ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
島津四郎が普通に降伏するの笑ったw
横浜出身なので、分倍河原から由比ヶ浜への距離感が分かって、その距離をこう移動したのか、と感慨深い。
戦国時代や幕末も良いが太平記の時代が一番面白くて好き。大河ドラマも面白かった。
これは観た人も歴史好きになる。主さんの情熱が感じられる。素敵な動画をありがとうございます。
短時間で視覚的にとても分かりやすいです。
田舎が生品神社の近くでお墓は新田一族と同じ敷地内です。住まいは鎌倉の隣、生品神社に行くたびに、義貞公一行は、よくも鎌倉まで行ったな~と感慨深い心境になります。とても良い動画です。
いやー面白い!歴史自体もドラマチックだけど、あなたの編集もすごく良い。
さ
よく調べてまとめてると思う素晴らしい、なによりもわかりやすい解説。
3:48 太平記の兵の数はアテになりませんが←ここ重要
最終兵器があっさり降参するの笑ったw
ほんとにこのチャンネルありがたい
見ながら寝落ちしそうになったけど、島津四郎が寝返ったところで目がギンギンに開いた、、、
鎌倉時代の再生リストコンテンツも、大変勉強になりました。ありがとう御座いました。
通して見ていただけて嬉しいです作った甲斐があります
長崎円喜「数万?あの貧乏御家人の新田が?」
幕府軍の(ついに島津が動く)からの島津の降参しますに笑ってしまった
飛鳥から見始めてやっとここまでこれました。この動画の助けもあって学習が進んでおります。有難い限りです。
下手な教師より分かりやすいでしょうね!うらやましい!
赤橋守時は寝返っても良かったのに、幕府と運命を共にした。後世に名を残した武士の中の武士。
勝野洋さんは見事に守時を演じられましたね。
おもしろい。地図がいい!
小手指、久米川、分倍河原、各古戦場は結構近いので、迫り来る新田勢と守る幕府軍という息吹が感じられます。小手指が原古戦場近くには勢揃橋、誓詞橋など、当時を彷彿させる地名があります。白幡塚にあった石碑は近くの北野天神社に移されてます。そばには宗良親王の石碑があるなど結構面白い神社です。東勝寺は、ずいぶん前に行きましたが、あの独特の雰囲気は重過ぎました…今はどうなんでしょうか・・・
新田義貞興味あったので、とても面白かったです。ありがとうございます。寝返りも各々状況がありそう。関ヶ原も圧巻となるのでは。勝ちにつくか義につくか見所。悩みそう。
たくさんの日本史の動画u p ありがとうございます♪ この辺の時代も興味はあるのですが、「誰がいつ何処で何をどの順番で」が 私のトホホな頭では整理出来ず 大雑把な事しか分からず、試験の点も哀れなもので…😅 主さまの 立体地図や画像などを使った 簡潔で的確な解説動画のおかげで 目からウロコがポロポロです!これからもずっと見たい動画です大変とは思いますが よろしくお願いいたします!
わかりやすい、学校で使える。最後だけバサッと終わってるのでもう少しだけ何かあれば。。
4:09田中大喜『新田一族の中世』(2015年)には、千寿王の合流は鎌倉攻防戦の直前だったと書かれています。それ以前に参戦したという事実は、史料上では確認できないとのことです。
この動画たまたま直前に見ていたので、鎌倉殿の13人の義経の最期のシーンの奥深さに気付けました。ありがとう!
島津四郎の寝返り笑ってしまった
太平記の再放送で見たんやけど北条高時とその側室家臣たちの最後があまりにも可哀そうすぎて涙なしでは見る事が出来なかった
第22話「鎌倉炎上」は大河屈指の名作でしたよ。
@@giantnioinoba2023 そうなんですよね。改めて、振り返ってみること...。あの1991(平成3)年2月17日日曜日放送・吉川英治原作・池端俊策脚本・NHK大河ドラマ『太平記』第7回「悲恋」中盤過ぎから...。夜の足利家館前にて...。真田広之演じる足利高氏(のちの足利尊氏)...。ショーケンこと萩原健一演じる新田義貞...。束の間のやりとり...。一時の別れからしばらく...。ショーケンの当時の持病・真珠腫性中耳炎悪化の途中降板となって...。4月21日日曜日放送・第16回「隠岐配流」より...。かねてよりショーケンと親交ある根津甚八演じる新田義貞初登場...。かの一時のフェードアウトから...。かの幕府の命での東北遠征における筆舌しがたい辛苦が滲み出ているかのような変貌ぶりから、違和感ないかのように突き付けられてしまうだけに...。これからの互いの行く末を暗示しているかのような予感のまま...。6月2日日曜日放送『太平記』第22回「鎌倉炎上」...。新田義貞率いる軍勢での鎌倉攻略...。それだけに、ふと妄想させられてしまうもの...。第7回終えての途中降板を余儀なくさせられてしまったショーケンの場合は「狂信」...。根津甚八の場合は「実直」...。といったところなのかもしれないや。特に、あの稲村ケ崎における「決定的瞬間」...。どちらが演じていたとしても、忘れられない名場面に...。
全時代の文化史の動画をあげて欲しいです!
今の学生はこの動画がタダで見れて羨ましい!
初めまして、新田義貞合戦場エリアの内1つに住まう者です。チャンネル登録させて頂きます。なぜ石碑が建っているのか○十年経ってようやく理解出来ました!ありがとうございます🙇
分倍河原?
次々と源氏に寝返る武将が増えたという言い方は興味深いですね。元々は源氏の幕府なのに。もう新田義貞と楠木正成と足利尊氏の関係が分からずWikipediaを読んでもその場では理解するものの全く頭に残らなかったのでこのシリーズの授業は大変ためになりました!
まあ、足利氏もともと木曽義仲の配下だしなあ。水島の戦いで平知盛に討たれている。幕府創立期は新田も足利も差がないけどな。
まさに其れですね!
