめに。
期待をかけていた馬謖が功を焦り大敗。
敵は名将司馬懿。しかも司馬懿は蜀に完勝してしまうと用無しとして処刑されかねないので守戦防衛に徹する。名将が守戦防衛に徹するので、勝つのが至難。
呉は川で防衛出来るので守りやすく、蜀よりも土地が豊かなので魏への侵攻に消極的だったとも言われ、魏は蜀方面への援軍を送りやすかったとも言われてます。
これらが北伐の失敗ではなかろうかと思います。
明を滅ぼしたのは、順であり、金は明の将軍に招かれたに過ぎません
蜀というけど荊州はほぼ関羽の独立国家みたいになってましたね
晩年君臣間に隙間風でもできてたのか全然本国と連携してない
呉は人口流出がひどくて兵力の維持に苦しむし、司令官級の相次ぐ早世で諸葛瑾とかがやってましたもんな
劉備とかいうゲームの中のヒーロー、なお現実は畜生な模様
三国志にしろ、水滸伝にしろ、任侠劇ですから。…人形劇ではなく。
蜀と呉の差は荊州の差って感じかな?
でも演武では呉が1番弱いイメージあるだよな
なんとなくでしか知らなかったことを深く知ることができて勉強になりますね
袁紹が家柄的にも、勢力的にも統一の一番手だったのに乱世の時代はわからないものですね…
個人的には曹操と織田信長が被ります
三国の国力を日本の領土で例えると
魏:本州、呉:九州、蜀:四国
といった感じで考えています。
四国に勝ち目あるわけねえな
まあ例えとして当たっているかもな。
四国(長曽我部)は秀長、秀次のみであっさり降伏したが、九州(島津)は仙石がフルボッコにされて長曽我部の息子が戦死、結局秀吉が親征せざるを得なくなったからね。
呉と蜀の間でも島津と長曽我部くらいの兵力差はある。
夷稜の戦いも馬良が一生懸命武陵蛮を調略してようやく互角の兵力だった状態だし。
蜀が全身でぶつかってくるのを、魏は呉の方を見ながら片手で受け止めていたようなもんだよな。
薩長同盟で日本変えたじゃん
この時代は黄河流域が文明の中心であり農業の中心でもあった。
長江流域の開発が進み農業の中心になるのはもっと後の時代。
華北を異民族に奪われ、相次ぐ戦乱で農民が流民と化して農業基盤が破壊されて南遷せざるを得ない状況になった。
他の大河のほとりで生まれた古代文明発祥地域と中華文明が異なるのは、
戦乱や気候変動で古代文明が崩壊しても受け皿になる別の大河が近傍に存在し、
その流域は湿潤な気候であり気候変動に対しても強く文明が途切れる事なく継承される事になった。
呉がまさかの民主主義だったとは
民主主義じゃなくて分権制じゃないの。
選挙で選んでいないので、民主主義と言うより封建主義に近いと思います。
平安中期以降の日本の政治体制に近い印象です。主君と臣下、御恩と奉公の法に基づく契約社会って感じかな。
そういった土壌があったから、後の時代の南宋で貨幣経済が発達したと思います。そして宋銭が日本に流れ込み日本も貨幣経済に移行しました。
合議制ですよね。
鎌倉幕府なども評定衆による合議制ですし、徳川幕府も実態としては合議制ですよね。
魏は中央集権制 呉は分封制 地方の豪族 貴族が王権に影響力がある
@@silversurfer512 あれは完全にそうですね、参勤交代なんてよく成り立ってたなってのと、日本人っぽい思考だなって
他の統一王朝はこんなちんたら小競り合いして無駄に時間かけてないから言うほど御大層な差は無いし魏には信者が言うほど突出した有能な人物なんて殆どいないからどんぐりの背比べみたいな争いに終始してるだけ
途中から三国志演義は、秘術があるために消されているのだけれどその原理自体が恐らく天下三分の計に関係しているのではないのかな、、、
三国の統一もそうなんだが、ゴ↑とかゴ↓とか、ギ↑とかギ↓とかさ、イントネーション統一してほしい。
可笑しいのは、話反れるけど
横山光輝の三国志 曹操vs袁紹
官渡の戦い 曹操vs孫権の合肥の戦い ジュシュコウの戦い書かれてないのが 納得出来ない
劉備ビイキの物語やもん
あれ三国志演義の漫画だけど、三国志演義は主人公劉備として書かれてる物語なんだから当たり前じゃない
劉備というか蜀贔屓だな
内容のわかりやすさもですが、曹操と曹否との会話口調が、