中世の歴史はどうしても京都中心になりがちですが関東地方で馴染みのある地名が次々と出てきて面白かったです(うちの近所だと小手指、久米川、分倍河原)
無位無官…かな。面白かったです。
ついに島津が!あの一騎当千島津四郎かうってでてきた!からの降伏の流れはわらける
東が勝つ寺と書いて東勝寺それなのに東が負けて北条が滅びる寺になってしまったのはなんか皮肉やね
懐かしい名前の武将だと拝見しました。鎌倉殿の続きなんですね。私もそうですが、日本は、いい意味で平和ボケしていますね。今の若者は、武士の時代~太平洋戦争のことをどう思っているんですかね。話それましたね。いつも分かりやすく詳しい動画を本当にありがとうございます🙇自分が学生の頃ならこちらで勉強しまくって、歴史で百点とれると思う。これからもよろしくお願いします🙇⤵️
小手指って西武池袋線の駅名としか知りませんでしたが、昔はそんなことがあったんですね
新田義貞が海に投げ込んだ太刀は天皇家から貰った物だという話があり、実はこれで朝廷の怒りをかったと言う説もありますね
私、新田の荘のすぐ隣に住んでます
アレ?新田義貞公が、稲村ヶ崎に到着し、海水が満ちて鎧、具足を着用している兵では鎌倉へは通れ無い状態であったのに、太刀を投げ込んだならば、みるみる潮が引いて海岸に鎌倉ヘ続く道が開いたって、これ、新田義貞公は月齢によって(即ち太陰暦ならば日付けによって)特定の海岸線(この場合は鎌倉周辺)の潮の満ち引きの時間帯を熟知しており、自分が率いる軍勢が当日特定の時刻に稲村ヶ崎に到着すれば、間もなく、あるいは小休止で鎌倉まで続く道が開けることを知っていたのでは?
昨日アップロードした動画が低画質だったので、高画質版を再アップロードしました前の動画にコメントして下さった方々は申し訳ありません設定を見直しましたので次回からは安定します
新田と足利の所以、細かくて申し訳ないが、足利義康は源平合戦以前に亡くなっているので、その息子 義兼が頼朝側に参陣しました。
時久が降伏するタイミングで無音になるの草
新田義貞は明治天皇に官位を上げてもらったので今では足利尊氏より身分が高い。
いやそんなこんなことないぞ 足利尊氏が死んだ時従一位太政大臣が贈られているからな
どちらにせよ、時の情勢の政治的思惑で歴史上の偉人の評価を変えるなんて愚の骨頂。
アフター承久の乱のクライマックスではありますね太平記も義貞視点なら新鮮ですねぜひ大河ドラマにでもしてほしいものです
官位を上げてもらおうが足利に滅ぼされた新田くんwww
@@シェーンマック-d5kそんな足利も今の御当主は水戸斉昭の血筋っていう…つまり足利も滅んでるんだよね。
にっくき足利、近江の佐々木、此度の新田…みな源氏ぞ…!
これ見ていたら鎌倉に行きたくなった
心地よいくらいの寝返りだな笑笑
頼朝挙兵よりかなり前に足利義康はすでに亡くなっていて、子の義兼が当主だったかと。わかりやすさ重視であえてそうしているのでしたらすみません。
鎌倉幕府滅亡 1333年稲村の(1)さざ波(33)避けて(3)鎌倉へ
新田は家格が低かったですね。初期の頃は分家の世良田家のほうが格が高かったようですし、山名家は早くから足利家との結びつきが強かったような気がします。
新田義貞の末裔です。鎌倉・足利との関係性勉強になりました。
新田家の子孫の方は現在活躍されているのをよく見ます
鎌倉戦しか大きな戦功が無い。
後の足利義詮がいたからという説
巨福呂切通学校の横だし何回も歩いてたからびっくり
NARUTOのうちは一族と千手一族の因縁を髣髴とさせる平家と源氏の因縁。
鎌倉出身のやつは新田と里見を嫌ってたな
当然
実際問題、この時の他の武士たちは、新田=足利の手下Aとしか思ってないからな。
まあ、足利一門やしな新田は
@@nitro2525k ヤクザに例えると、縄張りも組員も足利組より遥かに少ない弱小組だが、初代は足利組初代の兄貴分だった妙なブライドだけはあるのが新田組。
@@nitro2525kそれ違うで(笑)
@@多羅尾伴内-g1c 事実やで。最初から新田は足利の分家や
高氏という場合もあるのか?ずっと尊氏だと思ってた。
のちに尊氏になるんですよ
@@キーさん-s7f そうなんですよね。かの後醍醐天皇の建武の新政にあたって、諱の"尊治(たかはる)"からの一字を授けられてからです。[ 1991(平成3)年放送. NHK大河ドラマ『太平記』第25回「足利尊氏」にて...。]
高氏の高は北条高時から
ちなみに佐々木道誉も仏門に入る前は佐々木高氏と言います。
宝戒寺と腹切りやぐらに本日行ってきましたー。
長崎次郎基資は武蔵の国での戦いに何度も先駆けたが、今や手負い、郎等も減っていた。義貞が鎌倉に入ると、基資は誰ともなく敵を斬り続け、相模入道のいる東勝寺に帰ってきた。基資「ありがたくも北条氏に代々仕え、殿のお顔を拝見してきましたが、今生に於いては今日が限りとなりましょう。もはや街中源氏の勢だらけ、殿は敵の手にかからぬようお気をつけください。ただし、この基資が帰るのをお待ちください。殿が生きている間、この基資は思う存分戦って冥途のお供には土産話でもいたしましょう」 相模入道は涙を流して見送った。基資、150騎を従え旗もあげず、しれっと義貞に接近、距離は50mほど。しかし発見され、たちまち大軍にとり囲まれる。横山太郎重真、手柄にしようと組み合うが、基資、兜の上から真っ二つに斬り頃し、義貞を追った。基資「我こそは長崎入道円喜の孫、次郎基資である。手柄が欲しくばかかってこい!」と声をあげるが、側近「何をしてるんですか!もう負けは見えています!早く殿のところへ行って自害を勧めてきてください!」基資「そうだな。人を斬るのが楽しくて殿との約束を忘れておったわい」そして再び東勝寺へ戻ってきた。円喜「何をしておった!こんなに待たせおって!」 基資、鎧に二十数本の矢が刺さり蓑のようになっていた。基資「あわよくば義貞の首を獲ってやろうとしたのですが上手くいかず、手下ども4,500人斬ってまいりました。 さぁ、皆様方、早く鎧をぬいで自害なされませ。まず私が手本を見せましょう」と、盃をとって三度傾け、隣の摂津刑部大輔入道道準に盃を回して言う、「これを肴にご覧なさいませ」と腹を掻き切った。 道準「面白い肴だ。どんな下戸でも飲めるわい」と隣に盃を回して切腹。皆順番に腹を切っていった・・・円喜はどうしたものかと思っていると基資の舎弟左衛門次郎「これが祖父の為、孫の孝行ですから仏様も許して下さいます」と円喜を二刀つき、返す刀で自害。この若者の自害をみて終に相模入道も切腹。873人が一所で自害し、鎌倉中では6000人にのぼった。サルベージしてきた
こんな授業なら勉強したけど年齢もあるのか?
楠木正成は、新田義貞を韓信並と評価していた。
大河ドラマの太平記見てた時、足利尊氏と新田義貞、楠木正成、北条氏一党が名前は知ってるけど、何をした人なのかが分かりづらくてさ・・・
西武池袋線小手指駅西武新宿線久米川駅JR南武線・京王線分倍河原駅
自刃!って普通に言ってるのが怖い🥶
さしもの鎌倉武士もグンマー史上最強の軍人には勝てなかった
足利貞氏と尊氏の異母兄の足利高義が先祖で母は北条で20歳で他界して娘が上杉に嫁ぎ、尊氏が当主になりました。尊氏の妻も北条です。源義国は源義家と藤原有綱の娘との息子で先祖になります。又平清盛も先祖です。私の先祖が藤原道長で天皇他繋がりが多過ぎて驚きます。北条時子が足利義兼に嫁ぎ足利も代々続きます。北条、足利に先祖がいるので何とも複雑ですが、其々僅かでもDNAがあるならば有り難く自分自身も大切にしなければと思います。😊
鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞の功績なんだがイマイチ影が薄い
やはり悲しいかな、そういうことになってしまうのでしょうね。先の京・六波羅探題陥落の足利高氏(のちの室町幕府初代将軍. 足利尊氏)の場合と違って、上野国(群馬県). 新田荘集結の軍勢は、思うように集まらないまま...。しかしながら、幕府方使者からの圧力に堪りかねての見切り発車同然の挙兵...。やむなく急場凌ぎとして、高氏嫡男. 千寿王(のちの2代将軍. 足利義詮)を名代としての多くの軍勢集結...。結果としての鎌倉幕府滅亡...。となったものの...。集結の軍勢の半分前後くらいが、高氏の名の下への集結の意志の強さあって...。鎌倉統治早々より微妙な軋轢の絶えない事態が、長く続いてしまったらしいとか...。
@@tetsushable勉強なります
@@オゲシの重盛 それだけに...。不意に掻き立てられてしまった衝動...。この年【2024(令和6)年閏年】...。1月1日月曜日.元日明けて...。『2024(令和6)年度』...。4月1日月曜日.新学年...。過ぎてから、もう年の瀬だけに...。思い切って、振り返ってみたくなってしまったもの...。(以降の大変長々とした文面で、失礼ではありますけど...。)あの1989年が明けて...。1月7日土曜日をもっての"昭和64年"すなわち「昭和時代」の終焉...。1月8日日曜日からの"平成元年"すなわち「平成時代」の幕開けから...。約2年後...。まだまだ、かの昭和時代の太平洋戦争当時の「皇国史観」の弊害の一端...。尾を引いてしまっている最中...。後醍醐天皇君臨の南朝を「正統」...。楠木正成を「忠臣」「軍神」「英雄」...。足利尊氏を「朝敵」「逆賊」「国賊」...。との見方の余波の下...。「本格的禁忌解禁第1作目」として...。あの1991(平成3)年1月6日から12月8日まで全49回放送...。吉川英治『私本太平記』原作.池端俊策チーフ脚本.佐藤幹夫チーフ演出.NHK大河ドラマ第29作目『太平記』...。本当にここまで...。いろいろな成り行きが...。じっくりとたどってみること...。2月12日日曜日放送.第7回「悲恋」中盤前後...。足利邸を後にするショーケンこと萩原健一演じる新田義貞と、所用から戻った主人公・足利高氏(のちの尊氏)[ 真田広之 ]...。束の間のやりとりと別れ...。となったものの...。当時の持病だった真珠腫性中耳炎悪化による、ショーケン途中降板...。その急場凌ぎとして...。あの1980(昭和55)年4月26日土曜日より公開。黒澤明監督. 黒澤明.井手雅人.共同脚本. 黒澤明.田中友幸.共同製作. フランシス・フォード・コッポラ. ジョージ・ルーカス. 外国版プロデューサー・東宝.20世紀フォックス.配給映画『影武者』での直接共演以来...。のちの映画やドラマの共演での親交を深めた根津甚八の代役抜擢...。1991(平成3)年4月21日日曜日放送...。『太平記』第16回「隠岐配流」...。久々の高氏との再会の義貞...。まさに、先の東北遠征での筆舌しがたい辛苦あっての、違和感ないままで...。こうして迎えることになった...。あの5月26日日曜日放送...。第21回「京都攻略」中盤...。高氏率いる軍勢の京都・六波羅探題陥落の反面...。新田義貞...。上野国・生品明神での、見切り発車同然の軍勢挙兵...。途上での経緯における苦悩と葛藤ながらの進撃を経て...。続いての6月2日日曜日放送...。第22回「鎌倉炎上」...。新田義貞率いる軍勢が、鎌倉幕府第14代執権・北条高時(片岡鶴太郎)総大将の鎌倉攻めの決定打...。あの"決定的瞬間"に至るまで...。つい二人を重ね合わせるかのような不可思議な夢見心地に...。ショーケンが「狂信」ならば...。根津甚八は「実直」...。といったところかも...。