父から国の治め方を学んでるようで聞き入ってしまいました。
呉の面積広すぎるような気がする
日本の車メーカーで例えれば
トヨタ、日産、ホンダなんでしょうね。
そして曹操が凄い偉大だったかもわかります。
悪人みたく書かれますがそれだけの国力等出来るってことは事実は違うカリスマを持っていたんでしょう。むしろ劉備よりカリスマがあったと思います。
ちょっとでも三国志のことを知っていれば魏呉蜀の国力が均等なんて思わないだろ。
私は以前に魏呉蜀の国力差は27:5:2ときいたことがあります。
あまり認識されていないかもしれませんが、曹操や劉備に比べてディスられてる袁紹ですが、その最大版図の河北四州は蜀よりもずっと大きいです。
兵力で見るか、
人口で見るか、
経済規模で見るか、
単純面積で見るか、
作付面積で見るか、
で、比率は違うでしょうしね。蜀の微妙な国力は『三大勢力の一角』と捉える下限、『広域占拠の叛徒』と捉える上限といった所か。荊州さえ抑えられていれば、2国は対等に近かった。
孔明「我ら漢(蜀)の国力は魏の30分の1に過ぎない。にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か? 諸君! 我らが漢帝国の戦争目的が正義だからだ!!」
実際のところ曹操が絶望的な戦力差の戦いを強いられたのも袁紹くらいのもんですよね。そういう意味では曹操最大の敵は袁紹だったはずです。正直言って後は消化試合に近いものですよね。
河北をいち早く統一した袁紹が無能な訳がないんですよね。その手腕は戦と調略のどちらも優れてました。異例の速さで成し遂げたことからも明らかです。
それでもイマイチな印象はゲームや漫画のせいですよね。
@@Nanashi774Mumei
その消化試合で油断して大敗したから曹操は統一できず、三國時代になったんだがね。
息子の曹否の方がもっと間抜けだがね。
弱っている蜀でなく呉を攻めて返り討ち。
しばらく動けなくなった間に孔明が蜀を立て直しちゃったからな。
呉の大都督特集してくださいよ。
秦は蜀より狭いけど統一したはず
蜀がこんなに弱小スタートになったのは、関羽の責任が大きいけどな。
関羽の戦死→劉備の憤死→諸葛亮の過労死と全てつながる。
でもま、蜀については「天然の要害」をそもそも利点として狙っていたから、
防御スタートが基本ラインだったし、予定通りじゃない?ほんと
面積の割に人口が少ない…
しかも総人口から見ても兵数が多すぎる。
それだから屯田制なのか
浅いわ
現実としては、異民族対策の必要性から動員兵力と国力格差はあっても、振り向けられる兵力に関しては圧倒的格差はないんだけどね
三国志好きの人って中国史における異民族要素についてガン無視評価しているケースが多くて視野狭窄だな、とは思う
そもそも、屯田そのものは、前漢武帝時代に生まれた制度であり、漢王朝でも軍屯は細々と展開されていたし、民屯は同時代の陶謙にも出現している
屯田の本当の意義は、人々を豊かにする、のではなく、公共事業として新田開発を精力的に行い国力を増強するものであって、屯田への労役賦役の重さは豊かさとは無縁な話
動画で展開される兵制も一長一短で特段優秀な制度運用まで至れていない
いわゆる華北の国力的優位性が形成されるのは異民族問題が解消しえる時期だけであって、それ以外ではずっと華北は異民族問題で拡張主義の限界を迎えていた
要は華北の優位性は統一王朝の出現という「異民族問題が中華に存在しない時期」でしか現出してないのが実際の史実だろう
実際に戦国時代の覇者たる秦は華北とは言い難い地域であり、華北地域の地方政権が中華王朝になる事例は極めて稀有とも言える
なお、三国時代の人口統計の信用度はまずもって政治的恣意性を回避できない話。兵力に関しては兵制制度によって有効な兵力になりない”駄卒”の数も問題になってしまう
ちなみに、後漢末期の華北の混乱騒乱に比べて華南・巴蜀の統制は別次元だったとされていることからも国力格差については相当に差異が広がっていない、という見解もある
ただ…魏も異民族と本当に「戦ってばかり」だったんですかね?