@@オゲシの重盛 こうして...。1991(平成3)年6月9日日曜日放送...。第29作目『太平記』第23回「凱旋」...。さる1333年6月11日(元弘3年5月22日)...。鎌倉陥落となっての鎌倉幕府滅亡...。となったものの...。高氏嫡男.千寿王の名の下の集結との足利方に与する勢力...。元来の無位無官(一説では、かの鎌倉幕府初代将軍.源頼朝に側女を差し出さなかったゆえの冷遇???)新田方に与する勢力...。高氏正室.登子(沢口靖子)...。新田家重臣・岩松経家(赤塚真人)...。双方からので執り成しでの辛うじて均衡も虚しく...。7月28日日曜日放送...。第30回「悲劇の皇子」...。かの北条高時遺児すなわち"逃げ上手の若君"こと時行の挙兵...。中先代の乱勃発...。1335年8月11日(建武2年7月22日)...。岩松経家、参戦早々討死...。完全均衡崩壊...。となってしまったのでしょうね。以上...。大変長々と...。失礼いたしました。
@@tetsushable はええ、太平記関連で教科書では直義殺されたのって毒殺と書かれてますが他のどこ見ても病死とかいてるのですがどっちがただしいんですか
東急目蒲線新多摩川線下丸子に新田神社がある。
矢口の渡しで、(入間川御陣の足利基氏・関東管領畠山国清の迎撃命令を受けた)竹沢右京亮と江戸遠江守長門らに討たれた新田左兵衛佐義興(贈従三位)を祭神とする神社。
かそでは無く、かいそ では無いのか?
室町や江戸も滅亡の時に火の海にはなってはいないからな・・・。
な、朝廷側が戦を仕掛けるやろ。
砂浜が突如現れるわけがない笑気候変動で元々現れていたんですよ笑
ほんと武士って不忠者だな
侍って階級ができたのは江戸時代に入ってからこの時代の侍は地方のヤクザ
みんな自刃しすぎだろww
三浦一族滅亡もやってください!(w
話はすごい分かりやすいんですが、文字が小さすぎて、読み切る前にポンポン進んでしまう時がある。話は分かりやすくて面白いんですけどね。歴史の勉強がてすとの点数という実利になる中高生に見て欲しいし、人生に迷った中年にも見てほしいし、人生の総仕上げに入った老年にも見てほしいし、ご配慮を…
新田義貞を取り上げて頂きありがとうございます。本来なら、尊氏との力の差は、歴然てすが。それも、元はと言えば、先祖の鎌倉遅参に、あります。私は無骨で、矢作川の作戦などでの名将振りに、感服されています。義の人、義貞をこれからも、顕彰していきたいです♪♪〜また次男の新田義興の、多摩川のほとりに新田神社⛩があります。破魔矢が有名です♪ぜひどうぞ🐈。福井市の藤島神社⛩にも、ぜひ行きたいです♪♪〜
新田は足利一門やろ。
だから違うで(笑)
@@多羅尾伴内-g1c 違う言うなら根拠示そうや。基本的に「太平記」以外の全ての文献、史料で新田氏は足利一門となっているよ。違うというならこれらの資料をすべて覆していってくださいな。
河内源氏嫡流である頼朝の家系と分岐した義国(義康の父、頼朝の祖父為義もしくは曾祖父義親の兄弟)が足利一門の祖。源の名乗りが鎌倉幕府によって制限されたから、足利、新田などと同時期に名乗っているだけの話。嫡流は足利(源)、新田(源)は足利の分家一門となっている。
@@nitro2525k 太平記以外の資料というのは、どれくらいあって著者はどんな人で書かれた時代背景はいつ頃かを示せなければ従来の説を覆す事はできないと思いますが…また太平記にはなぜ新田が一門ではないと書かれていたのかを説明出来なければ、ただの暴論でしかないと思うのですが…答えとして『武門の王 足利氏』に書いてある!ってのはご遠慮願いたいのでよろしくお願いします。
@@多羅尾伴内-g1c 「太平記にはなぜ新田が一門ではないと書かれていたのか」物語的にそっちの方が面白いからクリエイトしてるだけだよ。室町時代に書かれた軍記物語ですしね。「太平記以外の資料というのは、どれくらいあって著者はどんな人で書かれた時代背景はいつ頃かを示せなければ従来の説を覆す事はできないと思いますが…」『神皇正統記』・『増鏡』に記述がありますよ。何か勘違いされているようですが、従来の説から新田氏は足利一門なのですけどね。その足利一門となった時期の論争はありますが、一貫して新田氏は足利一門で確定してますよ。谷口雄太氏や呉座勇一氏などによって提唱されたものも、足利一門になった時期が「最初から」と言う話にすぎません
鎌倉幕府の最後はこの歌→th-cam.com/video/i_vzssuxb7s/w-d-xo.html
dmcr
三浦きたねーな!
三浦氏は「宝治合戦で、北条時頼に討たれた恨みを晴らした」という見方もあります。
年寄りには早口でよく分からん。
島津四郎が普通に降伏するの笑ったw
横浜出身なので、分倍河原から由比ヶ浜への距離感が分かって、
その距離をこう移動したのか、と感慨深い。
戦国時代や幕末も良いが太平記の時代が一番面白くて好き。大河ドラマも面白かった。
これは観た人も歴史好きになる。主さんの情熱が感じられる。素敵な動画をありがとうございます。
短時間で視覚的にとても分かりやすいです。
田舎が生品神社の近くでお墓は新田一族と同じ敷地内です。住まいは鎌倉の隣、生品神社に行くたびに、義貞公一行は、よくも鎌倉まで行ったな~と感慨深い心境になります。とても良い動画です。
いやー面白い!歴史自体もドラマチックだけど、あなたの編集もすごく良い。
さ
よく調べてまとめてると思う素晴らしい、なによりもわかりやすい解説。
3:48 太平記の兵の数はアテになりませんが←ここ重要
最終兵器があっさり降参するの笑ったw
ほんとにこのチャンネルありがたい
見ながら寝落ちしそうになったけど、島津四郎が寝返ったところで目がギンギンに開いた、、、
鎌倉時代の再生リストコンテンツも、大変勉強になりました。ありがとう御座いました。
通して見ていただけて嬉しいです
作った甲斐があります
長崎円喜「数万?あの貧乏御家人の新田が?」
幕府軍の(ついに島津が動く)からの島津の降参しますに笑ってしまった
飛鳥から見始めてやっとここまでこれました。この動画の助けもあって学習が進んでおります。有難い限りです。
下手な教師より分かりやすいでしょうね!うらやましい!
赤橋守時は寝返っても良かったのに、幕府と運命を共にした。
後世に名を残した武士の中の武士。
勝野洋さんは見事に守時を演じられましたね。
おもしろい。地図がいい!
小手指、久米川、分倍河原、各古戦場は結構近いので、迫り来る新田勢と守る幕府軍という息吹が感じられます。
小手指が原古戦場近くには勢揃橋、誓詞橋など、当時を彷彿させる地名があります。白幡塚にあった石碑は近くの北野天神社に移されてます。そばには宗良親王の石碑があるなど結構面白い神社です。
東勝寺は、ずいぶん前に行きましたが、あの独特の雰囲気は重過ぎました…今はどうなんでしょうか・・・
新田義貞興味あったので、とても面白かったです。ありがとうございます。寝返りも各々状況がありそう。関ヶ原も圧巻となるのでは。勝ちにつくか義につくか見所。悩みそう。
たくさんの日本史の動画u p ありがとうございます♪ この辺の時代も興味はあるのですが、「誰がいつ何処で何をどの順番で」が 私のトホホな頭では整理出来ず 大雑把な事しか分からず、試験の点も哀れなもので…😅
主さまの 立体地図や画像などを使った 簡潔で的確な解説動画のおかげで 目からウロコがポロポロです!
これからもずっと見たい動画です
大変とは思いますが よろしくお願いいたします!
わかりやすい、学校で使える。
最後だけバサッと終わってるのでもう少しだけ何かあれば。。
4:09
田中大喜『新田一族の中世』(2015年)には、
千寿王の合流は鎌倉攻防戦の直前だったと書かれています。
それ以前に参戦したという事実は、史料上では確認できないとのことです。
この動画たまたま直前に見ていたので、鎌倉殿の13人の義経の最期のシーンの奥深さに気付けました。ありがとう!
島津四郎の寝返り笑ってしまった
太平記の再放送で見たんやけど
北条高時とその側室
家臣たちの最後が
あまりにも可哀そうすぎて
涙なしでは見る事が出来なかった
第22話「鎌倉炎上」は大河屈指の名作でしたよ。
@@giantnioinoba2023 そうなんですよね。
改めて、振り返ってみること...。
あの1991(平成3)年2月17日日曜日放送・吉川英治原作・池端俊策脚本・NHK大河ドラマ『太平記』第7回「悲恋」中盤過ぎから...。
夜の足利家館前にて...。
真田広之演じる足利高氏(のちの足利尊氏)...。
ショーケンこと萩原健一演じる新田義貞...。
束の間のやりとり...。
一時の別れからしばらく...。
ショーケンの当時の持病・真珠腫性中耳炎悪化の途中降板となって...。
4月21日日曜日放送・第16回「隠岐配流」より...。
かねてよりショーケンと親交ある根津甚八演じる新田義貞初登場...。
かの一時のフェードアウトから...。
かの幕府の命での東北遠征における筆舌しがたい辛苦が滲み出ているかのような変貌ぶりから、違和感ないかのように突き付けられてしまうだけに...。
これからの互いの行く末を暗示しているかのような予感のまま...。
6月2日日曜日放送『太平記』第22回「鎌倉炎上」...。
新田義貞率いる軍勢での鎌倉攻略...。
それだけに、ふと妄想させられてしまうもの...。
第7回終えての途中降板を余儀なくさせられてしまったショーケンの場合は「狂信」...。
根津甚八の場合は「実直」...。
といったところなのかもしれないや。
特に、あの稲村ケ崎における「決定的瞬間」...。
どちらが演じていたとしても、忘れられない名場面に...。
全時代の文化史の動画をあげて欲しいです!
今の学生はこの動画がタダで見れて羨ましい!
初めまして、新田義貞合戦場エリアの内1つに住まう者です。チャンネル登録させて頂きます。
なぜ石碑が建っているのか○十年経ってようやく理解出来ました!ありがとうございます🙇
分倍河原?
次々と源氏に寝返る武将が増えたという言い方は興味深いですね。元々は源氏の幕府なのに。もう新田義貞と楠木正成と足利尊氏の関係が分からずWikipediaを読んでもその場では理解するものの全く頭に残らなかったのでこのシリーズの授業は大変ためになりました!
まあ、足利氏もともと木曽義仲の配下だしなあ。水島の戦いで平知盛に討たれている。
幕府創立期は新田も足利も差がないけどな。
まさに
其れですね!