万里の長城だって戦時は防衛線だったが、普段は騎馬民族と農耕民が
特産品持ち寄って「交易」し、平和裏に帰ってもらう「市」みたいなもんだったらしいですし、
融和外交して騎馬軍団(傭兵?)として活用する手もあった様な…
三國志が実際には異民族抜きには語れない、とはよく聞きますが、
呉だって東シナ海の漁民や海賊を水軍に動員とか、
蜀だって山岳民族の人らまで動員して戦力に加える、ぐらいの事はやってそうな…。
@@てっちゃん-t1k だから、「異民族要素」という概念で問題にした
異民族とは合従連衡を殷周の時代から清王朝までずっと積み重ねてきた歴史があって、文献としての中華史はとかく異民族を軽視しがちだが、史実として中華王朝の多くは異民族と適切に外交して強盛に至り得る
三国志もこの傾向は顕著で、アグレッシブな前漢から軟化傾向だった後漢では華北の情勢も大きく変化したことは言うまでもない話
実際に後漢末期は蝗害・水害が頻発し、華北域内の農産力の低下から、周辺異民族への食糧提供が停滞していたことは史料に見られている。一方、華南・巴蜀についてはそのような文献が特段見当たらないことも留意点だろう。
中華王朝にとっては異民族とは敵である以前に、儒教文化的に下賤と認識するが故に「メンツ」として強さを誇示し続ける必要性があったことは言うまでもない
誰が守っても同じですよ😂ほぼ孫家が赤壁で撃退したのに 隙を見て荊州を掠め取ったのですから 恨まれて当然😅
三国の命運を分けたのは樊城と夷陵の戦いだろうなぁ。あの戦いで蜀の勢力がほぼ壊滅したからなぁ。劉備も世を去ったあとアホな劉禅がリーダーじゃ厳しい。呉軍も孫権が途中からアホになったからそりゃ魏には勝てん。
魏は戦乱の影響で伸びしろが有ったのに比べて蜀と呉は伸びしろが成った。
素晴らしい動画です。一番わかりやすい。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします🙇♂️
長江や蜀の険しい地形が天然の要塞として機能したからこその三国時代なんだろうね、普通に戦えば魏の圧勝なんだろうけども
劉禅を愚息言ってるけれど、劉禅の頃より国力が高かったときに荊州を失った関羽とその後大敗を喫した劉備がねぇ
劉備から後を継いで劉禅は約40年(223-263)蜀を治めてるだよなぁ
孔明が居たから~って言うけれど234年に没していて約30年不在という。
中原を制覇した時点で魏の天下取りは完了してる。蜀や呉は取るに足らない蛮地に近い。コスパ的にも無理に取る必要はなく物語として三国志になってるだけやで。
張遼にトラウマがある孫権草W
張遼は呂布も認める猛将だから孫権じゃ分が悪すぎたよな。それだけに張遼を討って周瑜達に威厳を示したかったのか。
宋代の教科書である『蒙求』にも、「張遼止啼」って載るくらいですから、相当だったのかとw
正直、諸葛亮が言ってた戦い方が上手く行けば蜀の天下も狙えた。
だけど荊州を呉に取られた事や不仲になったら事や荊州守備が問題だった事がそのチャンスを逃してしまった
魏→本州(東京、大阪、名古屋など)
呉→九州 蜀→四国
くらいのバランスと聞いたことがある。
まあ、桶狭間の戦い然り、長篠の戦い然り、ガウガメラの戦い然り、
圧倒的な兵力差を覆して、小国が強大国に勝ったという史実は、古今東西、枚挙にいとまがないですからね。
今から30年以上前、当時のパソコンはNECの98シリーズ、88シリーズ、SHARPのX-1turbo、X-1Gなんかがあって、X-1Gを持っていた。
光栄から信長の野望、三國志が出ていて、三國志にはまっていた。
初代三國志なので、今と比べたらはるかに薄い内容なんだが、当時は良かったのかな。
パターンが決まっていたので、董卓や呂布でも全国統一できた。(優秀な軍師は必要だが)
カントの戦いって兵力差が10対1と言われるが、実際のところはどうだったのかな?
勢力図を見ると五分位?しかも曹操の方が大都市を抑えている様な気がする。
曹操軍3~5万、袁紹軍は30万弱で一説には袁紹側もっと多かったという話もあります。
また、実数は曹操軍1万程度で袁紹軍10万弱が正確な数字という説もあります。
1万は(袁紹軍7、8万を生き埋めにしたので少なすぎるということで)曹操が直接率いていた数でもっといたなんて説もあります。要はかなりの兵力差はあったが正確には分からないということですね。
官渡で負けてなお、まだ袁紹が有利とも言われてましたし中央が荒れ果てている間に鄴にはたくさんの人材が流れて来ました
実際袁一族を滅ぼすのに、官渡の戦いから5年くらいかかったらしい。
三国志の人物の喋り方三国無双を意識してるでしょww
曹操と曹丕の言葉遣い性格まんまん無双です😂
やはり魏志倭人伝ですから魏なんですね。
正確には三國志魏書東夷伝。
通称魏志倭人伝なだけで実際には魏志という書物は存在しない。
孔明が魏について戦乱を早く終わらせる方が良かったんじゃないと、昔思ったがそれでは歴史好きとしては面白くないもんな。
樊城の戦いで呉蜀が衝突しなければまだ魏打倒の可能性はあったのかな?
なんかこの国力差を見ると三国対等というより禅譲された正統中華魏と強めの地方反乱軍呉蜀って構図に見えてくる。
蜀と呉は豪族の力が強すぎて人口の把握能力が魏と違い過ぎるから実際の人口差はわからん
けどな。清代に人頭税が廃止された途端に人口が1億も増えるようなお国柄なので歴代王朝
の人口統計もぜーんぶ税金をまじめにはらっている人の数でしかない
官渡以降は消化試合やったんやなって
魏と結んで荊州を攻める発想に至った呉、普通にボケカスなきがする
天下三分の計は、本当は諸葛亮じゃなく、魯粛(子敬)だけどなwww
まぁ、当時の勢力からすれば、セオリー通りの戦略でしかないとは思いますけどね。流石に、あの時点で直で魏に挑んでも無理筋なので、
・空き地(失礼)を盗って国力増強して、
・相手の隙を待つ
…これしか選びようが無かった。
では魏呉蜀の内、最終的な勝者は誰でしょうか?
答え:どれでもない
草😅😆🤣
確かに魏の国力が1番高いのは事実ですが、6:4の国力差はデカい敗戦して土地や兵力を失えばひっくり返りかねない数字ですし、呉には強力な水軍、蜀には天然の要害、更には敵味方の将兵の能力など兵の数だけでははかれない要素もあります。
赤壁や漢中を巡る戦いで魏はその事を嫌というほど思い知ったはずなので、曹操も曹丕もそこまで楽観的ではなかったと思いますよ。
三カ国とも仲良かったため三国時代って古代にしては珍しく戦争のない平和な時代だった
北方謙三だったかな?孔明がタイムリープして戦う反三国志は面白かったなぁ。
そもそもユーラシアの北方騎馬民族の方が強いだろ
私・世・屯田と三者三葉って感じでよくわかった
やっぱ中原を独占した曹操の優勢は変わらなったな。呉と蜀は連携しながら魏の領土を削っていくしかなかったんだけどな。
官渡の戦いで、もう天下は決まってしまいましたねー。
@@一竿風月-t4b
というより、本来なら決まりの天下の行方を曹操、曹丕の親子がポカでふいにした。
結果、劉備、孔明の悪あがきを許したと言った方がいい。
秀吉が小田原攻めしくじって天下統一出来なかったに等しい状況なので、曹操もかなりのポンコツ。
魏の国力が圧倒的なのは悪政では無かったのかな?
1:05 なんで勝ってる魏が落ち込んでんねん😂
楽しい ありがとうございます❤
蜀が全身でぶつかってくるのを、呉の方を見ながら片手で受け止めていたくらいの国力差があった。
地図上の面積では推し量れない程の、平地面積の差・収穫量の差・都会(経済・人材)の差・人口の差。
日本でも地図だけじゃ分からない要素が多いですよね!
金山銀山の有無に採掘技術による収穫量の差、土地による農民や将の気質(生活しやすい土地生まれゆえに兵に向かない傾向の尾張方面の住民、過酷な環境ゆえに兵士適正が高い傾向の三河方面の住民など)、港の保有と交易量の差による税収の差など!
孫権は晩年のぼけた状態で話をしてもらいたかったぜ。
群像劇
古い歴史。。。全て忘れました
魏、呉のイントネーションが気になる
三国は、三国同士で争っていたように思えますが、蜀は西側(インド方面)に勢力を拡大しようということはなかったのでしょうか?
山があるから難しいんじゃない?