中世の歴史はどうしても京都中心になりがちですが関東地方で馴染みのある地名が次々と出てきて面白かったです(うちの近所だと小手指、久米川、分倍河原)
無位無官…かな。面白かったです。
ついに島津が!あの一騎当千島津四郎かうってでてきた!からの降伏の流れはわらける
東が勝つ寺と書いて東勝寺
それなのに東が負けて
北条が滅びる寺に
なってしまったのはなんか皮肉やね
懐かしい名前の武将だと拝見しました。鎌倉殿の続きなんですね。
私もそうですが、日本は、いい意味で平和ボケしていますね。今の若者は、武士の時代~太平洋戦争のことをどう思っているんですかね。
話それましたね。いつも分かりやすく詳しい動画を本当にありがとうございます🙇自分が学生の頃ならこちらで勉強しまくって、歴史で百点とれると思う。これからもよろしくお願いします🙇⤵️
小手指って西武池袋線の駅名としか知りませんでしたが、昔はそんなことがあったんですね
新田義貞が海に投げ込んだ太刀は天皇家から貰った物だという話があり、実はこれで朝廷の怒りをかったと言う説もありますね
私、新田の荘のすぐ隣に住んでます
アレ?
新田義貞公が、稲村ヶ崎に到着し、海水が満ちて鎧、具足を着用している兵では鎌倉へは通れ無い状態であったのに、太刀を投げ込んだならば、みるみる潮が引いて海岸に鎌倉ヘ続く道が開いたって、
これ、新田義貞公は月齢によって(即ち太陰暦ならば日付けによって)特定の海岸線(この場合は鎌倉周辺)の潮の満ち引きの時間帯を熟知しており、自分が率いる軍勢が当日特定の時刻に稲村ヶ崎に到着すれば、間もなく、あるいは小休止で鎌倉まで続く道が開けることを知っていたのでは?
昨日アップロードした動画が低画質だったので、高画質版を再アップロードしました
前の動画にコメントして下さった方々は申し訳ありません
設定を見直しましたので次回からは安定します
新田と足利の所以、細かくて申し訳ないが、足利義康は源平合戦以前に亡くなっているので、その息子 義兼が頼朝側に参陣しました。
時久が降伏するタイミングで無音になるの草
新田義貞は明治天皇に官位を上げてもらったので今では足利尊氏より身分が高い。
いやそんなこんなことないぞ 足利尊氏が死んだ時従一位太政大臣が贈られているからな
どちらにせよ、時の情勢の政治的思惑で歴史上の偉人の評価を変えるなんて愚の骨頂。
アフター承久の乱のクライマックスではありますね
太平記も義貞視点なら新鮮ですね
ぜひ大河ドラマにでもしてほしいものです
官位を上げてもらおうが足利に滅ぼされた新田くんwww
@@シェーンマック-d5k
そんな足利も今の御当主は水戸斉昭の血筋っていう…
つまり足利も滅んでるんだよね。
にっくき足利、近江の佐々木、此度の新田…みな源氏ぞ…!
これ見ていたら鎌倉に行きたくなった
心地よいくらいの寝返りだな笑笑
頼朝挙兵よりかなり前に足利義康はすでに亡くなっていて、子の義兼が当主だったかと。わかりやすさ重視であえてそうしているのでしたらすみません。
鎌倉幕府滅亡 1333年
稲村の(1)
さざ波(33)避けて(3)
鎌倉へ
新田は家格が低かったですね。
初期の頃は分家の世良田家のほうが格が高かったようですし、山名家は早くから足利家との結びつきが強かったような気がします。
新田義貞の末裔です。鎌倉・足利との関係性勉強になりました。
新田家の子孫の方は現在活躍されているのをよく見ます
鎌倉戦しか大きな戦功が無い。
後の足利義詮がいたからという説
巨福呂切通学校の横だし何回も歩いてたからびっくり
NARUTOのうちは一族と千手一族の因縁を髣髴とさせる平家と源氏の因縁。
鎌倉出身のやつは新田と里見を嫌ってたな
当然
実際問題、この時の他の武士たちは、新田=足利の手下Aとしか思ってないからな。
まあ、足利一門やしな新田は
@@nitro2525k
ヤクザに例えると、縄張りも組員も足利組より遥かに少ない弱小組だが、初代は足利組初代の兄貴分だった妙なブライドだけはあるのが新田組。
@@nitro2525k
それ違うで(笑)
@@多羅尾伴内-g1c 事実やで。最初から新田は足利の分家や
高氏という場合もあるのか?
ずっと尊氏だと思ってた。
のちに尊氏になるんですよ
@@キーさん-s7f そうなんですよね。
かの後醍醐天皇の建武の新政にあたって、諱の"尊治(たかはる)"からの一字を授けられてからです。
[ 1991(平成3)年放送. NHK大河ドラマ『太平記』第25回「足利尊氏」にて...。]
高氏の高は北条高時から
ちなみに佐々木道誉も仏門に入る前は佐々木高氏と言います。
宝戒寺と腹切りやぐらに本日行ってきましたー。
長崎次郎基資は武蔵の国での戦いに何度も先駆けたが、今や手負い、郎等も減っていた。
義貞が鎌倉に入ると、基資は誰ともなく敵を斬り続け、相模入道のいる東勝寺に帰ってきた。
基資「ありがたくも北条氏に代々仕え、殿のお顔を拝見してきましたが、今生に於いては今日が限りとなりましょう。もはや街中源氏の勢だらけ、殿は敵の手にかからぬようお気をつけください。ただし、この基資が帰るのをお待ちください。殿が生きている間、この基資は思う存分戦って冥途のお供には土産話でもいたしましょう」 相模入道は涙を流して見送った。
基資、150騎を従え旗もあげず、しれっと義貞に接近、距離は50mほど。しかし発見され、たちまち大軍にとり囲まれる。
横山太郎重真、手柄にしようと組み合うが、基資、兜の上から真っ二つに斬り頃し、義貞を追った。
基資「我こそは長崎入道円喜の孫、次郎基資である。手柄が欲しくばかかってこい!」と声をあげるが、
側近「何をしてるんですか!もう負けは見えています!早く殿のところへ行って自害を勧めてきてください!」
基資「そうだな。人を斬るのが楽しくて殿との約束を忘れておったわい」そして再び東勝寺へ戻ってきた。
円喜「何をしておった!こんなに待たせおって!」 基資、鎧に二十数本の矢が刺さり蓑のようになっていた。
基資「あわよくば義貞の首を獲ってやろうとしたのですが上手くいかず、手下ども4,500人斬ってまいりました。
さぁ、皆様方、早く鎧をぬいで自害なされませ。まず私が手本を見せましょう」と、盃をとって三度傾け、隣の摂津刑部大輔入道道準に盃を回して言う、
「これを肴にご覧なさいませ」と腹を掻き切った。
道準「面白い肴だ。どんな下戸でも飲めるわい」と隣に盃を回して切腹。皆順番に腹を切っていった・・・
円喜はどうしたものかと思っていると基資の舎弟左衛門次郎「これが祖父の為、孫の孝行ですから仏様も許して下さいます」と円喜を二刀つき、返す刀で自害。
この若者の自害をみて終に相模入道も切腹。873人が一所で自害し、鎌倉中では6000人にのぼった。
サルベージしてきた
こんな授業なら勉強したけど年齢もあるのか?
楠木正成は、新田義貞を韓信並と評価していた。
大河ドラマの太平記見てた時、足利尊氏と新田義貞、楠木正成、北条氏一党が名前は知ってるけど、何をした人なのかが分かりづらくてさ・・・
西武池袋線小手指駅
西武新宿線久米川駅
JR南武線・京王線分倍河原駅
自刃!って普通に言ってるのが怖い🥶
さしもの鎌倉武士もグンマー史上最強の軍人には勝てなかった
足利貞氏と尊氏の異母兄の足利高義が先祖で母は北条で20歳で他界して娘が上杉に嫁ぎ、尊氏が当主になりました。
尊氏の妻も北条です。
源義国は源義家と藤原有綱の娘との息子で先祖になります。又平清盛も先祖です。私の先祖が藤原道長で天皇他繋がりが多過ぎて驚きます。
北条時子が足利義兼に嫁ぎ足利も代々続きます。
北条、足利に先祖がいるので何とも複雑ですが、其々僅かでもDNAがあるならば有り難く自分自身も大切にしなければと思います。😊
鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞の功績なんだがイマイチ影が薄い
やはり悲しいかな、そういうことになってしまうのでしょうね。
先の京・六波羅探題陥落の足利高氏(のちの室町幕府初代将軍. 足利尊氏)の場合と違って、上野国(群馬県). 新田荘集結の軍勢は、思うように集まらないまま...。
しかしながら、幕府方使者からの圧力に堪りかねての見切り発車同然の挙兵...。
やむなく急場凌ぎとして、高氏嫡男. 千寿王(のちの2代将軍. 足利義詮)を名代としての多くの軍勢集結...。
結果としての鎌倉幕府滅亡...。
となったものの...。
集結の軍勢の半分前後くらいが、高氏の名の下への集結の意志の強さあって...。
鎌倉統治早々より微妙な軋轢の絶えない事態が、長く続いてしまったらしいとか...。
@@tetsushable勉強なります
@@オゲシの重盛 それだけに...。
不意に掻き立てられてしまった衝動...。
この年【2024(令和6)年閏年】...。
1月1日月曜日.元日明けて...。
『2024(令和6)年度』...。
4月1日月曜日.新学年...。
過ぎてから、もう年の瀬だけに...。
思い切って、振り返ってみたくなってしまったもの...。
(以降の大変長々とした文面で、失礼ではありますけど...。)
あの1989年が明けて...。
1月7日土曜日をもっての"昭和64年"すなわち「昭和時代」の終焉...。
1月8日日曜日からの"平成元年"すなわち「平成時代」の幕開けから...。
約2年後...。
まだまだ、かの昭和時代の太平洋戦争当時の「皇国史観」の弊害の一端...。
尾を引いてしまっている最中...。
後醍醐天皇君臨の南朝を「正統」...。
楠木正成を「忠臣」「軍神」「英雄」...。
足利尊氏を「朝敵」「逆賊」「国賊」...。
との見方の余波の下...。
「本格的禁忌解禁第1作目」として...。
あの1991(平成3)年1月6日から12月8日まで全49回放送...。
吉川英治『私本太平記』原作.池端俊策チーフ脚本.佐藤幹夫チーフ演出.NHK大河ドラマ第29作目『太平記』...。
本当にここまで...。
いろいろな成り行きが...。
じっくりとたどってみること...。
2月12日日曜日放送.第7回「悲恋」中盤前後...。
足利邸を後にするショーケンこと萩原健一演じる新田義貞と、所用から戻った主人公・足利高氏(のちの尊氏)[ 真田広之 ]...。
束の間のやりとりと別れ...。
となったものの...。
当時の持病だった真珠腫性中耳炎悪化による、ショーケン途中降板...。