16:52 しかし、孫権は孫権で攻めるときに勝ちきれてない^^;
第二次世界大戦に例えるならば・・・魏は アメリカ・・・呉は ナチスドイツ・・・蜀は 日本・・・やな。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
日本の相手しつつドイツとも戦ってたからな🇺🇸は
ヤバいよあそこは
近代以前は軍事力が強ければ経済・人口の差を逆転できたモンゴルみたいに、だから単純にでかいから強いというのは間違い。蜀や呉は特別軍事力も高くなかったから順当に押し切られたということ。
こういう事実もいいけど、「蜀軍、チート武将ばかりなのに何で天下とれないの?」っていう矛盾がもたらすもどかしさが、三国志の原体験でした。
三国志演技では蜀が正義なのでチートの集まりですが、史実では魏の方が人材豊富だと思う。洛陽長安という2大都市を押さえているうえに曹操が人材コレクターだから
魏軍の方がチート武将多いんだよなぁ
機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズのラスト2話まとめて見るとその違和感
スッキリ解決しますよ
あのぉ~、コメ主ですけど、私がそういう風に思ってたのは、「原体験」と言いましたとおり、小学校低学年頃の感想ですからね。
皆さん、あまりマジにならないでくださいね。
天下三分の計は民衆にとっては迷惑以外の何物でも無いですね。😂高度の政治判断が公明や孫権ができたと云っても所詮この程度だったのでしょう。
余り詳しくないのですが華北なんですか?河北だと思っていました。
三国志演義も 面白いけど
魏の兵士100万は盛り過ぎ
やな!兵站 兵糧 馬の数 遠征費
バカにならないし 史実は 大軍で 攻めてもせいぜい20万位かな!?
今のチュンコウもまた三国時代になるかもな。
劉備達が、袁紹を手伝わなければまだ、わからなかった
人口6対3対1位って聞いた
あ、いきなり説明されてたw
蜀が魏に勝つとか無理やろ
赤壁の戦いで曹操を仕留めれなかったのがな
演義はともかく正史の赤壁ってちょっとした小競り合いなイメージ
孫権のような人物が現代社会で上に立ってくれたらいい世の中になるだろな
都道府県がクソ力持って、国が都道府県の言いなりになるのか
孫権は秀吉よろしく、晩年が……
孫権…二宮の乱で、豪族の権限を弱めて中央集権にしたかったのかね?
致命的に遅かったけど…
劉備なんて、傭兵隊長のようなもので、劉表や劉璋から地位を簒奪したに過ぎない。
劉禅は、元々国力に劣る蜀を平和裏に治め、国境を破られたら無駄な抵抗をせずに的に首を差し出すようなことをしているから、かなりの名君と言える。
馬鹿君主と言われるけど、国を巻き込んでの絶滅戦争をしなかっただけ、まともな君主と言える。
蜀に関しては、関羽が江陵絶対死守で絶対に荊州を失陥する事は無い、というIFを想像せずにはいられないですね…
まあ、だからこそ関羽に惹き付けられるんだと思いますが
史実の序列的にはありえんのだけれども、趙雲の方が守りには向いていたよな。
まあ、孔明は趙雲を信用していたから蜀に連れていきたかったんだろうけど。
@@真田安房守-r4p そもそも、蜀は派閥があってバラバラだったし、当時の孔明にそんな人事権はないのよ。
荊州を任せるのは 関羽でなく
趙雲に任せた方が 孫権軍らと
上手くいってたと思ってしまう!関羽はプライド高過ぎて
同盟の孫権軍と喧嘩したし
関羽と プロレスラー ブルーザーブロディ 性格似てるし
無惨な最期を送ってしまった
日本では趙雲子龍が過大評価されている様に思います。
この人は劉備の親衛隊長的な人で確かに特別な地位ではあるんですが、将軍になったのは蜀の建国後。
荊州に行ったら関羽の副官~配下的な立場になったのでは。
@@minmin-bj3qf 趙雲は軍の指揮・任務遂行においては優秀ですが、戦略や統治についてはあまり聞きませんね。
関羽に欠点は有っても、主君たり得る資質が有ったのも確か。
関羽は将軍、趙雲はほぼ一兵卒。位が違い過ぎる
龐統の戦死が痛すぎましたね。それがなかったら、諸葛亮が荊州に残れたんだけど
@@kenn3420
その話も演義の創作で、史実としては孔明率いる援軍は龐統が生きてるうちに出発しており、劉備に孔明を荊州に残すという選択肢ははじめからない。
関羽の補佐役として残したのは馬良で能力的には充分だが、関羽は馬良を格下とみて軽んじていたと思われるので、あまり役に立たなかった。
三国志地図は捏造だそうです。因みに僕は三国志否定派です。
意味が分からん。
否定派とは?三国時代そのものが存在しなかったと?笑