その急場凌ぎとして...。
あの1980(昭和55)年4月26日土曜日より公開。黒澤明監督. 黒澤明.井手雅人.共同脚本. 黒澤明.田中友幸.共同製作. フランシス・フォード・コッポラ. ジョージ・ルーカス. 外国版プロデューサー・東宝.20世紀フォックス.配給映画『影武者』での直接共演以来...。
のちの映画やドラマの共演での親交を深めた根津甚八の代役抜擢...。
1991(平成3)年4月21日日曜日放送...。
『太平記』第16回「隠岐配流」...。
久々の高氏との再会の義貞...。
まさに、先の東北遠征での筆舌しがたい辛苦あっての、違和感ないままで...。
こうして迎えることになった...。
あの5月26日日曜日放送...。
第21回「京都攻略」中盤...。
高氏率いる軍勢の京都・六波羅探題陥落の反面...。
新田義貞...。
上野国・生品明神での、見切り発車同然の軍勢挙兵...。
途上での経緯における苦悩と葛藤ながらの進撃を経て...。
続いての6月2日日曜日放送...。
第22回「鎌倉炎上」...。
新田義貞率いる軍勢が、鎌倉幕府第14代執権・北条高時(片岡鶴太郎)総大将の鎌倉攻めの決定打...。
あの"決定的瞬間"に至るまで...。
つい二人を重ね合わせるかのような不可思議な夢見心地に...。
ショーケンが「狂信」ならば...。
根津甚八は「実直」...。
といったところかも...。
@@オゲシの重盛 こうして...。
1991(平成3)年6月9日日曜日放送...。
第29作目『太平記』第23回「凱旋」...。
さる1333年6月11日(元弘3年5月22日)...。
鎌倉陥落となっての鎌倉幕府滅亡...。
となったものの...。
高氏嫡男.千寿王の名の下の集結との足利方に与する勢力...。
元来の無位無官(一説では、かの鎌倉幕府初代将軍.源頼朝に側女を差し出さなかったゆえの冷遇???)新田方に与する勢力...。
高氏正室.登子(沢口靖子)...。
新田家重臣・岩松経家(赤塚真人)...。
双方からので執り成しでの辛うじて均衡も虚しく...。
7月28日日曜日放送...。
第30回「悲劇の皇子」...。
かの北条高時遺児すなわち"逃げ上手の若君"こと時行の挙兵...。
中先代の乱勃発...。
1335年8月11日(建武2年7月22日)...。
岩松経家、参戦早々討死...。
完全均衡崩壊...。
となってしまったのでしょうね。
以上...。
大変長々と...。
失礼いたしました。
@@tetsushable はええ、太平記関連で教科書では直義殺されたのって毒殺と書かれてますが他のどこ見ても病死とかいてるのですがどっちがただしいんですか
東急目蒲線新多摩川線下丸子に新田神社がある。
矢口の渡しで、(入間川御陣の足利基氏・関東管領畠山国清の迎撃命令を受けた)竹沢右京亮と江戸遠江守長門らに討たれた
新田左兵衛佐義興(贈従三位)を祭神とする神社。
かそでは無く、かいそ では無いのか?
室町や江戸も滅亡の時に火の海にはなってはいないからな・・・。
な、朝廷側が戦を仕掛けるやろ。
砂浜が突如現れるわけがない笑
気候変動で元々現れていたんですよ笑
ほんと武士って不忠者だな
侍って階級ができたのは江戸時代に入ってから
この時代の侍は地方のヤクザ
みんな自刃しすぎだろww
三浦一族滅亡もやってください!(w
話はすごい分かりやすいんですが、文字が小さすぎて、読み切る前にポンポン進んでしまう時がある。
話は分かりやすくて面白いんですけどね。
歴史の勉強がてすとの点数という実利になる中高生に見て欲しいし、人生に迷った中年にも見てほしいし、人生の総仕上げに入った老年にも見てほしいし、ご配慮を…
新田義貞を取り上げて頂きありがとうございます。本来なら、尊氏との力の差は、歴然てすが。それも、元はと言えば、先祖の鎌倉遅参に、あります。私は無骨で、矢作川の作戦などでの名将振りに、感服されています。義の人、義貞をこれからも、顕彰していきたいです♪♪〜また次男の新田義興の、多摩川のほとりに新田神社⛩があります。破魔矢が有名です♪ぜひどうぞ🐈。福井市の藤島神社⛩にも、ぜひ行きたいです♪♪〜
新田は足利一門やろ。
だから違うで(笑)
@@多羅尾伴内-g1c 違う言うなら根拠示そうや。基本的に「太平記」以外の全ての文献、史料で新田氏は足利一門となっているよ。
違うというならこれらの資料をすべて覆していってくださいな。
河内源氏嫡流である頼朝の家系と分岐した義国(義康の父、頼朝の祖父為義もしくは曾祖父義親の兄弟)が足利一門の祖。
源の名乗りが鎌倉幕府によって制限されたから、足利、新田などと同時期に名乗っているだけの話。嫡流は足利(源)、新田(源)は足利の分家一門となっている。
@@nitro2525k
太平記以外の資料というのは、どれくらいあって著者はどんな人で書かれた時代背景はいつ頃かを示せなければ従来の説を覆す事はできないと思いますが…
また太平記にはなぜ新田が一門ではないと書かれていたのかを説明出来なければ、ただの暴論でしかないと思うのですが…
答えとして『武門の王 足利氏』に書いてある!ってのはご遠慮願いたいのでよろしくお願いします。
@@多羅尾伴内-g1c 「太平記にはなぜ新田が一門ではないと書かれていたのか」物語的にそっちの方が面白いからクリエイトしてるだけだよ。室町時代に書かれた軍記物語ですしね。
「太平記以外の資料というのは、どれくらいあって著者はどんな人で書かれた時代背景はいつ頃かを示せなければ従来の説を覆す事はできないと思いますが…」
『神皇正統記』・『増鏡』に記述がありますよ。
何か勘違いされているようですが、従来の説から新田氏は足利一門なのですけどね。
その足利一門となった時期の論争はありますが、一貫して新田氏は足利一門で確定してますよ。谷口雄太氏や呉座勇一氏などによって提唱されたものも、足利一門になった時期が「最初から」と言う話にすぎません
鎌倉幕府の最後はこの歌→th-cam.com/video/i_vzssuxb7s/w-d-xo.html
dmcr
三浦きたねーな!
三浦氏は「宝治合戦で、北条時頼に討たれた恨みを晴らした」という見方もあります。
年寄りには早口でよく分からん。